演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をしている。
私には娘がおらず、配偶者と離婚してもいないのだが、〈離婚して自由に娘に会わせてもらえない父親〉を演じることになった。演劇の舞台なので、それがどういう場面で、役者としての自分がそこでどういうセリフを言うかというのは決まっている。作・演出のNさんは演じること全体について説明してくれたことがある。それは間違いなく彼の演出のなかでもとくに優れた内容だった。いわば基本のキであり、そのために訳知り顔の評論家気取りの連中にも簡単に引用されそうな内容なのだが、それでもその重要性は揺るぎないものとして感じられる。それはつまり、彼の演出によってそのアイデアが自分のなかで揺るぎないものとして感じられるようになったということだ。とにかく不安を感じがちになる役者に対して、信じるべき灯台の光となるようなことをはっきり言えるということ。それは数ある演出家の資質のなかでももっともポジティブな要素のものだと思う。前置きが長くなったが、彼が何度となく言ったのは次のことだ。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」
私は他人がどう考えるかということについては感じるままに想像する以上のことをほとんどしておらず、どうせ大したことではないのだろうから、いちいち取り上げるほどのことはないと高を括っている。他人がどう考えるかということに対して真剣に併走するのは大変なコストがかかるということを自分に照らして知っているので、そのコストを支払おうという気にはなれない。真剣に考えを尽くしたとしても「そこじゃない」という見当違いが起きるというのも全然めずらしくなくむしろ往々にしてあることで、それも自分に照らして知っていることだ。だから、自分はどう考えるかということにフォーカスして、他人のこと、他人の考えることについてはある程度までと線引きしおろそかにしてきた。そういうわけで「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」というのを実践しようとしてまず苦しんだのは、登場人物がなぜそんな事態に陥ったのかというところを〈この私〉につなげる部分だ。私が演じる〈その私〉は、何かがどうにかなり、どうにかなった先でいろいろなことを取捨選択した結果、その立場に位置するようになっているわけだから、それを私にも納得できるようなかたちに成形する必要がある。のっぴきならない事情が重なって、出た目が思わしくなく、疲労が重なった挙げ句、追いやられた先で破壊的な結婚をすることになり、娘を愛していながら自由に会えないという厳しい状況に陥ったのかもしれない。これを真剣に想像することは簡単ではない。しかしそういう人は実際にいるというところから、それをヒントにして自分と接続する回路を、遠回りにでも、か細い線になってでも、つなげようとすることはできる。それに彼は彼で、この私と同じように自分の状況を顧みたとき「陥った」というふうには自分のことを考えないかもしれない。
いずれにしても、この私への接続については「できる」という思い込みを発揮するだけのことにすぎず、結局のところ、いい加減な想像の域を出ない。「普通こうでしょ」という、いい加減で許容しがたい他人の意見と似たものになる。しかしそれは怠惰が鍵なので、他人の考え一般について自分が使っているのと同じ鍵で開けられる。まあ大体こんなもんという大まかな切り取り方で必要十分ということだ。むしろそこから逸脱すると、他人からは容易に認めることができないゾーンに突入してしまうだろう(じつは私はそこへ行きたいのだが、今回の演劇では一旦保留としている)。だから結局、怠惰な想像力で「まあだいたいそんなところ」となる範囲内で調整するのが自分の仕事ということになる。それでも、普段使っていない筋肉を使うときのように身体の動かし方のバリエーションにはなるので、この私にとってもエクササイズ的な良い効果が期待できると思っている。
ところで、より面白いと自分に感じられる仕事は、死後の世界(あるいは生前の世界)にいる場面を演じるということだ。私は死後の世界というものを一切信じておらず、人がそれを信じることも馬鹿らしいと考える点で、他人からは「死後の世界がないことを信じている」よう映る姿勢をとっている。
だから「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」とき、死後の世界にいる自分のことを想像するわけだが、その自分のなかでどういうことが起こるかといえば、自分が信じていない世界のなかにどういうわけか入り込んで、そこでまごまごするというよくわからない事態だ。たとえば「現実」というのは信じる信じない以前にもう現実としてそこにあるものだから、前提としての”オフにできない機能”が元々そなわっていて、それをオフにして考えること全般がナンセンスだと思い込ませるたぐいの要素を備えている。私は疑おうと思えばそのことを疑うこともできる。つまり現実の現実性について虚偽だと暴き立てるような態度をとったり、それをフルシカトして自分の思う通りまっすぐ進むということをあえてしたりもできる。私は私次第ではそうすることもできると知っているが、同時に(ほぼ次のページには)そうしないということも明らかに知っている。死後の世界にいる自分を演じるというのはどういうことなのか。自分が演じる死後の世界というのはどういう場所なのか。自分の視点からはその場所のことはまったくわからないのだが、現実の持つ現実性という奇妙な図式を反転させたときのような奇妙さがその場所には漂う。また、外形的な強制力(今回の場合は演劇の舞台)によって、自分が自分の想像の外に置かれるということも起こる。「自分の外にある」という状態は、自分機能におけるコア部分の機能不全にほかならず、自分にとって許容範囲を超えることになるのだが、そのこと自体が次のように想像してみることをトリガーに発生している。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」
私は死後の世界というものを信じていない。そんな私が死後の世界にいる私を演じることができるのだから、これを僥倖と言わずして何を僥倖と言うのか。私は演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をする。蓋し僥倖である。