石の上なら三年
2025/12/27 昨日 8679
スタバを出たあと予定していたサンゾウトウキョウに行く。12月30日に閉店との報せを受け、この店だけは行列に並んでも最後食べておかなければならないという義務感にも近い感情があふれた。実際20分近く並んで店内に入ったのだが、その時間を使ってペトラにするかコルマにするかを考えていた。入店までにペトラにすることに意を決して券売機を見るとペトラのボタンには「売り切れ」の文字。すかさず頭を切り替えてコルマかセドナかの二択にする。そしてやや長考した末コルマに決める。いつも女男男の3人で切り盛りしているのに店内には女男2人しかいなかったので、オペレーションの負担を考えてペトラを封印したのかもしれない。しかしこのコルマは間違いなく美味かった。ありがとうサンゾウトウキョウ。という気持ちを込めて「ごちそうさまです」と言って店を出る。普段は心で感謝していちいち口に出して言わず、これが江戸っ子スタイルと称してでさっと帰るのだが、今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。腹ごなしもかねてゆっくり歩いて帰宅。友人から借りたナツモンというゲームを10分だけやったが、何匹か虫を捕まえて絵日記を書いたところで面白くない認定をし、それ以上プレーするのを止めにして昼寝する。予定時間より早めに起きたのでゆっくり準備してからスタバに行く。前日までに溜まっていた日記を小一時間で片付けてから演劇の稽古2日目に行く。
稽古では本読みをする。人の演技を見たあとで自分の番がきて前で音読をすると、自分の引き出しには何も入っていないことが明らかになって笑えてくる。普段から何行かの分量を話すということをしていないので、人が何行かの文章をずんずん話すことが不自然に感じられてしまう。本人としては話すモードになっているということなのだろうが、自分が話すモードになるためにはクリアしなければならない条件がたぶん多いから、世間話ぐらいのテンションで話すモードになれる人の気持ちがつかみにくいというのはある。演技を通して別人になりたいという願望は今はなく、自分を表現したい、表現することを通して新しい側面を発見したいという願望があるので、まったくの別人になってみるというアプローチはうまくつながらないという気がする。ただ、まったくの別人と感じられる人について、そこへ通じるための回路はあるはずで、その回路をこちら側から閉ざしてしまうようなことはできるだけするまいとは思っている。演出の人が「感情の発散をしてみて」というコメントをした。セリフをうまく言おうとするのではなくそのセリフを言う人の感情になってみようとするという演出の文脈で発せられたコメントだったのだが、新年時点に書き初めで書いた「発散」の文字が今年一年最後の締めくくりとなる活動においてまるで伏線を回収されたかのように発せられて、ハッとさせられた。それを耳にした瞬間、思わず何かに気づいて顔を上げるという過剰なリアクションとなって驚きの感情が発散した。来年からはテンションを上げて何かを言う場面が出てくると思う、というコメントもあり、これについては明確に自分の課題となり自分の壁として立ちはだかってくるはずだ。なんでも中学1年生になってもらうという話で、中学時代の自分を思い出して思わず頭を抱えてしまった。
帰宅してご飯を食べてから映画『グリーンブック』を見返す。心が痛む場面も一応あるが、ロードムービーでもあるし全体としては牧歌的なトーンだ。「世界は複雑だ」という紋切り型の表現で通じ合おうとするふたりの対峙場面が格好良くて決まっている。有形無形の暴力に対する描写がかなり控えめに感じられるのは『地下鉄道』を読んだ影響かもしれない。ドクが知性に加えて勇気があると思うのは最後にピンポンを鳴らすところだ。それで絵に描いたような大団円を迎えるわけだが、清水の舞台から飛び下りるのにも等しい逡巡があったことは想像にかたくない。
2025/12/28 今日 2023
8時すぎに起きてyoutubeでカナメストーンの「しゃれこめカナメストーン」を見る。真空ジェシカのラジ父で聞いていた山口用語のまとめについての動画で相当勉強になった。朝一番のクリアな頭で何を勉強しているんだと自分にツッコミを入れて出かける準備をする。8分間の運動前ストレッチをして朝食をとってからスタバに出かける。日記を書いて『失われた時を求めて』を読む。ヤンヤンも地下鉄道も感想を書くべき作品なのにどうも腰が重い。自分にとって良すぎる作品の感想を書くのは難しいのが確定しているのでどうしても気が重くなる。しかしそれを避けたら何のためにブログをやっているんだという話だからベイビーステップを意識して書き始めようと思っている。