20251003

日記650

クラブ活動

2025/10/02 昨日
この日も一日在宅勤務。友人が家に来るのでいろいろと準備をする。仕事は暇でどうにでもなるという感じだったのに友人が下北沢駅に到着する時間になって急遽のタスクが降りてくる。仕方なく対応するが、無理して働いているフリしないでもいいよと言われてしまう。まあたしかにパフォーマンスの一環だと思えば今回ばかりはちょうどよかったといえるかもしれない。
荷物だけ置いてもらって下北の街に繰り出す。散歩中の犬がべつの散歩中の犬と遭遇し、大きい方が小さい方の鼻面に噛み付く場面にでくわす。驚きのあまり「コラ!」と言って周りを驚かせてしまった。
季節も季節だしこれはやりたいと思っていた路上飲みをいきなり実行に移すことができた。友人は何かとふざけたがるわりにスクエアなところもあるのですこしハードルがあるかとも思ったが、ヘラヘラしながらなんとなく提案して了承を取り付け、即ドンキで缶ビールを購入。ウェンディーズ近くの踏切の十字路で乾杯を済ませる。
そこからずっと路上飲み、路上飲みのみでもよかったのだが、まあさすがに勘弁してやるかということで店に入る。二、三回行って気に入っていた都夏(つげ)に連れていく。夏の終わりに行くのにもっとも適した店だと思うし、店選択は言うことなしだったはず。昔の話ばかりしていてはいけないという枷を自分に嵌めつつ、だからといって先の話にも具体的な展望があるわけでもなし、中途半端な発話に終始してしまった。お互い現状に不満があるというのではまったくないが、満足しているわけではないという中途感を確認したということはいえるかもしれない。友人は資格の勉強をして雇われではなく個人事業主で働きたいという展望があるということだった。自分は仕事に関しての希望はどれだけ短い時間で済ませられるかという税金感覚しかないので、そういう部分では話が展開していかない。昔目指していた職業について、今の感覚でやってみるのもいいかもしれないよという提案を受ける。たしかにそうかもしれないと思う部分がないではないが、自分の最強の欲求と付き合わせて考えるとそうでもないなという結論に今のところはなる。人と関係していく仕事に昔ほどの感覚がない。これはよくもわるくもということだが、自分の傾向からするとよくの部分が多い気がする。
一旦帰宅し、最寄り駅の気になっていた飲み屋に出かけようとする。しかし繁盛が閾値を超えて超満員だったので店には入れず。家に帰って宅飲みをすることにした。今回、Lシステインのことを教えられたのがもっとも大きい。二日酔いの頭痛が無くなることには大きな意味がある。飲酒に付き物の、なくてもいい苦痛が無くなることで大幅なQOLの向上を望めるからだ。
飲み終えて寝る準備をする。電気を消して寝る前の時間、昔タリーズでバイトしてその日のバイト代を全部使って飲んでいたとき、上七軒の下宿に泊めてもらったことを懐かしく思い出した。今とは比べ物にならないほどもっと不安定だったが、ある面での満足の度合いは今と変わらないと思った。慌ててもしょうがないが、もっと急ごうとしてみてもわるいことは何もない。


2025/10/03 今日
AM休を取って友人を見送りがてら下北沢まで出る。スタンダードベイカーズで朝食を摂ってから、朝の下北沢をスズナリ、リロードのあたりまで散歩して紹介した。成田空港からのフライトということで11時には解散。スタバに行き、図書館カウンターで受け取ったパーフィットの『理由と人格』を読む。分厚い上に大きい大著で読むのには苦労しそうだが、パーフィットのことを知るためには伝記のような半端なかたちでその生涯を追いかけるより、その著書を読むほうがむしろ効率的にちがいない。それはなぜか前後半2冊に分かれている伝記の前半を途中まで読んで感じたことだから伝記にも意味がないとは言えないが。
まだ1章の最初までだが印象的なのは「自分の本をよくする」という最強の欲求を持つケイトだ。書きたいという欲求と自分の人生を持っているすべての人にとって考えるに値する内容が考えられていると思う。避けては通れない、もし避けて通るためにはケイトと同種の最強の欲求を持ち、その欲求の成就に向け邁進するしかない考えだ。しかし、それについて「どうする、どうしよう」と考えるのは合理的ではないかもしれない。それは欲求の成就という観点からは立ち止まっているカウントになるだろうからだ。自分を納得させないと進めないというのはたぶん偽りなのだろうし。
しかし、それとは直接関係ないのでしかしというのもちがうかもしれないが、今時点でパーフィットについて思うのは、彼は人間が100人いるということを受け容れて、その利益が最大化するために思考しているということだ。人間が自分1人しかいないとすれば、「理由」を考えることは意味を持たない。しかし自分以外の99人の存在を認めるとすれば、「理由」について考えることは意味がある。その思考があるおかげで正しいと思う方に人を方向づけられたりするからだ。パーフィットは自分1人の人生を犠牲にしているという考え方ではないのだろうが、それを犠牲とは言わないまでも、ある時点から始まってある時点で終わる人格にとって、その接続(他に人が99人いる・人格が99あるという考え)は信じるに足るものなのだろうかという疑問が自分にはある。それはこだわるよりも通り過ぎるほうが理に適っているというのは感覚的に同意できる。ナンセンスを回避するという意味で受け取りやすい。しかしそうするとパーフィットの提出するような問題も同じように扱ってかまわないのではないか。どこに考える/無視するを画する一線があるのか。
ぜひケイトの意見を聞きたいと思っている。

日記650

クラブ活動 2025/10/02 昨日 この日も一日在宅勤務。友人が家に来るのでいろいろと準備をする。仕事は暇でどうにでもなるという感じだったのに友人が下北沢駅に到着する時間になって急遽のタスクが降りてくる。仕方なく対応するが、無理して働いているフリしない...