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こうして、統計的法則について語ることの意味は、絶えず変化し異なる多様な出来事のなかに、「驚くべき置き換え可能性」が立ち現われるという点にあることが見えてくる。いままで「法則」と呼ばれてきたものを、こういう意味で捉えなおすということこそ、量子論が科学にもたらした最も革命的な思考の転換であったと言ってよい。その上でわれわれが強調したいのは、「法則」とはいわばこの「驚くべき置き換え可能性」の一つの表面にすぎないのであって、その表面 (ないし上澄み)だけを残してそれ以外を捨てることは、「法則」そのものを無意味にするということである。「法則」が出てくればよいというわけではない。それを生み出す根拠がまさに「法則」のなかで書き切れないということを鋭く突きつけているのが量子論の扱っている事態なのである。「法則」のなかで書き切れないものとは、単に法則から逸脱するものではない。むしろそれこそが「法則」を生み出すという側面をもっている。単に非法則的なものから法則が生まれてくるという発生論を述べているわけではない。むしろ「法則」なるものの存立そのものに関わるのが、ここでいう「書き切れないもの」なのである。「法則」は自己の存立の根拠そのものを自ら生み出すことはできない。かといってどこか他の場所で作られて外から現実に押しつけられるわけでもない。われわれが現に与えられている現象に即して法則を捉えるという営み自体が、「法則のなかに書ききれないもの」なしには成立しえないのである。『現実とは何か』51p
数学に対する違和感として、それを記述する無地の黒板は存在しないのではないかということを考えていたことがある。自分がそのとき数学として捉えていたものは数学の一部分にすぎないということがわかったので(おそらくたぶん……)、今はそういうふうには考えていない。しかし、黒板を仮定するという発想のなかには「場」の考えに近いものがあったと思う。また、物とそれがある場所とを分けて考える考え方についても「そんなの確定してないけどな」と言われるとそら恐ろしい感じがある一方でそうだよなと妙に納得してしまうところがある。位置情報はあくまでも相対的なものであって、絶対の位置を示すものではないと考え出すと、場所のことがわからなくなる。ただ、位置だけでなく時間も記録すればそれに何の意味があるのかは置いておいても情報としてより確かなものになるのではないか。
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20251030
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「あの」と彼女は言う。「なんで喜劇にしたいんですか?」「え?」「なんでこの世界を喜劇として見ていたいんですか?」と彼女はもう一度はっきりと言う。
この小説には胸を撞かれたのだが、それは真面目ということを基本スタンスにして衒わず隠さず、その前提の上で淡々と話を進めていくからだ。そういう姿勢が見えるとこれは読んでいていいものだ、読んでいても大丈夫なのだと安心させられる。現代の文学には合う合わないがあるが、こういう真面目さを共有可能なものと考えられるというある種鷹揚なところがあると、受け容れられやすいのかもしれない。文学には真面目さが付き物で、それこそが眼目だと言ってしまっていいと思う。ああ、だいたいこういう感じねというような自分の経験からくる判断をしないで済むというのはいつの間にか喜ぶべきことになってしまった。もちろんいついかなる時も全力でというのは不可能だと知っているわけだが、それはそうとして、自分の枠内・手の届く範囲内というのを無視できる機会は自分で作らないと出現しない。どんな娯楽が栄えても、真面目に考えていい場所としての文学は機能し続けるだろう。その場所はつねに更新されていくべき常識とはべつの位置にある。
20251029
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告白
告白
わたしには告白する必要がある。わたしは嘘つきだ。それをわたしは告白しなければならない。
わたしが嘘つきだと告白するというのは、自分に向けてではなく、自分以外の他人に向けてだ。わたしが嘘をついているのも自分にではなく他人にであるから、これは筋の通った話であるはずだ。
わたしが他人についている嘘というのは、わたし自身の利益のために、あるいは他人を害する目的で、騙そうとしてのものではない。わたしがわたし自身に適用させたり、常日頃、自分自身相手に言い聞かせている言葉と、他人相手に口にする言葉とが食い違っていることを指す。ようするに自分相手であればこう言うというようなことを他人相手には言わないでいること、他人相手に言うことを自分自身には決して言わないということだ。
たとえばわたしは人との付き合いの中で、ある人が何かを達成したときにはその人自身の頑張りを見て、その部分を評価するようにしている。なぜそんなことをわざわざやったのですかというようなことは思っていても口には出さない。その意味でわたしは他人に嘘をついている。さらに言えば、そんなことを思わないような自分にチューニングしたうえで他人に対している。自分や相手の気持ちは置いておいても、これは実のあることを何ひとつ思わないような状態に近い。だから努力や頑張りというわかりやすいバロメーターに目が向き、そのことについてタイミングが合えば言及したり、とくにそんなタイミングがなければ黙って頷いたりしているのみだ。一方で、自分に向けて自分の頑張りに思いを及ぼすこともない。もっと言えば方法について考えるということさえ稀なのだが、それでも考えるとすれば努力や頑張りといったどうでもいいことではなく、なぜそういうやり方をしたのか、もっとうまくいく方法は他になかったかというようなことを考えているはずだ。言葉にして誰かに伝える必要がないし、もっと途中にいる感覚の中で頭を働かせているようなものなので、考えているというよりは感じているというほうが実情に即しているようだ。そのときどきに感知したものをできるかぎり頭に通すようにして何らかの処理をさせているというぐらいのものだ。
自分の努力や頑張りがどうでもいいと思っているだけで、努力や頑張り一般についてどうでもいいとは思っていない。自分にできる範囲というのは自分にはわかりきっているものなので、ある時期ある一点に注力したからと言ってそれは自分に可能な範囲でそうしただけのことにすぎないこともまた自明のものだ。しかし他人の努力や頑張りについてはその限りではなく、どれだけのポテンシャルやエネルギーのなかでそこに振り向けたのかがブラックボックスになっている分、素直に努力に感嘆したり頑張りに着目したりということがしやすい。そもそも他人の志向についてはなるべく「どうでもいい」という言葉は使わないようにしている。逆に自分に向いた思考過程では「どうでもいい」という言葉づかいをすることが多い。どこかへ向かおうとするときに重要なのは取捨選択で、その道をとらないという方針の決定をする機会はどうしても多くなるからだ。また、どうでもいいことに対して言葉を選ぶ手間を省くことも重要で、そういったときに「どうでもいい」と言えることは効果的だ。
他人が何を重要視していて、それに向けてどういう道筋をとって迫ろうとしているかということに興味があるとしても、それは自分のやり方にとって参考になるかもしれないと思うからで、当の中身について本当に興味を持つことはむずかしい。だからごく表層的な頑張りに着目して、そういった全体的な雰囲気に対して、手を叩いたり感に堪えないようなポーズで「そうか」と口走って終わりにするしかない。それは必要な手間の省略にはちがいないが、それでも嘘をついているという実感をともなうものだ。だからわたしは嘘をついていると告白をしなければならない。つい最近までわたしは自分が嘘をついていることについて告白することができなかった。それができるようになったのは感受性の消耗によってあまり恥を知らないようになったからでもあるが、より直接には、他人も同じように嘘をついているのだということに気がついたからだ。本人が認めるかどうかにかかわらず、また自覚しているかどうかにも関係なく、すべてわたしはわたし以外の他人に嘘をついている。だからわたしは告白できる。十分に理由がありかつ安全でもあるとするなら告白するに越したことはない。告白できるのであれば告白しなければならない。それで余計な消耗を避けたり、受けずに済ませられる自責の念を軽減したりする役に立つからだ。
ここでいう他人というのは親や子供といった存在も含まれる。だから彼らにも「どうでもいい」という言葉遣いをするわけにはいかないし、何を重要視しているのかということに干渉することはもちろん、それを理解することもできない。しかしそういうものとはべつの「重み」があって、それを背負ったり背負われたりすることにはべつの動機がある。それを免除されたいとは思わないのだが、これはおのずから全然べつの話である。そうであるならどうして言及したのかわからないことになってしまうが、わたしが他人に対する姿勢や方針というのはひとつだけに限定し単純化することは不可能だということを表そうとした、ということは言えるかもしれない。責任を負うという項を導入すると一気に話がややこしくなる。しかし、親や子供とはべつの在り様として「読者」というものを想定することができる。わたしは、彼らに対してはわたしのつく他人への嘘を最小限に抑えつつ、しかも何らの具体的な責任を負うことなく接することができると考えているふしがある。「どうでもいい」とこだわらず言うことができる。これはわたしにとって重要なことで、だから書くのだ、と言ってもいいようなものだ。つまり、彼らの対照とするために親や子供といった重みのある存在に登場してもらったということも言える。
わたしのものの見方のうえでは、ひとつの存在様式がもう一方の存在様式を担保しているということになる。それは一方の罪をもう一方が贖い、もう一方の功を他方が祝ぐということになるかもしれない。わたしとしては、その罪が軽く、功が高ければよいと願うばかりだ。そう願うのはわたし自身のためでもあるが、正直なところ、わたしのものの見方における他人のためでもある。
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映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た
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月島の本場 2025/11/16 昨日 18212 どういうわけか6時に目が覚める。二度寝にもいたらず、無理に二度寝をしようとして朝の時間が消耗される。結局30分そこそこの二度寝ができたが起きるのが10時になる。計算が合わない。朝ご飯を食べてコーヒーを飲ん...