人の月見というより月の人見
2025/09/26 一昨日
19時過ぎにスタバを出て、永原真夏の無料音楽ライブを聞きに行った。『Super good』という曲が超良い。秋の夜風とあいまって特別な感慨をもたらしてくれたことに感謝の念をおぼえた。その後吉野家に移動して唐揚げ定食大を頬張る。ご飯大盛×2でぎりぎりまで満腹になった。友人と合流して下北での歩き飲み。途中、ライブ衣装のまま歩く永原真夏を見つけたりなど、ひとしきり歩いたあとで工事終わりたての階段に座って飲む。話し出しのトピックをいくつか持っていたほうがいいという提言があって、それにはたしかにと思わさせられたので考えてみる。「一万円札ってやっぱ福沢諭吉がよくないですか?」「このまえウィキペディアを見ててびっくりしたんですが、」でもやはり提言元の友人とちがって自分はお喋りな方ではないし、静かになったとき再起動する役割をこなそうという気にならない。だまってにこにこしているだけで十分ではないだろうか。人が何か喋ってそれが興味惹く内容であるということに期待したいし、そのスペースを自分の喋りで埋めたいとは思わない。埋めない程度に最初だけ担当するというのは礼儀上、また社交上のテクニックとして身につけておくべきだとは思うが、自分の負担を考えると面倒だしやりたくない。そこまでサービスしてやるいわれはないぞと思ってしまっている。あとはどういう動機で小説を書きたいのかということについて訊かれたので考えて適当に答えたが、自分でもこれという回答は出なかった。動機のことは精緻に考えない。なぜそうしたいのかを掘っていって何か良いものが埋まっているとも思えないし、人に言おうとする過程で変な方向にブレることが多い気がする。これは正確に言おうとすることで生じるミスで、たぶん言葉遣いの不足、会話のテンポを維持するための制限時間の短さ、アルコールによる勢いから出てくることになる。その自分自身の間違った言による方向づけはそのときに正しいと思えても結局はそうではなかったなどの理由から高い確率でロスになる。そもそもリーズナブルな動機やモチベーションがないと何かを始められないというのは勘違いのもとだと思う。その方向に行くと楽しいから、で十分だ。それだと会話上何も言ってないようなものだが実際そんなものだ。
2025/09/27 昨日
朝から『理性の権利』(原題『The Last Word』)を読む。4章「論理学」5章「科学」を読んだが内容がほとんど頭に入ってこない。頭に入るまで何度も戻りつつ読むか、とりあえず読んだ扱いにして続きを読んでいくうちに自然に軌道に入るのを期待するかという二択になるのだが、最近は後者ばかりを選んでいる。大学生近辺の頃にはそんな二択すらなく、頭に入るまで繰り返していたことを考えると、明確に知的に怠惰になっている。衰えているのであればまだしも怠けているのでは、そもそも何のためにその時間を費やしているのかということになるのだが、そういうことを考えることも少なくなった。入ってくるときには入ってくるからそれが起こることを漫然と期待してコーヒーなど飲みながら読書している。
体力の回復をはかるという名目で筋トレなども一切せず、家でごろごろして過ごした。大相撲を見ようと起き出したが、琴桜休場ということで豊昇龍には厳しい結びの一番になった。立ち合い変化で若隆景をしりぞけていたが、そうするのを強いられたのも、そうすることを選んだのも自分自身とはいえ、かなり苦しそうで見るのもつらかった。
夕方散歩がてらまいばすけっとに晩ごはんを買いに行く。氷結ゆずスパークリングでご機嫌になって帰宅。オンラインでのAmong Us会に参加する。友人が地元の新潟のフレンズたちと読書会をしていてそこのAmong Usパートに入れてもらったかたち。ナイスアンドフレンドリーアンドキルアンドデストロイで、たのしい会になった。せっかくインポスターになっても緊張して言い逃れができず。クルーのときに自分が何を言って身の潔白を示そうとしているのかという情報を自分自身で収集して次のインポスター役にそなえようとしていたが、その後インポスターになることはなかった。都合3回ほどインポスターをつとめてすべて殲滅させられた。やっぱり楽しいからまたやりたい。
2025/09/28 今日
午前中からスタバに行って『理性の権利』を読む。第6章「倫理学」は読むのに苦労したが、理性についてとても格好いいことを言っていた。
日記を書いているうちにお昼の時間になったので下北のうどん梅窓で昼ご飯を食べるため家人と合流することにする。