サバイバー
2026/01/21 一昨日 7751
17時過ぎまでプロパガンダにいて、荷物を置くため一旦自宅に帰る。大相撲を結びまで見て、FEVERまでGEZANのライブを見に行く。DOGO、the hatchのパフォーマンスを見たあと、本命のGEZANになる。前の方をキープするために2時間以上立ちっぱなしになったので腰が痛くなってきた。DOGOの演奏は若さからくる生硬さ・眼差しの強さ以外に見るもののない内容でとくに感心しなかったが、マヒトゥ・ザ・ピーポーは徳を積むためなのか、MCでわりと好意的に彼らに言及していた。「若い時にも自分たちにもあった”違和感”を全身にまとっていてなつかしい」というような内容だったのでおためごかしのない言及だったともいえるラインだが。GEZANのライブパフォーマンスは力強くシリアスなもので、研ぎ澄まされた集中力を立ち上らせていたが、そのぶん余白がないということもいえる。余白が一切ないことによる張り詰めたものが特長でもあるような声なので、これはこれでいいというかこれしかないという迫り方になっている。ただ俺はYDOのたわみと楽しみのほうを音楽として評価する。ライブハウスでのパフォーマンスに触れることが目的でもあったので、向こう側でダイブしているのを見れてよかった。ただし見たかったとはいえ実際に見ると自分がそこまで高まっていなかったこともあるのだろうが、危険という感性が前面に出て結構引いてしまった。自分がライブハウスに馴染むことはないだろうということがはっきり知れた。呻いたりほとばしったりをろくにしないまま過ごしていくのかと思うと、すこしうめき声が漏れた。夜、リビングで大声を出さないでくれと家人に怒られたのですごすごと寝室に引き上げて寝る。翌朝の電車移動中にもおとなしくしていることの後ろ暗い気持ちを引きずることになった。
2026/01/22 昨日 14408
午前在宅のつもりが突然対面ミーティングを設定されたので、あわてて出かける準備をして電車に乗る。時間ぴったりに到着できたのだが、来週開催のミーティングを今日だと勘違いしていただけだった。どれだけクダを巻こうといざ必要に迫られるようなことがあると、あわててノコノコ出かける以外の選択肢をもたない自分の生活に決定的な不足を感じ、通勤電車内でもいつにもなく不機嫌な気分に支配されていた。しかし、生活に決定的な不足を感じるというのは、そのときどきに読むべき本を見つける絶好機でもあるというTIPSのとおり、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』などにかまけている場合ではないと、「海外文学」でインターネット検索をして、まだ読んでいない読むべき作家のリストを作った。ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、セリーヌの『夜の果てへの旅』『なしくずしの死』、フォークナーの『怒りと響き』『アブサロム、アブサロム!』『八月の光、』マッカラーズの『心は孤独な狩人』、フォースターの『ハワーズ・エンド』、ゼーバルトの『アウステルリッツ』。すこし考えて、その中からフォークナーをえらぶ。kindleで読めるのは『八月の光』だけだったので光文社新訳というところに引っかかったが読み始めることにした。読み始めてすぐにこの作品は当たりで、ちゃんと今読むべき小説だということがわかった。文章の一文一文の連なり、句点で分割される通常の一連とはべつの切れ目が存在していて、そうすると文章のひとかたまりが一文やひとつのパラグラフを横断することになる。流れが水面上と水面下でべつに存在しているということがあきらかになるリズムで、まさにパラリズム(パラレリズムではない)だと思った。(いま検索したら言いたかったのは「ポリリズム」だった)。それを表現するためのフォークナー独自の表記法がかなりの効果を発揮している。肉体の声と心の声はしばしば一致しないが、めいめい勝手に進んでいくなかで同期する地点がある。それは内的外的な必然性にある程度左右されるが、たまたまという余剰部もあり、そのたまたま具合が絶妙で心地良い。リズムそのものもまるでリズムを感じさせないぐらい洗練されている。それこそパラレリズムのような技法も駆使されているということなのだが、全体的な一章の流れが詩文のような散文になっている。
仕事の用事で高輪ゲートウェイから新豊洲まで移動する。用事を済ませてから18時からのリモート打ち合わせまでに帰れなかったので豊洲のスタバで打ち合わせに参加する。傍観者でいいと聞いていたのにもかかわらず、二、三度発話を求められたが、よく聞こえないふりをして無視した。マイクをオンにするにはBGMがスタバ過ぎる。19時すぎまで残業になり、有楽町線、半蔵門線、千代田線、小田急線を乗り継ぎ、『八月の光』を読みながら帰宅。セブンで買ったエリックサウス監修のビリヤニを食べる。youtubeで小籔ととろサーモン村田が品川〜三軒茶屋まで歩く動画を見ていると、家人が夜の散歩を提案してきたのでよろこんで乗る。ドラマ撮影らしき現場に出くわしながら、行き先を決めないで30分程度歩くということで足の向くまま梅ヶ丘まで歩を進めた。途中で「今度行きたい」となる店を探しながら歩くという裏テーマあり。いくつかその候補を発見したのだが、これという決め手には欠けていて今思い返そうとしてもひとつも浮かばない。(すこしかんがえて)東京餃子楼のランチが600円でライス大盛り無料という破格だったのを思い出した。それからQUINTETというカフェバー。家人が絶対にすぐトイレに行きたいと言い出し、なんと帰りは電車に乗って帰った。東京の夜の散歩というのはこういう融通も効く。もちろん酒を飲みながら歩いてもいい。今回は飲まずに歩いたが。
2026/01/23 今日
小さい立ち飲み居酒屋で飲んでいてトム・ブラウンみちおに声をかける。どうやって飲み屋を立ち上げてそれを誰かに売り抜けるかという話をする。サクラを毎日150人ほど用意して最初の3ヶ月で繁盛を演出すればいいんだと得々と話す。そういう裏技があるというのをアピールしたがったのだと思うがどうやってそんな人数を集めるのかについて策があるわけではなかった。
起きてから10分ほど夢の内容を反芻しているうちにあやうく二度寝しそうになり飛び起きる。朝から出社。返すべきメールを返し、確認するべきことを確認してから持ってきたキーボードを駆使してスマホのkindleで『八月の光』を読む。その後持ってきたキーボードを駆使して日記を書き、お昼の時間になったので在宅に切り替えるために帰宅することにする。このやり方を続けられるかぎり、ポータブルキーボードの購入理由が光っていく。有意義な時間の創出を考えると17000円は安い。ロジクールのMX Keys MiniとCosense(業務上のネットワークから分離するためスマホ(Xperia1Ⅵ)で起動)。(ここまでがAMのうちに会社で書いた内容)
下北のぶっ豚で小ラーメンを食べる。帰宅後にヘム鉄とプロテイン、クレアチンを摂る。呪術廻戦の51話を見る。「葦をふくむ」という呪術廻戦のなかでも目立って陰鬱な回だが、ED曲が絶妙にマッチしていてつい笑ってしまった。双子の片割れが残した遺言の効力というものを考えると正当化まではできないものの妥当かなと思える。ここで「家」を壊すというのは不当に自分たちを押さえつけてきた鎖を壊すということでもあるから、そうしないままでいることにはむしろ整合性がない。一生懸命訓練したその力を個人を抑圧する体制の側から無反省に使うのならば、ごと破壊されても文句の言い様がないのではないか。それでも破壊する方を正当化することはできないが。ただし、死に追いやられるということが起きたとき、死にながら呪うぐらいのことはあってもいい。それが直接的に実現するとしたらやはり正当化はできないが。
昼寝をしてから大相撲を見る。優勝争いの行方が定まってくる十三日目は相当面白い。ひそかに期待していた阿炎が熱海富士に敗れて残念だった。結びで豊昇龍を破った青錦大関の強さはやはり本物だ。遠慮会釈のない集中力がある。愚直という感じで恐ろしいのだが、大相撲の土俵にマッチしている。
お昼の時間に家人が途中で帰ってきて、ばらの花束を手渡してくれるイベントがあった。黄色いばらで、その色がその色にふさわしい気分を作ってくれた。通常普通通りにこの日を迎えられたことの幸運を思いつつ、へたな自撮りで記念写真を撮った。
結びの一番が終わってから一張羅に着替えてスタバに出かける。『失われた時を求めて』を読む。社交場での会話が続いている。プルーストが鑑賞した絵が話題にあがって(登場人物の絵に対する評価を小説世界の話題に流用して)いるのが面白いと思う。しかしこちらは『八月の光』とはちがって理解できているとはいいがたい。やはり小説を読むときの快感として「書かれてあることが理解できる」というのは大きい。フォークナーはプルーストよりも親切ということなのか、表現するものを明瞭に表現したいという感じがより強いということなのか、まだ判断するには材料が足りていないが、プルースト(『失われた時を求めて』ゲルマントのほうⅢ)は読みづらく、フォークナー(『八月の光』序盤)は読みやすい。貴族が爵位にこだわるという部分がとくに理解しにくいように思う。会話において知性による傾斜と同時に身分による傾斜があり、それらが絡まり合いながら発言力の多寡を決めているという複雑さのなかでゆっくり進行していくのだが、その複雑さと遅々とした歩みに翻弄され焦らされてつい適当に読み飛ばしているような感じだ。『八月の光』の2章まで読んだ。語りの移動がとにかく劇的でまったく自然ではないところが注目に値する。読者が読みながら暗黙のうちに予想する流れをそのままくだっていくので、そのことがとりわけ作為的に感じられる。自然であるということはいちいちそれをそう作ろうとすることで無用な作為にあたると自分は思うが、まさにそのことを裏打ちするような、作為であることを一切ごまかさないような文章の流れだ。書かれてある内容を理解できることの肯定と、自分がそのように作られたものを自然物よりも上位におく価値観を持っていることの肯定の両輪があるようで安定してぐいぐい進む推進力に充ちている。その出来のよさにここまで率直に感動できる小説と作家がいたことをあらたに発見できて、概念としての文学への感謝というか借りというかが積み上がった。まだ積めるとは。という驚きとともに。今後は書くものにも影響を受けそうだ。