20251030

日記665

あなたはわたし

2025/10/29 昨日 9145
スタバを出たあと、当初予定していた難行としてぶっ豚の大ラーメンを食べることにする。野菜マシマシあぶら普通とオーダーしたつもりだがあぶらもマシマシになっていたように思う。先に麺とチャーシューを食べてもやしを後に回す作戦だったが、物量の前には小細工も良いところだった。それでも残さず食べきった。店を出るときにはさすがに苦しく、帰り道にはもっと苦しくなって立ち往生するのではないかと心配したが、とくにそういった事態に陥ることもなく帰宅することができた。食べ疲れがあったのでソイプロテインを摂った後、そのままベッドで休む。すこし休んだ後すぐ寝る準備をして23時には寝てしまう。


2025/10/30 今日 7748
7時半に目が覚めたが二度寝をして8時40分頃に起きる。睡眠時間は9時間20分。トラッカーでは深い睡眠時間もいつもより多く、久しぶりにしっかり寝たという感覚がある。酒を抜いて3日ぐらいになるが、その影響なのか、あるいは暴力的な量の大ラーメンの影響なのかはよくわからない。とりあえず在宅勤務を開始してストレッチをする。背中はまだまだ治っていないので日曜の大会に出られるか心配である。
帰れ鶏肉の残りを食べてから出社する。お昼を食べながら見たオモコロの弱ディベートトーナメントが捨て企画っぽく思われるのに反して面白かった。テンパって言わないでもいいことを言ってしまって落ち込むという負け顔を見せてくれたかんちという人は愛されるべきキャラクターだと思った。お笑い芸人の進む道はいまや高速道路なので一息に処理されてしまってあっという間に遠いところまで運ばれていってしまうが、オモコロだとまだ自転車ぐらいの速度に抑えられているのでこちらとしても親近感を持ったままでいられる。駄目さ加減に共感させてもらえると言い換えてもいいが、友達が馬鹿やっているときに笑う感覚に近い。ユーモアとしてはこっちのほうが面白いまであるのではないか。
出社してミーティングに参加。その後かるい打ち合わせを済ませてから自分の仕事を処理する。定時退勤して新宿経由で一旦帰宅。着替えをしてからスタバに出かける。『ゲーテはすべてを言った』が面白くて一気読みしてしまった。混淆と渾然のちがいを小説内で説明しようとしていたのだと思うが、小説に特有のやり方で説明されていて納得した。わかる人にはわかるというのを言葉だけではわからない人にもわかるようにしているのだが、よくよく考えればそれは言葉によってなされているわけで、まさに小説の面目躍如だと思った。哲学の追い求める真理に対する文学のうまい説明というと主従関係のようになってしまうが、真理はただ空中にあっても真理とはならず、誰かにわかられる必要があるということを思うと、それを推し進める働きかけはやはり心強いものだ。

「あの」と彼女は言う。「なんで喜劇にしたいんですか?」
「え?」
「なんでこの世界を喜劇として見ていたいんですか?」と彼女はもう一度はっきりと言う。

 

この小説には胸を撞かれたのだが、それは真面目ということを基本スタンスにして衒わず隠さず、その前提の上で淡々と話を進めていくからだ。そういう姿勢が見えるとこれは読んでいていいものだ、読んでいても大丈夫なのだと安心させられる。現代の文学には合う合わないがあるが、こういう真面目さを共有可能なものと考えられるというある種鷹揚なところがあると、受け容れられやすいのかもしれない。文学には真面目さが付き物で、それこそが眼目だと言ってしまっていいと思う。ああ、だいたいこういう感じねというような自分の経験からくる判断をしないで済むというのはいつの間にか喜ぶべきことになってしまった。もちろんいついかなる時も全力でというのは不可能だと知っているわけだが、それはそうとして、自分の枠内・手の届く範囲内というのを無視できる機会は自分で作らないと出現しない。どんな娯楽が栄えても、真面目に考えていい場所としての文学は機能し続けるだろう。その場所はつねに更新されていくべき常識とはべつの位置にある。

20251029

日記664

世界線


2025/10/28 昨日 10435
経堂のスタバをでたあと、帰宅して「帰れ鶏肉へ」という無水料理を作る。イタリア民話集の「せむしのタバーニ」はヘンテコで野蛮な話だったが、最後の最後で語りが語りかけてくるところで驚かされた。本当にそうだと思ったからだ。

話は尽きないが命は短い
こんどはあなたが話す番だよ。

家人が友人からもらった牧場物語をプレーするのをすこしだけ見てすぐに寝る。ドーピングトーキングというABEMAのトーク番組が圧倒的な規模縮小を遂げていたのがおかしくてちょっとだけ笑った。ザ・マミィ酒井の話が面白くなかったのだが、家人が言うにはMCの聴き方もよくないということで、番組MCのファンとしてはトークを邪魔しない聞き役に徹しているから仕方ないと反論してみたが、家人も自分自身も納得させられなかった。


2025/10/29 今日 7769
朝から仕事で大手町まで行く。メンバーサポートの名目だったが今後はひとり立ちできそうな様子で一安心した。彼はまじめだがまじめが取り柄というわけでもないので今後成長が見込まれるだろう。大手町から東京駅まで丸の内を散歩がてら横切って、京浜東北線で高輪ゲートウェイに出社する。出社してすぐランチタイムになった。定例チームミーティングとメール連絡を済ませて定時退勤。
渋谷経由で下北に戻り、図書館で『ゲーテはすべてを言った』を借りてスタバで読む。最近ではわけのわからん哲学書になんとか齧りつこうと頑張っていたのでするする意味が入ってくる小説の効果にほだされてつい甘い評価になりそうなのだが、50pまで読んだところで十分面白い。本の外にテキストを用意するやり方は当然考えつくべきことでそれ自体べつに取り上げるようなことではないが、本の外というのを虚構の外とも見なして現実を侵襲しようとする意志があるとも考えられ、文学史の周縁部分から改ざんを目指しているのだとすると、その試みには見るべきところがあると思う。冗句ならぬ冗文として、最終的に結構笑えるのではないかと思って期待している。

20251028

日記663


2025/10/27 昨日 7486
スタバを出たあとまっすぐに帰宅する。花屋で売られていた花を買って帰ろうかと思ったが花屋が閉店準備をしていたのでやめにした。だから実際には買って帰らなかったのだが、そうしようと思えばいつでも花を買って帰れる生活が今ここにある。そのこと自体がまさしく花だ。
帰宅して晩御飯を食べる。きのこたっぷりの鶏鍋であたたまった。赤魚を焼いたやつも出てきて豪勢な食卓になった。アンナチュラルの4話を見る。『死亡遊戯』の回。自分は散々フィクションに淫しているのに、この回の趣味の悪さをどうしても許容できなかった。いじめられて悩んでいた描写がしかるべき重さをもっていないように思えること、ナイフに刺されて死ぬまでのあいだ痛みにのたうち回る描写が省かれていたことは、現実にある問題を軽視することにつながるのではないかと思って不満だ。現実にも目を背けたくなる痛みというのはあるのだと思う。それを題材にするのであれば血が出るということに付随する痛みにたいして真剣に向き合うべきではないか。悪趣味に盛り上がる野次馬のことを悪趣味だと描写することで自己批判を済ませているというのはあまりにも稚拙でナイーブだとか素朴だという言葉にも値しない。ARATAが復讐のやり方は自分にナイフを向けることじゃないだろうと説得するところと、市川実日子が遺体にコートをかけてそっとさするところが良かっただけに、感情的にはそれですべてが贖われた感じになるのが困る。これで清算されまいと、感情が一件落着に傾くのを避けようとするのもあり、良かった分だけ賞賛するのを控えたい気持ちになった。
4話が気に入らなかったのをそのまま伝えてしまい、家人の気分を害してしまった。自分も自分が心酔した作品にミソをつけられると感情的にバッドになって聞く耳を持たない状態になってしまうことがあるので、余計なことをしてしまったと反省したが、感想を言わなければならない羽目になると上に書いたような違和感を表明しないわけにはいかないので進退窮まってしまった。迂闊だった。5話の火事回を見る。こちらは放蕩息子問題が丁寧に描かれていてドラマとして違和感がなく楽しんで見れた。言わないでいい野暮を言うと、生存者が意識を取り戻したら検視結果に関係なく一ノ瀬ワタルの濡れ衣は晴れるだろうということだ。ミッキー・カーチスと松重豊の対峙には渋いかっこよさがあったし、ラストで六郎役がラボに戻ったとき、周囲からすると謎に感極まったのを誤魔化そうとする演技がとても上手だと感心したので、俳優の名前をおぼえるようにしたい。


2025/10/28 今日 8930
銀座のホテルの一室で飲む。なぜかカーテンの設備が貧弱で、いかにも銀座という隣のビルが窓から丸見えになっていたのが印象的だった。チョロチョロと水の流れる音が止まず、洗面所まで行って水を止めたところで目が覚めた。
朝から出社。背中の痛みのせいで普通に歩くことができず右足を引きずりながらになってしまうのが面倒だった。定例ミーティングに出席し、大手町まで作業立会に出かける。追加追加での現場対応を求められて焦らされてしまったが、向こうのリクエストには応えることができたので出張った甲斐があるといえばあった。そのまま帰宅し、在宅勤務に切り替える。昨日の残りの鍋と焼鯖を食べてから昼寝。定時退勤し、背中のリハビリのため経堂まで出かける。カウンセリングと筋肉をほぐすマッサージで40分間。作業療法士のマッサージとカウンセリングをしっかり受けたのは初めてだったのだが、すっかりよくなったと言ってもいいほど充実した内容だった。11月2日にバスケの大会が控えており、そこでもまた痛めることはほぼ確定しているので、それにあわせて直近で次回リハビリの予約をしておく。
経堂のスタバで『理由と人格』を読む。”過去の自分”と”いまの自分”という観念が登場して、論の内容とは関係なく、いまの自分と対峙したときの”過去の自分”の弱さについて考えた。対峙するというのは過去思っていたことを今思わないというようなことを指していて、過去の自分といまの自分の志向や利益が相反するとき、過去の自分にはかなり為すすべがないということを思った。過去の自分のやったこと思っていたことというのはいとも簡単にないがしろにできるし、何だったら黒歴史とか言って葬り去ることもいまの自分にはできる。しかしそんなことをしては絶対に駄目だと思う気持ちがある。生きている人間(いまの自分)にしか碑文を刻めないのだから、それをするときには過去の自分にも責任を持っていたい。その意味でもこの先、将来の”いまの自分”が好き勝手できないようにこうやって日記を書くのは重要なことだ。そうしてこそ”いまの自分”も無用な遠慮をしたり、必要以上に過去を美化したりせず、好き勝手自由に自分を反省するということが可能になる。だからいまの自分にとっても過去の自分にとってもこの日記の重要性は大きい。あれだけ美味しい食事も3日もすればほぼ完全に忘れてしまうわけだし、たとえば有り難いという気持ちもすぐに揮発する。すこしでも思い出すきっかけを作らないとツルツルスベスベの取っ手も何もないスムーズな生活に終止してしまう。ただただ感情の起伏があるだけ。本来それでもいいんだろうが、いまの自分の持つ視点でそれだけになると考えるのはおそろしいことだったりする。

20251027

日記662

学園前駅

2025/10/25 一昨日 5417
スタバを出てからは例によって例のごとくミカンの入口で氷結無糖を飲む。すこし趣向を変えてシークワーサーにマイナーチェンジ。いいかげん夏の記憶も後景にしりぞいていった。すき家で牛丼を食べてから帰宅。セブンでカップうどんを買い、帰宅してから『アンナチュラル』を見ながら食べる。翌日朝早いために早めの就寝。


2025/10/26 昨日 20283
朝から成城学園前まで出て、バスケの大会会場までバスで行く。9時スタート13時終了の大会だったのだが初戦の前半終了間際に痛めていた背中が再発してしまう。そこからは背中をかばいながらのプレーになって心肺機能的にも余裕があるぐらいの動きしかできず、完全な不完全燃焼になってしまった。とはいえ、万全だったとしても大した働きができるわけではない。背が高いゆえにDFでは真ん中に陣取っているだけである程度相手のプレーを制限できるし、OF
でもマークを引き付けるぐらいのことはできるので、万全時とあまり活躍の量が変わらなかったのが悲しいところだ。それでも自分のなかでのやれた感・やった感には大きな影響がある。バスケ以外でもその傾向はあるが、とくにバスケでは実際の活躍のためというより、自分の中での活躍できた感のためにやっているところが動機として大きいので、それが充足されないのはつらい。午後からは家でTCBで集まる予定があったので、大会終わりにチームメイトとの挨拶もそこそこにハローサイクルを飛ばして帰る。
TCBのふたりと家人の計四人で宝石のきらめきとタイムボムで遊ぶ。それぞれセオリーが構築されていく。やはりボードゲームはそのセオリー構築過程がいちばん楽しい。あっという間に19時頃になってお開きになる。下北の駅までひとりをお見送りする。そのあと気になっていたワンさんの中華料理屋に行って飲み食いする。「地三鮮」というナスじゃがいもピーマンを炒めた料理がよくある具材を使いながらの通っぽいメニューを教えてもらい、食べる前から想像できる味わい含めて気に入った。値段もリーズナブルだったしワンさんの店は下北でのこれからの飯屋レパートリーに無事ラインナップされた。この日は遊んでいるあいだじゅう背中の痛みに悩まされていた。友人はイタタと言っている様子しか見ていないので、たかが趣味でこれだけの苦痛を引き受けることになっているのは度し難いという表情を向けてきたが、それに値するだけの、場合によってはそれ以上のJOY(よろこび)があると言いたい。それを言っても通じないだろうから言わなかったが。それからバスケの怪我によってこれから始まる演劇に影響があったら嫌だという意見も頂戴したが、両者は比べるべきものではないし、純粋にプレーヤーの立場から言えばバスケのほうを優先したいまである。演劇はこれから伸長するパートとして確保しようとしているが、バスケはおそらく全盛期を超えつつあるので自分のなかでの価値がバスケに傾きがちになるのだと思う。もちろん単純比較などできないが。


2025/10/27 今日 6172
一日在宅勤務にする。起き上がるのにも苦労し、歩くのも脚をひきずるようにしてしか歩けないので、さすがにこれはと思って病院を探して整形外科に行く。電気と腰牽引機械の治療を受けてから鎮痛剤、筋肉をほぐす薬、湿布を処方してもらう。前日のアンナチュラルで見た電気が流れてデバイスの接触部分が赤く腫れるというのと同じ症状がデバイスを付けている手首に出ていてそのタイムリーさにちょっと笑った。電気治療とは全然関係ないかもしれないがそれにしてもタイミングがドンピシャだったので。
いつかやろうというのが自分の基本スタンスで、焦っても仕方ないというのは真だとは思うが、それにしても今のこの調子の良さはいつまでも続くわけではない=今がピークで、今こそ本腰を入れていつかやると思っていたことに取り組むべきときなのかもしれないということを思った。去年の夏頃から再開したバスケは去年のいまの時期にはどんどん勘を取り戻し、体力をつけていって良くなっていく一方だったので、今年の夏終わり頃からのちょっとした怪我というかパーツごとの不調は、今後どんどん増えていくものなのかもしれず、そうすると何の不安もなく動き回れていた今年の夏までは、そうとは意識できていなかったものの自分のバスケ人生にとってのボーナスタイムだったのかもしれない。そしてそうだとすると(そうでないことを望むが)、それは頭のはたらきについても同じことが言えて、今とくに意識していないで不自由なくやれているという事実は、あとになってから喉から手が出るほど欲しいものだったということにもなりかねないし、そうならないと考える合理的な理由はひとつもない。自分がいつかやりたいと思っていることにはもはや一刻の猶予もないと考えるほうが理に適っている。賢犬がどこかに行ってしまって久しいが、彼を呼び戻して話を進めていかなければならない。それが首尾よくいかなかったとしても、そうだったらそうだったで、その場合はとにかく彼の穴埋めをしないとどうにもならない。旧知の友人に会ったりして気分転換をはかるというのはそれはそれでいいが、もっと大事なことがあるというのを忘れていてはいけない。自分のやろうとしていることというのは、それでお金がもらえるわけでなし趣味なら趣味ということでいいが、だからといって仕事や交友の後ろに置くわけにはいかない。すでに優先順位はきちんとしていてずっとその通りで来ているが、もっと比重をプライオリティ1に割いていくようしないと嘘だ。これから始まる演劇にもバスケぐらいの熱量で取り組んでいきたいし、バスケにしてももっとアスリートっぽくシリアスに取り組める余地がかなりあるので気持ちを上げて取り組んでいきたい。そうすることでずっと続けている読書も運動の良い影響を受けて引き上げられるものがあるはずだ。自分のやりたいことに全力で取り組もうとするのはストイックとは言わないので、ストイックという言葉には騙されないように、マイペースで突き進みたい。ということでまずは酒を抜く。この日記を読めば今年はほぼ毎日酒を飲んでいるということが明らかだ。なのでとりあえずは「氷結無糖」「飲んだ」という文字を書かないようにしていきたい。シャルドネの味を覚えたばかりだがワインも一旦お預けだ。
スタバに来て『理由と人格』を読む。第6章だがあまり頭に入ってこず。それでも文字に向き合っていると自分が考えていることが浮かび上がってきたりするので完全に無為にはならない。むしろ書かれてある内容よりも有益だと感じられることも稀にだがある。その場合でも読めているわけではないという事実はどこにも行かないので注意が必要だ。
とにかく日記を書いてから『イタリア民話集』をすこし読む。スーパーにも寄らずまっすぐ帰るつもりだ。

20251025

日記661

ドーナツの穴

2025/10/24 昨日 6422
22時半の閉店間際ににスタバを出る。氷結無糖レモン500をミカンの入口で飲んでから吉野家でカルビ定食(ご飯大盛り×2)を食べる。セブンでシャルドネのワインとチーズを買って帰る。家で家人推薦のドラマシリーズ『アンナチュラル』を見る。2話と3話を見た。悲しい感情になる場面の石原さとみの顔がすこしうるさい。ここがうまくいっていれば「焼肉行こう!」と元気できっぷの良い場面が引き立つのだろうが、眉毛なのか目つきなのかわからないがとにかく顔がうるさいという気持ちが拭いきれず、何だったら焼肉行こうという正当な提案までうるささが侵食しているように感じられた。満島ひかりといい、石原さとみといい、主演級で活躍している女優について懐疑的だったりするので、自分は好みについてうるさいほうなんだと思う。しかし考えてみると顔のつくり云々ではなく、なんというか「演ってんなー」と思ってしまうということなので、ひょっとすると演技論的な話かもしれない。男の「演ってんなー」については気にならないし、女でもたとえば吉高由里子のそれについては意識しないではないが気になるほどではない。どういうところに違いがあるのだろうか。自分の視点の問題というのも十分ある線なので、そこもあわせてもうすこし考えてみたい。
複雑な感情表現を感知できない、あるいは大味な判定しかできないからそこを雑味として感じてしまうということなのかもしれない。心情を顔で表現する演出から演出意図を汲み取るのが下手で、しかもそこにメッセージがあることだけは理解できるから、結果、不明瞭なメッセージとして浮き上がってくるということなのかもしれない。なんか考えているっぽい顔といういい加減な受容でも好みの顔であれば見とれているだけで間が持つが、そうでもない場合にはタルさを感じるというだけの話なのかも。いずれにせよ「演ってんなー」なんて俳優に向けて言う言葉ではないというかそれはそうだろという話だし、結局、演出が気に入らないという話に収束していく。よくいえばハイリスクハイリターンな演出が裏目に出ている。わるく取るとハイリスクだという認識がなさそう。2話も3話も看過しがたい間抜けな言動があってリアリティラインを下げる役割を果たしていた。2話はふたりして閉じ込められる場面がおかしい。トラックのことはよくわからないが、扉をロックするのはそれなりの手数がかかるはずで、中から出ようとしている二人を抑えながら閉じるのはハードルが高すぎるように思う。しかしより許せないのは3話で、温水演じる小人物が自身のこうむることになる利害について無頓着だとしか思えない振る舞いをするのはどうしても解せない。咄嗟に包丁を握って殺してしまえとプッツンする弟(真犯人)にも度し難いものがあるが、温水のほうは考える時間がたっぷりあったのにもかかわらず、自分の人生を大きく左右する選択についていい加減なことを言いすぎだった。あまりにも人ではないようで、筋運びのためだけにセリフを言わされているテレビドラマでしか見ないようなキャラクター造形にげんなりさせられてしまった。
でも人というのは意外とそういうものなのかもしれない。自分が思いもしないようなことを言ったりする人というのは普通にいて、しかも珍しがられている形跡もないというシチュエーションに出くわすことが最近多い。友人知人のタイプが片寄っているほうだとは思っていたが、その偏りは自分で考えている以上だったかもしれない。自分には小説を書こうという考えがあるのだが、この偏りについてはきちんと把握しておかなければどうにもならないと思う。インターネット上で存在感がある小器用なタイプは無視してもいいが、それ以外の人についてはもっと観察が必要だ。そういう人のネット上のコメントはフィルターしていいし、自分個人としてはフィルターしておくべきだと考えているが、実際の行動や発話についてはひととおり見ておくべきだ。
1時すぎに寝る。


2025/10/25 今日 2703
9時40分に起きる。起きてすぐストレッチをする。ほんのちょっと筋トレをしてから朝ごはんを食べる。AmazonでNBAの試合が見れるのでニックスvセルティックスの3Q途中から見始めた。試合後レイカーズvウルブズが始まることに気がついてそのままフルゲーム見る。冷食チャーハンとポロ一(サッポロ一番塩ラーメン)を食べる。圏論の動画を見ながら寝落ちし、そのまま1時間程度の昼寝。日が落ちてるすこし前からスタバに出る。
『理由と人格』を読む。「Ⅱ合理性と時間」にさしかかる。記号の使い方なのか文章なのかかなり読みづらい。これまでのところゲーム理論とその亜種を取り上げた前提に終始していて面白さもない。正直頑張って読んでいるだけの状態だ。「Ⅰ自己破壊的諸理論」はまるまるとばしてもいいかもしれない。必要に応じて戻ってくるだけで問題なさそう。ここからの展開には期待したい。

20251024

日記660

ZERO近傍

2025/10/23 昨日 6730
一日在宅勤務。朝から洗濯機を回す。秋晴れの気持ちよさを享けて洗濯物を干す。仕事のあいまにTKG(卵かけご飯)を食べたり昼寝をしたり。Youtubeのショート動画で有吉の昔の活躍を見漁る。定時退勤してぼーっとしているうちに出かける時間になったので下北から渋谷まで出る。高校時の友人たちと会う。予約してくれたジビエの店に行く。おしゃれな個室でよかった。しかしそんなにたくさん食べてもないし飲んでもないのにひとり6000円の会計になった。そんなに多くあるイベントでもないとはいえ、ふつうに支払いをしている自分に違和感があった。彼らと飲みに行くときには飲み代を渋る素振りをするのがお約束になっていたのに、そういうことをしようとも思わなかった。自分以外の3人にはそれぞれ2名の子供がいて、やはり子育てを引き受けて生活しているという感じがあった。ただし重みというよりは錨のような安心感を享受しているように見受けられた。遠くにある目的地を見据えているような、ゴールを知ってそこに向けて歩いているものに特有の歩みの確かさがあった。もうすこしふらふらできないものかと思う。無い物ねだりだろうか。20時半に流れ集合し、23時前には解散という短時間の会合になった。自分は物足りなさを感じたが皆はどうだったろう。締めに渋谷のラーメンということで博多天神を提案し、横並びでラーメンを食う。山手線と東横線で見送りをし、下北に戻ってミカンの入口で氷結を飲んでから帰宅する。歌声がばつぐん、歌詞がいまいちのストリートが歌っていた。ほぼ1、2曲だけで警察官が登場し、カブに乗って帰っていった。


2025/10/24 今日 4148
在宅勤務。昼から出社のつもりがだるくなって一日在宅勤務にする。昼飯のためにセブンの惣菜を買いに行く。ゴーヤチャンプルーとおろしポン酢サバ、チーズインハンバーグを買った。サッポロ一番みそラーメンと五穀米ご飯を食べながら有吉クイズを見る。食べ終わってから圏論についてのYoutube動画を見る。リハックの前後編、圏論と非可換確率論のイントロダクションのようなインタビュー動画で、理解しやすい部分がすこぶる理解しやすい内容だった。わかりやすい部分にしか目がいかないという弊はあるが、そもそも注目を集めないかぎり目がいくことはないし、きっかけとして割り切っているような内容だった。話が面白かったので著書『現実とはなにか』を図書館で予約した。圏論について川上量生が「人間は表現されたもので物事を基本的に理解している、本質的な部分を直接あつかっているわけではない、という構造を説明するための理論が圏論というものであって、そういう感じに抽象化された瞬間にわからなくなる」と言っているのと、西郷の「点と矢印で構成されていて、矢印の組み合わせで表現する、何もしない矢印がありそれが重要だ」と言っているのがとくに印象にのこった。
前編と後編のあいだに小一時間の昼寝をする。この日はやれと言われた最低限のことだけやって定時退勤。スタバに出かける。『理由と人格』を読んで日記を書く。

告白

告白


わたしには告白する必要がある。わたしは嘘つきだ。それをわたしは告白しなければならない。

わたしが嘘つきだと告白するというのは、自分に向けてではなく、自分以外の他人に向けてだ。わたしが嘘をついているのも自分にではなく他人にであるから、これは筋の通った話であるはずだ。

わたしが他人についている嘘というのは、わたし自身の利益のために、あるいは他人を害する目的で、騙そうとしてのものではない。わたしがわたし自身に適用させたり、常日頃、自分自身相手に言い聞かせている言葉と、他人相手に口にする言葉とが食い違っていることを指す。ようするに自分相手であればこう言うというようなことを他人相手には言わないでいること、他人相手に言うことを自分自身には決して言わないということだ。

たとえばわたしは人との付き合いの中で、ある人が何かを達成したときにはその人自身の頑張りを見て、その部分を評価するようにしている。なぜそんなことをわざわざやったのですかというようなことは思っていても口には出さない。その意味でわたしは他人に嘘をついている。さらに言えば、そんなことを思わないような自分にチューニングしたうえで他人に対している。自分や相手の気持ちは置いておいても、これは実のあることを何ひとつ思わないような状態に近い。だから努力や頑張りというわかりやすいバロメーターに目が向き、そのことについてタイミングが合えば言及したり、とくにそんなタイミングがなければ黙って頷いたりしているのみだ。一方で、自分に向けて自分の頑張りに思いを及ぼすこともない。もっと言えば方法について考えるということさえ稀なのだが、それでも考えるとすれば努力や頑張りといったどうでもいいことではなく、なぜそういうやり方をしたのか、もっとうまくいく方法は他になかったかというようなことを考えているはずだ。言葉にして誰かに伝える必要がないし、もっと途中にいる感覚の中で頭を働かせているようなものなので、考えているというよりは感じているというほうが実情に即しているようだ。そのときどきに感知したものをできるかぎり頭に通すようにして何らかの処理をさせているというぐらいのものだ。

自分の努力や頑張りがどうでもいいと思っているだけで、努力や頑張り一般についてどうでもいいとは思っていない。自分にできる範囲というのは自分にはわかりきっているものなので、ある時期ある一点に注力したからと言ってそれは自分に可能な範囲でそうしただけのことにすぎないこともまた自明のものだ。しかし他人の努力や頑張りについてはその限りではなく、どれだけのポテンシャルやエネルギーのなかでそこに振り向けたのかがブラックボックスになっている分、素直に努力に感嘆したり頑張りに着目したりということがしやすい。そもそも他人の志向についてはなるべく「どうでもいい」という言葉は使わないようにしている。逆に自分に向いた思考過程では「どうでもいい」という言葉づかいをすることが多い。どこかへ向かおうとするときに重要なのは取捨選択で、その道をとらないという方針の決定をする機会はどうしても多くなるからだ。また、どうでもいいことに対して言葉を選ぶ手間を省くことも重要で、そういったときに「どうでもいい」と言えることは効果的だ。

他人が何を重要視していて、それに向けてどういう道筋をとって迫ろうとしているかということに興味があるとしても、それは自分のやり方にとって参考になるかもしれないと思うからで、当の中身について本当に興味を持つことはむずかしい。だからごく表層的な頑張りに着目して、そういった全体的な雰囲気に対して、手を叩いたり感に堪えないようなポーズで「そうか」と口走って終わりにするしかない。それは必要な手間の省略にはちがいないが、それでも嘘をついているという実感をともなうものだ。だからわたしは嘘をついていると告白をしなければならない。つい最近までわたしは自分が嘘をついていることについて告白することができなかった。それができるようになったのは感受性の消耗によってあまり恥を知らないようになったからでもあるが、より直接には、他人も同じように嘘をついているのだということに気がついたからだ。本人が認めるかどうかにかかわらず、また自覚しているかどうかにも関係なく、すべてわたしはわたし以外の他人に嘘をついている。だからわたしは告白できる。十分に理由がありかつ安全でもあるとするなら告白するに越したことはない。告白できるのであれば告白しなければならない。それで余計な消耗を避けたり、受けずに済ませられる自責の念を軽減したりする役に立つからだ。

ここでいう他人というのは親や子供といった存在も含まれる。だから彼らにも「どうでもいい」という言葉遣いをするわけにはいかないし、何を重要視しているのかということに干渉することはもちろん、それを理解することもできない。しかしそういうものとはべつの「重み」があって、それを背負ったり背負われたりすることにはべつの動機がある。それを免除されたいとは思わないのだが、これはおのずから全然べつの話である。そうであるならどうして言及したのかわからないことになってしまうが、わたしが他人に対する姿勢や方針というのはひとつだけに限定し単純化することは不可能だということを表そうとした、ということは言えるかもしれない。責任を負うという項を導入すると一気に話がややこしくなる。しかし、親や子供とはべつの在り様として「読者」というものを想定することができる。わたしは、彼らに対してはわたしのつく他人への嘘を最小限に抑えつつ、しかも何らの具体的な責任を負うことなく接することができると考えているふしがある。「どうでもいい」とこだわらず言うことができる。これはわたしにとって重要なことで、だから書くのだ、と言ってもいいようなものだ。つまり、彼らの対照とするために親や子供といった重みのある存在に登場してもらったということも言える。

わたしのものの見方のうえでは、ひとつの存在様式がもう一方の存在様式を担保しているということになる。それは一方の罪をもう一方が贖い、もう一方の功を他方が祝ぐということになるかもしれない。わたしとしては、その罪が軽く、功が高ければよいと願うばかりだ。そう願うのはわたし自身のためでもあるが、正直なところ、わたしのものの見方における他人のためでもある。

20251022

日記659

ウェイ

2025/10/21 昨日 7206
高輪ゲートウェイのカフェで日記を書いたあと20時過ぎに帰路につく。なんとなく気分で氷結無糖GF350を飲んでから電車に乗る。気分の高揚はあまりなく、ただ胃の調子を崩して軽い乗り物酔いになっただけに終わる。新宿経由で最寄り駅まで。最寄りのまいばすで家人の分とあわせ、野菜炒め弁当の塩味としょうゆ味を買う。有吉クイズを見ながら食べようとしたところ野木亜紀子脚本の新ドラマがリアルタイム放送されていることを知り、ためしに1話見てみる。ちょっとだけエスパーという題で主人公の能力が触れた人の心の声が聞こえるというものだったのだが、街行く人の心の声がまったくの書割で全然納得できず。あまり乗らなかったので1話打ち切りになる模様。翌日は午前在宅の予定だが睡眠不足の負債を解消するために早めに寝ることにする。
新しい総理大臣に不満があるので感情的になってTwitterに不満を表明するツイートをしてしまい、冷静になってすぐ消した。不満を表明すること自体はべつにそうでもないのだが、よくないのはふざけた調子で「嫌だ」という感情を表現したところだ。たかが総理大臣のことで感情的になるなよ、なにも総理大臣ひとりで政治を担うわけではないのだからという冷静な意見が自分の中にわき起こってきた。いろいろな意見があっての多様性だ。自分には受け入れがたい意見があるという当然のことを何とかして受け入れるようにしなければならない。
まあそれはそれとして総理大臣が高市というのは恥ずかしいことだから一刻も早く退陣してほしい。参政党や百田に協力要請、維新と連立なんて冗談でも許されることではない。


2025/10/22 今日 6921
午前在宅。パーフィットの『理由と人格』、大江健三郎の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』を読む。背中痛にかこつけて一週間以上サボっていた筋トレを再開する。シャワーを浴び、冷食チャーハンを食べてから出社する。雨なので原宿経由の一番濡れないコースをとる。
溜まっていた仕事を進める。16時から客との打ち合わせがあった。名刺交換にいちいち緊張しなくなってきたが、相手側に自分の名刺正面を見せるという基本を忘れてしまった。相手の名刺がよく見えることでミスに気づき、あわててくるりと名刺を回す技を披露してしまう。今回はふたりと交換したのだが、えらいほうのやつ相手にミスして若手相手にはつつがなく交換できるという良いんだか悪いんだかわからない結果になった。まあ打ち合わせも黙ってればそのうち終わるし、はっきり言ってどうでもいいことなわけだから、頭でそうわかっていても緊張してしまうことのほうに問題がある。控えめに言ってビビリということだし、もっと言うと理性的ではないということだ。なにかを闇雲に恐れるのは子供のすることだ。しかしそうは言っても、場に臨めば汗をかく。エアーコンディションはきちんと管理されていて全然暑くないのに……。
定時退勤する。高輪ゲートウェイで渋谷方面の山手線に乗るときにはスーツケースを前に置いて座っている人の前に立てれば品川で座れるというTIPSを見つけた。下北沢に戻って『イタリア民話集』の上を借りる。イタロ・カルヴィーノ編というのが動機だが、直接的には頭木さんの『落語面白くない人へ』で信じられないほど面白いというコメントがあったことで読む気になった。数話読んだだけだがたしかに面白い。ただ今のところは信じられないほどではない。
もう数話と思って『鸚鵡』を読んだらその構造の妙に驚かされてしまった。『クリックとクロック』も何とも言えない面白さがあるし、『何ごとも金しだい』の皮肉もかなりスパイスが効いている。もう引き込まれつつあるようだ。

20251021

日記658

二人四脚

2025/10/18 一昨昨日
家人の発案で朝から埼玉まで出かける。登戸経由で小田急、南武線、武蔵野線とローカル線を乗り継いで東所沢にある角川武蔵野ミュージアムへ。武蔵野線には初めて乗った。さすがに今後乗ることはないだろう。
埼玉の田舎については人口の多そうな田舎という感想以外にないが、駅前の大道路に信号がついておらず横断歩道だけがあり、自動車が礼儀正しく歩行者に道を譲るので、田舎にしてはよくできている街だとすこし感心した。
武蔵野ミュージアムは令和時代のハコモノ文化を見せられているという感じで、企業のイメージアップに利するのかどうか微妙なところがあると思った。まあこれでいいならいいんじゃないだろうかといった感想。荒俣宏、松岡正剛、池上彰がフロントマンとして立っていた。それ自体が飾りとなっている本棚を使ったプロジェクションマッピングをやっていた。『昭和100年』という題で出来は良かったのではないか。黒板に印字された池上の文章を読んでいる人は、プロジェクションマッピングを見ている人の何分の一になるんだろうか。黒板には「昭和100年と言っても戦前と戦後を一緒くたに語るのには無理がある」というようなことが書かれていたのだが、こういった場所で字が読まれず、昭和100年という文字だけが目に映るというのはどういう種類の冗談なのだろうか。たしか皮肉といったか。
読んでいない本が大量にあることの圧迫感を普段図書館にいかない人にもすこしは感じやすいものにするという意図があるのかどうかわからないが、壁の両面が本棚になっているコーナーにはちゃんと圧迫感があった。
原宿で用事があるという家人と西国分寺駅で分かれ、来た道を戻るかたちで帰宅する。レンタサイクル(ハローサイクル)で環七を遡上し、高円寺まで行きバスケに参加する。腰を傷めないように加減して動いたのであまりハッスルできなかったのだがそれでもバスケは楽しい。運動能力の向上を目指していろいろ頑張ろうと思ってはいるのだが、実際には各所に痛みが出て動きがわるくなっていく。本調子なら、ということを思ってみてもしょうがないのでそのときやれることをやるしかない。怪我をしてもいいから痛みがどうなってもいいからという動きをしたいとは思わない。相当調子が上がっていてしかも勝敗が際どいならそういう気持ちになるのかもしれないが、そもそも痛みが出るとそれに気を取られはっきり調子が下がっていくからそういうことにもならない。まあそれでいいんだが。しかしまあ、それでいいんだけど、もっとがむしゃらにやってやれないかということを思わないでもない。120%を出そうとできるのも若さの利点なのかもしれない。出るかどうかはともかくとして。
メンバーの人に最寄り駅まで送ってもらう。この日はもう一人同道の人がいて当たり前のように駐車場の代金を出していた。20代とおぼしいのだが、ドライブ中の会話もしっかりするし、よくできた人だ。言ってる場合ではないが言わないで済ませることはできない。バスケもスラッシャーとして魅力のあるプレーをするスタイルで、しかもDJをやっているというのだからそれ以上はもう何も言えない。語るに落ちるの逆バージョンだ。車内でかかるかっこいい音楽についても食いついていた。なんでもディアンジェロというつい最近物故したアーティストらしい。新しい音楽を聴こうとしていると好きだった音楽を忘れてしまうからレコードを買おうと思っていると言っていて、記憶力の限界についてとてもわかると思ってしまった。好きなのに忘れてしまう、忘れてしまっていることさえ思い出せないというのはショックなことだ。ダンバー数という概念を知っていてもすこしの慰めにしかならない。
駅前に座ってお酒を飲みながら家人の帰りを待とうと思ったのだが急な腹痛に襲われてあえなく帰宅。翌日も朝早いので比較的早めに寝る。


2025/10/19 一昨日
家人の友人の結婚式で山梨まで出かける。新宿経由であずさ91号に乗って一気に小淵沢まで。新幹線であれば新大阪まで行ける時間座っていた。寝不足気味だが緊張していて一切寝付けず。実際寝過ごしたら長野県に突入してしまうので。
結婚式の場所は今まで参加した中で一番変わっている場所だったが、その分インパクトがあって楽しめた。自然の中にある会員制レストランが会場で、自分の店の料理人を駆り出していて料理は本当に言うことなし、言葉にするのもむずかしい美味しさだった。披露宴余興の企画も格付けチェックという盛り上がる内容を用意していて、企画者の意図した通りにならなかったことで予定調和ではない盛り上がりもあり、思わず泣き笑いの表情になるほど感動した。社長のスピーチには不意をつかれたのもあるがかなり感動してしまった。今までの結婚式のどの賓客挨拶よりも内容があった。なかでも結びの言葉はふたりの個人的な願い・ビジョンにも踏み込んでいて、美しい言葉だと思った。「ふたりの幸せが、世界の平和につながりますように」
文字にしても伝わりづらい、真率な声の響きがあった。真心としか言いようがない。技術的にはそこにいたるまでの前段や、話の流れが上手くデザインされていたということだと思う。かなり大幅に見直してしまったというと、普段どれだけ舐めたことを思っているんだと思われそうだが、実際それぐらいの反響が自分にはあった。もしハットを被っていたら間違いなく脱帽していたと思う。
披露宴の後、みんなでできる片付けを手伝い、車でコテージに移動して二次会に参加させてもらう。歓談したり歌があったり、イタリアへのテレビ通話があったり、ボードゲームのITOで遊んだり、盛りだくさんで気づいたら23時を過ぎていた。用意してもらった部屋で寝ることにした。
今回の新郎役の人は会話の力がとんでもなくあり、発話内容がおもしろいうえにいつも明朗な声量で回す力が強く、そのうえ締めるところは締めるので、目に見えて高い能力を持つコミュニケーターだ。だから過小評価されやすいタイプだと思う。安定して出力が高いタイプというのは慣れられてしまうものだし、「あの人はすごい」の一言で済まされがちになってしまうと思う。だからたぶん近しい人こそ声を大にしてブラボーと呼ばう必要がある。自分が会話において何も考えられておらず間を埋めるためだけに使う「ああ」「たしかに」「なるほど」「うんうん」という言葉を言っているのを聞いたことがない。圧倒的エンターテイナーで、しかもいまだ走力が落ちていない稀有なタイプだ。太刀打ちできないし、太刀打ちしようとも思わない。もしかするとそういうのも過小評価に結びついているかもしれない。手合わせしてみてあらためてそのすごさに気付かされるということが絶対にあるだろうからだ。
それでもなお言うことがあるとすれば、立場の高下など、社会的な規範のうえで縦横無尽な働きをするというタイプなので、そういった表舞台向けの社交能力に特化しているように思われるということだ。卑怯な寝技に持ち込もうとしているようで気が引けるのだが、そういう社会規範とはべつの舞台というのはあるよね、という話だ。そしてそれは決して小さくない領域だと思っている。自分はとくにそうだからかえって主張するのがむずかしいが、私秘的な領域はその存在感を増し続けているように思う。
関係ないが列席者の中にラボットがいて交流させてもらった。名前を聞いた瞬間から固有性を獲得し、質的な変化をみせるのがロボットペットの不思議なあり方だ。ラボットが特別かわいいとは思わないが、Mはかわいいと思った。(頭文字にするとよそよそしくなって嫌なほどだが、プライバシー上やむを得ない配慮だ)
熱い風呂に浸かって1時すぎに寝る。連続での寝不足は確定したが最小限に抑えた。運営側の大変さを思うと本当に気楽なゲストの身空でこれ以上望めないほど楽しませてもらい、感謝のしようもない。しかし寝不足は寝不足だ。


2025/10/20 昨日
8時半すぎに起床、だらだらと準備をして9時半に用意してもらったタクシーに乗る。相乗りで小淵沢駅まで。駅そばで山賊そばを食べる。でっかい鶏胸肉の唐揚げが乗っていておいしかった。
南アルプス天然水の工場見学は平日なのにもかかわらず満席で参加できず。代替の登美の丘ワイナリーの畑見学に行く。最寄りの塩崎駅まで移動し、タクシーで丘にのぼる。とてもよい景色を堪能しながらブドウ畑の前でワインを飲むと、他では得られない養分が自分の中に染み入るのがわかった。昨日の新郎スピーチにもあった”テロワール”という言葉の意味をツアーで実地見学させてもらい、その内容がより腑に落ちた。去年一年のあり方が今年に影響し、今年のあり方が来年に影響するというように季節のなかを貫いて連鎖していくのがおもしろいところだ。
なかでも発見になったのは、ワインはブドウだけで作られるためブドウの品種のちがいがワインのちがいをもたらしているというかワインのちがいそのものだということだ。言葉としてのみ知っていた「シャルドネ」が明確な味わいのちがいとして目前に現れた。甲州との比較試飲によって本当にぜんぜん違うということがわかった。シャルドネに言われる”バターのような”というのが本当にそのまま当てはまるのかと驚いた。喉のなかをもたつきながら流れていくのもブドウからイメージするような動きではなく、パンに合いそうな、というよりはパンのような麦のような、果実らしくない味わいがあった。食用品種ではなくワイン専用品種としておそらくシャルドネは別格なんだろう。38歳にしてようやくワインに対して目が開いた。次にシャルドネを飲むタイミングを楽しみにしたい。
2時間そこそこの滞在で登美の丘をあとにして次の目的地甲府へ向かう。電車の本数がきびしく限られるなか、かなり優秀な移動効率を発揮できた。甲府ではまずほうとうとそばの店に入ってそばを誂えて七賢という日本酒を冷やで飲む。ジュエリーミュージアムをひやかしてから小江戸小路を歩いて通過。城郭前公園でコーヒータイムにする。実験的な公園でスケボーで遊べるゾーンを設定していたり、モルックのような遊具を無料貸出していたり、運営者のやる気が伺えてよかった。甲府城の天守閣をかすめて駅にもどる。ちょうど特急「かいじ」が通りかかる時間だったのであわてて一番搾りを買い列車に乗り込む。チケットレスを駆使してスムーズな乗車ができた。あっという間に新宿に到着し、各停で最寄りまで帰る。
ほうとうの店で買ったおみやげのほうとうを家人に作ってもらって食べた。我が家のほうとうはカット白菜をふんだんに使っていてとても美味しい。海に眠るダイヤモンドの1話と2話を見る。情報が出揃ったあとで見ても答え合わせのような面白さがあって、よくできたドラマだと思った。1話の時点で最終話近くのシーンが出てきたりしていたので映画のような制作過程を経てそれをドラマ用に編集したのかもしれないと思った。ゆりこのことを知ってからみると2話の見え方が全然ちがった。2話のゆりこもそうだが、登場人物目線というのをうまくミステリーのパズルに使っていて上手いと思わさせられた。しかも決して書割ではなくそれぞれの主観として自立しているようにみえるのもすばらしい。
翌日は出社で朝早いので早めに寝ることにする。さすがにここらで寝不足状態を解消しないとまずい。


2025/10/21 今日
以前行っていた散髪屋の兄ちゃんに久しぶりに切ってもらいに行く。店の場所が変わって大きくなっていた。時間に遅刻してしまい、かなりの塩対応で施術がスタートする。カウンセリングも全然なしでカットを始めようとされたので不信感からカットをやめて今回はカラーにしてくださいとお願いする。休み明けで金髪を黒に戻さないといけなかったのでちょうどいいといえばちょうどよかった。しかしメニュー変更によって明らかに不機嫌になり、「真っ黒にしかできないっすよ」と言われる。せっかく金髪にしたので真っ黒にはしないでほしいと伝えるも、そんなの無理とすげなく断られる。これは話にならないと思ったので今回の予約は全キャンセルにさせてくださいと言って外に出ようとしたところ、たくさんのスタッフにかなり威圧的に囲まれた。それでも強引に抜け出すと広い店内を端から端まで追いかけられることになった。そのうちのひとりから泣き落としのような説得を受けようとする途中で目が覚めた。
朝から出社。ぎりぎり雨は降らなかった。
AMは前日の休みで溜まったメールとタスクの確認。午後からは打ち合わせをやってタスクを整理したり前に進めたりしているうちに定時近くになる。定時前に翌日の定例打ち合わせ前の軽い打ち合わせがあった。確認事項をクリアにして定時退勤する。
オフィスの入っているビル内のスタバに行こうと思ったが満席だったのでとなりのCITY BAKERYに入って日記を書く。20時前に書き終わったので電車に乗って帰宅する。

20251017

日記657

日記を書く

2025/10/16 昨日
高輪ゲートウェイをあとにして渋谷経由で下北沢に戻る。家人からご飯を食べたか問い合わせがあるのでまだこれからと答える。いくつか候補を提示されたが、どれも否んで吉野家にしてもらう。唐揚げ定食の気分だったので。
お腹いっぱいになって帰路につく。お酒を飲んでも良かったのだが飲まずに済ませ、帰ってから『海に眠るダイヤモンド』の9話を見る。とうとうラスト1話のところまできた。いずみの家族は海の底に眠るダイヤモンドではない。日の目を見て陸で輝くダイヤモンドだ。ということを主張するメッセージがねっこの歌いだしで演出されていて、相当良いと思った。ドラマの中でドラマを超えた現実を描こうとしている。つよい意志を感じる。
家族の顔合わせのことで頭を悩ませている。いろんな選択肢があり、それらはパッと見の印象があるのでついそのひとつひとつに引き込まれていきがちになるが、それをすると別の視点では要件に合わず、別のことを取り上げると先に決めたことが蔑ろになるという羽目になる。しかしこれらは際限なく使えるお金があれば解決する問題にすぎないので、金に糸目をつけなければいいのではというのはまさに真なのだが、そのメダルを拾い上げて値札を確認するとコインを大量消費するという現実に引き戻る。そのコインがあればありとあらゆる希望がかなうわけで、選択肢を狭めているのはこのコインの不足なわけで、世の人がコイン集めに必死になるのはわからないでもない。効率よく集めようとするあまり日常の選択肢をきびしく閉ざしている人もいるし、何がいいかは結局その人の要求とその要求をかなえるための労力を払うバランスによる。まあ当たり前のことだ。
シルクのナイトキャップをプレゼントされたのでそれを被って11時半過ぎに寝る。なんでも寝癖爆発を軽減する効果があるのだとか。


2025/10/17 今日
地元の友だちとキャンプに出かける。公園でバスケをしていると友人に声をかけられこの日がキャンプ出発日だということに気がつく。準備していなかったとは言い出せず、何の用意もないまま他の友人たちと合流するため駅の方に向かう。友人は大学卒業と同時に結婚していて自分は結婚式にも行ったのだが、そのときのワイフは連れておらず、よくわからない田舎風ギャルの若い女を連れてきていた。気になったが疑問を口に出せず、友人も口に出させない雰囲気だったのでキャンプについてのあれこれを喋って間を埋めながらべつの友人たちと合流した。
目が覚めたら6時半だったのでそのまま起き出していつもより早めの時間に出勤することにした。時間に余裕があると気持ちにも余裕ができる。オフィスのローソンで朝食を買って始業前に席で食べる。
この日はやるべきことが多く、打ち合わせや業務引き継ぎ、問い合わせ対応、自分の持ち分の事務仕事をしているうちにあっという間に日が落ちて定時を回り、週明けに有給を取る都合上終わらせなければならない仕事を終わらせるためそのまま19時まで残業になった。疲れたが金曜日なので無理が効くということだ。丁寧なやりとりをしてくれるので好感をもっている仕事人と帰りのエレベータでいっしょになる。ふたりきりなので気まずくないですよというメッセージを送るだけで精一杯だったのだが、さすが世慣れた仕事人だけあって向こうから話しかけてくれた。そのおかげでおつかれさまと言い合って別れることができた。爽やかな気持ちで退勤できたのはこの人のおかげだ。
ニューマン高輪で見つけたプレゼント用mohiの靴が売り切れになっていたので有楽町まで移動。首尾よくそこのルミネ2でゲットできた。よもだそばで唐揚げ丼セットを食べる。東京ミッドタウン日比谷の地下広場でセブンのコーヒーを飲みながら『落語が面白くなかった人へ』を読む。日記を書く。

20251016

日記656

有名犬

2025/10/15 昨日
氷結を飲むためいつものミカン入口に座ったのだが腰の痛さが気になって思うように酔えず。座るという基本中の基本動作にも影響することもあって腰の痛みというのはストレスになる。動作といっても動いていないわけだが、直立ではなく座っているときに痛みが強くなるというところに一筋縄ではいかない面倒がある。
家人に誘われて経堂の山角に行く。下北にあってよく行っていた店の移転先ということだった。土土土への暖簾分け?分解?を経て、正統さはこちらにあるということになるのだろうが、値段味ふくめ甲乙はつかなかった。そもそも定食屋なんて電車に乗って行くところじゃないので近所にあるほうを使えばいいというだけの話。
しかしあの夏が嘘だったかのように本当に気候が好く、ちょっとそこまでという徒歩移動が一切苦にならない。どころか一歩一歩が喜びになる。これを当たり前とは思わず、存分に味わうようにしておこう。酒が回ってきて腰の痛みが気にならなくなった。セブンで追加の酒と酸辣湯カップ麺を買って食べる。摂取カロリーを増やし始めてからバスケの頻度が減っているので何のための大食いなのかわからなくなってきた。早めに寝る。


2025/10/16 今日
三四郎の小宮のラジオに出演する。とくに話すことがないし、何も用意していないまま相当簡易的なブースに座らさせられたので内心とても焦りつつ、素振りでそれを感じさせないようにしつつ、フルートという楽器の特徴について話をした。いわく、フルートは横に持つので、他の楽器よりも個人個人の体格の影響を受けやすく、そのためたくさんの種類のフルートが製作されているのだという。小宮くんもね、フルートの練習をしていて知っているだろうけどと、よくわからない話への巻き込み方をして、とくに返答がないまま音楽が流れて番組が終わった。こんな適当に番組を制作しているのかと驚き、こんなのでは使えるところはないでしょうとディレクターらしき人に向けて話しかけてみたら、それにもなんだか容量を得ない返答。そのままラジオの音声が聞こえてきて、この番組は生放送だということがわかった。リレー形式でわれわれのあとを引き継いだマヂラブの野田が「あいつら(三四郎)はラジオをクビになったのかな」と、つい先ほどの会話の無内容をイジっていた。小宮はずっとヘラヘラしていて尻子玉が抜かれたあとのような様子でオフエアのラジオブースに座り続け、野田の言うことを否定するでも肯定するでもなく、まあまあと誰に向けてかわからないがお茶を濁していた。
出社できる時間に起きたが出社せず、朝の時間を『理由と人格』を読むことに当てる。腰の痛みについては脊柱起立筋が弱っているために起こるということはほぼ確定的なので、そこを鍛えるためのエクササイズを軽くこなす。昼ご飯に冷食チャーハンを食べてから13時に出発。この時間帯は山手線でも座れるしラクに出社できる。
現地開催のミーティングに参加し、必要な打ち合わせの調整、問い合わせメールへの返信などの基本業務をこなす。定時退勤し、高輪ゲートウェイ駅敷設のスタバの外席に座って日記を書く。MacBookの打鍵感には言うことがないし、もし高級キーボードに替えても、結局こっちのほうが良かったということは普通に有り得そうだ。キータッチについてある程度ボタンを押し込む必要があるというのには少なくとも慣れは必要になるだろう。うまく慣れられないのではないか、慣れてしまったら慣れてしまったで、今感じていない不便を背負い込むことになるのではないか。わざわざそんなことをする必要が果たして本当にあるのか、もうすこし考えてみてもいい。
そういえば去年の今頃はNY旅行に行っていた。NYは旅行者にとってとても良い都会だった。また行きたい。東京も旅行者にとってとても良い都会だから、関西に住んでいた頃にはよく遊びに行っていた。だからまずはよく遊びに行くことができれば。お金と時間さえあれば全然不可能ではない。しかし問題はお金があまりないことだ。時間にしても無制限なわけではない。それらの制約を飛び越えてでも行きたいという意欲があれば行くだろう。そうするとやはりそこまでではない、ということか。とりあえずフライト料金とホテルの代金はチェックしていこう。

20251015

日記655

開門準備(プレハブ)


2025/10/13 一昨日
TCBの街歩きで浦安まで出かける。前日のバスケで危惧したとおりに思いっきり再発した腰、ハンデをかかえて歩き通しの一日になったが26000歩をほぼ問題なく歩き切った。
早めに浦安についたのでカフェに行こうとコメダに行ったが予想以上に値段が高く、もう少しうろついていたらスタバを見つけた。入って『美の進化』を読み終える。昼ご飯にはまつのやでロースカツ定食のご飯おかわりを食べた。
TCBのふたりと合流し、さっそく浦安橋まで歩く。さらに浦安橋から見える集合住宅エリアまで足を運び、ローカルなスーパーにも立ち寄ってから一旦駅に戻る。途中から家人と合流し、予習していたメンバーの発信で神社のほうまで歩き始める。まいばすでビール(サッポロクラシック)を買い、飲み始める。レンガでおしゃれに舗装された川にかかる橋をわたり、送電線と鉄塔沿いの公園をすすみ、国道らしき大きな道に出る。暗くなり始めてから江戸川沿いを歩き、すこし遠くに見えるミラコスタを目指して南下する。ある程度近づいて舞浜駅到着が現実のものになりかけたタイミングで来た道を浦安のほうへ引き返した。臨機応変と右往左往というのは気の持ちよう次第のところがあり、4人が4人とも臨機応変だと評価するようなご機嫌状態にあったのが今回の街歩きの良いポイントだった。秋の醍醐味である涼しい風が惜しげなく吹き続け、川に沿って長く続く一群のすすきをゆらゆらと揺らしているさまに感動してしまった。暗すぎず明るすぎず、暑くもなく寒くもない、これでダメなら何もないと断じていいほどの好天だった。
川沿いを歩き続けると浦安橋にたどりついたのでそのまま駅のほうへ返し、途中のどこで飲むかの話題の中でどんどんインド料理づいていたこともあってインド料理屋に入って飲み食いする。ひとりはビリヤニを初めて食べるとカミングアウト。まだまだ初めてできることはたくさんある。
持て余すのではないかというほどたくさんの時間があるとき、話題のバトンを奪い合う必要をあまり感じていないときにこそ、われわれのお喋りは真価を発揮するのではないかということを直前にあった金曜のお喋りと比較して考えた。この日はかなり楽しかった。


2025/10/14 昨日
移転先の高輪ゲートウェイに移転後初出社した。アクティブなオフィスの考え方は性に合うし、きれいでスペースにもゆとりがあるのも言う事なしだ。しかし、やることがあるわけではないので、丸一日いてタスクがない中でいろいろ考えることになった。カフェにいて仕事をしているような感覚に近く、タスクの合間の空き時間にはそれを有効に使う方策が必要とされる。というより、せっかく良い場所があり時間の余裕があるのだからそれを有意義に使わないと勿体ないという話。それで日記を書く時間をオフィス時間に回せないかと考えた。byodでMacBookを持っていけたらとも思うのだがそれではセキュリティ要件を満たせず。だからKeyboardを買ってBluetoothでAndroidにConnectする方法で、業務をしている風景を作り出しつつ日記を書く方法が経済にかなうということになり、ハイエンドKeyboardをSearchしはじめた。なぜハイエンドなのかというところには必然性がなさそうだが、ノートパソコン端末備え付けの普通のKeyboardを使わないで持ち込みのKeyboardを使うというところにはそれなりにリーズナブルな理由が要るのではないかというところだ。それにHHKBのインターフェイスを大事にする思想は、ネットワークにおいて自分が重要だと考えるようになった方向と共鳴する。しかし、36850というのはあまりにも、だ。タッチタイピングもままならない人間にはいくらなんでも高すぎる。
というわけで、タッチタイピングのある程度の習熟を条件にして購入を前向きに検討するというところに落ち着いた。
ところで出退勤の山手線はさすがにぎゅうぎゅうになる。これもなんとかしないといけない。具体的には比較的空いている時間帯と車両の特定。
帰りは渋谷経由で下北沢。氷結無糖レモンを飲んでから吉野家でカルビ定食のご飯大盛り×2を食べて帰宅。サッカー日本代表の試合を見る。なぜか非国民という言葉の響きを面白く感じるスイッチが入ってしまい、家人を閉口させる。非・非国民として〜という前置きで勇壮なことを言うのが面白いと感じていたから完全に酔っ払いだ。飲んでいない家人はいい面の皮だったろう。
非国民という言葉が大手を振っていた頃というのにはいろいろ思うが、端的に言って野蛮だと思う。そしてそれは近い将来「無職」にもあてはまるのではないかと思う。働いていることを当然と見なし、働くことを強制しようとする圧力というのは野蛮なことだと感じられるまともな感性がなるべく早く"全国民に"涵養されることをのぞむ。
前半のうちはふざけてサッカーを観ていたら後半になって雲行きが怪しくなり、1点差に詰めたかと思うと同点に、同点に追いついたかと思えば逆転になった。このままいけばブラジルに初勝利になるというので、これまで手痛く敗北してきた様をリアルタイムで味わってきたことも思い出し、最後のほうは手に汗握り、気が気でなかった。結果は歴史を塗り替えるというもので、「見てるか、釜本」と偉そうなことを思った国民は相当な数にのぼるだろう。


2025/10/15 今日
朝から出社し、一日オフィスにいた。仕事をしながらそれ以外の時間にはこの時間をいかに有意義に過ごすかということを考えて過ごした。Kindleで『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』を読む。頭木さんのインタビュー記事などが面白かったので近刊ではないがこれを読むことにした。
定時退勤し、比較的混雑しない車両を選び渋谷経由で下北沢に戻る。スタバに入って日記を書く。MacBookを持っていかなかったのでAndroidスマホでこの日記を書いた。19時過ぎには書き終えられたのでスタバを出て氷結無糖を飲むことにする。雨次第だが小雨なら小雨結構となるだろう。

20251012

日記654

ラストデイ

2025/10/10 一昨日
朝から出社。この日が虎ノ門への最終出社日になった。オフィスの引っ越しに伴い翌週からは高輪ゲートウェイに出社する。これまで西新宿、渋谷、九段下、神谷町、一瞬だけ豊洲、大崎×2で働いてきたが、虎ノ門ビジネスタワーがぶっちぎりで好環境だった。高輪ゲートウェイは新築のオフィスビルなのだが、今回のTBTより良いオフィスということにはならなさそう。それでも2,3番手のクオリティはあるはず。ニューマン高輪や3月のグランドオープンに期待したい。
引っ越しのため定時より早い17時前に終業になる。帰宅して本を読もうとしたがダラケてうまくいかず。日記のなかで振り返ってみて思うことだが、自分のなかでこれはやりたいということをやらないままで飲みに出かけることになったのがそもそもよくなかった。
下北沢駅でTCBの友人と合流し、もうひとりを待ちながら歩き飲みを開始する。ワンバトルアフターアナザーの感想をすこし話した。
友人が合流してから旅行の話などして、それから予約していた散髪のため一旦抜ける。アメリカンバーバーっぽい内装や、かかっている音楽、ひとりで店を運営している店主の雰囲気など、どれをとっても居心地が良く、45分間の過ごし方として気に入っている。自分史上最高額の散髪料金でしかも4週間と空けない高頻度の利用で、正直割高になっているというレベルを超えているのだが、月に1度、こういう他には代えられない時間を持てると思うと、単に行かなければならない散髪イベントというのを超えて、良いものがある。合流した友人に「髪切った?」と言われたが、今は髪を伸ばそうと苦心している時期なのでトップはほとんど切っていない。サイドの刈り上げてもらっているところを見せておいた。
友人たちが公園に行っているということだったので、家に寄りがてらバスケットボールを持っていく。この時間帯だったら暗いので誰もいないだろうと踏んでいたのだが自分とはべつにふたり、自分と合わせて合計3組がリングを使ってシューティングをしていた。
友人と合流。呪術廻戦を全巻読んだというので呪術廻戦の話になる。自分と比べて粘度の低いさらっとした読み方に慣れていることもあるからだろうが、流して読んで、あまり感心させられるところがなかったという感想のようだった。とくに好きな登場人物はいないということだったので、ただアラを指摘したいだけになるだろうと思って話を止めようとしたが、べつにどうでもいいのであればどうでもいいだろうと思うのだが、読んだ以上はそのことについて話さなければ損とばかり、謎にこだわって話を継続された。だからとくに面白い話にならず。「能力バトルものとしてハンターハンターに及ばない」というのでそれは当然だろう、どの漫画がハンターハンタに勝てるのか、ほかに比べられる能力バトルものはあるかと訊いたところ、ただの一作品も挙がらなかった。どこそこに旅行に行って、なんとかという観光ガイドだけではなく教科書にも載っている有名な場所に行ったというときの、結構人がいたとか、周囲には何もなかったという感想に近いものがある。何に感動してどういうところが面白かったのか、それでなくてもつまらなかったのかを聞けないと、話をしているという気になれない。
こういうところが面白くなかった? と言ってみてもいいのだろうが、呪術廻戦についてそこまでする気にならなかったので、話題を変えるのがベストだったと思う。
あとは「絵がうまくないのでその面での読み応えがない」という感想については同意できず、普通にうまいと思う。とくに表情の表現がこれ以上ないレベルで上手い。コマの流れでの表現だけではなく一枚絵としての強さも十分ある。
映画は2時間目を開けていたら見たといえる、漫画はページをめくれば読んだといえる、だから鑑賞する人や読む人によって感受のレベルが大きく異なるものだ。質的に異なるといえると思う。自分よりも低い感受をしている人と作品について話す意義はうすい。話題の作品について「あれ見た?」というように、コミュニケーションツールにする作品受容をしていたいとは思わない。というより、その役を上手に担える作品に時間をかけていたくないと言ったほうがいい。TCBでもうまく回って熱くなるときは楽しいから、その反面、熱くならないときが楽しく感じられないということがある。いつでも熱くなれるということはないからしょうがないことではあるが、自分が参加する以上できるだけ熱い方向に持っていきたい。その点バスケは単純で、自分が一生懸命走ればその行動によって熱くなれる。
途中、駅で飲んでいるときに練習帰りの家人と合流。すこし話の続きをしたあと、誕生日になる瞬間を3人で祝う。うまく回らないままガス欠になって楽しい話をできないまま解散になる。もっと早く帰るべきだった。具体的には公園でトイレに行くと言って二人とはぐれたときに帰れた。実際、ちょっと前だったら帰っていたと思う。昔のほうが正しい行動ができていた。



2025/10/11 昨日
午前中は何もしないで過ごす。15時からで予約していたパン飲みの店に行くため、昼になってからようやく活動を始める。小洒落た店で美味しいパンとワイン、小美味しい料理をいただく、ミニマルな店内の雰囲気に大きな窓が開放感を与えているという洗練された作りの店だったのだが、図体の大きい自分にはややミニマルすぎた。
小雨の中梅ヶ丘のサミットに寄って食料類を補給して帰る。日記屋に行って日記を見る。多和田葉子の日記がほしいというので購入。
帰ってキングオブコントを見る。ロングコートダディが一番面白かったのは間違いないが、一番笑ったのはトム・ブラウンのコント「エリザベスカラー」と審査員コメントを受けてのみちおの「(低い点数をつけたあなたがたは)もう死んでます」だった。完全に2025年の北斗の拳だった。ほかに面白かったのはしずる池田が審査員コメントと会話するところと村上の全コメントが笑いの邪魔になっていたところ、や団伊藤の脳汁顔芸、レインボージャンボの異常にしっかりした受け(声量・声質・えらぶ言葉・間)の完璧さ。しかし一番印象的だったのはうるとらブギーズだった。微妙に噛むところから始まる言い間違いコントがガチなのかネタなのかどっちかわからずぬるりと始まり、虚実皮膜を突き破らないまま異常に伸び上がっていくのがすごく怖面白くて、笑いながら脇に汗をかいた。笑いにはちょっと防衛機制も働いていたと思う。うるとらブギーズのなかでもとくに好きなギタリスト上京コントを振りにしていて、自分たちのコントを知っている前提に裏切ってくる不敵さも、今大会とくに多かった”不敵なやつら”のなかでも抜きん出て不敵だった。「優勝する気がないだろう」というツッコミを誘うためのコント前VTRも効いている。
しかし全体的にお笑いハイコンテクスト過ぎて、2位でいるべきロングコートダディが優勝してしまうという盛り上がりに欠ける大会になった。やはりお笑い最盛期はもう終わっているっぽい。関係があるのかないのか、そんな単純なものでもないから「結果的に」なんだろうが、お笑いのピークを過ぎたのがダウンタウンの終焉と軌を一にしているというのはよくできていると思わさせられる。
家人とドントスターブトゥギャザーのサバイバルバトルをする。5日目に家人の操作する火遊び娘が怪物に踏み潰されて死んだ。操作もままならずただ生き延びただけだがより長く生き延びて勝った。


2025/10/12 今日
9時に目を覚ます。バスケの夢を見た。プレイ中ではなく控室で士気を上げるチームミーティングの場面。誰かが何かを喋っている途中で相手チームの選手が通りかかりそのときに話が途切れるるなど、対戦前の緊張した雰囲気があった。自分はリーダーだか監督だかの話をあまり聞いておらず、「いや、自分が爆発して何回でも連続得点してやればいいんだ」と自分が自分にしている蓋を外して、自分自身に暗示と発破をかけていた。控室を出る前に夢から覚めた。
一時間ぐらいを朝の準備に費やしてからスタバに行く。髪の毛を切ったばかりなのにすでに髪型が迷子になっている。サイドパートという髪型になると思うのだが、ちょっと面白いぐらい左右にボリューム差があり、花輪くんみたいな不自然な頭の形になっている。『美の進化』を読んでから日記を書く。「ヒトはきびしい配偶者選考によって快感を得ている」というのは余人は知らず、自分としては納得のいく論だ。
昼からはデザイン学校の学園祭に行く予定。夕方からは狛江でバスケがある。先週日曜の試合で背中をすこし痛めたため、今週は平日のバスケには参加しなかったのでじつに7日ぶりのバスケになり、すでに気持ちが昂っている。

20251009

日記653

かすかにある


2025/10/08 昨日
もっとこうすればよかったとあとになって思うような日々の過ごし方をしているようでもあり、自分にできる範囲で最大限の楽しみを引き出した毎日を手に入れているようでもある、たしかな事実としては、ほとんどストレスのない生活をしている。この日は午前中に在宅をして、午後から出社した。定例打ち合わせもあるが何もしないでいるとゆっくり溜まり始める仕事を片付けるためだ。
インターネットで、川上未映子と頭木という人の文學界の対談記事を読んだ(「心臓をノミか何かで、がつがつ削られるような痛みで……」川上未映子が難病の当事者・頭木弘樹に初めて語ったこと)。頭木さんの言うことには肯けるところがあった。文字を読むのがしゃらくさいと感じる出自もそうだが、生きている人が書くフィクションは射程が限定されているというのもそのとおりだと思った。とはいえそれはそれで合理的ではあると判断していると感じられるところもあって、飛びつくこともしない代わりに手放しで批判するということもしておらず、適切な距離をとれているような気がした。病室で同室になった6人全員がドストエフスキーにハマったというそれこそフィクションのような面白い話も書いてあって、それまで文学とは無縁でやってきたジジイがドストエフスキーと邂逅するというのはなんだか明るい話のように聞こえた。これは想像してみるしかないが、それ以外の方法では照らせない明かりで照らされたということだと思うので、他に類を見ないほど明るい話だといえると思う。
しかし記事の内容を再確認しようと、いま文春オンラインのページを開いたのだが、広告の表示のされ方はほかでは見ないほど醜悪だった。人間をクリックする機械とみなして効率よくクリックさせようとする手法がふんだんに使われていて、記事の内容の確認を超えてげんなりさせられた。いつまでこういうことをさせられるのだろうか。
記事内で川上未映子があっさり「17%の魂」ということを言っていて、その正直さを評価するべきなのかと思わされそうになった。数字を使う、データを駆使するというのは今やどんな人でもやることなのだろうけど、そういう有効な数字の使い方をしない人がいてもいいと思う。120%とか、0.000000001とか、そういう言い方に限定して数字を使うというやり方。べつに川上未映子がそうであってほしいというのではないが、川上のほうまで風潮が来ているのだとちょっとナイーブに驚いてしまった。
定時退勤してそのままスタバに行く。行けそうだとは思ったが大事を取って、バスケにはいかないことにした。人数が10人ぎりぎりだったので、もし背中を痛めたら途中でプレーできなくなったら他の人に悪いと思って無理をしてしまいそうだからあらかじめ止めておいた。
『美の進化』を読む。『荒潮』を読み終える。荒潮のほうはクライマックスに向けて物語の風呂敷を畳んでいくときの手際というか、わかりやすい折り目がどうしても気になった。映像化ありきというか、いかにも映像化してもらいたげというか、先の展開を織り込もう織り込もうとしてかえって小説として自立していないという印象で終わった。『三体』の劉慈欣がこれを絶賛したというのだから、その目は信用できない。しかし、最近では『ワンバトルアフターアナザー』を絶賛したスピルバーグもそうだが、プレーヤーによる他プレーヤーの作品の絶賛というのは本当に優れている場合には起こりにくいというだけの話だろう。むしろ全然脅かされないということの証明としての機能のほうが活きそうだ。
氷結無糖レモンを飲んでからぶっ豚でラーメン大を食べて帰宅。『海に眠るダイヤモンド』の5話を見る。屋上庭園を作ろうとする話。恋愛リアリティショーの演出だから、というよりは恋愛リアリティショーの演出なのに、本当に感動した。神木隆之介も杉咲花もすごい俳優だ。しかし特筆するべきはやはり國村隼。彼は恋愛リアリティショー顔負けの國村隼ワンマンショーを見せつけて、國村隼ワンマンショーだなと思わせつつなお感動させてくるのだからすごい。いま思い出しても笑えるぐらいすごい。沢村一樹が物語の都合上で悪者役にさせられ、物語の都合上で悪者役を降ろされ、というのが気になるといえば気になるが、これはいちいち目くじらを立てるような瑕疵ではない。そもそも、よくみれば、つまり行間を読みシーン間を想像すれば、これもちゃんと理由のあることなのかもしれない。



2025/10/09 今日
一日在宅勤務にする。朝昼に2回ずつぐらい働く。時間にして1時間にも満たない。それ以外の時間はできるだけ有意義に使おうと、昼寝したり鬼滅の刃のアニメを見た。柱修行という眠くなる内容だったが、唐突に「心を燃やせ」というセリフが飛び込んできて、それに痺れたりなどした。
定時退勤してスタバに移動。『理由と人格』『美の進化』を読む。日記を書く。

20251007

映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た

映画は気晴らしでしかない。などと言うと、その否定派はたくさんいることだろう(たくさんいてほしいものだ)。
まずもって映画視聴に求めるものをただの気晴らしとするかどうかによっても意見がちがってくるところだろうと思うが、ことアクション映画(以下A映画)については答えが出ている。A映画ははっきりと明確に気晴らしにしかならない。平板な生活から抜け出せるような擬似体験をさせてくれるという意味で、A映画の有用さは決して小さくないとはいえ、そこから教訓を得たり、生き方・考え方の指標にするということはどうしても荷が勝ちすぎている。おそらく子供の純真さをもってしか達成できない。それ以外に教科書がないという状況下でのみ、教訓めいたものを得られるということもあるだろうが、(まじめなA映画ほど)そういった教化を与えようと考えて作られていないことから、突き詰めていった先にはひずみが生じることになる。端的に、そこには無理がある。どんな物事であってもまともに判断しようとする者にとり、主人公の善性については無謬のものとして「目を瞑る」という技能が必要になってくるからだ。
映画、とりわけ巨大な予算が組まれて製作されるハリウッド映画の限界を示す作品として『ワンバトルアフターアナザー』の名が挙がることになるにちがいない。2025年時点でしかとその限界に突き当たったのが記録されたという意味でも、この映画が作られた価値はある。A映画としてよい気晴らしになるという以外の価値として。
映画にはある種の小説を超えることはできないということだ。それは同名小説を原作に『ヴァインランド』という映画を作ろうとしてそれに失敗し、『ワンバトルアフターアナザー』というやや奇矯で未完成品に近いA映画が製作されたことで明らかになった。
たとえば、ディカプリオの娘が忍者スクールの教えの”型”を披露するところから映画が始まればいいのにと思うのだが、映画視聴の制約上それは現実的ではない。(本当にそうか? 映画視聴者のことを不当に軽く扱っていないか? しかし予算規模がある程度以上で、多くの人の目に触れる”必要”が生じる場合には制限の枷はその実在感と重量を増すだろうことは想像にかたくない…)
映画化不可能といわれるたぐいの小説はいくつもある。ピンチョンの小説作品もほとんどすべてそうだ。『インヒアレント・ヴァイス』はその不可能を可能にした作品だったといえるが、『ヴァインランド』で元の評価に戻った。LAの風に当てられて夢に見た映画『ヴァインランド』と比べてしまい、『ワンバトルアフターアナザー』についての正当な評価がむずかしくなっているのかもしれない。この映画は佳作だとは思うが傑作だとは思わない(からい評価だろうか)。
それでもこの一連(ヴァインランド再読、映画への期待と失望、部分再読)によって自分の考えがよくわかった。映画の評価とは直接関係ないがそのことはよかったといえる。
映画の”観客”としての自己より、小説の”読者”としての自己のほうが優れていると感じる。ひとつには読者としての自己のほうが作品への向き合い方がより真率で、作品の粗に見えるところや至らぬところに目を瞑る必要を感じることが少ないからだ。読解力や理解力の不足を補うために、追加の労力を払わなければならず、そのことによって瑕疵が見えづらくなる構造にある、という仮説に対して反論するだけの余力も残されていないが、それを差し引いても、おそらく……。
小説のほうが映画よりもコミュニケーションの量が多く、その質も高いと感じる。小説のほうがその著者との密な絡まりが自然発生する、というよりは、そういった密な絡まり合いが発生しないことには読めているということは言えないような、関係性の構築があらかじめ約束されているようなところが小説の特徴としてある。自分以外の他人の考えていることを知りたいという変な欲求に対して、より多く応えてくれるのが散文による物語作品で、すくなくとも物語部門ではそれ以上の濃密さは求めるべくもないということだ。
他には、記号扱いにされるモブキャラについて、小説では文字通りの記号扱いになるためそうすることに対する抵抗が発生しないのに比べて、映像では記号扱いしつつ画面に登場させなければならないので、どれだけそれをスムースにして感じない程度の微量に減らそうとしても、それが成功しなかったら普通に嫌な気分になるし、成功したら成功したでその分だけ今度はそれに対する抵抗が生じてしまうというジレンマにおちいるということもある。
小説を読むというのは決して気晴らしではなく、それ以上の何かを得るためだというのは、以前から自分がそう考えてきたことだが、こういう考え方というのは良く言っても”シンプル”だというのは、他ならぬピンチョンの小説作品の内側から響く通奏低音のようにして何度となく聞きとってきた声でもある。そういった”シンプルさ”というのは、作品の中でも決して嘲られたり軽んじられていたわけではない。むしろ強大なものとして描かれ、なんとか逆らおうとして失敗したり、部分的に成功したと思ったらやっぱり失敗だったり、逆らわずに済ませて失敗を回避したりする、情けなくも完全に見捨ててはいられないたくさんの登場人物の対向にある。決して打破できないが、そうは言っても「これはなんとかしないとね」という力だ。
だから本当にやるべきこと、やる価値のあることは、『ヴァインランド』を読みつつもそれはそれとして、『ワンバトルアフターアナザー』を一本の映画として独立に評価するということではないか。
時代の流れに逆らおうとしながら失敗したものの、アクション映画としては見るべきところのある高予算映画で、決して傑作とは言えないが映画館で見る分には間違いなく佳作といえる、ポール・トーマス・アンダーソン作品のなかではもっともつまらない映画というのがまともな評価だ。
弩級に面白い小説と、佳作の映画を並べて考えると、混乱してどっちがどっちなのかわからなくなるし、それで必要以上にイライラして余計にフラストレーションも高まっていくというようなことが起こっている気がする。普通そういうことは起きないはずなのだが、既存の価値判断に謎の液体をぶっかけて磁場を狂わせるというのが、天と地をひっくり返そうとする勢いで反体制的な、つよい魅力を持った何かの力だということは言えるかもしれない。
関係ないが、ある人物の持つ性質や属性、それにまつわる歴史を、記号化したひとりの登場人物で表そうとするな馬鹿、ということは思った。批評家的な視点を映画内部にメタ構造のように備えているからOKということにはならない。
そして、武装革命家の闘いより生活保護受給者の闘いのほうにより多くの見るべきものがあり、それは映画によっては表現され難く、小説という表現形式の台頭を待たねばならないというのが『ワンバトルアフターアナザー』と『ヴァインランド』とを比較してまず最初に感じられることだ。だから結局、何事にも適切な表現形式があるというだけの話だ。
買ってでもする苦労はできるうちにしたほうがいい。それはトマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』を読むことだ。


「買え、いくら出してもだ」奈南川零司

日記652

非点灯

2025/10/06 昨日
スタバを出てからダイエーで氷結GFを買って飲む。家人に歩かないかと打診したらしばらくしてから歩こうという返事がきたので最寄り駅からまいばすけっとまで歩くことにした。オリジン弁当で豚バラ辛子味噌弁当とライス中を注文して帰宅。アンシャーリーを見ながら食べる。19話はアンがグリーンゲーブルズに帰省する場面から始まり、ルビーが病気になって死期が近いという。全然そんな話は聞いていなかったのであまりの急展開についていけないのだが、やつれながらも空元気を出すルビーと、その痛々しい様子を見ていられないからルビーとふたりでは会わないようにするダイアナの気の弱い優しさ由来の冷淡さが堪えた。とくに詳しく描かれていなかったがダイアナの気持ちは理解できる。もしかすると大学で外の世界に出ているアンよりも顔を合わせる機会も多かっただろうし、そのときに何らかの衝突ないし決定的なボタンの掛け違いがあったのかもしれない。しかしいずれにしても早すぎる死を描くことでメメントモリや天国への道という信仰をモチーフにしようとするなんて作者は見下げ果てた下司だと思ってしまう。悔しいのはそれがフィクションの専売特許ではないところだ。アンシャーリーの時代にはとくにめずらしくない事態で、友人のうち何人かは若死にをしなければならなかったのだろう。だから許しがたいのは作者ではなくそうなるシチュエーションのほうだ。
アンはみるみる弱っていくルビーと会うのがつらくなって、途中で会うのを止めてしまう。ダイアナもだが、そうなるのは避けるのが難しいことだと思う。しかし、アンは一番つらいのはルビーだということに気がつく。生きているといろんな嫌なことつらいこと許せないことがあるが、それにしても若くして死んでしまうことでそれらのいろいろな嫌なことをつらいこと許せないことを含むよしなしごとから離れなければならないつらさほどではないだろうということだ。アンは心を消耗させながら昼間にルビーと会い、夜は疲れた心を解放するように机にむかって小説を書くという生活をしばらく続ける。メメントモリも天国ありきの信仰も、自分には理解の及ばないところにある思考だが、小説を書くことがアンの消耗した心を回復させるというのは理解できる気がする。ルビーもアンも心に思ったことを言葉にするのがそれぞれに難しい、しかしそこには何かがあるというふたりだけの邂逅を経て、その一部を天国への道と呼んでいた。言葉や概念がそれで正しいかどうか、それが自分の思考に沿うかどうかというのを超えて、そこには何かがあるはずだ。その邂逅を経てルビーの苦しさやつらさがすっかり無くなり、心安らかに死を迎えられたとは思わないが、「ああ、これですっかり可能になる」と心から感じられる瞬間があったのは確からしく思われる。どのようなかたちであれ、それは無いよりもあったほうが良いものだ。自分が信じないからといって宗教を信じる人をないがしろにはできない。それは自分の観点では、準備できないものに対して準備しようとする試みで、その役に立つと想定できるものは何でも使ってそう試みようとすることではないかと思う。感じ方によっては、本当に全然なりふりかまっていられないはずだから、藁をも掴もうとするのをとやかく言うことはできない。ただ自分にはそれが果敢ない藁に見えてしまうというだけの話だ。そこに目を釘付けにしたり、しかと掴んで安心しようとすれば、いずれ流れてくるはずの丸太の出現を見逃してしまうのではないかという合理的な恐れがある。


2025/10/07 今日
朝から出社する。図書館ポストで本を返却してから出社。午前中に事務仕事を終わらせ、なくても良い会議に参加し、昼過ぎから在宅勤務に切り替える。久しぶりによく行っていたバルボアに行って焼きカルボを食べる。最近大食しているのでいけるはずだと特盛700gを注文してみた。満腹が近づいてきても減らない皿に一瞬怯みそうになったが、四の五の言わずに口を動かし続けて完食した。俺の胃袋は宇宙だ。
鬼滅の刃のアニメを見る。「無一郎の無」の回で、よくある兄弟ものの結末を見せられたのだがやっぱり泣いてしまう。死や危険に備えて、脅威から守るために厳しい目線を切らないというのは、状況からすれば間違いではないどころか生存率をあげるための実効的な営みなのだろうが、結果としてそれで死期を早めてしまったとしても、相手に優しくあろうとするのはやっぱりそれはそれで合理的なのではないだろうか。生活が楽しいことは大事なことだし、生活を続けていこうとする以上、その試みが奏功すれば生活は続くのだから、その生活を楽しいものにするための努力は欠かせないし、何より重要なもののはずだ。無一郎の変な髪型にはとくに言及されないままで回想の両親・兄ともに死んでしまった。あの髪型の謎は霞の中に消えることだろう。
Youtubeで保護犬と受刑者のニュースが流れてきたので再生してしまう。シンプルだが力強い物語と映像があった。パクスという黒犬(1歳数カ月オス)が、元野犬ということであからさまに人見知りをしていて、彼が緊張と戦っている様子は他人事とは思えなかった。それでというわけではないが、人一般に対する警戒心を馴らそうとする試行には、完全に人馴れした犬には見られない知性のきらめきがあったように思う。こいつは安全なやつか?大丈夫なのか?と伺う上目遣いの瞳の揺れに、彼の不安な思考の動きが読み取れた。
定時退勤し、バスケをキャンセルし、スタバに行く。腰が痛いというのがバスケをキャンセルした理由だが、もっとテーブルに座る時間を増やしていくほうがいいのではないかと思うところもあり、しばらく考え事をしようと思ったのでスタバに行くことにした。
『理由と人格』を読み進める。今回はクレアが登場した。彼女は自分の子供を他の人に優先して助けようとする考えの持ち主で、それが不正だとしても自分はそうすることを選ぶという考えの持ち主でもあった。ここでのポイントは、自分の選んだ行動が不正であると知りつつそう行動し、それを改めようともしないが、そうすることが不正であるという考えを同時に持っているということだ。倫理がクレアの考えをどう扱うかに関心がある。だから続きが楽しみだ。ケイトといいクレアといい、彼女たちの存在が問題の所在や問題のかたちをわかりやすくしてくれる。自分は倫理や道徳によって自分の考えを補強してほしいという願望は持っていないと思う。だから自分のやることが不正であり、しかも自分がそう行動することは批判できないという捻れた考え方には馴染みがある。自分のやることが正しいという主張をしようとは思わないということだが、そんな主張が必要にならないというのは置かれた境遇によるものでしかなく、自分は運が良いということになると思う。そして自分は、運が良くない人にも当てはまるような普遍的法則を見つけたいとも見つけようとも思わない。自分や自分と似た境遇にある人のためだけに自分の持っているリソースを使おうとしていると言え、それは不正だろうと思う。しかし自分の持ち分をどう使おうと自分の勝手だと考えている。本当に自分勝手なことだ。
20時半すぎまでスタバにいて、酒を飲んで帰ることにする。明日も出社しようかどうか、ややハードなバスケに行こうかどうか迷っている。やる気次第、腰の回復具合次第だといえる。今判断できないことは判断できるときに判断するしかないということだ。

20251006

日記651

〇〇と豆の△△

2025/10/04 一昨日
映画『ワンバトルアフターアナザー』の朝の回を丸の内ピカデリーまで見に行く。Pixel6aのFelicaトラブルで改札を通れず電車を一本逃し、ドルビーシネマの紹介映像に間に合わないかと思われたが、日比谷から走ったおかげでぎりぎり間に合い、紹介映像を見られた。肝心のワンバトルアフターアナザーは娯楽作品として見る分には楽しんで見られた。
帰宅して冷食チャーハンを食べてから本を読んだり昼寝をしたりダラケて過ごす。このまま一日が終わりかねないところだったが、サイゼリヤに行きたいという家人の鶴の一声で笹塚のサイゼリヤまで散歩がてら歩いて向かう。しこたま飲み食いして二人合わせて3000円という破格に、まあまあ久しぶりのサイゼだったこともあり新鮮に感動した。小雨のぱらつくなか歩いて帰宅した。最高のシーズンを生きているという実感があり充実したような足取りになっていた記憶がある。


2025/10/05 昨日
12時から港区の小学校でバスケの大会があったので参加する。3チームでの争いだったのだが、2勝して優勝になった。今回の参加チームの中でズバ抜けて上手いガードとズバ抜けて得点力のあるフォワード、一番と二番目に背の高いビッグマンがいるチームだったので、正直負けるのもむずかしかった。勝ち負けと関係ないところで背中を負傷してしまった。ぶつけたとかではなく疲労系の故障なので、前後にきちんとケアをしたり、トレーニングをしっかりやらなければ。
田町から高輪ゲートウェイに移動し、Newomanのなかのカレー・ラーメン・ビールのフードコートでラーメンを食べる。祝杯代わりのサッポロ黒ラベルも美味しかった。あとは翌週に迫った家人の誕プレ候補を探したりなど、買い物に付き合う。といいながら半分以上は自分の買い物をしていた。駅の芝生で氷結を飲んでから帰りの電車に乗る。買い物中から背中がどんどん痛くなってきていた。最寄りのまいばすけっとで弁当を買ってきてもらい、家で食べる。『海に眠るダイヤモンド』を見る。そのなかのひとつだけでも一本のドラマとして成立する要素を盛り盛りにして全部しっかり描こうとしている意欲作で、テレビドラマにしてはかなり相当頑張っている。映画、アニメなどフォーマットにかかわらず頑張っている人はいるんだと思って、特定のフォーマットだから駄目だと判断するのではなく、きちんと良いものは良いと見極めていかなければ嘘だという、言葉にしてみれば当然のことを再確認した。テレビドラマだからといって舐めている場合では全然ない。ひとつのセリフ、ひとつの言葉によって人物に血を通わせようとする気迫のようなものが感じられる。ドラマっぽいものにしないという気概がありつつ、ドラマチックなことを言おうとする場面は人間誰しもにあるというという信頼をもって針穴を通そうとしている。ほかの作品について知っているわけではないが野木亜紀子は脚本家としてちゃんとした仕事をしていると思う。
背中・腰の痛みが早く引けばいいと願いつつ、出社に備えて早めに寝る。


2025/10/06 今日
腰が痛いのもあるし、眠かったので午前在宅にして8時半まで寝る。腰の痛みは起きてしばらくしても引いていかなかったので、結局、昼から出社にもせず一日在宅にする。仕事をサボるだけの時間を過ごす。TVerでオールスター後夜祭を見る。すこし昼寝。これでは駄目すぎると、言い訳のように『美の進化』をほんの数ページだけ読む。さすがにこれでは人の形を保てないと思ったので定時退勤してスタバに行く。やる気の出ないもとが『ワンバトルアフターアナザー』の感想を書きたいけど感想を書きたくなるほど面白くなかったと感じていたことだというのが、感想を書くことではっきりした。ちょっと元気が出たのでそのまま日記を書いて21時すぎにスタバを出る。外は涼しく最高の気候なので酒を飲んでから晩御飯を食べて帰ることにする。さすがに明日は出社しないといけない。

20251003

日記650

クラブ活動

2025/10/02 昨日
この日も一日在宅勤務。友人が家に来るのでいろいろと準備をする。仕事は暇でどうにでもなるという感じだったのに友人が下北沢駅に到着する時間になって急遽のタスクが降りてくる。仕方なく対応するが、無理して働いているフリしないでもいいよと言われてしまう。まあたしかにパフォーマンスの一環だと思えば今回ばかりはちょうどよかったといえるかもしれない。
荷物だけ置いてもらって下北の街に繰り出す。散歩中の犬がべつの散歩中の犬と遭遇し、大きい方が小さい方の鼻面に噛み付く場面にでくわす。驚きのあまり「コラ!」と言って周りを驚かせてしまった。
季節も季節だしこれはやりたいと思っていた路上飲みをいきなり実行に移すことができた。友人は何かとふざけたがるわりにスクエアなところもあるのですこしハードルがあるかとも思ったが、ヘラヘラしながらなんとなく提案して了承を取り付け、即ドンキで缶ビールを購入。ウェンディーズ近くの踏切の十字路で乾杯を済ませる。
そこからずっと路上飲み、路上飲みのみでもよかったのだが、まあさすがに勘弁してやるかということで店に入る。二、三回行って気に入っていた都夏(つげ)に連れていく。夏の終わりに行くのにもっとも適した店だと思うし、店選択は言うことなしだったはず。昔の話ばかりしていてはいけないという枷を自分に嵌めつつ、だからといって先の話にも具体的な展望があるわけでもなし、中途半端な発話に終始してしまった。お互い現状に不満があるというのではまったくないが、満足しているわけではないという中途感を確認したということはいえるかもしれない。友人は資格の勉強をして雇われではなく個人事業主で働きたいという展望があるということだった。自分は仕事に関しての希望はどれだけ短い時間で済ませられるかという税金感覚しかないので、そういう部分では話が展開していかない。昔目指していた職業について、今の感覚でやってみるのもいいかもしれないよという提案を受ける。たしかにそうかもしれないと思う部分がないではないが、自分の最強の欲求と付き合わせて考えるとそうでもないなという結論に今のところはなる。人と関係していく仕事に昔ほどの感覚がない。これはよくもわるくもということだが、自分の傾向からするとよくの部分が多い気がする。
一旦帰宅し、最寄り駅の気になっていた飲み屋に出かけようとする。しかし繁盛が閾値を超えて超満員だったので店には入れず。家に帰って宅飲みをすることにした。今回、Lシステインのことを教えられたのがもっとも大きい。二日酔いの頭痛が無くなることには大きな意味がある。飲酒に付き物の、なくてもいい苦痛が無くなることで大幅なQOLの向上を望めるからだ。
飲み終えて寝る準備をする。電気を消して寝る前の時間、昔タリーズでバイトしてその日のバイト代を全部使って飲んでいたとき、上七軒の下宿に泊めてもらったことを懐かしく思い出した。今とは比べ物にならないほどもっと不安定だったが、ある面での満足の度合いは今と変わらないと思った。慌ててもしょうがないが、もっと急ごうとしてみてもわるいことは何もない。


2025/10/03 今日
AM休を取って友人を見送りがてら下北沢まで出る。スタンダードベイカーズで朝食を摂ってから、朝の下北沢をスズナリ、リロードのあたりまで散歩して紹介した。成田空港からのフライトということで11時には解散。スタバに行き、図書館カウンターで受け取ったパーフィットの『理由と人格』を読む。分厚い上に大きい大著で読むのには苦労しそうだが、パーフィットのことを知るためには伝記のような半端なかたちでその生涯を追いかけるより、その著書を読むほうがむしろ効率的にちがいない。それはなぜか前後半2冊に分かれている伝記の前半を途中まで読んで感じたことだから伝記にも意味がないとは言えないが。
まだ1章の最初までだが印象的なのは「自分の本をよくする」という最強の欲求を持つケイトだ。書きたいという欲求と自分の人生を持っているすべての人にとって考えるに値する内容が考えられていると思う。避けては通れない、もし避けて通るためにはケイトと同種の最強の欲求を持ち、その欲求の成就に向け邁進するしかない考えだ。しかし、それについて「どうする、どうしよう」と考えるのは合理的ではないかもしれない。それは欲求の成就という観点からは立ち止まっているカウントになるだろうからだ。自分を納得させないと進めないというのはたぶん偽りなのだろうし。
しかし、それとは直接関係ないのでしかしというのもちがうかもしれないが、今時点でパーフィットについて思うのは、彼は人間が100人いるということを受け容れて、その利益が最大化するために思考しているということだ。人間が自分1人しかいないとすれば、「理由」を考えることは意味を持たない。しかし自分以外の99人の存在を認めるとすれば、「理由」について考えることは意味がある。その思考があるおかげで正しいと思う方に人を方向づけられたりするからだ。パーフィットは自分1人の人生を犠牲にしているという考え方ではないのだろうが、それを犠牲とは言わないまでも、ある時点から始まってある時点で終わる人格にとって、その接続(他に人が99人いる・人格が99あるという考え)は信じるに足るものなのだろうかという疑問が自分にはある。それはこだわるよりも通り過ぎるほうが理に適っているというのは感覚的に同意できる。ナンセンスを回避するという意味で受け取りやすい。しかしそうするとパーフィットの提出するような問題も同じように扱ってかまわないのではないか。どこに考える/無視するを画する一線があるのか。
ぜひケイトの意見を聞きたいと思っている。

20251001

日記649

青い月


2025/09/30 昨日
午前中在宅。昼からの出社をとりやめて一日在宅勤務にする。『海に眠るダイヤモンド』というテレビドラマを見る。
定時退勤しバスケのため狛江に行く。この日は参加人数が落ち着いていてプレー頻度も多く、参加者の塩梅がのびのびプレーできる感じでただただ楽しかった。
最寄駅で家人と合流し、まいばすのオリジン弁当で晩ご飯を買う。塩野菜炒め弁当のご飯特盛。帰ってご飯を食べながらアンシャーリーのたぶん20話を見る。アンが生まれて間もなく病気で亡くなった実の両親の暮らした家に行く話。最近三鷹の友人宅で幸福な劇を見たあとだからそこにある悲劇をイメージしやすくて苦しい思いをした。アンの出生の秘密を知ったからにはということで第1話を再視聴する。過激な感動家時代のアンもそうだが、何よりマシューが懐かしくて涙が出た。


2025/10/01 今日
朝から出社。溜めておいた仕事を片付けにかかる。午前中で完了できそうだったがすこし積み残ったので午後もオフィスで働くことにする。虎ノ門ヒルズで働くのも残りわずかだと思うと、まあ働いておいてやるかという感じだ。とはいえ16時にはタスク全消化しており、残りの時間をじりじりして過ごした。定時退勤して帰宅。2日連続のバスケになるが狛江に向かう。明日は関東に遊びに来ているタリーズ時代の友人と飲みに行くことになっている。三茶か下北か、いずれにせよ楽しみだ。

日記675

黄字 2025/11/14 昨日 9093 スタバを出たあと、思いつきで定食屋ウルトラに行こうとしたが22時のLOを1分過ぎて入られず。もともとつもりをしていたかつやに入りカツ丼の梅を注文する。メニューで”本物のうまさ”を謳っていたのだが、その言葉に反さな...