だいたい1000日前、インスタアカウントを作って1日1投稿しようということを思いついた。
もともと東京の街(ストリート)が好きで、東京の街なかでとくに気になる物事を見つけようとしていた。だから友人たちの写真のほかに、気になった物事のいくらかを画像に残すようにしてきた。それらは芸術とか表現の類ではなく、記憶補完用のキャプチャという位置づけで、RPGでセーブするのに近い感覚だった。
昔『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』というテレビドラマが放映されていたが、もし何も思い出せなかったら泣くに泣けないよなと思ったことも自分がスマホで写真を撮るようになったきっかけのひとつだ。忘れないのは無理なのかもしれないが可能なかぎりはできるだけ多くを思い出したい。
自分はSNSについて批判的な見方、とはいかないまでも冷淡な見方をしているほうだったので、だらだらスマホを見てしまうよりいっそスッパと止めてしまおうかと思ったりした時期もあったのだが、やめるの逆、しっかり取り組むという方向のほうが当時の自分の反骨的な気分に合ったので、運用するぞという意気込みでuekaramesen_streetというアカウントを作成したように記憶している。
ほぼ意識を介在させないで自動的に撮る写真もあれば、何らかの発見がありそれに伴って撮った写真もある。だいたい数枚から10数枚、多いときには100枚くらいのなかからその日の1枚を選んで投稿することになる。面倒があるとすればこの選ぶ部分ということになるが、さいわい隙間時間は日に何度かあるし、一番自由が効くのがこの選ぶ部分ということもあるのでそれなりに楽しんでやれている。ここが楽しく感じられなかったならたぶん続かなかっただろう。
なにしろ思いつきで始めたことなので1000日も続くとは思っていなかった。ただ、できるだけ長く続けようという意図はあったので、ストレスがないこと、すこしも無理がないこと、日によってのバラツキを許容して「何もなかった一日」もそれはそれで面白がること、というなんとなくの方針だけ定めて、あまり脳を使わずに半自動的に投稿できるような姿勢を整えていった。
時期を同じくして日記を書いているのだが、こちらのほうが断然面倒は大きい。毎日の投稿はとてもじゃないが不可能だ。それに比べて写真を撮るなんていうのはそれ自体は一瞬でできることなので続けるのもラクチンである。ようするに、やや負荷の大きい日常作業を並行して行っているので、それとの比較でラクさを感じ、結果として続けられているという部分もあるようだ。
そんなふうにほぼ労せずして1000日分のアーカイブを手にしたわけだが、1000日分のアーカイブを手にした気分というのはわるくないものだ。撮りためた写真によって感性を見せつけようという気持ちを隠すつもりはないが、そこまで根を詰めてやっているわけでもないし、見せつけようという気持ちはだんだん収まってくる。実際50日を過ぎた頃には、少なくとも直接には考えなくなった。今もそのあたりは深く掘り下げずに投稿している。ほぼ毎日、日常的にやることで「どうだ」と思い続けることは精神の構造上も難しいのではないか。だから結果的に余計なカドが取れて、自分の行動範囲の軌跡や見たものの記録という内容がそれなりに自然に表れているという気がする。
投稿された写真を見ると、まずその時期の東京の断片が記録されているということは言える。あとは〈わたし〉という視点の定点観測にもなっていて、事後的にではあるが”継続”がコンセプトのひとつになっている。だからどうというわけではないが、それらをもってひとつのARTだということは可能なのにちがいない。
わたしは一介の文学者にすぎず、アーティストや芸術家を自認するつもりなど毛頭ないが、それでも上に述べたようなかたちで日常的にARTに触れ、ほとんど毎日ARTに携わっている。精神がそれを要求するからだ、と格好の良いことをいえたらいいのだが、実際のところ、ただそれがルーティン・習い性になっているからだ。しかし結局、自分のやっていることについて自分自身で何を言うかということよりも、自分が何をやっているかのほうが大事なことではないだろうか。というわけで完全に飽きるまではもうしばらく投稿を続けていくつもりだ。