20260923

日記801



2026/09/20 一昨昨日 19314
雨のなかバスケに行った。大雨の影響か季節柄か、体育館に毛虫がいたりして開始前に気分が落ちることが危ぶまれたが、始まってみればプレーは好調、メンバーも上機嫌で、とにかく楽しかった。リバウンドを褒めてもらえたのでたくさんジャンプをする回になった。自分史上一番高く飛んでリングに指がかかったりもした。
帰宅して家人が作ってくれたシマホッケのみりん干しの焼きを食べる。たのしいたのしいで酒も飲んだ。


2026/09/21 一昨日 5288
強雨のため一日家にいた。14時すぎに友人B、15時すぎに友人Nが来てボードゲームで遊んだ。Nが来る前にはスイッチのオインクゲームズで月面探索を遊ぶ。3回やって初回以外はクリアした。Nが来てから家人も参加してボードゲームで遊ぶことに。チャオチャオとドミニオンはともに却下され、だったらとヤケで提案したアズールをすることになった。自分はべつにやりたいわけではなかったが他三人のやりたいゲームでもなかったようなので、投票多数決で決めるよりはひとりのやりたいゲームをやるという意思決定のほうが適している場面だったと思う。アズールの勝者が次にやるゲームを決めるという話だったが、なぜかNのプッシュでタイムラインをやることになる。勝てなかったのもあるが面白くなかった。細かいルールの付け方で盛り上がり方が変わるはずなのだがNにはそういうルールの提案ができない。やりたいゲームはあるがちょっとしたチューニングをする気配りもそういうアイデアもない。まあ酔っ払っているとなんでもいいということになりがちだし実際なんでもよかったのだが。雨足が弱くなっていたので下北沢までふたりを送る。映画『オデュッセイア』の話をする。自分は本作の画面作りというかイメージの鮮烈さをかなり高く評価しているのだと気づいた。だからこそハリウッド的なクライマックスのわちゃわちゃが許せないという論旨だった。Bはクライマックス含め評価しているようだった。Bの映画評は基本的に辛いのだが、ハリウッド映画のハリウッド映画らしさに対する批判はなぜか抜け落ちているように思える。「ご都合主義」という批判の文言は出ないからスタンスに大きく矛盾はないが、ハリウッドの文法やその文法の都合で進む場面や筋が見えていないような適応具合でいながらたまに「リアリティ」という言い方をすることがあり、リアリティもひとつのフィクションにすぎないという観点に欠けているのかもしれないと思わせるところがある。NはIMAXレーザーにしないというムーブをしていて、勘所を押さえようとしていないのか、たんに勘が悪いのか、その両方なのか、その両方なのだろうという結論になった。見るときに感想で自分を表現しようという気がありすぎるのだと思う。だから同じ作品を見て感想を言い合うという感じにならないのが、ここ数年で彼と感想を言い合うのを避けようとしている理由だ。感想を言おうとして飛び出した言葉にずっと振り回されているし、乗っかっても否んでもそれに付き合わされることになる。
帰って家人と『さよならララ』を見る。タイトルに込められた悲哀の表現が直接俺を狙ってきたのかというぐらい琴線に触れる。網干行きの発車メロディのノスタルジー。心が痺れたようになり、見終わってしばらくのあいだ休憩が必要だった。翌朝のバスケに出ることに決めて早寝する。


2026/09/22 昨日 28777
9時からのバスケに行く。落合第二中。足が痛んでその分楽しさが目減りした。が、中盤以降アドレナリンが出てきてからは痛みが気にならなくなって機嫌を取り戻した。タッパのあるプレーヤーがいたのでディフェンスが大変だった。スリーポイントの練習の成果が出て3本打って2本入った。最後のほうのシューティング時にタッチを掴みつつあるシュートを放てた感覚があった。最近ではフォロースルーのゼロポジションを意識し、上ではなく前に押し出すイメージを強くしている。
代々木公園に移動。代々木駅近くのすき家で牛丼特盛を食べる。ビールを買って公園のドッグランに移動。酒を飲みながら犬を見ながら友人Nとその娘を待つ。合流後は彼女の歩く様子を見るのが主になり、犬たちがまとめて後景にしりぞいた。Nの妻・Nの娘の母とも合流し原宿に戻る。原宿、代々木上原でそれぞれNたち、Bと解散し帰宅。パッタイを食べて大相撲を見る。あまりの睡魔でよくない時間にうたた寝しそうになったので家人を伴って下北まで散歩する。涼しくてとてもよい気持ちだった。ホルモン青木で肉を焼いてハイボールを流し込んでから帰宅。
この日も早めに寝て正しい睡眠サイクルを取り戻そうとする。


2026/09/23 今日 2376
8時に起きて9時に出かけるまでゆっくり支度をする。スタバに行って芥川の短編集から『運』を読む。話の導入や運びがうまいし、言葉の選び方に気韻がある。良い席に座れたので日記を書く。自分が小説を書くことについて思っていることを整理しようとして次の文章を書く。
小説を書くということをわざわざやるのであればオリジナリティにはこだわりたいと思っている。つまり、自分の制作によらない文物の存在を前提とした作品を作るのは、それが導入なりイースターエッグなり、ちょっとした仕掛けのひとつという位置で登場させるのではないかぎりやりたくないということだ。今流行っていたり昨日今日注目を集めるようなイベントを作品に直接反映させるというやり方には、作者自身がそれをどう意図しているのかはさておき、きめこまやかなタイムラインを後の世に復活させるという名目は立つ。ようするに資料的価値の提供だ。つまり自分たちは日日こういうものに注目させられてきたという記録を残すことの役に立つとは言える。しかし、自分としてはわざわざそんなことを自分がやらないでもいいと思う。それにそもそも小説という形式がそれに適しているとも思えない。資料的価値をもつと言っても、なんらかのかたちに歪められたそれは他のたくさんの資料との照らし合わせにおいてはじめて価値が出るたぐいの参照項のひとつでしかない。整合性の観点からも、どのように歪められたのかというのは部分を参照するときに外されるモザイクのような取り除かれるべき障害物としてしか扱われないだろう。それが妥当な操作であるかどうかはおいても、そのようにパズルを組み立てるときのお邪魔ものとして、自分自身のもつ歪みとその結晶を矯めようとされるのは本意ではないのではないかと自分は思う。機械的な操作(ワンクリックもしくは自動翻訳)によって簡単に外されるロックとして自分自身の歪みを扱われ、実際、大方その通りでもあり、さらにそうなったときにはすでに反論のしようもないというのは、歪みの主体にとって悲しむべきことだ。そういう悲しい面を見せることで、そのときに在るべつの歪みの主体を尻込みさせるようなことはしたくない。もっと言うと彼らの反面教師にはなりたくない。
小説を書くのはセラピーではない。小説を書くのは自己満足ではない。
これは自分の書いた小説だというものを書きたい。自分を取り巻くさまざまなものによって書かされたという面はどうしたって出てくるものの、書いたのは自分だといえる小説を書きたい。そのためには他人の制作物をみだりに使うべきではない。それによって注目を集めるのは多くの人に読んでもらうためには必要なことだという論理はありえない。それをすることで自分の書いたものだと言えなくなったらそもそもの意味がなくなるからだ。
これは自分が書いたものだ。読まれないのは自分のせいではない。心底からそう思える小説を書きたい。それが書けたらその時点で人生は成功だ。それから先は人のために作品を宣伝する活動をして過ごせばいい。「これが良い」というものを持っていてそれを人に薦められる生活は、それ以上ないほど気楽なものだろうと思う。逆に言えばそれがないかぎり気楽さはつねに足りない。信仰を持つことの一番の利点は気楽さを得られるという点にこそにあるのだろうと想像する。ある意味で自分を捨てることでしかその道は開かないのだろうから、それは選択肢に入らないが、どうにかして気楽さに到達したいと思ったとき、自分には小説があった。
最終的にその気楽さが手に入らないままで終わるにしても、それを目指していることですでに気楽さをいくらか得られている。結局、気楽さを得るためには自分で作った自分の目的をもつことだ。それはセラピーではない。どこかへ達しようとする人生はべつに病状と呼ばないでもいいからだ。それは自己満足ではない。満足できるまでやって実際に満足できたとしても、満足したらそれで終わるというかたちは取らないからだ。それを薦めようとするフェーズがあとに続く。
言葉を使って表現することは、他人のなかに存在しようとすることだ。その表現を通して自分を他人のなかに存在させようとすることだ。他人のなかに存在する仕方はいろいろあるが、自分が一番得意なのは小説を書くことなのだと思っている。べつのやり方ではうまくいかなかったり、自分でこうしたいと思うほど上手にできなかったりする。これは言い訳だが、フィードバックが早すぎて試行が場当たり的になったり、その場しのぎになったりする。ときたまそれらのうちのどれかが上手くいったとしても、瞬間の印象を点々と残す・点在することしかできない。もっと贅沢に一定の期間をもらって線を引きたいし、面として当たりたい。さらに厚かましいことを言うなら体を形成したい。小説以外にも得意はいくつかある。ただ、立体的に存在するところまで存在級位を推し進めようとするのなら、自分には小説がもっとも適している。これは感覚的に自明のことだ。
人は小説を読まないとか、人はじゅうぶんな器や容積を持たないという事実もある。それでもそれは一定の事実にすぎず、すべての人が小説を読まないわけでもじゅうぶんな器を持たないわけでもない。自分としては全員の可能な全員に向けて小説を書くというスタンスを崩すつもりはないが、そうは言っても全員に自分の小説を読んでもらうわけにはいかない。社会の努力が結実し、もしも全員に小説を読む時間が確保されたとしても、読む小説には正しい順序もあれば優先順位もある。その順番抜かしをして自分の小説を読めとは思えない。そうすると正味の読者量は相当絞られる。霞を食って生きないかぎりそれで生計を立てるというのは不可能だ。これを書いていて気づいたことなのだが、自分の小説が読まれるべき小説が読まれることの障害になることがある。これは意想外だった。自分が文学フリマに感じる違和感のもっとも大きな部分は、ある文学作品が読者の時間資源を消費し、本当に読まれるべき文学作品が読まれるための時間を奪い、文学に背を向ける結果になっているところにあるのだが、これは自分の小説にもまったく同じことが言える。相当程度に辛抱強く読書を続け、しかもアンテナをあらゆるところに張り巡らせていないかぎり、そもそも自分の小説の読者にはなりえない。だから結局、読者はひとりいれば御の字だということになる。その意味でもこれは自分の書いたものだと言いたいというのは決して誇張した大目的ではなく、事実としても最大目的そのものだ。そうは言っても何人かは読んでくれるだろうというのは非常に甘い見立てで、根拠のない夢想に過ぎない。だからどこまでいっても書くことが目的ということでいいし、そうでしかあり得ない。それでも書きたいのであれば書けばいいし、そういうことならさすがに書かないというのならそれもいい。ただ、書いて完成までもっていければ、すくなくとも自分だけはそれを読める。自分はそれを励みに書こうとしているし、それだけのために書いてもいいと思っている。そうだとすれば、作品が誰かの制作物を前提としたものにならないというのは根本的な条件にもなろうし、わざわざそんなことをする意味がないというのも理解できることだろうと思う。何かが面白くてそれを取り入れるというのも、単にそれを見返したり読み返したりすればいいだけのことで、自分の小説として他人の制作物を振り返る意味がない。

ストローとしての役割しかこなせないというのでもいいが、それにしてもある程度の長さは必要だろうと思うので、まずは浅い呼吸を見直すべきだという主旨がある。自分は一介の文学者にすぎず、小説家になるつもりはないからそういうことを思うのかもしれない。

日記801

2026/09/20 一昨昨日 19314 雨のなかバスケに行った。大雨の影響か季節柄か、体育館に毛虫がいたりして開始前に気分が落ちることが危ぶまれたが、始まってみればプレーは好調、メンバーも上機嫌で、とにかく楽しかった。リバウンドを褒めてもらえたのでたく...