20251007

映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た

映画は気晴らしでしかない。などと言うと、その否定派はたくさんいることだろう(たくさんいてほしいものだ)。
まずもって映画視聴に求めるものをただの気晴らしとするかどうかによっても意見がちがってくるところだろうと思うが、ことアクション映画(以下A映画)については答えが出ている。A映画ははっきりと明確に気晴らしにしかならない。平板な生活から抜け出せるような擬似体験をさせてくれるという意味で、A映画の有用さは決して小さくないとはいえ、そこから教訓を得たり、生き方・考え方の指標にするということはどうしても荷が勝ちすぎている。おそらく子供の純真さをもってしか達成できない。それ以外に教科書がないという状況下でのみ、教訓めいたものを得られるということもあるだろうが、(まじめなA映画ほど)そういった教化を与えようと考えて作られていないことから、突き詰めていった先にはひずみが生じることになる。端的に、そこには無理がある。どんな物事であってもまともに判断しようとする者にとり、主人公の善性については無謬のものとして「目を瞑る」という技能が必要になってくるからだ。
映画、とりわけ巨大な予算が組まれて製作されるハリウッド映画の限界を示す作品として『ワンバトルアフターアナザー』の名が挙がることになるにちがいない。2025年時点でしかとその限界に突き当たったのが記録されたという意味でも、この映画が作られた価値はある。A映画としてよい気晴らしになるという以外の価値として。
映画にはある種の小説を超えることはできないということだ。それは同名小説を原作に『ヴァインランド』という映画を作ろうとしてそれに失敗し、『ワンバトルアフターアナザー』というやや奇矯で未完成品に近いA映画が製作されたことで明らかになった。
たとえば、ディカプリオの娘が忍者スクールの教えの”型”を披露するところから映画が始まればいいのにと思うのだが、映画視聴の制約上それは現実的ではない。(本当にそうか? 映画視聴者のことを不当に軽く扱っていないか? しかし予算規模がある程度以上で、多くの人の目に触れる”必要”が生じる場合には制限の枷はその実在感と重量を増すだろうことは想像にかたくない…)
映画化不可能といわれるたぐいの小説はいくつもある。ピンチョンの小説作品もほとんどすべてそうだ。『インヒアレント・ヴァイス』はその不可能を可能にした作品だったといえるが、『ヴァインランド』で元の評価に戻った。LAの風に当てられて夢に見た映画『ヴァインランド』と比べてしまい、『ワンバトルアフターアナザー』についての正当な評価がむずかしくなっているのかもしれない。この映画は佳作だとは思うが傑作だとは思わない(からい評価だろうか)。
それでもこの一連(ヴァインランド再読、映画への期待と失望、部分再読)によって自分の考えがよくわかった。映画の評価とは直接関係ないがそのことはよかったといえる。
映画の”観客”としての自己より、小説の”読者”としての自己のほうが優れていると感じる。ひとつには読者としての自己のほうが作品への向き合い方がより真率で、作品の粗に見えるところや至らぬところに目を瞑る必要を感じることが少ないからだ。読解力や理解力の不足を補うために、追加の労力を払わなければならず、そのことによって瑕疵が見えづらくなる構造にある、という仮説に対して反論するだけの余力も残されていないが、それを差し引いても、おそらく……。
小説のほうが映画よりもコミュニケーションの量が多く、その質も高いと感じる。小説のほうがその著者との密な絡まりが自然発生する、というよりは、そういった密な絡まり合いが発生しないことには読めているということは言えないような、関係性の構築があらかじめ約束されているようなところが小説の特徴としてある。自分以外の他人の考えていることを知りたいという変な欲求に対して、より多く応えてくれるのが散文による物語作品で、すくなくとも物語部門ではそれ以上の濃密さは求めるべくもないということだ。
他には、記号扱いにされるモブキャラについて、小説では文字通りの記号扱いになるためそうすることに対する抵抗が発生しないのに比べて、映像では記号扱いしつつ画面に登場させなければならないので、どれだけそれをスムースにして感じない程度の微量に減らそうとしても、それが成功しなかったら普通に嫌な気分になるし、成功したら成功したでその分だけ今度はそれに対する抵抗が生じてしまうというジレンマにおちいるということもある。
小説を読むというのは決して気晴らしではなく、それ以上の何かを得るためだというのは、以前から自分がそう考えてきたことだが、こういう考え方というのは良く言っても”シンプル”だというのは、他ならぬピンチョンの小説作品の内側から響く通奏低音のようにして何度となく聞きとってきた声でもある。そういった”シンプルさ”というのは、作品の中でも決して嘲られたり軽んじられていたわけではない。むしろ強大なものとして描かれ、なんとか逆らおうとして失敗したり、部分的に成功したと思ったらやっぱり失敗だったり、逆らわずに済ませて失敗を回避したりする、情けなくも完全に見捨ててはいられないたくさんの登場人物の対向にある。決して打破できないが、そうは言っても「これはなんとかしないとね」という力だ。
だから本当にやるべきこと、やる価値のあることは、『ヴァインランド』を読みつつもそれはそれとして、『ワンバトルアフターアナザー』を一本の映画として独立に評価するということではないか。
時代の流れに逆らおうとしながら失敗したものの、アクション映画としては見るべきところのある高予算映画で、決して傑作とは言えないが映画館で見る分には間違いなく佳作といえる、ポール・トーマス・アンダーソン作品のなかではもっともつまらない映画というのがまともな評価だ。
弩級に面白い小説と、佳作の映画を並べて考えると、混乱してどっちがどっちなのかわからなくなるし、それで必要以上にイライラして余計にフラストレーションも高まっていくというようなことが起こっている気がする。普通そういうことは起きないはずなのだが、既存の価値判断に謎の液体をぶっかけて磁場を狂わせるというのが、天と地をひっくり返そうとする勢いで反体制的な、つよい魅力を持った何かの力だということは言えるかもしれない。
関係ないが、ある人物の持つ性質や属性、それにまつわる歴史を、記号化したひとりの登場人物で表そうとするな馬鹿、ということは思った。批評家的な視点を映画内部にメタ構造のように備えているからOKということにはならない。
そして、武装革命家の闘いより生活保護受給者の闘いのほうにより多くの見るべきものがあり、それは映画によっては表現され難く、小説という表現形式の台頭を待たねばならないというのが『ワンバトルアフターアナザー』と『ヴァインランド』とを比較してまず最初に感じられることだ。だから結局、何事にも適切な表現形式があるというだけの話だ。
買ってでもする苦労はできるうちにしたほうがいい。それはトマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』を読むことだ。


「買え、いくら出してもだ」奈南川零司

映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た

映画は気晴らしでしかない。などと言うと、その否定派はたくさんいることだろう(たくさんいてほしいものだ)。 まずもって映画視聴に求めるものをただの気晴らしとするかどうかによっても意見がちがってくるところだろうと思うが、ことアクション映画(以下A映画)については答えが出ている。A映画...