人は見たいものを見る
2026/06/19 一昨昨日 19796
午前在宅。いただき物のじゃがいものチーズケーキを食べる。食べたことないチーズケーキの味で物珍しさがあるのだが、チーズケーキと分類していない引き出しのなかにはある味なので既知ということになり、それで懐かしい味という要素もあるという不思議な感覚になった。「美味しい」の枠内でこういう冒険ができるのは贅沢なことだと思った。
昼から出社。定時退勤して方南町までバスケに出かける。山手線は例によって混雑しているので大崎で相鉄線に乗り換えて新宿まで行く。その作戦は奏功して座席に座って悠々と移動できたが、後部車両に乗ったせいもあり新宿で丸ノ内線まで大移動する羽目になり、今後は改善の余地があると思った。単に先頭車両付近に乗ればいいだけだが。
バスケは這々の体だった。とにかく心肺機能が追いつかず、ちょっと走っただけでぜえぜえはあはあとなってしまい、悔しいを通り越して悲しくなった。いろいろ考え合わせたところ、慢性的な寝不足状態が原因だということになった。走れないから走らなかったことで足の疲労も最低限しか溜まらず、中一日でのバスケに参加できるということになった。自分のプレーを動画で見たとき、ろくに走っていないのにひとり膝に手をついて疲れていて、不審の気を起こさせる。自分じゃなきゃどういうことだと惑わされるところだ。バスで新代田まで帰る。バスケ参加者の人とバス車内でいっしょになる。人好きのする爽やか関西人で、プレーも話し方もハキハキしていて嫌味なところが少しもなく、すかさずに全力プレーできっちり走る、バスケットマンにはめずらしいタイプだ。関西人としてもめずらしいタイプだと思う。もし疲れ切っていなかったらもうすこし喋ってみたかったぐらいだ。疲れていてそういうわけにもいかないのでPEELを飲みながら帰る。家人がミルキーサブウェイというアニメ作品を見たいというので不承不承見ることにする。サムネイルからして癪に障るようなところがあり、手を出すまいと思ったのだが、一話が数分と短いこともあって次々と見ているうちにあれよあれよと引き込まれ、一気に全部見てしまった。自分の勘・感覚は頼りにならないものだ、お手上げだということになった。とにかく上手い演出で見事だった。しかしそれこそが忌避感を持った理由ということかもしれず、”一歩目の才能”アレルギーのようなものだったかもしれない。そこを突き抜けられると気にならなくなるのだが、今回もそれで気にならなくなったわけだが、いまだに突き付けられる段階では舌の裏側に苦味が走る。
2026/06/20 一昨日 9967
雨の日だった。昼前から家人と新宿まで映画を見に行く。たのしみにしていた『急に具合が悪くなる』を見た。究極的にはこういう映画を見るために映画を見ているということが言えると思う。たとえば小説を読むことでも生活をおくることでもなんでもいいが、自分には「本質主義的にひとつの目的に集約させるようなことをするのはちがう」と思うだけの分別はあるつもりだ。分別はあるつもりなのだが、一方で、こちらを大きく揺さぶって一時的にでもその分別を失わさせるつよい力を持つ作品なり出来事なりがある。もしそれらの作品なり出来事なりが無かったとすれば、経験なんていうものはただスタンプラリーじみて、自分の実際の経験にくらべるとはるかに退屈なものになるだろう。大切にしているのは、心の底から悲しかったり、心の底から可笑しかったり、言葉にするとそういう経験になるわけだが、一方ではつねに、「心に底はあるのか」とか、「魂を震わせると言うがそもそも魂とは何か」とかいう疑問を持つことにもなって、それぞれの要素をアクセル・ブレーキ・ハンドルというふうに使い分けているのだと思う。なんのためにそういう使い分けをしていくのかといえばよくわからない感じになるが、なんだかんだと言ってもとにかく、”先を急ぐ”ためだろう。動揺も懐疑もすべてそのための手段だと言える。しかも、何のコントロールもなしにただ積んでいけばいいというものではなく、ある場所まで来たところでそれぞれの要素を身近に引き寄せたり、反対に遠ざけたりと、べつべつの操作が必要になるというところが、ただ蓄積すれば用を足す経験値のような考え方とは異なるところだ。(ところで、先を急ぐのはどうしてかという疑問については、時間が限られているからだという回答を用意できる。どうして時間が限られているのかという疑問についてはお手上げで、それがなぜなのかまったくわからない。)
ある問題に対して、持ち重りがするから手に取りたくないという考えのほうに自分としてはより多く共感できる。事態を軽く見ていないからこそ、安易に手を出すまいとするのだろうからだ。さらに言うと、自分自身に対して立派な題目を唱えようという気が一切ない人は、じっとして過ごし、積極的に心の平穏を手に入れようとするのもひとつのやり方だと思う。問題を小さく捉えようとしたり、簡単なもの扱いするよりははるかに理に適っているし、礼を失することになるおそれも少ない。それでも結局、できることをやるしかなく、じっとしていることができない人は、自分にできることをやろうとしてジタバタすることになる。そして実際に何かをやろうというときには、問題を小分けにしたり、コントロール可能な部分を多く見積もったりすることは、それはそれで行動するために必要なやり方だったりする。
人が人に親密な気持ちを抱くというのは不思議なことだ。それが自分のためになるというたぐいの理由付けをするにしてはあきらかに”度が過ぎる”というケースも多い。おそらく例外というにははるかに多すぎるだろうし、どれだけ行き過ぎることのない「それなりの愛着」を心がけようとしても、気を抜くとすぐに線を越えてしまう。
持ち時間が限られているからできるだけのことをやりたい、というのは時間制限に対して納得できない気持ちから自分としては正面切って採用する気になれない言い分だが、それでもこの条件下ではそうする以外にないやり方だと思う。ようするに一生懸命やろうということだ。自分にとって乾坤一擲と思える局面を持たないままでは終われないということだ。
映画を見終わったので下北に戻り、TCBのふたりと合流する。雨宿りしながら酒を飲み、雨脚が弱まったタイミングで家に行こうと思ったのだが、弱まる気配が見えないので仕方なく傘をさして歩く。自分としては一生懸命話そうとしたのだが、あまりうまくいかなかった。いつものことだ。外れた論理の道筋をもとに戻すだけで手一杯になる。町田近辺の美容か何かについての噂話が新機軸という感じで面白く、耳目を集めた。
2026/06/21 昨日 16741
曇りの日だった。10時半ごろに起きる。寝不足が解消されるぐらいしっかり眠った。13時からワールドカップ、日本対チュニジアの試合を見る。すぐに先制して危なげなく4-0で勝利した。あやせの合掌ポーズをいっしょにやってゴールを喜んだ。
すこし昼寝をする。高円寺までバスケに出かける。3Pシュートの感覚を掴めた気がする。というようなことを何度か書いているが、その都度忘れているのか、感覚を失っているのか、また同じコースを繰り返しそうだ。今回掴んだことは下半身と上半身の連動、あせらずに自分のなかでゆっくりと思えるテンポで打つ、ゼロポジション、前に押し出す意識を強める、の三本だ。
レンタル自転車で帰ろうと思ったが近場のチャリがすべて借りられていたので電車で帰る。小田急のなかで参加者の人といっしょになって話しながら帰る。前回の会話からサッカーをやっていたという情報を得ていたのでワールドカップの話をしようと水を向けるが、見るのはしない、やる専門ということで見ていないという回答だった。バスケも全然見ないらしく、完全に運動不足の解消目的でバスケをしているということのようだ。どれだけ運動神経が良くても、上手なプレーを見てお手本にしないと上達には限度があるということを思った。
最寄りで酒を買い、飲みながら帰宅。家人がささみと大葉とチーズとトマトのクワトレーゼ包み焼きとコーンの炊き込みご飯を作ってくれたので美味しくいただく。
2026/06/22 今日 5363
朝から霞が関まで行って定例会議に現地参加する。アジェンダのひとつを任されていたのでやや緊張したが、準備が万全だったので難なく済む。
帰宅して昼から在宅。寝不足気味だったので昼寝で補う。降ってきたタスクを都合4個消化して定時退勤。スタバに出かける。バッハのピアノ曲を聞きながら日記を書く。20時すぎまで。酒を飲んでから帰るつもり。最近日の明るさで早くに目が覚めるので十分な睡眠時間確保のため早めに寝るつもり。