現実のみぎり
2026/02/17 昨日 7845
朝から出社。月例のミーティングで少人数グループディスカッションが行われる。現実だが嘘の内容をつらつらと述べ立てた。物怖じせずに内容のないことを言うことがいつの間にかできるようになっている。面接となるとまた話は変わってくるのかもしれないが、人に向かって自分のこと話すという意味では大同小異だろう。そろそろ転職でもするかな。転職期間という自由時間も欲しいことだし。仕事は相変わらず画面の前でめまいがしそうになるくらい忙しい。翌日からの3日間で休みをとるために締め切りが前倒されるから体感で倍忙しい。普段暇しているから、こうやってたまに忙しいと「どうしたどうした」と言って身体が起きてくる感覚がある。それ自体は感覚としてわるくないし、シンプルに生きてるって感じはするので、ワーカホリックの人が無反省にワーカホリックに陥る理由もわかるようになってきた。今は昔と違ってそれがわかったうえで、仕事のしすぎはしょうもない、非合理的で非経済的だと断じることができる。人のためとか言う前にもっと自分に焦点を当てろよ、誰かが出てくるのはそれから先だろうと。こういうことをいうと「子供がいるとそうは言ってられないんだ」と言われるかもしれない。でも違うだろうと言いたい。子供あっての自分ではなく、自分あっての子供だろう。親あっての自分ではなく、自分あっての親だろう。違うとは言わせない。そうすると今度は「もう自分のことで頭を悩ませるフェーズは終わったんだよ、その探求は終了しました」とか言われるかもしれない。そうなったらたしかにもう終了で、こっちから言えることがあるとすればあとはもう「じゃあ今誰が喋ってんだよ」しかない。肩書か? 社会的地位か? あまりにもくだらなくないか。頑張ってきたからね、マイクの音量はたしかに大きくなったのかもしれないね。でも、まじで真剣に、シリアスに「それでいくの?」
1時間強の残業でオフィスを出て原宿経由で帰宅。途中ハラカドに寄って、渋谷マブルスというアプリで貯めたポイントでチキンブリトーを食べる。平日夜のハラカド屋上エリアは空いていて開放感があり、すこし先に東京タワー、眼下には原宿のあの交差点とビューが良く、穴場中の穴場だった。東京には街のまん真ん中にポカっと空いた、まさに台風の目のように静かなエリアがある。だいたいが新しく、どの設備も申し分なくきれいなので、こういうのを見ずに東京は汚いということをイメージで語っている向きには、もっとコンクリートジャングルの探索に身を入れろと、何やってんだしっかりしろと、喝!を入れたい。CBDショップでオイルの試食をさせてもらう。前回2適であまり効果を感じなかったと嘘をついて(じつはうっすらだが”効果”を感じた)、スプーンに4適垂らしてもらった。リラックスした気分で帰宅。自分の場合、リラックス効果は道行く人の顔を1秒長く見られるようになるというかたちで現れる。
帰ってからは適当な動画をいくつか見て、寝る準備をしてからいつもより早くベッドに入る。寝付くのにすこし時間がかかったがそれでも23時過ぎには寝たと思う。
2026/02/18 今日 1842
7時半に起きる。公園にシュートを打ちに行こうかと思っていたが、それよりもスタバで日記を書くほうがいいだろうと思い直し、洗濯機械を回してから風呂に入る。準備を万端整えて、スタバに出かける。コヤイリ前で気持ちが昂っているからか、朝の時間で疲れがないからか、舌鋒が何割か増しで鋭いかもしれない。今日はバータリ、ランスルー、ミザンス調整だと聞いている。カミテ・シモテを始めとして演劇用語が語彙の中に入ってきた。あえてカタカナで言うのがかっこいいという変なところに入り込んでいるが、まあ飽きるまではそのスタンスでいこうと思う。今できないことが急にできるようにはならないし、できたとしてもそれはできることだっただけの話だ。シンプルにできることをやるだけだ。あとはやっぱり自分らしく。自分らしく、と意識する必要は普通に生活しているととくにないものだと思うが、空気が薄いところ、光が強いところ、磁場がおかしいところなど、普段行かない場所に足を踏み入れるにあたって、最終的な調整の指針として必要になるのは”自分らしくいること”なのだろう。そもそも自分がやりたいと思ったからやるわけで、誰かに何かを言われたからやるわけではない。自分がやりたいと思ったのはどういうことだったのか、その時思ったこと(軽い気持ち)、いま感じること(重力)、いま何を自分はやりたいのか。言い訳なんかはあとでいくらでも考えられるから、一旦いまにフォーカスしよう。11:05、11:06、11:07。集合時間は11時半だ。
2026/02/18 今日 つづき 10623
いまは19:43。場当たりの初日が終わってスタバにきた。気負いがそのまま裏返って、勢い込んだその勢いのままに空回った。緊張しているのか? との指摘。稽古場でやるすべての通し稽古で毎回律儀に緊張していたのだけど、これまでは緊張しているのかと言われたことはなく、つまりそういうメッセージをオブラートに包んだものだと理解しなければならない。相手を見てやるということが演技では重要だと、今回のWS第一回目でも、3年前に参加したプログラムのWSでもあれだけ言われてきたのに、それがスコンと抜けるのだからやりきれない。集中しようとしているのに、自分の演技プランを出そうとして相手を見れていないという指摘を受けたのは、緊張していたのもあるが、気負いすぎで固くなっていたということだろう。照明を当ててもらった状況で、床にテープが貼られていてそれがバミリと呼ばれ意識のうちに置いておく必要がある場所で、遠い壁、高い天井を持つ空間に声を届けるというタスクにフォーカスしたら、それ以外がすべて抜けたというような体たらく。いや、そこまで卑下する必要はない、セリフが抜けたわけではないし、いつ出ていくか、いつ袖に帰るかということはちゃんと覚えているのだから。それでも完ぺきに手と足が同時に出てしまったが。あとは唇を噛んだり、登場人物の心情とは関係ないところで(つまり緊張を緩和しようと)口が動いたり、というのをほとんど無意識でやってしまい、やってしまった瞬間にやってしまったと感じて、ちょっと遅いと悔しくなる感じがあった。身体感覚の違和感を払拭した状態で臨まないと、緊張や負荷で無意識が出てくるようなことがあればそのタイミングで違和感を解消するための行動が全部出てしまうと思っておいたほうがいい。演出でくれた言葉のうち、「その場と仲良くなっていきましょう」という言葉には自分のような緊張しやすいタイプにはたくさんの汲み取るべき内容がある。単純接触の回数および接地面を増やす意味合いで舞台の上の”歩数”を稼ごうと休憩時間なども舞台にいるよう心がけた。自分にとって必要と思われる自分用の行動は勝手にどんどん進めていくべきだ。緊張するのは止められないから、どうにかしてそれに対処するしかない。
そもそもこれまで自分は、相手に何かを伝えよう、伝わるように何かを言おうとする努力というか、そういう意識付けや習慣付けに背を向けて、背を向け続けて生活していたわけだから、舞台に立つからといって急にそういうことができるようになりたいと望むのは、虫のよすぎる話なんだと思う。それこそ付け焼き刃になるしかないし、相談された側も困るような、今さら何言ってるんだという話でもある。今回の場当たりのおかげでこれでは駄目だとつくづく感じた。これからはもっと伝えることに意識を持つぞ。ということもあって、翌日は集合時間よりも早めに入って練習に付き合ってほしいと相手役の俳優に楽屋前で伝えた。
こういうのも全部、自分の向きたいほうに引き寄せて喋りすぎている。もっと記号的に簡便に、的確な情報処理の観点で捉え直してもいい。「頑張る」というのを「頑張るというのはつまり、意識を集中させ身体のなかでエネルギーを増幅させてうんぬん」というふうに表現についての表現に凝る方向に進めるのではなく、「ボリュームを増やす」、いやそれだと何のボリュームという話になるのでもっと「気合い入れる」という、ほとんどあれ(思い出した、トートロジーだ)みたいな転換で捉えればいい。ようするにノリ、というような話だが、実際にそれが重要だ。こだわらずにテキパキ情報処理しろということで、必要に応じてそのモードに切り替えられるようにそのチャンネルを持っておこう、そのチャンネルを構成する番組を構築しようという話だ。それは俺が小説を書くことの阻害にはならない。それはそれでそのチャンネルがあるというのを自分が一番良く知っている。帯域が違うのでお互いに干渉しない。心配いらない。