水曜日のダウンタウンというバラエティ番組で、「悩みがない人はいない」という説が唱えられ、その検証のためにインタビューロケをする企画があった。そこで人々は口々に自分の抱えている悩みについてカメラに向かって答えるわけだが、当然人々はテレビ用の(あるいはカメラを向けられたというシチュエーションに応じた)回答をするので、さらには伝達方法がその場で口頭でということもあって、いきおい簡単な、伝えやすい回答になると思われる。さらに番組はそれをテレビ用の分類に回し、結果として上位にランクする悩みは「恋」、「仕事」、「お金」、「健康」ということになっていた。無記名アンケート方式にしたとしても統計的に扱うと結局は同じ結果になるのだろうと想像できるが、いずれにしてもそのいちいちを詳しく聞き出そうという気にはならない。それぞれに特有の事情というものがあり、切実な内容を含むこともあるのだろうが、なんとなくまとめて扱って問題ないという気にさせられる。実際に自分の身に置き換えてみても想像しやすいからだろう。それで〈理解できること〉というフォルダに分類される。
理解できないフォルダに分類されるほうが「それってどういうこと?」という疑問が湧いて、詳しく知りたい気持ちにさせられる。番組側が用意したのは「悩みがない」という人について掘り下げるという内容だった。
悩みがあると答えた人のなかには「悩みはない(あるいはあっても小さな悩みしかない)が、悩みがあるかどうかと訊かれて悩みはないと答えるのは奇異に映るのではないか」と考えて、人に理解しやすい、さして悩みとも考えていないような悩みを適当に口にするというケースがあると思われる。だからここで浮かび上がる視聴者側の好奇心は、悩みがない人というよりは、カメラに向かって「悩みがない」と断言する人に向けられているといえる。
悩みというのを「心に占める重要な問題」と考えると、悩みがないという人の主張は、
1.心に占めている問題がない
2.心に占める問題があっても重要なものではなく悩みというに値しない
という二点に分けられる。
1については、自分の周囲のことに集中して外部の出来事に気を回さないようにするというスキルが要請されるため、誰にでもできることではない。そして「奇異に映るのではないか」という小さな悩みの持ち主の危惧はここに焦点が合うのだと思われる。情報化社会において外側がクリアに見える状況下で「心に占める問題がない」と断言するのは、自分自身のスタンスの表明にもなるからだ。個人という立場からなされえる政治的なステートメントにも近い、というか宣言そのものになる。
だから、常識的には、というか他人から判断する場合には、より穏当なのは2のパターンだと思われる。とくに自分自身の人生にとってかけがえのない人物を三年ほどの期間で相次いで失った男性からすると、もはや悩みとするのに値する出来事がこの先にあるとは想定できないのだと考えられる。そのため悩みがないと断言できるのだろう。その当時の悩みや苦悩が、彼を悩み知らずの位置に立たせたのだ。ただの想像だが、悩みというのにはあまりにも小さいし、あまりにも遠いという事態が日常になっているのだろう。そしてその感情というのには測り知り難いところがあるにせよ、そのように考える理路というのは他人からしてもわかりよいものである。人に伝達するときにとりたてて苦労するようなひっかかりもない。そう考えると、とくにそういったストーリーを用意せずに「悩みがない」と言い切った男性のほうに関心が向く。かつてなにかしらの悩みに直面し、それを氷漬けにする過程で心に占めるなにものかを失ったのだろうか。つまり、殿堂入りのようなかたちでその場から消失したかつての悩みがあり、その悩みに遠慮して今は、そしてこの先にも、悩みと呼べるものはないというのが彼の主張なのだろうか。あるいは生粋の能天気なのか。カメラを通して見ても両者の区別はつかないものなのだと驚いた。
ちなみに、お金で解決できる悩みは悩みと呼ぶのに値しないという考えもある。それらはシンプルに”お金の問題”だろうという主張だ。しかし、そんな呑気なことも言っていられないかもしれないと思うのは、お金がないということを発端として、問題がどんどんふくらんでいき、お金があってもどうしようもない事態にまで陥ることがとても多くあるのだろうと想定されることだ。だからお金がないという状態にならないように、各種の条件に対処・対応して、それがうまくいっているうちは悩みなどないというのも、決して考えられないスタンスではないだろう。