映画『教皇選挙』を見た。原題は『CONCLAVE』。世界史の教師に覚えなさいと言われて覚えた記憶がよみがえった。世界史で覚えなければならない語句として登録されている通り歴史的なイベントで、数百年単位で連綿とつづく営みを題材にしている。だから映像の質感も、舞台になる建造物も、それぞれに荘厳さを醸し出していて、それだけで見るべき映像という感じがあった。とりわけ印象に残ったのは衣装の美しさだった。映画の始まりに映される故人となった教皇をはじめとして、司祭たちの衣装はどれも華美でありつつそれ以上に抑制を効かせた意匠で、布の質感がそれを纏うものの人格を高邁に見せていた。顔に刻まれた皺のひとつひとつも彼らのうちにたしかに存する知性の証拠として見えるのは、それが実際にそうであるというよりは、見かけ上カジュアルな服装ではないからだということで説明がつく。馬子にも衣装という言葉通りの説得力が、聖職者を演じるうえで何よりの俳優の助けになっていたことは疑いえない。映画というのは人が人を見るための装置だという見地に立ったとき、この映画における衣装の役割は相当程度高いところに置かれるべきものだ。実際、教皇が故人となることで元教皇になる瞬間というのは、死の瞬間でもなければ、皆で教皇のために祈りを捧げた瞬間でもなく、彼の完璧な衣装の一端をなす指輪がその指から引き抜かれたときであった。指から引き抜くのが難しかったからだろうが、無理矢理に引き抜かれたように映るその映像はショッキングなものだった。当人が自分で指輪を外せない以上、そうするしかないことではあるのだが、そんなことをしてもいいのかという恐れに近い感覚を見るものに与えようと企図されたシーンだったといえる。また、レイフ・ファインズが聖職者用の衣装を解いて、(それでもまだ高価そうで)上品なシャツ姿になるとき、こんなに部屋が大きかったのかと思われるように映っていることからも、高貴な身分はまず衣装に顕れるということが強調されていた。そしてさらに言えば、衣装というのはその人間に固有の本性を隠すためのものでもある。コンクラーベに参加するような身分の聖職者の衣装はおそらく聖職者のなかでも特別で、より多くを隠すだけの布地を持っている。いくら多く隠すとはいえ、彼らの言や眼差しは隠れようもないが、身体的な特徴はある程度隠しきってしまうものだ。魂をはかるには言行をもって判断する以外ないという考えにおいて、このように特別な衣装のもつ役割というのは両義的なものである。判断にとって本質的ではない不要なものは隠しつつ、直接判断する必要のないものたちにはそれを身につける人格が立派で貴いものだと印象づけることができる。そのうえ、飛散する瓦礫の破片からその身を防護してくれることまであるのだから、衣装の重要性というのは高く評価されて良いはずのものだ。頭頂に乗せるだけの小さい帽子も、高貴な雰囲気を崩さない範囲内でありながら十分にチャーミングなアイテムだと思う。