20250929

日記648

抜け感(引っこ抜かれたビル)

2025/09/28 昨日
昼ご飯に梅窓でとり天生醤油うどん大盛を食べたあと一旦帰宅。家人と公園まで出かけてバスケの特訓に付き合う。ドリブルとシュートの基礎練習をしてからドリブルシュートの応用に至る40分程度の練習で良い汗を流した。不慣れから実行中の動作から次の動作にスムーズに移行するのが難しそうだったが、慌てて動作が雑になることでのミスはほとんどなく、リズム感の良さが感じられた。ただしシュート場面では他の練習している人のボールが飛んでくる恐怖から目に見えて雑になっていた。恐怖心からシュートを雑に打つというのが癖づいてしまうともっとも基本のシュートが入らなくなってしまうので、ある程度の負荷のなかでも平静を保ってシュートを打てるマインドを身に着けるとあとは流れで上達していけそうだと思う。バスケプレーヤーの資質としては自分のリズムがあるというのが大きい。
帰宅してシャワーを浴びてから大相撲の千秋楽を見る。豊昇龍が気を吐いて本割ではオオノサトを破った。オオノサトも優勝決定戦で同じ相手に連敗するということはなく、もっとも丸く収まるかたちで場所を終えたと思う。昨日の立会変化の悲壮感からの軟着陸としてはこれ以上ない筋書きになってホッとした。
東京に遊びにくる友人と集合時間帯のことなどを電話で話した。鴨川シーワールド目的で家族で千葉に来るらしく、控えめに言ってめずらしい、有り体に言って素っ頓狂なプランだと思ったが、家族は1泊2日で帰り、友人だけ家で2泊していくことになっている。当日は下北三茶エリアで飲む予定でいる。
高円寺までバスケをしに出かける。腿の前側上部に張りがあって若干プレーに差し支えたが、できる範囲で一生懸命走って楽しくプレーできた。行きはレンタルサイクルで体育館に行き、帰りは参加者の人の車で世田谷代田まで送ってもらった。プレー中はタフだがコートの外では穏やか、話しぶりのトーンが完全におしゃれな人のそれということもあり、ぜひ仲良くなりたいと思わさせられた。また機会があれば車で送ってもらい、話をして距離を詰めたい。今回は出身の話、バスケを始めたきっかけ、バスケを見るかどうかなど、お決まりのパターンの会話だった。おしゃれな感じの人と仲良くなるための話題について考えておくことにしよう。リラックスして適度に砕けた調子というのは学ぶべき対人スキルだ。落ち着いているが硬くないトーン。話していて自然に嬉しくなる感じ。帰ってシャワーを浴びながら感心しきりだった。
氷結無糖GFを飲んでオリジン弁当の半額惣菜とライス大を食べる。録画されていたNHKスペシャル「未完のバトン・最終回 “最期”の希望 長寿社会の果てに」を見た。今読んでいる哲学の本『理性の権利』にしても、バスケなどで考えていることにしても、健康で充実した体力と思考力という基盤があってはじめて適用されるものであって、土台が崩れたときには全然関係なくなってしまうのではないかと思わさせられた。だから先手を打ち、高齢になって死期が近づいたときにも適用されうる思考をしておくべきだとは思わない。しかし性急に考えを前に進めようとして、そういった自分自身の高齢化にともなった変節後にありうるかもしれない思考を排除するのは気が引ける。できればそういった内容も包摂したい。ただ、進めるときに進んでおくこと、いらざる遠慮をしてどこにも到達しないままでいいやと諦めることはしたくない。自分自身の言い方でいうと、死なないというつもりで生きる、ということになるが、その姿勢では自分とは違う立ち位置にいる人と何かを交換することはむずかしいかもしれない。最期が接近しすぎてこれはもう無理だと思うときはくるのだろうが、そのときのことはそのとき考えればいいやと思う。そうなったときにもし何かを交換したいという思いが自分の中に現れたとして、それはそのとき同じ考え方・感じ方をしている仲間と、ということになるか、それとも全然違う考え方をしている人と、ということになるかわからない。訳知り顔で本当には思っていないことを言って合わせてくれるような、自分よりも最期が遠い若い優しい人には一番用がないのではないかという気はする。しかしそれもわからない。程度というものもあるのだろうし。
理性の力が弱くなる、光が弱くなるということを経験した個人として書き物を続けた人が日本の思索家には多いと思う。それは啓蒙主義的には弱い光なのかもしれないが、ひとつの人生を生きるひとりの個人として、必ずしもグローリアスでもない、むしろどこかトボトボ歩くような経路を見せてくれた人には、敬意欠くことはできない。トボトボと見えるというのはそういった意図でそうしたわけではないというところに悲哀がある。しかし同時に、本人は本人にできること、やれることを全部やっていたという点で見るものはつねに励まされる。
NHKスペシャルの話に戻ると、好きな帽子を被って看護師を伴いスーパーに買い物に行くという経験が本人にとって「たまにはいいな」というものであったということには意味がある。そういうお出かけのなかにある価値というのは理解できる。いまの自分に引きつけてみても共感がある。


2025/09/29 今日
朝から出社。正午すぎまで仕事をこなしてから帰宅し、在宅勤務にする。行き帰りの電車では『理性の権利』を読んだ。昼飯に納豆チャーハンを食べてながらABEMAで「ドーピングトーキング」「チャンスの時間」を見る。面白いが時間を無駄にしている。乃至、時間を無駄にしているが面白い。小一時間昼寝をする。認知機能に悪いであろう、たくさん夢を見る浅い昼寝になる。良し悪しは本当のところよくわからないが、感覚としては幾度となく見当識を手放しているような感じで、頭に悪そうな気はする。その後、運動前のストレッチをやってからバーピージャンプをする。イヤイヤやるのは構わないが、全力でやれてないのは駄目駄目だ。ダメダメバーピーだった。仕事の用をこなして退勤。シャワーを浴びてからスタバに行く。『理性の権利』を読み終わる。読了の達成感が全然ないのは、半分も理解できていないまま読み終えているからだ。半分も、というのはかなり大目に見たような言い方で、実際の理解度のパーセンテージについては考えたいとも思わない。手に負えない現代思想というのではなく、丁寧に著者に付いていって読書するということができていないので、知的能力のなかでは知的体力の欠如あるいは怠惰からくるものだというのも居心地がわるい。ダメダメ読書だ。
21時にはスタバを出て外で飲むことにする。しかしこれはダメダメ飲酒ということにはならない。なぜならば自分は知力体力という軸だけでやっていないからだ。酒を飲んでぼーっとする時間には価値がある。だれに説明しようとも思わないが、自分の中には確かにある価値だ。

日記648

抜け感(引っこ抜かれたビル) 2025/09/28 昨日 昼ご飯に梅窓でとり天生醤油うどん大盛を食べたあと一旦帰宅。家人と公園まで出かけてバスケの特訓に付き合う。ドリブルとシュートの基礎練習をしてからドリブルシュートの応用に至る40分程度の練習で良い汗を流...