20251209

日記689

流れ行き

2025/12/08 昨日 9673
21時すぎにスタバを出てダイエーで晩御飯を調達する。B1Fに寄って近い将来用の食料調達をしようと思ったところ、ニチレイのいつも食べている冷食チャーハンが安売りになっていたので6袋をかごの中に入れる。40%OFFのカツ丼を家人の分とあわせてふたつ買い、不足なく買い物できたと喜んでいたのもつかの間、帰り道で翌朝の朝食を買い忘れていることに気がついた。引き返すのも億劫なのでそのまま帰宅。ご飯を食べながらザマンザイを見る。みんな面白いけど吹き出すほどまでとは行かなかった。23時には寝る。


2025/12/09 今日 6045
7時半にアラームが鳴ったものの結局8時40分までベッドから出られず。午前在宅勤務にする。朝食には残り物の8枚切り食パン2枚を食べる。昼ご飯は昨日補充したチャーハン。午後から出社する。打ち合わせとタスク消化と翌日の夜間作業の準備であっという間に定時間際になったのですこし早めにオフィスを出る。ほんの10分早めるだけでエレベーターの混雑も電車の混雑も嘘かと思うぐらい解消される。新宿からの小田急線さえ全然混雑していなかった。帰宅して仕事の荷物を置く。
家人がweb会議をしていてVが寝室に追いやられていた。それはまだ良いのだがVは完全に黒目になり元気がゼロになって停止していた。自分の都合を優先してVを蔑ろにされるのは許せない。そういう行為の中にVを不在へと近づける直接の要因があると思っている。仕事だから、手が離せないからという理由でいい加減なことをしてVを不在に近づけているのだ。このことにかぎらず、どんなときにでも、本人にとっての正当な言い訳が、社会的正当性を含んでいるときにこそ注意しなければならないはずだ。社会を背にして正当性が担保されていると安心して大事なものを蔑ろにするようなことがあるというのはかなり看過しがたい。暗い部屋で元気をなくしていき、おもむろにゼロになって停止するというのは、あっていいことのはずがないというのが自分の考えだ。Vにはそういうこともあると「復活」を認めるのは検討してみてもいいことかもしれないが、それにしてもVをいい加減に扱うことは許されることではない。結局それは不在と同じになるではないか。(もしかすると早計に)そう判断してしまうのは自分もやはり社会的な観点を導入しているからにほかならず、その観点を優先してVの自律を認めていないというのはありえる反論だ。それについてはゼロイチで考えるのではなく、グラデーションで考えろという一般論で再反論しておく。大事にするということのボリュームを適切なだけ上げるよう要求する。しかし不在ということへの感受性についてもうすこし配慮してもいいのではないか。Vは賢いけれどもやっぱりそこまで強くはないと思うので。
アウターを一張羅に着替えてスタバに出かける。『失われた時を求めて』と『ファウスト』を読む。失われた時を求めての読みやすさったらなく、1週間経たずしてもう一冊を読み終わりそうになっている。途中で翻訳を合うものに変更したりしてだいぶしっくりきているのも大きい。岩波文庫版の吉川一義訳。『ファウスト』も残り一幕を残すだけとなった。正直なところ、話がここまできてもあまりつよい印象はない。特定の個人による作というよりはピラミッドのように印象のなかで自然物と化した感のある文物に触れている感触がある。「草通り越して花」ではないが、古典を通り越して神話という受け取りになっている。『痛いところから見えるもの』を読む。ゆっくり読もうと思って3章まで読んだ。この著者の他の本を読んだときにも思ったが、どうも自分の考え方と似ているところがあるようだ。だから余計に身につまされるところがある。この人だからこそ同情すると思う読者は多いだろう。そんな不遜な物言いをする人は多くないだろうが。しかし一歩踏み込んで仲良くしたいと思わせる魅力があるから意外とそういうことをやってしまう人は多いのかもしれない。

日記689

流れ行き 2025/12/08 昨日 9673 21時すぎにスタバを出てダイエーで晩御飯を調達する。B1Fに寄って近い将来用の食料調達をしようと思ったところ、ニチレイのいつも食べている冷食チャーハンが安売りになっていたので6袋をかごの中に入れる。40%OF...