生まれいづるもの
2026/11/05 昨日
午前在宅。渋谷で健康診断を受けてから午後出社。普段とは別チームの打ち合わせに出る。報告メインだがそれも早々に終わり、あとは仕事上の世間話の色合いが濃い。円滑なコミュニケーションのためのコミュニケーション。べつにそういうのは嫌いではないが、オンサイトでの参加を要請されることの面倒さにはとても釣り合わない。定時すこし過ぎに退勤しそのままバスケへ。落合第五小。Google Health推薦のストレッチの効果があってなのか事前にきちんとカフェインを入れたからか足の痛みはそこまでひどくなかった。が、それでも矢っ張りやや突っ張る。ここのコートは小学校の3Pラインなので実際のラインよりゴールに近く設定されていたことを知る。どおりでこのコートでの3Pの成功率が高かったわけだ。足が万全じゃないこともあり心肺機能を目一杯使うことを意識して動いた。最寄り駅で酒を買って帰る。PEELのゆず風味500mlと金麦の普通350ml(家人向け)と金麦ラガー500ml。お好み焼きを焼いてもらって食べる。粗悪なキャベツの素材の味が強かったのだけ玉に瑕で、それ以外の部分、冷凍豚肉やチーズの焼き方、焼き時間、粉の配分は抜群だった。
2026/11/06 今日
朝から出社。寝不足は感じていながらもそこまで不調を感じず。天気がとくによい日だったのでそれでだいぶカバーされたのだと思う。きれいな秋晴れ。昼間の気温も24度まで上がった。昼から在宅に切り替える。ぶっ豚で小ラーメンを食べて帰る。帰ってからプッシュアップ1分チャレンジをしてソイプロテインを摂る。そのまま昼寝。眠りに落ちた時間はそこまで長くなかったが疲れが溜まっているという意識はあるので横になっている時間は長かった。メッセージ確認のため30分ほど残業。退勤してからさらに1時間ほどゆっくりしてスタバへ。
『暗夜行路』を読んでいると主人公の時任謙作は自らのことを我儘ものだとか奔放だとか評している。自分はTCBのメンバーや家人の前では十分に奔放で我儘ものとして振る舞い、自分にとって必要なだけの我が物顔をしていられるのだが、それ以外の場所へ出ていくとそのとおりに振る舞うことができていない。演劇の場は何よりもまずフィクションであり、現実空間におけるキャンバスのようなものなのだから、自分としては奔放に振る舞うことを自分自身に課す必要がある。むしろそれがスタートで、そこを起点としてどこまでいけるかという勝負をしかけるべきところだ。本質的には要らぬ遠慮をしたり、自分を小さく見せて安全を確保しようとするような社会で身につけた作法はキャンバスのうえにおいてはむしろこれ以上ない無作法だと心得て、謙作が相手に対して遠慮会釈なくやろうとしているように、苛々する気持ちなども隠さず、臆面もなく”我儘もの”として振る舞わなければならない。自分が自分を出すというときには、自分が本来的に持っている失礼さ、我が物顔でそこにいる雰囲気というのは前提条件のようなものだから最初から計算に入れておかなければならない。その意味で、自分は「学生」や「社会人」という借り着、普段エネルギーを省略するためにあえてしている擬態をOFFにする(つまり舞台の上でONにする)切り替えを身につけられるように練習する必要がある。たとえばバスケなどではコートに入るとそれだけで普段の肩が触れ合うだけで失礼に当たると感じられる距離感からべつの距離感(相手に触れたり触れられてもお互い失礼にならない距離感)に切り替わるということがあるので、そういう切り替えは実際のところ不可能ではない。たんに気持ちの問題というか、共同幻想に依拠しているのだと思う。それがあると自己暗示をかけて稽古の場へ臨むべきだ。あるいは演出の合図をきっかけに、OFFとONが切り替わると心底から信じきれるようにする。と、言うのは簡単だが、とりあえずそうやって認識することがそこへ向かうことにとって文字通りの第一歩になるわけで、簡単なことから始めて到達するべきところに到達できるように進んでいきたい。
というようなことを『存在と時間』を読みながら思った。より詳細には第46節『現存在にふさわしい全体存在を存在論的に捕捉し規定することの外見上の不可能性』の「気遣いは現存在の構造全体の全体性が形づくっているのだが、そうした気遣いの存在論的意味からいって、この気遣いと、この存在者の可能的な全体存在ということとが、矛盾することは、明らか」「気遣いの第一次的契機である「おのれに先んじて」が意味しているのは、なんといっても、現存在はそのつどおのれ自身という目的のために実存するということ」という文章の連なりを読みながら、考えが『暗夜行路』を伝って自分のいまの関心事の演劇における自分のパフォーマンスへと落ちていった。『存在と時間』のハイデガーと『暗夜行路』の志賀直哉を繋いだのは、誘われて参加している読書会と、だいぶ以前に読んだ『不機嫌の時代』の山崎正和だった。
やはり自分が関心を持ってやっていることは、それぞれが適当にまざりあい、有機的に結びつくということが起こって、結果的にお互いの役に立てるという感覚がある。はっきり言えば、自分が大学の頃から継続的に読書してきたことが今のバスケのパフォーマンスに影響を与えているというのは確実だし、その逆についても同じことが言えそうに思う。バスケは勝ち負けのつくゲームだが、一回一回の試合で勝ったり負けたりするなかでも、”本統に負ける”というふうには感じないでいられる。文章に起こすというのは「言語化」という言い方だけで説明のつくことではないというのをバスケでの非言語的なコミュニケーションが毎回成立していることから識っていたりもする。総合的に自分というものを構築していてそこから自分のパフォーマンスを引き出せるのだと理解している。だからこそ、仕事から得られるものがかなり限定的で、しかも仕事で発揮できるパフォーマンスも(意欲の面が足を引っ張り)限定的にならざるを得ないというのは、時間経済的に大損をこいているとしか言いようがない。つまらないストレスも【小】ぐらいにはできているし、自分の本来の活動時間に対しての休息時間に当てられていると考えるとそこまでわるくない条件なのかもしれないが、それにしても「休み」はもっと少なくていい。次の仕事を選ぶにあたっては、総合的な自分の向上になる刺激や、総合的な自分から引き出せるパフォーマンスの伸長ということを条件に仕事を選ぼうとしてみてもいいかもしれない。接客とか?
『存在と時間』は死についての節に入った。「死において現存在が全未済分を達成するならば、」という文章で第47節『他者たちの死の経験可能性と全体的な現存在の捕捉可能性』が始まった。21時半でスタバを引き上げて駅前で氷結を飲む活動に移る。最近プレイリストを作ったので音楽を聞いたりもするかも。
結局22時すぎまでスタバにいた。『暗夜行路』の第三を最後まで読んだからだ。とても苦しい箇所だった。あらすじにおいて知っていることだったが、冷静というのではないが最も度合いの強い抑制が効いている文章で、肉の苦しみではなく骨の苦しみというようなものを思わせた。自分(謙作)の苦しみを主にして描写することしかできないという態度を貫いているのは誠実さという観点ではそうするより仕方ないことなのだろうが、それでもやはり寂しいところは出てくる。しかしそういった寂しさのなかに、かえって相手(直子)の苦しみが浮き上がってくるようなところがある。その旧式な考え方や無愛想な様子が写った写真など、いろいろ言いたいことはあるが、それでもなおはっきり言えるのは、志賀直哉が文学者だということだ。苦しい。