どうぞ
2025/11/03 昨日 8869
銭湯に行って2時間ほど湯に浸かっていた。炭酸湯と温冷交代浴と外気浴。輪郭が希薄になっているのではないかと思ったが、あがるときにタオルで身体を拭くとちゃんとそこにあった。つまらないといえばつまらない。
帰りの電車内か帰ってからかおぼえていないのだが、ショート動画を見ていると巨漢が向かい合って無防備の相手に張り手をみまう競技の動画が流れてきた。見たままの愚かさがあまりにも愚かすぎて擁護のしようもないと思ったのだが、そう感じるときにこそとも思い、しいて擁護しようとしてみた。しかし言葉を継げないどころか何も出てこない。やがて出てきたのは「自由」という一単語のみで、それを巨漢に適用させるためこねくり回そうという気も起きず、自由っていいよなと何がいいのかわからないようなことを口走って考えるのを止めにした。ともあれビンタ合戦なんていうのは短くてわかりやすい映像の極みだ。本人たちの動機がどこにあるのか、それ用にトレーニングを積むのかということがすこし気になった。本当に馬鹿馬鹿しく思えるのだが、格闘技全般が本質的に馬鹿なもので、最近見るようになった相撲にしても国技だの伝統行事だのと言うが、元はと言えば馬鹿祭りみたいなもので、今あるのもその発展形に過ぎないと思う。深刻な怪我を負ってまですることかというと、自分は全然そうは思わないのだが、当人たちの出で立ちや目つき、振る舞いなどを見ると、そして稽古量や食事のことを思うと、ほんのすこしも馬鹿にする気は起きない。しかし一方で、それとはべつの次元では馬鹿すぎると思わないではいられないし、ビンタ合戦にも同じように馬鹿すぎるという感想を持つことは避けられない。しかし、よく考えてみると、ビンタを食らって意識が飛ぶ瞬間のショート動画を面白がって見る視聴者のほうに馬鹿さの本質があるように思う。それの何が面白い? わからないけど面白い、つい見てしまうというところに根深い愚かさがある。
帰宅してから鶏肉と玉ねぎの無水料理の残りを食べる。翌朝は出社する予定なので23時半には眠りにつく。
2025/11/04 今日 6632
朝から出社。若干の喉の違和感があるのと背中が痛いのとで昼には帰宅し在宅勤務に切り替える。『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』を読んだり、ホームポジションのタイピング練習をしたり充実させることができた。
帰宅後にはすこしだけ昼寝をする。それでよくなったとは思わないが悪化もしなかったので定時退勤後スタバに行く。西郷甲矢人・田口茂の『〈現実〉とは何か』を読む。場についての考え方には納得できる。どういう理由からかはっきりしないままとりあえず自明のものとしている前提をそのまま前提しないことで、考えるための「場」が必要になるというようにも受け取れる話だと思った。また、「決定論を断念しなければならない」という論旨にはなじみがある。「驚くべき置き換え可能性」についても、内容だけではなく、むしろその外郭というか表現のほうになじみがある。どこに由来するものなのかはっきりわからないが、どこかでその考えに触れており、その考え方に感化され済という感じがある。ちょっと長いが引用。
こうして、統計的法則について語ることの意味は、絶えず変化し異なる多様な出来事のなかに、「驚くべき置き換え可能性」が立ち現われるという点にあることが見えてくる。いままで「法則」と呼ばれてきたものを、こういう意味で捉えなおすということこそ、量子論が科学にもたらした最も革命的な思考の転換であったと言ってよい。その上でわれわれが強調したいのは、「法則」とはいわばこの「驚くべき置き換え可能性」の一つの表面にすぎないのであって、その表面 (ないし上澄み)だけを残してそれ以外を捨てることは、「法則」そのものを無意味にするということである。「法則」が出てくればよいというわけではない。それを生み出す根拠がまさに「法則」のなかで書き切れないということを鋭く突きつけているのが量子論の扱っている事態なのである。「法則」のなかで書き切れないものとは、単に法則から逸脱するものではない。むしろそれこそが「法則」を生み出すという側面をもっている。単に非法則的なものから法則が生まれてくるという発生論を述べているわけではない。むしろ「法則」なるものの存立そのものに関わるのが、ここでいう「書き切れないもの」なのである。「法則」は自己の存立の根拠そのものを自ら生み出すことはできない。かといってどこか他の場所で作られて外から現実に押しつけられるわけでもない。われわれが現に与えられている現象に即して法則を捉えるという営み自体が、「法則のなかに書ききれないもの」なしには成立しえないのである。『現実とは何か』51p
数学に対する違和感として、それを記述する無地の黒板は存在しないのではないかということを考えていたことがある。自分がそのとき数学として捉えていたものは数学の一部分にすぎないということがわかったので(おそらくたぶん……)、今はそういうふうには考えていない。しかし、黒板を仮定するという発想のなかには「場」の考えに近いものがあったと思う。また、物とそれがある場所とを分けて考える考え方についても「そんなの確定してないけどな」と言われるとそら恐ろしい感じがある一方でそうだよなと妙に納得してしまうところがある。位置情報はあくまでも相対的なものであって、絶対の位置を示すものではないと考え出すと、場所のことがわからなくなる。ただ、位置だけでなく時間も記録すればそれに何の意味があるのかは置いておいても情報としてより確かなものになるのではないか。