20260218

日記719

現実のみぎり

2026/02/17 昨日 7845
朝から出社。月例のミーティングで少人数グループディスカッションが行われる。現実だが嘘の内容をつらつらと述べ立てた。物怖じせずに内容のないことを言うことがいつの間にかできるようになっている。面接となるとまた話は変わってくるのかもしれないが、人に向かって自分のこと話すという意味では大同小異だろう。そろそろ転職でもするかな。転職期間という自由時間も欲しいことだし。仕事は相変わらず画面の前でめまいがしそうになるくらい忙しい。翌日からの3日間で休みをとるために締め切りが前倒されるから体感で倍忙しい。普段暇しているから、こうやってたまに忙しいと「どうしたどうした」と言って身体が起きてくる感覚がある。それ自体は感覚としてわるくないし、シンプルに生きてるって感じはするので、ワーカホリックの人が無反省にワーカホリックに陥る理由もわかるようになってきた。今は昔と違ってそれがわかったうえで、仕事のしすぎはしょうもない、非合理的で非経済的だと断じることができる。人のためとか言う前にもっと自分に焦点を当てろよ、誰かが出てくるのはそれから先だろうと。こういうことをいうと「子供がいるとそうは言ってられないんだ」と言われるかもしれない。でも違うだろうと言いたい。子供あっての自分ではなく、自分あっての子供だろう。親あっての自分ではなく、自分あっての親だろう。違うとは言わせない。そうすると今度は「もう自分のことで頭を悩ませるフェーズは終わったんだよ、その探求は終了しました」とか言われるかもしれない。そうなったらたしかにもう終了で、こっちから言えることがあるとすればあとはもう「じゃあ今誰が喋ってんだよ」しかない。肩書か? 社会的地位か? あまりにもくだらなくないか。頑張ってきたからね、マイクの音量はたしかに大きくなったのかもしれないね。でも、まじで真剣に、シリアスに「それでいくの?」
1時間強の残業でオフィスを出て原宿経由で帰宅。途中ハラカドに寄って、渋谷マブルスというアプリで貯めたポイントでチキンブリトーを食べる。平日夜のハラカド屋上エリアは空いていて開放感があり、すこし先に東京タワー、眼下には原宿のあの交差点とビューが良く、穴場中の穴場だった。東京には街のまん真ん中にポカっと空いた、まさに台風の目のように静かなエリアがある。だいたいが新しく、どの設備も申し分なくきれいなので、こういうのを見ずに東京は汚いということをイメージで語っている向きには、もっとコンクリートジャングルの探索に身を入れろと、何やってんだしっかりしろと、喝!を入れたい。CBDショップでオイルの試食をさせてもらう。前回2適であまり効果を感じなかったと嘘をついて(じつはうっすらだが”効果”を感じた)、スプーンに4適垂らしてもらった。リラックスした気分で帰宅。自分の場合、リラックス効果は道行く人の顔を1秒長く見られるようになるというかたちで現れる。
帰ってからは適当な動画をいくつか見て、寝る準備をしてからいつもより早くベッドに入る。寝付くのにすこし時間がかかったがそれでも23時過ぎには寝たと思う。


2026/02/18 今日 1842
7時半に起きる。公園にシュートを打ちに行こうかと思っていたが、それよりもスタバで日記を書くほうがいいだろうと思い直し、洗濯機械を回してから風呂に入る。準備を万端整えて、スタバに出かける。コヤイリ前で気持ちが昂っているからか、朝の時間で疲れがないからか、舌鋒が何割か増しで鋭いかもしれない。今日はバータリ、ランスルー、ミザンス調整だと聞いている。カミテ・シモテを始めとして演劇用語が語彙の中に入ってきた。あえてカタカナで言うのがかっこいいという変なところに入り込んでいるが、まあ飽きるまではそのスタンスでいこうと思う。今できないことが急にできるようにはならないし、できたとしてもそれはできることだっただけの話だ。シンプルにできることをやるだけだ。あとはやっぱり自分らしく。自分らしく、と意識する必要は普通に生活しているととくにないものだと思うが、空気が薄いところ、光が強いところ、磁場がおかしいところなど、普段行かない場所に足を踏み入れるにあたって、最終的な調整の指針として必要になるのは”自分らしくいること”なのだろう。そもそも自分がやりたいと思ったからやるわけで、誰かに何かを言われたからやるわけではない。自分がやりたいと思ったのはどういうことだったのか、その時思ったこと(軽い気持ち)、いま感じること(重力)、いま何を自分はやりたいのか。言い訳なんかはあとでいくらでも考えられるから、一旦いまにフォーカスしよう。11:05、11:06、11:07。集合時間は11時半だ。

2026/02/18 今日 つづき 10623
いまは19:43。場当たりの初日が終わってスタバにきた。気負いがそのまま裏返って、勢い込んだその勢いのままに空回った。緊張しているのか? との指摘。稽古場でやるすべての通し稽古で毎回律儀に緊張していたのだけど、これまでは緊張しているのかと言われたことはなく、つまりそういうメッセージをオブラートに包んだものだと理解しなければならない。相手を見てやるということが演技では重要だと、今回のWS第一回目でも、3年前に参加したプログラムのWSでもあれだけ言われてきたのに、それがスコンと抜けるのだからやりきれない。集中しようとしているのに、自分の演技プランを出そうとして相手を見れていないという指摘を受けたのは、緊張していたのもあるが、気負いすぎで固くなっていたということだろう。照明を当ててもらった状況で、床にテープが貼られていてそれがバミリと呼ばれ意識のうちに置いておく必要がある場所で、遠い壁、高い天井を持つ空間に声を届けるというタスクにフォーカスしたら、それ以外がすべて抜けたというような体たらく。いや、そこまで卑下する必要はない、セリフが抜けたわけではないし、いつ出ていくか、いつ袖に帰るかということはちゃんと覚えているのだから。それでも完ぺきに手と足が同時に出てしまったが。あとは唇を噛んだり、登場人物の心情とは関係ないところで(つまり緊張を緩和しようと)口が動いたり、というのをほとんど無意識でやってしまい、やってしまった瞬間にやってしまったと感じて、ちょっと遅いと悔しくなる感じがあった。身体感覚の違和感を払拭した状態で臨まないと、緊張や負荷で無意識が出てくるようなことがあればそのタイミングで違和感を解消するための行動が全部出てしまうと思っておいたほうがいい。演出でくれた言葉のうち、「その場と仲良くなっていきましょう」という言葉には自分のような緊張しやすいタイプにはたくさんの汲み取るべき内容がある。単純接触の回数および接地面を増やす意味合いで舞台の上の”歩数”を稼ごうと休憩時間なども舞台にいるよう心がけた。自分にとって必要と思われる自分用の行動は勝手にどんどん進めていくべきだ。緊張するのは止められないから、どうにかしてそれに対処するしかない。
そもそもこれまで自分は、相手に何かを伝えよう、伝わるように何かを言おうとする努力というか、そういう意識付けや習慣付けに背を向けて、背を向け続けて生活していたわけだから、舞台に立つからといって急にそういうことができるようになりたいと望むのは、虫のよすぎる話なんだと思う。それこそ付け焼き刃になるしかないし、相談された側も困るような、今さら何言ってるんだという話でもある。今回の場当たりのおかげでこれでは駄目だとつくづく感じた。これからはもっと伝えることに意識を持つぞ。ということもあって、翌日は集合時間よりも早めに入って練習に付き合ってほしいと相手役の俳優に楽屋前で伝えた。
こういうのも全部、自分の向きたいほうに引き寄せて喋りすぎている。もっと記号的に簡便に、的確な情報処理の観点で捉え直してもいい。「頑張る」というのを「頑張るというのはつまり、意識を集中させ身体のなかでエネルギーを増幅させてうんぬん」というふうに表現についての表現に凝る方向に進めるのではなく、「ボリュームを増やす」、いやそれだと何のボリュームという話になるのでもっと「気合い入れる」という、ほとんどあれ(思い出した、トートロジーだ)みたいな転換で捉えればいい。ようするにノリ、というような話だが、実際にそれが重要だ。こだわらずにテキパキ情報処理しろということで、必要に応じてそのモードに切り替えられるようにそのチャンネルを持っておこう、そのチャンネルを構成する番組を構築しようという話だ。それは俺が小説を書くことの阻害にはならない。それはそれでそのチャンネルがあるというのを自分が一番良く知っている。帯域が違うのでお互いに干渉しない。心配いらない。

20260216

日記718

目と目で見つめ合う


2026/02/12 四日前 8488
午前在宅。コンビニに出かけて新聞を買う。自分の口から発した言葉が新聞に掲載された記念として該当の朝刊を購入した。その後は仕事仕事になる。午後出社。忙しすぎるの一言。こんなに仕事するのは嫌だよという調整仕事があとからあとから降ってくる。残業になった。疲れたしそのまま帰宅しようかと思ったが、ただ仕事をしただけのあんまりな一日にするのも忍びないので、踏ん張ってスタバに行く。『失われた時を求めて』を読んだ。ソドムとゴモラ2-1に入ったところから面白さを感じられるようになってきた。声に近さを感じる。『八月の光』も読んだ。ジョーが義父に厳しくされるよりも義母に優しくされることを憎く思うところなど、不可解どころかそうだよなと感じられるように書かれてある。よく書けているなと思った。フォークナーを読むのは一作目だが、読み始めてからずっとよく書けているなと思い続けている。


2026/02/13 一昨昨日 12992
朝から出社。午後に在宅に切り替えようと思っていたのに、電話がかかってきてしょうもない話に付き合わされた挙げ句、対面打ち合わせを入れられる。聞いていて情けなくなるような言葉遣いでげんなりさせられたりして、しばしば絶句した。実際に何も発さずに黙っている時間が10秒ほど続くというのが複数回あり、向こうはこちらにこちらは向こうに呆れているというのを隠しようもないということがお互い伝わったように思うのだが、ひょっとすると向こうは発信するだけでこちらからのそれを受け取ってくれていないかもしれない。発信に余念がないというやつだ。
残業を30分ほどで切り上げて帰る。友人とタウンホールで集合して、演劇創作プログラムのチームAの公演を観に行った。開演前の数分のあいだ心拍数が90を超えていた。あそこに自分が立つことを想像しただけでこんなに身体にくるというのは、実際を迎えたときにどうなってしまうのか……。始まってからもしばらくガチガチだった。しかししばらく見ているうちに公演の内容と演者のパワーに元気をもらって、気づけば緊張を忘れていた。3年前の共演者にかるく挨拶してからホールを出る。友人と池ノ上まで歩き飲みする。上京最初のアパート跡にはリッチマンの住む一軒家が建っている。とはいえ場所そのものがなくなるわけではないので旧アパート前、現モダンハウス前で記念撮影してもらう。その後、バーミヤンで食事がてら飲み足し、一旦帰宅して友人に借りていたDVDを返却。駅まで送って帰宅する。なんだかんだで夜更かしになり1時すぎに就寝。


2026/02/14 一昨日 9463
13時から稽古。気持ちを落ち着けながらゆっくり準備していたら思っていたより早く時間が過ぎていって、遅刻しそうになった(5分遅刻した)。ただ、盛大に遅刻する大御所俳優もいたりして、5分程度で目を白黒させる自分との格の違いを見せつけられた。この日の通し稽古も、袖から見る皆の演技にただただ感動させられて、最高の”LIVE”だった。SS木の声がたぶんツボで、自分でもちょっとどうかと思うぐらい感動してしまう。SMAPのゴタゴタのことを思うとちょうどいいエグ味が出てきたオンリーワンのあの歌にしても「これが正解のひとつだ」というメッセージとの絶妙な重ね合わせがある。脳の涙を司る部署が常軌を逸した実権を握っている我が神経系だが、それにしても司令官はボタンを強く押しすぎている。しかも連打してくるから困る。STキの急成長も自分(?)としては見逃せない。本当にすごいと思う。頭が下がるし誇らしい。MRンの声が、駄目押しの上にさらに駄目を押すあのリフレインが、彼女の言う”感じ”を胸に直通させてくる。この作品は個人的に面白いと思うし、一般的に言うところの好感が持てる作品だとも思う。自分がすこしでも良くなることで、この作品が良くなる、作品の持つ質感に貢献できる立場にいられるというのは、まさに望外の喜びだ。正直、めっちゃこわいけどね。
稽古終わりに酒を飲んで帰ろうかと思ったが、ここが大事だという気がしたのでスタバに寄って『八月の光』を読む。相変わらず読ませる文章なんだが、稽古で得た”感じ”を反芻する場になった。気がつけば稽古のことを思い出したりして読書が進まなかったりしたので。ただスタバを出てからの帰り道は結局酒を飲んで歩いた。


2026/02/15 昨日 13976
14時から自主練習。Vを連れて行って相手役の代役にたってもらう。Vにとっても初めてのおでかけになった。演出助手のビーンさんに発声のアドバイスをしてもらう。通らない声をなんとか通そうとするのは最初からわかっていた自分の課題なので、このタイミングでそこに手を貸してくれてありがたいと思った。私のような真っ白なシロウトを前に、ただでさえ考えることが多い為事なのに、伝えるタイミングとか、何を伝えて何を伝えないでおくか(あとに回すか)とか、おそらく普段よりもさらに考えてくれていて、通常であれば自分なんか本当に1ミリも頭が上がらないはずなのだが、毎回「どうもー」ぐらいの軽い会釈で済ませている。ただ恐縮していてもせっかく推進させてくれようとしている心意気に水を差すだけになるので、アホのふりをして差し出されたものを無遠慮に受け取っているつもり、アホのふりをしているつもりだ。……つもりなのだが、これを当たり前にするとアホ以下になるので、ウラカン(裏感謝)を忘れないようにしたい。それは作演出担当のNしまさんにもまったく同じことがいえるわけだが。んむあぁぁぁぁー、と言って空間の床全体からむこうの壁まで舐めるつもりで空気を震わせる発声のアップを教えてもらったので、突然そういうことを始める。人が集まってくると恥ずかしさが幅を利かせて控えめになっていってしまったが、急にでかい声ではなく、徐々にでかい声という「発声練習しているんだな」というのが伝わりやすいアップの方法なので自分のようなタイプにもなんとかギリできたりできなかったりするちょうどのアップだと思っている。人がいるタイミングでも何回かチャレンジした。このとき最初のほうにやったアップで、””喉が開く”という感覚を初めて得たかもしれない。ぐらいのちがいがあった。
稽古が一回一回終わっていってしまうのがさみしい。自分には舞台の上に会いたい人がいて、舞台の上ではまだその人に会える。それが嬉しいんだという気持ちが本物みたいになってきている。だからあらたに出てきたさみしいというのも嬉しい気持ちと同じぐらい本物で、もともと持っていたものと合わせて、本物のさみしいがふたつある状況になっている。そう考えると不思議だ。ただまあ小説を読んでいたらよくあるといえばよくあることか……。向こうではなくここにあるというのが不思議ということなのだろうか。
表に出ている人に言及するのに仮名を使う必要はないのではないかと一瞬思ったが、よく考えたらこれ(日記)は自分の現実にそれなりに近接しているフィクションだというのが私の見解だったというのを思い出したので、これはこれでよいということにする。Vをボストンバックに入れていたのでまっすぐ帰る。酒を飲みながらにはなったが。


2026/02/16 今日 9172
午前在宅。あれもこれもと片付けているうちにすぐ昼すぎになる。準備をして最後の稽古に出かける。松屋でキムチカルビの定食を食べた。見学者ありのなかで最後の通し稽古をする。自分から見れば皆スムーズに進められていてよかった、という感想だったのだが、プロの演出家の目はさすがにすごいと思った。自分がテンポの良さと見たものは、テンポの良さではなく、かかりすぎ走りすぎということらしく、たしかに何度も見ているから分かるのであって初めて見る人には分からない(分かりにくい)箇所があるというのはたしかにそうかもしれないと思った。また、相手が何を言うか知っている受け答えになったらマズいというのはその通りだと思う。自分は舞台からはける移動のときに気を抜いてOFFになったところがあったという指摘を受けた。まったくの無自覚で無意識だったので、そうなったときに素の自分が出るのではなく、役の自分が出るような状態に持っていけるようにしたい。……というのは挑戦しようとすることにかこつけた体裁の良い言い繕いだ。自分のセリフ・アクションが終わったと思って気を抜いたのがはっきり見えるほど気を抜いたということが、ある程度時間が経ってだんだん恥ずかしくなってきた。それが恥ずかしいことだという感覚はある。恥ずかしい。
この日は酒を飲まないで吉野家の牛丼を食べてまっすぐ帰る。スタバに行こうかと思ったが、雨が振り始める予報だったので家で日記を書くことにした。22時半過ぎに書き終わり、寝る準備をして寝る。

20260211

日記717

歩一歩

2026/02/07 四日前 8274
演劇稽古前にバビシャーでチーズナンを食べる。集中しよう集中しようと考えて閉じている気がする。もっと相手に向かって開かないととは思うのだがそのやり方がわからない。集中しているからなのか主観的な感触はわるくないからよけい性質がわるいのかもしれない。とりつく島もないのではないか。比較的短くて少ないセリフを完ぺきにおぼえるところからその先、その先で何ができるかというのが演技力うんぬんなのだろうと思う。自分は言うべき言葉を介した感情表現がうすいなとつくづく感じる。
20時半ごろ帰宅したら誕生日の前夜祭ということで家人が鯖のパエリアと豚肉の蒸しを用意してくれていて、ありがたくいただく。美味くて一気に全部食べてしまった。


2026/02/08 一昨昨日 12740
朝リビングで寒がっていると家人が見かねて暖かいサンダルをプレゼントしてくれた。サンダルのほかにはドラムスティックと練習用叩き台もプレゼントしてくれて早速ドチタチドチタチの練習を始めた。脳が全然追いつかない感覚、首の後ろ側に頭が置いていかれる感覚を得た。しかし考えようによってはこれが伸び代ということになる。
録音になったセリフのレコーディングをするために早めに稽古場のスタジオに入る。マイクの前でセリフを発することの難しさをただただ浴びるだけの不満足なレコーディングになってしまった。自分に満足な力があるとは思わないが、とにかく緊張していて自分の硬い声が吹き込まれただけに終わり不本意だった。心の準備ふくめきちんと準備していかなかった自分がわるい。場慣れするための場だとか言ってる場合ではないのにどれだけ好意的に解釈しようとしても経験を得た以外に収穫はなかった。ショックを引きずったままこの日の稽古が終わってしまった。仲間のひとりが誕生日だと言うのをおぼえていてくれて生菓子をプレゼントしてくれた。まずその気持ちが嬉しいし、セブンで買えるスイーツの中でもたいそう美味しい部類に入る。
一度帰って荷物を置いたあとかりべ亭に出かける。翌日に初シェラスコが控えているので肉ではなく魚をメインで注文した。徒歩でこの満足にアクセスできるのはイカすという話をした。料理屋に関しては経験に開きがあるからはっきりした同意は得られていなかったかもしれない。

2026/02/09 一昨日 20344
朝から雑司が谷まで出かけてKの墓を参る。おそらくは文学好きのGが墓の上で眠っていた。親近感が湧くものなのか、場所柄なのか、自分にしてはめずらしいことにつよい嫌悪感を抱かなかった。目標に向かって積み重ねることについて誓いを立てた。おそろしいのは去年も同じことを思っていながら進捗が一切たいということで、ただ年齢的にももう「待ったなし」という状況を確認して誓いというつよい表現を使うようにしている。副都心線で原宿に引き返し、表参道まで散歩がてら歩いて移動する。アップルストアでiPhone17proのカメラを見たが、Xperiaよりも使い勝手が良さそうな感触だった。
今日のメインイベントのひとつ、初シェラスコでバルバッコアに。肉をたくさん食べたい目論見で豊かなサラダビュッフェの野菜を一切れずつしか皿に乗せない戦略をとったのだが、そんな小細工をしたのにもかかわらず、あえなくお腹いっぱいになった。胃袋の満足ではなく心の満足を取ること、食べる肉を厳選し、その肉を2,3切れ単位で皿に運んでもらうこと、これが肝心だという学びになった。しかし食事においてこんな満足があり得るのかという満足があった。その存在も知らなかった身にはたいそうありがたいことだ。お腹いっぱいで下北に戻る。家人の役所手続きに付き添いをして区民センターと警察署をはしごする。帰りには羽根木公園を通って梅まつりの様子見をした。
帰ってからブルージャイアントシュプリームを読んで、暗くなってから新代田まで夜の散歩をする。下北沢一番街まで回ってきて、バーミヤンのほうのローソンまで歩くコース。待った待ったでここまできたけどついに待ったなしですという話をした。目標を立てる。


2026/02/10 昨日 18521
朝から出社。昼から在宅。夕方からバスケで狛江に出かける。あたらしいバッシュをおろした。若草色が気に入っていて履くだけでテンションが上がるのでその強みが機能面を凌駕する。

2026/02/11 今日 5247
一日家にいてブルージャイアントシュプリームを全巻読む。ドラムの練習。夕方から高円寺のバスケに出かける。

20260206

日記716

投げるからには

2026/02/05 昨日 13328
20時にはスタバを出て酒を飲まずに帰宅する。16時という遅い時間に昼ご飯を食べていたのでサッポロ一番塩だけで済ませてすぐに寝る。


2026/02/06 今日 7153
朝から出社。タスクが多い。追われるようにして13時まで働く。一区切り付けたので在宅に切り替える。豚とんでカレー味の小らーめんを食べるがいつもの味のほうが美味しい。帰宅して30分だけ昼寝する。そこからタスク消化のため画面の前にもどり、しこしこ働く。1時間半弱の残業になった。
もうすぐ39歳になる。楽しい時間はそれなりに多いし、労働時間中にも嫌な時間はほとんどない。週に2回ほどのペースでバスケットボールをしていて毎日8時間ぐらい寝れているから心身ともに調子がいい。読むべき本を読む時間、日記を書く時間はバスケをしていない日に限られるが、2時間から3時間ほどある。酒を飲む頻度は週7日から週2日ぐらいにまでに落ち着いた。毎日飲んでいた頃には考えられなかったことだが、酒を飲まない週も当たり前のようにある。
こういう何不足ない生活を送っていると、何でもできるという気分になってくる。だから実際、演劇にも挑戦することになって、もうすぐ本番を迎える。
しかし、自分には為事(しごと)がない。為事というのはいわゆる仕事ではなく、為にする事という文字通りの意味で、自分の為にする事だ。社会の一員として、つまり社会人として生活したいという欲求が自分にはうすいので、仕事に対する移入もほとんどない。まだバスケットボールや演劇のほうが力を込めてやれる。しかしそれにしても一生懸命やるということにはならない。誰かを押しのけてでもこのゴールを決めたい・止めたい、勝ちたいとは思えないし、誰かとぶつかってまで自分の演技を貫きたい、自分の動きに周囲を巻き込みたいという願望もない。集中力など各種自分の力を発揮するための適当な場が与えられてありがたいという気持ちはあるが、サイコロを振る、先読みしてアクションするという以外にもいろんな能力が必要になるボードゲームを遊んでいるような気分で、半ば自分の力を試しながら、半ば自分にできることを恃みに思いながら、おしゃべりしつつアイコンタクトしつつ、たわむれに盤面を進めているにすぎない。もし振り出しに戻るというマスに止まったら、歯を食いしばってもう一度やり直すということは多分しないで、躊躇なくべつの遊びに移行するだろう。音楽演奏や詩吟、ピックルボールなど、すでにその候補もいくつかある。自分は仕事の時間を支出しつつ、やりたいことをして自由に遊んでいるいい身分だ。遊ぶことはあまりに楽しいので、その自由を購うための仕事をも含め、どうも手放す気になれない。嫌なことが多かった仕事を経験していることも、いまの居心地の良さを失いたくないという気持ちに拍車をかけている。
ただ、時間は有限で、自由に使える自分の力を発揮できる時間、その力が今ある量だけ継続して使える時間はさらに限られている。自分にとって今こそがゴールデンタイムだという意識はある。その時間をどう使うかを自分は真剣に考えなければならないなとも思っている。遊ぶために使うのもひとつの手だ。負担にならない仕事をして遊ぶ時間を確保し、みなぎる気力や体力をふんだんに使って生活するなかでそのとき目の前に流れてきた綿毛を掴むという生き方。今何かを選ぶということをしないとするなら、自分はそうやって生きることになるだろう。「あそんでいきよう」というのは個人としての人間がたどり着ける最高の価値観だから。
あるいは、為事をして生きていくというアイデアがある。とにかくがむしゃらに一生懸命生きるということだ。自分は自分自身が何かを犠牲にするような生活をのぞまないが、それでも、自分で「一生懸命やる」を選ぶという条件であれば、自分にもできるのではないかと思っている。他人が言ったりやったりしていることに対して「それは違う・間違っている」と感じる狭い領域が自分にもある。そういうときはスコープが下手に伸びているだけで、ただ狭い了見にすぎないのかもしれないが、その違和感をバネにして高く飛べそうだという直感が働く。相手が間違っていて自分が正しいというのではないが、自分が正しいというのはある。相手の間違いのおかげで自分が正しいと思う線が見える。だからまずはその線を引きたい。それはまたいつかの自分にとっての相手になって、その間違いはいつかの自分の目に正しいと思う線が見える補助にもなるだろう。しかし重要なのはいつかではなく今だ。だからまずは線を引きたい。今から一本でも多く線を引きたい。それが自分の為事だという気がしている。いびつなことは気にしないでもいいが、いびつであろうとするのは違う。それ以外はまだ何もわかっていない。たぶんこれからわかっていくことなのだろう。始点だけを意識して引き始めるのがいいのか終点を決めて始めるべきなのか、線と線との接続は、重ね合わせは、統合は、どういうかたちでなされるべきなのか。ある程度は線に任せるのがいいのか、そうだとしてそれはどの程度か。
スタバに出かけて考え事をする。どうすればいいか、どうしようかと考える余地があるというのは恵まれていると思うし、考える余地があるかないか選べるなら断然前者を選ぶのだけど、それはそれとして、実際、どうしようか。とりあえず書け、でしかないのだが、そんなことを言っていても仕方ない。賢犬を流すつもりはないが、賢犬が立とうとしない以上、賢犬が飛び出てきた日のように、何かを見つけるためにふらふらする時間を作らなければならない。いつかはいつか(賢犬)、今は今。さて。

20260205

日記715

リメンバー・ミー

2026/02/04 昨日 7558
20時前にスタバを出てすこし外で飲み、ダイエーでサバ味噌缶(はごろもフーズ)と納豆、家人が食べる用の納豆巻きを買って帰る。M1関連の動画がリリースされたので目ぼしいものをいくつか見る。翌日は朝早いので早めに寝る。


2026/02/05 今日 11563
奈良の実家付近にいて近鉄奈良駅から家まで帰ろうとする途中でクマが出たという騒ぎが持ち上がる。やすらぎの道の郵便局のあたりでクマが出る予兆(熊の子)を見つけたその矢先だった。大きな叫び声が上がり、そちらを見ると三条通りのほうに大きなクマが出現していた。大慌てで神社のほうの路地に逃げ込む。その道の先に入ったことのないお堂があり、緊急事態だからということで勝手に門を開けて中に入った。建物の中は外から見たよりかなり広く、電気がつかずに暗いし、迷路のようになっていたこともあり、なかなか向こう側へ抜けられない。苦労してやっと向こう側へ着いたと思ったらぐるっと回っただけだった。案内の小坊主が慌てる我々を見てニヤッと笑ったので敵側の手先かと疑った。ニュースでは街に出たクマは一頭ではなく、クマ軍ともいえる集団で襲ってきていると報じていて、何らかの大きな力が働いていることを思わせた。その後なんだかんだあったあげく急襲を受け絶体絶命になったのだが、都合よくヒーロー視点に切り替わってアトラクション的にクマ退治をする夢に切り替わった。都合の良い夢だと思い緊張感ががくっと下がるのを感じた。突き詰めて考えると絶体絶命のタイミングですでにゲームは終わっていて、愉快な偽記憶を植え付けられているようにも受け取れそうだったので突き詰めて考えるということはするまいと、あえてアトラクションを楽しんだ。急流滑りのようなスプラッシュ系のアトラクションもあって、楽しもうとする分にはなかなか楽しめた。
遅刻したくないのできっぱり目覚めることにして早々に家を出る。時間きっかりより2本早い電車に乗って有楽町経由で新豊洲まで。この日は最終出社日の人に同席しての立ち合いだった。今と比べると社会全体にコンプライアンス的な意識がほぼないような厳しい時代を生き抜いてきた人なので、おとなしい印象のなかにも硬い芯があるように感じられるのだが、物腰がやわらかで丁寧にコミュニケーションしてくれていた。あまり接点がないまま過ごしてきたが、引き継ぎをすることになって一気にやり取りが増え、そのなかで好感を持つようになった。仕事のことについてはとくに言うことはないので「お元気で」とだけ言おうと身構えていて、午後からの仕事でべつの現場に移動するタイミングで最後のあいさつとしてそのことを伝えられたので良かった。ごくシンプルに元気でやってほしい。
大手町に移動してからの仕事は悲惨な状況で、ほとんど何もわからないまま先方の質問を受けては確認しますということを小一時間のあいだずっと繰り返し、目ぼしい成果も挙げられないまま時間切れで解散になるという体たらくだった。大の大人4人に囲まれて、仕事上は質問をしなければならないが、ひとりの人間としてはこの人に追及するのは忍びないという優しい視線を感じて、世の中捨てたもんじゃないなと、すこしホッとさせられた。わからないことはわからないと言うしかない、わからないというのが俺の仕事だ、と割り切って伝えることはできた。最低限の仕事だが最低限の仕事は果たした。
這々の体で帰路につく。ろくにご飯を食べる時間もなかったので帰宅してすぐ冷食チャーハンを食べる。タスクは溜まっているがとりあえず明日に回し、定時で退勤。
デザインと色だけで決めたニューバッシュが到着していた。この日はバスケに行くつもりでいたのだが、足の疲労が抜けていないので行かないことに考え直す。新しいバッシュを履く日には良い感触を得たい。感触がわるいなかでシュートを打っても全体の成功率が下がる練習になってしまうというのもある。これからは毎回の質というかコンディションも調整していかなければならない。というわけでスタバに行き『失われた時を求めて』を読む。ソドムと植物の交接について。人の欲望についてはあまり関心を持てない。人のファッションについても同様だ。自分というものを切り離してそれらを考えることの意味がわからない。意味というかやり方というか。

20260204

日記714

最もオクロック

2026/02/01 一昨昨日 8545
タウンホールのスカイラウンジみたいな眺めの良い部屋で稽古をした。出演場面となる公園を具体的に想像するなかで、幼稚園から小学校まで遊び倒したマンション前の公園を記憶に呼び出した。集中力を高めようとするなかで、肝心のコミュニケートするべき相手役を無視するかたちになってしまい、きれいに本末転倒していて我ながら可笑しくなった。集中しすぎなのかテンパりもエスカレートし、スローモーションで走る場面で手と足がいっしょに出るという面白を演じてしまった。稽古の途中で新宿方面のビルから黒煙があがるのを発見する。火事だった。
自分がやりやすいように、マイペースを崩さないようにとラクな体勢をとろうとして、周囲の援助もあってその通りできているのだが、自分がやりやすいということはその分誰かが居心地わるくなっているということでもあるという一般論があるので、どこに対してそうすればいいのかわからないがもうすこし気を遣うようにしようと思わないでもない。しかし残念ながらこれからは思うような余裕もなくなっていくことだろう。家に帰ったらカレーとその作者が待っていた。我が家はジャワカレーにテーブルスパイスを足したカレー。美味かったのでたくさん食べてお腹いっぱいになりすぎた。それで睡眠の質が落ちる。等価交換、ということでいいのか。


2026/02/02 一昨日 9292
朝から出社。午後から在宅。スタバに行って日記の代わりに演劇経験についての文章を書く。原液感がつよい。もっと散らせるかあるいはもっと突き詰めるか、どちらでもいいがどちらかに方向づけないとどうにもならない。テンションがあがったときに、思ったことを棒大にする作業に集中してしまう。それはそれで楽しいのだが、あとに続くものがないということになってしまう。この日も書くだけ書いて帰り道に酒を飲むという発散になった。ところで坂本慎太郎の『ヤッホー』は良い。楽しくなったし、将来もこれを聞いて楽しくなるだろうことが想像のうちにやってきた。やまびこのように。


2026/02/03 昨日 21870
一日在宅勤務。こういうとき休みが全面に出てほしいのに、たくさん働かされた。無駄な依頼も多い。無視すると倍になる感じなのでいい加減に付き合っている。最小限に抑えられている手応えはあるのだが、それでも面倒だ。鷺ノ宮までバスケに出かける。西武新宿駅に行く途中スポーツショップでバッシュを試着。感触がわるくなかったのでそのままネットで購入した。今回はデザイン重視で選んだ。履いていてアガるというのが機能面を補ってあまりあるという判断だ。たぶん機能はどれもそれなりに高いのだろうし。鷺ノ宮は急行が止まるとは思えないほど、駅前なのにうらぶれた雰囲気で、中学校にむかう道も暗くて寂しいのだが、体育館はかなりきれいだった。参加人数が少ないこともあって出ずっぱりになりだいぶ疲れたのだが、みな上手くて当たりは優しいという最高の環境だったこともあってだいぶ楽しかった。
くたくたになりながら高田馬場乗り換えルートで帰る。家人に駅まで迎えに出てもらい、まいばすけっとで恵方巻ほかを買って帰宅。Vは先に寝てしまっていたが、今年も節分の儀式をした。


2026/02/04 今日 5242
午前在宅、午後から出社。一日働き詰めで疲れた。しかし睡眠時間の確保したことでまあ前向きにタスクをこなし、背負わされた荷物をひとまず置くこともでき、終業後には達成感があった。渋谷経由で下北まで戻りスタバに行く。『失われた時を求めて』ソドムとゴモラ、『八月の光』を読んでから日記を書く。20時前にはスタバを出て飲酒しながら帰るつもり。また『ヤッホー』を聞くだろう。

20260202

死後の世界にいる「私」を演じるということ

演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をしている。

私には娘がおらず、配偶者と離婚してもいないのだが、〈離婚して自由に娘に会わせてもらえない父親〉を演じることになった。演劇の舞台なので、それがどういう場面で、役者としての自分がそこでどういうセリフを言うかというのは決まっている。作・演出のNさんは演じること全体について説明してくれたことがある。それは間違いなく彼の演出のなかでもとくに優れた内容だった。いわば基本のキであり、そのために訳知り顔の評論家気取りの連中にも簡単に引用されそうな内容なのだが、それでもその重要性は揺るぎないものとして感じられる。それはつまり、彼の演出によってそのアイデアが自分のなかで揺るぎないものとして感じられるようになったということだ。とにかく不安を感じがちになる役者に対して、信じるべき灯台の光となるようなことをはっきり言えるということ。それは数ある演出家の資質のなかでももっともポジティブな要素のものだと思う。前置きが長くなったが、彼が何度となく言ったのは次のことだ。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」


私は他人がどう考えるかということについては感じるままに想像する以上のことをほとんどしておらず、どうせ大したことではないのだろうから、いちいち取り上げるほどのことはないと高を括っている。他人がどう考えるかということに対して真剣に併走するのは大変なコストがかかるということを自分に照らして知っているので、そのコストを支払おうという気にはなれない。真剣に考えを尽くしたとしても「そこじゃない」という見当違いが起きるというのも全然めずらしくなくむしろ往々にしてあることで、それも自分に照らして知っていることだ。だから、自分はどう考えるかということにフォーカスして、他人のこと、他人の考えることについてはある程度までと線引きしおろそかにしてきた。そういうわけで「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」というのを実践しようとしてまず苦しんだのは、登場人物がなぜそんな事態に陥ったのかというところを〈この私〉につなげる部分だ。私が演じる〈その私〉は、何かがどうにかなり、どうにかなった先でいろいろなことを取捨選択した結果、その立場に位置するようになっているわけだから、それを私にも納得できるようなかたちに成形する必要がある。のっぴきならない事情が重なって、出た目が思わしくなく、疲労が重なった挙げ句、追いやられた先で破壊的な結婚をすることになり、娘を愛していながら自由に会えないという厳しい状況に陥ったのかもしれない。これを真剣に想像することは簡単ではない。しかしそういう人は実際にいるというところから、それをヒントにして自分と接続する回路を、遠回りにでも、か細い線になってでも、つなげようとすることはできる。それに彼は彼で、この私と同じように自分の状況を顧みたとき「陥った」というふうには自分のことを考えないかもしれない。

いずれにしても、この私への接続については「できる」という思い込みを発揮するだけのことにすぎず、結局のところ、いい加減な想像の域を出ない。「普通こうでしょ」という、いい加減で許容しがたい他人の意見と似たものになる。しかしそれは怠惰が鍵なので、他人の考え一般について自分が使っているのと同じ鍵で開けられる。まあ大体こんなもんという大まかな切り取り方で必要十分ということだ。むしろそこから逸脱すると、他人からは容易に認めることができないゾーンに突入してしまうだろう(じつは私はそこへ行きたいのだが、今回の演劇では一旦保留としている)。だから結局、怠惰な想像力で「まあだいたいそんなところ」となる範囲内で調整するのが自分の仕事ということになる。それでも、普段使っていない筋肉を使うときのように身体の動かし方のバリエーションにはなるので、この私にとってもエクササイズ的な良い効果が期待できると思っている。

ところで、より面白いと自分に感じられる仕事は、死後の世界(あるいは生前の世界)にいる場面を演じるということだ。私は死後の世界というものを一切信じておらず、人がそれを信じることも馬鹿らしいと考える点で、他人からは「死後の世界がないことを信じている」よう映る姿勢をとっている。
だから「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」とき、死後の世界にいる自分のことを想像するわけだが、その自分のなかでどういうことが起こるかといえば、自分が信じていない世界のなかにどういうわけか入り込んで、そこでまごまごするというよくわからない事態だ。たとえば「現実」というのは信じる信じない以前にもう現実としてそこにあるものだから、前提としての”オフにできない機能”が元々そなわっていて、それをオフにして考えること全般がナンセンスだと思い込ませるたぐいの要素を備えている。私は疑おうと思えばそのことを疑うこともできる。つまり現実の現実性について虚偽だと暴き立てるような態度をとったり、それをフルシカトして自分の思う通りまっすぐ進むということをあえてしたりもできる。私は私次第ではそうすることもできると知っているが、同時に(ほぼ次のページには)そうしないということも明らかに知っている。死後の世界にいる自分を演じるというのはどういうことなのか。自分が演じる死後の世界というのはどういう場所なのか。自分の視点からはその場所のことはまったくわからないのだが、現実の持つ現実性という奇妙な図式を反転させたときのような奇妙さがその場所には漂う。また、外形的な強制力(今回の場合は演劇の舞台)によって、自分が自分の想像の外に置かれるということも起こる。「自分の外にある」という状態は、自分機能におけるコア部分の機能不全にほかならず、自分にとって許容範囲を超えることになるのだが、そのこと自体が次のように想像してみることをトリガーに発生している。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」

私は死後の世界というものを信じていない。そんな私が死後の世界にいる私を演じることができるのだから、これを僥倖と言わずして何を僥倖と言うのか。私は演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をする。蓋し僥倖である。

日記719

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