待つ女
2025/09/16 昨日
一日在宅勤務のあと、バスケのため狛江に向かう。最近お腹が減るのでバスケ前にエネルギー補給のためゼリー飲料を飲んでいる。消化が良いのもあってかこれでエネルギー不足はたいてい解消される。しかし途中でガス欠になることもあるのでもう一個持っていくことにしている。この日も最初の1時間でお腹が減ってきたので追加でゼリー飲料を飲んだ。
バスケの内容としてはワンモーションでのシュートフォームを研究している。ゲーム中に3ポイントシュートを3本試行して1本決めた。3ポイントシュートは長距離シュートという意識で打っているのだが、ミドルレンジのシュートと同じ感覚で打つのがいいと感覚を切り替えようとしている。エフォートレスなシュートにするためにもこの感覚のアップデートは方向性として正しいという気がしている。それとは別個に、ゴール前でのシュートについても、しっかり跳んでから打つというやり方を身体に染み込ませようとしている。こちらはコンタクトありきの強いプレーが必要になるから筋力アップが必須なのだが、それは結局アウトサイドシュートにも活きる部分ではあるので、個人練習としてはこの2軸で進めていいと思っている。試合関係の考え方としては、基本的な動き方を身に着けること、基本に忠実な動きをやり続けるための体力をつけることが重要になると思うので、結局、基礎体力の向上が自分にとってもっとも効果のある上達への近道だということになる。考えてやるというのは自分の場合、わざわざ考えようとしないでも勝手にやるので、そのときに選択肢を増やせるようにつねに体力に余剰を持ってプレーできるようにするのが肝心だということになる。あと最近、自分の試合中の動きを見てアドバイスをくれるおじさんがいるのだが、その人からいろいろ聞くなかで、自分の考えがあってプレーしている部分と、考えなしにプレーしてしまっている部分とがそれぞれ明らかになってきて助かっている。とくに有効だと思った具体的なアドバイスとしては、インサイドプレーヤーに対するDFについて、OFの進行方向に向かってそのまま行かせず都度フィジカルコンタクトを試みて相手の体力を削るという考え方があるということを知れたのが大きい。競技志向の強いバスケになるといつもそういうプレーに体力・集中力を削られてきていたので、そういうプレーが常道としてまかり通っているという認識を持つことで、少なくとも「なんでそんなことするん」という怒りからくる集中力の削られからは自由になれそうな気がする。引っ張られたり身体を当てられると体力は削られることになるのだが、それはそれで自分の高さが相手にとって脅威になっていることの証明だと捉えることにして、悄気ずに、必要以上に反発せずに、淡々と対処していくようにしたい。とにかくペースを乱さないことが大事だ。
最寄り駅で氷結無糖グレープフルーツ500を飲んでから焼きそばセットを買って帰る。焼きそばを作ってシャワーを浴び、洗濯機を回してから寝る。
2025/09/17 今日
朝から出社してやるべき仕事をこなす。昼から在宅に切り替える。ミーティングにはWebで参加。急遽のお願い事がきたので処理する。それ以外は「Type Help」というブラウザゲームをプレーして大相撲を見る。
定時退勤してから大相撲を結びまで見る。その後スタバに行って『荒潮』を読む。チェンチウファンの『鼠年』のスピード感に惹かれ「これは」と思って『荒潮』も手に取ったのだが、今のところの感想としては順番が逆だったらここまで惹かれていないかなという感じだ。長編になることで肌理のあらさが目立っている。しかし第一部を読み終えただけなので、これは浅はかな感想かもしれず、そうであれば良いと思う。
ある程度の面白さがあり、しかもそれに触れたのが最近であれば、誰かにおすすめしたくなる気持ちはわかる。しかし、一番面白いわけでもなく、10年後にも同じ熱量でおすすめできるわけでもないものが普通におすすめされていて、しかもそれを「何か面白いものはないか」という適当というよりは雑な暇つぶし的な感覚で受容しているというのは時間の浪費にすぎないと思われる。最近では漫画『アオアシ』がそうでもなかったし、ドラマ『しあわせな結婚』も楽しめたもののその枠からは出ない。インディーゲーム全般も「よくできている・感動した」とそもそもハードルが低く設定されているからなのか「インディーにしては」という域を出ない。
大学生の時によく触れていた、いわゆる名作とされる文学はそうではなかったと思うのだが、当時の感受性の強さの分だけ強く印象されているだけではないかと言われると、面白い面白くないの基盤が主観に限定されていることもあって、正確なところを判断することはできない。
しかし、枠を押し広げるような、天井の高さを認識するような読書になったという感覚はあって、それは今も有効活用されていると思う。ある作品に対する「これはすごい」「言うほどではない」という自分の判断の妥当性にはあまり疑いを持っていないのだが、それを担保しているのはこのときに触れた文学作品だという気がする。
谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫は評価していない。というと文学愛好家からは嘲笑されるかもしれないが、自分の感覚では彼らの作品からはあまり印象を受けなかった。谷崎は1,2作程度、川端にいたってはろくに読んでもいない。
逆にいうと、上の三者以外、有名な文学者の小説を読んで「面白くなかった」はもちろん、「読まないでもよかった」という経験はまったくない。血肉になるという比喩を使ったとしても何の遜色もない。今読んだとしたらそこまで評価できるか心配になる作者もあるにはあるが、当時の印象としては傑作と疑いえないという感想を実感として抱いたわけだし、今はどうあれそのときに動く箇所が動いたということなので、今はそうは思えないかもしれないというのも含めた判断の礎になっているのは間違いない。
だから結局、何がいいたいかと言うと、いろいろ面白い作品があり、いろいろこれが面白いよと紹介されるかもしれないが、まずは名作とされる文学を読めよと自分で自分に言い聞かせるようにしてほしいということだ。とくに道を求める大学生(時間のある人)にはそのことを期待したい。むしろそのことだけを、と言っても全然言い過ぎではない。判断するということが、判断できるようになるということが一番大事なことだ。だからこそ、判断の力を身につけるために必要とはいえない面白い作品で溢れかえっている現状において、強く、そのことを訴えたい。面白いと思えないことを不安に思いながらしがみつき続ける読書というのが知的体力を向上させるし、自分で自分の受容能力に疑いを抱きながら文字を追いかけるということができるためにはそれなりの権威に依る必要が出てくる。だから今おすすめの漫画を上手に薦めてくるプレーヤーの話ばかりを聞いているな。なぜか知っている昔の漫画から順に読んでいけ。いやむしろ漫画なんか読んでいないでもっと遠いところにある作品に手を伸ばせ。たとえば夏目漱石、森鴎外、シェイクスピア。こういうこと言う人間を信用するな。もっと遠い作品はあるし、そもそも自分で自分に言う以外に「それ」を読む方法はない。
人文科学系の成長幻想にいちいち付き合わされていないで、今にも続く作品というところを信じてじっくり取り組め。私やあなたという特定の個人にとって、文学以上に価値のある作品はない。
『荒潮』第二部の最初のチャプターを読む。主人公の米米が拷問されるシーンだが、これは出色の出来で、文章以外で表すことができないという意味でも優れた場面だった。電子麻薬によって拡張された感覚の描写なのだが、拷問者の具体的な行動は省かれ、そこにあるはずの汚穢は想像に委ねられている。そしていかようにも引き伸ばせる時間感覚は、15秒に一度強く光る白い光と間断なく続く雨滴による。これまでのVシネマ的関係の描写から主人公の印象からなる情景の描写に移って、一気に面目を躍如しだしたようだった。