20261019

『海辺の一日』を見た

エドワード・ヤンの長編デビューの映画 『海辺の一日』を見た。

映画を見ていると気づかないうちにドラマを探す。ドラマが物語の中心になり、そこを起点にして回っていくという視聴経験をたくさん持っているから、おそらくは心が安定を求めてドラマを探すのだと思う。映画『海辺の一日』は、まずそういった起点を構築しておいてから、徐々にそこから離れていくという方法をとって、いわば遠回りのようにして話を進める。それを指さして物語の脱構築を目論んでいるという見方がありえるかもしれない。しかし、それは論じる用の物の見方にすぎない。ようするにそういうのが好きな人にとっての中心がドラマではなく評論であるというだけの話で、『海辺の一日』の意図するところからすると、同じように離れるべき対象だとされるのではないかと考えられる。
そもそももし論じるとすれば、それにあたりまず言えるのは、海辺の一日という題が示唆的であるということだ。それはたとえば「女の一生」という言い回しとの鮮やかな対照をなす。つまり、部分と全体との項対立をイメージさせる。はるかな水平線という広がりでありながら、しかし、截然と分かたれた一線でもある海辺のイメージが焦点化するのは、それなりに長い期間ある人生におけるある特定の一日だ。見るものがこのイメージに入っていくためには、一旦、見るもののほうで自動的に作成される中心点から、見るものを引き離すことが必要になる。
そのようにして場を整えられた海辺の一日だが、それが指し示すものは直接的にはその一日の出来事でありながら、それだけではない。つまり、海辺の一日は一日にして成らずとでも言うべきことで、海辺の一日に焦点しようとする試みのなかに不可避的に入り混じる、それ以外の一日、その連なりが、あたかも図に対する地のように、その模様をあきらかにしはじめる。海辺の一日以外の毎日、それを間接的に指し示すことが、しかるべく場を整えられた海辺の一日にとっての可能事になっているのだ。私の人生にとっても海辺の一日と呼べる一日はあり、実際、この映画を見ながら私が考えていたのは、海辺の一日をできるだけたくさん作るように努めなければならないという被啓蒙的な感想だった。海辺の一日とそれ以外の一日があるとした場合、実際にこの私が過ごすことになる一日はできるだけ海辺の一日にするべきだというような、ある意味でまっとうかつ素朴な論理だ。
私はいま、平日の多くの時間をやりたくない仕事をして生活維持の資を稼ぐことに費やしている。こんな時間を持つぐらいならお金を一円も得られなくても海辺に佇んで水平線に目を凝らすようなことをして日を過ごすほうがよっぽど自分にとって有意義だと考えている。そしてそう考えながら実際にはそうできずにいる。つまり文字通り”『海辺の一日』ではない一日”を、これではないよなと思いながら一日一日過ごしているのだ。だから先の被啓蒙的な感想はわりとはっきり冗談などではなく、言葉にすれば明確に非合理で、しかもごくありふれた世間並みの滑稽味を帯びつつ、そのうえ今の自分自身にとってだけ切実なものだといえる。
登場人物のひとりが言う「ビジネスに家庭を持ち込むな」という論理は、優先度を定めてビジネスを家庭の上位に置くことでその価値を高く設定するための手段にもなる。しかしビジネスには登場人物たちのあいだでそう考えられているほどには価値のあることではないということが徐々に明らかになる。登場人物たちが自分たちのやっていることについて”大したこと”だと評価するために、彼らは彼ら自身を不機嫌にすることを強いられている。忙しく立ち働いていないと立ち行かないということこそが、彼らの仕事が大変であり、簡単ではないことの証明になるというような、学生が想像するには無理のある、はるかにすくない多段階(二段階)の論理にしかなっていない。忙しくしていることの利点として論理の検証をせずに済むということがあるため、論理が論理として論理的な整合性さえとれていれば、彼らはその論理は機能していると判断できる。学生には想像するのも難しいと思うが、論理のお粗末さというのは論理的ではないことのうちにしかないと考えていられるのだ。その単純さというのはあらゆる物事に忍び寄っていて、その結果として起こっているのは単純さという概念が消えかけているということだ。単純さは単純さを認識できない。
何かをつまらないものだと判断してそれとの比較においてそれとは異なるものを面白いと見なすことほどつまらないことはない。海辺の一日以外の一日を何か有意義な一日にするという発想は、まさにそういう項対立の考え方でしかなく、そうやって作り出された有意義な一日ほど名実ともに無駄な日はない。結局のところ、面白い一日というのはただただ湧いて出てくるものなのだ。不機嫌に日を過ごすことでその湧出を妨げてはならない。生活するのにお金が必要なのであれば稼ぐだけだ。それをする日は”海辺の一日ではない日”かもしれないが、海辺の一日は何も本当の海辺にだけあるものではない。目を凝らしさえすれば、たとえ水平線ではなくとも、そのときどきに見るべき線は見つかる。
自分にとって『海辺の一日』は、そういうことがじっくりと明らかになる映画体験としてスクリーンから表れてきた。今年は海辺から海を見ていないので例年に比べると目が水平線に引き寄せられる度合いが大きかったような気がする。それも心地よかった。

日記810

鈍角も鈍角

2026/10/16 一昨昨日 7599
昨日『海辺の一日』を見た。
映画を見ていると気づかないうちにドラマを探す。ドラマが物語の中心になり、そこを起点にして回っていくという視聴経験をたくさん持っているから、おそらくは心が安定を求めてドラマを探すのだと思う。映画『海辺の一日』は、まずそういった起点を構築しておいてから、徐々にそこから離れていくという方法をとって、いわば遠回りのようにして話を進める。それを指さして物語の脱構築を目論んでいるという見方がありえるかもしれない。しかし、それは論じる用の物の見方にすぎない。ようするにそういうのが好きな人にとっての中心がドラマではなく評論であるというだけの話で、『海辺の一日』の意図するところからすると、同じように離れるべき対象だとされるのではないかと考えられる。
そもそももし論じるとすれば、それにあたりまず言えるのは、海辺の一日という題が示唆的であるということだ。それはたとえば「女の一生」という言い回しとの鮮やかな対照をなす。つまり、部分と全体との項対立をイメージさせる。はるかな水平線という広がりでありながら、しかし、截然と分かたれた一線でもある海辺のイメージが焦点化するのは、それなりに長い期間ある人生におけるある特定の一日だ。見るものがこのイメージに入っていくためには、一旦、見るもののほうで自動的に作成される中心点から、見るものを引き離すことが必要になる。
そのようにして場を整えられた海辺の一日だが、それが指し示すものは直接的にはその一日の出来事でありながら、それだけではない。つまり、海辺の一日は一日にして成らずとでも言うべきことで、海辺の一日に焦点しようとする試みのなかに不可避的に入り混じる、それ以外の一日、その連なりが、あたかも図に対する地のように、その模様をあきらかにしはじめる。海辺の一日以外の毎日、それを間接的に指し示すことが、しかるべく場を整えられた海辺の一日にとっての可能事になっているのだ。私の人生にとっても海辺の一日と呼べる一日はあり、実際、この映画を見ながら私が考えていたのは、海辺の一日をできるだけたくさん作るように努めなければならないという被啓蒙的な感想だった。海辺の一日とそれ以外の一日があるとした場合、実際にこの私が過ごすことになる一日はできるだけ海辺の一日にするべきだというような、ある意味でまっとうかつ素朴な論理だ。
私はいま、平日の多くの時間をやりたくない仕事をして生活維持の資を稼ぐことに費やしている。こんな時間を持つぐらいならお金を一円も得られなくても海辺に佇んで水平線に目を凝らすようなことをして日を過ごすほうがよっぽど自分にとって有意義だと考えている。そしてそう考えながら実際にはそうできずにいる。つまり文字通り”『海辺の一日』ではない一日”を、これではないよなと思いながら一日一日過ごしているのだ。だから先の被啓蒙的な感想はわりとはっきり冗談などではなく、言葉にすれば明確に非合理で、しかもごくありふれた世間並みの滑稽味を帯びつつ、そのうえ今の自分自身にとってだけ切実なものだといえる。
登場人物のひとりが言う「ビジネスに家庭を持ち込むな」という論理は、優先度を定めてビジネスを家庭の上位に置くことでその価値を高く設定するための手段にもなる。しかしビジネスには登場人物たちのあいだでそう考えられているほどには価値のあることではないということが徐々に明らかになる。登場人物たちが自分たちのやっていることについて”大したこと”だと評価するために、彼らは彼ら自身を不機嫌にすることを強いられている。忙しく立ち働いていないと立ち行かないということこそが、彼らの仕事が大変であり、簡単ではないことの証明になるというような、学生が想像するには無理のある、はるかにすくない多段階(二段階)の論理にしかなっていない。忙しくしていることの利点として論理の検証をせずに済むということがあるため、論理が論理として論理的な整合性さえとれていれば、彼らはその論理は機能していると判断できる。学生には想像するのも難しいと思うが、論理のお粗末さというのは論理的ではないことのうちにしかないと考えていられるのだ。その単純さというのはあらゆる物事に忍び寄っていて、その結果として起こっているのは単純さという概念が消えかけているということだ。単純さは単純さを認識できない。
何かをつまらないものだと判断してそれとの比較においてそれとは異なるものを面白いと見なすことほどつまらないことはない。海辺の一日以外の一日を何か有意義な一日にするという発想は、まさにそういう項対立の考え方でしかなく、そうやって作り出された有意義な一日ほど名実ともに無駄な日はない。結局のところ、面白い一日というのはただただ湧いて出てくるものなのだ。不機嫌に日を過ごすことでその湧出を妨げてはならない。生活するのにお金が必要なのであれば稼ぐだけだ。それをする日は”海辺の一日ではない日”かもしれないが、海辺の一日は何も本当の海辺にだけあるものではない。目を凝らしさえすれば、たとえ水平線ではなくとも、そのときどきに見るべき線は見つかる。
一日在宅だったような気もするがもしかすると出社していたかもしれない。setlogで見返したら昼から出社していた。おそらくすぐに帰ってきてプリンタニアニッポンを読んだのだった。面白さがちょっとずつ出できた。スルメに味がするかのごとく。吹奏楽の練習から帰る家人を迎えに駅まで。月を見て酒を飲んで早めに寝る。つもりが漫画を読んで夜更かしになった。


2026/10/17 一昨日 20832
8時半に起きて家人の友人が教員をしている小学校まで運動会を見学に行く。不覚にも、と思った話なのだが、5年生のリレーに不覚にもぐっときてしまった。6年生のリレーはそれに比べて速さがあるだけで退屈だった。去年と同じコースを同じように走っているという感じが出ていたんだと思う。歴史を変えるという意気込みで臨んだという5年生のソーラン節がこれまた良かった。小学5年生をつかまえてその表現を”評価”するなんて、私は私なりに一生懸命生きているなあと思った。実際、身体を運んでそこに居てそれを見る以上、そうしないではいられない。
帰りに白糸というAIで看板のビジュアルを作成しているうどん屋でうどんを食べて帰る。鶏卵使い放題というサービスをこれまた真に受けて3個もカレーうどんに投入する。この日は生まれて初めてTシャツを汚さずにカレーうどんを完食できた日かもしれない。
帰宅して昼寝をしてからバスケに出かける。足の疲労はやはり抜けきっていない。が、痛むほどでもないので存分に動こうとした。高円寺学園。意図せぬバンクショットながらブザービートの3Pを決めたり、コーナースリーを決めたりできた。記憶ではゲーム中の3P成功率は2/3だったと思う。それでもハッスル感は乏しい。疲労がない状態でバスケをしたとき特有のハッスルを味わうためには3日間の休息が必須のようだ。高円寺駅前でキウイの氷結を飲んでから帰る。


2026/10/18 昨日 9383
前日の就寝時間から考えると朝早くに目が覚めてしまう。結果、寝不足気味の一日になった。代田ボドゲ会の活動日。はじめての試みとして地区会館での開催になった。絶好調とは行かないまでも、疲れが出てきた途中までは好調だった。タイムボム、人狼、お邪魔者と正体隠匿系のゲームばかりになった。やはりタイムボムが優秀。人狼はゲーム的なプレイ感から離れてもっと社交的なプレイ感にしたいのだがうまくいかなかった。試みとしては一日が過ぎる時間を2時間とか極端に長く設定することで、スピードより礼儀を重んじるようにしたかったのだが、タイムボムを遊んだあとだと普通にシロとかクロとかいうスピード感になって意図した通りに全然いかなかった。まあ全体が楽しいのが一番で自分個人としても十分楽しかったから良かった。19時半の終会時にはさすがに疲れていたけど。
ダイエーで酒と飯を買って帰宅。家人とふたりでキングオブコントを見ながら飲み食いをし、途中で寝落ち。そのまま寝る準備に移行して寝る。蛙亭のところで寝落ちしてしまった。ちなみに面白くなかったとかではなく身体の限界という感じ。ヤッホイの「チャーシュー麺、チャーシュー12倍。」で腹が捩れるぐらい笑った。あとは芸もあれば礼もあるサラリーマンの宴席芸を演じ切ったジェラードンも素敵だった。


2026/10/19 今日 5108
午前在宅勤務。10時間ぐらい寝て体調が久しぶりに絶好調になった。ここのところずっとうっすら寝不足で体調が万全ではなかったということが事後的に明らかになった。気力体力が充実しているうちにできるだけ漫画を読んだりしたかったが仕事のコールがうるさくて集中できなかった。週次定例に参加するため昼から出社。仕事をぐいぐい進めて定時で退勤。やるべきことをやってすっきりするとやっぱり調子が良い。一番はよく寝ることだが、達成感もあって元気の感が強く、こういう日を無駄にはできないとあわててスタバに行った。映画の感想を書いて日記を書く。酒を抜ければ一番いいのだろうがおそらく私は酒を飲むだろう。20時すぎにスタバを出る。

20261015

日記809

自由時間に

2026/10/14 昨日 20808
大手町に行って仕事の用事。感覚的にまったく不必要と思われることでも、責任の所在とセキュリティの概念を組み合わせれば仕事になる。身体は建物に縛られていても頭は空いているのでその時間を使って『存在と時間』を読み進める。予定の作業時間を2時間すぎて16時近くまで同じカフェに居ることになった。休日でもそこまでいることはないという時間、同じ店の同じ席に座を占めていた。おかげでかなり読み進められた。暇ができれば動きたくなるもので、予定していたバスケ参加を一日早めた。中野第五中。明るい体育館でリングも多いからという言い訳もありつつだったのだが、やはり中二日の休息では足が完全回復しておらず、そのせいで消化不良とは言わないまでもじゅうぶんにハッスルできなかった。シュートフォームが抜群に安定してきれいなお気に入りの上手いプレーヤーがいるのだが、彼が怪我するところを見てしまった。古傷の再発っぽい感じでリアクションから察するに「またか」という感じだった。怪我がちなプレーヤーはレベルを問わずはかないものだ。行きはLUUP、帰りは酒を飲みながら歩いて。行きはまいばすけっとで通報されたらしきおっさんが警察官相手に「嫌です」と大声を出して抵抗しているのに出くわし、帰りは下を向いて歩いていたら道端にねずみの死体が落ちていてびっくりした。タオル地のハンカチの上に横たえられていた死体にやや心なぐさめられるような思いをしたが、よくよく考えれば死んだものにとってはどちらにしても同じことか。
セブンのタンパク質の摂れるサンドイッチを食べて寝る準備をして寝る。


2026/10/15 今日 6105
この日も大手町で前日と同じ用事。『存在と時間』を読み進める。作業は14時に終わり、下北の豚とんで小ラーメンを食べて帰る。プリンタニアニッポンを読む。仕事は順調に溜まっていっているのでとくに優先度の高い数件だけ簡易的な処置をする。1時間弱の残業をしてから退勤。スタバに行く途中、K2を覗くとエドワード・ヤンの『海辺の一日』を上映するのを見つけて、スタバのあとで見に行くことにする。演劇祭の俳優仲間がスタバにいたので軽く挨拶だけする。プレシーズンマッチを見ているうちにNBAの見方を発明した。つまり、一選手だけを追うというものだ。自分のプレーを動画で見ていると、いいわるいの判断とともにプレー選択の意図を見て取れるようになる。それと同じことを出場選手に対して行うということだ。ボールを中心に視線を動かすと印象はスーパープレーやシュートの成否ということに終止して、それだと目まぐるしく視線を動かしているだけになってしまう。NBAのようなショーにおいてはとくに、よくもわるくもそれだけで退屈しないで満足できてしまう。ただスーパープレーの印象の上書きをしているうちにその年の一番つよいチームが決まるということだと、それは必ずしもバスケの楽しさとはいえないかもしれない。対して、一選手に注目する見方をすると、なぜそこに走り込むのか、なぜ無理に行かないのかあるいはなぜ無理に行くのかというプレー判断の部分で楽しめる。スペースがあってある程度フリーでボールを持てればダンクをぶち込むのは決まりきっていることなので、ある選手はどうやってそのシチュエーションを作っているのかに注目するということでもある。カリーを始めとする3Pシューターの動きにしても同様だ。そして一選手に注目する見方をしていると、無理やりそこに割り込んでくる選手がいる。それこそがスーパーの付くスターで、そういう選手の輝きを見るにはその選手をじっと見ていないでもいい。向こうからこちらの視線を奪ってくるのがスーパースターという存在だからだ。

20261010

日記808

波間

2026/10/09 四日前 11781
前日に早く寝たら2時半に目が覚める。早く寝なければと焦るがそこから一切寝つけずに4時間が過ぎる。6時半の電車に乗って東京駅から高速バスに乗って館山へ。バスが遅れたので一時間に一本の千倉行きを逃し、バスで千倉に向かう。居るだけの仕事は入場時にこまかなトラブルがありつつも難なく終わった。千倉駅に帰るとちょうど東京駅行きのバスが出発直前だったのであまり考えずに乗り込む。帰りも羽田から東京駅までの道が混み、定刻の55分遅れで到着になる。まだ行っていないのであれば一度行っておいたほうがいいと声をかけた同僚にはわるいことをした。東京駅で友人の結婚祝いを用意する。岩波のカフカ短編集。通用するかどうかは別にしても文学にふれたことのある人生にしてほしいとは思ったので、差し出がましい真似とは思いつつ進呈することにした。北千住のやきとんが業態変化で焼き鳥になった店に入って飲む。受け身だけのやつはつまらない、積極性を持たないやつは退屈だとかいうTHE・強者の論理を振り回して遊んだが、立ち位置の問題にまで切り込んでいかないあたり、他人にというより自分に対して忖度があるとおもった。こちらからは俺はフェミニストだという話と感性の鈍麻についての話をした。そうすると必然的にラクになる。ラクになりたかったわけじゃないけど。サヨナラCOLOR。帰りに代々木上原駅で乗り換えの電車待ち。10分の待ち時間が長すぎると感じる。THE・東京人の感性だ。


2026/10/10 一昨昨日 18011
昨日の寝不足と飲酒を引きずって朝から頭痛がする。養生しつつ昼飯にスパゲティを茹でて食べる。バファリンを飲んで昼寝をして、夕方頃にバスケに出かける。家人の誕生日プレゼントとしてニューマン新宿で額縁を買う。バスケは中4日空いたのとカフェインを入れたのとでハッスルできた。イマジナス。積極的にプレーしないならわざわざバスケをプレーしにいく甲斐がない。この日は翌日に備えて酒を飲まなかった。


2026/10/11 一昨日 20434
午前中に演劇祭の顔合わせ時に読み合わせをするという脚本の練習をする。13時からの顔合わせに参加する。これはあきらかにバスケのせいだが発声しないコミュニケーションが板についてしまっていて、積極的なポジション取りをするのに無口という掴みどころのない動きをしてしまった。意見を求められたときにも口にする内容に比して言葉数が少なく、変な目立ち方をしてしまったように思えた。意識が自分に向くのは自分にとってはあまりよくない傾向なのだが、それが如実に出てしまった。肝心の読み合わせもうまくいったとは言えず。もっと相手に寄り添って手を差し伸べるような動き方もできたはずなのにそれをしなかったという反省もある。もっと自由に動いていいはずだ。というより、自由に動いているように動かないと演じることにはならない。現場で巻き起こる現象に対応するようにもっと集中して臨まないといけない。本来であれば自分に矢印を向けている暇などないはずだ。そそくさと会場を出る。スタバにも入れなかったので帰ってふて寝するがそれだけでは気持ちが収まらなかったのでバスケに行くことにする。ふてバスケ。落合第五小。脚が痛くて痛くて後悔したが1時間でアドレナリンが出てきて予期した通り痛みは収まってきた。すごく広義に見ると自傷的な行為だと思う。無理にも楽しもうとしたから楽しくはあったが。最寄り駅で氷結を飲む。帰宅してご飯を食べてから疲労困憊のなかふたたび駅へ。実家へ帰って1週間家を空けていた家人を0時すぎに迎えに行く。


2026/10/12 昨日 16199
蓄積した寝不足。飲酒。連日のバスケのせいで身体がガタガタになっていて午前中は何もできなかった。午後には回復したので予定通りTCBの2026秋の行楽part2に出かける。狛江駅に15時集合。改札前のセブン前でジョジョ立ちするNの子に迎えられ、五本松公園を目指す。川を見て喋り、酒を買いに行き、夕焼けと川とアオサギのシルエットを見ながら酒を飲んで喋った。演じるときに笑う演技が出来ないという話をした。TCBのふたりに向けてやってみたらすんなりできた。緊張する環境下で笑うのが難しいというだけの話かもしれない。笑えばいいと思うよというのは全くその通りだと思っていたがアドバイスとしてはあまり用をなさないものだということが遅まきながら理解された。完全に暗くなってから川を下って狛江の隣駅へ。そのまま狛江まで歩いてNと子はバスで帰っていった。子に最近おぼえた俺様クレイジーマンを披露するが一度もウケなかった。代わりに子が口屁(ブーというやつ)をしたときに大げさに吹き飛んでみせたらこれは百発百中でウケた。自分が何かをしてそれに対するリアクションがあると笑うということのようだ。これは子にかぎらず人にはそういう傾向があるように思う。子のためには積極的にそれをしようと思う一方で人にはそうしようとは思わないというこちらがわの都合もあるから万事に適用することはできないが。狛江の行こうと思っていた居酒屋はしっかり一見お断りで、女将にバツのジェスチャーを食らったため次善策のニュースターでBと飲む。Bはメガジョッキを都合3行く酒豪ぶりを発揮していた。楽しかったが何を喋ったかあまりおぼえていない。


2026/10/13 今日 3563
一日在宅。NBAのプレシーズンマッチを見る。ニックスvウルブズ。2年前にMSGでラメロ・ボールを直接見てからその華麗さに圧倒されてファンになり、NBAを見始めるようになった。そのボールがまたチームを変えてMSGでプレシーズンマッチを戦っているのが面白く感じられた。アントマンとのコンビワークも上々のようだし、ビッグマンのゴベアの存在感など、ちょっとずつウルブズのことを知り始めている。お昼にはお米を炊いて食べる。14時-15時のセクションで昼寝。完全な休息日に当てる。出すべき依頼メールを出すために30分すこし残業する。スタバに行って日記を書く。劇作家・演出家に対して気後れがある。思ったことを言いたいと思っているが、どのレベルで言うべきかを気にするという自分にとっては通常の配慮以上のものが、彼を前にして発言するときには生じる。自分が創作をしていないこと、劇作をしようと思ってもできないことを自分がはっきりわかっていることが、自分をして気後れを生じさせている原因だ。そうならないためには、1.劇作をする 2.俳優として彼に追従する意識を持つ のどちらかを採らなければならない。消去法的に2を選ぶのはそれを選んでいないのに等しく、たちまち”追従する意識”というようなこまっしゃくれたアイデアに寄ってしまう。前回の演劇祭後に、次回参加する条件として小説を完成させることを自分に課そうとしたのは、これが直接の理由ではなかったが、やっぱり理のないことではなかったのだ。いま、我らの劇作家はわれわれ俳優がせりふを言うために脚本を執筆してくれている。あまり相手を尊敬しすぎないようにしようという自分自身の参加ポリシーを一部やぶってでも尊敬するべきところだ。そうなってしまっているのは「自分がやるべきことをやらなかった」という自分自身のあるべき理想像からの欠損によるものなので、やはり忸怩たる思いは残るものの、甘んじて引き受けなければならない。自分自身に課した宿題をやらなかったのにこうやってノコノコと参加しているのは他の誰でもない自分なのだから。試しに15人の俳優が出演する上演脚本を書いてみようと思ってみたが、本当にまったく歯が立たない。文字通り一行も出てこない。

20261008

日記807

電飾の店

2026/10/06 一昨日 19932
一日在宅。途中病院で診察。検査で切った皮膚の縫合跡の抜糸があった。毛を抜くぐらいのチクッとした痛み。はじめてのことで内心怖かったが毛を抜くぐらいのことだとマインドセットしたらまったく恐くも痛くもなくなった。帰ってスパゲティを茹でて食べる。定時退勤してバスケへ。国領小。京王線への乗り換えが面倒といえば面倒だったが、不自由なくバスケをできていることを考えてみればそんなのはなんでもない。疲労の残るなかでだらだら動くプレーが増えてきていてよくない。これではやればやるだけ下手になっているようなものだ。あまり来たことのない場所だったのでクールダウンがてら国領駅前で氷結を飲んで帰る。それでも合計3回ぐらいは来ている。


2026/10/07 昨日 9431
午前在宅。定例などに参加のため午後から出社。タスクを積んでいるのでまともに働くと残業になる。恥ずかしながら30分弱の残業。帰りの電車内で思いつき、『我々は宇宙人』を見に行く。ライフストーリーと記憶の話だが、記憶方面からかなりよく攻めていた。『失われた時を求めて』の感じがあった。見ながらややドラマチック過ぎるのが玉に瑕かと思っていたが、アクションシーンのアクションに意味が出てくるのと、そういうのを抑えてリアリティに寄せるというやり方のほうが陳腐なのは間違いない。やいのやいの言わず乗っかってみることにする。最初の何気ないやりとりの時点で静かにグッときている場面があったのだが、オーラスでもそこにきれいな光を当てていて、この映画が何をやりたかったのかがはっきり出たと思う。普通にそこでかなり持っていかれた。ぐっと寄る前にふっと引くような群像劇的な演出が素晴らしかった。小学3年生男子のふたり組にしか出せないあのありふれた輝き。現実の日常場面でもたまに食らうことがあるものな。記憶の、忘れちゃうことのそれで良いというところを取り沙汰したのはとてもよかった。自分は自分自身にいま起きているこれらすべてを忘れたくないと思っているが、そのことそのものが幸運のなかの幸運なのだと気づいた。忘れちゃったとしてもいつか迸り出るように思い出せるかもしれないし、その可能性だけで十分だともいえる。
池ノ上で降りてまいばすでPEELを買う。上京時のアパート跡を見てから豚とんで小ラーメンを食べて帰る。早めに寝る。


2026/10/08 今日 524
一日在宅。NBAリーグパスの無料体験に登録し、8時からプレシーズンマッチのウルブスvペイサーズを見る。ハリバートンが復帰していた。その後流れでウォリアーズvブレイザーズを見る。ヤンハンセンが元気に途中出場していた。
昼ごはんに炊いた新米を食べる。昼寝をしてからタスクをこなす。すこし残業してタスク消化。日記を書いて19時前に退勤。酒を買って飲みながら散歩に行くつもり。

20261005

日記806

SAY Noh

2026/10/04 昨日 20982
バスケはオーラスの試合で逆転のブザービートを決めることができた。あまりよくないプレーもいくつかあったが、すべてが帳消しになるシュートだった。映像を見返したら歓喜のあまり祝福するチームメートを完全無視でひとり静かに天を仰いでシンプルガッツポーズをしていた。左手ですくい上げる力の弱いレイアップだったのだがまさに”指運”があった。
すぐ帰宅してシャワーを浴びて洗濯機を回す。疲れていたが良い時間だったので月下の能を見に行く。設営時に中に入らないでも立ち見の良い席があると目論んだ通りで、氷結無糖のウメを飲みながら通行人と夢幻能とを交互に見られる特等席(チケット非売品)で観劇することができた。演目は「羽衣」。知らない話だがなんとなくわかる。大方、ワキが手に捧げ持っているのが羽衣で、その持ち主がシテなのだろう。30分ほどで舞台がはねたので豚とんで小ラーメンを食べる。家人が家にいないので普段やらない”にんにくをかけて食べる”をしたら、さすがいつもより味わいが深くなった。帰ってスイッチというお笑い番組を見る。寝る準備をして寝る。


2026/10/05 今日 3996
午前在宅。千鳥の鬼レンチャンという番組でバスケ特集として千葉ジェッツの渡邉、原、金近の3選手対芸能人バスケチーム8選手での3on8という企画をやっていたのでTVerで再生する。企画とはいえ本戦でも泣きのエキシビションでも、エースとエース候補がシュートを外して負けてしまっていたが千葉ジェッツはこれで良いのだろうか。昼イチで新上司との1on1があるということなので早めのお昼でそばを食べてから出社する。なごやかに話すなかでうまく情報を収集するというミッションがあるようだ。自分の協力があったとはいえ卒なくこなしていてよかったと思うし、ちょうど裏面(りめん)から見ていてもリーダーポジションは大変だなと思わさせられた。そのほか軽い打ち合わせやら定例打ち合わせやらで小忙しくして過ごす。定時退勤し、電車内で前日のバスケの動画を見る。スタバで『存在と時間』を読む。第36節「好奇心」。本物だと思い誤られているものが登場するなど、いつのまにかT/Fの話に突っ込んでいて、そのことに対して「なんだかな」と思わないではない。また「現存在は遠くを求める」という文章が印象的だった。『存在と時間』では唐突にそういった文言があらわれては、自分の注意力をくいっと喚起してくる。日記を書く。友人から久しぶりの連絡が来た。なんでも彼女ができたらしい。結婚したいようなのだが焦りは禁物というかゆっくりだが着実にというアドバイスをおくりたい。当たり前すぎてあまり役に立つアドバイスではないように思えるが、こういう場合、本人の感覚というものは鋭角になりがちなので緩い方面への方向づけは”なんぼあってもいい”ものだと思われる。高校時代のマブなので言い方はそこまで気にしないでもいいと思うから思ったこととして率直に言ってみよう。なんにせよ彼女ができたのは良いニュースだ。ということなので個人的にひとりで祝杯を挙げよう。

20261004

日記805

思い・沿う・海

2026/10/03 昨日 21741
午前から演劇祭の説明会にいく。当然予期しておくべきだったのだけど前回参加者の人たちが結構いて驚いてしまった。意気込みを考えていったのだがなんとなくそれを言う気になれず、型通りの挨拶も避けてよくわからない所信表明になった。最初の読み合わせでは半端に緊張しなおかつ半端に緊張に慣れて一意専心に読むということも相手を見て動くということもどちらつかずの読み方になって悔いの残る結果になった。しかし出番が最初の方だったからまだよかった。もし出番が後の方になっていたら上手に自分の空気に持っていく他の参加者に気圧されていたと思う。自分でも想像していた以上にがっくりきてしまい、誰とも話さずにそそくさと会場を出た。
逃げるように小田急に乗って新宿へ。さがたにで親子丼セットを食べる。JR線の構内で友人Bと合流。秋葉原で乗り込んできた友人Nとともに、一路千葉駅へ。TCBの秋の行楽・まち歩き、この日は千葉駅周辺。ちばぎんアリーナを通ってポートパークまで歩いた。海沿いに佇んで強い西日を浴びながらビールを飲んだ。とりとめのない会話をしつつおのおの海を感じたりすぐ暮れる日に文句を述べたり。気のおけない友人とこうやってだらだら酒を飲めることで自分を慰撫する効果については必要以上に低く見積もってはいけないと感じるようになってきた。感謝するとか欠かせないとかいうと即座にトゥーマッチになり、リラックス効果が薄れて本末転倒になるから、取り扱いは粗雑にとどめおくように留意しておかなければならないが、毎月のようにくだらない写真が溜まっていくのは嬉しいことだ、ということはいえる。都市モノレールに乗って千葉駅にもどり、駅前の歓楽街にあるラーメンショップで晩ご飯を食べてから電車に乗って帰る。グリーン車に乗ってやろうかと思ったが750円と予算オーバーで断念した。友人Nが食べすぎのせいですこしグロッキーになっていた。もともと小食のイメージはあったがラーメン並一杯でダウンするとは驚きだ。
すべてにおいて意識レベルが下がっていて、たぶんそのおかげで緊張が過緊張にならなくなってきているのだと思うが、ピシッとするところではピシッとしていないといけない。泣く泣かないが論点になっているように思えてふたりが話す話題に入るつもりはなかったが、飼い猫の死については明確に悲しいことだ。そこはびた一文まからない。


2026/10/04 今日 1887
9時に不要なアラームで目が覚める。バスケに参加できそうなので準備をしてからまずはエキウエのスタバへ。スマホで日記を書いてからコーヒーを一気に飲み干し、13時からのバスケ会場に移動する。落合第二中。夜には下北駅前で能をやるみたいなのでまだ元気があったら見に行きたい。

『海辺の一日』を見た

エドワード・ヤンの長編デビューの映画 『海辺の一日』を見た。 映画を見ていると気づかないうちにドラマを探す。ドラマが物語の中心になり、そこを起点にして回っていくという視聴経験をたくさん持っているから、おそらくは心が安定を求めてドラマを探すのだと思う。映画『海辺の一日』は、まずそう...