20250910

日記640

まことに

2025/09/09 昨日
午前中は在宅勤務にする。バーピージャンプという一日のうちでもっともキツい運動に耐え、ボールを使った腕立てとレンジをこなして汗だくになったあと、シャワーを浴びてから昼過ぎに出社する。仕事はくだらないがトレーニングとしてやる運動に比べると苦行でもなんでもない。出退勤の電車内では『漱石詩注』を読む。
定時退勤で帰宅してから荷物を持ち替えて狛江に行ってバスケをする。日曜の大会に比べると伸び伸びやれて、自分の求めるものはやはりこれだなという気がした。部活で汲々として球技大会で伸び伸びやれるバスケ部のベンチ要員の感想そのまますぎるが、ここで感想を偽るわけにはいかない。走ったら走っただけ、リバウンドに参加すれば参加しただけ成果が出るから、同じぐらいの体力を使う場合でもアドレナリンのおかげでより動ける。乗ってきたらシュートを打とうという気にもなるし、ドライブを仕掛けようという気にもなる。そうやってやる気のままに動いたプレーの成功率は「あれやらなきゃこれやらなきゃ」でやるよりも目に見えて高い。公式戦のような強度の高い試合でも伸び伸びプレーするためには心の持ちようもそうだが、それを支えるだけの体力強化が欠かせない。だからバーピージャンプというキツいメニューをこなしているわけだ。悔しい気持ちはガソリンにもなるし。狛江のバスケの試合終わりに「リバウンド後の隙をなくしてボール保持するときにスタンスを広くしたらもっと無双できるよ」とアドバイスをもらった。やっぱりこのレベルだと無双できているんだよなと思ったし、アドバイスにも納得できた。次のレベルに行きたいと思ってやっていること自体が楽しさの秘訣ではあるから、代々木上原のほうでも喰らいついていきたいし、狛江のほうでは自信を取り戻せるしで、いいバランスでバスケできている。ほかには高円寺のバスケにも参加していて、狛江のバスケはメインで行っているのとはべつにもうふたつある。たぶん一番レベル高いのが狛江のもうふたつのうちのひとつ。高円寺のほうではユニフォーム作ってもらってダンクカップという大会にも出られる、そこから派生したあたらしいチームにも誘ってもらっている、と、バスケプレーヤーとして充実した環境がある。
最寄り駅のセブンでジャンプを立ち読みする。呪術廻戦モジュロという新連載の漫画なのだが、近未来コンタクトもので、なるほどそうきたかと感心させられた。虎杖悠仁がレジェンドになっていて嬉しい気持ちが湧いた。氷結無糖ゆずスパークリングを買って飲む。
帰宅後、『しあわせな結婚』を見る。第二部に突入ということで、いろいろ想像の余地があった展開が収束されていきながらも興味惹きつけられるという、いい塩梅の展開になっている。テレビドラマの制作についてもよくわからないのだが、脚本が面白いと言ってもいいと思う。
すずきこうの動機はふたつあって、実行したほうの動機はネルラの弟に、隠し続けるほうの動機はネルラにあったということだろう。シャワーに入りながら考えてみて、ここまで相当きつかっただろうと思った。ネルラのほうの動機はこうたろうに引き継げると安心したから自首することにしたのだと想像できる。殺人なんていうのは愚かでどうあっても見過ごせない行動なわけだが、その後の苦痛を思うと同情しないところがないでもない。理解も共感もできないが、受けた苦痛に対してかわいそうだとは思う。


2025/09/10 今日
一日在宅勤務にする。今日も業務上の負担は一切なかった。これで身分の安定が約束されていたら本当に言うことはないんだけど、そうもいかないし、そうもいかないからこそ自分に与えられた条件内でもらえるものをフルに享受しようとして、結果、こんなに安閑として安んじていられるのだから、文句はない。もちろん。ここまで安安閑としていられるのは振り返ってみても覚えがない。
そうなるとやっぱりキツいのはバーピージャンプだ。めちゃキツいから気を抜くとすこしでもラクをしそうになるのを鞭打って、短時間全力を旨として地獄の4分間を過ごしている。バーピー後のボールを使っての腕立て・レンジ、ブルガリアンスクワットなんかは屁でもない。ただ吹き出た汗がヨガマットにポタポタ落ちる。
昼ご飯には冷食チャーハン納豆冷やしラーメンのセット。食べ終わってから午後はほぼ寝転んで過ごす。終了間際に締め切りのある仕事をこなして定時退勤。スタバにきて『折りたたみ北京』を読む。『蛍火の墓』という作品はこのアンソロジー中でもっとも注目されなかった。開始早々の「夏への扉」への言及がいらぬ阿りに見えてしまった。同作をまったく評価していないのもあり、かなり冷淡な調子で読み終えてしまった。その後に続く劉慈欣の『円』も、いかにもSFという佇まいだからか、あまり気乗りせずにいるまま読み終えてしまった。ただ、『神様の介護係』は劉慈欣の作品の中でも毛色がちがうということなので楽しみだ。
『漱石詩注』を読む。漢詩の素養がないままでここまで来てしまったことは残念といえば残念なことだが、もしそれを身に着けていたとしたら、文学全般への見方は今よりもっと悲観的で強い厭世感をもとに位置を占めようという誘惑にそのまま従っていただろうと想像できる。身につけるだけの労力を払わなかった時点でナンセンスなたらればでしかないが、詩を書くというときには、ある種の暗号というか、わかるひとにはわかるという符丁を使って直接に出さない音を響かせるというやり方が必須になるのだろうから、文学に取り組むにあたって補助輪としての詩作に活かせたかもしれない、そういう両刃の剣を手にできたかもしれないという妄想が働く。深く潜ろうとするときに携える「酸素ボンベ」は必要な条件なのだろう。それが何であれ、ある程度以上奥へ進もうとするためにはそれ一本ではやっていけないということだ。スニーカーは最低二足は持っていないと、遠くまで歩くのはむずかしい。
一応書いておかなければと思うから書くのだが、全然小説が書けていない。それどころではないというのがいつのまにかデフォルトになって、去年からだったか年始からだったかに立てた目標を達成できる見込みは今のところ全然ない。どうにかどこかで軌道を修正しないと、このまま何も書かないで時間が過ぎていってしまう。時間はあるのだから一番よくある言い訳は立たない。時間はあるのだからその時間を小説に配分していこう。
円城塔が「SFというジャンルはもう不要なのでは」という提起をしたとネットで見た。個人がネットワークに接続された端末をポケットに入れて持ち運んでいる現実界にあって「サイエンス・フィクション」も無いでしょうという主張のようなのだが、本当にそうだよなと思う。ミステリだとか、ライトノベルだとか、形式に関するようなジャンルはそれを見つけたり回避したりという用途で使い出はあるが、SFについてはこれから先そういった用途で使う必要はなくなっていくと思う。小説自体の面積が減っていくなかで、SFはわざわざSFに閉じこもる必要はないはずだ。

日記643

待つ女 2025/09/16 昨日 一日在宅勤務のあと、バスケのため狛江に向かう。最近お腹が減るのでバスケ前にエネルギー補給のためゼリー飲料を飲んでいる。消化が良いのもあってかこれでエネルギー不足はたいてい解消される。しかし途中でガス欠になることもあるので...