旅
2025/10/27 昨日 7486
スタバを出たあとまっすぐに帰宅する。花屋で売られていた花を買って帰ろうかと思ったが花屋が閉店準備をしていたのでやめにした。だから実際には買って帰らなかったのだが、そうしようと思えばいつでも花を買って帰れる生活が今ここにある。そのこと自体がまさしく花だ。
帰宅して晩御飯を食べる。きのこたっぷりの鶏鍋であたたまった。赤魚を焼いたやつも出てきて豪勢な食卓になった。アンナチュラルの4話を見る。『死亡遊戯』の回。自分は散々フィクションに淫しているのに、この回の趣味の悪さをどうしても許容できなかった。いじめられて悩んでいた描写がしかるべき重さをもっていないように思えること、ナイフに刺されて死ぬまでのあいだ痛みにのたうち回る描写が省かれていたことは、現実にある問題を軽視することにつながるのではないかと思って不満だ。現実にも目を背けたくなる痛みというのはあるのだと思う。それを題材にするのであれば血が出るということに付随する痛みにたいして真剣に向き合うべきではないか。悪趣味に盛り上がる野次馬のことを悪趣味だと描写することで自己批判を済ませているというのはあまりにも稚拙でナイーブだとか素朴だという言葉にも値しない。ARATAが復讐のやり方は自分にナイフを向けることじゃないだろうと説得するところと、市川実日子が遺体にコートをかけてそっとさするところが良かっただけに、感情的にはそれですべてが贖われた感じになるのが困る。これで清算されまいと、感情が一件落着に傾くのを避けようとするのもあり、良かった分だけ賞賛するのを控えたい気持ちになった。
4話が気に入らなかったのをそのまま伝えてしまい、家人の気分を害してしまった。自分も自分が心酔した作品にミソをつけられると感情的にバッドになって聞く耳を持たない状態になってしまうことがあるので、余計なことをしてしまったと反省したが、感想を言わなければならない羽目になると上に書いたような違和感を表明しないわけにはいかないので進退窮まってしまった。迂闊だった。5話の火事回を見る。こちらは放蕩息子問題が丁寧に描かれていてドラマとして違和感がなく楽しんで見れた。言わないでいい野暮を言うと、生存者が意識を取り戻したら検視結果に関係なく一ノ瀬ワタルの濡れ衣は晴れるだろうということだ。ミッキー・カーチスと松重豊の対峙には渋いかっこよさがあったし、ラストで六郎役がラボに戻ったとき、周囲からすると謎に感極まったのを誤魔化そうとする演技がとても上手だと感心したので、俳優の名前をおぼえるようにしたい。
2025/10/28 今日 8930
銀座のホテルの一室で飲む。なぜかカーテンの設備が貧弱で、いかにも銀座という隣のビルが窓から丸見えになっていたのが印象的だった。チョロチョロと水の流れる音が止まず、洗面所まで行って水を止めたところで目が覚めた。
朝から出社。背中の痛みのせいで普通に歩くことができず右足を引きずりながらになってしまうのが面倒だった。定例ミーティングに出席し、大手町まで作業立会に出かける。追加追加での現場対応を求められて焦らされてしまったが、向こうのリクエストには応えることができたので出張った甲斐があるといえばあった。そのまま帰宅し、在宅勤務に切り替える。昨日の残りの鍋と焼鯖を食べてから昼寝。定時退勤し、背中のリハビリのため経堂まで出かける。カウンセリングと筋肉をほぐすマッサージで40分間。作業療法士のマッサージとカウンセリングをしっかり受けたのは初めてだったのだが、すっかりよくなったと言ってもいいほど充実した内容だった。11月2日にバスケの大会が控えており、そこでもまた痛めることはほぼ確定しているので、それにあわせて直近で次回リハビリの予約をしておく。
経堂のスタバで『理由と人格』を読む。”過去の自分”と”いまの自分”という観念が登場して、論の内容とは関係なく、いまの自分と対峙したときの”過去の自分”の弱さについて考えた。対峙するというのは過去思っていたことを今思わないというようなことを指していて、過去の自分といまの自分の志向や利益が相反するとき、過去の自分にはかなり為すすべがないということを思った。過去の自分のやったこと思っていたことというのはいとも簡単にないがしろにできるし、何だったら黒歴史とか言って葬り去ることもいまの自分にはできる。しかしそんなことをしては絶対に駄目だと思う気持ちがある。生きている人間(いまの自分)にしか碑文を刻めないのだから、それをするときには過去の自分にも責任を持っていたい。その意味でもこの先、将来の”いまの自分”が好き勝手できないようにこうやって日記を書くのは重要なことだ。そうしてこそ”いまの自分”も無用な遠慮をしたり、必要以上に過去を美化したりせず、好き勝手自由に自分を反省するということが可能になる。だからいまの自分にとっても過去の自分にとってもこの日記の重要性は大きい。あれだけ美味しい食事も3日もすればほぼ完全に忘れてしまうわけだし、たとえば有り難いという気持ちもすぐに揮発する。すこしでも思い出すきっかけを作らないとツルツルスベスベの取っ手も何もないスムーズな生活に終止してしまう。ただただ感情の起伏があるだけ。本来それでもいいんだろうが、いまの自分の持つ視点でそれだけになると考えるのはおそろしいことだったりする。