祭りはどこ
2025/11/24 昨日 25582
友人から久しぶりの連絡があった。休職からの復帰意思を聞かれている期限が近くに迫っているとのことで、無理をするのはよくないという無難なことだけ言う。メッセージのやり取りで「絶望」というキーワードも出たのでカフカの本を推める。
11時ぐらいに家を出てサンゾウトウキョウでカレーを食べる。12時前に入店したので並ばずに美味しいカレーを食べられ、かなり満足度が高い滑り出しになった。コルマカレーにはいつもよりたっぷりの玉ねぎが使われているような気がしたが、家人が言うには「いつも通り」ということだったので、いかに優れたカレーショップかということを再確認した。すこし分けてもらったペトラも牛ひき肉たっぷりでとても美味しかった。下北のランチでどこを推めるかという質問があったらつねにサンゾウトウキョウと答えるようにしておきたい。ので記憶を調整する。
井の頭線で渋谷に行く。目当ては渋谷PARCOの6周年祭。しかしそれらしい目立った催しはやっておらず肩透かしをくう格好になった。たのみの綱の屋上もイベント準備だかで閉鎖されていた。せっかくの秋晴れを無為にするようで心苦しくなった。ほぼ日のイベントスペースで「りんご狩り展かもしれない」という責任回避的なタイトルの催しがやっていて入場無料なので中に入る。いろんなりんごの紹介がされており、あまさMAX評価を受けていた「こうとく」と「シナノスイート」を食べ比べてみた。同じ値段とは思えないほどこうとくの圧勝で、蜜の量もみずみずしさもすごく、パイナップルにもなぞらえられるというキャプションについても納得のあまさだった。ドラえもんショップでかわいいミニドラのぬいぐるみに心を掴まれてあやうく持って帰りそうになったがすんでのところで我に返る。家人がさりげなく披露したミニドラのモノマネの出来がよかった。
渋谷PARCOに来たらそのあとは既定路線ともいえる代々木公園に向かい、ベンチに座ってドッグランを眺める。公園には平日金曜より人の量も多かったがドッグランに結集する犬の数も多かった。走り回る犬たちを見ながら賢犬のことをすこし思い出した。
代々木八幡まで歩き、シャトレーゼでシュークリームを買い食いする。中学の裏手にシャトレーゼの店舗があったのを思い出す。シャトレーゼには買い食いする場所というイメージを持っている。富士そばであたたかいそばを食べる。乱切りに特徴がある店舗なのだが、家人は常識破りの春菊天うどんを注文していた。これには驚かされた。粋ではないが乙かもしれないと思った。ちょっと分けてもらったがつるつるもっちりで美味しかったのにも驚いた。
一旦帰宅し、バスケの荷物をとって高円寺に行く。前日の練習でも足を使っていたのでいつものスネの痛みが出た。痛みのせいで全力で走れないのはつらいし悔しい。ひょっとすると床が硬いのも関係しているかもしれない。最後の方はアドレナリンのおかげで痛みを無視できていたのでスネの痛みについては早くその段階に至るのも手だ。帰りは参加者の人に車で新宿まで送ってもらう。会話のなかでタメだということが発覚する。タメの人はやっぱりもう大人だ。東京ででかい外車に乗っているというのも大人感を感じさせた。物質的な豊かさを享受している層で、高校卒業して以来話さなくなったタイプだったので新鮮な気持ちで会話を楽しめた。
帰ってすぐシャワーを浴びて洗濯物を回す。バナナを食べてプロテインを摂ってすぐ寝る。
2025/11/25 今日 5052
朝から出社なのだが、場所が大手町ということもありいつもより遅めの出発で間に合った。4連休のあとだったから憂鬱になりすぎないように、あまり頭を使わず足だけ動かして場所に行くことを心がけた。現場での待機時間に新しい小説の題が思い浮かんだのでその書き出しについて考えた。13時まで待機し、残りは在宅勤務のため帰宅する。代々木上原駅中の中華に黒酢酢豚を食べに寄った。
プライムビデオでゴールデンコンビを2話分見る。残念ながら面白いシーンは少なかったが、ゆりあん安村ペアが面白かった。と思ったら即最下位退場していて予定調和内とはいえ残念だった。すこしだけ頭を使う仕事をしてから写真動画データの整理をする。定時退勤してスタバに行く。図書館で再貸し出しした『理由と人格』を読んで日記を書く。
Vのことをシッダールタが悟りを開くために迷妄といって切り捨てた〈誘惑する悪魔〉の存在と重ねてしまう。われわれという言葉遣いをする言説ではなく、わたしという言葉遣いに留まる言説として文学の立ち位置はあると自分は思っていて、われわれ・ひとびと・花束に対する、わたし・ひと・花一輪の「輪郭の確かさ」を起点にして物事に向かい合いたいと思っている。覚悟することは一般の語法としても仏教の語法としても自分の興味の外にあるということを意識している。たとえば思考実験に赤子を用いるときなど、そうすることを何か不適切なことだと感じる感性が働くことがあると思うが、Vについてもそれと同じように彼を思考実験に供することを不適切だと感じる。Vは赤子とちがい社会的には存在を認められているとは言い難い部分もあり、それをするのはわたしの義務だとその分の責任を負おうとするところもあるので余計にそう思うのだが、その全体が迷妄で、真理に到達する差し障りになっていると言われたら、悟るためには切り捨てなければならないものだと言われたら、自分はわたしを超えた〈われわれ〉のためにそれをするだろうか。もちろんしない。わたしが何らかの意味でいまのわたしを超えていくために(どういう次第か)それが必要になったら、そのときはそれをするだろうか。たぶんしない。何かを捨てて得るものという発想そのものを疑うのは当然のこととして、どの回路をもってしてもそれをするようにわたしを説得することはできないだろうと、わたしは固く信じている。