かすかにある
2025/10/08 昨日
もっとこうすればよかったとあとになって思うような日々の過ごし方をしているようでもあり、自分にできる範囲で最大限の楽しみを引き出した毎日を手に入れているようでもある、たしかな事実としては、ほとんどストレスのない生活をしている。この日は午前中に在宅をして、午後から出社した。定例打ち合わせもあるが何もしないでいるとゆっくり溜まり始める仕事を片付けるためだ。
インターネットで、川上未映子と頭木という人の文學界の対談記事を読んだ(「心臓をノミか何かで、がつがつ削られるような痛みで……」川上未映子が難病の当事者・頭木弘樹に初めて語ったこと)。頭木さんの言うことには肯けるところがあった。文字を読むのがしゃらくさいと感じる出自もそうだが、生きている人が書くフィクションは射程が限定されているというのもそのとおりだと思った。とはいえそれはそれで合理的ではあると判断していると感じられるところもあって、飛びつくこともしない代わりに手放しで批判するということもしておらず、適切な距離をとれているような気がした。病室で同室になった6人全員がドストエフスキーにハマったというそれこそフィクションのような面白い話も書いてあって、それまで文学とは無縁でやってきたジジイがドストエフスキーと邂逅するというのはなんだか明るい話のように聞こえた。これは想像してみるしかないが、それ以外の方法では照らせない明かりで照らされたということだと思うので、他に類を見ないほど明るい話だといえると思う。
しかし記事の内容を再確認しようと、いま文春オンラインのページを開いたのだが、広告の表示のされ方はほかでは見ないほど醜悪だった。人間をクリックする機械とみなして効率よくクリックさせようとする手法がふんだんに使われていて、記事の内容の確認を超えてげんなりさせられた。いつまでこういうことをさせられるのだろうか。
記事内で川上未映子があっさり「17%の魂」ということを言っていて、その正直さを評価するべきなのかと思わされそうになった。数字を使う、データを駆使するというのは今やどんな人でもやることなのだろうけど、そういう有効な数字の使い方をしない人がいてもいいと思う。120%とか、0.000000001とか、そういう言い方に限定して数字を使うというやり方。べつに川上未映子がそうであってほしいというのではないが、川上のほうまで風潮が来ているのだとちょっとナイーブに驚いてしまった。
定時退勤してそのままスタバに行く。行けそうだとは思ったが大事を取って、バスケにはいかないことにした。人数が10人ぎりぎりだったので、もし背中を痛めたら途中でプレーできなくなったら他の人に悪いと思って無理をしてしまいそうだからあらかじめ止めておいた。
『美の進化』を読む。『荒潮』を読み終える。荒潮のほうはクライマックスに向けて物語の風呂敷を畳んでいくときの手際というか、わかりやすい折り目がどうしても気になった。映像化ありきというか、いかにも映像化してもらいたげというか、先の展開を織り込もう織り込もうとしてかえって小説として自立していないという印象で終わった。『三体』の劉慈欣がこれを絶賛したというのだから、その目は信用できない。しかし、最近では『ワンバトルアフターアナザー』を絶賛したスピルバーグもそうだが、プレーヤーによる他プレーヤーの作品の絶賛というのは本当に優れている場合には起こりにくいというだけの話だろう。むしろ全然脅かされないということの証明としての機能のほうが活きそうだ。
氷結無糖レモンを飲んでからぶっ豚でラーメン大を食べて帰宅。『海に眠るダイヤモンド』の5話を見る。屋上庭園を作ろうとする話。恋愛リアリティショーの演出だから、というよりは恋愛リアリティショーの演出なのに、本当に感動した。神木隆之介も杉咲花もすごい俳優だ。しかし特筆するべきはやはり國村隼。彼は恋愛リアリティショー顔負けの國村隼ワンマンショーを見せつけて、國村隼ワンマンショーだなと思わせつつなお感動させてくるのだからすごい。いま思い出しても笑えるぐらいすごい。沢村一樹が物語の都合上で悪者役にさせられ、物語の都合上で悪者役を降ろされ、というのが気になるといえば気になるが、これはいちいち目くじらを立てるような瑕疵ではない。そもそも、よくみれば、つまり行間を読みシーン間を想像すれば、これもちゃんと理由のあることなのかもしれない。
2025/10/09 今日
一日在宅勤務にする。朝昼に2回ずつぐらい働く。時間にして1時間にも満たない。それ以外の時間はできるだけ有意義に使おうと、昼寝したり鬼滅の刃のアニメを見た。柱修行という眠くなる内容だったが、唐突に「心を燃やせ」というセリフが飛び込んできて、それに痺れたりなどした。
定時退勤してスタバに移動。『理由と人格』『美の進化』を読む。日記を書く。