20260218

日記719

現実のみぎり

2026/02/17 昨日 7845
朝から出社。月例のミーティングで少人数グループディスカッションが行われる。現実だが嘘の内容をつらつらと述べ立てた。物怖じせずに内容のないことを言うことがいつの間にかできるようになっている。面接となるとまた話は変わってくるのかもしれないが、人に向かって自分のこと話すという意味では大同小異だろう。そろそろ転職でもするかな。転職期間という自由時間も欲しいことだし。仕事は相変わらず画面の前でめまいがしそうになるくらい忙しい。翌日からの3日間で休みをとるために締め切りが前倒されるから体感で倍忙しい。普段暇しているから、こうやってたまに忙しいと「どうしたどうした」と言って身体が起きてくる感覚がある。それ自体は感覚としてわるくないし、シンプルに生きてるって感じはするので、ワーカホリックの人が無反省にワーカホリックに陥る理由もわかるようになってきた。今は昔と違ってそれがわかったうえで、仕事のしすぎはしょうもない、非合理的で非経済的だと断じることができる。人のためとか言う前にもっと自分に焦点を当てろよ、誰かが出てくるのはそれから先だろうと。こういうことをいうと「子供がいるとそうは言ってられないんだ」と言われるかもしれない。でも違うだろうと言いたい。子供あっての自分ではなく、自分あっての子供だろう。親あっての自分ではなく、自分あっての親だろう。違うとは言わせない。そうすると今度は「もう自分のことで頭を悩ませるフェーズは終わったんだよ、その探求は終了しました」とか言われるかもしれない。そうなったらたしかにもう終了で、こっちから言えることがあるとすればあとはもう「じゃあ今誰が喋ってんだよ」しかない。肩書か? 社会的地位か? あまりにもくだらなくないか。頑張ってきたからね、マイクの音量はたしかに大きくなったのかもしれないね。でも、まじで真剣に、シリアスに「それでいくの?」
1時間強の残業でオフィスを出て原宿経由で帰宅。途中ハラカドに寄って、渋谷マブルスというアプリで貯めたポイントでチキンブリトーを食べる。平日夜のハラカド屋上エリアは空いていて開放感があり、すこし先に東京タワー、眼下には原宿のあの交差点とビューが良く、穴場中の穴場だった。東京には街のまん真ん中にポカっと空いた、まさに台風の目のように静かなエリアがある。だいたいが新しく、どの設備も申し分なくきれいなので、こういうのを見ずに東京は汚いということをイメージで語っている向きには、もっとコンクリートジャングルの探索に身を入れろと、何やってんだしっかりしろと、喝!を入れたい。CBDショップでオイルの試食をさせてもらう。前回2適であまり効果を感じなかったと嘘をついて(じつはうっすらだが”効果”を感じた)、スプーンに4適垂らしてもらった。リラックスした気分で帰宅。自分の場合、リラックス効果は道行く人の顔を1秒長く見られるようになるというかたちで現れる。
帰ってからは適当な動画をいくつか見て、寝る準備をしてからいつもより早くベッドに入る。寝付くのにすこし時間がかかったがそれでも23時過ぎには寝たと思う。


2026/02/18 今日 1842
7時半に起きる。公園にシュートを打ちに行こうかと思っていたが、それよりもスタバで日記を書くほうがいいだろうと思い直し、洗濯機械を回してから風呂に入る。準備を万端整えて、スタバに出かける。コヤイリ前で気持ちが昂っているからか、朝の時間で疲れがないからか、舌鋒が何割か増しで鋭いかもしれない。今日はバータリ、ランスルー、ミザンス調整だと聞いている。カミテ・シモテを始めとして演劇用語が語彙の中に入ってきた。あえてカタカナで言うのがかっこいいという変なところに入り込んでいるが、まあ飽きるまではそのスタンスでいこうと思う。今できないことが急にできるようにはならないし、できたとしてもそれはできることだっただけの話だ。シンプルにできることをやるだけだ。あとはやっぱり自分らしく。自分らしく、と意識する必要は普通に生活しているととくにないものだと思うが、空気が薄いところ、光が強いところ、磁場がおかしいところなど、普段行かない場所に足を踏み入れるにあたって、最終的な調整の指針として必要になるのは”自分らしくいること”なのだろう。そもそも自分がやりたいと思ったからやるわけで、誰かに何かを言われたからやるわけではない。自分がやりたいと思ったのはどういうことだったのか、その時思ったこと(軽い気持ち)、いま感じること(重力)、いま何を自分はやりたいのか。言い訳なんかはあとでいくらでも考えられるから、一旦いまにフォーカスしよう。11:05、11:06、11:07。集合時間は11時半だ。

2026/02/18 今日 つづき 10623
いまは19:43。場当たりの初日が終わってスタバにきた。気負いがそのまま裏返って、勢い込んだその勢いのままに空回った。緊張しているのか? との指摘。稽古場でやるすべての通し稽古で毎回律儀に緊張していたのだけど、これまでは緊張しているのかと言われたことはなく、つまりそういうメッセージをオブラートに包んだものだと理解しなければならない。相手を見てやるということが演技では重要だと、今回のWS第一回目でも、3年前に参加したプログラムのWSでもあれだけ言われてきたのに、それがスコンと抜けるのだからやりきれない。集中しようとしているのに、自分の演技プランを出そうとして相手を見れていないという指摘を受けたのは、緊張していたのもあるが、気負いすぎで固くなっていたということだろう。照明を当ててもらった状況で、床にテープが貼られていてそれがバミリと呼ばれ意識のうちに置いておく必要がある場所で、遠い壁、高い天井を持つ空間に声を届けるというタスクにフォーカスしたら、それ以外がすべて抜けたというような体たらく。いや、そこまで卑下する必要はない、セリフが抜けたわけではないし、いつ出ていくか、いつ袖に帰るかということはちゃんと覚えているのだから。それでも完ぺきに手と足が同時に出てしまったが。あとは唇を噛んだり、登場人物の心情とは関係ないところで(つまり緊張を緩和しようと)口が動いたり、というのをほとんど無意識でやってしまい、やってしまった瞬間にやってしまったと感じて、ちょっと遅いと悔しくなる感じがあった。身体感覚の違和感を払拭した状態で臨まないと、緊張や負荷で無意識が出てくるようなことがあればそのタイミングで違和感を解消するための行動が全部出てしまうと思っておいたほうがいい。演出でくれた言葉のうち、「その場と仲良くなっていきましょう」という言葉には自分のような緊張しやすいタイプにはたくさんの汲み取るべき内容がある。単純接触の回数および接地面を増やす意味合いで舞台の上の”歩数”を稼ごうと休憩時間なども舞台にいるよう心がけた。自分にとって必要と思われる自分用の行動は勝手にどんどん進めていくべきだ。緊張するのは止められないから、どうにかしてそれに対処するしかない。
そもそもこれまで自分は、相手に何かを伝えよう、伝わるように何かを言おうとする努力というか、そういう意識付けや習慣付けに背を向けて、背を向け続けて生活していたわけだから、舞台に立つからといって急にそういうことができるようになりたいと望むのは、虫のよすぎる話なんだと思う。それこそ付け焼き刃になるしかないし、相談された側も困るような、今さら何言ってるんだという話でもある。今回の場当たりのおかげでこれでは駄目だとつくづく感じた。これからはもっと伝えることに意識を持つぞ。ということもあって、翌日は集合時間よりも早めに入って練習に付き合ってほしいと相手役の俳優に楽屋前で伝えた。
こういうのも全部、自分の向きたいほうに引き寄せて喋りすぎている。もっと記号的に簡便に、的確な情報処理の観点で捉え直してもいい。「頑張る」というのを「頑張るというのはつまり、意識を集中させ身体のなかでエネルギーを増幅させてうんぬん」というふうに表現についての表現に凝る方向に進めるのではなく、「ボリュームを増やす」、いやそれだと何のボリュームという話になるのでもっと「気合い入れる」という、ほとんどあれ(思い出した、トートロジーだ)みたいな転換で捉えればいい。ようするにノリ、というような話だが、実際にそれが重要だ。こだわらずにテキパキ情報処理しろということで、必要に応じてそのモードに切り替えられるようにそのチャンネルを持っておこう、そのチャンネルを構成する番組を構築しようという話だ。それは俺が小説を書くことの阻害にはならない。それはそれでそのチャンネルがあるというのを自分が一番良く知っている。帯域が違うのでお互いに干渉しない。心配いらない。

20260216

日記718

目と目で見つめ合う


2026/02/12 四日前 8488
午前在宅。コンビニに出かけて新聞を買う。自分の口から発した言葉が新聞に掲載された記念として該当の朝刊を購入した。その後は仕事仕事になる。午後出社。忙しすぎるの一言。こんなに仕事するのは嫌だよという調整仕事があとからあとから降ってくる。残業になった。疲れたしそのまま帰宅しようかと思ったが、ただ仕事をしただけのあんまりな一日にするのも忍びないので、踏ん張ってスタバに行く。『失われた時を求めて』を読んだ。ソドムとゴモラ2-1に入ったところから面白さを感じられるようになってきた。声に近さを感じる。『八月の光』も読んだ。ジョーが義父に厳しくされるよりも義母に優しくされることを憎く思うところなど、不可解どころかそうだよなと感じられるように書かれてある。よく書けているなと思った。フォークナーを読むのは一作目だが、読み始めてからずっとよく書けているなと思い続けている。


2026/02/13 一昨昨日 12992
朝から出社。午後に在宅に切り替えようと思っていたのに、電話がかかってきてしょうもない話に付き合わされた挙げ句、対面打ち合わせを入れられる。聞いていて情けなくなるような言葉遣いでげんなりさせられたりして、しばしば絶句した。実際に何も発さずに黙っている時間が10秒ほど続くというのが複数回あり、向こうはこちらにこちらは向こうに呆れているというのを隠しようもないということがお互い伝わったように思うのだが、ひょっとすると向こうは発信するだけでこちらからのそれを受け取ってくれていないかもしれない。発信に余念がないというやつだ。
残業を30分ほどで切り上げて帰る。友人とタウンホールで集合して、演劇創作プログラムのチームAの公演を観に行った。開演前の数分のあいだ心拍数が90を超えていた。あそこに自分が立つことを想像しただけでこんなに身体にくるというのは、実際を迎えたときにどうなってしまうのか……。始まってからもしばらくガチガチだった。しかししばらく見ているうちに公演の内容と演者のパワーに元気をもらって、気づけば緊張を忘れていた。3年前の共演者にかるく挨拶してからホールを出る。友人と池ノ上まで歩き飲みする。上京最初のアパート跡にはリッチマンの住む一軒家が建っている。とはいえ場所そのものがなくなるわけではないので旧アパート前、現モダンハウス前で記念撮影してもらう。その後、バーミヤンで食事がてら飲み足し、一旦帰宅して友人に借りていたDVDを返却。駅まで送って帰宅する。なんだかんだで夜更かしになり1時すぎに就寝。


2026/02/14 一昨日 9463
13時から稽古。気持ちを落ち着けながらゆっくり準備していたら思っていたより早く時間が過ぎていって、遅刻しそうになった(5分遅刻した)。ただ、盛大に遅刻する大御所俳優もいたりして、5分程度で目を白黒させる自分との格の違いを見せつけられた。この日の通し稽古も、袖から見る皆の演技にただただ感動させられて、最高の”LIVE”だった。SS木の声がたぶんツボで、自分でもちょっとどうかと思うぐらい感動してしまう。SMAPのゴタゴタのことを思うとちょうどいいエグ味が出てきたオンリーワンのあの歌にしても「これが正解のひとつだ」というメッセージとの絶妙な重ね合わせがある。脳の涙を司る部署が常軌を逸した実権を握っている我が神経系だが、それにしても司令官はボタンを強く押しすぎている。しかも連打してくるから困る。STキの急成長も自分(?)としては見逃せない。本当にすごいと思う。頭が下がるし誇らしい。MRンの声が、駄目押しの上にさらに駄目を押すあのリフレインが、彼女の言う”感じ”を胸に直通させてくる。この作品は個人的に面白いと思うし、一般的に言うところの好感が持てる作品だとも思う。自分がすこしでも良くなることで、この作品が良くなる、作品の持つ質感に貢献できる立場にいられるというのは、まさに望外の喜びだ。正直、めっちゃこわいけどね。
稽古終わりに酒を飲んで帰ろうかと思ったが、ここが大事だという気がしたのでスタバに寄って『八月の光』を読む。相変わらず読ませる文章なんだが、稽古で得た”感じ”を反芻する場になった。気がつけば稽古のことを思い出したりして読書が進まなかったりしたので。ただスタバを出てからの帰り道は結局酒を飲んで歩いた。


2026/02/15 昨日 13976
14時から自主練習。Vを連れて行って相手役の代役にたってもらう。Vにとっても初めてのおでかけになった。演出助手のビーンさんに発声のアドバイスをしてもらう。通らない声をなんとか通そうとするのは最初からわかっていた自分の課題なので、このタイミングでそこに手を貸してくれてありがたいと思った。私のような真っ白なシロウトを前に、ただでさえ考えることが多い為事なのに、伝えるタイミングとか、何を伝えて何を伝えないでおくか(あとに回すか)とか、おそらく普段よりもさらに考えてくれていて、通常であれば自分なんか本当に1ミリも頭が上がらないはずなのだが、毎回「どうもー」ぐらいの軽い会釈で済ませている。ただ恐縮していてもせっかく推進させてくれようとしている心意気に水を差すだけになるので、アホのふりをして差し出されたものを無遠慮に受け取っているつもり、アホのふりをしているつもりだ。……つもりなのだが、これを当たり前にするとアホ以下になるので、ウラカン(裏感謝)を忘れないようにしたい。それは作演出担当のNしまさんにもまったく同じことがいえるわけだが。んむあぁぁぁぁー、と言って空間の床全体からむこうの壁まで舐めるつもりで空気を震わせる発声のアップを教えてもらったので、突然そういうことを始める。人が集まってくると恥ずかしさが幅を利かせて控えめになっていってしまったが、急にでかい声ではなく、徐々にでかい声という「発声練習しているんだな」というのが伝わりやすいアップの方法なので自分のようなタイプにもなんとかギリできたりできなかったりするちょうどのアップだと思っている。人がいるタイミングでも何回かチャレンジした。このとき最初のほうにやったアップで、””喉が開く”という感覚を初めて得たかもしれない。ぐらいのちがいがあった。
稽古が一回一回終わっていってしまうのがさみしい。自分には舞台の上に会いたい人がいて、舞台の上ではまだその人に会える。それが嬉しいんだという気持ちが本物みたいになってきている。だからあらたに出てきたさみしいというのも嬉しい気持ちと同じぐらい本物で、もともと持っていたものと合わせて、本物のさみしいがふたつある状況になっている。そう考えると不思議だ。ただまあ小説を読んでいたらよくあるといえばよくあることか……。向こうではなくここにあるというのが不思議ということなのだろうか。
表に出ている人に言及するのに仮名を使う必要はないのではないかと一瞬思ったが、よく考えたらこれ(日記)は自分の現実にそれなりに近接しているフィクションだというのが私の見解だったというのを思い出したので、これはこれでよいということにする。Vをボストンバックに入れていたのでまっすぐ帰る。酒を飲みながらにはなったが。


2026/02/16 今日 9172
午前在宅。あれもこれもと片付けているうちにすぐ昼すぎになる。準備をして最後の稽古に出かける。松屋でキムチカルビの定食を食べた。見学者ありのなかで最後の通し稽古をする。自分から見れば皆スムーズに進められていてよかった、という感想だったのだが、プロの演出家の目はさすがにすごいと思った。自分がテンポの良さと見たものは、テンポの良さではなく、かかりすぎ走りすぎということらしく、たしかに何度も見ているから分かるのであって初めて見る人には分からない(分かりにくい)箇所があるというのはたしかにそうかもしれないと思った。また、相手が何を言うか知っている受け答えになったらマズいというのはその通りだと思う。自分は舞台からはける移動のときに気を抜いてOFFになったところがあったという指摘を受けた。まったくの無自覚で無意識だったので、そうなったときに素の自分が出るのではなく、役の自分が出るような状態に持っていけるようにしたい。……というのは挑戦しようとすることにかこつけた体裁の良い言い繕いだ。自分のセリフ・アクションが終わったと思って気を抜いたのがはっきり見えるほど気を抜いたということが、ある程度時間が経ってだんだん恥ずかしくなってきた。それが恥ずかしいことだという感覚はある。恥ずかしい。
この日は酒を飲まないで吉野家の牛丼を食べてまっすぐ帰る。スタバに行こうかと思ったが、雨が振り始める予報だったので家で日記を書くことにした。22時半過ぎに書き終わり、寝る準備をして寝る。

20260211

日記717

歩一歩

2026/02/07 四日前 8274
演劇稽古前にバビシャーでチーズナンを食べる。集中しよう集中しようと考えて閉じている気がする。もっと相手に向かって開かないととは思うのだがそのやり方がわからない。集中しているからなのか主観的な感触はわるくないからよけい性質がわるいのかもしれない。とりつく島もないのではないか。比較的短くて少ないセリフを完ぺきにおぼえるところからその先、その先で何ができるかというのが演技力うんぬんなのだろうと思う。自分は言うべき言葉を介した感情表現がうすいなとつくづく感じる。
20時半ごろ帰宅したら誕生日の前夜祭ということで家人が鯖のパエリアと豚肉の蒸しを用意してくれていて、ありがたくいただく。美味くて一気に全部食べてしまった。


2026/02/08 一昨昨日 12740
朝リビングで寒がっていると家人が見かねて暖かいサンダルをプレゼントしてくれた。サンダルのほかにはドラムスティックと練習用叩き台もプレゼントしてくれて早速ドチタチドチタチの練習を始めた。脳が全然追いつかない感覚、首の後ろ側に頭が置いていかれる感覚を得た。しかし考えようによってはこれが伸び代ということになる。
録音になったセリフのレコーディングをするために早めに稽古場のスタジオに入る。マイクの前でセリフを発することの難しさをただただ浴びるだけの不満足なレコーディングになってしまった。自分に満足な力があるとは思わないが、とにかく緊張していて自分の硬い声が吹き込まれただけに終わり不本意だった。心の準備ふくめきちんと準備していかなかった自分がわるい。場慣れするための場だとか言ってる場合ではないのにどれだけ好意的に解釈しようとしても経験を得た以外に収穫はなかった。ショックを引きずったままこの日の稽古が終わってしまった。仲間のひとりが誕生日だと言うのをおぼえていてくれて生菓子をプレゼントしてくれた。まずその気持ちが嬉しいし、セブンで買えるスイーツの中でもたいそう美味しい部類に入る。
一度帰って荷物を置いたあとかりべ亭に出かける。翌日に初シェラスコが控えているので肉ではなく魚をメインで注文した。徒歩でこの満足にアクセスできるのはイカすという話をした。料理屋に関しては経験に開きがあるからはっきりした同意は得られていなかったかもしれない。

2026/02/09 一昨日 20344
朝から雑司が谷まで出かけてKの墓を参る。おそらくは文学好きのGが墓の上で眠っていた。親近感が湧くものなのか、場所柄なのか、自分にしてはめずらしいことにつよい嫌悪感を抱かなかった。目標に向かって積み重ねることについて誓いを立てた。おそろしいのは去年も同じことを思っていながら進捗が一切たいということで、ただ年齢的にももう「待ったなし」という状況を確認して誓いというつよい表現を使うようにしている。副都心線で原宿に引き返し、表参道まで散歩がてら歩いて移動する。アップルストアでiPhone17proのカメラを見たが、Xperiaよりも使い勝手が良さそうな感触だった。
今日のメインイベントのひとつ、初シェラスコでバルバッコアに。肉をたくさん食べたい目論見で豊かなサラダビュッフェの野菜を一切れずつしか皿に乗せない戦略をとったのだが、そんな小細工をしたのにもかかわらず、あえなくお腹いっぱいになった。胃袋の満足ではなく心の満足を取ること、食べる肉を厳選し、その肉を2,3切れ単位で皿に運んでもらうこと、これが肝心だという学びになった。しかし食事においてこんな満足があり得るのかという満足があった。その存在も知らなかった身にはたいそうありがたいことだ。お腹いっぱいで下北に戻る。家人の役所手続きに付き添いをして区民センターと警察署をはしごする。帰りには羽根木公園を通って梅まつりの様子見をした。
帰ってからブルージャイアントシュプリームを読んで、暗くなってから新代田まで夜の散歩をする。下北沢一番街まで回ってきて、バーミヤンのほうのローソンまで歩くコース。待った待ったでここまできたけどついに待ったなしですという話をした。目標を立てる。


2026/02/10 昨日 18521
朝から出社。昼から在宅。夕方からバスケで狛江に出かける。あたらしいバッシュをおろした。若草色が気に入っていて履くだけでテンションが上がるのでその強みが機能面を凌駕する。

2026/02/11 今日 5247
一日家にいてブルージャイアントシュプリームを全巻読む。ドラムの練習。夕方から高円寺のバスケに出かける。

20260206

日記716

投げるからには

2026/02/05 昨日 13328
20時にはスタバを出て酒を飲まずに帰宅する。16時という遅い時間に昼ご飯を食べていたのでサッポロ一番塩だけで済ませてすぐに寝る。


2026/02/06 今日 7153
朝から出社。タスクが多い。追われるようにして13時まで働く。一区切り付けたので在宅に切り替える。豚とんでカレー味の小らーめんを食べるがいつもの味のほうが美味しい。帰宅して30分だけ昼寝する。そこからタスク消化のため画面の前にもどり、しこしこ働く。1時間半弱の残業になった。
もうすぐ39歳になる。楽しい時間はそれなりに多いし、労働時間中にも嫌な時間はほとんどない。週に2回ほどのペースでバスケットボールをしていて毎日8時間ぐらい寝れているから心身ともに調子がいい。読むべき本を読む時間、日記を書く時間はバスケをしていない日に限られるが、2時間から3時間ほどある。酒を飲む頻度は週7日から週2日ぐらいにまでに落ち着いた。毎日飲んでいた頃には考えられなかったことだが、酒を飲まない週も当たり前のようにある。
こういう何不足ない生活を送っていると、何でもできるという気分になってくる。だから実際、演劇にも挑戦することになって、もうすぐ本番を迎える。
しかし、自分には為事(しごと)がない。為事というのはいわゆる仕事ではなく、為にする事という文字通りの意味で、自分の為にする事だ。社会の一員として、つまり社会人として生活したいという欲求が自分にはうすいので、仕事に対する移入もほとんどない。まだバスケットボールや演劇のほうが力を込めてやれる。しかしそれにしても一生懸命やるということにはならない。誰かを押しのけてでもこのゴールを決めたい・止めたい、勝ちたいとは思えないし、誰かとぶつかってまで自分の演技を貫きたい、自分の動きに周囲を巻き込みたいという願望もない。集中力など各種自分の力を発揮するための適当な場が与えられてありがたいという気持ちはあるが、サイコロを振る、先読みしてアクションするという以外にもいろんな能力が必要になるボードゲームを遊んでいるような気分で、半ば自分の力を試しながら、半ば自分にできることを恃みに思いながら、おしゃべりしつつアイコンタクトしつつ、たわむれに盤面を進めているにすぎない。もし振り出しに戻るというマスに止まったら、歯を食いしばってもう一度やり直すということは多分しないで、躊躇なくべつの遊びに移行するだろう。音楽演奏や詩吟、ピックルボールなど、すでにその候補もいくつかある。自分は仕事の時間を支出しつつ、やりたいことをして自由に遊んでいるいい身分だ。遊ぶことはあまりに楽しいので、その自由を購うための仕事をも含め、どうも手放す気になれない。嫌なことが多かった仕事を経験していることも、いまの居心地の良さを失いたくないという気持ちに拍車をかけている。
ただ、時間は有限で、自由に使える自分の力を発揮できる時間、その力が今ある量だけ継続して使える時間はさらに限られている。自分にとって今こそがゴールデンタイムだという意識はある。その時間をどう使うかを自分は真剣に考えなければならないなとも思っている。遊ぶために使うのもひとつの手だ。負担にならない仕事をして遊ぶ時間を確保し、みなぎる気力や体力をふんだんに使って生活するなかでそのとき目の前に流れてきた綿毛を掴むという生き方。今何かを選ぶということをしないとするなら、自分はそうやって生きることになるだろう。「あそんでいきよう」というのは個人としての人間がたどり着ける最高の価値観だから。
あるいは、為事をして生きていくというアイデアがある。とにかくがむしゃらに一生懸命生きるということだ。自分は自分自身が何かを犠牲にするような生活をのぞまないが、それでも、自分で「一生懸命やる」を選ぶという条件であれば、自分にもできるのではないかと思っている。他人が言ったりやったりしていることに対して「それは違う・間違っている」と感じる狭い領域が自分にもある。そういうときはスコープが下手に伸びているだけで、ただ狭い了見にすぎないのかもしれないが、その違和感をバネにして高く飛べそうだという直感が働く。相手が間違っていて自分が正しいというのではないが、自分が正しいというのはある。相手の間違いのおかげで自分が正しいと思う線が見える。だからまずはその線を引きたい。それはまたいつかの自分にとっての相手になって、その間違いはいつかの自分の目に正しいと思う線が見える補助にもなるだろう。しかし重要なのはいつかではなく今だ。だからまずは線を引きたい。今から一本でも多く線を引きたい。それが自分の為事だという気がしている。いびつなことは気にしないでもいいが、いびつであろうとするのは違う。それ以外はまだ何もわかっていない。たぶんこれからわかっていくことなのだろう。始点だけを意識して引き始めるのがいいのか終点を決めて始めるべきなのか、線と線との接続は、重ね合わせは、統合は、どういうかたちでなされるべきなのか。ある程度は線に任せるのがいいのか、そうだとしてそれはどの程度か。
スタバに出かけて考え事をする。どうすればいいか、どうしようかと考える余地があるというのは恵まれていると思うし、考える余地があるかないか選べるなら断然前者を選ぶのだけど、それはそれとして、実際、どうしようか。とりあえず書け、でしかないのだが、そんなことを言っていても仕方ない。賢犬を流すつもりはないが、賢犬が立とうとしない以上、賢犬が飛び出てきた日のように、何かを見つけるためにふらふらする時間を作らなければならない。いつかはいつか(賢犬)、今は今。さて。

20260205

日記715

リメンバー・ミー

2026/02/04 昨日 7558
20時前にスタバを出てすこし外で飲み、ダイエーでサバ味噌缶(はごろもフーズ)と納豆、家人が食べる用の納豆巻きを買って帰る。M1関連の動画がリリースされたので目ぼしいものをいくつか見る。翌日は朝早いので早めに寝る。


2026/02/05 今日 11563
奈良の実家付近にいて近鉄奈良駅から家まで帰ろうとする途中でクマが出たという騒ぎが持ち上がる。やすらぎの道の郵便局のあたりでクマが出る予兆(熊の子)を見つけたその矢先だった。大きな叫び声が上がり、そちらを見ると三条通りのほうに大きなクマが出現していた。大慌てで神社のほうの路地に逃げ込む。その道の先に入ったことのないお堂があり、緊急事態だからということで勝手に門を開けて中に入った。建物の中は外から見たよりかなり広く、電気がつかずに暗いし、迷路のようになっていたこともあり、なかなか向こう側へ抜けられない。苦労してやっと向こう側へ着いたと思ったらぐるっと回っただけだった。案内の小坊主が慌てる我々を見てニヤッと笑ったので敵側の手先かと疑った。ニュースでは街に出たクマは一頭ではなく、クマ軍ともいえる集団で襲ってきていると報じていて、何らかの大きな力が働いていることを思わせた。その後なんだかんだあったあげく急襲を受け絶体絶命になったのだが、都合よくヒーロー視点に切り替わってアトラクション的にクマ退治をする夢に切り替わった。都合の良い夢だと思い緊張感ががくっと下がるのを感じた。突き詰めて考えると絶体絶命のタイミングですでにゲームは終わっていて、愉快な偽記憶を植え付けられているようにも受け取れそうだったので突き詰めて考えるということはするまいと、あえてアトラクションを楽しんだ。急流滑りのようなスプラッシュ系のアトラクションもあって、楽しもうとする分にはなかなか楽しめた。
遅刻したくないのできっぱり目覚めることにして早々に家を出る。時間きっかりより2本早い電車に乗って有楽町経由で新豊洲まで。この日は最終出社日の人に同席しての立ち合いだった。今と比べると社会全体にコンプライアンス的な意識がほぼないような厳しい時代を生き抜いてきた人なので、おとなしい印象のなかにも硬い芯があるように感じられるのだが、物腰がやわらかで丁寧にコミュニケーションしてくれていた。あまり接点がないまま過ごしてきたが、引き継ぎをすることになって一気にやり取りが増え、そのなかで好感を持つようになった。仕事のことについてはとくに言うことはないので「お元気で」とだけ言おうと身構えていて、午後からの仕事でべつの現場に移動するタイミングで最後のあいさつとしてそのことを伝えられたので良かった。ごくシンプルに元気でやってほしい。
大手町に移動してからの仕事は悲惨な状況で、ほとんど何もわからないまま先方の質問を受けては確認しますということを小一時間のあいだずっと繰り返し、目ぼしい成果も挙げられないまま時間切れで解散になるという体たらくだった。大の大人4人に囲まれて、仕事上は質問をしなければならないが、ひとりの人間としてはこの人に追及するのは忍びないという優しい視線を感じて、世の中捨てたもんじゃないなと、すこしホッとさせられた。わからないことはわからないと言うしかない、わからないというのが俺の仕事だ、と割り切って伝えることはできた。最低限の仕事だが最低限の仕事は果たした。
這々の体で帰路につく。ろくにご飯を食べる時間もなかったので帰宅してすぐ冷食チャーハンを食べる。タスクは溜まっているがとりあえず明日に回し、定時で退勤。
デザインと色だけで決めたニューバッシュが到着していた。この日はバスケに行くつもりでいたのだが、足の疲労が抜けていないので行かないことに考え直す。新しいバッシュを履く日には良い感触を得たい。感触がわるいなかでシュートを打っても全体の成功率が下がる練習になってしまうというのもある。これからは毎回の質というかコンディションも調整していかなければならない。というわけでスタバに行き『失われた時を求めて』を読む。ソドムと植物の交接について。人の欲望についてはあまり関心を持てない。人のファッションについても同様だ。自分というものを切り離してそれらを考えることの意味がわからない。意味というかやり方というか。

20260204

日記714

最もオクロック

2026/02/01 一昨昨日 8545
タウンホールのスカイラウンジみたいな眺めの良い部屋で稽古をした。出演場面となる公園を具体的に想像するなかで、幼稚園から小学校まで遊び倒したマンション前の公園を記憶に呼び出した。集中力を高めようとするなかで、肝心のコミュニケートするべき相手役を無視するかたちになってしまい、きれいに本末転倒していて我ながら可笑しくなった。集中しすぎなのかテンパりもエスカレートし、スローモーションで走る場面で手と足がいっしょに出るという面白を演じてしまった。稽古の途中で新宿方面のビルから黒煙があがるのを発見する。火事だった。
自分がやりやすいように、マイペースを崩さないようにとラクな体勢をとろうとして、周囲の援助もあってその通りできているのだが、自分がやりやすいということはその分誰かが居心地わるくなっているということでもあるという一般論があるので、どこに対してそうすればいいのかわからないがもうすこし気を遣うようにしようと思わないでもない。しかし残念ながらこれからは思うような余裕もなくなっていくことだろう。家に帰ったらカレーとその作者が待っていた。我が家はジャワカレーにテーブルスパイスを足したカレー。美味かったのでたくさん食べてお腹いっぱいになりすぎた。それで睡眠の質が落ちる。等価交換、ということでいいのか。


2026/02/02 一昨日 9292
朝から出社。午後から在宅。スタバに行って日記の代わりに演劇経験についての文章を書く。原液感がつよい。もっと散らせるかあるいはもっと突き詰めるか、どちらでもいいがどちらかに方向づけないとどうにもならない。テンションがあがったときに、思ったことを棒大にする作業に集中してしまう。それはそれで楽しいのだが、あとに続くものがないということになってしまう。この日も書くだけ書いて帰り道に酒を飲むという発散になった。ところで坂本慎太郎の『ヤッホー』は良い。楽しくなったし、将来もこれを聞いて楽しくなるだろうことが想像のうちにやってきた。やまびこのように。


2026/02/03 昨日 21870
一日在宅勤務。こういうとき休みが全面に出てほしいのに、たくさん働かされた。無駄な依頼も多い。無視すると倍になる感じなのでいい加減に付き合っている。最小限に抑えられている手応えはあるのだが、それでも面倒だ。鷺ノ宮までバスケに出かける。西武新宿駅に行く途中スポーツショップでバッシュを試着。感触がわるくなかったのでそのままネットで購入した。今回はデザイン重視で選んだ。履いていてアガるというのが機能面を補ってあまりあるという判断だ。たぶん機能はどれもそれなりに高いのだろうし。鷺ノ宮は急行が止まるとは思えないほど、駅前なのにうらぶれた雰囲気で、中学校にむかう道も暗くて寂しいのだが、体育館はかなりきれいだった。参加人数が少ないこともあって出ずっぱりになりだいぶ疲れたのだが、みな上手くて当たりは優しいという最高の環境だったこともあってだいぶ楽しかった。
くたくたになりながら高田馬場乗り換えルートで帰る。家人に駅まで迎えに出てもらい、まいばすけっとで恵方巻ほかを買って帰宅。Vは先に寝てしまっていたが、今年も節分の儀式をした。


2026/02/04 今日 5242
午前在宅、午後から出社。一日働き詰めで疲れた。しかし睡眠時間の確保したことでまあ前向きにタスクをこなし、背負わされた荷物をひとまず置くこともでき、終業後には達成感があった。渋谷経由で下北まで戻りスタバに行く。『失われた時を求めて』ソドムとゴモラ、『八月の光』を読んでから日記を書く。20時前にはスタバを出て飲酒しながら帰るつもり。また『ヤッホー』を聞くだろう。

20260202

死後の世界にいる「私」を演じるということ

演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をしている。

私には娘がおらず、配偶者と離婚してもいないのだが、〈離婚して自由に娘に会わせてもらえない父親〉を演じることになった。演劇の舞台なので、それがどういう場面で、役者としての自分がそこでどういうセリフを言うかというのは決まっている。作・演出のNさんは演じること全体について説明してくれたことがある。それは間違いなく彼の演出のなかでもとくに優れた内容だった。いわば基本のキであり、そのために訳知り顔の評論家気取りの連中にも簡単に引用されそうな内容なのだが、それでもその重要性は揺るぎないものとして感じられる。それはつまり、彼の演出によってそのアイデアが自分のなかで揺るぎないものとして感じられるようになったということだ。とにかく不安を感じがちになる役者に対して、信じるべき灯台の光となるようなことをはっきり言えるということ。それは数ある演出家の資質のなかでももっともポジティブな要素のものだと思う。前置きが長くなったが、彼が何度となく言ったのは次のことだ。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」


私は他人がどう考えるかということについては感じるままに想像する以上のことをほとんどしておらず、どうせ大したことではないのだろうから、いちいち取り上げるほどのことはないと高を括っている。他人がどう考えるかということに対して真剣に併走するのは大変なコストがかかるということを自分に照らして知っているので、そのコストを支払おうという気にはなれない。真剣に考えを尽くしたとしても「そこじゃない」という見当違いが起きるというのも全然めずらしくなくむしろ往々にしてあることで、それも自分に照らして知っていることだ。だから、自分はどう考えるかということにフォーカスして、他人のこと、他人の考えることについてはある程度までと線引きしおろそかにしてきた。そういうわけで「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」というのを実践しようとしてまず苦しんだのは、登場人物がなぜそんな事態に陥ったのかというところを〈この私〉につなげる部分だ。私が演じる〈その私〉は、何かがどうにかなり、どうにかなった先でいろいろなことを取捨選択した結果、その立場に位置するようになっているわけだから、それを私にも納得できるようなかたちに成形する必要がある。のっぴきならない事情が重なって、出た目が思わしくなく、疲労が重なった挙げ句、追いやられた先で破壊的な結婚をすることになり、娘を愛していながら自由に会えないという厳しい状況に陥ったのかもしれない。これを真剣に想像することは簡単ではない。しかしそういう人は実際にいるというところから、それをヒントにして自分と接続する回路を、遠回りにでも、か細い線になってでも、つなげようとすることはできる。それに彼は彼で、この私と同じように自分の状況を顧みたとき「陥った」というふうには自分のことを考えないかもしれない。

いずれにしても、この私への接続については「できる」という思い込みを発揮するだけのことにすぎず、結局のところ、いい加減な想像の域を出ない。「普通こうでしょ」という、いい加減で許容しがたい他人の意見と似たものになる。しかしそれは怠惰が鍵なので、他人の考え一般について自分が使っているのと同じ鍵で開けられる。まあ大体こんなもんという大まかな切り取り方で必要十分ということだ。むしろそこから逸脱すると、他人からは容易に認めることができないゾーンに突入してしまうだろう(じつは私はそこへ行きたいのだが、今回の演劇では一旦保留としている)。だから結局、怠惰な想像力で「まあだいたいそんなところ」となる範囲内で調整するのが自分の仕事ということになる。それでも、普段使っていない筋肉を使うときのように身体の動かし方のバリエーションにはなるので、この私にとってもエクササイズ的な良い効果が期待できると思っている。

ところで、より面白いと自分に感じられる仕事は、死後の世界(あるいは生前の世界)にいる場面を演じるということだ。私は死後の世界というものを一切信じておらず、人がそれを信じることも馬鹿らしいと考える点で、他人からは「死後の世界がないことを信じている」よう映る姿勢をとっている。
だから「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」とき、死後の世界にいる自分のことを想像するわけだが、その自分のなかでどういうことが起こるかといえば、自分が信じていない世界のなかにどういうわけか入り込んで、そこでまごまごするというよくわからない事態だ。たとえば「現実」というのは信じる信じない以前にもう現実としてそこにあるものだから、前提としての”オフにできない機能”が元々そなわっていて、それをオフにして考えること全般がナンセンスだと思い込ませるたぐいの要素を備えている。私は疑おうと思えばそのことを疑うこともできる。つまり現実の現実性について虚偽だと暴き立てるような態度をとったり、それをフルシカトして自分の思う通りまっすぐ進むということをあえてしたりもできる。私は私次第ではそうすることもできると知っているが、同時に(ほぼ次のページには)そうしないということも明らかに知っている。死後の世界にいる自分を演じるというのはどういうことなのか。自分が演じる死後の世界というのはどういう場所なのか。自分の視点からはその場所のことはまったくわからないのだが、現実の持つ現実性という奇妙な図式を反転させたときのような奇妙さがその場所には漂う。また、外形的な強制力(今回の場合は演劇の舞台)によって、自分が自分の想像の外に置かれるということも起こる。「自分の外にある」という状態は、自分機能におけるコア部分の機能不全にほかならず、自分にとって許容範囲を超えることになるのだが、そのこと自体が次のように想像してみることをトリガーに発生している。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」

私は死後の世界というものを信じていない。そんな私が死後の世界にいる私を演じることができるのだから、これを僥倖と言わずして何を僥倖と言うのか。私は演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をする。蓋し僥倖である。

20260201

日記713

正午すぎのみな味

2026/01/30 一昨日 8073
朝から出社。午後から在宅にするつもりが不要な対面打ち合わせを入れられたので終日オフィス勤務になった。アホウ相手にはアホウ相手用の対応をするだけだが、質問内容が不明瞭な質問をしてきてとまどっているとそんなことにも答えられないのかという態度を示してきたり、何を言っているのかよくわからないなりに汲み取って絞り出した回答に対して食い気味で否定したりして”主導権”を握ろうとするやり方があまりにもアホ丸出しで、話をしているときについ気分が落ち込みそうになった。もっと根本的に、最初からそんなアホウと関わらないでもいいような対応を考えないといけない。まあ普通に考えて遠ざけるか離れるかだ。
定時退勤後、失効直前のマブルスポイントを消費するため原宿までチキンブリトーを食べに行く。NYで食べたブリトーを思い出した。NYの外食が軒並み高すぎるなか、比較的安価でお腹にたまる食事としてメキシカン料理がありがたかったのを思い出した。大学生時代に東京に遊びに行って滞在を安く抑えるために食費を切り詰める、以上の切り詰め方をNYではしていて、あのときのひもじい気持ちを思い出す味だった。なんでも贅沢できる旅行よりも、不十分なところがあったりしっかり制限がある旅行のほうが旅感が感じられる。旅情とまでは言わないが、お腹を空かせて通りを歩く経験というのは都会を旅する醍醐味のひとつだ。
ハラカドの1FにCBDショップがあったのでオイルを試させてもらう。「効果はバツグンだ」というのを期待するのだがそこまでにはいたらなかった。しかしその微妙さを「効果は今ひとつのようだ」と評価してしまうのも憚られるぐらいの効果はあったように感じる。乾燥からくるのか、かるい喉の痛みがあったのだが、その痛みは感じられにくくなったように思ったからだ。いずれにしても知覚に作用するということはなかった。(当たり前だが)
帰って演劇資料として提供してもらった動画を見る。参考にするという観点がすぐ抜け落ちて劇の内容に意識がいくのはさすがの吸引力だなと思ったが、夢中になっている場合ではないと気を取り直しつつ見た。今なんて言った? となるセリフがおぼえているかぎりでは一回もなかったので、彼らは何よりもまずナレーターで、その上に演技の肉付けをしているということになる。なので少なくとも自分に感じ取れるかぎりでは二重の技能を身に着けていて、さらに舞台度胸、記憶力、対応力など、総合的な能力を高いレベルで備えているということだ。さらにその前提をクリアした上で、自分の役者としての個性を発揮しようと苦闘しているわけだから、平手で立ち向かおうとしてもどうにかなるような相手ではない。そんなことは資料として渡された動画を見るまでもなく理解していたことだったのだが、まずいことにそこに実感も加わってきた。自分としては行けるところまで行って、やれることをやるだけだが、ナレーターとしての機能を果たして演劇の成立に寄与するというところで満足するかぎりでは自分が参加した意味はなくなってしまう。何が足りていなくても、たとえ場の成立や違和感のない進行のために足を引っ張ることになったとしても、1ミリでも多く”自分”を発出することを心がけていこうと思う。そのためにはセリフを覚えて、流れを覚えて、すこしでも堂々とした気分でいられるようにきちんと準備をすることだ。結局のところ、ピラミッドの積み上げ方にはそこまでのバリエーションはない。土台から頂点へとすすんでいく手順は変えられない。



2026/01/31 昨日 21833
朝から新横浜まで出かける。バスケの大会に出場するためだ。身体の不調部分は落ち着いていてほとんど痛みもなく、活躍するぞと意気込んで出かけたのだが、一番乗りで体育館に到着してアップがてらちょっと身体を動かしただけでいつもにはない息切れがある。その時点で嫌な予感があったのだが、まあ朝一番だから、温まってきたら大丈夫だからとシュートを打っていく。ランニング系のアップをしないまま試合が始まると、これが行きの電車で”走り勝つ”と意気込んでいた人間のやることかぁ!? ばりの息の切れ具合。気持ちだけでなんとか食らいつき、押されて押さえつけられてヘロヘロになりながらゲームタイムを消化する。タイマーを見ては「早く終われ」などと、わざわざ横浜くんだりまでのこのこやって来てまでなんで参加しているのか全然意味がわからないことを思う始末。6分ハーフで4試合やって得点は12ポイント程度にとどまり、マッチアップ相手の得点(つまり自分起因の失点)は少なく見積もってもその1.5倍はあり、チームの勝因どころかまったく逆に敗因になってしまった。終始相手ビッグマンのペースのなかで「なんとか付いていく」という意識以外には何も考えられず、こちらのペースにペースダウンさせるという、試合に参加するようになった最初の方に立てていた戦略を忘れていた。そもそも自分はタッパがあるだけでビッグマン的なプレーは苦手なのだから、そこで勝負する、負けないように付いていく、というのは端から間違った選択だ。相手のDFがマンツーマンならアウトサイドに逃げていればそれだけでインサイドにスペースを作れるが、ゾーンDFをされるとその省エネ戦術を使えない。そうするとインサイドに入ってキックアウトし、アウトサイドからのシュートをアシストするというのが自分にできる仕事になるわけだが、当たり負けして面を張るのも成功しない、なんとか入れてもらってもキックアウトするパスの選択と質がよくないと、総じてポストプレイの質が高くないことになった。ただ中で受けて外に出すということに徹してタスクフォーカスすればいいのだが、というかそれしかできない以上それをやるべきなのだが、それは自分のやりたいことではない。自分を殺してチームを勝たせる肚が決まっていない。しかしそんなに大げさに考えなくてもいい。ずっとそれをやるのではなく行き詰まったとき用の突破口としてそのプレーを選択し、それを成功させたあと、そこから駆け引きをすすめればいい。親指ないし人差し指になるようなポストプレーをひとつ持っていなければと思った。肚を決めてポストプレイの練習をしよう。
くたくたになって下北に戻る。帰りの東横線日吉〜渋谷が混んでいたのもきつかった。家人と合流して梅窓のうどんを食べる。消化のことを考えて肉うどんを選択。帰宅してシャワーを浴びて体力を回復させるために30分程度昼寝をする。洗濯機を回してから演劇の稽古に出かける。最初の本読みの頃にできていたセリフの言い方ができなくなっていた。同じセリフを、その時に初めて発した言葉かのように言うのはむずかしい。動くときにも段取りを知っている(段取りを覚えていると)とそのまま”段取りを知っている動き”になってしまう。セリフを言い終えたときにも安堵感から自分のターン終了感が出てしまう。こうやって書き出すといかにも初歩的なミスで、そんなことはやらかさないだろうと思えるのだが、あの場にいると考えることや視野がとにかく極小になって、出来の悪い機械そのままのような動きを本当にしてしまう。あの場にいると、という部分のマインドセットを舞台や稽古場ではなく、演劇の設定した場面に設定しないといけない。これは集中力が必要なのだと思う。本番でいきなりそれを発揮するのは無理があるから、ここから先は一回一回の稽古で集中力を発揮しよう。
パンを一個食べていっただけだったので稽古終わりには腹ペコ状態だった。でもこの空腹感はわるくない。他三名の参加者といっしょに新聞のインタビューを受けた。その流れで駅までいっしょに歩く。四人とも演劇経験はほとんどないメンバーなのだが、稽古が楽しいということで意見の一致を見た。演劇稽古全体をとおして、メンバー同士の距離感は”東京”という感じで、自分にはちょうどいい。もっと仲良くなってもいいのかもしれないが、それと同量かほんのすこしだけ多量の、もっと仲良くなるということはないほうがいいのかもしれないという思いがある。やはりこれが適切な距離感・間合いというものなのではないか。わからないけど。
ダイエーで家人の分と自分の分の助六・いなり寿司、ビールと氷結を買って帰る。ザ・コントというコント番組でロングコートダディの「ネオサイバーアーム」のネタとジャルジャルの「音響のスギさん」のネタを見る。キングオブコントよりも自由度のある”テレビコント”のフォーマットでやりたい放題やる二組の方向性は違ったが、とにかく面白くて圧倒された。早めに寝るつもりが12時すぎの就寝になる。


2026/02/01 今日 2571
7時頃に目が覚める。そのまま起きると寝不足になるので二度寝しようとするもしっかり覚醒していて二度寝に失敗する。仕方ないので9時ごろに起き出してきて出かける準備をして、スタバに出かけて日記を書く。そのまま昼ご飯を食べてから13時からの稽古に行く。全集中舞台俳優の呼吸で場に臨む所存。

20260129

日記712

指示書

2026/01/27 一昨日 20129
練習バスケに参加してシュートを打ち込む。途中早々に足が痛くなってきたのでよくない感覚でシュートを打つというマイナス効果の練習にしないために、有志参加の軽い試合への参加を決める。走り回るということを目標に取り組んだのでとにかくボールに近づこうとする無理なプレースタイルをした。しかしレベルがレベルなのでとくに無理にはならず、それなりに楽しめもした。


2026/01/28 昨日 5612
一日在宅勤務。というか本当は午後休にしたかったのだが、緊急対応のため働き詰めになった。ただでさえ鬱陶しいのに、客との定例打ち合わせに15分遅れて入ったことでうるさい小僧からの「詰め」があった。いつも適当にいなしているがいつも適当にいなしているので向こうもいなされていることには気づいているようで、こちらのいなしについてきて、なんとか詰めようとしてくる。仕事熱心な人だと思うことで「まああいつも頑張っているからな」と自分を納得させるやり方は奏功せず。鬱陶しさが勝ってイライラしそうになる。こういうときに考えないようにしようとするのは逆効果で、べつのことに集中しようとするのもうまく行ったり行かなかったりする。実際、電話越しの気に障る声が耳元に残響するようにも感じられ、わかりやすく言うとストレスだった。こういう消耗をするのは、消耗させてやろうという相手の思う壺にハマることになるのでなんとかしたいと考えていると、逆に相手と仲直りし、むしろ雨降って地固まるのように、一気に打ち解けて仲良くなる未来を想像するという奥義にたどり着いた。この技の真髄は、飲みに行き、肩を組んで二軒目まで歩くというところまで真剣に想像したあとで、その未来を殺すところにある。最大限歩み寄って、こちらから踏み込まないとその未来はないのだが、想像する段階では無際限の譲歩・感じの良さ演出という、虚構内でのみ可能になるポテンシャルの発揮をして、それがすべて成功した挙げ句の最高の未来を思い描くわけだ。そして、それを一切しないという選択を採る。要は今まで通りというだけだが、あり得たかもしれない和解を通らない、こちらからは手を伸ばさないという宣言をして、ひょっとするとひょっとしたかもしれない可能性を葬り去るということだ。想像するときにはその実現に向けてああしようこうしようと考え、計画としてもそれなりに見栄えがするというところまでいって、「いや誰があんなオケラと仲良くなりたいんだよ」と切り捨てる。そのときに胸のつかえがすっと取れた。
あとは昼すぎから行こうと思っていた狛江湯に、退勤後になったが行く。ぬる湯、温冷交代浴、外気浴のローテーションで2時間弱を過ごした。途中ストレスのもとになったオケラがふわふわと湯気のなかを漂っている気がしたが、前述のパージ作業のおかげで”気のせい”で済ませられた。遅れて狛江湯入りした家人と待合で合流する(まったく連絡を取り合わなかったのに寸秒のちがいもなく同時にのれんから出てきて驚いた)。ぷらったでマンデリンのコーヒー豆100gを購入し、狛江ニュースターで一杯やる。家人は昭和オムライス、自分はもつ煮とあとからタンメンをとった。これから覇権を握るAIについての話をする。爆発的な訴求をしてすべての人に行き渡るところまでいくためには”面(つら)”や”インターフェイス”が重要になるという論旨で、猫型ロボットのリバイバルがあり得るのではないかという主張になった。喋る中で気付いたが、そのラインはすでに円城塔がゴジラSPのなかで「ペロ2」として描写している。2021年4月のTVアニメだから5年前の話だ。家人は寝不足が祟って、嘘でも話についてくる気配が見られず。こうまで話を聞かない態度を取られるとむしろ、ということで反骨心(?)に火がつき、帰りの電車内でも気炎を吐いた。帰宅してすぐに寝る。タンメンの消化がされないうちに寝ることになったので胃の具合がわるくて途中目覚めた。そのときにこれは覚えておこうということを夢のなかで思いついたのだが、あの実在感なら絶対に覚えていられると思ってあえてメモしたりしなかったのだが、次の夢を見たことできれいさっぱり流れてしまった。小中高の友人が東京のAURALEE新旗艦店で働いているところに買い物客として遭遇するという夢だった。なんとなく気まずい鉢合わせだった。


2026/01/29 今日 7469
朝から出社。朝から打ち合わせがあり、午後にも定例のミーティングがあったので一日オフィスにいて、やるべき仕事をこなした。定時で帰って荷物を置いてスタバに来る。『失われた時を求めて』ゲルマントのほうⅢを読み終える。退屈退屈で来ていたのだが最後の最後で驚きがあった。日記を書く。

20260127

日記711

道歩め

2026/01/26 昨日 17640
落合南長崎までバスケに出かける。新宿駅から都営大江戸線に乗る。混み具合と乗客の感じが普通の地下鉄よりもより暗く感じられるのは、いっそう深いところまで潜る地下鉄道だからなのか。到着までの20分弱で一気に気が滅入って気疲れした。それでも体育館に到着してボールを取り出すと途端に元気になってきた。新バスケサークルには2回目の参加なのだが、いつも行っているバスケの集まりに比べるとかなり若いサークルだということに気がついた。いわゆるバスケットマンとはノリが合わないと思っているが、年齢に差があると余計にノリの違いが大きく感じられる。しかしとにかくよく走るゲーム内容には満足で、ぜえぜえ言いながら必死で付いていくのはめっちゃしんどかったけど自然なテンションの上昇もあってわるくなかった。あと、特定の人や集団に対して違和感がある場合、その多寡は自分の取る態度にはあまり影響を及ぼさない。つまり一定の距離だ。これはいつも通り。ただ、一瞬のハイタッチ、ナイスパスを受けてシュートを決めるのは楽しい。それで十分だ。帰りも夢モグラに乗って帰宅。


2026/01/27 今日 6712
朝から出社。行きは参考資料の演劇を見る。打ち合わせなどをこなして昼には帰宅。帰りは『八月の光』を読む。セブンで新商品のヤンニョムチキン弁当、キーマカレー弁当を買って帰る。キーワードは「チーズまみれ」。洗濯機を回す。この日もバスケで狛江に行く。2日連続ということで練習回に参加することに。

20260126

日記710

いろんな回収

2026/01/24 一昨日 20683
朝早く起きてバスケにいく。あたらしいバスケサークルへのひさしぶりの参加になった。今行っているところはどこも和やかな雰囲気で不満らしい不満はまったくないので、あたらしいサークルの探索がついおろそかになった。今はPMの時間帯が演劇稽古で潰れるので、AMを活用したいというニーズがある。というわけで高田馬場まで行った。まずシステムがきちんとしていて、”お上手”なバスケプレーヤーもいるにはいるがそこまで多くもなく、強度もちょうどいいぐらいだったので今後の選択肢に上がってきそうだ。行きの道すがら、寒すぎてなのか朝早すぎてなのかわからないが、一瞬背中がピキッとなりすごく焦った。すぐにコンビニに入って水・朝食を買い、水を中心に補給する。体育館に入ってもまだ余韻があったので嫌な気分のまま準備運動を始めたが、徐々に痛みが引いていって事なきを得た。緊張していたのかなんなのかわからないが、筋をいわせる系の故障はこれ以上は避けたい。肝心のバスケの内容だが、小学校のコートでかなり狭かったからかそこまでガチガチの空気ではなく、自分としては呼吸がしやすい環境だったのでOFリバウンドを中心にけっこう暴れた。ただし、ビッグマンの見本みたいな高身長でなおかつがっしりした筋肉質のプレーヤーがいて、彼とのマッチアップでは手も足も出ず、何もできない情けなさを味わった。多分年上か、低く見積もっても同い年ぐらいなので、年齢を言い訳にできず(年齢を言い訳にはしないぞと殊勝な態度をとれず)苦しかった。バスケはチームスポーツなのでね、とこういうときには諦めも肝心で、チームを勝たせるための動きに切り替えなければならない。一応それはできたと思う。
バスケが終わってすぐ高田馬場まで歩く。渋谷経由で新代田まで移動する。渋谷駅から発車する前の電車内に、相手役の俳優のすがたを認める。驚き、目礼をして、足を止めずにべつの車両まで歩き抜ける。人見知りとかそういうのではなく、ただこの日のAMに追加された脚本に目を通すための時間を作るためであって、向こうにはわからないかもしれないが、ちゃんと合理的な理由があったのである。
しかし、演技経験もなく、人前でなにかやるのが好きそうな感じでもなく、人が好きというわけでもなさそうな男が、何を目的に演劇WSに参加しているのかという疑問はあるだろうと思う。それに関しては自分でもよくわからない。目的と言われて、とくに思いつくことはない。昔は俳優の友達が欲しいという思惑があったはずだが、今はそういうことも思わなくなった。何も考えずに適当なことを言えば、もっと自分のことを知りたいということだろうか。嬉しくない内容を知っていっているような、知っていたことを確認しているような感じで、未知だったり望外の何かを手に入れたという感じは今のところまだ得られていない。ただ演劇の稽古自体はいろんな活動のなかでも相当上位に位置するぐらいかなり刺激的で楽しく、俳優という生態の光る瞬間を毎稽古間近で見れている感覚がある。これは本当に見もので、観客の気分に浸りすぎて自分の出役としての立場を忘れてしまうほどだ。何かを凝視しているとそれにとらわれ、自分の身体を動かすときに適した体勢にはならない。それで心の準備がないまま自分の出番がきて痛い目を見たことも何度かある。その痛みと引き換えにしてでも見たいものがあるとすれば、それは稽古場での俳優たちが発する光だ。話の内容はあまり関係なく、ひとつの場面に感動させられることが何度となくある。
18時半過ぎに稽古が終わり、家に帰ると家人のデザイン学校時代の友人たちの訪問があったので、小一時間ほどボードゲームでいっしょに遊ぶ。デザイン畑の人たちと話すのは新鮮で面白い、と思ったのだが、よく考えると家人が以前勤務していたデザイン企画の会社の人たちとも遊ぶ機会がそれなりにあるので取り立てて新鮮というわけでもなかった。自分が一番年上で気を遣わせる立場なのだが、年上と接するのに比べると得意なほうなのでとくに問題はなかった。問題ないコミュニケーションというのはそれだけで意味あるコミュニケーションとは言えないのでもうすこし爪を立てていかないとなという思いはいつものとおりある。わりと酒を飲んだが翌日にも稽古があるのですぐに寝る。


2026/01/25 昨日 7688
前日の酒のせいなのか軽い頭痛があるなか目が覚める。Lシステインを飲んだのに足りなかったのか、酒のせいではないのかはっきりしないが、とにかくバファリンを飲んで対処する。背中を痛めないようにちゃんと運動前のストレッチをしてから、バーピージャンプを含めたフットワークのトレーニングをする。シャワーを浴びて昼ご飯を食べてから新代田の稽古場に向かう。一張羅を着ていった。稽古場での演出担当の人の演出のやり方は本当に勉強になる。自分のイメージを相手に伝える方法としてこれほど洗練された能力はほかにないのではないか。棋士の将棋の駒を持つ手つきが優美なのと似ている。それは本質ではないのかもしれない。しかし将棋の駒とちがって演劇の駒はパフォーマンスを変化させる生身なので、その変化をコントロール下において最大のパフォーマンスを引き出すことが重要になってくる。すぐれた演出家はおそらくその手並みが人並み優れて秀でているのだと思う。
この日は稽古後にまいばすけっと併設のオリジン弁当で晩御飯を買って帰る。友人から借りた『切り裂かないけど攫いはするジャック』を見る。舞台俳優のテンポは早く、とても早口に感じられる。観客に情報を伝達する素子としての能力が高い。本で言うと読みやすくてきれいな文字というところだ。おそらくそれも本質ではないのかもしれないが、それでも重要な部分なのだろう。
もっといろいろやってみる、のいろいろについて、自分の考えつくことの範囲を超えようとするいろいろを、こういう何もしていないときに考えつけるように、ぼーっと考える時間は重要なのだと思う。そうやって自分に与えられた役について考えているとき、俳優として演劇に向き合っているという感じがある。


2026/01/26 今日 5720
朝から出社。行きの電車内で初場所優勝の行方をハイライト動画で見届ける。熱海富士が心底から悔しそうな顔をしていて、この人は嬉しそうなときには本当に嬉しそうだし、役者だなと思った。それにしても安青錦(まだGoogle変換では変換できない)は、横綱ばりの力強さで、絶対に頭を上げないブルドーザーのようだ。ごく近い距離で既視感があると思ったら切り裂かないジャックで角田さんが演じた老人の姿勢そのままだ。ひとつの舞台上で事がふたつ起こることの面白さというのはじつは映像作品にはできない表現で、うまく内容にもハマっていて”見つけた”感がある良い場面だった。
出社して端末を立ち上げたところ、昔のやらかしという名の面倒事が持ち上がって、前週からのタスクの積み残し対応を今週の自分が引き受ける月曜のダルさが霞む。それでもバスケしたさに昼には在宅に切り替える。キャンセル待ちになっていた新サークルの定員が割れたのでバスケに参加できることになる。意気揚々として面倒事の対処・対応文を考える。パートナーとなる担当者が両サイドともに良い人なので、いざとなれば自分がスケープゴートになりますよという前向きさで事に当たれる。こういう気持ちで働くのはとても気がラクだ。最悪自分が泥を被ればいいだけと思っていたら粛々と進めていくことに何の気兼ねもない。定時すこし過ぎに退勤。バスケに出かける。


20260123

日記709

サバイバー

2026/01/21 一昨日 7751
17時過ぎまでプロパガンダにいて、荷物を置くため一旦自宅に帰る。大相撲を結びまで見て、FEVERまでGEZANのライブを見に行く。DOGO、the hatchのパフォーマンスを見たあと、本命のGEZANになる。前の方をキープするために2時間以上立ちっぱなしになったので腰が痛くなってきた。DOGOの演奏は若さからくる生硬さ・眼差しの強さ以外に見るもののない内容でとくに感心しなかったが、マヒトゥ・ザ・ピーポーは徳を積むためなのか、MCでわりと好意的に彼らに言及していた。「若い時にも自分たちにもあった”違和感”を全身にまとっていてなつかしい」というような内容だったのでおためごかしのない言及だったともいえるラインだが。GEZANのライブパフォーマンスは力強くシリアスなもので、研ぎ澄まされた集中力を立ち上らせていたが、そのぶん余白がないということもいえる。余白が一切ないことによる張り詰めたものが特長でもあるような声なので、これはこれでいいというかこれしかないという迫り方になっている。ただ俺はYDOのたわみと楽しみのほうを音楽として評価する。ライブハウスでのパフォーマンスに触れることが目的でもあったので、向こう側でダイブしているのを見れてよかった。ただし見たかったとはいえ実際に見ると自分がそこまで高まっていなかったこともあるのだろうが、危険という感性が前面に出て結構引いてしまった。自分がライブハウスに馴染むことはないだろうということがはっきり知れた。呻いたりほとばしったりをろくにしないまま過ごしていくのかと思うと、すこしうめき声が漏れた。夜、リビングで大声を出さないでくれと家人に怒られたのですごすごと寝室に引き上げて寝る。翌朝の電車移動中にもおとなしくしていることの後ろ暗い気持ちを引きずることになった。


2026/01/22 昨日 14408
午前在宅のつもりが突然対面ミーティングを設定されたので、あわてて出かける準備をして電車に乗る。時間ぴったりに到着できたのだが、来週開催のミーティングを今日だと勘違いしていただけだった。どれだけクダを巻こうといざ必要に迫られるようなことがあると、あわててノコノコ出かける以外の選択肢をもたない自分の生活に決定的な不足を感じ、通勤電車内でもいつにもなく不機嫌な気分に支配されていた。しかし、生活に決定的な不足を感じるというのは、そのときどきに読むべき本を見つける絶好機でもあるというTIPSのとおり、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』などにかまけている場合ではないと、「海外文学」でインターネット検索をして、まだ読んでいない読むべき作家のリストを作った。ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』、セリーヌの『夜の果てへの旅』『なしくずしの死』、フォークナーの『怒りと響き』『アブサロム、アブサロム!』『八月の光、』マッカラーズの『心は孤独な狩人』、フォースターの『ハワーズ・エンド』、ゼーバルトの『アウステルリッツ』。すこし考えて、その中からフォークナーをえらぶ。kindleで読めるのは『八月の光』だけだったので光文社新訳というところに引っかかったが読み始めることにした。読み始めてすぐにこの作品は当たりで、ちゃんと今読むべき小説だということがわかった。文章の一文一文の連なり、句点で分割される通常の一連とはべつの切れ目が存在していて、そうすると文章のひとかたまりが一文やひとつのパラグラフを横断することになる。流れが水面上と水面下でべつに存在しているということがあきらかになるリズムで、まさにパラリズム(パラレリズムではない)だと思った。(いま検索したら言いたかったのは「ポリリズム」だった)。それを表現するためのフォークナー独自の表記法がかなりの効果を発揮している。肉体の声と心の声はしばしば一致しないが、めいめい勝手に進んでいくなかで同期する地点がある。それは内的外的な必然性にある程度左右されるが、たまたまという余剰部もあり、そのたまたま具合が絶妙で心地良い。リズムそのものもまるでリズムを感じさせないぐらい洗練されている。それこそパラレリズムのような技法も駆使されているということなのだが、全体的な一章の流れが詩文のような散文になっている。
仕事の用事で高輪ゲートウェイから新豊洲まで移動する。用事を済ませてから18時からのリモート打ち合わせまでに帰れなかったので豊洲のスタバで打ち合わせに参加する。傍観者でいいと聞いていたのにもかかわらず、二、三度発話を求められたが、よく聞こえないふりをして無視した。マイクをオンにするにはBGMがスタバ過ぎる。19時すぎまで残業になり、有楽町線、半蔵門線、千代田線、小田急線を乗り継ぎ、『八月の光』を読みながら帰宅。セブンで買ったエリックサウス監修のビリヤニを食べる。youtubeで小籔ととろサーモン村田が品川〜三軒茶屋まで歩く動画を見ていると、家人が夜の散歩を提案してきたのでよろこんで乗る。ドラマ撮影らしき現場に出くわしながら、行き先を決めないで30分程度歩くということで足の向くまま梅ヶ丘まで歩を進めた。途中で「今度行きたい」となる店を探しながら歩くという裏テーマあり。いくつかその候補を発見したのだが、これという決め手には欠けていて今思い返そうとしてもひとつも浮かばない。(すこしかんがえて)東京餃子楼のランチが600円でライス大盛り無料という破格だったのを思い出した。それからQUINTETというカフェバー。家人が絶対にすぐトイレに行きたいと言い出し、なんと帰りは電車に乗って帰った。東京の夜の散歩というのはこういう融通も効く。もちろん酒を飲みながら歩いてもいい。今回は飲まずに歩いたが。


2026/01/23 今日 
小さい立ち飲み居酒屋で飲んでいてトム・ブラウンみちおに声をかける。どうやって飲み屋を立ち上げてそれを誰かに売り抜けるかという話をする。サクラを毎日150人ほど用意して最初の3ヶ月で繁盛を演出すればいいんだと得々と話す。そういう裏技があるというのをアピールしたがったのだと思うがどうやってそんな人数を集めるのかについて策があるわけではなかった。
起きてから10分ほど夢の内容を反芻しているうちにあやうく二度寝しそうになり飛び起きる。朝から出社。返すべきメールを返し、確認するべきことを確認してから持ってきたキーボードを駆使してスマホのkindleで『八月の光』を読む。その後持ってきたキーボードを駆使して日記を書き、お昼の時間になったので在宅に切り替えるために帰宅することにする。このやり方を続けられるかぎり、ポータブルキーボードの購入理由が光っていく。有意義な時間の創出を考えると17000円は安い。ロジクールのMX Keys MiniとCosense(業務上のネットワークから分離するためスマホ(Xperia1Ⅵ)で起動)。(ここまでがAMのうちに会社で書いた内容)
下北のぶっ豚で小ラーメンを食べる。帰宅後にヘム鉄とプロテイン、クレアチンを摂る。呪術廻戦の51話を見る。「葦をふくむ」という呪術廻戦のなかでも目立って陰鬱な回だが、ED曲が絶妙にマッチしていてつい笑ってしまった。双子の片割れが残した遺言の効力というものを考えると正当化まではできないものの妥当かなと思える。ここで「家」を壊すというのは不当に自分たちを押さえつけてきた鎖を壊すということでもあるから、そうしないままでいることにはむしろ整合性がない。一生懸命訓練したその力を個人を抑圧する体制の側から無反省に使うのならば、ごと破壊されても文句の言い様がないのではないか。それでも破壊する方を正当化することはできないが。ただし、死に追いやられるということが起きたとき、死にながら呪うぐらいのことはあってもいい。それが直接的に実現するとしたらやはり正当化はできないが。
昼寝をしてから大相撲を見る。優勝争いの行方が定まってくる十三日目は相当面白い。ひそかに期待していた阿炎が熱海富士に敗れて残念だった。結びで豊昇龍を破った青錦大関の強さはやはり本物だ。遠慮会釈のない集中力がある。愚直という感じで恐ろしいのだが、大相撲の土俵にマッチしている。
お昼の時間に家人が途中で帰ってきて、ばらの花束を手渡してくれるイベントがあった。黄色いばらで、その色がその色にふさわしい気分を作ってくれた。通常普通通りにこの日を迎えられたことの幸運を思いつつ、へたな自撮りで記念写真を撮った。
結びの一番が終わってから一張羅に着替えてスタバに出かける。『失われた時を求めて』を読む。社交場での会話が続いている。プルーストが鑑賞した絵が話題にあがって(登場人物の絵に対する評価を小説世界の話題に流用して)いるのが面白いと思う。しかしこちらは『八月の光』とはちがって理解できているとはいいがたい。やはり小説を読むときの快感として「書かれてあることが理解できる」というのは大きい。フォークナーはプルーストよりも親切ということなのか、表現するものを明瞭に表現したいという感じがより強いということなのか、まだ判断するには材料が足りていないが、プルースト(『失われた時を求めて』ゲルマントのほうⅢ)は読みづらく、フォークナー(『八月の光』序盤)は読みやすい。貴族が爵位にこだわるという部分がとくに理解しにくいように思う。会話において知性による傾斜と同時に身分による傾斜があり、それらが絡まり合いながら発言力の多寡を決めているという複雑さのなかでゆっくり進行していくのだが、その複雑さと遅々とした歩みに翻弄され焦らされてつい適当に読み飛ばしているような感じだ。『八月の光』の2章まで読んだ。語りの移動がとにかく劇的でまったく自然ではないところが注目に値する。読者が読みながら暗黙のうちに予想する流れをそのままくだっていくので、そのことがとりわけ作為的に感じられる。自然であるということはいちいちそれをそう作ろうとすることで無用な作為にあたると自分は思うが、まさにそのことを裏打ちするような、作為であることを一切ごまかさないような文章の流れだ。書かれてある内容を理解できることの肯定と、自分がそのように作られたものを自然物よりも上位におく価値観を持っていることの肯定の両輪があるようで安定してぐいぐい進む推進力に充ちている。その出来のよさにここまで率直に感動できる小説と作家がいたことをあらたに発見できて、概念としての文学への感謝というか借りというかが積み上がった。まだ積めるとは。という驚きとともに。今後は書くものにも影響を受けそうだ。

20260121

日記708

寒空と寒梅(くんくんとおんおん)

2026/01/20 昨日 17888
朝から出社。グループに分かれての意見交換会をする。時間を忘れて取り組む仕事内容についてお互いに言い合うという内容だったのだが、自分が話す番になったとき、正直言ってそんなことは起こらないという趣旨の発言をした。組織はたびたび、コミュニケーション活性化の題目のもと、間違った前提で話すことを要求してくる。給料をもらうというのはいちいちそれに楯突くようなことをしないということも含まれているはずなので、自分の行動はサラリーマンとして非合理なものだといえる。サラリーマンとして会社のなかで呼吸するということが心底どうでもいい気分になってきたので、一対一の対人では控えるが、こういう多人数を相手にした意見表明の場ではできるだけそれを小出しにしていくようにしていきたいと思っている。今回のもその一貫で、当然とくに賛意は得られなかったが、それでも前提を無視するような物言いをしたときには特有の小気味よさがあった。いまの職場には居心地のよさがあり、ラクしてお金をもらえる環境なので辞めたいとは思わないが、それはそれとして「和をみだす人」として排除されてもかまわないと思っている。しかし後先を考えない投げやりな態度だ。疲れているからなのか。バスケを再開してから体力は充実している感じがあるので、気力の部分の疲れなのか。あるいは鬱陶しいことに対する反発心を発揮できるだけ気力が充実しているということか。いずれにしても自分の頭で考えることに反しないことではあるので好きにやらせておこう。直接向かい合う人に嫌な思いをさせないようにするということだけ意識しておけばまあ上等だ。嫌な思いをさせてくるダルいやつにはそのかぎりではないが。そういうやつはバートルビー流のやり方で撃退してやる。
昼には在宅勤務に切り替える。大相撲を見て、ニーチェアで昼寝をして、大相撲を見る。疲労なしの状態でバスケにいく。考え事をしながら電車に乗っていたら過って狛江まできてしまい、喜多見に引き返す。ハローサイクリングで体育館まで移動。自転車移動での風が寒すぎて、冬の力強さを実感させられた。しっかりめに動的ストレッチをしてからバスケをする。シュートタッチの面で安定感のあるボールの放り方が身についてきたような気がする。安定して飛ぶようになってから精度について考えるという順が正しいようで、自分でもそう思うので、まずはこの感覚と、安定して飛ばすシュートフォームを固めていきたい。足の疲労がないので元気いっぱいでプレーできる。こういう日にこそ風神とやりたかったのでが残念ながらこの日は不参加だった。自分としては疲労で精彩を欠く日と段違いのパフォーマンスが出ているという感じがあるのだが、動画を見返すと、自分で絶不調と感じる日の動画とそこまでわかりやすい差がなかった。しかし、無理めなカットインに二度チャレンジする(二度ともシュート失敗)など、すくなくとも気持ちの面ではアグレッシブさがあったのは違いだった。寒いなか自転車で駅まで戻る。セブンで晩御飯を買って帰る。ボロネーゼソースの生パスタを買った。自分にとってコンビニでこういう商品を買うのは明確なぜいたくになる。Netflixで『呪術廻戦』の50話と『地獄楽』の1話を見る。地獄と名のつく作品にしては設定が甘たるくてやってられないと思った。芥川の『地獄変』を読んだときにも同じような感想を持ったので、自分は地獄という言葉になにか特別な期待をかけているのかもしれない。


2026/01/21 今日 2798
仕事関連の夢、バスケ関連の夢を見た。ちゃんと覚えていないが両者が綯い交ぜになった夢だったかもしれない。面倒事が降り掛かってきて嫌な気持ちのなかに若干ワクワクする気持ちが混じっているような気分だけをなんとなく覚えている。朝から在宅勤務。まずは洗濯機を回す。頼まれ事など最低限やるべき仕事をやっているとお昼になった。この日はGEZANのライブを見に行くために午後休をとっていたので昼過ぎに退勤。プロパガンダという入ったことのなかった店に入って昼食をとり、『失われた時を求めて』と『ニッケルボーイズ』を読む。失われた時を求めては、依然として社交界における文化受容・教養についてのひけらかし合戦をしていて、それ自体はあまり面白いものではないがその描写をたっぷりするということにすこし興味を惹かれる。ニッケルボーイズは、ニッケルを出たあとNYで生活するエルウッドを描いたあとで、ニッケルからの抜け出し方を描くという順序になっていてサスペンス的な引きがある。それ自体すばらしい題目であるキング牧師のメッセージについて、その具体的な実践を、エルウッド自身が置かれた境遇に照らして描いていく。相手を信頼するというところに、概念上のものではない、実際の身の危険をともなう自分自身との闘いがある。信頼して身を投げ出すこと。そういうとまた概念上の出来事に戻っていくが、その営みを実際ごととして描写するところにこの小説の力がある。
読書のあと日記を書く。きのこクリームソースのパスタを食べ終わったぐらいのタイミングで家人から業務用端末に着信があった旨のラインがあった。せっかくの休みに仕事の要件についてなんだろうと考えさせられる時間が差し込まれ、気分が最悪になった。最悪の出来事というわけではないがせっかくとった休みの自由が侵されたというロスの量を考えると最悪だといえる。家人も親切心から教えてくれたのだろうから責められないし、持って行き場もなくしばらく嫌な気持ちをぐるぐるさせることになった。しかし考えれば考えるほど、着信のお報せをわざわざしてくれるというのは「休み時間に対する意識のちがい」に思い至らざるを得ない(仕事に対する意識のちがいではないのでくれぐれも注意されたい)。ひょっとすると自分がその報せを受け取ったらあわてて帰って対応すると思ったのだろうか。自分は退勤後には本当の緊急時以外はどんな対応もしない。そして本当の緊急時には業務用端末ではなく自分のスマホが鳴ると思っている。こちらについては仕事に対する意識のちがいだ。なんとかしないとやばいことは結局誰かがなんとかする。


20260119

日記707

今風

2026/01/17 一昨日 19969
朝起きて公園にシュートを打ちに行く。足の疲労があってあまり自由が効かない感じがあったのと、ミニバス年代の子供ふたりとおじさんひとりとカップルふたり組がそれぞれ練習していてそれなりに混雑していたのでのびのびやれるという感じではなかったが、1時間半ぐらいアウトサイドのシュートを打ったりステップワークの練習をする。足の疲労のせいで踏ん張りがきかず、全力でやろうという気持ちとは裏腹に抜いて打っているような動きになってしまった。とくに子どもたちには格好つけてやっているように見られたくないので一生懸命をアピールしたりしたが、どこに向けて何をアピールしているんだと俯瞰する自分はちょっと笑っていた。
帰宅してシャワーを浴びたり昼食をとったり準備をしてから演劇の稽古に出かける。ミザンスをつける立ち稽古が続いている。最初のうちはセリフの言い方など俳優任せにしていろいろ試していいよという時間をとるようで、俳優自身が演出に自分の引き出しを披露する回という毛色がつよいよう感じられる。用意していくのも用意していかないのも自由というほど思ったより大幅に裁量を与えられるので用意してきている人が多い印象だった。自分は経験が少ないのにもかかわらずほとんどなにも用意していかず徒手空拳で現場にきただけの人という少数派(もしかするとただひとり?)になった。お守りのように本を持ってそこから目を離して一言だって口にできないような様子全開で、相手の子供役の俳優によけいな心配をかけることになった。しかしアクションを決める場面はいろいろと悩んでいる様子を中から見れて面白かった。悩む時間は他のシーンと比べてもひときわ多く、自分のタッパをどうにか活かしてくれようとしているのだと解釈して嬉しくもあった。
18時半すぎに稽古が終わってから一旦帰宅して荷物を置き、家人とご飯を食べにバーミヤンに出かける。わりと家に近いバーミヤンなのだが行くのは初めてだった。クーポンがお得という友人の発言を思い出して行ってみることにした。当の友人もちょうど下北で観劇終わりだったということで合流し、わいわいと飲み食いする。インターネッ島探検者を見てきたらしい。音楽ライブの話から、スタジオに入って演奏する遊びをしたいという話につながり、スタジオを予約しようということになった。自分は楽器演奏に対して気持ちがないのであまり気乗りしなかったが、メイクノイズ・モアラウダーというような音楽未満の音出し回であれば興味がある。プレーヤーと観客の区分けについて自分は懐疑的というか、その線引きを意図的に無視しようとするところがある。対して友人Nはその区分にこだわるタイプだったと記憶していたのだが、いつの間にかNが自分自身をプレーヤーにシンパシーをおぼえる側にポジションを変えていたのが驚きだった。いっしょだと意識しようとせずにただいっしょだと見なしているというのは、画された一線を無視する度合いとしてより大きいので、そのまま同じ目線で話せばよかったのだが、何かをしてしないまま何かをしているというスタンスで話し出そうとしていることに気がつき、振り返って思えば余計な、いらぬケチをつけてしまった。だれかの表現に対する批判を自分の表現だと勘違いしないかぎり、自分を表現者だと認識するのはそれ自体わるいことではないのでもっと自由に泳がせてやるべきだった。
しかしそもそも表現者というのは表現活動をしない人に比べてえらいわけでもなんでもないので、そこを履き違えないようにしてほしい。なんらかの遠慮から表現活動をしない人に共通するよくある誤認として、表現活動をするのは特別な人なのだという思い違いがある。表現者の側でもその思い違いを有効活用しようとしたり、特別感を演出することで自分を売りだそうとする動きはいちいち取り立てるほどのものではなくごく普通に見られる光景だが、表現者だからその人が特別だということはない。なんらかの卓越した表現を生み出す人が特別な表現者だということはいえるが、その人の特別さは表現に依存しない。顕在するか潜在するかによって他者視点からの存在の有無は変わってくるが、その存在の有無は特別さとは関係がない。つまりこういうことだ。
1.特別ではなくても表現はできる(表現しているからといって特別ではない)
2.特別だったとしても表現をしないことはありえる(表現していないから特別ではないということにはならない)
3.特別ではなく表現していないということもありえる(特別さも、表現も、特別な表現も一切不要と見なす観点はたくさん存在している)
4.特別でなおかつ表現するというのは、(当人だけでなく他人にとっての)僥倖ともなる
5.他人から見て存在しない僥倖は(どこかに)ある

1〜5のうち、われわれにとってもっとも重要なのは1だ。逆に4や5はその見かけほど重要ではない。たとえば、シェイクスピアは特別視されているが、それでもシェイクスピア本人が特別視したような特別さで特別視されているわけではないかもしれない。どこまで行っても特別さは担保されないし、かといって十分に慎重(軽率?)になれば、特別さは「一旦そのように扱う」というような記号的表現に落ち着き、語頭あるいは語尾に「S」を付けておこうという処置と変わらない。


2026/01/18 昨日 8397
数多くの夢を見た。確実に覚えていられるだけの存在感があり、実際当日朝までは覚えていたのだが、今、それが嘘だったかのように思い出せない。せっかくほぼ毎日日記を書いているのだから、今後こういう取りこぼしは厳に戒めたい。意地になって思い出そうとして概要を思い出せた。きれいな円を描く秘訣、だ。ハン(漢字だったが漢字の形が思い出せない)と言って始点となる円弧と、ハン(なぜか始点と同じ漢字を用いる)という終点となる円弧を先に描いて、あとからそれらをつなげるようにするのがコツということだった。始点のハンは日の出を表していて、突き出た太陽のかたちをイメージすればよいということで、終点のハンは日没を表していて、残された太陽の形をイメージすればよいということだった。それだけのことを教えられ、悟ったような気持ちになったのだったが、そもそも円を描くというのは自分個人が持っている問題の解決を比喩的に表現したもので、その問題が何だったのかが思い出せない。これで大丈夫になったという安心感が印象的で悟った快感といっしょになったのを覚えている。その問題を覚えていられなかったという事実が悪いものになるほどには良い夢だった。
フィジカルを増強したいという頭でっかちな欲望に突き動かされ、起き抜けにバーピージャンプをしたところ、あっという間にあっけなく背中の筋を痛める。家人に湿布を貼ってもらって事なきを得た。昼食におじやを食べてから稽古に向かう。もっと自由に楽しんでやれたらいいのに、借りてきたロボのようにガチガチの発声しかできずに情けない気持ちになった。家人に新代田まで出てきてもらってバサノヴァというグリーンカレーのラーメンを食べる。帰り道にシャルドネの氷結無糖を飲みながら帰る。たんなるマスカット味でシャルドネ味を感じないがそれはそれでまあ美味かった。稽古で楽しみたいと思いつつもやはりストレスを受けているようで、むしろ週末に酒を飲んでしまっている。それでもいいから食い下がりたい。人と比べてもしょうがない。自分にできるだけのことを精一杯やる。そんなに多くないんだからセリフもきっちり覚えていく。演出の人から「かっこいいっすね。男前っすね」という声がけをしてもらい、否定も肯定もできず「え? あ、うーん」という要領を得ない生返事が出た。否定するのも冗談を真に受けるようで情けないし、肯定するほどの振りかぶったジョークはまだ出せないしで、出口なし状態になったのだった。どう反応するかを見られているというのは意識が強すぎるだろうか。
できないことだらけだが面白い。背中の筋や、脳の筋を回復するためにできるだけすぐ寝る。23時には寝た。


2026/01/19 今日 7545
午前出社。朝から移動するのは面倒だなとは思うが嫌だという気持ちはまったくない。やるべきことがあるとはいえ多寡が知れているし、頭を空っぽにして移動する先があるというのは気がラクだ。午後からは在宅にしようと決めていたので丸一日仕事だけに時間をとられるわけではないというのが識閾下にあったのも大きい。午前中に自分よりあとに入ってきた同僚の若い人と話をする。部署が変わるのがほぼ確定ということで、これは黄色信号、いやなニュースだ。彼が結構な仕事量を持ってくれているのでラクができているというのがあるので、4月からは忙しくなるかもしれない。そもそも4月から自分がそこにいるのかも不透明で、3月で契約終了ということも十分考えられる。いずれにしても身の振り方を考えないといけない。どうなるかまだわからないが、良い機会なので全然違うことをやってみてもいいかもしれない。
昼から在宅にする。帰りの電車内で『ニッケルボーイズ』を読む。家人からカツ丼のリクエストがあったのでカツ丼と自分用に親子丼と焼きおにぎりをローソンで買って帰る。食べてからちょっとだけ身体を動かし、大相撲の幕下の取り組みをすこし見て昼寝をする。定時すぎ、幕内の取り組みを見届けてから、出すべきメールを出して退勤。スタバに移動する。日記を書く。20時までかかった。最近、消費生活の日記を見ている。やっぱり全然知らない生活を見るのは面白い。そのなかでもとくに目を引く生活というのはあってそれも面白い。

20260116

日記706

ありちゃん

2026/01/15 昨日 19012
朝6時半起きで7時すぎの電車に乗る。新宿、御茶ノ水、錦糸町、君津で乗り換えて館山を越えたところまで。遠い昔の夏の日に車でうみほたるを抜けて館山まで遊びに来たことを思い出した。当時撮った集合写真を見るとわざとのようにみんなして夕日を浴びており、こうなる未来を予期していたかのような笑顔をたたえていたのが不気味でさえある。海に入ってすぐコンタクトレンズを無くしてしまい、近い度数のワンデーを持っていた子にひとつ分けてもらったことを思い出した。遠慮して辞去すべきところ、食い気味に感謝の言葉をかけたせいですこし面食らった顔をしていたということが今さら見えてきた。当時は絵に描いたような青春檜舞台に舞い上がりテンパって、考えるべきことをなにひとつ考えられていなかった。さらに五年後の自分に言わせたら今もまるっきり同じようなものなのだろう。それでもあの日があってよかったというのは何をどうひっくり返しても完全にそうなので、そういう一日を持てたことは単純に幸運だった。仕事の用事を済ませて来た道をまっすぐ引き返す。今回、おじさん四人が小さな蕎麦屋に入り、小さなテーブルで思い思いの注文をして蕎麦をすする不思議な時間にもセピア色の加工をすれば美しく思える日がくるのかもしれない。とにかくバスケに行きたい一心で、一時間に一本の電車に間に合うため「所用があるので駅まで走ります」と見栄を切って走り出したのが今回の南千葉訪問のハイライトになった。
そんなこんなで何とかバスケの時間に10分遅刻で参加できた。例の風神が久しぶりに参戦していて腕が鳴ったのだが、例によって疲労が全快しておらず、けちょんけちょんにやられた。相手が半分の力しか出していないのに歯が立たないというのは口惜しいものだ。もしかすると手合い違いで、悔しがるのもお門違いなのかもしれないが、口惜しいものは口惜しい。踊るようなステップワークに翻弄される。シュートタッチは正確無比で、一歩の歩幅が自分の1.5倍はある。運動能力についてものが違う。動画を撮影してあとから見たが、本当に華があって美しい。どんな状況でも余裕を失わずつねに先手先手を打ってくる。頭の回転も相当なものだ。
帰宅してからもしばしば奇声をあげるほどには悔しさが尾を引き、まあまあ、こういうのは溜め込まずに発散するほうがいいんですと、かみしもを切って訳知り顔をしては奇声をあげる。悔しい気持ちをガソリンに筋トレができた。勝利へ近づくために何が圧倒的に足りていないかといって筋力以外には考えられない。頭の回転、ボールハンドリング、メンタルと視野の広さ、ばね、シュートフォームの安定、クイックネス、他にも自分では気づいていない何か、と負けているところはいろいろだが、もっとも改善が見込めて簡単に差を詰められるのは筋力以外にない。まあごちゃごちゃ言ってみても結局はバスケがうまくてちょっと爽やかなだけで、服のセンスはまあまあだったけど、おそらく文学的な素養はないだろうし本域で悔しがるような相手ではない。しかしコートの上ではそうも言っていられない。ファッションセンスや文学的な素養などは屁の突っ張りにもならないからだ。コート上でこてんぱんにやられたときにやれるのは、白旗を上げて尻尾を振るか、こちらのほうが活躍して、あるいは最悪自分が活躍しないでもチームを勝たせるかしかない。やられたときにスカした態度を取るのが格好悪くて嫌だから口惜しさを全身で表わすようにしているのだが、実力が違いすぎてあの人はなんであんなに悔しがれるのだろう状態になっていないかが気になる。気になるというか、もし俺じゃなかったら、俺の主観ではなく客観を用いたら完全にその状態だ。それでもスカした態度を取るよりはマシだと信じているが、これ以上タコられるとそれも揺るぎかねない。この歯噛みをばねにしてもっともっと頑張りたい。悔しくて寝られないかと思ったが、そんなこともなくすんなり寝れた。旅の疲れもあったからだろう。実際、移動時間は7時間ぐらいあったので立派な日帰り旅行だ。千葉の南方への広がりを舐めていた。
そういえばバスケから帰ったあと、ABEMAでMAD5を見た。狂気を設定してそのパラメータをやりくりしているメンバーなので、ふとしたときまともに戻ってしまう瞬間が面白い。


2026/01/16 今日 7353
眠いので午前在宅にする。結果山手線の停電に巻き込まれずに済んだ。午前中は仕事をしたりストレッチをしたり。午後から出社する。ぶっ豚で小ラーメンを食べる。こんな食事を摂っていては駄目なのではと思わないでもなかったが、食事量を減らす方向は違う、その分も運動量を増やせばいいだけだと思い直して、野菜マシマシアブラマシ麺やわらかめをしっかり食べることにする。チャーシューが美味しい。生姜チューブでの味変ができるのもいい感じ。
たらたらしていたらミーティングに遅れそうになり出社即ミーティングに参加。その後、昨日今日で貯めたタスクをずんずん消化する。すべて消化しきらないうちに定時になり、小一時間の残業になる。それでも今週やろうと見込んでいただけの仕事はこなせず翌週持ち越しになる。しかし精神衛生上これ以上の残業は不可能と判断し、電車に乗って自分のバスケプレー動画見ながら帰る。自分自身のプレー動画というのはどんな動画よりも見ていられる。ひとつひとつプレーの功過を見直すというのも面白いし、良いプレーがあると最低3回は繰り返して見るのだが、それ以外にもあるプレーの一連を見て「このとき何を考えてプレーしていたか」というのをトレースすることは楽しいだけではなく実際有用だと思う。もっと判断を早められた、べつの選択肢を取るべきだったというのは動画を見た感想としてもちろんあるのだが、意外なのはそう判断したりそのプレーを選択した理由が自分には”わかる”ことだ。これはごく近い過去の自分なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、考えてやっていることを自分の目で見て、ある選択・行動に対する結果があり、それを評価するという流れには、それ特有の視野の広がりがあるように感じられる。たとえば文章を書いたらそれを読み返すというのがほとんどセットになっているものだと思うし、場合によっては書くよりも読み返すのほうが楽しいポイントになることも普通にあると思うが、それに近い感覚がある。しかもバスケの場合はプレーする楽しさが独立してあるので、別種の楽しさが付け足されてほとんど倍楽しいということになる。なにかのミスをしてしまったとき、口惜しがったあと下を向いたまま歩かずにすぐ前を向いて走るところはわれながら良い姿勢だと思える。バスケをしていると言葉を交わさないでも相手がどんなヤツなのかわかるということがあるのだが、それでいう自分のイメージが自分のセルフイメージにそぐっているのでうまく演れているなという手応えがある。こいつ楽しそうだな、本当にバスケが好きなんだな、という感じである。実際、楽しい。バスケをするのが好きだ。
帰宅したあと荷物を置き、上着を一張羅に着替えて下北に出る。スタバで日記を書く。

20260114

日記705

天祐

2026/01/12 一昨日 33279
中目黒のスタバに友人Nが現れる。位置情報を送っていたので考えられることのはずなのに、スターバックスコーヒーに友人Nという取り合わせにはギャップがあり、いるはずのない人がいることに驚かされた。その後駅前に戻る途中で友人Bを発見し合流。駅前のコインロッカーにバスケの荷物を置こうと思ったのだが、なんとすべて荷物で埋まっていて思惑が外れた。中目黒駅のコインロッカー数は駅の規模に比して雀の涙程度しかないので荷物を多く持って中目黒に行く向きは注意されたい。悪態をついていても仕方ないのでまずは昼食にしようということでサイゼリヤに行く。たまねぎのズッパがいい味を出している。そのほかほうれん草のソテー、たらこパスタ、ドルチェにティラミスを食べ、コース料理然とした充実感で(たぶん)1100円ぐらいに収まった。生活圏内にサイゼリヤがないのでプレゼンスが上がっている。
駅前に戻るとコインロッカーが空いていたので荷物を滑り込ます。まずは祐天寺の駅を目指して歩く。祐天寺エリアに足を踏み入れるのは初めてだったが、都心にあり渋谷に至近の街のなかでは、商店街のなかに個人商店が多く残っていて風情を感じさせた。人気エリアになるのも肯ける。おそらくは商工会議所が主体となって、昔、山路勝孝なる人物がそれまで名物のなかった中目黒の名物としてタケノコを定着させたということを小学生の絵を使って喧伝していた。山路の一派が地権者として根を張っているということなのだろう。祐天寺の境内まで歩き、駅前に戻って、祐天寺の逆側の通りを通って、学芸大前駅前まで足を伸ばす。友人Bが聞きかじった情報で「学芸大はない」という主張をしていた。大学があろうとなかろうとどうでもいいし聞いたことあるようなないような、聞いたことはあるとは思うけどそれは駅名として聞いていただけか、と思っていたのだが、現存するあらゆる大学の”権威”である友人Nは「学芸大は存在するはず」と真っ向から反論。だからないんだってとその聞き分けのなさを鼻で笑い、冷たくあしらうB。AIに頼るまでもなくインターネット検索で結果は「ある」と出た。ただし別の場所に移設されているとのこと。これだけなら両者の言い分として五分で、明確な勝負はつかなかったといえるのだが、「学芸大そのものが明治か昭和にはもう廃止になっている」と言い切っていたB。あるものをないと言うのは、ないものをあるというよりも罪が深い。二度と学芸大の有無について口を開かないでほしい。
その後、マツヤ電気という今どきめずらしい全国チェーンではない電気屋を冷やかし、日が落ちた商店街の雰囲気をすこしだけ味わって解散する。友人ふたりは渋谷まで、自分は中目黒で荷物を回収してバスケのため体育館へ行く。去年お世話になって今年もお世話になるバスケチームに参加させてもらう。ひとつひとつのナイスプレーの盛り上げ方や、対外試合を想定した強度を保っていることなど、5年以上続いている老舗のチームだけあって環境として優れている。いつもの2時間ではなく3時間という活動時間だったため終わる頃には疲労困憊でへろへろになった。そういうとき自分は怪我をしないように強度を下げてしまう。それで大きな怪我をしていないわけだし功罪半ばというより明確に功寄りだとは思うが、プレー中に怪我をする人を見ると気の毒だと思いつつも忸怩たるものがないではない。レンタサイクルで帰ろうか電車で帰ろうかの2択でミスって冴えない帰り道になってしまった。良い環境だけに自分の居場所を確保する意味でももっと交流したいと思うのだが、帰り道では疲れすぎていて自分から口を開けず。彼らが年上だから喋りづらいというのもいつまでもそんなことを言っている場合ではない。


2026/01/13 昨日 17430
朝から出社。疲れのなか気力を振り絞って出社する。先週末業務端末をオフィスのロッカーに置いてきたので是非もなく。ただ先週末の帰りがけに予想していたとおり、そうでもしないと在宅勤務を決め込んでいたので作戦通りということになった。タスクをこなして昼から在宅に切り替える。渋谷でそばとカツ丼を食べる。いつ行ってもこの店は味が落ちるなと思わさせられるのだが、なぜかついそこで昼食をとってしまうことが多い。マークシティ近くの店なのだが、利点としては食器下げ口がなく、食い終わってそのまま退店するときに江戸っ子風を吹かせられることだ。下北で作ってもらった名刺の受け取りをする。見た目はイメージ通りの仕上がりで満足だが、次に印刷するときにはマット紙がいいかもしれないと思った。いずれにしても今度から人に渡せる名刺ができた。
帰宅してからはとにかく回復に努め、とにかく横になる。大相撲を見てから退勤し狛江に出かける。二日連続だとやはり足が動かず、すねの痛みが発生する。集中を欠いて思うようなプレーができず、アウトサイドシュートも3本打って成功がゼロに終わった。筋力をつけたい。ぼーっとインスタを見ているとパフォーマンスアップに「クレアチン」というアミノ酸が良いらしいと知り、ものは試しと切れかけになったソイプロテインとともにAmazonで注文する。これで試しているサプリはビタミン・鉄・カルシウムなどのミネラル以外では、カルニチン、GABAにつづいて3種目になる。運動前のカルニチンは実感としてかなり効く。運動時の空腹を感じなくなった。それまではゼリー飲料を飲まないとやっていられなかったのだが、無しでも2時間は動ける。脂肪を燃やしてエネルギーに変えやすくするということらしいが、ゼリー無しでも動けるというのはそういうことなのだろう。GABAは取り始めてから深い眠りの時間が多くなった。「Mibandが言うには」なので、精度のほどは確かではないが、よく眠れているような実感はなんとなくある。もともと7時間半以上寝るようにしているし寝れている実感はあったが。


2026/01/14 今日 5026
午前在宅にする。急遽入れられた引き継ぎの打ち合わせをもともと入れられていた打ち合わせと勘違いして焦った。しかし腹を括ってリモートで参加するしかない。と思っていたらもうひとりも別件対応のためリモート参加になっていてちょっと安心した。前日に喜多見駅前で買ってきていたミスドのシナモン2種(ホームカットとオールドファッション)を朝食に、冷食チャーハン卵入り納豆和えを昼食にする。午後から出社。行きの電車内で前日のバスケ動画を見る。ひどいプレーが多かったときの動画を見るのは気が重いが、自分のミスったという実感・印象に反して、動画を見るとそこまで悪くないということが多い。というより客観的に見るといちいち頭を抱えたりするような大したことは起こっていないように見える。要するにミスしたときのオーバーリアクションが過ぎるということになるのだが、客観的にはどうあれそのときの主観的には実際それだけの出来事なわけで、ミスしてガッデムとなる反面、シュートが決まったときにめっちゃ嬉しいというのを確保するためにも、あとはミスを引きずらないですぐ感情処理してしまうためにも、自分の場合は声を上げて嘆いてみせたり、おおげさに頭を抱えて上を向いたりすることを止めようとは思わない。ただ今後は客観的にはそこまで大ごとではないからすぐプレーに復帰しろという指令を出すということも付け足すようにしたい。それからドライブで勝負前にパスアウトする先を見つけておく、DFリバウンド時にパスアウト先を見つけておくという1手先の視野確保を心がけたい。準備することでプレーが果敢になる部分はあると思うので、「果敢にプレーしろ」という曖昧な指示を自分に送る前に、実践的な指示、準備しておくことを意識付けること。午後は定例のチーム打ち合わせに参加し、タスク消化して定時退勤。上長からまだタスクを載せられるだけの余裕があると見なされているようで、冷静に考えるとそれはそのとおりなのだが、タスクを足される嫌さからつい反発してしまいそうになる。ただし、自分は仕事を定時内に終わらせるために自分なりに工夫していて、そういうことをせずに漫然と時間を使っている人と”時間”で比較されたくないという思いはある。だからここは冷静に自分のタスク管理を見せればいい。そのために使っている管理表でもある。
下北沢に戻ってスタバに入る。『失われた時を求めて』を読む。社交界の話が長いように感じられる。しかし長いと思って読んでいるとふいに含蓄のある箇所に当たる。議会の発言における狡知を理解できない一般人というのは、SNSをやっている一般人がいかに簡単に流されてしまうかという話そのままだと思った。しかしこうやって書いてみると結構な違いがある。日記を書く。20時半ごろにスタバを出る。明日は仕事で千葉の南に行く予定があり早起きする必要があり、いつにもまして早寝の予定。

20260112

日記704

知っていたけど新しい(景色)

2026/01/10 一昨日 15410
朝起きて公園にシュートを打ちに行く。9時前なのにバスケコートには高校生らしき人たちが6人ほど集まってシュートを打ったり1on1をしたりと盛り上がりを見せていた。30分ほどいっしょになってシュートを打った。彼らが帰っていったあともう30分ほど打つ。足の力を安定してボールを飛ばす力につなげる感覚を身に着けようと意識した。あとてフォームチェックをするために動画を撮った。帰宅してシャワーを浴びてからあらためて出かける準備をする。
2026年に入っての初稽古に参加する。あたらしい髪型にしていったらおしゃれな参加者の人に髪を切りましたかと訊かれたり褒めてもらえたりした。子供みたいに照れくさってまともな返答を何もできず、ええまあなどと無意味な音声を発するのみに留まってしまった。そういうときは最低限「ありがとうございます」だろう。それはさておき、あがってきた脚本の読み合わせをする。自分が作る側になったらと考えると、このクオリティのものをレベルのちがう参加者にも不足なく表現させられるように、しかも見ていて面白いを担保できるようにと作れるのがすごいと思ってわりと心底から尊敬してしまった。作・演出の人を尊敬しすぎても自分の場合はすぐ萎縮に繋がるという頭があるから、あまりリスペクトの念を抱かないようにと意識して臨んでいるのだが、それでも帽子を脱がないわけにはいかない。少なくとも自分にはとてもできない芸当だ。こういう無邪気な比較も、相手からすれば名誉というよりも軽侮にみえるかもしれず、安直なことは言えないが、それでも内心ですごいと思うとき、やはり自分と比べるということは発生する。これはほかの参加者つまり役者陣にも同じことが当てはまって、自分は自分だと思おうとするというのが基本スタンスなのだとしてもついどうしても引っ張られてしまう。本に書かれてある内容に沿うような感情の出し方がスムーズで、つい観客席の位置に立たされて感心させられるということが起こってしまい、そこから自分の番がきて演者の場所に移るとき緊張感が倍加される。
稽古のあと、交流会ということで居酒屋にいく。何度か行ったことのある良い居酒屋なのだが、2階に座敷席があることを初めて知った。さすが役者だと思ったのは、みな話したい話したいで、トークがあっちゃこっちゃ行っても誰もあまり気にしていなかったところだ。でもそれは最初のほうの緊張感があるときに顕著で、終盤にかけては落ち着いてきていたので、緊張感への処し方が、自分や自分の周りのやるやり方とちがうというだけの話かもしれない。自分はと言うと隣や向かいの人の話が聞きたい聞きたいで質問するばかりになってしまった。これは最初から想定していたことなので今さら驚いたり反省したりもしないが。稽古が巻きで終わったので飲み会も18時という早めの時間帯にお開きになる。あまり食べずに飲んでばかりだったので解散後に松屋で晩御飯を食べる。牛めし並みと生野菜サラダ。
帰宅してからちゃんみなのインタビュー動画を見る。彼女がどういう気持ちを大事にして音楽をやっているかという質問に対して、まっすぐに回答する場面にはインタビュアーの人も含めた感情の共鳴・増幅があり、それは画面のこちら側それぞれにも届くものだったと思う。ここには届いた。あとは技術的でもありソウルの部分でもあると思うのだが、「ノートには何をどう書いてもいい。昔の自分はノートを友達にしていた」という発言があり、実際日本語韓国語英語をまじえて自分だけの思い・感情・考えを書いていったというのを聞いて、これはかなり重要なスキルで、なおかつコア形成でもあったんだろうと思う。たとえば「言語化」というと、即他人とのコミュニケーション文脈に自動的に回されることがあると思うが、それ以前の停留地点としての言語利用もあって、その文脈での言語化には見逃せない効用がある。自分のための、自分のためだけの言語利用について知っていくべきだ。そのためには感じるだけではなく、言葉を使うということが重要だ。言葉を使えばそれだけで言葉があいだに入ってくれる。とにかく大事なのはあいだにものを挟むことだ。


2026/01/11 昨日 9906
朝起きて日比谷までスートピア2を見に行く。IMAXで見るための映画館選択で適当なのが日比谷だったので代々原で乗り換えて日比谷まで行くことにした。復習と称してさきに見直していたズートピアの興奮には及ばずだった。哺乳類の外、つまり爬虫類が出てきたことで、その外、つまり魚類・忠類に対する扱いが気になった。線引きの問題が前面にせり出してくるように感じられてそれが未消化のまま事件が展開していったのがサイドブレーキを引かれたまま走る車のようにスピード感の損失になっており、タイミングよくぎりぎりで助かる、抜群のタイミングで助け舟が表れるというところに見ていて絶妙に気がつく速度になってしまっていた。ライブシーンなども、ほらこれで盛り上がれよと押し付けられているようで、内心から湧き上がる熱を呼び起こすようになっていなかった。しかし2があれば3もあるというのはもはやディズニー映画の常識なので、3への布石として見ればある程度納得もできるか。もちろんそういった様式そのものはまったく評価しないが。
メキシコ料理屋でチキントルティーを食べて自宅に帰る。昼からの稽古のため稽古場へ移動する。この日も時間ギリギリになってLUUPを使うことになった。立ち稽古でミザンスをつけるということが始まった。ミザンスというのはフランス語由来の演劇用語で、立ち位置や出はけの位置を確認しながら決めていくことらしい。前日の交流会でミザンスとは? という話題があったばかりだったので進研ゼミの漫画みたいな面白さがすこしあった。自分の役と場面が決まり、ミザンスを付けてもらうのと同時に演出を付けてもらう。すごく基礎的な内容だが、基礎こそが重要だというのはあらゆるスポーツに共通することでもあるのでつねに心に留めそれを、たぶんそれだけでもいいぐらいだと思うのでそれだけを意識していこうと思った。それはどの場所にいて相手と話すのか、相手との距離感はどのぐらいなのか(身体の距離、心の距離、声の距離)を考えるということ、まずその感情になってセリフをそこに乗せるという順番は不可逆であるということ、コンピュータで単純化していえばハード・OS・アプリの順になるということだ。相手役の俳優が自分の目からは小学生には見えないという問題があるが、その目はこれから作り上げていくべきなのだろう。本を手放して話すというとき、つよい恐怖心が生じて一気に汗が吹き出した。あのときは役の人物になるどころではなく「舞台上で恐怖している人」の表現にしか見えなかったにちがいない。セリフを思い出すということにリソースを割かないまでにならないといけない。ほかの役など、とんでもないセリフ量でそれをやる人もいると思うと、本当に驚嘆すべき能力だ。それを思うとやはり尊敬してしまいどうしてもビビってしまう。気後れという言葉では足りない。
この日も稽古が早めに終わったので家人と温かいものを食べに行こうという話をして、結果ホルモン青木まで飲みに行く。脂を焼いて食い、ビールで流し込む食事だが、炭火鉢の原始的温かさと衛生的動物食を手軽に手に入れられるというのはなんらかのユートピアなのにちがいない。冷麺もおいしかったし、店員の男の子も脱力系の接客ながら愛想がよく、愉快な飲み食いに一役買ってくれてよかった。コンビニでミルクレープを買って帰る。風呂に入って洗濯機を回す。
何かを作りたいという機運が高まった家人によって自分のプライベートワーク用の名刺を作ってもらった。自分のただの思いつきをカタチにできるのは、自分にはその能力がないだけにマジックのようなもので披露してもらうことに喜びがある。シンプルに役立つというのは当然あるが、それだけじゃない。とりあえずワンコイン以下の価格で100枚刷ることにした。ver1の名刺、あるいはver0プロトタイプの名刺ということになる。


2026/01/12 今日 1998
午前のうちに中目黒に移動する。スタバでニッケルボーイズを読んでから日記を書く。このあとTCBのふたりと目黒散歩をして、18時からバスケに行くスケジュールになっている。

20260109

日記703

楽しい音

2026/01/07 一昨日 10858
スタバを出て家に帰る。荷物を置いてからもう一度下北の街に出かける。LIVE HAUSというライブハウスで歌い初めというイベントがあったのでそれを聞きに行った。最初のバンドが若さ一辺倒であまり見るべきところがなく、すわ一大事かと思われたが、目当ての永原真夏が懸念をきれいさっぱり払拭してくれた。3rdアルバムの『うさぎなるままに』通称うさぎ草からの曲が多く、これまで聞いてきた永原真夏ではなかったが、もちろんすべてよかった。とくにムーンナイトという曲はLIVE演奏で聞くと心に沁み入るような良さがある。大満足でそのまま帰ってもよかったのだが、ヤスエでんじゃらすおじさん通称YDOもせっかくなので聞いていこうと思い、何の気なしに残って聞いたのだが、これには不意打ちを食らった。おじさんの、おじさんによる、という命題に答えを出したのが昨年のM1でのドンデコルテだったと思っているのだが、そこに「おじさんのための」を加えた良さがお笑いの点数などとは(そしてたぶんお笑いそのものとも)関係のないところでカナメストーンが表現していて、ひそかにそれに感銘を受けていたのだったが、それと同じものをヤスエでんじゃらすおじさんに感じた。さらに、音楽というのは何よりもまず演奏して楽しいものだというシンプルな話があって、表現がどうこういう以前の原始的な良さ、それをみて単純に楽しそうで羨ましいという気持ちが沸き起こるような良さが彼らのバンド演奏には充溢していた。音楽(音楽演奏)というのは、自己完結しながら完結したものをおすそわけのように共有できるという点ですぐれた表現形式なのかもしれないということを思った。とにかく見て聞いていて楽しそうで、こちらも笑顔になるのを堪えられないという状況にはまり込んで、これがグッドバイブレーションというものかと衝撃を受けた。すばらしい表現を自分の目で見るということが自分の表現にとって一番の学習機会になるというのは間違いないと思うので、演劇の稽古が本格始動する前にすばらしいパフォーマンスを2種類も見られて、その意味でも最高の機会になった。開く感覚があり、気持ちがオープンになった。ここ2,3年で抑圧的な部分の開放の仕方を学びつつある。昔よりもバスケのプレーを楽しめているのもその恩恵に預かっているところが大きいと思う。そういえばアンコールの演目ではくるりの東京のあの部分を合唱する提案などもあり尚更よろしかった。


2026/01/08 昨日 15658
一日在宅勤務。やるべきことを最低限やって、そこまで優先度の高くないタスクの消化(つまりほぼすべてのタスク)は翌日出社した自分に任せるという方針に決める。30分程度の昼寝もして万全の調子で体育館に向かう。
キレのある女子プレーヤーがふたり参加し、お互いの技を競っていて刺激を受ける。自分などはステップワーク、オフボールの動き、ボールハンドリング、状況把握のどれをとってもかなわないのだが、図体のでかさだけで互角以上にわたりあえてしまう。タッパのある方が決定的に有利だというのはゲームとしてのバスケの欠陥だと思う。自分はその恩恵をもろに受けていて、しかも昔より厚かましくそれを享受して平気でいられるようになったので、力まずにそういうことを言えたりもする。しかしだからこそ、自分のなかでのきれいな形・フォームにはこだわりたい。最悪外れたとしても自分のなかで納得できるシュートを放れたらそれだけでよしとできるような安定感のあるシュートフォームを追究していきたい。
狛江湯には行かずにまっすぐ帰る。サラダチキンとおにぎりを晩御飯にする。


2026/01/09 今日 6079
午前在宅。午後から出社。ぶっ豚で小らーめんを食べてから出勤。タスクや返信の消化で一日がすぐ過ぎた。金曜ということもありちょっとした達成感が得られた。Wilsonでヘアバンドを買って帰る。呪術廻戦の死滅回遊前編を見る。バスケの動画2日分をバックアップしながら日記を書く。

20260107

日記702

ふたつとない

2026/01/04 一昨昨日 13357
連休の最終日。今回の連休はほとんど本を読んでいない。午前中スタバに行って日記を書く。すぐお昼になり駅前で家人と合流。渋谷で昼ご飯を食べることにして宮益坂のラケルにいく。ハンバーグオムライスを食べ、さらに気まぐれでドバイチョコレートのパフェを注文する。パフェなんか食べたのはいつぶりかまったく思い出せないのだが、予想どおり甘くて美味しかった。水だけでの完食が難しかったので紅茶を追加注文する。たわむれに地方都市の話をした。
ミヤシタパークを横切ってPARCOへ向かう。「思い出した?」というパプリカの声を聞く。当時好きだったものをふたたび見ることがきっかけで当時のことを思い出すとき、思い出せないことがたくさんあるということを同時に感じ、むしろそっちのほうに気を取られて、素直に懐かしい気持ちになれないことが増えてきた。もっといろいろあったはずだという口惜しい思いがただでさえ少なくなったリソースを持っていく。思い出した!というときにしか思い出していないのに、せっかくの機会なのに、全然思い出せない!という気持ちに押されて、そのまま手を突っ込んで探すわけでもなく開けたままにして思い出が揮発するのをおそれてまた蓋をするときの「温存」と自分に言い聞かせる言葉の白々しさ。
下北に戻ってダイエーで鍋の具材とスープを買い、家で水炊きをする。いつのまにかノンアルビールで十分リラックスできるようになった。家人がリビングに円鏡を設置した。壁に鏡を設置すると部屋が広く見えるということだったが、たしかにそういう効果はありそうだ。


2026/01/05 一昨日 9231
朝から出社。仕事が嫌な日こそ出社したり上長の席近くに座ったりと、内心とは裏腹のアグレッシブな姿勢を見せることで騙していくライフハック。騙すのはもちろん自分の心だ。昼時間に席移動し、午後は予定されていた打ち合わせをこなす。優先度を上げろと言われ続けてのらくらしてきたのだが、ここが限界というところまで引き伸ばしていた。正対して調査し、今の情報からはここまでしかわからないとはっきり言うことで完結させることができた。最初からそうすればよかったともいえるが、最初からこうすればいいとわかっていたわけではないので探り探りやるしかなく、探り探りやった結果、これでいいという落とし所を見つけられたのは成果だった。2月で退場する人からの業務引き継ぎを受けることになる。業務内容が増えることにともなう契約内容変更の交渉をする潮だと思い、営業に連絡する。交渉がまとまるとは思っていないが、なんでも黙ってやるわけではない、向こうがこちらの要求を断ったというかたちは明確に作っておきたい。そのほか、2026年のスケジュールを立てようとしたり、現状の一日の可処分時間の確認をしたり、一年の計を立てる。平日の可処分時間は5時間あるということがあらためてわかった。日記、読書に3時間当ててものこり2時間ある。その時間を使って何をするべきか。ライフタイムを使ってやりたいことは何か。2025年内に酒を飲まない習慣を手に入れたことで一気に時間が増えた。年始の勢いを借りてスマホからYoutubeを削除し、インスタアカウントも上から目線ストリート以外をログアウトした。家計を改善するためには固定費を削るのが有効なように、自由時間を増やすためにはこの手の”引き算”が重要になってくる。
定時に退勤する。仕組みはよくわからないが、ほぼ座っているだけでとても疲れたのでスタバに寄ることもせずまっすぐ家に帰る。ズートピアを見る。ジュディーが上京するシーンで踊りだしたくなったので踊りだした。上京は地方に住むものの数少ない特権だ。ニックは頭も切れてしかも良いやつなので、揺るぎない正ヒロインのポジションだが、一方で「なんのためにリスクをとってお金を貯めているのか」という謎を未解決のまま残していて、人物像に奥行きがある。
寝る前の時間に差し掛かっていたが翌日のバスケに備える意味で、4分間かるくバーピージャンプをする。


2026/01/06 昨日 18410
朝から出社。無機質なオフィスの廊下を歩いていると突然時間の感覚がおかしくなった。今と近過去を含めた過去が繋がっていないことに気づいたような感覚だった。極端にノイズのない空間で感覚が狂ったのか、それともノイズのなさによって狂っていた感覚がふと正常性を取り戻したのか。何を正常とするかによって答えは変わってくるが、社会的正気は前者だろうからとりあえずそれに倣うことにする。しかし存外、それは絶対のものではない。
この日はバスケなので昼には在宅に切り替える。部署の始動がゆっくり気味なのであまり仕事が落ちてこず、ゆっくり過ごしてバスケに備える。スルタンのゲームもあるし、kindleで購入した『ニッケルボーイ』もある。何事もなく定時退勤。
狛江までバスケに出かける。バスケ初め。一本目のシュートは意識せず打とうと考えていたのだが、そうすることも忘れていて実際にリングを前に何も考えず普段通りシュートを打った。ボールが手を離れた瞬間あっと気づいたのだが、そのままリングに吸い込まれて無事ゴールネットを揺らしたのでよかった。今年はとくに得点にこだわってやっていく。そのためにはまず一本一本のシュートの質にこだわることだ。すこし間が空いたにしては身体が動いた。動画を撮っていたので帰りの電車でかるく見返す。相変わらずキレはない、リラックスしすぎているように見える、これが自分の後ろ姿かと思った。


2026/01/07 今日 1617→6366
友人の友人の家に招待される夢を見た。初対面の男女が多くいる場所だったがあまり緊張しなかった。途中抜けしてバスケに行くが体育館についてからシャツを友人宅に忘れてきたことに気づき引き返す。パーティに途中参加する人とエレベーターに乗り合わせる。話が弾んだのでそのままいっしょにパーティに再参加することにした。
8時半にベッドから起き出す。洗濯物を干す。スタバに出かけて日記を書く。11時から散髪。
散髪後、自宅に戻りサッポロ一番みそとうどんを食べて週末に買った昆布巻きを一個消化する。散髪屋さんに提案してもらった新しい髪型はまだすこし慣れないが、オフの装いということでオンオフを切り替える新手になり、せっかくなので取り入れていきたい。
渋谷に出て『ヤンヤン夏の想い出』の2回目を見る。映画のいいところはもし忘れたとしても見返せるところだ。むしろ夢にせよ現実にせよ忘れたらそれでおしまいというシステムのほうに欠陥がある。二回目を見て思ったのは映画としての完成度でいうと恋愛時代のほうに分があるということだ。ただし随所に見られる映像の強さには並ぶものがないし、伝えようとする内容からして完成度の及ばなさがそのままマイナスにはならない。むしろシンプルな表現としての尺度に奥行きを与えている。完成度の高さというのは必ずしも素晴らしい映画体験の条件にはならないということがはっきりしたようだ。

20260104

日記701

いつも新しい

2026/01/02 一昨日 7888
奈良の自宅を6時20分に出てJRで京都駅に向かう。寝不足気味だったが電車のなかでも寝ずに動画を見たりなどして過ごす。新幹線に乗り換えて東京へ。車内では映画『ひゃくえむ』を見る。主人公の目標が早く走ることだけでそれ以外の尺度がないため、とてもシンプルな話で感情移入しやすいようだが、じゅうぶん年若い時ならいざ知らず、いまの自分の年齢ではほとんど感情移入できなかった。いや、よく考えると年若いときにも感情移入はできなかったと思う。陸上競技というものに大して興味惹かれずあまり価値を感じていないのも大きいが、あまりにもシンプルだと視点が一箇所に固定されてしまい、見る側でどこを見るかの選択もできないし、そうすると見るべきところがすくないと感じられてしまうからだ。一度きりの勝負に自らの存在を賭けるという話にはそれ特有の輝きがあるのは間違いない。しかし自分としては、失敗しても次、また失敗してもまた次という弛緩したテンションで、あきらめわるく食い下がる手法を採用していこうとしているところなので、こういったドラマチックな観点にはこちらから背中を向けようと思っている。「早く走れるのが楽しいから走っている」というシンプルさであれば共鳴できるところはあると思うが、そのシンプルさではわかりやすい物語を作れないので、ドラマの盛り上げに必要な苦悩や葛藤のため、有り合わせの思想を詰め込んでいるという印象だ。素材や材料こそちがうものの構造としてはビジネスマンの自己啓発ストーリーと変わるところがない。どのストーリーがよくてどのストーリーがわるいという話ではない。内面の探索過程において、わかりやすいストーリーやわかりやすい自己説明というのはただ単に不要というだけではなく明確な阻害要因になるという話だ。存在の”承認”が目的であれば、なんらかのストーリーは役に立つ有用なものなのだろうが、その成立に役立つドラマ性というのは咀嚼容易なサラダチキンのようなものだ。現実というのは単純化できるものではないので、ある登場人物の喋る「現実逃避」なる単語については、”現実”という記号を使って喋られている空疎な内容にすぎない。彼は話している内容の説得力を現実から吸収しようとして”現実”という記号を濫用している。何を知っていれば現実を知っていることになるのか、それを明示する手形のようなものは存在しないので、この記号についてはそれらしいタイミングで使ったもの勝ちということになる。そういう記号の濫用を避けるというのは、ある種のスタイルや優雅さといった第一義的でない価値観の尺度から求められる水面下の要請になる。そんな余計なものなどなくてもじゅうぶん楽しませることはできると信じ、そう信じてシンプルに表現するというのは、毎日の食事におけるコンビニのサラダチキン利用のように、それはそれで理に適った行動様式といえる。外野から”本当の食事の喜び”を知らないと批判する声が上がったとして、そしてそれに同調する声が多かったとして、そもそも彼が食事の喜びを第一目的にも第二第三目的にも置いていないということは考えられる。何が言いたいかというと、ひゃくえむが面白いという人は、ひゃくえむで良いし、それ以上を求めているわけではないということが有り得て、それは本人にとって不合理でもなんでもないということだ。ビジネス自己啓発に啓発されて良い方向を見つけられる人にしても、サラダチキンの摂取によってパフォーマンス向上を図る人にしても、自分にとって良いもの選び、それを良いと言っているだけの話だ。そして自分はひゃくえむの提案するシンプルさには満足できない。走ることだけに集中しほかのすべてを犠牲にするというのは聞こえがいい(?)が、ほかのすべてのなかからべつの何かを探そうとしなかった怠慢だろうということも言える。まず「自分はこれに全賭けする」という何かを抱えている人への間違ったメッセージになるという問題がある。さらに問題なのはそういう何かをまだ持っていない大多数の人にとっての間違ったメッセージになることだ。そのメッセージはその人のほうへ来たるべき何かへの参入障壁を上げるほうに作用するし、やるからには存在を賭けてとことんそれひとつを貫き通すべきだという間違った先入見を植え付けることになるからだ。そもそも大体の場合、勝つために必要なのはベット額ではなく手札だ。
ただ、超高速移動中に足の早さを競う話を見るという倒錯的なシチュエーションが経験できたのは面白かった。途中トイレに行くとき窓から見た富士山がきれいだった。
午前中に東京駅に到着し、中央線に乗り換えて新宿に出る。伊勢丹メンズ館で2026年に使う用のポマードを2種類購入。洋服も見ていこうと思ったが初売りでかなり賑わっていたので気分が削がれ、予定購入分だけ買ってすぐに帰る。寝不足を解消するために昼寝をする。日が落ちてからようやくベッドを抜け出し、スルタンのゲームをプレイしてから日記を書く。21時頃、雪のちらつくなか家人が帰ってきた。再会を祝してダンスを踊った。踊りながらおみやげをバスセンターに置き忘れてきたことを告げられ、踊り止めて寝る。


2026/01/03 昨日 25381
朝から新宿に集合し、友人Bと中野近辺の散歩をする。紀伊國屋で合流してから花園神社にお参りをする方々を見物、よしもと本社前を通ってゴールデン街を抜けて西武新宿駅へ。中井駅まで電車移動して、川沿いを哲学堂まで歩く。お堂を見て、いにしえの偉人たちの像と記念写真を撮影し哲学堂を出る。新井薬師駅まで歩く。インド・ネパール料理の店でチーズナンセットを食べる。友人は見た目末吉ナシゴレンを食べていた。
氷川神社で初詣する面々と奉納される舞を見物する。友人の東京最初期の元下宿と再開発のためのたくさんの取り壊し区画という沼袋のさびれた現状を確認してから平和の森公園に向かう。無料にしては広いというドッグラン前のベンチに座って小休止しながら、賢い大型犬と普通の大型犬、おバカな大型犬を見る。新井薬師の護摩行をチラ見して商店街を抜けて中野ブロードウェイへ。友人の用足しのためブックファーストに入る。欲しい本(ニッケルボーイ)は当然のように置いていなかった。中央線で新宿経由で下北沢に戻る。すき焼きパーティーに出席していたという家人とも合流し、この日のメインイベント書き初めに参加する。それぞれ、「光明」「確立」「踏込」と書き初める。まいばすけっとで越乃寒梅とリッツパーティーセットを買って自宅に戻る。新井薬師前の商店街で買った昆布締めとマグロの煮付け、カマ焼きで小宴会を開き、宝石のきらめきを2ゲーム遊ぶ。初戦圧敗、2戦目圧勝という戦績だった。紅白のちゃんみなのパフォーマンスがすごかったということでNoNoGirlsというオーディション番組を見る。最初の選考をしっかりやって方向性が定まっていたからだろうが、よくあるオーディション番組の緊張感を持たせるやり方とはちがい、参加者の魅力をできるだけ引き出せるように意識されていたのが好感をもてた。ちゃんみなの取り組みについては「反抗的人間とは何か、それは”No”という人間である」というカミュの言葉の内容を正当に引き継いでいるように思えるし、音楽を通してそれを表現しようとしているという意味でロックだと思った。TCBのライバルというわけではないが、NNGはTCBをネガポジ反転した立ち位置にあり、遠い同志といえるのではないかと思った。それはさておき、自分はちゃんみなを紅白きっかけで認知し、かなり好感をもった。そういう人は多いだろうと思う。フォローしたい。

20260102

日記700

思い出のレガシー

2025/12/31 一昨日 8370
実家で年越しそばを食べる。テレビでは紅白歌合戦を映していたが、意識はほとんどMACの画面にあって「スルタンのゲーム」に集中していた。紅白歌合戦の最中に何度となく祖母がリビングに登場したのだが、テレビ音量が大きいからそれが気になってかもしれないと番組終盤になってからやっと気づいた。それほどスルタンのゲームに夢中になっておりしかるべき気遣いができていなかったわけだが、祖母の隠れた要望を無視する理由としてかなり反道徳的だったと反省している。とはいえそう反省したのは年を越して寝る前にはたと気づいてだったので、まあ過ぎたことは仕方ないとこれを書いている時点では開き直っている。


2026/01/01 昨日 11376
9時頃にやや寝不足状態で目覚める。起床の挨拶の代わりに年明けの挨拶を述べ、作ってもらったお雑煮を食べる。父から勧められるまま午前中からビールを飲んだ。午前中、近くの神社まで初詣に出かける。父母が交代で祖母が乗る補助用の車椅子を押す。神社では祖母は杖をついて歩き、律儀に所定の賽銭箱すべてに小銭を落としていった。自分では初詣に行こうという気はないし、人に合わせて行くのもやめておこうという方針を立てているのだが、何事にも例外はある。何か目的がある方が歩調を合わせて歩くということをしやすいし、目的なんてじつはなんでもいいわけだから。駅前での昼飯の買い物を済ませて帰宅する。帰り道にある公園までスリーマンセルの鹿が遠征にきていた。
一旦帰宅して、母親とふたりで再度出かける。ならまち方面にのぼって降りるコースを歩き、商店街の筋を折れて近鉄奈良駅に向かう。どのスーパーも閉まっていたのでJR奈良駅のスーパーに再訪問することにした。午前よりもやや大回りのコース取りだがほぼ同じ散歩コースになった。母親と会話している感じでは昔とあまり変わらないのだが、どこかで曲がり角を曲がるタイミングがくるのだろうと思う。それを予感しているような口ぶりで人生を総括するようなことを言っていた。それは「生きてきてよかった」という意味の通り一遍の内容だったわけだが、こちらの返しとしても「満足するには早いし長さについてもっと高望みしてもいい」という通り一遍のことしか言えなかった。たぶん言葉の裏を読まないといけないのだろうが、相手の言葉の裏について考えるのが苦手だ。ラジオかなにかで国崎が喋っていた、父親から「俺はあと10年だ」と言われた話をヒントにしてようやくわかりかけたところがある。「まだまだ生きるやろ」と国崎が返したとき、父親は「今の俺で喋れるのがあと10年だ」とさらに返してきたという話だった。どうあっても自分にとって母親は母親なのだが、本人にとっての本人はそれとは次元が違う話ということになるのかもしれない。他人のことはわからないので想像するしかないが、自分で置き換えて国崎父の言ったことを考えるとある程度理解できる。それでもその理解が合っているかどうか、自分の思っている内容と母親の思っている内容とが一致しているのかどうかはわからないのだが、話の内容だけではなくその調子からもなんとなくそういう意味で言っておきたいと思っていること、言おうとしていることを感じた。しかしこちらから話をそこに持っていくことは無理だ。そもそも話してわかるようなことではないと思うのもあるし、何を言って何を言わないでおくかという判断については話し手にまかせるしかない。
夜ご飯を食べてつまらないテレビを見る。翌朝早くの新幹線に乗るために早めに寝る。

日記719

現実のみぎり 2026/02/17 昨日 7845 朝から出社。月例のミーティングで少人数グループディスカッションが行われる。現実だが嘘の内容をつらつらと述べ立てた。物怖じせずに内容のないことを言うことがいつの間にかできるようになっている。面接となるとまた...