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20260923

日記801



2026/09/20 一昨昨日 19314
雨のなかバスケに行った。大雨の影響か季節柄か、体育館に毛虫がいたりして開始前に気分が落ちることが危ぶまれたが、始まってみればプレーは好調、メンバーも上機嫌で、とにかく楽しかった。リバウンドを褒めてもらえたのでたくさんジャンプをする回になった。自分史上一番高く飛んでリングに指がかかったりもした。
帰宅して家人が作ってくれたシマホッケのみりん干しの焼きを食べる。たのしいたのしいで酒も飲んだ。


2026/09/21 一昨日 5288
強雨のため一日家にいた。14時すぎに友人B、15時すぎに友人Nが来てボードゲームで遊んだ。Nが来る前にはスイッチのオインクゲームズで月面探索を遊ぶ。3回やって初回以外はクリアした。Nが来てから家人も参加してボードゲームで遊ぶことに。チャオチャオとドミニオンはともに却下され、だったらとヤケで提案したアズールをすることになった。自分はべつにやりたいわけではなかったが他三人のやりたいゲームでもなかったようなので、投票多数決で決めるよりはひとりのやりたいゲームをやるという意思決定のほうが適している場面だったと思う。アズールの勝者が次にやるゲームを決めるという話だったが、なぜかNのプッシュでタイムラインをやることになる。勝てなかったのもあるが面白くなかった。細かいルールの付け方で盛り上がり方が変わるはずなのだがNにはそういうルールの提案ができない。やりたいゲームはあるがちょっとしたチューニングをする気配りもそういうアイデアもない。まあ酔っ払っているとなんでもいいということになりがちだし実際なんでもよかったのだが。雨足が弱くなっていたので下北沢までふたりを送る。映画『オデュッセイア』の話をする。自分は本作の画面作りというかイメージの鮮烈さをかなり高く評価しているのだと気づいた。だからこそハリウッド的なクライマックスのわちゃわちゃが許せないという論旨だった。Bはクライマックス含め評価しているようだった。Bの映画評は基本的に辛いのだが、ハリウッド映画のハリウッド映画らしさに対する批判はなぜか抜け落ちているように思える。「ご都合主義」という批判の文言は出ないからスタンスに大きく矛盾はないが、ハリウッドの文法やその文法の都合で進む場面や筋が見えていないような適応具合でいながらたまに「リアリティ」という言い方をすることがあり、リアリティもひとつのフィクションにすぎないという観点に欠けているのかもしれないと思わせるところがある。NはIMAXレーザーにしないというムーブをしていて、勘所を押さえようとしていないのか、たんに勘が悪いのか、その両方なのか、その両方なのだろうという結論になった。見るときに感想で自分を表現しようという気がありすぎるのだと思う。だから同じ作品を見て感想を言い合うという感じにならないのが、ここ数年で彼と感想を言い合うのを避けようとしている理由だ。感想を言おうとして飛び出した言葉にずっと振り回されているし、乗っかっても否んでもそれに付き合わされることになる。
帰って家人と『さよならララ』を見る。タイトルに込められた悲哀の表現が直接俺を狙ってきたのかというぐらい琴線に触れる。網干行きの発車メロディのノスタルジー。心が痺れたようになり、見終わってしばらくのあいだ休憩が必要だった。翌朝のバスケに出ることに決めて早寝する。


2026/09/22 昨日 28777
9時からのバスケに行く。落合第二中。足が痛んでその分楽しさが目減りした。が、中盤以降アドレナリンが出てきてからは痛みが気にならなくなって機嫌を取り戻した。タッパのあるプレーヤーがいたのでディフェンスが大変だった。スリーポイントの練習の成果が出て3本打って2本入った。最後のほうのシューティング時にタッチを掴みつつあるシュートを放てた感覚があった。最近ではフォロースルーのゼロポジションを意識し、上ではなく前に押し出すイメージを強くしている。
代々木公園に移動。代々木駅近くのすき家で牛丼特盛を食べる。ビールを買って公園のドッグランに移動。酒を飲みながら犬を見ながら友人Nとその娘を待つ。合流後は彼女の歩く様子を見るのが主になり、犬たちがまとめて後景にしりぞいた。Nの妻・Nの娘の母とも合流し原宿に戻る。原宿、代々木上原でそれぞれNたち、Bと解散し帰宅。パッタイを食べて大相撲を見る。あまりの睡魔でよくない時間にうたた寝しそうになったので家人を伴って下北まで散歩する。涼しくてとてもよい気持ちだった。ホルモン青木で肉を焼いてハイボールを流し込んでから帰宅。
この日も早めに寝て正しい睡眠サイクルを取り戻そうとする。


2026/09/23 今日 2376
8時に起きて9時に出かけるまでゆっくり支度をする。スタバに行って芥川の短編集から『運』を読む。話の導入や運びがうまいし、言葉の選び方に気韻がある。良い席に座れたので日記を書く。自分が小説を書くことについて思っていることを整理しようとして次の文章を書く。
小説を書くということをわざわざやるのであればオリジナリティにはこだわりたいと思っている。つまり、自分の制作によらない文物の存在を前提とした作品を作るのは、それが導入なりイースターエッグなり、ちょっとした仕掛けのひとつという位置で登場させるのではないかぎりやりたくないということだ。今流行っていたり昨日今日注目を集めるようなイベントを作品に直接反映させるというやり方には、作者自身がそれをどう意図しているのかはさておき、きめこまやかなタイムラインを後の世に復活させるという名目は立つ。ようするに資料的価値の提供だ。つまり自分たちは日日こういうものに注目させられてきたという記録を残すことの役に立つとは言える。しかし、自分としてはわざわざそんなことを自分がやらないでもいいと思う。それにそもそも小説という形式がそれに適しているとも思えない。資料的価値をもつと言っても、なんらかのかたちに歪められたそれは他のたくさんの資料との照らし合わせにおいてはじめて価値が出るたぐいの参照項のひとつでしかない。整合性の観点からも、どのように歪められたのかというのは部分を参照するときに外されるモザイクのような取り除かれるべき障害物としてしか扱われないだろう。それが妥当な操作であるかどうかはおいても、そのようにパズルを組み立てるときのお邪魔ものとして、自分自身のもつ歪みとその結晶を矯めようとされるのは本意ではないのではないかと自分は思う。機械的な操作(ワンクリックもしくは自動翻訳)によって簡単に外されるロックとして自分自身の歪みを扱われ、実際、大方その通りでもあり、さらにそうなったときにはすでに反論のしようもないというのは、歪みの主体にとって悲しむべきことだ。そういう悲しい面を見せることで、そのときに在るべつの歪みの主体を尻込みさせるようなことはしたくない。もっと言うと彼らの反面教師にはなりたくない。
小説を書くのはセラピーではない。小説を書くのは自己満足ではない。
これは自分の書いた小説だというものを書きたい。自分を取り巻くさまざまなものによって書かされたという面はどうしたって出てくるものの、書いたのは自分だといえる小説を書きたい。そのためには他人の制作物をみだりに使うべきではない。それによって注目を集めるのは多くの人に読んでもらうためには必要なことだという論理はありえない。それをすることで自分の書いたものだと言えなくなったらそもそもの意味がなくなるからだ。
これは自分が書いたものだ。読まれないのは自分のせいではない。心底からそう思える小説を書きたい。それが書けたらその時点で人生は成功だ。それから先は人のために作品を宣伝する活動をして過ごせばいい。「これが良い」というものを持っていてそれを人に薦められる生活は、それ以上ないほど気楽なものだろうと思う。逆に言えばそれがないかぎり気楽さはつねに足りない。信仰を持つことの一番の利点は気楽さを得られるという点にこそにあるのだろうと想像する。ある意味で自分を捨てることでしかその道は開かないのだろうから、それは選択肢に入らないが、どうにかして気楽さに到達したいと思ったとき、自分には小説があった。
最終的にその気楽さが手に入らないままで終わるにしても、それを目指していることですでに気楽さをいくらか得られている。結局、気楽さを得るためには自分で作った自分の目的をもつことだ。それはセラピーではない。どこかへ達しようとする人生はべつに病状と呼ばないでもいいからだ。それは自己満足ではない。満足できるまでやって実際に満足できたとしても、満足したらそれで終わるというかたちは取らないからだ。それを薦めようとするフェーズがあとに続く。
言葉を使って表現することは、他人のなかに存在しようとすることだ。その表現を通して自分を他人のなかに存在させようとすることだ。他人のなかに存在する仕方はいろいろあるが、自分が一番得意なのは小説を書くことなのだと思っている。べつのやり方ではうまくいかなかったり、自分でこうしたいと思うほど上手にできなかったりする。これは言い訳だが、フィードバックが早すぎて試行が場当たり的になったり、その場しのぎになったりする。ときたまそれらのうちのどれかが上手くいったとしても、瞬間の印象を点々と残す・点在することしかできない。もっと贅沢に一定の期間をもらって線を引きたいし、面として当たりたい。さらに厚かましいことを言うなら体を形成したい。小説以外にも得意はいくつかある。ただ、立体的に存在するところまで存在級位を推し進めようとするのなら、自分には小説がもっとも適している。これは感覚的に自明のことだ。
人は小説を読まないとか、人はじゅうぶんな器や容積を持たないという事実もある。それでもそれは一定の事実にすぎず、すべての人が小説を読まないわけでもじゅうぶんな器を持たないわけでもない。自分としては全員の可能な全員に向けて小説を書くというスタンスを崩すつもりはないが、そうは言っても全員に自分の小説を読んでもらうわけにはいかない。社会の努力が結実し、もしも全員に小説を読む時間が確保されたとしても、読む小説には正しい順序もあれば優先順位もある。その順番抜かしをして自分の小説を読めとは思えない。そうすると正味の読者量は相当絞られる。霞を食って生きないかぎりそれで生計を立てるというのは不可能だ。これを書いていて気づいたことなのだが、自分の小説が読まれるべき小説が読まれることの障害になることがある。これは意想外だった。自分が文学フリマに感じる違和感のもっとも大きな部分は、ある文学作品が読者の時間資源を消費し、本当に読まれるべき文学作品が読まれるための時間を奪い、文学に背を向ける結果になっているところにあるのだが、これは自分の小説にもまったく同じことが言える。相当程度に辛抱強く読書を続け、しかもアンテナをあらゆるところに張り巡らせていないかぎり、そもそも自分の小説の読者にはなりえない。だから結局、読者はひとりいれば御の字だということになる。その意味でもこれは自分の書いたものだと言いたいというのは決して誇張した大目的ではなく、事実としても最大目的そのものだ。そうは言っても何人かは読んでくれるだろうというのは非常に甘い見立てで、根拠のない夢想に過ぎない。だからどこまでいっても書くことが目的ということでいいし、そうでしかあり得ない。それでも書きたいのであれば書けばいいし、そういうことならさすがに書かないというのならそれもいい。ただ、書いて完成までもっていければ、すくなくとも自分だけはそれを読める。自分はそれを励みに書こうとしているし、それだけのために書いてもいいと思っている。そうだとすれば、作品が誰かの制作物を前提としたものにならないというのは根本的な条件にもなろうし、わざわざそんなことをする意味がないというのも理解できることだろうと思う。何かが面白くてそれを取り入れるというのも、単にそれを見返したり読み返したりすればいいだけのことで、自分の小説として他人の制作物を振り返る意味がない。

ストローとしての役割しかこなせないというのでもいいが、それにしてもある程度の長さは必要だろうと思うので、まずは浅い呼吸を見直すべきだという主旨がある。自分は一介の文学者にすぎず、小説家になるつもりはないからそういうことを思うのかもしれない。

20260920

日記800

ビクトリー

2026/09/16 四日前 14468
一日在宅。強い雨の降るなかバスケへ。落合第五小。帰ってから家人の作ってくれた鶏の胸肉の片栗粉まぶしピリ辛焼きのご飯を食べる。さよならララを見る。まりの「まだ死ななくてもいいんだよ」というセリフとED曲の入りが完ぺきで、ぐーっときた。今さらながら滋賀県が舞台というのもやはり大きい。


2026/09/17 一昨昨日 14210
午前在宅。午後から出社。10月から所属変更になるので新上長との顔合わせ兼打ち合わせ。今の上長とは相性がよいのか伸び伸びとやれていて文句のひとつもない。だから変更になるのはプラスよりマイナスが多いだろうと思うので微妙だ。しかし長くても残り半年なのでどう変化してもいいやと適当に構えていればいいと気を取り直している。帰宅即狛江へバスケ。なのに一駅乗り過ごして時間のロスになる。バスケに遅れるのは仕事に遅れるより何倍も嫌だ。あわてて移動する。15分ほど遅刻。狛江第四中。連日のバスケで脚の疲労感が強いのをカフェインでごまかす。いつもよりリラックス度合いの高いプレーをした。なんちゃってストリートボールスタイル。


2026/09/18 一昨日 7575
一日在宅。『存在と時間』を読む。やっと1巻を読み終える。定時退勤して職場の飲み会に田町まで出かけていく。新しい人と話したりするのは楽しい。いい加減なことを適当に喋って突っ込んでもらったりもらえなかったり。ベルサイユの豚という気の利いた店名で肉が売りのようなのだがほとんど食べずにハイボールを飲んでばかりいた。基本的に楽しいことしかないのだが飲み会が終わるといつも疲れが出る。一時的な疲れだとわかっているので「俺は悪くない」との独り言と他責思考で乗り切る。


2026/09/19 昨日 4165
一日家にいてだらだらと過ごす。朝早い時間に目が覚めてしまい寝不足になったことで一日のクオリティが落ち、すべての進捗が停滞気味になった。ここ1週間でまた天鳳にハマって麻雀しているのも時間の使い方の面ではよくない兆候だ。『漂流教室』を読んで読書会に参加する。『存在と時間』について何かを言うことのむずかしさにばしっと直面してしまったが、他の人の話を聞いているのは楽しかった。16時半から19時前ぐらいまで。その後散歩しつつ飲みに出る。Peelを飲みご飯を食べてすぐうたた寝をしてしまう。23時近くに目が覚めてしっかり寝ようとするが寝つけず。2時ぐらいまで起きて『漂流教室』を途中まで読む。アーセナルがブライトンに0−3で完敗していた。


2026/09/20 今日 691
この日も一日家にいてだらだらと過ごす。雨が強いので出かける気にもならない。天鳳はしていない。『存在と時間』の2巻にとりかかる。『漂流教室』を読む。大相撲を見る。18時から落合までバスケに行く。落合第五小。

20260914

日記798

ラック

2026/09/12 一昨日 11028
午前中は『存在と時間』を読む。昼すぎから南町田へ移動。途中の中央林間の大戸屋で遅めのランチ。もろみ炭火焼きチキンW盛りとご飯特盛。グランベリーパークの109シネマのIMAXレーザーで『オデュッセイア』を見る。いろいろ感想はあるのだろうが、この作品でないと得られない独特の体験があるのはたしかだ。それを補完するためにもIMAXレーザーで見るのは必須だと思う。気になったところは、ハリウッド映画の制約からクライマックスで派手なバトルシーンがあってオデュッセイアが大暴れするお約束シーンが用意されていたことだ。映像的なゴージャスな質感が台無しになるほどではないが、それでも物語のトーンがハリウッド映画じみたものに引き寄せられたのがもったいない。そのまま田園都市線で三茶に移動。酒を飲みながら歩いて帰る。FIGに入ってご飯を食べた。グラタンなどのチーズを使った料理がおいしい。食後のデザートのプリンもカラメルがパリッとしていておいしかった。200円というのは驚きだ。そのほか全体的にこの店の価格設定は安すぎる。


2026/09/13 昨日 16883
朝から『存在と時間』を読む。1巻の終わり近くになってやっと文章に慣れてきた。天幕のジャードゥーガルの最終回を見ながら昼ごはんを食べる。ゆっくりゆっくり進んでいくなと思っていたら尻切れトンボのように終わってしまって驚いた。正直第一話が一番面白かったと思うが、ラスボスを善人でなおかつ良君にするのがチャレンジングで最後まで見届けたい気持ちになっただけに終わってしまうのは残念だった。大相撲初日を見る。高円寺までバスケに出かける。イマジナス。3Pシュートにチャレンジした回だった。一本だけ決まった。外れても打つことが大事だと思って打った。最寄り駅まで車で送ってもらい、帰ろうとしたところ家人から厚揚げのお使いをお願いされる。セブンにもローソンにもなかったのでまいばすけっとまで行く。家人を呼び寄せて荷物を持ってもらう。帰り道で予定外のPeel(7%500ml)を飲む。帰宅後ご飯を食べてからシャワーを浴びて12時すぎに寝る。


2026/09/14 今日 2337
一日在宅。『存在と時間』を読む。明日できることは明日やるをモットーに仕事はまるまる積み残す。卵焼きを作って昼ごはんにする。食べてから昼寝をして腕立て伏せ。大相撲を見てからバスケに出かける。連日はよくないとわかっているのに我慢できない。高円寺学園。この日も3Pの挑戦と走ることを意識してやろうと思っている。

20260911

日記797

グリーンライトを探せ


2026/09/09 一昨日 18221
朝から出社。昼から在宅に切り替える。定時すぎに退勤し、バスケに出かける。落合第二中。最後のゲームで3Pを決めるなどして逆転勝利に貢献できた。攻殻機動隊が面白かった。一言でいうと意義あるアニメという感じがした。最終回のクライマックスを対話に持っていく構成(攻性)が見事だ。聞くと突飛というか、わりと奇抜なことをしているはずなのだが、そう感じさせない10話の組み立てになっている。円城塔のワークだ。


2026/09/10 昨日 17224
朝から出社。一日オフィスにいた。久しぶりに社食で昼ご飯を食べる。たまったタスクをここぞとばかりに消化する。定時退勤。バスケの練習回に出かける。狛江第四中。3Pの打ち込みをしようという明確な目的があった。トップ、45度×2、コーナー×2でそれぞれ20本ずつ決めれば合計100本になるというワークだった。2時間まるまるかけて98本で終わった。最後トップで残り10本になってから感覚が良く連続で決まっていったが、ぎりぎり時間内におさまらなかった。シュートの打ちすぎで肘の内側が筋肉痛になりかける。普段の練習では筋肉痛にならない箇所だ。率からいって外したシュートの本数は5倍じゃ効かないほどなので投球数自体かなりの数になるし、筋肉痛になってもおかしくない。


2026/09/11 今日 6279
朝から出社。ジョックロックのラジオをYoutubeで聞く。ゆうじろうが福本に対して溜まった不満をぶちまける回で、なぜかおすすめに上がってきたので通勤時間を中心に聞いた。ゆうじろうの福本に対する不満は、福本が”大人の対応”をするだけあってわかりやすい問題行動に根ざしたものではなく、ちょっとした仕草やノンバーバルなコミュニケーションの端々にあらわれる若干の(ゆうじろうの気のせい勘違いレベルかもしれない)トゲトゲしさに起因しているだけあって、どういうところが不満なのか、一例でいいから具体的に教えてみてよという福本の差し水ではうまくゆうじろうのペラが回っていかない。具体的なエピソードして話せないため、会話というコミュニケーションにおいて、しかもラジオという聞かせる会話というやりとりでは、ゆうじろうの分はあまりにもわるい。年次でもコンビ間の役割分担でも立ち場が下になることもあって、どうしても福本が大人で、ゆうじろうが子供に見えてしまう。しかし子供の言い分にも、言い分にではなくてもすくなくとも感じるところには一部の理もあるはずで、福本は大人なだけあって”ゆうじろうが言わんとしていること”はわかるはずだという気がする。ゆうじろうがコンビの「関係が悪い」というのは、作者自身も良いと思わずに出してきているような成果物に対して、受け取る側としても無責任に良いとは言えないが、それをそのまま伝えることはできず何かしらの反応をしなければならないという負担に根ざしているように思われる。福本は「人としておかしい」などという言葉で、社会通念や常識を盾にして「社会人だったらあり得ないだろう」という正論じみた議論の展開をするが、はっきり言ってそれは周縁の話であるにすぎない。とにかく問題は、自分自身で、半信半疑ではあっても最終的に「これが良い」と自分に対して言い切れるものを出しているのかというところにある。そう思っていないのに、自分自身で良いと思っていないのにそれを出してくるというのは本末転倒しているじゃないかというのがゆうじろうの主張だと思われる。それに対して「俺は時間外労働で寝る間も惜しんでネタを書いている」というのは、おそらく社会通念的には通用しても、表現において通用する言抜けにはならない。いや、実際にはその言い分は社会でも通用しない。ただ社会における多くの仕事はそこまで難易度が高くないから、時間をかければなんとかなる場合が多いというだけの話だ。おそらく社会でも、期待される内容に到達していない成果物は、たとえ「寝る間も惜しんでやりました」と言ってみても通用しない。だから福本がどう思っているかどうかを別として、ゆうじろうが「良いと思ったら良いと言うし、良いと思わなかったらそう言う」というのはそれしか正解がないレベルで、正論の域を越えて正しい。福本が今どうやっているのかわからないが、作ったネタを完成品のラベルを貼ってゆうじろうに見せようとしているのであればそれはやめるべきだ。そもそも、それが良いか良くないかを真剣に考えようとしている相手に、自分で良いとは思えないものを出すべきではない。しかし、良くなるかもしれないがまだその引き出し方を見つけていないものであればそれこそ積極的に出していくべきだ。ふたりで作るというのは簡単なことではないかもしれないが、それでも未完成品を完成された作品の体裁にして出すことよりは気の利いた方法といえるはずだ。ゆうじろうは不満を打ち明けようとしつつ、自分にとって言葉にするのが難しい部分については無理に言葉にしてミスディレクションする愚をおかしておらず、言葉遣いにも彼なりに気をつけ、総じて立派な態度だった。福本は真面目だが、自分の真面目さが多くの盲点を作り出してしまっていることに無自覚な、社会通念をお上としたせまい枠内でしか活きない生真面目さで、あまり見栄えがしない。真面目であることを意識してやめるべきだと思われるが、社会通念の枠内で見せるお笑いをするのであればそのままでもいいのかもしれない。その場合はジョックに改名したほうがいいと思うが。
昼すぎに打ち合わせがあってファシリテートする。知識・経験・やる気が最低の人間にファシリテートの役割が回ってくるのはどうかと思うが、各歯車が優秀なので邪魔さえしなければ勝手に回り、30分でしっかり結論が出る。議題のひとつを完全に忘れていてそのまま会議を切り上げようとして参加者にフォローしてもらう始末。恥ずかしさもありアハハと照れ笑いを浮かべてみたがリモートなので誰にも届かず。Viva Teams.
在宅に切り替える。ぶっ豚を食べようとしたが15時半〜17時までの休憩時間にぶちあたり、仕方なくコンビニでスパゲティを買って帰宅。300gを茹でてミートソースをかけて食べる。ここ最近うっすら睡眠不足気味なので昼寝をしてから退勤。すっかり涼しいなかスタバへ行く。『存在と時間』を読む。日記を書く。
家人からラインがある。「立川まで辻井伸之のピアノを聴きに行く途中、立川駅で靴をホームから落とすハプニングに見舞われて遅刻し、入場が危ぶまれる事態に陥った」とのことだった。実際に自分自身の経験だったら1週間単位では最大のトピックになるだろうなと思った。駅員に拾い上げてもらい、無事間に合ったとのことでよかった。

20260908

日記796

中にある


2026/09/02 六日前 19151
午前在宅。午後から霞が関で提案。緊張したが当たり前のように説明をこなす。緊張するといっても昔よくあったような手足にガタガタくるほどの緊張ではないので自分としてはこれを緊張と呼ぶのにはすこし違和感がある。飛び出しで体育館に行ってバスケ。中野第五中。楽しかったというすでにかなりおぼろげな記憶がある。録画映像を見ないとどんなプレーをしたのかも覚えていない。記憶はとにかく薄れる。わりとすぐ存在しないレベルになる。しかしもちろん存在しないわけではない。端末やクラウドに保存したデータがそれを証明してくれる。帰って家人が作ってくれた焼きそばを食べる。ポン酢の味付けなのだがにわかに信じられないほどうまかった。


2026/09/03 五日前 18182
午前在宅。午後休をとって東京医科大学病院にいく。初診なのだが14時に行って診察が16時から。たっぷり2時間待った。普通であれば許さないのだがちょうど全巻100円セールで『エアマスター』を買って読んでいたところなのでそこまで機嫌を損ねることはなかった。途中、見るからに症状の重い患者が待合にきたりして、こんな小さなことで気を悪くする自分のちっぽけさに直面させられたが、それも15分と立たずに失われてふたたびムカつきが顔をのぞかせることになった。検査代もあわせて12000円ほど支払うことになった。健康を維持するためだとはいえ手痛い出費だ。吉野家で牛丼を食べる。一旦帰宅し、この日も連続でバスケに出かける。狛江第四中。疲労のため足の痛みが強く出たが、靴紐を一番上まで締めてみたところわかりやすく症状がやわらいだ。これまであまりよくないバッシュの履き方をしていてそのせいで足に余計な負担が来ていたのかもしれない。バスケはリラックスして楽しめる回だったので楽しんだ。自分が上手な部類に入るいわゆる体育大会レベルのバスケに特有の楽しみがある。それに慣れると人は傲慢な人格になるのかもしれない。帰りに業務スーパーで米パック×10とキムチ400gを買う。最寄り駅から帰宅するまでの道で鱗雲が月明かりに照らされるきれいな空に出会い、気持ちを持っていかれた。涼しいということもあり、ここにすべてがあるという気持ちになった。ワンショットの国崎作品『空音』をまた見て寝る。また夜更かししてしまった。


2026/09/04 四日前 11001
朝から出社。15時ぐらいまでぶっ通しで働き、打ち合わせが終わったタイミングで帰宅する。30分ほど在宅勤務して退勤。友人Nに下北まで来てもらって飲む。普段の通り外を歩き飲みしていたが雨がつよくなりそうになったので店に入ることにする。みるくかKappaで悩んでKappaに入る。日替わり店主の当たりがよく、3杯ほど楽しんで飲めた。彼の心遣いで蛇酒のショットをご馳走になる。友人と仕事が楽しいということは可能かどうかの談論をかわす。いまの仕事でも楽しいと自分を誤魔化すことは可能だがそうしたくはないというのが自分の主張だが、相手は誤魔化すとかではなく心からそう思えるという。あきらかに頑張っている人の言うことだが、彼は頑張ってその職に就いたわけではないし、働き方を聞いていても特段頑張っているとも思えない。それでも何でも面白いという立場を取れば成り立つとは思う。しかし彼の話を聞いていると見聞きした作品に対する彼なりの文句も多く、その部分との整合性が取れないことになる。自分を棚上げしてしかも棚上げしていることに気づかないという特殊なスキルがあればそれも可能だが、はたして。23時半に解散。


2026/09/05 一昨昨日 6943
一日家にいて『存在と時間』を読む。単純にかけた時間を思えばもっと読めたはずとは思いながら、集中力資源のことを考えるとまあ上出来ということになる。しかし日記を書けばよかったとは思った。家人が買ってきてくれた昼ごはんの鶏肉が倍量になったお弁当の残りをそのまま夜ご飯にして食べる。一日座っていた腹いせに下北の街に出かけることにする。適当にBUZZ STOREに入り、家人がカーゴっぽいパンツを買う。自分も暖色アースカラーでストライプの薄手シャツを買った。肌寒かったのでそのまま羽織って帰る。この日の買い物の仕方はお洒落だった。


2026/09/06 一昨日 30145
9時からまもりやまテラスでのピックルボール会に参加する。雨のなか急いで歩き5分遅刻。人数が多すぎてパドルを振る回数は少なくなるが、それでもピックルボールは面白い。荷物を置いて、スパゲティを食べてから東京駅へ。東京にきている友人Tと会う。目当てのカフェは満席。飲み食いできる場所を探すがこれという場所が見つからず、丸の内をぐるぐる回る羽目になる。結局八重洲側の一番街にあるNoodle Houseに入る。バスケの予定があるので烏龍茶で済ませる。シークレットゲストとして友人NとBを呼び寄せていたが、うまく軟着陸がかなって和やかで楽しい会になった。一か八かと思っていたが良い方に転んでよかった。
友人Tを新幹線改札まで見送り、NBと高円寺に移動する。バスケが高円寺であるのでこちらとしても都合よく、大将という店に入ってバスケの時間まで同席する。せっかくの良さそうな店の軒先席なのに自分はノンアルビールだけですこし悔しかった。涼しいし、雨が天幕を打つ音がちょうどいいBGMになっていてよかった。旅行の話やグルメについての話をする。もし値段が低かったらそこまで美味しいと感じない食べ物の話になり、カニとエビの価格が逆だったとしても正だったとしてもエビのほうが美味しく、エビの価値がでかいという好例を思いついた。味についてはとくに友人Nのことは信用がおけないと思っているので、自然と話を聞く姿勢も消極的になる。濃い味つけが好きだとか、場面によってはBもそうなのだが、それについては自分自身も場面によって全然美食家とはいえないところがあり同断だと思えるのだが、Nについてはそう思えないほど頓珍漢なので、ちょっとどうしようもない。彼は家族関連で高い食べ物を食べる機会が一気に増えたようなのだが、控えめに言って猫に小判、露悪的に言えば豚に真珠だ。高いものだから美味しい以外の何かを感じられているのだろうか。はなはだ疑問で、もはや逆に確信になってしまっている。
予定通り途中抜けしてバスケに行く。イマジナス。プレー強度の高い集まりなのでぜえぜえと疲れてしまうが、覚悟を決めて行ったので対応できた。具体的には気分を盛り上げて疲れを前に出さないようにコントロールするというやり方だ。強度があがると一気にシュートが入らなくなる。それでも何とかかんとかねじ込んだり外しても気落ちしすぎないようにして、尻上がりに調子を上げていけた。実際チームも中盤から終盤にかけて勝ちだして、最後の試合も勝利で飾れた。強い雨のなか車で送ってもらう。転職を考えていたらしく転職先が決まったという話をしていた。帰ってから家人作のハンバーグをいただく。ソースにマッシュルームをつかっていてポルチーニ風味でおいしかった。肉がぎちぎちに詰まって肉感の強いハンバーグだったのでソースがよいアクセントになっていた。シャワーを浴びて寝る準備をする。ハンターハンターを読んでから寝る。


2026/09/07 昨日 7573
一日在宅。時間はあったのだがほとんど何もしなかった。『存在と時間』をすこしだけ読み進める。雨ということもありどこにも出かけず、退勤後にスタバにも行かず、ゼロで終わるところだったのだが、これでは駄目だと強いて下北まで出かけて上から目線ストリート用に数枚の写真を撮る。それでギリギリ0ではなく1の日になった。家人謹製のポン酢焼きそばを食べる。あと乗せの刻み大葉が効いていておいしかった。


2026/09/08 今日 6960
ほぼ一日在宅だが、途中で渋谷に出かける。打ち合わせだけ済ませて帰宅。じめじめして蒸し暑い日で、駅から家までの徒歩移動だけでけっこう汗が出た。勝手に塩漬けしていたタスクからとうとう爆発の音が聞こえたのでしぶしぶ一次対応をしていたら1時間の残業になった。スタバに行って溜まっていた日記を書く。日記を溜めすぎていて本当は日々を彩っているはずのいろいろな細かい出来事をないがしろにしてしまう。腕立ては一応続けている。アニメは『さよならララ』『攻殻機動隊』『天幕のジャードゥーガル』を1話ずつ見ている。バラエティは有吉クイズのメモドライブをとくに面白く見た。19時すぎから20時20分まで日記を書いた。この後は家人とホルモン青木でちょい飲みにいくつもり。

20260610

日記768

フルオープン


2026/06/09 昨日 7371
9時過ぎにスタバを出てアルを飲みながら帰宅。豚肉を蒸して千切りキャベツを温めた料理と豆腐を混ぜた卵焼きを作ってくれたので美味しくいただく。豚肉を半解凍のままで調理しただけ明確に改善されていたがもう半分の改善点としてかたい固まりになっていた。それでもポン酢をかけて食べて相当うまい。
『違国日記』のラスト2話を見る。高校時代あるいは高校生を、安直に高校時代の過ちととらえたり高校生あつかいして侮らないところに面白さのカナメ石があると思った。右に倣えの言語化欲求に抗うのだ。あるいは、言語化したそれは言語化の賜物ではなく、よくある模倣、もっとわるければ同調表現にすぎないのではないかと疑うのだ。それは具体的には小説家を称する叔母に「わけわからん」と抵抗することかもしれず、そのあまりにも子供じみた言い分に、「考えろ」と舐めたことを言われる始末になるのかもしれないが、それでもわかった風の風を吹かせるよりはいくらでもマシだ。


2026/06/10 今日 8918
朝から大手町で用事。そのまま高輪ゲートウェイに出社して一日コミュニケーションをとりながらの仕事日になった。定時退勤して映画館でビッグ・リボウスキを見る。映画前に一時間あってお腹が空いていたのでねぎしに入ってトンテキを食べた。この日、ビッグ・リボウスキを観ることに決めた瞬間からちょっと元気になっていたのだが、2列目の席どまんなかに陣取り大きなスクリーンで愛すべきバカなキャラクターがちょろちょろするのを見たらよりいっそう元気になった。お使いの小仕事で毎日の生活費や家賃をペイして、丁寧に動くことを強いられる生活だが、気持ちはいつもデュードのように清々しい無職でいたい。デュードにはウォルターとドニーがいるというのがポイントだ。誰もドニーの役をやりたがらないだろうが、デュードの役を望みながら実際はデュードどころかウォルターにもなれない。常識的なバランス感覚がわれわれをウォルターにするのを食い止めつつ、ドニー役へといざなうのだ。
しかし今回の何度目かわからない視聴では、デュードの行為と状態について今までよりも高精度というか高解像度な見え方がしたように思う。酩酊状態といって一種類ではなく、単純な競技といって楽しみがないわけではないという、すこし考えれば当然のことを踏まえて主人公を追いかけることができたからだと思う。

20260404

日記740

管理樹木

2026/04/01 一昨昨日 7402
一日在宅。それなりに忙しかった気がする。でもすこし昼寝をした。ほとんど記憶がない。昼間はどうでもいい仕事をこなしただけだった。自宅トレーニングをすこしやった。残業もあっての退勤後、雨のなかシェルターまで行く。ヤスエでんじゃらすおじさんのワンマンライブを見る。ロック音楽のことはわからないが、以前に見たスリーマンでのライブで圧倒的に楽しそうだったので注目していた。ポジションがわるく、上手のボーカルしか見れない位置にいたので楽しそうに演奏するメンバーという視覚情報に欠け、こちらの気持ちが共振して盛り上がるということがなかった。音楽はパフォーマーのパフォーマンスよりも聞く方のセットに大きな影響を受ける表現だということを再確認した。アンコール含めラスト2曲の頃にドリンクチケットで飲み物を飲むため場所を移動したことでメンバーの表情が見える位置取りになり、それで一気に楽しくなった。ずっと腰が痛かったのも途中で盛り上がりきれない原因だった。雨が小止みになっているなか、追加の酒を飲みつつ家に帰る。家人にこのバンドを見せられてよかった。


2026/04/02 一昨日 19967
午前在宅。所用で新豊洲まで。用事は思ったよりすぐ済んだので、豊洲の吉野家で牛丼を食べた後スタバで『タイミングの社会学』を読む。フィリピンのボクサーが戦う相手は、日本やアメリカのボクサーが戦う相手より多いこと。それを打ち破るための戦いによって得られるものは、日本やアメリカのチャンピオンが得るものとは比べられないということには説得力があった。自分がプレイしているゲームに対して、自分の解釈を通してその範囲を拡大させるアプローチというのには次元の異なった力強さを感じさせられる。努力だけではない、努力に裏打ちされた工夫というものが必要になり、それが活躍する土壌というのは、不遇な状況から逆転する土台でもある。そういう観点では優遇されているものこそ不遇な状況にあると言えると思った。優遇されているとそういうことを言うのは難しいが、それでも腹に力を入れて言おうと思ったら言える。情けないような苦味が走るのは避けられないが。あとは日常的にバスケをしていると、ボクサーの言う「身体が動く」という表現にはなるほどと思わせられるところがあった。ボクシングの場合、アンコントローラブルな領域に突っ込んでいかないと相手に負けるというところから、つまり必要があってそこまで進んでいるんだろうと思うが、頭が身体を動かしているというのではなく、身体が動くことに対して手綱を引くというように競走馬と騎手との関係で喩えているのには半分納得できるところがある。プレータイムには、そのときにはもう考えている暇はないという瞬間がある。そのとき認識面は受動的な作業しか担わせてもらえず、判断・動作など決定的な要素はすべて身体が担当することになる。認識面は自分のしでかしたことや達成に対してあとからの評価を下すだけで、それはプレーにとってはあってもなくても良いものだ。個人としてはその評価で気分が上がることにつながっているので重要だし、それなりに効果的に使えるものでもあるから認識面が不要ということにはならないが、番手で言えば二か三だ。納得しきれないあとの半分というのは、あとから評価したり判断するのはこのとおり頭がやっていることなので、手放しで身体の優位を言うということはできかねるということがある。さらにプレータイムにおいても、認識する時間を取ることで「流れの逆をつく」という優雅な騙しのテクニックを使えるようになる。切り札は意識の外から出されるほうが効果的だ。
高輪に移動して定例のミーティングに出る。終わり次第家に帰り、仕事の残りを片付けて退勤。狛江までバスケに出かける。経験者枠の回で、いつもうまいなと思っているプレーヤーも制限なしでバスケプレイしている感じなので楽しかった。ゴール下でのフリーのチャンス時にドンピシャのブロックを受けて、本来であれば悔しいはずなのだがあまりの見事さに他人事のように感心してしまった。華のあるプレーヤーによる、滅多に見られない猛然として止めに来るプレーだった。とはいえ、こちらの身体には一切接触せず、きれいにボールだけを叩き落とす華のあるプレーでもあった。この日は得点などの成績はそこまで伸びなかったが身体は動いて楽しかった。ヒップヒンジやバーピーなどの自宅トレーニングが効いているのかもしれない。


2026/04/03 昨日 8399
一日在宅。翌日に休日出勤作業があるのでその準備などをした。待機時間があるのでそのときにやろうと、いくつかのタスクを後回しにしてゆっくり過ごす。ドロヘドロの第二期の3話を見る。ドロヘドロでは、人の形をした野生動物のような位置づけで人が登場するので殺人の位相が現実世界とは決定的に異なっていて、その認識の違いが面白い。よくある時代物では人権を持ってそうな庶民が人権を持っていそうな顔で物を言ったり何かをしたりするのを見せられることになるので、それとは対照的だ。ドラマや映画では、演じる役者は現代社会の成員なのでどうしても非道さに天井がある。それに比べてアニメでは、自分たちの常識に汚染されていない、”認識の違う”人物の感情を完全に演出できるという強みがある。「殺してやる」とか言わないし、べつにそんなこと思ってもない。小さな羽虫を潰すぐらいの行動がテンポよく繰り返されていく。
退勤後、五反田まで行って夜桜花見。戯れにヘアアイロンを使ってもらったところ、おかしな髪型になった。折角なのでとそのまま出かける。一張羅を着て、気持ちが挫けたときのためにキャップを持っていった。花見会場は行ったことのある場所なのだが記憶していたよりだいぶ良かった。花、川の流れ、定期的に橋をわたる山手線、ビルの谷間に浮かぶ月、人たちは賑やかに楽しそうで、しかしそれなりの間隔を空けられるだけのスペースも有り、暑くも寒くもなく風も吹きつけず、平たく言えば最高だった。


2026/04/04 今日 2544
出勤のはずが、家を出るときに業務端末を見ると急遽のキャンセルという連絡が入っていた。休日の予定を空けられ、当日キャンセルというのははっきり行って許しがたい所業で、仕事・職場に大丈夫ですよと言ってはいけないことだが、そのままスタバに出かけられるということもあり、実テンション的には「OK〜!」という感じだった。『タイミングの社会学』を読む。日記を書く。

20260123

日記709

サバイバー

2026/01/21 一昨日 7751
17時過ぎまでプロパガンダにいて、荷物を置くため一旦自宅に帰る。大相撲を結びまで見て、FEVERまでGEZANのライブを見に行く。DOGO、the hatchのパフォーマンスを見たあと、本命のGEZANになる。前の方をキープするために2時間以上立ちっぱなしになったので腰が痛くなってきた。DOGOの演奏は若さからくる生硬さ・眼差しの強さ以外に見るもののない内容でとくに感心しなかったが、マヒトゥ・ザ・ピーポーは徳を積むためなのか、MCでわりと好意的に彼らに言及していた。「若い時にも自分たちにもあった”違和感”を全身にまとっていてなつかしい」というような内容だったのでおためごかしのない言及だったともいえるラインだが。GEZANのライブパフォーマンスは力強くシリアスなもので、研ぎ澄まされた集中力を立ち上らせていたが、そのぶん余白がないということもいえる。余白が一切ないことによる張り詰めたものが特長でもあるような声なので、これはこれでいいというかこれしかないという迫り方になっている。ただ俺はYDOのたわみと楽しみのほうを音楽として評価する。ライブハウスでのパフォーマンスに触れることが目的でもあったので、向こう側でダイブしているのを見れてよかった。ただし見たかったとはいえ実際に見ると自分がそこまで高まっていなかったこともあるのだろうが、危険という感性が前面に出て結構引いてしまった。自分がライブハウスに馴染むことはないだろうということがはっきり知れた。呻いたりほとばしったりをろくにしないまま過ごしていくのかと思うと、すこしうめき声が漏れた。夜、リビングで大声を出さないでくれと家人に怒られたのですごすごと寝室に引き上げて寝る。翌朝の電車移動中にもおとなしくしていることの後ろ暗い気持ちを引きずることになった。


2026/01/22 昨日 14408
午前在宅のつもりが突然対面ミーティングを設定されたので、あわてて出かける準備をして電車に乗る。時間ぴったりに到着できたのだが、来週開催のミーティングを今日だと勘違いしていただけだった。どれだけクダを巻こうといざ必要に迫られるようなことがあると、あわててノコノコ出かける以外の選択肢をもたない自分の生活に決定的な不足を感じ、通勤電車内でもいつにもなく不機嫌な気分に支配されていた。しかし、生活に決定的な不足を感じるというのは、そのときどきに読むべき本を見つける絶好機でもあるというTIPSのとおり、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』などにかまけている場合ではないと、「海外文学」でインターネット検索をして、まだ読んでいない読むべき作家のリストを作った。ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、セリーヌの『夜の果てへの旅』『なしくずしの死』、フォークナーの『怒りと響き』『アブサロム、アブサロム!』『八月の光、』マッカラーズの『心は孤独な狩人』、フォースターの『ハワーズ・エンド』、ゼーバルトの『アウステルリッツ』。すこし考えて、その中からフォークナーをえらぶ。kindleで読めるのは『八月の光』だけだったので光文社新訳というところに引っかかったが読み始めることにした。読み始めてすぐにこの作品は当たりで、ちゃんと今読むべき小説だということがわかった。文章の一文一文の連なり、句点で分割される通常の一連とはべつの切れ目が存在していて、そうすると文章のひとかたまりが一文やひとつのパラグラフを横断することになる。流れが水面上と水面下でべつに存在しているということがあきらかになるリズムで、まさにパラリズム(パラレリズムではない)だと思った。(いま検索したら言いたかったのは「ポリリズム」だった)。それを表現するためのフォークナー独自の表記法がかなりの効果を発揮している。肉体の声と心の声はしばしば一致しないが、めいめい勝手に進んでいくなかで同期する地点がある。それは内的外的な必然性にある程度左右されるが、たまたまという余剰部もあり、そのたまたま具合が絶妙で心地良い。リズムそのものもまるでリズムを感じさせないぐらい洗練されている。それこそパラレリズムのような技法も駆使されているということなのだが、全体的な一章の流れが詩文のような散文になっている。
仕事の用事で高輪ゲートウェイから新豊洲まで移動する。用事を済ませてから18時からのリモート打ち合わせまでに帰れなかったので豊洲のスタバで打ち合わせに参加する。傍観者でいいと聞いていたのにもかかわらず、二、三度発話を求められたが、よく聞こえないふりをして無視した。マイクをオンにするにはBGMがスタバ過ぎる。19時すぎまで残業になり、有楽町線、半蔵門線、千代田線、小田急線を乗り継ぎ、『八月の光』を読みながら帰宅。セブンで買ったエリックサウス監修のビリヤニを食べる。youtubeで小籔ととろサーモン村田が品川〜三軒茶屋まで歩く動画を見ていると、家人が夜の散歩を提案してきたのでよろこんで乗る。ドラマ撮影らしき現場に出くわしながら、行き先を決めないで30分程度歩くということで足の向くまま梅ヶ丘まで歩を進めた。途中で「今度行きたい」となる店を探しながら歩くという裏テーマあり。いくつかその候補を発見したのだが、これという決め手には欠けていて今思い返そうとしてもひとつも浮かばない。(すこしかんがえて)東京餃子楼のランチが600円でライス大盛り無料という破格だったのを思い出した。それからQUINTETというカフェバー。家人が絶対にすぐトイレに行きたいと言い出し、なんと帰りは電車に乗って帰った。東京の夜の散歩というのはこういう融通も効く。もちろん酒を飲みながら歩いてもいい。今回は飲まずに歩いたが。


2026/01/23 今日 
小さい立ち飲み居酒屋で飲んでいてトム・ブラウンみちおに声をかける。どうやって飲み屋を立ち上げてそれを誰かに売り抜けるかという話をする。サクラを毎日150人ほど用意して最初の3ヶ月で繁盛を演出すればいいんだと得々と話す。そういう裏技があるというのをアピールしたがったのだと思うがどうやってそんな人数を集めるのかについて策があるわけではなかった。
起きてから10分ほど夢の内容を反芻しているうちにあやうく二度寝しそうになり飛び起きる。朝から出社。返すべきメールを返し、確認するべきことを確認してから持ってきたキーボードを駆使してスマホのkindleで『八月の光』を読む。その後持ってきたキーボードを駆使して日記を書き、お昼の時間になったので在宅に切り替えるために帰宅することにする。このやり方を続けられるかぎり、ポータブルキーボードの購入理由が光っていく。有意義な時間の創出を考えると17000円は安い。ロジクールのMX Keys MiniとCosense(業務上のネットワークから分離するためスマホ(Xperia1Ⅵ)で起動)。(ここまでがAMのうちに会社で書いた内容)
下北のぶっ豚で小ラーメンを食べる。帰宅後にヘム鉄とプロテイン、クレアチンを摂る。呪術廻戦の51話を見る。「葦をふくむ」という呪術廻戦のなかでも目立って陰鬱な回だが、ED曲が絶妙にマッチしていてつい笑ってしまった。双子の片割れが残した遺言の効力というものを考えると正当化まではできないものの妥当かなと思える。ここで「家」を壊すというのは不当に自分たちを押さえつけてきた鎖を壊すということでもあるから、そうしないままでいることにはむしろ整合性がない。一生懸命訓練したその力を個人を抑圧する体制の側から無反省に使うのならば、ごと破壊されても文句の言い様がないのではないか。それでも破壊する方を正当化することはできないが。ただし、死に追いやられるということが起きたとき、死にながら呪うぐらいのことはあってもいい。それが直接的に実現するとしたらやはり正当化はできないが。
昼寝をしてから大相撲を見る。優勝争いの行方が定まってくる十三日目は相当面白い。ひそかに期待していた阿炎が熱海富士に敗れて残念だった。結びで豊昇龍を破った青錦大関の強さはやはり本物だ。遠慮会釈のない集中力がある。愚直という感じで恐ろしいのだが、大相撲の土俵にマッチしている。
お昼の時間に家人が途中で帰ってきて、ばらの花束を手渡してくれるイベントがあった。黄色いばらで、その色がその色にふさわしい気分を作ってくれた。通常普通通りにこの日を迎えられたことの幸運を思いつつ、へたな自撮りで記念写真を撮った。
結びの一番が終わってから一張羅に着替えてスタバに出かける。『失われた時を求めて』を読む。社交場での会話が続いている。プルーストが鑑賞した絵が話題にあがって(登場人物の絵に対する評価を小説世界の話題に流用して)いるのが面白いと思う。しかしこちらは『八月の光』とはちがって理解できているとはいいがたい。やはり小説を読むときの快感として「書かれてあることが理解できる」というのは大きい。フォークナーはプルーストよりも親切ということなのか、表現するものを明瞭に表現したいという感じがより強いということなのか、まだ判断するには材料が足りていないが、プルースト(『失われた時を求めて』ゲルマントのほうⅢ)は読みづらく、フォークナー(『八月の光』序盤)は読みやすい。貴族が爵位にこだわるという部分がとくに理解しにくいように思う。会話において知性による傾斜と同時に身分による傾斜があり、それらが絡まり合いながら発言力の多寡を決めているという複雑さのなかでゆっくり進行していくのだが、その複雑さと遅々とした歩みに翻弄され焦らされてつい適当に読み飛ばしているような感じだ。『八月の光』の2章まで読んだ。語りの移動がとにかく劇的でまったく自然ではないところが注目に値する。読者が読みながら暗黙のうちに予想する流れをそのままくだっていくので、そのことがとりわけ作為的に感じられる。自然であるということはいちいちそれをそう作ろうとすることで無用な作為にあたると自分は思うが、まさにそのことを裏打ちするような、作為であることを一切ごまかさないような文章の流れだ。書かれてある内容を理解できることの肯定と、自分がそのように作られたものを自然物よりも上位におく価値観を持っていることの肯定の両輪があるようで安定してぐいぐい進む推進力に充ちている。その出来のよさにここまで率直に感動できる小説と作家がいたことをあらたに発見できて、概念としての文学への感謝というか借りというかが積み上がった。まだ積めるとは。という驚きとともに。今後は書くものにも影響を受けそうだ。

20251129

日記681

反復のよろこび

2025/11/27 一昨日 16713
午前在宅にして午後から出社。狛江のバスケにそなえてバスケ準備一式を詰めたボストンバッグと仕事の端末等を入れたリュックの鞄二個持ちで出勤する。出社してからはやるべきタスクをこなしつつ定例のミーティングに参加して、依頼事も依頼してと申し分のない働き(当人比)をして定時すぎに退社する。新宿経由で直接狛江に向かってバスケの開始時間ちょうどになった。シニアプレーヤーの方から滑り止めスプレーを使わせてもらったが、冬場の乾燥にこれはかなり効果的だと思った。あとでAmazonで確認しておこうと思いつついままで忘れていた。あとでAmazonで確認しておこう。この日のプレーは脱力を意識し、できるかぎり奔放なプレーになるように調節した。そのおかげで最初の試合から飛ばせる感覚があったが、奔放とはいえ、いや奔放なだけに動き回ることが基本になるので心肺への負担が大きく良い感じが続かなかった。しかしこうやって普段の意識付け等々から意図的に解放される日を設けるのは大事なことだ。セルフハンディキャッピングではないが、ちょっとうっかりすると自分のプレースタイルの枠を決めてその範囲内でプレーしようとするので、こうやって枠を壊しながら枠を広げていくようにしないと甲斐がない。たとえば各種の練習もうまくなりたいと思ってやるものだが、その道を一本道のように想定してとにかく経験値を得ようとするRPG的なやり方は、じつは途中からはアンリアルなフィクションになったりする。負荷を与えるのはたしかに重要だが、負荷のかかっているなかで「リズムや感覚を掴んでいく」というのがあくまでも主眼であると理解することだ。気持ちよくプレーすることでそのときの感覚を研ぐのと、気持ちよくプレーできない障害に対応することはおそらく両輪で、片方に注力してバランスを失うと上達が見込めない。前者に傾注していざというときに力を出せないのと、後者に傾注して全体のパフォーマンスが下がっていくのと、どちらも避けるべき事態だが、楽しむという観点からは後者に対してより注意しておかなければならない。これがアマチュアバスケットボールプレーヤーとしてここ一年で学んできたことだ。楽しくないとプレーする動機そのものが失われることになるからだ。そのあたりのモチベーション維持はプロよりもシビアだ。シビアもなにもそうなれば止めればいいだけなので前提がシビアではないのだが、内燃する動機を持ってやり続けたいと思うのであれば、まあシビアといえばシビアということになる。帰宅してすこしの飯と味噌汁を食べ、プロテインを摂って寝る。


2025/11/28 昨日 10610
一日在宅勤務。昨日やるべきことを進めたのでその分の貯金がたまっており、最低限やるべきを前に進めるだけでよい安定した日になった。リハビリの日だが前回相談したスネの痛みがあまりなかったのでおかわりしておこうということで昼休みに公園まで出てシューティングをする。いい天気だったし、昨日のプレー感覚を保存しておきたいという思いもあった。肩に力を入れないやり方でのシュート感覚を反復する。帰宅して昼ご飯を食べて昼寝をする。10分のつもりが50分あまりの昼寝になってしまった。
退勤後、経堂まで出てリハビリに行く。リハビリと言っても痛めた筋肉の近辺を入念にマッサージしてもらえるというもので、苦しい辛い要素は全然ない。スネの痛みについての解消法の提案として、中臀筋が弱いようなのでその部位のトレーニング方法を教えてもらう。怪我や痛みの対策としてもそうだが、弱い箇所を鍛えることはパフォーマンスアップに直結すると思うのでやっていきたい。パーソナルトレーニングに行かなくても正しい知識を得られればそれでいい。無理に増量しようとしても不調に繋がるだけだという痛みをともなう気づきもあったことだし、とりあえずは自重トレーニング主体にして自分自身のバスケット熱をモチベーターにすればいいので、その分のお金を質の高い食事やプロテインに回せばいいと考え直した。今の自分にはそれが正しいと思われるので一旦はそれで進めてみる。
リハビリ後にスタバに行く。『理由と人格』を読む。「分裂」とかSFみたいな架空のことを言い始めたなと思ったらそのまま論を進められ、何を言っているのかわからなくなりついていけなくなってしまった。とりあえずその章(第十二章 われわれの同一性は重要なことではない。それはなぜか)の半分ぐらいまでは読んでしまう。ウルトラに行ってご飯を食べて帰ろうと思ったら店外に人が並んでいて諦めた。飯を食うために行列に並ぶことはどうしてもできない。仕方なくこの日もかつやにいく。カツ丼梅を食べたが前回のような驚くべきクオリティではなく、たまたま前回はクリティカルだっただけかと残念な再発見になった。寒さも寒いのと温存したいスニーカーを履いていたのとで歩くのも断念し電車に乗って帰宅する。気持ちがそういう気持ちになっていたのでサニーボーイの1話を見返す。流れで最終12話も見た。このアニメはやはり最高傑作だと思った。toeのラプソディがかかるタイミングとドラッグ全開の映像音楽は相当程度カッティングエッジなものだし、「光」を描写する映像作品のなかでも頭抜けた美しさがある。それが信じられる理由がそこにはあると信じられる。


2025/11/29 今日 5034+
前日に寝苦しい思いをしたので寝坊になる。『天 快男児』をキンドルで買って読み、ゲイシャグランスイートのプレミアムコーヒー豆を開けて飲む。いい意味で香りだけで味がなく、よい日本酒が水のようであるのを思わせる上品さが完全に自分好みだった。香りの種類こそ好みドンピシャではなかったが。昼ご飯を食べに下北に出る。梅窓でとり天ぶっかけ(温)の大盛りを食べる。家人がフルートと荷物を置くために一旦帰宅し、行き先を考える。結局下北で古着を見ることに決まって、RAGTAGほか古着屋を何軒かまわる。足がつかれたので途中抜けしてスタバに行く。『理由と人格』の12章を読み終える。家人をすこしだけ待たせながら溜まっていた分の日記を書いてスタバを出る。ダイエーで晩御飯を買って帰るつもり。

20251009

日記653

かすかにある


2025/10/08 昨日
もっとこうすればよかったとあとになって思うような日々の過ごし方をしているようでもあり、自分にできる範囲で最大限の楽しみを引き出した毎日を手に入れているようでもある、たしかな事実としては、ほとんどストレスのない生活をしている。この日は午前中に在宅をして、午後から出社した。定例打ち合わせもあるが何もしないでいるとゆっくり溜まり始める仕事を片付けるためだ。
インターネットで、川上未映子と頭木という人の文學界の対談記事を読んだ(「心臓をノミか何かで、がつがつ削られるような痛みで……」川上未映子が難病の当事者・頭木弘樹に初めて語ったこと)。頭木さんの言うことには肯けるところがあった。文字を読むのがしゃらくさいと感じる出自もそうだが、生きている人が書くフィクションは射程が限定されているというのもそのとおりだと思った。とはいえそれはそれで合理的ではあると判断していると感じられるところもあって、飛びつくこともしない代わりに手放しで批判するということもしておらず、適切な距離をとれているような気がした。病室で同室になった6人全員がドストエフスキーにハマったというそれこそフィクションのような面白い話も書いてあって、それまで文学とは無縁でやってきたジジイがドストエフスキーと邂逅するというのはなんだか明るい話のように聞こえた。これは想像してみるしかないが、それ以外の方法では照らせない明かりで照らされたということだと思うので、他に類を見ないほど明るい話だといえると思う。
しかし記事の内容を再確認しようと、いま文春オンラインのページを開いたのだが、広告の表示のされ方はほかでは見ないほど醜悪だった。人間をクリックする機械とみなして効率よくクリックさせようとする手法がふんだんに使われていて、記事の内容の確認を超えてげんなりさせられた。いつまでこういうことをさせられるのだろうか。
記事内で川上未映子があっさり「17%の魂」ということを言っていて、その正直さを評価するべきなのかと思わされそうになった。数字を使う、データを駆使するというのは今やどんな人でもやることなのだろうけど、そういう有効な数字の使い方をしない人がいてもいいと思う。120%とか、0.000000001とか、そういう言い方に限定して数字を使うというやり方。べつに川上未映子がそうであってほしいというのではないが、川上のほうまで風潮が来ているのだとちょっとナイーブに驚いてしまった。
定時退勤してそのままスタバに行く。行けそうだとは思ったが大事を取って、バスケにはいかないことにした。人数が10人ぎりぎりだったので、もし背中を痛めたら途中でプレーできなくなったら他の人に悪いと思って無理をしてしまいそうだからあらかじめ止めておいた。
『美の進化』を読む。『荒潮』を読み終える。荒潮のほうはクライマックスに向けて物語の風呂敷を畳んでいくときの手際というか、わかりやすい折り目がどうしても気になった。映像化ありきというか、いかにも映像化してもらいたげというか、先の展開を織り込もう織り込もうとしてかえって小説として自立していないという印象で終わった。『三体』の劉慈欣がこれを絶賛したというのだから、その目は信用できない。しかし、最近では『ワンバトルアフターアナザー』を絶賛したスピルバーグもそうだが、プレーヤーによる他プレーヤーの作品の絶賛というのは本当に優れている場合には起こりにくいというだけの話だろう。むしろ全然脅かされないということの証明としての機能のほうが活きそうだ。
氷結無糖レモンを飲んでからぶっ豚でラーメン大を食べて帰宅。『海に眠るダイヤモンド』の5話を見る。屋上庭園を作ろうとする話。恋愛リアリティショーの演出だから、というよりは恋愛リアリティショーの演出なのに、本当に感動した。神木隆之介も杉咲花もすごい俳優だ。しかし特筆するべきはやはり國村隼。彼は恋愛リアリティショー顔負けの國村隼ワンマンショーを見せつけて、國村隼ワンマンショーだなと思わせつつなお感動させてくるのだからすごい。いま思い出しても笑えるぐらいすごい。沢村一樹が物語の都合上で悪者役にさせられ、物語の都合上で悪者役を降ろされ、というのが気になるといえば気になるが、これはいちいち目くじらを立てるような瑕疵ではない。そもそも、よくみれば、つまり行間を読みシーン間を想像すれば、これもちゃんと理由のあることなのかもしれない。



2025/10/09 今日
一日在宅勤務にする。朝昼に2回ずつぐらい働く。時間にして1時間にも満たない。それ以外の時間はできるだけ有意義に使おうと、昼寝したり鬼滅の刃のアニメを見た。柱修行という眠くなる内容だったが、唐突に「心を燃やせ」というセリフが飛び込んできて、それに痺れたりなどした。
定時退勤してスタバに移動。『理由と人格』『美の進化』を読む。日記を書く。

20251007

日記652

非点灯

2025/10/06 昨日
スタバを出てからダイエーで氷結GFを買って飲む。家人に歩かないかと打診したらしばらくしてから歩こうという返事がきたので最寄り駅からまいばすけっとまで歩くことにした。オリジン弁当で豚バラ辛子味噌弁当とライス中を注文して帰宅。アンシャーリーを見ながら食べる。19話はアンがグリーンゲーブルズに帰省する場面から始まり、ルビーが病気になって死期が近いという。全然そんな話は聞いていなかったのであまりの急展開についていけないのだが、やつれながらも空元気を出すルビーと、その痛々しい様子を見ていられないからルビーとふたりでは会わないようにするダイアナの気の弱い優しさ由来の冷淡さが堪えた。とくに詳しく描かれていなかったがダイアナの気持ちは理解できる。もしかすると大学で外の世界に出ているアンよりも顔を合わせる機会も多かっただろうし、そのときに何らかの衝突ないし決定的なボタンの掛け違いがあったのかもしれない。しかしいずれにしても早すぎる死を描くことでメメントモリや天国への道という信仰をモチーフにしようとするなんて作者は見下げ果てた下司だと思ってしまう。悔しいのはそれがフィクションの専売特許ではないところだ。アンシャーリーの時代にはとくにめずらしくない事態で、友人のうち何人かは若死にをしなければならなかったのだろう。だから許しがたいのは作者ではなくそうなるシチュエーションのほうだ。
アンはみるみる弱っていくルビーと会うのがつらくなって、途中で会うのを止めてしまう。ダイアナもだが、そうなるのは避けるのが難しいことだと思う。しかし、アンは一番つらいのはルビーだということに気がつく。生きているといろんな嫌なことつらいこと許せないことがあるが、それにしても若くして死んでしまうことでそれらのいろいろな嫌なことをつらいこと許せないことを含むよしなしごとから離れなければならないつらさほどではないだろうということだ。アンは心を消耗させながら昼間にルビーと会い、夜は疲れた心を解放するように机にむかって小説を書くという生活をしばらく続ける。メメントモリも天国ありきの信仰も、自分には理解の及ばないところにある思考だが、小説を書くことがアンの消耗した心を回復させるというのは理解できる気がする。ルビーもアンも心に思ったことを言葉にするのがそれぞれに難しい、しかしそこには何かがあるというふたりだけの邂逅を経て、その一部を天国への道と呼んでいた。言葉や概念がそれで正しいかどうか、それが自分の思考に沿うかどうかというのを超えて、そこには何かがあるはずだ。その邂逅を経てルビーの苦しさやつらさがすっかり無くなり、心安らかに死を迎えられたとは思わないが、「ああ、これですっかり可能になる」と心から感じられる瞬間があったのは確からしく思われる。どのようなかたちであれ、それは無いよりもあったほうが良いものだ。自分が信じないからといって宗教を信じる人をないがしろにはできない。それは自分の観点では、準備できないものに対して準備しようとする試みで、その役に立つと想定できるものは何でも使ってそう試みようとすることではないかと思う。感じ方によっては、本当に全然なりふりかまっていられないはずだから、藁をも掴もうとするのをとやかく言うことはできない。ただ自分にはそれが果敢ない藁に見えてしまうというだけの話だ。そこに目を釘付けにしたり、しかと掴んで安心しようとすれば、いずれ流れてくるはずの丸太の出現を見逃してしまうのではないかという合理的な恐れがある。


2025/10/07 今日
朝から出社する。図書館ポストで本を返却してから出社。午前中に事務仕事を終わらせ、なくても良い会議に参加し、昼過ぎから在宅勤務に切り替える。久しぶりによく行っていたバルボアに行って焼きカルボを食べる。最近大食しているのでいけるはずだと特盛700gを注文してみた。満腹が近づいてきても減らない皿に一瞬怯みそうになったが、四の五の言わずに口を動かし続けて完食した。俺の胃袋は宇宙だ。
鬼滅の刃のアニメを見る。「無一郎の無」の回で、よくある兄弟ものの結末を見せられたのだがやっぱり泣いてしまう。死や危険に備えて、脅威から守るために厳しい目線を切らないというのは、状況からすれば間違いではないどころか生存率をあげるための実効的な営みなのだろうが、結果としてそれで死期を早めてしまったとしても、相手に優しくあろうとするのはやっぱりそれはそれで合理的なのではないだろうか。生活が楽しいことは大事なことだし、生活を続けていこうとする以上、その試みが奏功すれば生活は続くのだから、その生活を楽しいものにするための努力は欠かせないし、何より重要なもののはずだ。無一郎の変な髪型にはとくに言及されないままで回想の両親・兄ともに死んでしまった。あの髪型の謎は霞の中に消えることだろう。
Youtubeで保護犬と受刑者のニュースが流れてきたので再生してしまう。シンプルだが力強い物語と映像があった。パクスという黒犬(1歳数カ月オス)が、元野犬ということであからさまに人見知りをしていて、彼が緊張と戦っている様子は他人事とは思えなかった。それでというわけではないが、人一般に対する警戒心を馴らそうとする試行には、完全に人馴れした犬には見られない知性のきらめきがあったように思う。こいつは安全なやつか?大丈夫なのか?と伺う上目遣いの瞳の揺れに、彼の不安な思考の動きが読み取れた。
定時退勤し、バスケをキャンセルし、スタバに行く。腰が痛いというのがバスケをキャンセルした理由だが、もっとテーブルに座る時間を増やしていくほうがいいのではないかと思うところもあり、しばらく考え事をしようと思ったのでスタバに行くことにした。
『理由と人格』を読み進める。今回はクレアが登場した。彼女は自分の子供を他の人に優先して助けようとする考えの持ち主で、それが不正だとしても自分はそうすることを選ぶという考えの持ち主でもあった。ここでのポイントは、自分の選んだ行動が不正であると知りつつそう行動し、それを改めようともしないが、そうすることが不正であるという考えを同時に持っているということだ。倫理がクレアの考えをどう扱うかに関心がある。だから続きが楽しみだ。ケイトといいクレアといい、彼女たちの存在が問題の所在や問題のかたちをわかりやすくしてくれる。自分は倫理や道徳によって自分の考えを補強してほしいという願望は持っていないと思う。だから自分のやることが不正であり、しかも自分がそう行動することは批判できないという捻れた考え方には馴染みがある。自分のやることが正しいという主張をしようとは思わないということだが、そんな主張が必要にならないというのは置かれた境遇によるものでしかなく、自分は運が良いということになると思う。そして自分は、運が良くない人にも当てはまるような普遍的法則を見つけたいとも見つけようとも思わない。自分や自分と似た境遇にある人のためだけに自分の持っているリソースを使おうとしていると言え、それは不正だろうと思う。しかし自分の持ち分をどう使おうと自分の勝手だと考えている。本当に自分勝手なことだ。
20時半すぎまでスタバにいて、酒を飲んで帰ることにする。明日も出社しようかどうか、ややハードなバスケに行こうかどうか迷っている。やる気次第、腰の回復具合次第だといえる。今判断できないことは判断できるときに判断するしかないということだ。

日記809

自由時間に 2026/10/14 昨日 20808 大手町に行って仕事の用事。感覚的にまったく不必要と思われることでも、責任の所在とセキュリティの概念を組み合わせれば仕事になる。身体は建物に縛られていても頭は空いているのでその時間を使って『存在と時間』を読...