20251012

日記654

ラストデイ

2025/10/10 一昨日
朝から出社。この日が虎ノ門への最終出社日になった。オフィスの引っ越しに伴い翌週からは高輪ゲートウェイに出社する。これまで西新宿、渋谷、九段下、神谷町、一瞬だけ豊洲、大崎×2で働いてきたが、虎ノ門ビジネスタワーがぶっちぎりで好環境だった。高輪ゲートウェイは新築のオフィスビルなのだが、今回のTBTより良いオフィスということにはならなさそう。それでも2,3番手のクオリティはあるはず。ニューマン高輪や3月のグランドオープンに期待したい。
引っ越しのため定時より早い17時前に終業になる。帰宅して本を読もうとしたがダラケてうまくいかず。日記のなかで振り返ってみて思うことだが、自分のなかでこれはやりたいということをやらないままで飲みに出かけることになったのがそもそもよくなかった。
下北沢駅でTCBの友人と合流し、もうひとりを待ちながら歩き飲みを開始する。ワンバトルアフターアナザーの感想をすこし話した。
友人が合流してから旅行の話などして、それから予約していた散髪のため一旦抜ける。アメリカンバーバーっぽい内装や、かかっている音楽、ひとりで店を運営している店主の雰囲気など、どれをとっても居心地が良く、45分間の過ごし方として気に入っている。自分史上最高額の散髪料金でしかも4週間と空けない高頻度の利用で、正直割高になっているというレベルを超えているのだが、月に1度、こういう他には代えられない時間を持てると思うと、単に行かなければならない散髪イベントというのを超えて、良いものがある。合流した友人に「髪切った?」と言われたが、今は髪を伸ばそうと苦心している時期なのでトップはほとんど切っていない。サイドの刈り上げてもらっているところを見せておいた。
友人たちが公園に行っているということだったので、家に寄りがてらバスケットボールを持っていく。この時間帯だったら暗いので誰もいないだろうと踏んでいたのだが自分とはべつにふたり、自分と合わせて合計3組がリングを使ってシューティングをしていた。
友人と合流。呪術廻戦を全巻読んだというので呪術廻戦の話になる。自分と比べて粘度の低いさらっとした読み方に慣れていることもあるからだろうが、流して読んで、あまり感心させられるところがなかったという感想のようだった。とくに好きな登場人物はいないということだったので、ただアラを指摘したいだけになるだろうと思って話を止めようとしたが、べつにどうでもいいのであればどうでもいいだろうと思うのだが、読んだ以上はそのことについて話さなければ損とばかり、謎にこだわって話を継続された。だからとくに面白い話にならず。「能力バトルものとしてハンターハンターに及ばない」というのでそれは当然だろう、どの漫画がハンターハンタに勝てるのか、ほかに比べられる能力バトルものはあるかと訊いたところ、ただの一作品も挙がらなかった。どこそこに旅行に行って、なんとかという観光ガイドだけではなく教科書にも載っている有名な場所に行ったというときの、結構人がいたとか、周囲には何もなかったという感想に近いものがある。何に感動してどういうところが面白かったのか、それでなくてもつまらなかったのかを聞けないと、話をしているという気になれない。
こういうところが面白くなかった? と言ってみてもいいのだろうが、呪術廻戦についてそこまでする気にならなかったので、話題を変えるのがベストだったと思う。
あとは「絵がうまくないのでその面での読み応えがない」という感想については同意できず、普通にうまいと思う。とくに表情の表現がこれ以上ないレベルで上手い。コマの流れでの表現だけではなく一枚絵としての強さも十分ある。
映画は2時間目を開けていたら見たといえる、漫画はページをめくれば読んだといえる、だから鑑賞する人や読む人によって感受のレベルが大きく異なるものだ。質的に異なるといえると思う。自分よりも低い感受をしている人と作品について話す意義はうすい。話題の作品について「あれ見た?」というように、コミュニケーションツールにする作品受容をしていたいとは思わない。というより、その役を上手に担える作品に時間をかけていたくないと言ったほうがいい。TCBでもうまく回って熱くなるときは楽しいから、その反面、熱くならないときが楽しく感じられないということがある。いつでも熱くなれるということはないからしょうがないことではあるが、自分が参加する以上できるだけ熱い方向に持っていきたい。その点バスケは単純で、自分が一生懸命走ればその行動によって熱くなれる。
途中、駅で飲んでいるときに練習帰りの家人と合流。すこし話の続きをしたあと、誕生日になる瞬間を3人で祝う。うまく回らないままガス欠になって楽しい話をできないまま解散になる。もっと早く帰るべきだった。具体的には公園でトイレに行くと言って二人とはぐれたときに帰れた。実際、ちょっと前だったら帰っていたと思う。昔のほうが正しい行動ができていた。



2025/10/11 昨日
午前中は何もしないで過ごす。15時からで予約していたパン飲みの店に行くため、昼になってからようやく活動を始める。小洒落た店で美味しいパンとワイン、小美味しい料理をいただく、ミニマルな店内の雰囲気に大きな窓が開放感を与えているという洗練された作りの店だったのだが、図体の大きい自分にはややミニマルすぎた。
小雨の中梅ヶ丘のサミットに寄って食料類を補給して帰る。日記屋に行って日記を見る。多和田葉子の日記がほしいというので購入。
帰ってキングオブコントを見る。ロングコートダディが一番面白かったのは間違いないが、一番笑ったのはトム・ブラウンのコント「エリザベスカラー」と審査員コメントを受けてのみちおの「(低い点数をつけたあなたがたは)もう死んでます」だった。完全に2025年の北斗の拳だった。ほかに面白かったのはしずる池田が審査員コメントと会話するところと村上の全コメントが笑いの邪魔になっていたところ、や団伊藤の脳汁顔芸、レインボージャンボの異常にしっかりした受け(声量・声質・えらぶ言葉・間)の完璧さ。しかし一番印象的だったのはうるとらブギーズだった。微妙に噛むところから始まる言い間違いコントがガチなのかネタなのかどっちかわからずぬるりと始まり、虚実皮膜を突き破らないまま異常に伸び上がっていくのがすごく怖面白くて、笑いながら脇に汗をかいた。笑いにはちょっと防衛機制も働いていたと思う。うるとらブギーズのなかでもとくに好きなギタリスト上京コントを振りにしていて、自分たちのコントを知っている前提に裏切ってくる不敵さも、今大会とくに多かった”不敵なやつら”のなかでも抜きん出て不敵だった。「優勝する気がないだろう」というツッコミを誘うためのコント前VTRも効いている。
しかし全体的にお笑いハイコンテクスト過ぎて、2位でいるべきロングコートダディが優勝してしまうという盛り上がりに欠ける大会になった。やはりお笑い最盛期はもう終わっているっぽい。関係があるのかないのか、そんな単純なものでもないから「結果的に」なんだろうが、お笑いのピークを過ぎたのがダウンタウンの終焉と軌を一にしているというのはよくできていると思わさせられる。
家人とドントスターブトゥギャザーのサバイバルバトルをする。5日目に家人の操作する火遊び娘が怪物に踏み潰されて死んだ。操作もままならずただ生き延びただけだがより長く生き延びて勝った。


2025/10/12 今日
9時に目を覚ます。バスケの夢を見た。プレイ中ではなく控室で士気を上げるチームミーティングの場面。誰かが何かを喋っている途中で相手チームの選手が通りかかりそのときに話が途切れるるなど、対戦前の緊張した雰囲気があった。自分はリーダーだか監督だかの話をあまり聞いておらず、「いや、自分が爆発して何回でも連続得点してやればいいんだ」と自分が自分にしている蓋を外して、自分自身に暗示と発破をかけていた。控室を出る前に夢から覚めた。
一時間ぐらいを朝の準備に費やしてからスタバに行く。髪の毛を切ったばかりなのにすでに髪型が迷子になっている。サイドパートという髪型になると思うのだが、ちょっと面白いぐらい左右にボリューム差があり、花輪くんみたいな不自然な頭の形になっている。『美の進化』を読んでから日記を書く。「ヒトはきびしい配偶者選考によって快感を得ている」というのは余人は知らず、自分としては納得のいく論だ。
昼からはデザイン学校の学園祭に行く予定。夕方からは狛江でバスケがある。先週日曜の試合で背中をすこし痛めたため、今週は平日のバスケには参加しなかったのでじつに7日ぶりのバスケになり、すでに気持ちが昂っている。

20251009

日記653

かすかにある


2025/10/08 昨日
もっとこうすればよかったとあとになって思うような日々の過ごし方をしているようでもあり、自分にできる範囲で最大限の楽しみを引き出した毎日を手に入れているようでもある、たしかな事実としては、ほとんどストレスのない生活をしている。この日は午前中に在宅をして、午後から出社した。定例打ち合わせもあるが何もしないでいるとゆっくり溜まり始める仕事を片付けるためだ。
インターネットで、川上未映子と頭木という人の文學界の対談記事を読んだ(「心臓をノミか何かで、がつがつ削られるような痛みで……」川上未映子が難病の当事者・頭木弘樹に初めて語ったこと)。頭木さんの言うことには肯けるところがあった。文字を読むのがしゃらくさいと感じる出自もそうだが、生きている人が書くフィクションは射程が限定されているというのもそのとおりだと思った。とはいえそれはそれで合理的ではあると判断していると感じられるところもあって、飛びつくこともしない代わりに手放しで批判するということもしておらず、適切な距離をとれているような気がした。病室で同室になった6人全員がドストエフスキーにハマったというそれこそフィクションのような面白い話も書いてあって、それまで文学とは無縁でやってきたジジイがドストエフスキーと邂逅するというのはなんだか明るい話のように聞こえた。これは想像してみるしかないが、それ以外の方法では照らせない明かりで照らされたということだと思うので、他に類を見ないほど明るい話だといえると思う。
しかし記事の内容を再確認しようと、いま文春オンラインのページを開いたのだが、広告の表示のされ方はほかでは見ないほど醜悪だった。人間をクリックする機械とみなして効率よくクリックさせようとする手法がふんだんに使われていて、記事の内容の確認を超えてげんなりさせられた。いつまでこういうことをさせられるのだろうか。
記事内で川上未映子があっさり「17%の魂」ということを言っていて、その正直さを評価するべきなのかと思わされそうになった。数字を使う、データを駆使するというのは今やどんな人でもやることなのだろうけど、そういう有効な数字の使い方をしない人がいてもいいと思う。120%とか、0.000000001とか、そういう言い方に限定して数字を使うというやり方。べつに川上未映子がそうであってほしいというのではないが、川上のほうまで風潮が来ているのだとちょっとナイーブに驚いてしまった。
定時退勤してそのままスタバに行く。行けそうだとは思ったが大事を取って、バスケにはいかないことにした。人数が10人ぎりぎりだったので、もし背中を痛めたら途中でプレーできなくなったら他の人に悪いと思って無理をしてしまいそうだからあらかじめ止めておいた。
『美の進化』を読む。『荒潮』を読み終える。荒潮のほうはクライマックスに向けて物語の風呂敷を畳んでいくときの手際というか、わかりやすい折り目がどうしても気になった。映像化ありきというか、いかにも映像化してもらいたげというか、先の展開を織り込もう織り込もうとしてかえって小説として自立していないという印象で終わった。『三体』の劉慈欣がこれを絶賛したというのだから、その目は信用できない。しかし、最近では『ワンバトルアフターアナザー』を絶賛したスピルバーグもそうだが、プレーヤーによる他プレーヤーの作品の絶賛というのは本当に優れている場合には起こりにくいというだけの話だろう。むしろ全然脅かされないということの証明としての機能のほうが活きそうだ。
氷結無糖レモンを飲んでからぶっ豚でラーメン大を食べて帰宅。『海に眠るダイヤモンド』の5話を見る。屋上庭園を作ろうとする話。恋愛リアリティショーの演出だから、というよりは恋愛リアリティショーの演出なのに、本当に感動した。神木隆之介も杉咲花もすごい俳優だ。しかし特筆するべきはやはり國村隼。彼は恋愛リアリティショー顔負けの國村隼ワンマンショーを見せつけて、國村隼ワンマンショーだなと思わせつつなお感動させてくるのだからすごい。いま思い出しても笑えるぐらいすごい。沢村一樹が物語の都合上で悪者役にさせられ、物語の都合上で悪者役を降ろされ、というのが気になるといえば気になるが、これはいちいち目くじらを立てるような瑕疵ではない。そもそも、よくみれば、つまり行間を読みシーン間を想像すれば、これもちゃんと理由のあることなのかもしれない。



2025/10/09 今日
一日在宅勤務にする。朝昼に2回ずつぐらい働く。時間にして1時間にも満たない。それ以外の時間はできるだけ有意義に使おうと、昼寝したり鬼滅の刃のアニメを見た。柱修行という眠くなる内容だったが、唐突に「心を燃やせ」というセリフが飛び込んできて、それに痺れたりなどした。
定時退勤してスタバに移動。『理由と人格』『美の進化』を読む。日記を書く。

20251007

映画『ワンバトルアフターアナザー』を見た

映画は気晴らしでしかない。などと言うと、その否定派はたくさんいることだろう(たくさんいてほしいものだ)。
まずもって映画視聴に求めるものをただの気晴らしとするかどうかによっても意見がちがってくるところだろうと思うが、ことアクション映画(以下A映画)については答えが出ている。A映画ははっきりと明確に気晴らしにしかならない。平板な生活から抜け出せるような擬似体験をさせてくれるという意味で、A映画の有用さは決して小さくないとはいえ、そこから教訓を得たり、生き方・考え方の指標にするということはどうしても荷が勝ちすぎている。おそらく子供の純真さをもってしか達成できない。それ以外に教科書がないという状況下でのみ、教訓めいたものを得られるということもあるだろうが、(まじめなA映画ほど)そういった教化を与えようと考えて作られていないことから、突き詰めていった先にはひずみが生じることになる。端的に、そこには無理がある。どんな物事であってもまともに判断しようとする者にとり、主人公の善性については無謬のものとして「目を瞑る」という技能が必要になってくるからだ。
映画、とりわけ巨大な予算が組まれて製作されるハリウッド映画の限界を示す作品として『ワンバトルアフターアナザー』の名が挙がることになるにちがいない。2025年時点でしかとその限界に突き当たったのが記録されたという意味でも、この映画が作られた価値はある。A映画としてよい気晴らしになるという以外の価値として。
映画にはある種の小説を超えることはできないということだ。それは同名小説を原作に『ヴァインランド』という映画を作ろうとしてそれに失敗し、『ワンバトルアフターアナザー』というやや奇矯で未完成品に近いA映画が製作されたことで明らかになった。
たとえば、ディカプリオの娘が忍者スクールの教えの”型”を披露するところから映画が始まればいいのにと思うのだが、映画視聴の制約上それは現実的ではない。(本当にそうか? 映画視聴者のことを不当に軽く扱っていないか? しかし予算規模がある程度以上で、多くの人の目に触れる”必要”が生じる場合には制限の枷はその実在感と重量を増すだろうことは想像にかたくない…)
映画化不可能といわれるたぐいの小説はいくつもある。ピンチョンの小説作品もほとんどすべてそうだ。『インヒアレント・ヴァイス』はその不可能を可能にした作品だったといえるが、『ヴァインランド』で元の評価に戻った。LAの風に当てられて夢に見た映画『ヴァインランド』と比べてしまい、『ワンバトルアフターアナザー』についての正当な評価がむずかしくなっているのかもしれない。この映画は佳作だとは思うが傑作だとは思わない(からい評価だろうか)。
それでもこの一連(ヴァインランド再読、映画への期待と失望、部分再読)によって自分の考えがよくわかった。映画の評価とは直接関係ないがそのことはよかったといえる。
映画の”観客”としての自己より、小説の”読者”としての自己のほうが優れていると感じる。ひとつには読者としての自己のほうが作品への向き合い方がより真率で、作品の粗に見えるところや至らぬところに目を瞑る必要を感じることが少ないからだ。読解力や理解力の不足を補うために、追加の労力を払わなければならず、そのことによって瑕疵が見えづらくなる構造にある、という仮説に対して反論するだけの余力も残されていないが、それを差し引いても、おそらく……。
小説のほうが映画よりもコミュニケーションの量が多く、その質も高いと感じる。小説のほうがその著者との密な絡まりが自然発生する、というよりは、そういった密な絡まり合いが発生しないことには読めているということは言えないような、関係性の構築があらかじめ約束されているようなところが小説の特徴としてある。自分以外の他人の考えていることを知りたいという変な欲求に対して、より多く応えてくれるのが散文による物語作品で、すくなくとも物語部門ではそれ以上の濃密さは求めるべくもないということだ。
他には、記号扱いにされるモブキャラについて、小説では文字通りの記号扱いになるためそうすることに対する抵抗が発生しないのに比べて、映像では記号扱いしつつ画面に登場させなければならないので、どれだけそれをスムースにして感じない程度の微量に減らそうとしても、それが成功しなかったら普通に嫌な気分になるし、成功したら成功したでその分だけ今度はそれに対する抵抗が生じてしまうというジレンマにおちいるということもある。
小説を読むというのは決して気晴らしではなく、それ以上の何かを得るためだというのは、以前から自分がそう考えてきたことだが、こういう考え方というのは良く言っても”シンプル”だというのは、他ならぬピンチョンの小説作品の内側から響く通奏低音のようにして何度となく聞きとってきた声でもある。そういった”シンプルさ”というのは、作品の中でも決して嘲られたり軽んじられていたわけではない。むしろ強大なものとして描かれ、なんとか逆らおうとして失敗したり、部分的に成功したと思ったらやっぱり失敗だったり、逆らわずに済ませて失敗を回避したりする、情けなくも完全に見捨ててはいられないたくさんの登場人物の対向にある。決して打破できないが、そうは言っても「これはなんとかしないとね」という力だ。
だから本当にやるべきこと、やる価値のあることは、『ヴァインランド』を読みつつもそれはそれとして、『ワンバトルアフターアナザー』を一本の映画として独立に評価するということではないか。
時代の流れに逆らおうとしながら失敗したものの、アクション映画としては見るべきところのある高予算映画で、決して傑作とは言えないが映画館で見る分には間違いなく佳作といえる、ポール・トーマス・アンダーソン作品のなかではもっともつまらない映画というのがまともな評価だ。
弩級に面白い小説と、佳作の映画を並べて考えると、混乱してどっちがどっちなのかわからなくなるし、それで必要以上にイライラして余計にフラストレーションも高まっていくというようなことが起こっている気がする。普通そういうことは起きないはずなのだが、既存の価値判断に謎の液体をぶっかけて磁場を狂わせるというのが、天と地をひっくり返そうとする勢いで反体制的な、つよい魅力を持った何かの力だということは言えるかもしれない。
関係ないが、ある人物の持つ性質や属性、それにまつわる歴史を、記号化したひとりの登場人物で表そうとするな馬鹿、ということは思った。批評家的な視点を映画内部にメタ構造のように備えているからOKということにはならない。
そして、武装革命家の闘いより生活保護受給者の闘いのほうにより多くの見るべきものがあり、それは映画によっては表現され難く、小説という表現形式の台頭を待たねばならないというのが『ワンバトルアフターアナザー』と『ヴァインランド』とを比較してまず最初に感じられることだ。だから結局、何事にも適切な表現形式があるというだけの話だ。
買ってでもする苦労はできるうちにしたほうがいい。それはトマス・ピンチョンの小説『ヴァインランド』を読むことだ。


「買え、いくら出してもだ」奈南川零司

日記652

非点灯

2025/10/06 昨日
スタバを出てからダイエーで氷結GFを買って飲む。家人に歩かないかと打診したらしばらくしてから歩こうという返事がきたので最寄り駅からまいばすけっとまで歩くことにした。オリジン弁当で豚バラ辛子味噌弁当とライス中を注文して帰宅。アンシャーリーを見ながら食べる。19話はアンがグリーンゲーブルズに帰省する場面から始まり、ルビーが病気になって死期が近いという。全然そんな話は聞いていなかったのであまりの急展開についていけないのだが、やつれながらも空元気を出すルビーと、その痛々しい様子を見ていられないからルビーとふたりでは会わないようにするダイアナの気の弱い優しさ由来の冷淡さが堪えた。とくに詳しく描かれていなかったがダイアナの気持ちは理解できる。もしかすると大学で外の世界に出ているアンよりも顔を合わせる機会も多かっただろうし、そのときに何らかの衝突ないし決定的なボタンの掛け違いがあったのかもしれない。しかしいずれにしても早すぎる死を描くことでメメントモリや天国への道という信仰をモチーフにしようとするなんて作者は見下げ果てた下司だと思ってしまう。悔しいのはそれがフィクションの専売特許ではないところだ。アンシャーリーの時代にはとくにめずらしくない事態で、友人のうち何人かは若死にをしなければならなかったのだろう。だから許しがたいのは作者ではなくそうなるシチュエーションのほうだ。
アンはみるみる弱っていくルビーと会うのがつらくなって、途中で会うのを止めてしまう。ダイアナもだが、そうなるのは避けるのが難しいことだと思う。しかし、アンは一番つらいのはルビーだということに気がつく。生きているといろんな嫌なことつらいこと許せないことがあるが、それにしても若くして死んでしまうことでそれらのいろいろな嫌なことをつらいこと許せないことを含むよしなしごとから離れなければならないつらさほどではないだろうということだ。アンは心を消耗させながら昼間にルビーと会い、夜は疲れた心を解放するように机にむかって小説を書くという生活をしばらく続ける。メメントモリも天国ありきの信仰も、自分には理解の及ばないところにある思考だが、小説を書くことがアンの消耗した心を回復させるというのは理解できる気がする。ルビーもアンも心に思ったことを言葉にするのがそれぞれに難しい、しかしそこには何かがあるというふたりだけの邂逅を経て、その一部を天国への道と呼んでいた。言葉や概念がそれで正しいかどうか、それが自分の思考に沿うかどうかというのを超えて、そこには何かがあるはずだ。その邂逅を経てルビーの苦しさやつらさがすっかり無くなり、心安らかに死を迎えられたとは思わないが、「ああ、これですっかり可能になる」と心から感じられる瞬間があったのは確からしく思われる。どのようなかたちであれ、それは無いよりもあったほうが良いものだ。自分が信じないからといって宗教を信じる人をないがしろにはできない。それは自分の観点では、準備できないものに対して準備しようとする試みで、その役に立つと想定できるものは何でも使ってそう試みようとすることではないかと思う。感じ方によっては、本当に全然なりふりかまっていられないはずだから、藁をも掴もうとするのをとやかく言うことはできない。ただ自分にはそれが果敢ない藁に見えてしまうというだけの話だ。そこに目を釘付けにしたり、しかと掴んで安心しようとすれば、いずれ流れてくるはずの丸太の出現を見逃してしまうのではないかという合理的な恐れがある。


2025/10/07 今日
朝から出社する。図書館ポストで本を返却してから出社。午前中に事務仕事を終わらせ、なくても良い会議に参加し、昼過ぎから在宅勤務に切り替える。久しぶりによく行っていたバルボアに行って焼きカルボを食べる。最近大食しているのでいけるはずだと特盛700gを注文してみた。満腹が近づいてきても減らない皿に一瞬怯みそうになったが、四の五の言わずに口を動かし続けて完食した。俺の胃袋は宇宙だ。
鬼滅の刃のアニメを見る。「無一郎の無」の回で、よくある兄弟ものの結末を見せられたのだがやっぱり泣いてしまう。死や危険に備えて、脅威から守るために厳しい目線を切らないというのは、状況からすれば間違いではないどころか生存率をあげるための実効的な営みなのだろうが、結果としてそれで死期を早めてしまったとしても、相手に優しくあろうとするのはやっぱりそれはそれで合理的なのではないだろうか。生活が楽しいことは大事なことだし、生活を続けていこうとする以上、その試みが奏功すれば生活は続くのだから、その生活を楽しいものにするための努力は欠かせないし、何より重要なもののはずだ。無一郎の変な髪型にはとくに言及されないままで回想の両親・兄ともに死んでしまった。あの髪型の謎は霞の中に消えることだろう。
Youtubeで保護犬と受刑者のニュースが流れてきたので再生してしまう。シンプルだが力強い物語と映像があった。パクスという黒犬(1歳数カ月オス)が、元野犬ということであからさまに人見知りをしていて、彼が緊張と戦っている様子は他人事とは思えなかった。それでというわけではないが、人一般に対する警戒心を馴らそうとする試行には、完全に人馴れした犬には見られない知性のきらめきがあったように思う。こいつは安全なやつか?大丈夫なのか?と伺う上目遣いの瞳の揺れに、彼の不安な思考の動きが読み取れた。
定時退勤し、バスケをキャンセルし、スタバに行く。腰が痛いというのがバスケをキャンセルした理由だが、もっとテーブルに座る時間を増やしていくほうがいいのではないかと思うところもあり、しばらく考え事をしようと思ったのでスタバに行くことにした。
『理由と人格』を読み進める。今回はクレアが登場した。彼女は自分の子供を他の人に優先して助けようとする考えの持ち主で、それが不正だとしても自分はそうすることを選ぶという考えの持ち主でもあった。ここでのポイントは、自分の選んだ行動が不正であると知りつつそう行動し、それを改めようともしないが、そうすることが不正であるという考えを同時に持っているということだ。倫理がクレアの考えをどう扱うかに関心がある。だから続きが楽しみだ。ケイトといいクレアといい、彼女たちの存在が問題の所在や問題のかたちをわかりやすくしてくれる。自分は倫理や道徳によって自分の考えを補強してほしいという願望は持っていないと思う。だから自分のやることが不正であり、しかも自分がそう行動することは批判できないという捻れた考え方には馴染みがある。自分のやることが正しいという主張をしようとは思わないということだが、そんな主張が必要にならないというのは置かれた境遇によるものでしかなく、自分は運が良いということになると思う。そして自分は、運が良くない人にも当てはまるような普遍的法則を見つけたいとも見つけようとも思わない。自分や自分と似た境遇にある人のためだけに自分の持っているリソースを使おうとしていると言え、それは不正だろうと思う。しかし自分の持ち分をどう使おうと自分の勝手だと考えている。本当に自分勝手なことだ。
20時半すぎまでスタバにいて、酒を飲んで帰ることにする。明日も出社しようかどうか、ややハードなバスケに行こうかどうか迷っている。やる気次第、腰の回復具合次第だといえる。今判断できないことは判断できるときに判断するしかないということだ。

20251006

日記651

〇〇と豆の△△

2025/10/04 一昨日
映画『ワンバトルアフターアナザー』の朝の回を丸の内ピカデリーまで見に行く。Pixel6aのFelicaトラブルで改札を通れず電車を一本逃し、ドルビーシネマの紹介映像に間に合わないかと思われたが、日比谷から走ったおかげでぎりぎり間に合い、紹介映像を見られた。肝心のワンバトルアフターアナザーは娯楽作品として見る分には楽しんで見られた。
帰宅して冷食チャーハンを食べてから本を読んだり昼寝をしたりダラケて過ごす。このまま一日が終わりかねないところだったが、サイゼリヤに行きたいという家人の鶴の一声で笹塚のサイゼリヤまで散歩がてら歩いて向かう。しこたま飲み食いして二人合わせて3000円という破格に、まあまあ久しぶりのサイゼだったこともあり新鮮に感動した。小雨のぱらつくなか歩いて帰宅した。最高のシーズンを生きているという実感があり充実したような足取りになっていた記憶がある。


2025/10/05 昨日
12時から港区の小学校でバスケの大会があったので参加する。3チームでの争いだったのだが、2勝して優勝になった。今回の参加チームの中でズバ抜けて上手いガードとズバ抜けて得点力のあるフォワード、一番と二番目に背の高いビッグマンがいるチームだったので、正直負けるのもむずかしかった。勝ち負けと関係ないところで背中を負傷してしまった。ぶつけたとかではなく疲労系の故障なので、前後にきちんとケアをしたり、トレーニングをしっかりやらなければ。
田町から高輪ゲートウェイに移動し、Newomanのなかのカレー・ラーメン・ビールのフードコートでラーメンを食べる。祝杯代わりのサッポロ黒ラベルも美味しかった。あとは翌週に迫った家人の誕プレ候補を探したりなど、買い物に付き合う。といいながら半分以上は自分の買い物をしていた。駅の芝生で氷結を飲んでから帰りの電車に乗る。買い物中から背中がどんどん痛くなってきていた。最寄りのまいばすけっとで弁当を買ってきてもらい、家で食べる。『海に眠るダイヤモンド』を見る。そのなかのひとつだけでも一本のドラマとして成立する要素を盛り盛りにして全部しっかり描こうとしている意欲作で、テレビドラマにしてはかなり相当頑張っている。映画、アニメなどフォーマットにかかわらず頑張っている人はいるんだと思って、特定のフォーマットだから駄目だと判断するのではなく、きちんと良いものは良いと見極めていかなければ嘘だという、言葉にしてみれば当然のことを再確認した。テレビドラマだからといって舐めている場合では全然ない。ひとつのセリフ、ひとつの言葉によって人物に血を通わせようとする気迫のようなものが感じられる。ドラマっぽいものにしないという気概がありつつ、ドラマチックなことを言おうとする場面は人間誰しもにあるというという信頼をもって針穴を通そうとしている。ほかの作品について知っているわけではないが野木亜紀子は脚本家としてちゃんとした仕事をしていると思う。
背中・腰の痛みが早く引けばいいと願いつつ、出社に備えて早めに寝る。


2025/10/06 今日
腰が痛いのもあるし、眠かったので午前在宅にして8時半まで寝る。腰の痛みは起きてしばらくしても引いていかなかったので、結局、昼から出社にもせず一日在宅にする。仕事をサボるだけの時間を過ごす。TVerでオールスター後夜祭を見る。すこし昼寝。これでは駄目すぎると、言い訳のように『美の進化』をほんの数ページだけ読む。さすがにこれでは人の形を保てないと思ったので定時退勤してスタバに行く。やる気の出ないもとが『ワンバトルアフターアナザー』の感想を書きたいけど感想を書きたくなるほど面白くなかったと感じていたことだというのが、感想を書くことではっきりした。ちょっと元気が出たのでそのまま日記を書いて21時すぎにスタバを出る。外は涼しく最高の気候なので酒を飲んでから晩御飯を食べて帰ることにする。さすがに明日は出社しないといけない。

20251003

日記650

クラブ活動

2025/10/02 昨日
この日も一日在宅勤務。友人が家に来るのでいろいろと準備をする。仕事は暇でどうにでもなるという感じだったのに友人が下北沢駅に到着する時間になって急遽のタスクが降りてくる。仕方なく対応するが、無理して働いているフリしないでもいいよと言われてしまう。まあたしかにパフォーマンスの一環だと思えば今回ばかりはちょうどよかったといえるかもしれない。
荷物だけ置いてもらって下北の街に繰り出す。散歩中の犬がべつの散歩中の犬と遭遇し、大きい方が小さい方の鼻面に噛み付く場面にでくわす。驚きのあまり「コラ!」と言って周りを驚かせてしまった。
季節も季節だしこれはやりたいと思っていた路上飲みをいきなり実行に移すことができた。友人は何かとふざけたがるわりにスクエアなところもあるのですこしハードルがあるかとも思ったが、ヘラヘラしながらなんとなく提案して了承を取り付け、即ドンキで缶ビールを購入。ウェンディーズ近くの踏切の十字路で乾杯を済ませる。
そこからずっと路上飲み、路上飲みのみでもよかったのだが、まあさすがに勘弁してやるかということで店に入る。二、三回行って気に入っていた都夏(つげ)に連れていく。夏の終わりに行くのにもっとも適した店だと思うし、店選択は言うことなしだったはず。昔の話ばかりしていてはいけないという枷を自分に嵌めつつ、だからといって先の話にも具体的な展望があるわけでもなし、中途半端な発話に終始してしまった。お互い現状に不満があるというのではまったくないが、満足しているわけではないという中途感を確認したということはいえるかもしれない。友人は資格の勉強をして雇われではなく個人事業主で働きたいという展望があるということだった。自分は仕事に関しての希望はどれだけ短い時間で済ませられるかという税金感覚しかないので、そういう部分では話が展開していかない。昔目指していた職業について、今の感覚でやってみるのもいいかもしれないよという提案を受ける。たしかにそうかもしれないと思う部分がないではないが、自分の最強の欲求と付き合わせて考えるとそうでもないなという結論に今のところはなる。人と関係していく仕事に昔ほどの感覚がない。これはよくもわるくもということだが、自分の傾向からするとよくの部分が多い気がする。
一旦帰宅し、最寄り駅の気になっていた飲み屋に出かけようとする。しかし繁盛が閾値を超えて超満員だったので店には入れず。家に帰って宅飲みをすることにした。今回、Lシステインのことを教えられたのがもっとも大きい。二日酔いの頭痛が無くなることには大きな意味がある。飲酒に付き物の、なくてもいい苦痛が無くなることで大幅なQOLの向上を望めるからだ。
飲み終えて寝る準備をする。電気を消して寝る前の時間、昔タリーズでバイトしてその日のバイト代を全部使って飲んでいたとき、上七軒の下宿に泊めてもらったことを懐かしく思い出した。今とは比べ物にならないほどもっと不安定だったが、ある面での満足の度合いは今と変わらないと思った。慌ててもしょうがないが、もっと急ごうとしてみてもわるいことは何もない。


2025/10/03 今日
AM休を取って友人を見送りがてら下北沢まで出る。スタンダードベイカーズで朝食を摂ってから、朝の下北沢をスズナリ、リロードのあたりまで散歩して紹介した。成田空港からのフライトということで11時には解散。スタバに行き、図書館カウンターで受け取ったパーフィットの『理由と人格』を読む。分厚い上に大きい大著で読むのには苦労しそうだが、パーフィットのことを知るためには伝記のような半端なかたちでその生涯を追いかけるより、その著書を読むほうがむしろ効率的にちがいない。それはなぜか前後半2冊に分かれている伝記の前半を途中まで読んで感じたことだから伝記にも意味がないとは言えないが。
まだ1章の最初までだが印象的なのは「自分の本をよくする」という最強の欲求を持つケイトだ。書きたいという欲求と自分の人生を持っているすべての人にとって考えるに値する内容が考えられていると思う。避けては通れない、もし避けて通るためにはケイトと同種の最強の欲求を持ち、その欲求の成就に向け邁進するしかない考えだ。しかし、それについて「どうする、どうしよう」と考えるのは合理的ではないかもしれない。それは欲求の成就という観点からは立ち止まっているカウントになるだろうからだ。自分を納得させないと進めないというのはたぶん偽りなのだろうし。
しかし、それとは直接関係ないのでしかしというのもちがうかもしれないが、今時点でパーフィットについて思うのは、彼は人間が100人いるということを受け容れて、その利益が最大化するために思考しているということだ。人間が自分1人しかいないとすれば、「理由」を考えることは意味を持たない。しかし自分以外の99人の存在を認めるとすれば、「理由」について考えることは意味がある。その思考があるおかげで正しいと思う方に人を方向づけられたりするからだ。パーフィットは自分1人の人生を犠牲にしているという考え方ではないのだろうが、それを犠牲とは言わないまでも、ある時点から始まってある時点で終わる人格にとって、その接続(他に人が99人いる・人格が99あるという考え)は信じるに足るものなのだろうかという疑問が自分にはある。それはこだわるよりも通り過ぎるほうが理に適っているというのは感覚的に同意できる。ナンセンスを回避するという意味で受け取りやすい。しかしそうするとパーフィットの提出するような問題も同じように扱ってかまわないのではないか。どこに考える/無視するを画する一線があるのか。
ぜひケイトの意見を聞きたいと思っている。

20251001

日記649

青い月


2025/09/30 昨日
午前中在宅。昼からの出社をとりやめて一日在宅勤務にする。『海に眠るダイヤモンド』というテレビドラマを見る。
定時退勤しバスケのため狛江に行く。この日は参加人数が落ち着いていてプレー頻度も多く、参加者の塩梅がのびのびプレーできる感じでただただ楽しかった。
最寄駅で家人と合流し、まいばすのオリジン弁当で晩ご飯を買う。塩野菜炒め弁当のご飯特盛。帰ってご飯を食べながらアンシャーリーのたぶん20話を見る。アンが生まれて間もなく病気で亡くなった実の両親の暮らした家に行く話。最近三鷹の友人宅で幸福な劇を見たあとだからそこにある悲劇をイメージしやすくて苦しい思いをした。アンの出生の秘密を知ったからにはということで第1話を再視聴する。過激な感動家時代のアンもそうだが、何よりマシューが懐かしくて涙が出た。


2025/10/01 今日
朝から出社。溜めておいた仕事を片付けにかかる。午前中で完了できそうだったがすこし積み残ったので午後もオフィスで働くことにする。虎ノ門ヒルズで働くのも残りわずかだと思うと、まあ働いておいてやるかという感じだ。とはいえ16時にはタスク全消化しており、残りの時間をじりじりして過ごした。定時退勤して帰宅。2日連続のバスケになるが狛江に向かう。明日は関東に遊びに来ているタリーズ時代の友人と飲みに行くことになっている。三茶か下北か、いずれにせよ楽しみだ。

日記818

生まれいづるもの 2026/11/05 昨日 午前在宅。渋谷で健康診断を受けてから午後出社。普段とは別チームの打ち合わせに出る。報告メインだがそれも早々に終わり、あとは仕事上の世間話の色合いが濃い。円滑なコミュニケーションのためのコミュニケーション。べつに...