20251202

日記683

失われた時を求めて

2025/11/30 一昨日 17315
高円寺のバスケは、脚の痛みがすこしあったものの、徐々にテンションが上がっていくにつれ痛みを意識しなくなってきてハッスルプレーで楽しめた。力を入れずに抜くやり方を継続中で、この強度でも通用することがわかって収穫だった。ただ心肺機能のほうが気管支の不調のせいもあってかこのごろは低調続きで困った。満足に走れないでは自分の力を発揮するすべも機会も限られるからだ。リバウンドを取ろうにも速攻に参加しようにも相手の速攻を防ごうにも、そこにいないと話にならない。そこにいるためにはプレーの切り替わりとともに走ってそこにいくしかないという単純な話だ。高円寺のチームに誘ってくれたA君と新宿までの帰り道がいっしょになる。いつも頭を使ってプレーしていていわゆるバスケIQの高い選手で、決定力をはじめとしたバスケの能力が軒並み高いうえに、飛び道具となる3Pシュートを身に着けようとしていて向上心もあるという、これからが楽しみなプレーヤーだ。動き方の参考にできそうな話をしてもらう。たとえばスクリーンをかけにいくことばかり考えていたが自分にスクリーンをかけにきてもらうという発想はないものだった。タッパのせいで自分とマッチアップする選手は強キャラが多いのでこれは効果的だろうと思う。帰って洗濯して風呂入ってすぐ寝ればいいのに、『天』を読んだせいで夜ふかしになる。12時すぎに就寝。


2025/12/01 昨日 16573
前日の夜ふかしがたたって朝早起きはできず、朝から出社し午後には帰ってきて在宅勤務のちバスケに出かける計画は頓挫する。仕方ないので午前中は『天』を読みすすめて、昼ご飯を食べてから昼から出社にする。必要なタスクをこなし打ち合わせをしていたらあっという間に定時になったのであわてて帰路につく。急いでいたので渋谷経由で井の頭線を利用。家に着くと同時に仕事の荷物を準備していたバスケの用意に持ち替えてそのまま飛び出す。
この日のバスケは予期していた通りスネの痛みでろくなプレーができず、例の風神とマッチアップすることになり「脱力プレー」にも限界があるということを思い知らされた。相手のほうがリラックスして余裕綽々という様子を見せているときには自分のほうがその亜流になり、その意識が邪魔してリラックスが難しくなるというのが理由のひとつ。そもそも「脱力プレー」の参照元が風神なので、オリジナルにはかなわないという意識が働いてしまう。身体の動きのスピードは本当に2倍の開きがあるのではないかという気がしているし、そこに判断のスピードも合わせると掛け値無しで2倍ちがってくるように思う。対戦相手なのに笑ってしまうほど惚れ惚れするプレーを見せてくるし、そういうときにはいつも笑ってしまうのだが、正直なところこの日は悔しくてうまく笑えなかった。載せてるエンジンがちがうと頭ではわかっていてもああまでリラックスできている状態を見せつけられるとどうしても悔しくなる。動きがストレートでありながらも本当に無駄な力みが一切ない。あれに対抗するためにはあれの亜流を目指すのではなく、自分なりの完成形を探さないといけない。しかしそれにしてもとにかく圧倒的な華がある。バスケ選手は皆あれになりたくてバスケをやっているんじゃないのか。相手の力に気後れして相手の目を見られないシャイを発動してしまっていたところからして勝負する前から負けている。負けていても顔を下げずに相手の目を覗き込んで心理的にすこしでも邪魔してやるぐらいのことはして食らいついていかないと。どこかで一時的敗北を認め、諦めている自分を見つけてがっかりするのだが、それの言い訳にスネの痛みを利用しているので、これでは良くてバスケに行くだけストレスになるから本当に考えものだ。わるくすると負け癖をつけて「まあまあまあ」とか言いながらヘラヘラして走らないプレーヤーになってしまう。脱力系のプレーとこの癖はとても相性がわるく、そのつもりがなくてもお互い引っ張りあって低きに流れることになる。だからできるだけ一生懸命走ろうというプレースタイルに振り切ってそれを安全弁にしていたのだが、それはそれで条件に縛られすぎ、守りに入りすぎということになりかねない。だから痛みのせいで脚が動かない日は、DFだけに専念する、あるいは味方のサポートに徹する、というようにプレーやその目的を切り替える必要がある。もしくはそもそも身体に不都合のある無理な日程でバスケに行かないことだ。
この日はバスケ終わりの片付けに参加せずすぐに帰る。狛江湯に行って温冷交代浴。自分のシャイについて考える。中年になってシャイを克服する(ように見える)のは、シャイな気持ちを内心に抱くことがなくなるというのではなく、シャイな気持ちを抱きつつそれをどうでもいいものと感じるようになるということでしかない。少なくとも自分の場合はそうだ。恥ずかしいという気持ちはなくならず、それが残ったままでまあいいやと思い、そう思うに任せるという消極的なものだ。本当の克服はその気持ち自体を抱かなくなるというものだろう。たぶん「勝ち」を重ねることで自然とそうなっていくのではないかと想像している。きっとアイツはそうなんだろう。
重ねてシャイについて考える。対峙したときに勝てないと感じ、気後れして相手の顔を見れない、というのがシャイという言葉の中身で、いかにも中途で繊細なニュアンスがあるかのように感じさせる語感とはその内実がちがっているという気がしている。犬がよくやるように上下関係をはっきりさせたいという本能のあらわれではないか。
帰宅して洗濯機を回したりなどしているうちにこの日も夜ふかしになってしまう。


2025/12/02 今日 3866
一日在宅勤務。奇妙な長い夢を見た。起きてすぐに忘れた感じがあったのだが、夢が長かったおかげか今も部分的にうっすら覚えている。一軒家でタリーズ時代のバイト仲間たちと久しぶりに再会するという場面があり、極端な悪天候で下階が水没している気配があった。キーパーソンの話を聞くために天井裏の部屋に上がっていった。敬意半分、敵対心半分という絶妙な相手で、表舞台に出ているところを無条件に尊敬しているだけという気もするし、その表現能力に惹かれている気もする相手だった。ちょうどお笑い芸人の中山功太ぐらいの感じ。何を話したのか、そもそも直接対峙したのかも覚えていないが天井裏だと思って上っていった先はカラオケルームになっていた。
午前中に『天』をすすめて午後には読み終える。初めて読んだときのような驚異的な感動はなかったが、そこで扱われているテーマ(というより登場人物たちによるテーマの扱われ方)を冷静に見つめられるようになった成り行きという気がして、それが残念という気もしなかった。金光がもっとも世話を焼いていたということからしても、また条件付き譲歩提案の適当さも、もっとも尊重されていい役目だったように思う。健の不遇さは一抹の笑いをもたらし、銀次の藁にも縋るような実感のこもった死への恐怖は、その後に展開される理論の子供だましであることに比べはるかに納得できるものだった。天がいう「それじゃ俺がこまる」という言い分は、その後の提案のもつ一般的な魅力とセットになってかなり有力なものだと思われた。しかし一番の手柄は、誰一人それを聞くもののないまま終わるはずだった言葉を引き出してあげたことだ。それは当事者となる人物ひとりだけでは、たとえ逆立ちしても出ない言葉だった。しかし気持ちが冷えるというか、冷静になれるのはなぜかというと、いろいろの演出を無視してあらためて人物として眺めると、今の自分には彼が薄っぺらい人物に見えるようになったことが関係している。これはとてもよく切れる剃刀に向かって薄っぺらいと言うようなもので、批判対象にぶつかる批判ではないと承知しているが、それでも負けを知らない人物というのはどこか不完全なものに見えるという意味で不完全だし、それを全うすることの良さというのは理解できない。なぜ剃刀ふぜいに温かさが理解できるのかという謎は残るが、謎は謎としておいていいだろう。とにかくそうなるべくしてそうなるようにして彼は発散されていった。
昔好きだったものを思い出すときに特有の「輪郭が二重になる感覚」があると思うが、アカギがそれを知らないままでいたことは明らかだ。アカギがひろゆきに対して言った「ぼやける」というのは、今に対してだけ起こる現象ではなく、過去に向かう意識のなかでも起こるものだから、今に集中し今にピントがあっていればこそそれが起こるということにもなる。賭け事一辺倒の夢中のなかではそれに気づく暇もなかったということで、それは一次元すくない次元を生きているということを意味している。切った貼ったで対応可能な二次元ということだ。三次元で生きる人間には真似できないし、たぶんほとんど何の参考にもならない。
知人がSNS上でGEZANというロックバンドメンバーのステートメントに言及していて、そのステートメントがよかったのでバンドに興味を持ち、Youtubeでその音楽を聞いてみた。とくに良いとは思わなかったものの何かを感じたのでそのまま武道館でのライブチケットを取ることにした。自分はどちらかといえば音楽に冷淡で、だいたいの音楽については仰々しく飾り立てられているだけで煩わしいだけと思っている。しかも音楽でできる表現は結局感情止まりだと高を括っているところもあるので、ただトレーニングのときテンションを上げたり、集中するときにヘッドフォンで聞いたりするだけ。なので普通ライブを見に行くということはしないのだが、例外的に行ってみようと思わせる何かがあった。ステートメントにおける対向への語りかけにまじめな意志を感じたのが大きいのだと思う。しかし、冷静に考えると、べつのどこかで当てられた熱をちがうところで発散しようとしているだけかもしれない。あるいはどこかで発散するための熱を溜め込もうとしているだけかもしれない。ちょっと考えただけだと後者のほうがありそうだと思われるが、どちらと断定しようという気はない。
最近は酒を飲みたいという気分そのものがなくなってきていて、その位置にべつのなにかが置き換わろうとしている。わりとシリアスな時期に入っているのだと思われる。大きく見れば目先が変わっているだけにすぎないとしても、単純に、変化は歓迎すべきものだ。
定時退勤しスタバに行く。『理由と人格』の「13章 重要なこと」の続きを読みおえる。これはと思った引用の文章がプルーストのもので、重要なこととは何なのか、自分の中でもかなりはっきりしてきた。ある意味で清々しささえ感じられる。ようするに”答え”がわかって、しかもそれが自分の思い通りで、清々したというところだ。日記を書いて21時すぎにスタバを出る。ご飯をどうしようか。明日は朝から出勤したいが。

日記687

たーみなる 2025/12/05 昨日 8417 21時すぎにスタバを出て吉野家に入り唐揚げ定食を食べてから帰宅。Vが起きている時間に帰れたのでご機嫌伺いの挨拶をする。帰ってきてもやることがなく、手持ち無沙汰から動画を見ようとしはじめるので手ずからそれを遮...