20260202

死後の世界にいる「私」を演じるということ

演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をしている。

私には娘がおらず、配偶者と離婚してもいないのだが、〈離婚して自由に娘に会わせてもらえない父親〉を演じることになった。演劇の舞台なので、それがどういう場面で、役者としての自分がそこでどういうセリフを言うかというのは決まっている。作・演出のNさんは演じること全体について説明してくれたことがある。それは間違いなく彼の演出のなかでもとくに優れた内容だった。いわば基本のキであり、そのために訳知り顔の評論家気取りの連中にも簡単に引用されそうな内容なのだが、それでもその重要性は揺るぎないものとして感じられる。それはつまり、彼の演出によってそのアイデアが自分のなかで揺るぎないものとして感じられるようになったということだ。とにかく不安を感じがちになる役者に対して、信じるべき灯台の光となるようなことをはっきり言えるということ。それは数ある演出家の資質のなかでももっともポジティブな要素のものだと思う。前置きが長くなったが、彼が何度となく言ったのは次のことだ。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」


私は他人がどう考えるかということについては感じるままに想像する以上のことをほとんどしておらず、どうせ大したことではないのだろうから、いちいち取り上げるほどのことはないと高を括っている。他人がどう考えるかということに対して真剣に併走するのは大変なコストがかかるということを自分に照らして知っているので、そのコストを支払おうという気にはなれない。真剣に考えを尽くしたとしても「そこじゃない」という見当違いが起きるというのも全然めずらしくなくむしろ往々にしてあることで、それも自分に照らして知っていることだ。だから、自分はどう考えるかということにフォーカスして、他人のこと、他人の考えることについてはある程度までと線引きしおろそかにしてきた。そういうわけで「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」というのを実践しようとしてまず苦しんだのは、登場人物がなぜそんな事態に陥ったのかというところを〈この私〉につなげる部分だ。私が演じる〈その私〉は、何かがどうにかなり、どうにかなった先でいろいろなことを取捨選択した結果、その立場に位置するようになっているわけだから、それを私にも納得できるようなかたちに成形する必要がある。のっぴきならない事情が重なって、出た目が思わしくなく、疲労が重なった挙げ句、追いやられた先で破壊的な結婚をすることになり、娘を愛していながら自由に会えないという厳しい状況に陥ったのかもしれない。これを真剣に想像することは簡単ではない。しかしそういう人は実際にいるというところから、それをヒントにして自分と接続する回路を、遠回りにでも、か細い線になってでも、つなげようとすることはできる。それに彼は彼で、この私と同じように自分の状況を顧みたとき「陥った」というふうには自分のことを考えないかもしれない。

いずれにしても、この私への接続については「できる」という思い込みを発揮するだけのことにすぎず、結局のところ、いい加減な想像の域を出ない。「普通こうでしょ」という、いい加減で許容しがたい他人の意見と似たものになる。しかしそれは怠惰が鍵なので、他人の考え一般について自分が使っているのと同じ鍵で開けられる。まあ大体こんなもんという大まかな切り取り方で必要十分ということだ。むしろそこから逸脱すると、他人からは容易に認めることができないゾーンに突入してしまうだろう(じつは私はそこへ行きたいのだが、今回の演劇では一旦保留としている)。だから結局、怠惰な想像力で「まあだいたいそんなところ」となる範囲内で調整するのが自分の仕事ということになる。それでも、普段使っていない筋肉を使うときのように身体の動かし方のバリエーションにはなるので、この私にとってもエクササイズ的な良い効果が期待できると思っている。

ところで、より面白いと自分に感じられる仕事は、死後の世界(あるいは生前の世界)にいる場面を演じるということだ。私は死後の世界というものを一切信じておらず、人がそれを信じることも馬鹿らしいと考える点で、他人からは「死後の世界がないことを信じている」よう映る姿勢をとっている。
だから「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」とき、死後の世界にいる自分のことを想像するわけだが、その自分のなかでどういうことが起こるかといえば、自分が信じていない世界のなかにどういうわけか入り込んで、そこでまごまごするというよくわからない事態だ。たとえば「現実」というのは信じる信じない以前にもう現実としてそこにあるものだから、前提としての”オフにできない機能”が元々そなわっていて、それをオフにして考えること全般がナンセンスだと思い込ませるたぐいの要素を備えている。私は疑おうと思えばそのことを疑うこともできる。つまり現実の現実性について虚偽だと暴き立てるような態度をとったり、それをフルシカトして自分の思う通りまっすぐ進むということをあえてしたりもできる。私は私次第ではそうすることもできると知っているが、同時に(ほぼ次のページには)そうしないということも明らかに知っている。死後の世界にいる自分を演じるというのはどういうことなのか。自分が演じる死後の世界というのはどういう場所なのか。自分の視点からはその場所のことはまったくわからないのだが、現実の持つ現実性という奇妙な図式を反転させたときのような奇妙さがその場所には漂う。また、外形的な強制力(今回の場合は演劇の舞台)によって、自分が自分の想像の外に置かれるということも起こる。「自分の外にある」という状態は、自分機能におけるコア部分の機能不全にほかならず、自分にとって許容範囲を超えることになるのだが、そのこと自体が次のように想像してみることをトリガーに発生している。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」

私は死後の世界というものを信じていない。そんな私が死後の世界にいる私を演じることができるのだから、これを僥倖と言わずして何を僥倖と言うのか。私は演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をする。蓋し僥倖である。

20260201

日記713

正午すぎのみな味

2026/01/30 一昨日 8073
朝から出社。午後から在宅にするつもりが不要な対面打ち合わせを入れられたので終日オフィス勤務になった。アホウ相手にはアホウ相手用の対応をするだけだが、質問内容が不明瞭な質問をしてきてとまどっているとそんなことにも答えられないのかという態度を示してきたり、何を言っているのかよくわからないなりに汲み取って絞り出した回答に対して食い気味で否定したりして”主導権”を握ろうとするやり方があまりにもアホ丸出しで、話をしているときについ気分が落ち込みそうになった。もっと根本的に、最初からそんなアホウと関わらないでもいいような対応を考えないといけない。まあ普通に考えて遠ざけるか離れるかだ。
定時退勤後、失効直前のマブルスポイントを消費するため原宿までチキンブリトーを食べに行く。NYで食べたブリトーを思い出した。NYの外食が軒並み高すぎるなか、比較的安価でお腹にたまる食事としてメキシカン料理がありがたかったのを思い出した。大学生時代に東京に遊びに行って滞在を安く抑えるために食費を切り詰める、以上の切り詰め方をNYではしていて、あのときのひもじい気持ちを思い出す味だった。なんでも贅沢できる旅行よりも、不十分なところがあったりしっかり制限がある旅行のほうが旅感が感じられる。旅情とまでは言わないが、お腹を空かせて通りを歩く経験というのは都会を旅する醍醐味のひとつだ。
ハラカドの1FにCBDショップがあったのでオイルを試させてもらう。「効果はバツグンだ」というのを期待するのだがそこまでにはいたらなかった。しかしその微妙さを「効果は今ひとつのようだ」と評価してしまうのも憚られるぐらいの効果はあったように感じる。乾燥からくるのか、かるい喉の痛みがあったのだが、その痛みは感じられにくくなったように思ったからだ。いずれにしても知覚に作用するということはなかった。(当たり前だが)
帰って演劇資料として提供してもらった動画を見る。参考にするという観点がすぐ抜け落ちて劇の内容に意識がいくのはさすがの吸引力だなと思ったが、夢中になっている場合ではないと気を取り直しつつ見た。今なんて言った? となるセリフがおぼえているかぎりでは一回もなかったので、彼らは何よりもまずナレーターで、その上に演技の肉付けをしているということになる。なので少なくとも自分に感じ取れるかぎりでは二重の技能を身に着けていて、さらに舞台度胸、記憶力、対応力など、総合的な能力を高いレベルで備えているということだ。さらにその前提をクリアした上で、自分の役者としての個性を発揮しようと苦闘しているわけだから、平手で立ち向かおうとしてもどうにかなるような相手ではない。そんなことは資料として渡された動画を見るまでもなく理解していたことだったのだが、まずいことにそこに実感も加わってきた。自分としては行けるところまで行って、やれることをやるだけだが、ナレーターとしての機能を果たして演劇の成立に寄与するというところで満足するかぎりでは自分が参加した意味はなくなってしまう。何が足りていなくても、たとえ場の成立や違和感のない進行のために足を引っ張ることになったとしても、1ミリでも多く”自分”を発出することを心がけていこうと思う。そのためにはセリフを覚えて、流れを覚えて、すこしでも堂々とした気分でいられるようにきちんと準備をすることだ。結局のところ、ピラミッドの積み上げ方にはそこまでのバリエーションはない。土台から頂点へとすすんでいく手順は変えられない。



2026/01/31 昨日 21833
朝から新横浜まで出かける。バスケの大会に出場するためだ。身体の不調部分は落ち着いていてほとんど痛みもなく、活躍するぞと意気込んで出かけたのだが、一番乗りで体育館に到着してアップがてらちょっと身体を動かしただけでいつもにはない息切れがある。その時点で嫌な予感があったのだが、まあ朝一番だから、温まってきたら大丈夫だからとシュートを打っていく。ランニング系のアップをしないまま試合が始まると、これが行きの電車で”走り勝つ”と意気込んでいた人間のやることかぁ!? ばりの息の切れ具合。気持ちだけでなんとか食らいつき、押されて押さえつけられてヘロヘロになりながらゲームタイムを消化する。タイマーを見ては「早く終われ」などと、わざわざ横浜くんだりまでのこのこやって来てまでなんで参加しているのか全然意味がわからないことを思う始末。6分ハーフで4試合やって得点は12ポイント程度にとどまり、マッチアップ相手の得点(つまり自分起因の失点)は少なく見積もってもその1.5倍はあり、チームの勝因どころかまったく逆に敗因になってしまった。終始相手ビッグマンのペースのなかで「なんとか付いていく」という意識以外には何も考えられず、こちらのペースにペースダウンさせるという、試合に参加するようになった最初の方に立てていた戦略を忘れていた。そもそも自分はタッパがあるだけでビッグマン的なプレーは苦手なのだから、そこで勝負する、負けないように付いていく、というのは端から間違った選択だ。相手のDFがマンツーマンならアウトサイドに逃げていればそれだけでインサイドにスペースを作れるが、ゾーンDFをされるとその省エネ戦術を使えない。そうするとインサイドに入ってキックアウトし、アウトサイドからのシュートをアシストするというのが自分にできる仕事になるわけだが、当たり負けして面を張るのも成功しない、なんとか入れてもらってもキックアウトするパスの選択と質がよくないと、総じてポストプレイの質が高くないことになった。ただ中で受けて外に出すということに徹してタスクフォーカスすればいいのだが、というかそれしかできない以上それをやるべきなのだが、それは自分のやりたいことではない。自分を殺してチームを勝たせる肚が決まっていない。しかしそんなに大げさに考えなくてもいい。ずっとそれをやるのではなく行き詰まったとき用の突破口としてそのプレーを選択し、それを成功させたあと、そこから駆け引きをすすめればいい。親指ないし人差し指になるようなポストプレーをひとつ持っていなければと思った。肚を決めてポストプレイの練習をしよう。
くたくたになって下北に戻る。帰りの東横線日吉〜渋谷が混んでいたのもきつかった。家人と合流して梅窓のうどんを食べる。消化のことを考えて肉うどんを選択。帰宅してシャワーを浴びて体力を回復させるために30分程度昼寝をする。洗濯機を回してから演劇の稽古に出かける。最初の本読みの頃にできていたセリフの言い方ができなくなっていた。同じセリフを、その時に初めて発した言葉かのように言うのはむずかしい。動くときにも段取りを知っている(段取りを覚えていると)とそのまま”段取りを知っている動き”になってしまう。セリフを言い終えたときにも安堵感から自分のターン終了感が出てしまう。こうやって書き出すといかにも初歩的なミスで、そんなことはやらかさないだろうと思えるのだが、あの場にいると考えることや視野がとにかく極小になって、出来の悪い機械そのままのような動きを本当にしてしまう。あの場にいると、という部分のマインドセットを舞台や稽古場ではなく、演劇の設定した場面に設定しないといけない。これは集中力が必要なのだと思う。本番でいきなりそれを発揮するのは無理があるから、ここから先は一回一回の稽古で集中力を発揮しよう。
パンを一個食べていっただけだったので稽古終わりには腹ペコ状態だった。でもこの空腹感はわるくない。他三名の参加者といっしょに新聞のインタビューを受けた。その流れで駅までいっしょに歩く。四人とも演劇経験はほとんどないメンバーなのだが、稽古が楽しいということで意見の一致を見た。演劇稽古全体をとおして、メンバー同士の距離感は”東京”という感じで、自分にはちょうどいい。もっと仲良くなってもいいのかもしれないが、それと同量かほんのすこしだけ多量の、もっと仲良くなるということはないほうがいいのかもしれないという思いがある。やはりこれが適切な距離感・間合いというものなのではないか。わからないけど。
ダイエーで家人の分と自分の分の助六・いなり寿司、ビールと氷結を買って帰る。ザ・コントというコント番組でロングコートダディの「ネオサイバーアーム」のネタとジャルジャルの「音響のスギさん」のネタを見る。キングオブコントよりも自由度のある”テレビコント”のフォーマットでやりたい放題やる二組の方向性は違ったが、とにかく面白くて圧倒された。早めに寝るつもりが12時すぎの就寝になる。


2026/02/01 今日 2571
7時頃に目が覚める。そのまま起きると寝不足になるので二度寝しようとするもしっかり覚醒していて二度寝に失敗する。仕方ないので9時ごろに起き出してきて出かける準備をして、スタバに出かけて日記を書く。そのまま昼ご飯を食べてから13時からの稽古に行く。全集中舞台俳優の呼吸で場に臨む所存。

20260129

日記712

指示書

2026/01/27 一昨日 20129
練習バスケに参加してシュートを打ち込む。途中早々に足が痛くなってきたのでよくない感覚でシュートを打つというマイナス効果の練習にしないために、有志参加の軽い試合への参加を決める。走り回るということを目標に取り組んだのでとにかくボールに近づこうとする無理なプレースタイルをした。しかしレベルがレベルなのでとくに無理にはならず、それなりに楽しめもした。


2026/01/28 昨日 5612
一日在宅勤務。というか本当は午後休にしたかったのだが、緊急対応のため働き詰めになった。ただでさえ鬱陶しいのに、客との定例打ち合わせに15分遅れて入ったことでうるさい小僧からの「詰め」があった。いつも適当にいなしているがいつも適当にいなしているので向こうもいなされていることには気づいているようで、こちらのいなしについてきて、なんとか詰めようとしてくる。仕事熱心な人だと思うことで「まああいつも頑張っているからな」と自分を納得させるやり方は奏功せず。鬱陶しさが勝ってイライラしそうになる。こういうときに考えないようにしようとするのは逆効果で、べつのことに集中しようとするのもうまく行ったり行かなかったりする。実際、電話越しの気に障る声が耳元に残響するようにも感じられ、わかりやすく言うとストレスだった。こういう消耗をするのは、消耗させてやろうという相手の思う壺にハマることになるのでなんとかしたいと考えていると、逆に相手と仲直りし、むしろ雨降って地固まるのように、一気に打ち解けて仲良くなる未来を想像するという奥義にたどり着いた。この技の真髄は、飲みに行き、肩を組んで二軒目まで歩くというところまで真剣に想像したあとで、その未来を殺すところにある。最大限歩み寄って、こちらから踏み込まないとその未来はないのだが、想像する段階では無際限の譲歩・感じの良さ演出という、虚構内でのみ可能になるポテンシャルの発揮をして、それがすべて成功した挙げ句の最高の未来を思い描くわけだ。そして、それを一切しないという選択を採る。要は今まで通りというだけだが、あり得たかもしれない和解を通らない、こちらからは手を伸ばさないという宣言をして、ひょっとするとひょっとしたかもしれない可能性を葬り去るということだ。想像するときにはその実現に向けてああしようこうしようと考え、計画としてもそれなりに見栄えがするというところまでいって、「いや誰があんなオケラと仲良くなりたいんだよ」と切り捨てる。そのときに胸のつかえがすっと取れた。
あとは昼すぎから行こうと思っていた狛江湯に、退勤後になったが行く。ぬる湯、温冷交代浴、外気浴のローテーションで2時間弱を過ごした。途中ストレスのもとになったオケラがふわふわと湯気のなかを漂っている気がしたが、前述のパージ作業のおかげで”気のせい”で済ませられた。遅れて狛江湯入りした家人と待合で合流する(まったく連絡を取り合わなかったのに寸秒のちがいもなく同時にのれんから出てきて驚いた)。ぷらったでマンデリンのコーヒー豆100gを購入し、狛江ニュースターで一杯やる。家人は昭和オムライス、自分はもつ煮とあとからタンメンをとった。これから覇権を握るAIについての話をする。爆発的な訴求をしてすべての人に行き渡るところまでいくためには”面(つら)”や”インターフェイス”が重要になるという論旨で、猫型ロボットのリバイバルがあり得るのではないかという主張になった。喋る中で気付いたが、そのラインはすでに円城塔がゴジラSPのなかで「ペロ2」として描写している。2021年4月のTVアニメだから5年前の話だ。家人は寝不足が祟って、嘘でも話についてくる気配が見られず。こうまで話を聞かない態度を取られるとむしろ、ということで反骨心(?)に火がつき、帰りの電車内でも気炎を吐いた。帰宅してすぐに寝る。タンメンの消化がされないうちに寝ることになったので胃の具合がわるくて途中目覚めた。そのときにこれは覚えておこうということを夢のなかで思いついたのだが、あの実在感なら絶対に覚えていられると思ってあえてメモしたりしなかったのだが、次の夢を見たことできれいさっぱり流れてしまった。小中高の友人が東京のAURALEE新旗艦店で働いているところに買い物客として遭遇するという夢だった。なんとなく気まずい鉢合わせだった。


2026/01/29 今日 7469
朝から出社。朝から打ち合わせがあり、午後にも定例のミーティングがあったので一日オフィスにいて、やるべき仕事をこなした。定時で帰って荷物を置いてスタバに来る。『失われた時を求めて』ゲルマントのほうⅢを読み終える。退屈退屈で来ていたのだが最後の最後で驚きがあった。日記を書く。

20260127

日記711

道歩め

2026/01/26 昨日 17640
落合南長崎までバスケに出かける。新宿駅から都営大江戸線に乗る。混み具合と乗客の感じが普通の地下鉄よりもより暗く感じられるのは、いっそう深いところまで潜る地下鉄道だからなのか。到着までの20分弱で一気に気が滅入って気疲れした。それでも体育館に到着してボールを取り出すと途端に元気になってきた。新バスケサークルには2回目の参加なのだが、いつも行っているバスケの集まりに比べるとかなり若いサークルだということに気がついた。いわゆるバスケットマンとはノリが合わないと思っているが、年齢に差があると余計にノリの違いが大きく感じられる。しかしとにかくよく走るゲーム内容には満足で、ぜえぜえ言いながら必死で付いていくのはめっちゃしんどかったけど自然なテンションの上昇もあってわるくなかった。あと、特定の人や集団に対して違和感がある場合、その多寡は自分の取る態度にはあまり影響を及ぼさない。つまり一定の距離だ。これはいつも通り。ただ、一瞬のハイタッチ、ナイスパスを受けてシュートを決めるのは楽しい。それで十分だ。帰りも夢モグラに乗って帰宅。


2026/01/27 今日 6712
朝から出社。行きは参考資料の演劇を見る。打ち合わせなどをこなして昼には帰宅。帰りは『八月の光』を読む。セブンで新商品のヤンニョムチキン弁当、キーマカレー弁当を買って帰る。キーワードは「チーズまみれ」。洗濯機を回す。この日もバスケで狛江に行く。2日連続ということで練習回に参加することに。

20260126

日記710

いろんな回収

2026/01/24 一昨日 20683
朝早く起きてバスケにいく。あたらしいバスケサークルへのひさしぶりの参加になった。今行っているところはどこも和やかな雰囲気で不満らしい不満はまったくないので、あたらしいサークルの探索がついおろそかになった。今はPMの時間帯が演劇稽古で潰れるので、AMを活用したいというニーズがある。というわけで高田馬場まで行った。まずシステムがきちんとしていて、”お上手”なバスケプレーヤーもいるにはいるがそこまで多くもなく、強度もちょうどいいぐらいだったので今後の選択肢に上がってきそうだ。行きの道すがら、寒すぎてなのか朝早すぎてなのかわからないが、一瞬背中がピキッとなりすごく焦った。すぐにコンビニに入って水・朝食を買い、水を中心に補給する。体育館に入ってもまだ余韻があったので嫌な気分のまま準備運動を始めたが、徐々に痛みが引いていって事なきを得た。緊張していたのかなんなのかわからないが、筋をいわせる系の故障はこれ以上は避けたい。肝心のバスケの内容だが、小学校のコートでかなり狭かったからかそこまでガチガチの空気ではなく、自分としては呼吸がしやすい環境だったのでOFリバウンドを中心にけっこう暴れた。ただし、ビッグマンの見本みたいな高身長でなおかつがっしりした筋肉質のプレーヤーがいて、彼とのマッチアップでは手も足も出ず、何もできない情けなさを味わった。多分年上か、低く見積もっても同い年ぐらいなので、年齢を言い訳にできず(年齢を言い訳にはしないぞと殊勝な態度をとれず)苦しかった。バスケはチームスポーツなのでね、とこういうときには諦めも肝心で、チームを勝たせるための動きに切り替えなければならない。一応それはできたと思う。
バスケが終わってすぐ高田馬場まで歩く。渋谷経由で新代田まで移動する。渋谷駅から発車する前の電車内に、相手役の俳優のすがたを認める。驚き、目礼をして、足を止めずにべつの車両まで歩き抜ける。人見知りとかそういうのではなく、ただこの日のAMに追加された脚本に目を通すための時間を作るためであって、向こうにはわからないかもしれないが、ちゃんと合理的な理由があったのである。
しかし、演技経験もなく、人前でなにかやるのが好きそうな感じでもなく、人が好きというわけでもなさそうな男が、何を目的に演劇WSに参加しているのかという疑問はあるだろうと思う。それに関しては自分でもよくわからない。目的と言われて、とくに思いつくことはない。昔は俳優の友達が欲しいという思惑があったはずだが、今はそういうことも思わなくなった。何も考えずに適当なことを言えば、もっと自分のことを知りたいということだろうか。嬉しくない内容を知っていっているような、知っていたことを確認しているような感じで、未知だったり望外の何かを手に入れたという感じは今のところまだ得られていない。ただ演劇の稽古自体はいろんな活動のなかでも相当上位に位置するぐらいかなり刺激的で楽しく、俳優という生態の光る瞬間を毎稽古間近で見れている感覚がある。これは本当に見もので、観客の気分に浸りすぎて自分の出役としての立場を忘れてしまうほどだ。何かを凝視しているとそれにとらわれ、自分の身体を動かすときに適した体勢にはならない。それで心の準備がないまま自分の出番がきて痛い目を見たことも何度かある。その痛みと引き換えにしてでも見たいものがあるとすれば、それは稽古場での俳優たちが発する光だ。話の内容はあまり関係なく、ひとつの場面に感動させられることが何度となくある。
18時半過ぎに稽古が終わり、家に帰ると家人のデザイン学校時代の友人たちの訪問があったので、小一時間ほどボードゲームでいっしょに遊ぶ。デザイン畑の人たちと話すのは新鮮で面白い、と思ったのだが、よく考えると家人が以前勤務していたデザイン企画の会社の人たちとも遊ぶ機会がそれなりにあるので取り立てて新鮮というわけでもなかった。自分が一番年上で気を遣わせる立場なのだが、年上と接するのに比べると得意なほうなのでとくに問題はなかった。問題ないコミュニケーションというのはそれだけで意味あるコミュニケーションとは言えないのでもうすこし爪を立てていかないとなという思いはいつものとおりある。わりと酒を飲んだが翌日にも稽古があるのですぐに寝る。


2026/01/25 昨日 7688
前日の酒のせいなのか軽い頭痛があるなか目が覚める。Lシステインを飲んだのに足りなかったのか、酒のせいではないのかはっきりしないが、とにかくバファリンを飲んで対処する。背中を痛めないようにちゃんと運動前のストレッチをしてから、バーピージャンプを含めたフットワークのトレーニングをする。シャワーを浴びて昼ご飯を食べてから新代田の稽古場に向かう。一張羅を着ていった。稽古場での演出担当の人の演出のやり方は本当に勉強になる。自分のイメージを相手に伝える方法としてこれほど洗練された能力はほかにないのではないか。棋士の将棋の駒を持つ手つきが優美なのと似ている。それは本質ではないのかもしれない。しかし将棋の駒とちがって演劇の駒はパフォーマンスを変化させる生身なので、その変化をコントロール下において最大のパフォーマンスを引き出すことが重要になってくる。すぐれた演出家はおそらくその手並みが人並み優れて秀でているのだと思う。
この日は稽古後にまいばすけっと併設のオリジン弁当で晩御飯を買って帰る。友人から借りた『切り裂かないけど攫いはするジャック』を見る。舞台俳優のテンポは早く、とても早口に感じられる。観客に情報を伝達する素子としての能力が高い。本で言うと読みやすくてきれいな文字というところだ。おそらくそれも本質ではないのかもしれないが、それでも重要な部分なのだろう。
もっといろいろやってみる、のいろいろについて、自分の考えつくことの範囲を超えようとするいろいろを、こういう何もしていないときに考えつけるように、ぼーっと考える時間は重要なのだと思う。そうやって自分に与えられた役について考えているとき、俳優として演劇に向き合っているという感じがある。


2026/01/26 今日 5720
朝から出社。行きの電車内で初場所優勝の行方をハイライト動画で見届ける。熱海富士が心底から悔しそうな顔をしていて、この人は嬉しそうなときには本当に嬉しそうだし、役者だなと思った。それにしても安青錦(まだGoogle変換では変換できない)は、横綱ばりの力強さで、絶対に頭を上げないブルドーザーのようだ。ごく近い距離で既視感があると思ったら切り裂かないジャックで角田さんが演じた老人の姿勢そのままだ。ひとつの舞台上で事がふたつ起こることの面白さというのはじつは映像作品にはできない表現で、うまく内容にもハマっていて”見つけた”感がある良い場面だった。
出社して端末を立ち上げたところ、昔のやらかしという名の面倒事が持ち上がって、前週からのタスクの積み残し対応を今週の自分が引き受ける月曜のダルさが霞む。それでもバスケしたさに昼には在宅に切り替える。キャンセル待ちになっていた新サークルの定員が割れたのでバスケに参加できることになる。意気揚々として面倒事の対処・対応文を考える。パートナーとなる担当者が両サイドともに良い人なので、いざとなれば自分がスケープゴートになりますよという前向きさで事に当たれる。こういう気持ちで働くのはとても気がラクだ。最悪自分が泥を被ればいいだけと思っていたら粛々と進めていくことに何の気兼ねもない。定時すこし過ぎに退勤。バスケに出かける。


20260123

日記709

サバイバー

2026/01/21 一昨日 7751
17時過ぎまでプロパガンダにいて、荷物を置くため一旦自宅に帰る。大相撲を結びまで見て、FEVERまでGEZANのライブを見に行く。DOGO、the hatchのパフォーマンスを見たあと、本命のGEZANになる。前の方をキープするために2時間以上立ちっぱなしになったので腰が痛くなってきた。DOGOの演奏は若さからくる生硬さ・眼差しの強さ以外に見るもののない内容でとくに感心しなかったが、マヒトゥ・ザ・ピーポーは徳を積むためなのか、MCでわりと好意的に彼らに言及していた。「若い時にも自分たちにもあった”違和感”を全身にまとっていてなつかしい」というような内容だったのでおためごかしのない言及だったともいえるラインだが。GEZANのライブパフォーマンスは力強くシリアスなもので、研ぎ澄まされた集中力を立ち上らせていたが、そのぶん余白がないということもいえる。余白が一切ないことによる張り詰めたものが特長でもあるような声なので、これはこれでいいというかこれしかないという迫り方になっている。ただ俺はYDOのたわみと楽しみのほうを音楽として評価する。ライブハウスでのパフォーマンスに触れることが目的でもあったので、向こう側でダイブしているのを見れてよかった。ただし見たかったとはいえ実際に見ると自分がそこまで高まっていなかったこともあるのだろうが、危険という感性が前面に出て結構引いてしまった。自分がライブハウスに馴染むことはないだろうということがはっきり知れた。呻いたりほとばしったりをろくにしないまま過ごしていくのかと思うと、すこしうめき声が漏れた。夜、リビングで大声を出さないでくれと家人に怒られたのですごすごと寝室に引き上げて寝る。翌朝の電車移動中にもおとなしくしていることの後ろ暗い気持ちを引きずることになった。


2026/01/22 昨日 14408
午前在宅のつもりが突然対面ミーティングを設定されたので、あわてて出かける準備をして電車に乗る。時間ぴったりに到着できたのだが、来週開催のミーティングを今日だと勘違いしていただけだった。どれだけクダを巻こうといざ必要に迫られるようなことがあると、あわててノコノコ出かける以外の選択肢をもたない自分の生活に決定的な不足を感じ、通勤電車内でもいつにもなく不機嫌な気分に支配されていた。しかし、生活に決定的な不足を感じるというのは、そのときどきに読むべき本を見つける絶好機でもあるというTIPSのとおり、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』などにかまけている場合ではないと、「海外文学」でインターネット検索をして、まだ読んでいない読むべき作家のリストを作った。ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、セリーヌの『夜の果てへの旅』『なしくずしの死』、フォークナーの『怒りと響き』『アブサロム、アブサロム!』『八月の光、』マッカラーズの『心は孤独な狩人』、フォースターの『ハワーズ・エンド』、ゼーバルトの『アウステルリッツ』。すこし考えて、その中からフォークナーをえらぶ。kindleで読めるのは『八月の光』だけだったので光文社新訳というところに引っかかったが読み始めることにした。読み始めてすぐにこの作品は当たりで、ちゃんと今読むべき小説だということがわかった。文章の一文一文の連なり、句点で分割される通常の一連とはべつの切れ目が存在していて、そうすると文章のひとかたまりが一文やひとつのパラグラフを横断することになる。流れが水面上と水面下でべつに存在しているということがあきらかになるリズムで、まさにパラリズム(パラレリズムではない)だと思った。(いま検索したら言いたかったのは「ポリリズム」だった)。それを表現するためのフォークナー独自の表記法がかなりの効果を発揮している。肉体の声と心の声はしばしば一致しないが、めいめい勝手に進んでいくなかで同期する地点がある。それは内的外的な必然性にある程度左右されるが、たまたまという余剰部もあり、そのたまたま具合が絶妙で心地良い。リズムそのものもまるでリズムを感じさせないぐらい洗練されている。それこそパラレリズムのような技法も駆使されているということなのだが、全体的な一章の流れが詩文のような散文になっている。
仕事の用事で高輪ゲートウェイから新豊洲まで移動する。用事を済ませてから18時からのリモート打ち合わせまでに帰れなかったので豊洲のスタバで打ち合わせに参加する。傍観者でいいと聞いていたのにもかかわらず、二、三度発話を求められたが、よく聞こえないふりをして無視した。マイクをオンにするにはBGMがスタバ過ぎる。19時すぎまで残業になり、有楽町線、半蔵門線、千代田線、小田急線を乗り継ぎ、『八月の光』を読みながら帰宅。セブンで買ったエリックサウス監修のビリヤニを食べる。youtubeで小籔ととろサーモン村田が品川〜三軒茶屋まで歩く動画を見ていると、家人が夜の散歩を提案してきたのでよろこんで乗る。ドラマ撮影らしき現場に出くわしながら、行き先を決めないで30分程度歩くということで足の向くまま梅ヶ丘まで歩を進めた。途中で「今度行きたい」となる店を探しながら歩くという裏テーマあり。いくつかその候補を発見したのだが、これという決め手には欠けていて今思い返そうとしてもひとつも浮かばない。(すこしかんがえて)東京餃子楼のランチが600円でライス大盛り無料という破格だったのを思い出した。それからQUINTETというカフェバー。家人が絶対にすぐトイレに行きたいと言い出し、なんと帰りは電車に乗って帰った。東京の夜の散歩というのはこういう融通も効く。もちろん酒を飲みながら歩いてもいい。今回は飲まずに歩いたが。


2026/01/23 今日 
小さい立ち飲み居酒屋で飲んでいてトム・ブラウンみちおに声をかける。どうやって飲み屋を立ち上げてそれを誰かに売り抜けるかという話をする。サクラを毎日150人ほど用意して最初の3ヶ月で繁盛を演出すればいいんだと得々と話す。そういう裏技があるというのをアピールしたがったのだと思うがどうやってそんな人数を集めるのかについて策があるわけではなかった。
起きてから10分ほど夢の内容を反芻しているうちにあやうく二度寝しそうになり飛び起きる。朝から出社。返すべきメールを返し、確認するべきことを確認してから持ってきたキーボードを駆使してスマホのkindleで『八月の光』を読む。その後持ってきたキーボードを駆使して日記を書き、お昼の時間になったので在宅に切り替えるために帰宅することにする。このやり方を続けられるかぎり、ポータブルキーボードの購入理由が光っていく。有意義な時間の創出を考えると17000円は安い。ロジクールのMX Keys MiniとCosense(業務上のネットワークから分離するためスマホ(Xperia1Ⅵ)で起動)。(ここまでがAMのうちに会社で書いた内容)
下北のぶっ豚で小ラーメンを食べる。帰宅後にヘム鉄とプロテイン、クレアチンを摂る。呪術廻戦の51話を見る。「葦をふくむ」という呪術廻戦のなかでも目立って陰鬱な回だが、ED曲が絶妙にマッチしていてつい笑ってしまった。双子の片割れが残した遺言の効力というものを考えると正当化まではできないものの妥当かなと思える。ここで「家」を壊すというのは不当に自分たちを押さえつけてきた鎖を壊すということでもあるから、そうしないままでいることにはむしろ整合性がない。一生懸命訓練したその力を個人を抑圧する体制の側から無反省に使うのならば、ごと破壊されても文句の言い様がないのではないか。それでも破壊する方を正当化することはできないが。ただし、死に追いやられるということが起きたとき、死にながら呪うぐらいのことはあってもいい。それが直接的に実現するとしたらやはり正当化はできないが。
昼寝をしてから大相撲を見る。優勝争いの行方が定まってくる十三日目は相当面白い。ひそかに期待していた阿炎が熱海富士に敗れて残念だった。結びで豊昇龍を破った青錦大関の強さはやはり本物だ。遠慮会釈のない集中力がある。愚直という感じで恐ろしいのだが、大相撲の土俵にマッチしている。
お昼の時間に家人が途中で帰ってきて、ばらの花束を手渡してくれるイベントがあった。黄色いばらで、その色がその色にふさわしい気分を作ってくれた。通常普通通りにこの日を迎えられたことの幸運を思いつつ、へたな自撮りで記念写真を撮った。
結びの一番が終わってから一張羅に着替えてスタバに出かける。『失われた時を求めて』を読む。社交場での会話が続いている。プルーストが鑑賞した絵が話題にあがって(登場人物の絵に対する評価を小説世界の話題に流用して)いるのが面白いと思う。しかしこちらは『八月の光』とはちがって理解できているとはいいがたい。やはり小説を読むときの快感として「書かれてあることが理解できる」というのは大きい。フォークナーはプルーストよりも親切ということなのか、表現するものを明瞭に表現したいという感じがより強いということなのか、まだ判断するには材料が足りていないが、プルースト(『失われた時を求めて』ゲルマントのほうⅢ)は読みづらく、フォークナー(『八月の光』序盤)は読みやすい。貴族が爵位にこだわるという部分がとくに理解しにくいように思う。会話において知性による傾斜と同時に身分による傾斜があり、それらが絡まり合いながら発言力の多寡を決めているという複雑さのなかでゆっくり進行していくのだが、その複雑さと遅々とした歩みに翻弄され焦らされてつい適当に読み飛ばしているような感じだ。『八月の光』の2章まで読んだ。語りの移動がとにかく劇的でまったく自然ではないところが注目に値する。読者が読みながら暗黙のうちに予想する流れをそのままくだっていくので、そのことがとりわけ作為的に感じられる。自然であるということはいちいちそれをそう作ろうとすることで無用な作為にあたると自分は思うが、まさにそのことを裏打ちするような、作為であることを一切ごまかさないような文章の流れだ。書かれてある内容を理解できることの肯定と、自分がそのように作られたものを自然物よりも上位におく価値観を持っていることの肯定の両輪があるようで安定してぐいぐい進む推進力に充ちている。その出来のよさにここまで率直に感動できる小説と作家がいたことをあらたに発見できて、概念としての文学への感謝というか借りというかが積み上がった。まだ積めるとは。という驚きとともに。今後は書くものにも影響を受けそうだ。

20260121

日記708

寒空と寒梅(くんくんとおんおん)

2026/01/20 昨日 17888
朝から出社。グループに分かれての意見交換会をする。時間を忘れて取り組む仕事内容についてお互いに言い合うという内容だったのだが、自分が話す番になったとき、正直言ってそんなことは起こらないという趣旨の発言をした。組織はたびたび、コミュニケーション活性化の題目のもと、間違った前提で話すことを要求してくる。給料をもらうというのはいちいちそれに楯突くようなことをしないということも含まれているはずなので、自分の行動はサラリーマンとして非合理なものだといえる。サラリーマンとして会社のなかで呼吸するということが心底どうでもいい気分になってきたので、一対一の対人では控えるが、こういう多人数を相手にした意見表明の場ではできるだけそれを小出しにしていくようにしていきたいと思っている。今回のもその一貫で、当然とくに賛意は得られなかったが、それでも前提を無視するような物言いをしたときには特有の小気味よさがあった。いまの職場には居心地のよさがあり、ラクしてお金をもらえる環境なので辞めたいとは思わないが、それはそれとして「和をみだす人」として排除されてもかまわないと思っている。しかし後先を考えない投げやりな態度だ。疲れているからなのか。バスケを再開してから体力は充実している感じがあるので、気力の部分の疲れなのか。あるいは鬱陶しいことに対する反発心を発揮できるだけ気力が充実しているということか。いずれにしても自分の頭で考えることに反しないことではあるので好きにやらせておこう。直接向かい合う人に嫌な思いをさせないようにするということだけ意識しておけばまあ上等だ。嫌な思いをさせてくるダルいやつにはそのかぎりではないが。そういうやつはバートルビー流のやり方で撃退してやる。
昼には在宅勤務に切り替える。大相撲を見て、ニーチェアで昼寝をして、大相撲を見る。疲労なしの状態でバスケにいく。考え事をしながら電車に乗っていたら過って狛江まできてしまい、喜多見に引き返す。ハローサイクリングで体育館まで移動。自転車移動での風が寒すぎて、冬の力強さを実感させられた。しっかりめに動的ストレッチをしてからバスケをする。シュートタッチの面で安定感のあるボールの放り方が身についてきたような気がする。安定して飛ぶようになってから精度について考えるという順が正しいようで、自分でもそう思うので、まずはこの感覚と、安定して飛ばすシュートフォームを固めていきたい。足の疲労がないので元気いっぱいでプレーできる。こういう日にこそ風神とやりたかったのでが残念ながらこの日は不参加だった。自分としては疲労で精彩を欠く日と段違いのパフォーマンスが出ているという感じがあるのだが、動画を見返すと、自分で絶不調と感じる日の動画とそこまでわかりやすい差がなかった。しかし、無理めなカットインに二度チャレンジする(二度ともシュート失敗)など、すくなくとも気持ちの面ではアグレッシブさがあったのは違いだった。寒いなか自転車で駅まで戻る。セブンで晩御飯を買って帰る。ボロネーゼソースの生パスタを買った。自分にとってコンビニでこういう商品を買うのは明確なぜいたくになる。Netflixで『呪術廻戦』の50話と『地獄楽』の1話を見る。地獄と名のつく作品にしては設定が甘たるくてやってられないと思った。芥川の『地獄変』を読んだときにも同じような感想を持ったので、自分は地獄という言葉になにか特別な期待をかけているのかもしれない。


2026/01/21 今日 2798
仕事関連の夢、バスケ関連の夢を見た。ちゃんと覚えていないが両者が綯い交ぜになった夢だったかもしれない。面倒事が降り掛かってきて嫌な気持ちのなかに若干ワクワクする気持ちが混じっているような気分だけをなんとなく覚えている。朝から在宅勤務。まずは洗濯機を回す。頼まれ事など最低限やるべき仕事をやっているとお昼になった。この日はGEZANのライブを見に行くために午後休をとっていたので昼過ぎに退勤。プロパガンダという入ったことのなかった店に入って昼食をとり、『失われた時を求めて』と『ニッケルボーイズ』を読む。失われた時を求めては、依然として社交界における文化受容・教養についてのひけらかし合戦をしていて、それ自体はあまり面白いものではないがその描写をたっぷりするということにすこし興味を惹かれる。ニッケルボーイズは、ニッケルを出たあとNYで生活するエルウッドを描いたあとで、ニッケルからの抜け出し方を描くという順序になっていてサスペンス的な引きがある。それ自体すばらしい題目であるキング牧師のメッセージについて、その具体的な実践を、エルウッド自身が置かれた境遇に照らして描いていく。相手を信頼するというところに、概念上のものではない、実際の身の危険をともなう自分自身との闘いがある。信頼して身を投げ出すこと。そういうとまた概念上の出来事に戻っていくが、その営みを実際ごととして描写するところにこの小説の力がある。
読書のあと日記を書く。きのこクリームソースのパスタを食べ終わったぐらいのタイミングで家人から業務用端末に着信があった旨のラインがあった。せっかくの休みに仕事の要件についてなんだろうと考えさせられる時間が差し込まれ、気分が最悪になった。最悪の出来事というわけではないがせっかくとった休みの自由が侵されたというロスの量を考えると最悪だといえる。家人も親切心から教えてくれたのだろうから責められないし、持って行き場もなくしばらく嫌な気持ちをぐるぐるさせることになった。しかし考えれば考えるほど、着信のお報せをわざわざしてくれるというのは「休み時間に対する意識のちがい」に思い至らざるを得ない(仕事に対する意識のちがいではないのでくれぐれも注意されたい)。ひょっとすると自分がその報せを受け取ったらあわてて帰って対応すると思ったのだろうか。自分は退勤後には本当の緊急時以外はどんな対応もしない。そして本当の緊急時には業務用端末ではなく自分のスマホが鳴ると思っている。こちらについては仕事に対する意識のちがいだ。なんとかしないとやばいことは結局誰かがなんとかする。


死後の世界にいる「私」を演じるということ

演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をしている。 私には娘がおらず、配偶者と離婚してもいないのだが、〈離婚して自由に娘に会わせてもらえない父親〉を演じることになった。演劇の舞台なので、それがどういう場面で、役者としての自分がそこでどういうセリフを言うかというのは...