20251205

日記686

変わらなく見える

2025/12/04 昨日 7401
21時すぎにスタバを出る。ダイエーで焼きそば作成セットを購入し、寒さに震えながら帰宅。焼きそばを作成して食す。食事時間を空き時間の扱いにしてオモコロの動画を見ながら焼きそばを食べる。たほいやの亜種という回を見た。恐山の作成した4択がよく出来すぎていておののいたのだが、その後の即興ショートタイム版を見て安心した。準備9割というのは傍目から才能あると思われる人間にも適用されるということを動画にして見せていた。このあたりのサービス精神がオモコロの動画がほかと違うところなのかもしれない。今回みた動画も工夫されているし企画優位なので面白くないわけはないが、とても面白いというものではないので、必然的に視聴時間は自分のなかでは「空き時間」ということになってしまう。そんな時間は短いほどいいということで22時半にはベッドに入って翌日に備える。


2025/12/05 今日 5638
朝起きてベッドから出ようとすると衝撃的な寒さで、寝室なのに外かと思った。たくさんの夢を見たはずなのだが、ベッドから身を引き剥がすための努力と引き換えにそれらの記憶が消えていった。残念なことだがそのおかげもあって朝から出社に成功する。昨日リスケになった定例のミーティングに出席し、急遽開催された打ち合わせにも出て右からきたタスクを左に受け流したりなどしているうちにあっという間に正午を過ぎる。午後からは在宅勤務にすることを決めていたのでクロークからコートを取って颯爽とエレベーターに乗る。行き帰りの電車では月曜日の狛江バスケで撮っていた動画を見る。この日のバスケは自分のなかでは不本意なプレーが多い印象だったのでさぞ散々な様子だろうと覚悟して見たのだが、映っていたのは自分的に好調なときとあまり区別がつかないプレーの数々だった。コート上で一喜一憂するのは止めてもいいかもしれない。止めるとそれはそれでつまらないので憂いのほうを抑えめにしようと思った。動画に映っていた風神といつもエレガントなプレーヤーのふたりは動画内でもひときわ目を引く存在で、自分の目に狂いはないということがはっきりわかった。その目で自分のプレー動画を見てそこまでわるくないと思えたのは助かる。「ナイッシュー」などの発声部分でもっと相手に届かせる意識をもったほうがいいと思った。まあまあ大きい声の独り言のように言っているのだが、まあまあ大きい声なのにちゃんと独り言のように聞こえる。まるで、あまりにも人見知りの人みたいだ。自分が動いているときには自分のいいプレーもわるいプレーも主観的にはめっちゃいいプレーだったりめっちゃわるいプレーだったりに感じられる。このブーストは人のプレーを見ているだけでは得られない、自分自身がプレーするときの醍醐味にはちがいない。それが得たくてバスケをやっているのは確実だろうと思う。神経にこれしかないというやり方で電気を通す営みとしてバスケはもうすこし続けていきたいが、もっと電気を通してもっと神経を図太くしていきたいという気分がある。
昼ご飯にはもやしを炒めて焼きそばを作って食べた。在宅勤務なのにろくろく休めず定時まで働き詰めになる。ただBGMにGROOVEの効いた音楽をかけられたので一応在宅の甲斐はあった。スタバではなくブルックリンにいく。『失われた時を求めて』の岩波文庫6巻ゲルマントのほうを借りる。それを50ページちょっとまで読み進め、ファウスト下を読む。『失われた時を求めて』を読むと慰安がある。プルーストの人物描写には知性をもとめる渇きが癒やされるようなミネラルウォーター的うるおいの要素がある。

20251204

日記685

縦横斜めの交通

2025/12/03 昨日 8111
スタバを出たあと、ダイエーで家人に40%OFFになったサラダ助六寿司とビール(GOOD ALE)を、自分のために日清の完全メシ(ハヤシライス味)と翌朝に食べる用に40%OFFチーズパンを買って帰る。寒さが一段厳しくなっていて震えながら歩いた。
帰宅後33のやつを見る。Vが小声で「寝れない……」と寝言を言ったのであわててテレビの音量を下げる。早めに寝て明日は朝から出社しようという算段で22時半すぎにはベッドに入る。


2025/12/04 今日 5743
知らない人から「何を探しているんですか」と訊かれて戸惑いを覚えた。すこし考えた末「断琴の友です」と答えたのだが、正直な回答だったと思う。それについて知らない人からの返事はなかった。鸚鵡返しに訊いてみた礼儀上の質問に対しては、それはそれで正直といえる回答があった。感じることしかしない人のいうことはつまらない。
7時半にかけた目覚ましで起きたが全然起きる気にならず結局8時半すぎまで二度寝してしまう。午前中にストレッチ、体幹トレーニング、ペダル回しを小一時間やる。昼ご飯には冷食のチャーハンをフライパンで温め、卵を落としたたまごチャーハンを食べる。
午後から出社するつもりで出かける準備を完成させたのだが、予定されていた定例のミーティングが急遽中止になったので出かける必要がなくなり、そのまま在宅勤務を継続し結局一日在宅勤務になる。出社してやろうと思ってそのまま積んでいたタスクを在宅デスクでこなすうちに普通に定時になる。帰りの満員電車をスキップできるしすぐにスタバに行けるので、やはりきっちり働くにしても在宅ワークはいいものだ。
本格的な寒さに震えながらもいつもとはちがう道で商店街のほうを抜けてスタバに行く。月が大きく明るく出ていて見応えがあった。『理由と人格』の15章を読む。これで「III 人格の同一性」は終わり、次回から「IV 未来の世代」に入る。改訂された自己利益説を倒せる気配も見えないが、果たしてパーフィットはこのあと首尾よく自己利益説をやっつけることはできるのだろうか。率直な感想としては、これまでの論の進行を見るにはなはだ心もとないと思っている。『イタリア民話集 上』のイタロ・カルヴィーノのあとがきを読む。方言とかあってどう訳出するか苦労したという話と、これらの民話に見られる「問題を回避せず現実に立ち向かう姿勢」はすぐれて文学的だという話が主だった。最近字を追いかけるときに集中を欠いておりきちんと読めていないかもしれない。
『理由と人格』を読むときにも結構そんな感じなので、文句をいう資格がなさそうだと思ってしまっている。しかしパーフィットが反論として考えられそうな言い分を自分で拾い上げつつ、「それについては無視する」と宣言するやり方は、ただ黙殺するのにくらべて正々堂々としているように見える。無視すると宣言するのは完全無視を決め込むのとは性質が異なるからだ。しかし実際無視しているし、結局それをもってエクスキューズを立てたということになるのであれば、堂々としている風の卑怯ということもいえるので、そのやり方については今はまだ判断保留としておく。無視するといって一旦通り過ぎたものに対して適したタイミングで振り返り言及するかもしれないからだ。問題は自分がそれを覚えていられるかどうかというところにある。再読したり吟味しながら味読しようという気は全然起きないし、困ったものだ。こうなると分量の多さというのはそれだけで論を補強するところがあると考えて間違いではない。これは半分皮肉だがもう半分は実感としてある。

20251203

日記684

完成に向けて

2025/12/02 昨日 5689
21時ぐらいにスタバを出てセブンのチリチキンサンドとバタースコッチを買って帰る。前者は晩ご飯、後者は翌朝の朝ご飯。
33のやつを見てから23時半ごろに寝る。つもりがうまく寝付けず0時過ぎになった。


2025/12/03 今日 6258
睡眠時間確保の関係で午前は在宅勤務にする。7時半に起きて二度寝をしたため、この日も多量の夢を見たのだが全部忘れてしまった。
『理由と人格』の14章を読む。自己利益説に関するうまい反論をしてくれるとのことだったが納得できず。とくに「想像のケースではすでにこういう結論になっているから」と論を進めるのには驚かされた。パーフィットが自分で作った論だから正しいと言っているようにしかみえない。近視眼的なものの見方について自分の分はよくて他は許されないとするのははっきり言ってまだしもで、視点を固定すると言っておきながら、ただ首を動かさないよう注意するだけで載っているゴンドラが上下動していて適宜近視眼的になったり俯瞰したり、視点の恣意的な移動が随時起こっているように感じられた。
昼から出社。下北からの渋谷経由で高輪ゲートウェイまで移動する。下北のぶっ豚で小ラーメンを食べてから満員電車に乗る。
定例の打ち合わせとタスク消化と来週作業の準備で気づけば定時になっていた。新オフィスは快適なのだが定時過ぎのエレベーターが異常に混むのが唯一ストレスだ。ほかに職場に対するストレスがないので必要以上に大きなストレスに感じているということはありそうだが、バカな設計だと感じるのもあり、ついでかいため息をつきたくなる。
山手線の満員電車で渋谷、スクランブル交差点の通行を楽しんで井の頭線で下北に戻る。上から目線ストリートのことをすこし振り返り、『イタリア民話集』を読んでから日記を書く。21時前にスタバを出る。

20251202

日記683

失われた時を求めて

2025/11/30 一昨日 17315
高円寺のバスケは、脚の痛みがすこしあったものの、徐々にテンションが上がっていくにつれ痛みを意識しなくなってきてハッスルプレーで楽しめた。力を入れずに抜くやり方を継続中で、この強度でも通用することがわかって収穫だった。ただ心肺機能のほうが気管支の不調のせいもあってかこのごろは低調続きで困った。満足に走れないでは自分の力を発揮するすべも機会も限られるからだ。リバウンドを取ろうにも速攻に参加しようにも相手の速攻を防ごうにも、そこにいないと話にならない。そこにいるためにはプレーの切り替わりとともに走ってそこにいくしかないという単純な話だ。高円寺のチームに誘ってくれたA君と新宿までの帰り道がいっしょになる。いつも頭を使ってプレーしていていわゆるバスケIQの高い選手で、決定力をはじめとしたバスケの能力が軒並み高いうえに、飛び道具となる3Pシュートを身に着けようとしていて向上心もあるという、これからが楽しみなプレーヤーだ。動き方の参考にできそうな話をしてもらう。たとえばスクリーンをかけにいくことばかり考えていたが自分にスクリーンをかけにきてもらうという発想はないものだった。タッパのせいで自分とマッチアップする選手は強キャラが多いのでこれは効果的だろうと思う。帰って洗濯して風呂入ってすぐ寝ればいいのに、『天』を読んだせいで夜ふかしになる。12時すぎに就寝。


2025/12/01 昨日 16573
前日の夜ふかしがたたって朝早起きはできず、朝から出社し午後には帰ってきて在宅勤務のちバスケに出かける計画は頓挫する。仕方ないので午前中は『天』を読みすすめて、昼ご飯を食べてから昼から出社にする。必要なタスクをこなし打ち合わせをしていたらあっという間に定時になったのであわてて帰路につく。急いでいたので渋谷経由で井の頭線を利用。家に着くと同時に仕事の荷物を準備していたバスケの用意に持ち替えてそのまま飛び出す。
この日のバスケは予期していた通りスネの痛みでろくなプレーができず、例の風神とマッチアップすることになり「脱力プレー」にも限界があるということを思い知らされた。相手のほうがリラックスして余裕綽々という様子を見せているときには自分のほうがその亜流になり、その意識が邪魔してリラックスが難しくなるというのが理由のひとつ。そもそも「脱力プレー」の参照元が風神なので、オリジナルにはかなわないという意識が働いてしまう。身体の動きのスピードは本当に2倍の開きがあるのではないかという気がしているし、そこに判断のスピードも合わせると掛け値無しで2倍ちがってくるように思う。対戦相手なのに笑ってしまうほど惚れ惚れするプレーを見せてくるし、そういうときにはいつも笑ってしまうのだが、正直なところこの日は悔しくてうまく笑えなかった。載せてるエンジンがちがうと頭ではわかっていてもああまでリラックスできている状態を見せつけられるとどうしても悔しくなる。動きがストレートでありながらも本当に無駄な力みが一切ない。あれに対抗するためにはあれの亜流を目指すのではなく、自分なりの完成形を探さないといけない。しかしそれにしてもとにかく圧倒的な華がある。バスケ選手は皆あれになりたくてバスケをやっているんじゃないのか。相手の力に気後れして相手の目を見られないシャイを発動してしまっていたところからして勝負する前から負けている。負けていても顔を下げずに相手の目を覗き込んで心理的にすこしでも邪魔してやるぐらいのことはして食らいついていかないと。どこかで一時的敗北を認め、諦めている自分を見つけてがっかりするのだが、それの言い訳にスネの痛みを利用しているので、これでは良くてバスケに行くだけストレスになるから本当に考えものだ。わるくすると負け癖をつけて「まあまあまあ」とか言いながらヘラヘラして走らないプレーヤーになってしまう。脱力系のプレーとこの癖はとても相性がわるく、そのつもりがなくてもお互い引っ張りあって低きに流れることになる。だからできるだけ一生懸命走ろうというプレースタイルに振り切ってそれを安全弁にしていたのだが、それはそれで条件に縛られすぎ、守りに入りすぎということになりかねない。だから痛みのせいで脚が動かない日は、DFだけに専念する、あるいは味方のサポートに徹する、というようにプレーやその目的を切り替える必要がある。もしくはそもそも身体に不都合のある無理な日程でバスケに行かないことだ。
この日はバスケ終わりの片付けに参加せずすぐに帰る。狛江湯に行って温冷交代浴。自分のシャイについて考える。中年になってシャイを克服する(ように見える)のは、シャイな気持ちを内心に抱くことがなくなるというのではなく、シャイな気持ちを抱きつつそれをどうでもいいものと感じるようになるということでしかない。少なくとも自分の場合はそうだ。恥ずかしいという気持ちはなくならず、それが残ったままでまあいいやと思い、そう思うに任せるという消極的なものだ。本当の克服はその気持ち自体を抱かなくなるというものだろう。たぶん「勝ち」を重ねることで自然とそうなっていくのではないかと想像している。きっとアイツはそうなんだろう。
重ねてシャイについて考える。対峙したときに勝てないと感じ、気後れして相手の顔を見れない、というのがシャイという言葉の中身で、いかにも中途で繊細なニュアンスがあるかのように感じさせる語感とはその内実がちがっているという気がしている。犬がよくやるように上下関係をはっきりさせたいという本能のあらわれではないか。
帰宅して洗濯機を回したりなどしているうちにこの日も夜ふかしになってしまう。


2025/12/02 今日 3866
一日在宅勤務。奇妙な長い夢を見た。起きてすぐに忘れた感じがあったのだが、夢が長かったおかげか今も部分的にうっすら覚えている。一軒家でタリーズ時代のバイト仲間たちと久しぶりに再会するという場面があり、極端な悪天候で下階が水没している気配があった。キーパーソンの話を聞くために天井裏の部屋に上がっていった。敬意半分、敵対心半分という絶妙な相手で、表舞台に出ているところを無条件に尊敬しているだけという気もするし、その表現能力に惹かれている気もする相手だった。ちょうどお笑い芸人の中山功太ぐらいの感じ。何を話したのか、そもそも直接対峙したのかも覚えていないが天井裏だと思って上っていった先はカラオケルームになっていた。
午前中に『天』をすすめて午後には読み終える。初めて読んだときのような驚異的な感動はなかったが、そこで扱われているテーマ(というより登場人物たちによるテーマの扱われ方)を冷静に見つめられるようになった成り行きという気がして、それが残念という気もしなかった。金光がもっとも世話を焼いていたということからしても、また条件付き譲歩提案の適当さも、もっとも尊重されていい役目だったように思う。健の不遇さは一抹の笑いをもたらし、銀次の藁にも縋るような実感のこもった死への恐怖は、その後に展開される理論の子供だましであることに比べはるかに納得できるものだった。天がいう「それじゃ俺がこまる」という言い分は、その後の提案のもつ一般的な魅力とセットになってかなり有力なものだと思われた。しかし一番の手柄は、誰一人それを聞くもののないまま終わるはずだった言葉を引き出してあげたことだ。それは当事者となる人物ひとりだけでは、たとえ逆立ちしても出ない言葉だった。しかし気持ちが冷えるというか、冷静になれるのはなぜかというと、いろいろの演出を無視してあらためて人物として眺めると、今の自分には彼が薄っぺらい人物に見えるようになったことが関係している。これはとてもよく切れる剃刀に向かって薄っぺらいと言うようなもので、批判対象にぶつかる批判ではないと承知しているが、それでも負けを知らない人物というのはどこか不完全なものに見えるという意味で不完全だし、それを全うすることの良さというのは理解できない。なぜ剃刀ふぜいに温かさが理解できるのかという謎は残るが、謎は謎としておいていいだろう。とにかくそうなるべくしてそうなるようにして彼は発散されていった。
昔好きだったものを思い出すときに特有の「輪郭が二重になる感覚」があると思うが、アカギがそれを知らないままでいたことは明らかだ。アカギがひろゆきに対して言った「ぼやける」というのは、今に対してだけ起こる現象ではなく、過去に向かう意識のなかでも起こるものだから、今に集中し今にピントがあっていればこそそれが起こるということにもなる。賭け事一辺倒の夢中のなかではそれに気づく暇もなかったということで、それは一次元すくない次元を生きているということを意味している。切った貼ったで対応可能な二次元ということだ。三次元で生きる人間には真似できないし、たぶんほとんど何の参考にもならない。
知人がSNS上でGEZANというロックバンドメンバーのステートメントに言及していて、そのステートメントがよかったのでバンドに興味を持ち、Youtubeでその音楽を聞いてみた。とくに良いとは思わなかったものの何かを感じたのでそのまま武道館でのライブチケットを取ることにした。自分はどちらかといえば音楽に冷淡で、だいたいの音楽については仰々しく飾り立てられているだけで煩わしいだけと思っている。しかも音楽でできる表現は結局感情止まりだと高を括っているところもあるので、ただトレーニングのときテンションを上げたり、集中するときにヘッドフォンで聞いたりするだけ。なので普通ライブを見に行くということはしないのだが、例外的に行ってみようと思わせる何かがあった。ステートメントにおける対向への語りかけにまじめな意志を感じたのが大きいのだと思う。しかし、冷静に考えると、べつのどこかで当てられた熱をちがうところで発散しようとしているだけかもしれない。あるいはどこかで発散するための熱を溜め込もうとしているだけかもしれない。ちょっと考えただけだと後者のほうがありそうだと思われるが、どちらと断定しようという気はない。
最近は酒を飲みたいという気分そのものがなくなってきていて、その位置にべつのなにかが置き換わろうとしている。わりとシリアスな時期に入っているのだと思われる。大きく見れば目先が変わっているだけにすぎないとしても、単純に、変化は歓迎すべきものだ。
定時退勤しスタバに行く。『理由と人格』の「13章 重要なこと」の続きを読みおえる。これはと思った引用の文章がプルーストのもので、重要なこととは何なのか、自分の中でもかなりはっきりしてきた。ある意味で清々しささえ感じられる。ようするに”答え”がわかって、しかもそれが自分の思い通りで、清々したというところだ。日記を書いて21時すぎにスタバを出る。ご飯をどうしようか。明日は朝から出勤したいが。

20251130

日記682

廃墟然

2025/11/29 昨日 7118+
21時前にまでスタバにいたあとダイエーに寄ってキャベツなどを買って帰る。帰宅してから家人が作ってくれたお好み焼きを食べる。33のやつのゲーム実況をすこし見て、『天』を読んでから寝る。金曜から夜ふかしになってしまっていてこの日も2時前に就寝。


2025/11/30 今日 3875
10時すぎに起床。前日に買ってきていたPascoのしっとりくるみ蒸しパンを朝食にコーヒーを飲む。前日から高輪GWでメルカリの物々交換のポップアップに行こうかと考えていたのだが、下北周辺に住んでいてわざわざ時間をかけて別の地域に古着を見に行くというのも訳が分からないなと思いなおした。そのまま家で読書してもよかったのだがいい天気だし一張羅も着れるときにたくさん着たいからということで出かけることにする。ひさしぶりにリザーブのほうのスタバに行ってアイスティーを飲みながら『理由と人格』を読む。満席だったがやはりこちらのほうがゆったりできるので休日にはこちらを使うのも気分転換になっていいかもしれない。14時前にスタバを出て下北の街の方へ歩く。古着屋をちょっとだけ覗き、どこかお店で昼ごはんを食べることにする。どの店にしようか迷ったが、ピザが食べたくなったのでTHE Pizzaのピザを2切れ買って帰ることに。ピザを食べながらJリーグの鹿島アントラーズv東京ヴェルディの試合を見る。前半15分以降ずっと東京Vが試合巧者だったが、終わってみれば絶対に勝ち点3を得たい鹿島が勝利を手にしていた。最終節にどういう展開が待っているのか見えないのでわくわくする。当事者だったらその比ではないだけのドキドキがあるだろう。試合後バスケのために高円寺に行くまでの1時間ちょっとを『天』を読んで過ごす。日記を書く。



20251129

日記681

反復のよろこび

2025/11/27 一昨日 16713
午前在宅にして午後から出社。狛江のバスケにそなえてバスケ準備一式を詰めたボストンバッグと仕事の端末等を入れたリュックの鞄二個持ちで出勤する。出社してからはやるべきタスクをこなしつつ定例のミーティングに参加して、依頼事も依頼してと申し分のない働き(当人比)をして定時すぎに退社する。新宿経由で直接狛江に向かってバスケの開始時間ちょうどになった。シニアプレーヤーの方から滑り止めスプレーを使わせてもらったが、冬場の乾燥にこれはかなり効果的だと思った。あとでAmazonで確認しておこうと思いつついままで忘れていた。あとでAmazonで確認しておこう。この日のプレーは脱力を意識し、できるかぎり奔放なプレーになるように調節した。そのおかげで最初の試合から飛ばせる感覚があったが、奔放とはいえ、いや奔放なだけに動き回ることが基本になるので心肺への負担が大きく良い感じが続かなかった。しかしこうやって普段の意識付け等々から意図的に解放される日を設けるのは大事なことだ。セルフハンディキャッピングではないが、ちょっとうっかりすると自分のプレースタイルの枠を決めてその範囲内でプレーしようとするので、こうやって枠を壊しながら枠を広げていくようにしないと甲斐がない。たとえば各種の練習もうまくなりたいと思ってやるものだが、その道を一本道のように想定してとにかく経験値を得ようとするRPG的なやり方は、じつは途中からはアンリアルなフィクションになったりする。負荷を与えるのはたしかに重要だが、負荷のかかっているなかで「リズムや感覚を掴んでいく」というのがあくまでも主眼であると理解することだ。気持ちよくプレーすることでそのときの感覚を研ぐのと、気持ちよくプレーできない障害に対応することはおそらく両輪で、片方に注力してバランスを失うと上達が見込めない。前者に傾注していざというときに力を出せないのと、後者に傾注して全体のパフォーマンスが下がっていくのと、どちらも避けるべき事態だが、楽しむという観点からは後者に対してより注意しておかなければならない。これがアマチュアバスケットボールプレーヤーとしてここ一年で学んできたことだ。楽しくないとプレーする動機そのものが失われることになるからだ。そのあたりのモチベーション維持はプロよりもシビアだ。シビアもなにもそうなれば止めればいいだけなので前提がシビアではないのだが、内燃する動機を持ってやり続けたいと思うのであれば、まあシビアといえばシビアということになる。帰宅してすこしの飯と味噌汁を食べ、プロテインを摂って寝る。


2025/11/28 昨日 10610
一日在宅勤務。昨日やるべきことを進めたのでその分の貯金がたまっており、最低限やるべきを前に進めるだけでよい安定した日になった。リハビリの日だが前回相談したスネの痛みがあまりなかったのでおかわりしておこうということで昼休みに公園まで出てシューティングをする。いい天気だったし、昨日のプレー感覚を保存しておきたいという思いもあった。肩に力を入れないやり方でのシュート感覚を反復する。帰宅して昼ご飯を食べて昼寝をする。10分のつもりが50分あまりの昼寝になってしまった。
退勤後、経堂まで出てリハビリに行く。リハビリと言っても痛めた筋肉の近辺を入念にマッサージしてもらえるというもので、苦しい辛い要素は全然ない。スネの痛みについての解消法の提案として、中臀筋が弱いようなのでその部位のトレーニング方法を教えてもらう。怪我や痛みの対策としてもそうだが、弱い箇所を鍛えることはパフォーマンスアップに直結すると思うのでやっていきたい。パーソナルトレーニングに行かなくても正しい知識を得られればそれでいい。無理に増量しようとしても不調に繋がるだけだという痛みをともなう気づきもあったことだし、とりあえずは自重トレーニング主体にして自分自身のバスケット熱をモチベーターにすればいいので、その分のお金を質の高い食事やプロテインに回せばいいと考え直した。今の自分にはそれが正しいと思われるので一旦はそれで進めてみる。
リハビリ後にスタバに行く。『理由と人格』を読む。「分裂」とかSFみたいな架空のことを言い始めたなと思ったらそのまま論を進められ、何を言っているのかわからなくなりついていけなくなってしまった。とりあえずその章(第十二章 われわれの同一性は重要なことではない。それはなぜか)の半分ぐらいまでは読んでしまう。ウルトラに行ってご飯を食べて帰ろうと思ったら店外に人が並んでいて諦めた。飯を食うために行列に並ぶことはどうしてもできない。仕方なくこの日もかつやにいく。カツ丼梅を食べたが前回のような驚くべきクオリティではなく、たまたま前回はクリティカルだっただけかと残念な再発見になった。寒さも寒いのと温存したいスニーカーを履いていたのとで歩くのも断念し電車に乗って帰宅する。気持ちがそういう気持ちになっていたのでサニーボーイの1話を見返す。流れで最終12話も見た。このアニメはやはり最高傑作だと思った。toeのラプソディがかかるタイミングとドラッグ全開の映像音楽は相当程度カッティングエッジなものだし、「光」を描写する映像作品のなかでも頭抜けた美しさがある。それが信じられる理由がそこにはあると信じられる。


2025/11/29 今日 5034+
前日に寝苦しい思いをしたので寝坊になる。『天 快男児』をキンドルで買って読み、ゲイシャグランスイートのプレミアムコーヒー豆を開けて飲む。いい意味で香りだけで味がなく、よい日本酒が水のようであるのを思わせる上品さが完全に自分好みだった。香りの種類こそ好みドンピシャではなかったが。昼ご飯を食べに下北に出る。梅窓でとり天ぶっかけ(温)の大盛りを食べる。家人がフルートと荷物を置くために一旦帰宅し、行き先を考える。結局下北で古着を見ることに決まって、RAGTAGほか古着屋を何軒かまわる。足がつかれたので途中抜けしてスタバに行く。『理由と人格』の12章を読み終える。家人をすこしだけ待たせながら溜まっていた分の日記を書いてスタバを出る。ダイエーで晩御飯を買って帰るつもり。

20251128

記述・行動

行動するというのは世界という用紙にむかって記述するということだ。

そこで暗黙のうちにつねに問われるのは”何を”記述するのかということであり、つまり行動することにはどう行動するのかを決定するということが含まれることになる。

このアナロジーとして、行動に対する芝居は、記述に対する書道(タイポグラフィー)ととらえることができる。何を記述するのかというところからある程度の自由を得て、どう記述するのかに意を砕くことができる。何を書くのかということを決めておくことで、どう書くのかに集中するのが書道でやられていることだ。それと同じように芝居では、どう行動するのか決定する自由を失う代わりに、あらかじめ決められた行動をどのように行動するのかということに意識の力点を置くことができるようになる。


***


スターバックスから外に出るための自動ドアをくぐりながら女子高校生が「永遠にいっしょにいよう」と言った。仲良し3人組で、スターバックスのシーズナルドリンクを買っていっしょに写真を撮ることが楽しくて仕方がないといった風情だ。

この3人組が20年後にも同じ3人で集まって「永遠にいっしょにいよう」と言っていたとすると、自分はそれを見てどう思うだろうかと想像した。自分の考えではその発言を断然支持すると答えたい。いまこの瞬間に夢想した20年後の映像を心に描いて、いまの彼女らがいま言ったことが、架空の20年後の彼女らと重ねられたこの場合にはそれを支持するのもたやすいことだろう。しかし、そういった過去編をもたないまま、37歳の女子3人組がスターバックスで何がそんなに嬉しいのかとにかく嬉しそうに騒がしく会話しながら、店外に出るタイミングで突拍子もなく「永遠にいっしょにいよう」と言ったとしたら、自分はそれを素敵だと思える自信がない。瞬間的に過去編を妄想し、あるいはそれぞれに深刻な事情を抱えつつようやく集まれたかつての3人組なのだろうと酌量し、素敵かもしれないと思えるようでいたいとは思うものの、虫の居所その他の理由によっては苦虫を見るような顔をしてしまうのを避けられないと思う。

そうすると「永遠にいっしょにいよう」という唐突な宣言に対してささやかな感動をおぼえた自分の感性を疑うべきなのだろうか。誰が言っていたかによって受け取り方が変わってくるような言葉に感動するというのは二重に過っている気がするのだが……。

すこし考えて、しかしそうは言っても時の花というものはあるだろうと思い直した。つまり、女子高校生が言う「永遠にいっしょにいよう」には若さへの寄りかかりからくる芝居がかりがあるとしてもそれを含めて嘘がないのにくらべて、37歳の女子たちがそれをそのまま言うのには嘘をつかないでそうするのに無理があるだろうと思うのだ。しかしこれも大きな声で言っておきたいが、だからそういうことを言うのは止せと言いたいわけではない。むしろそういうことを言うのに適した年齢があるとするなら自分の感覚では17歳よりも37歳のほうがふさわしいとさえ思う。問題は言い方にある。願いをそのまま言ってそれが本当になる時期は過ぎた。それは認めなければならないのだろう。言い方に工夫をして想いを口にする必要があり、そういった道を経るからこそ、そこに咲く花は美しいと思うのだ。

ところが、どうやって言えばいいのか、しばらく考えてみたがよい例は思い浮かばなかった。そうするとやはり「永遠にいっしょにいよう」で良いのかもしれない。これは実際「永遠に」の使い方としてもっともふさわしい、辞書に載せてもよいほどの語用であり、親しい友人に対するこれ以上ない提案ではないか。

ただ、それを意味することを言うにしてもそれぞれの言い方があると思うので、ストレートに「永遠にいっしょにいよう」と言うのはどこまでいっても”次善”になるだろう。こういうとき答えは個別にあるはずだから、個別具体的に内輪の大喜利をしていくのが”最善”なのにちがいない。

日記686

変わらなく見える 2025/12/04 昨日 7401 21時すぎにスタバを出る。ダイエーで焼きそば作成セットを購入し、寒さに震えながら帰宅。焼きそばを作成して食す。食事時間を空き時間の扱いにしてオモコロの動画を見ながら焼きそばを食べる。たほいやの亜種とい...