百人夜行
2025/12/16 昨日 6239
午前中は在宅にする。この日もたくさんの夢を見た気がする。ひとつも覚えていない。午前中はトーストとコーヒーの朝食をとり、しいて『理由と人格』を読む。ここのところはパーフィットを、というよりパーフィットの知性をあまり高く買わなくなってきている。最初はその特徴的な物言いに興味関心を惹かれた彼の言葉遣いにも単に不適当と済ませるだけの落ち着きを取り戻した。たとえば「私の信ずるところでは」というような言い回しのことだが、「私の信ずるところでは、また多くの人がそう信じているであろうところでは、」という言い回しに出くわすに至って、彼の言説のセレクティブなところが見逃せなくなってきた。哲学者たちはパーフィットを評価するということだが私は彼を評価しないし、彼が20世紀の思想家であることに対する哲学者たちの擁護については権威主義的なものにすぎないと考える。心身ともに健康で、彼自身の見る天井のなかでもっとも高いところに行こうと志した人だというのは肯ってもいい気はするが、自分の領域から外に出ようともせず、おそらくは外があることを認識しようともしなかった人だ。ようするに「えらい大学者」というところで、立派な物腰に見るべきところはあるが、武将として知力が100に近く政治も90をこえているということでしかない。
午後から出社する。わけのわからない整理系タスクの進捗が思わしくないことを報告し、定時すぎまで調整仕事の板挟み対応の相談を受ける。18時から忘年会に参加する。禁酒中ということでノンアルドリンクを飲んでいたが衝撃的に面白くなかったのでたまらず禁をやぶる。19時からはなつかしいビールの味を楽しむ時間になった。終了時間まで1時間足らずだったのでそこまで苦しい思いはしなかったが、自分が宴席で積極的に楽しみを作り出せない人間だということをあらためて思い知りかなしくなった。まっすぐ前だけ向いて帰路につき、最寄り駅の飲み屋の灯りに吸い寄せられそうになったが、そこで挑戦する気概も失っており、テンションが下がったまま、しかしせっかくの飲む機会をつかまえなければもったいないということでコンビニで気になっていたビールの銘柄を買って飲みながら帰る。グノーシアのアニメを見始めた影響でスイッチを起動してゲームのほうのグノーシアをまた始める。記憶のなかではもっと面白いゲームだったのだが昔クリアした記憶をもってやるとミステリー部分の引きがまるまる無くなっていてそこまで楽しめず。万策尽きた感があったので寝ることにする。
2025/12/17 今日 2637
一日在宅勤務。『理由と人格』を読む。いとわしい結論の章まで読み終える。昼ご飯は久しぶりに炊飯し、家人の作ってくれたキムチ鍋を食べる。NBAカップがやっていたのでスパーズ対NYニックスの決勝戦を見る。3Q途中から見始めたのだがスパーズが5点リードを広げたり詰められたりする展開で、ウェンビーもいるしスパーズが勝つのだろうと思っていた。結果はそうならず、必要なときに必要なシュートを決めて追いすがったニックスが逆転勝ちをものにした。ブランソンがMVPに選ばれていた。照れ隠しの笑顔が印象的で、もしバスケがうまくなかったらただの気難しい嫌なやつかもしれないと思わせ、だから逆にスター性があった。言うまでもなくバスケはものすごく上手いし、キツい時間帯ほど活躍するぶっ壊れメンタルの持ち主だ。
定例の打ち合わせにWeb参加し、昼寝をする。臨時の打ち合わせに参加して定時30分すぎに退勤。そのままスタバに行く。『地下鉄道』と『失われた時を求めて』を読む。アルベルチーヌとのベッドシーンは心の動きが克明に記されていることで私が大して彼女に惹かれていないということがわかるようになっている。しかしそれはまったく惹かれないというのではないところが面白い。地下鉄道のほうは想像した展開とはちがい、驚きがあった。日記を書いてからもうすこし読書をしてから22時前には帰宅する予定。『痛いところから見えるもの』を読む。マッチョイズムについての章で、アランとトルストイの文言を咎める回。アランはともかくトルストイは偉大な文学者なので、これはかなりの失点になると思う。が、そういう厚顔ぶりがトルストイにあれだけの大作を書かせた原動力と切り離せないとも思うので、いらん部分として切って捨てるわけにはいかない内在する欠陥というものだと思う。
この日見た夢のことを思い出す。『水』という映画を映画館で見る夢だったのだが、最後の最後に大洪水になる場面で、なんとスクリーンから大量の水ゼリーが観客席にむかってほとばしり出た。それで全身に水ゼリーを浴びる羽目になったのだが、こんなのは前代未聞で、映画というジャンルを超えたすごい映画だと慄いた。水ゼリーが顔にあたる感触があまりにもリアルな水で、映画を超えた現実感だと感じられた。しかし水ゼリーは無色透明で、本物の洪水に見られるであろう清濁の区別などないような本物の水ではなく、あくまでも清潔な水ゼリーであるということが強調されていて、それがまた自分のなかでとくにリアルに感じられた。自分の考える現実の質感というものの外には一歩も出ず、商業的な体験の内側で安心して濡れられるという、いかにも自分の描きそうな夢だというリアルがあった。それが映画のタイトルにも波及しているように感じられる。『水』なんていかにも自分が見に行きたがりそうなタイトルの映画だと思うし、そういうところにも安心感というか納得感がある。見たい映画を見るという見たい夢を見た感じで、手もなく満足した。