20251007

日記652

非点灯

2025/10/06 昨日
スタバを出てからダイエーで氷結GFを買って飲む。家人に歩かないかと打診したらしばらくしてから歩こうという返事がきたので最寄り駅からまいばすけっとまで歩くことにした。オリジン弁当で豚バラ辛子味噌弁当とライス中を注文して帰宅。アンシャーリーを見ながら食べる。19話はアンがグリーンゲーブルズに帰省する場面から始まり、ルビーが病気になって死期が近いという。全然そんな話は聞いていなかったのであまりの急展開についていけないのだが、やつれながらも空元気を出すルビーと、その痛々しい様子を見ていられないからルビーとふたりでは会わないようにするダイアナの気の弱い優しさ由来の冷淡さが堪えた。とくに詳しく描かれていなかったがダイアナの気持ちは理解できる。もしかすると大学で外の世界に出ているアンよりも顔を合わせる機会も多かっただろうし、そのときに何らかの衝突ないし決定的なボタンの掛け違いがあったのかもしれない。しかしいずれにしても早すぎる死を描くことでメメントモリや天国への道という信仰をモチーフにしようとするなんて作者は見下げ果てた下司だと思ってしまう。悔しいのはそれがフィクションの専売特許ではないところだ。アンシャーリーの時代にはとくにめずらしくない事態で、友人のうち何人かは若死にをしなければならなかったのだろう。だから許しがたいのは作者ではなくそうなるシチュエーションのほうだ。
アンはみるみる弱っていくルビーと会うのがつらくなって、途中で会うのを止めてしまう。ダイアナもだが、そうなるのは避けるのが難しいことだと思う。しかし、アンは一番つらいのはルビーだということに気がつく。生きているといろんな嫌なことつらいこと許せないことがあるが、それにしても若くして死んでしまうことでそれらのいろいろな嫌なことをつらいこと許せないことを含むよしなしごとから離れなければならないつらさほどではないだろうということだ。アンは心を消耗させながら昼間にルビーと会い、夜は疲れた心を解放するように机にむかって小説を書くという生活をしばらく続ける。メメントモリも天国ありきの信仰も、自分には理解の及ばないところにある思考だが、小説を書くことがアンの消耗した心を回復させるというのは理解できる気がする。ルビーもアンも心に思ったことを言葉にするのがそれぞれに難しい、しかしそこには何かがあるというふたりだけの邂逅を経て、その一部を天国への道と呼んでいた。言葉や概念がそれで正しいかどうか、それが自分の思考に沿うかどうかというのを超えて、そこには何かがあるはずだ。その邂逅を経てルビーの苦しさやつらさがすっかり無くなり、心安らかに死を迎えられたとは思わないが、「ああ、これですっかり可能になる」と心から感じられる瞬間があったのは確からしく思われる。どのようなかたちであれ、それは無いよりもあったほうが良いものだ。自分が信じないからといって宗教を信じる人をないがしろにはできない。それは自分の観点では、準備できないものに対して準備しようとする試みで、その役に立つと想定できるものは何でも使ってそう試みようとすることではないかと思う。感じ方によっては、本当に全然なりふりかまっていられないはずだから、藁をも掴もうとするのをとやかく言うことはできない。ただ自分にはそれが果敢ない藁に見えてしまうというだけの話だ。そこに目を釘付けにしたり、しかと掴んで安心しようとすれば、いずれ流れてくるはずの丸太の出現を見逃してしまうのではないかという合理的な恐れがある。


2025/10/07 今日
朝から出社する。図書館ポストで本を返却してから出社。午前中に事務仕事を終わらせ、なくても良い会議に参加し、昼過ぎから在宅勤務に切り替える。久しぶりによく行っていたバルボアに行って焼きカルボを食べる。最近大食しているのでいけるはずだと特盛700gを注文してみた。満腹が近づいてきても減らない皿に一瞬怯みそうになったが、四の五の言わずに口を動かし続けて完食した。俺の胃袋は宇宙だ。
鬼滅の刃のアニメを見る。「無一郎の無」の回で、よくある兄弟ものの結末を見せられたのだがやっぱり泣いてしまう。死や危険に備えて、脅威から守るために厳しい目線を切らないというのは、状況からすれば間違いではないどころか生存率をあげるための実効的な営みなのだろうが、結果としてそれで死期を早めてしまったとしても、相手に優しくあろうとするのはやっぱりそれはそれで合理的なのではないだろうか。生活が楽しいことは大事なことだし、生活を続けていこうとする以上、その試みが奏功すれば生活は続くのだから、その生活を楽しいものにするための努力は欠かせないし、何より重要なもののはずだ。無一郎の変な髪型にはとくに言及されないままで回想の両親・兄ともに死んでしまった。あの髪型の謎は霞の中に消えることだろう。
Youtubeで保護犬と受刑者のニュースが流れてきたので再生してしまう。シンプルだが力強い物語と映像があった。パクスという黒犬(1歳数カ月オス)が、元野犬ということであからさまに人見知りをしていて、彼が緊張と戦っている様子は他人事とは思えなかった。それでというわけではないが、人一般に対する警戒心を馴らそうとする試行には、完全に人馴れした犬には見られない知性のきらめきがあったように思う。こいつは安全なやつか?大丈夫なのか?と伺う上目遣いの瞳の揺れに、彼の不安な思考の動きが読み取れた。
定時退勤し、バスケをキャンセルし、スタバに行く。腰が痛いというのがバスケをキャンセルした理由だが、もっとテーブルに座る時間を増やしていくほうがいいのではないかと思うところもあり、しばらく考え事をしようと思ったのでスタバに行くことにした。
『理由と人格』を読み進める。今回はクレアが登場した。彼女は自分の子供を他の人に優先して助けようとする考えの持ち主で、それが不正だとしても自分はそうすることを選ぶという考えの持ち主でもあった。ここでのポイントは、自分の選んだ行動が不正であると知りつつそう行動し、それを改めようともしないが、そうすることが不正であるという考えを同時に持っているということだ。倫理がクレアの考えをどう扱うかに関心がある。だから続きが楽しみだ。ケイトといいクレアといい、彼女たちの存在が問題の所在や問題のかたちをわかりやすくしてくれる。自分は倫理や道徳によって自分の考えを補強してほしいという願望は持っていないと思う。だから自分のやることが不正であり、しかも自分がそう行動することは批判できないという捻れた考え方には馴染みがある。自分のやることが正しいという主張をしようとは思わないということだが、そんな主張が必要にならないというのは置かれた境遇によるものでしかなく、自分は運が良いということになると思う。そして自分は、運が良くない人にも当てはまるような普遍的法則を見つけたいとも見つけようとも思わない。自分や自分と似た境遇にある人のためだけに自分の持っているリソースを使おうとしていると言え、それは不正だろうと思う。しかし自分の持ち分をどう使おうと自分の勝手だと考えている。本当に自分勝手なことだ。
20時半すぎまでスタバにいて、酒を飲んで帰ることにする。明日も出社しようかどうか、ややハードなバスケに行こうかどうか迷っている。やる気次第、腰の回復具合次第だといえる。今判断できないことは判断できるときに判断するしかないということだ。

映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た

映画は気晴らしでしかない。などと言うと、その否定派はたくさんいることだろう(たくさんいてほしいものだ)。 まずもって映画視聴に求めるものをただの気晴らしとするかどうかによっても意見がちがってくるところだろうと思うが、ことアクション映画(以下A映画)については答えが出ている。A映画...