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記述・行動
行動するというのは世界という用紙にむかって記述するということだ。
そこで暗黙のうちにつねに問われるのは”何を”記述するのかということであり、つまり行動することにはどう行動するのかを決定するということが含まれることになる。
このアナロジーとして、行動に対する芝居は、記述に対する書道(タイポグラフィー)ととらえることができる。何を記述するのかというところからある程度の自由を得て、どう記述するのかに意を砕くことができる。何を書くのかということを決めておくことで、どう書くのかに集中するのが書道でやられていることだ。それと同じように芝居では、どう行動するのか決定する自由を失う代わりに、あらかじめ決められた行動をどのように行動するのかということに意識の力点を置くことができるようになる。
***
スターバックスから外に出るための自動ドアをくぐりながら女子高校生が「永遠にいっしょにいよう」と言った。仲良し3人組で、スターバックスのシーズナルドリンクを買っていっしょに写真を撮ることが楽しくて仕方がないといった風情だ。
この3人組が20年後にも同じ3人で集まって「永遠にいっしょにいよう」と言っていたとすると、自分はそれを見てどう思うだろうかと想像した。自分の考えではその発言を断然支持すると答えたい。いまこの瞬間に夢想した20年後の映像を心に描いて、いまの彼女らがいま言ったことが、架空の20年後の彼女らと重ねられたこの場合にはそれを支持するのもたやすいことだろう。しかし、そういった過去編をもたないまま、37歳の女子3人組がスターバックスで何がそんなに嬉しいのかとにかく嬉しそうに騒がしく会話しながら、店外に出るタイミングで突拍子もなく「永遠にいっしょにいよう」と言ったとしたら、自分はそれを素敵だと思える自信がない。瞬間的に過去編を妄想し、あるいはそれぞれに深刻な事情を抱えつつようやく集まれたかつての3人組なのだろうと酌量し、素敵かもしれないと思えるようでいたいとは思うものの、虫の居所その他の理由によっては苦虫を見るような顔をしてしまうのを避けられないと思う。
そうすると「永遠にいっしょにいよう」という唐突な宣言に対してささやかな感動をおぼえた自分の感性を疑うべきなのだろうか。誰が言っていたかによって受け取り方が変わってくるような言葉に感動するというのは二重に過っている気がするのだが……。
すこし考えて、しかしそうは言っても時の花というものはあるだろうと思い直した。つまり、女子高校生が言う「永遠にいっしょにいよう」には若さへの寄りかかりからくる芝居がかりがあるとしてもそれを含めて嘘がないのにくらべて、37歳の女子たちがそれをそのまま言うのには嘘をつかないでそうするのに無理があるだろうと思うのだ。しかしこれも大きな声で言っておきたいが、だからそういうことを言うのは止せと言いたいわけではない。むしろそういうことを言うのに適した年齢があるとするなら自分の感覚では17歳よりも37歳のほうがふさわしいとさえ思う。問題は言い方にある。願いをそのまま言ってそれが本当になる時期は過ぎた。それは認めなければならないのだろう。言い方に工夫をして想いを口にする必要があり、そういった道を経るからこそ、そこに咲く花は美しいと思うのだ。
ところが、どうやって言えばいいのか、しばらく考えてみたがよい例は思い浮かばなかった。そうするとやはり「永遠にいっしょにいよう」で良いのかもしれない。これは実際「永遠に」の使い方としてもっともふさわしい、辞書に載せてもよいほどの語用であり、親しい友人に対するこれ以上ない提案ではないか。
ただ、それを意味することを言うにしてもそれぞれの言い方があると思うので、ストレートに「永遠にいっしょにいよう」と言うのはどこまでいっても”次善”になるだろう。こういうとき答えは個別にあるはずだから、個別具体的に内輪の大喜利をしていくのが”最善”なのにちがいない。
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こうして、統計的法則について語ることの意味は、絶えず変化し異なる多様な出来事のなかに、「驚くべき置き換え可能性」が立ち現われるという点にあることが見えてくる。いままで「法則」と呼ばれてきたものを、こういう意味で捉えなおすということこそ、量子論が科学にもたらした最も革命的な思考の転換であったと言ってよい。その上でわれわれが強調したいのは、「法則」とはいわばこの「驚くべき置き換え可能性」の一つの表面にすぎないのであって、その表面 (ないし上澄み)だけを残してそれ以外を捨てることは、「法則」そのものを無意味にするということである。「法則」が出てくればよいというわけではない。それを生み出す根拠がまさに「法則」のなかで書き切れないということを鋭く突きつけているのが量子論の扱っている事態なのである。「法則」のなかで書き切れないものとは、単に法則から逸脱するものではない。むしろそれこそが「法則」を生み出すという側面をもっている。単に非法則的なものから法則が生まれてくるという発生論を述べているわけではない。むしろ「法則」なるものの存立そのものに関わるのが、ここでいう「書き切れないもの」なのである。「法則」は自己の存立の根拠そのものを自ら生み出すことはできない。かといってどこか他の場所で作られて外から現実に押しつけられるわけでもない。われわれが現に与えられている現象に即して法則を捉えるという営み自体が、「法則のなかに書ききれないもの」なしには成立しえないのである。『現実とは何か』51p
数学に対する違和感として、それを記述する無地の黒板は存在しないのではないかということを考えていたことがある。自分がそのとき数学として捉えていたものは数学の一部分にすぎないということがわかったので(おそらくたぶん……)、今はそういうふうには考えていない。しかし、黒板を仮定するという発想のなかには「場」の考えに近いものがあったと思う。また、物とそれがある場所とを分けて考える考え方についても「そんなの確定してないけどな」と言われるとそら恐ろしい感じがある一方でそうだよなと妙に納得してしまうところがある。位置情報はあくまでも相対的なものであって、絶対の位置を示すものではないと考え出すと、場所のことがわからなくなる。ただ、位置だけでなく時間も記録すればそれに何の意味があるのかは置いておいても情報としてより確かなものになるのではないか。
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純雑居 2025/12/21 一昨日 13974 12月とは思えないほど気温の高い日だった。友人Tが東京に遊びにきたので東京駅まで出迎えにいく。秋葉原で開催されるVRのイベントに参加するということだったので秋葉原まで付いていった。最近体重を落とすために節制...