20261027

日記814

漢と犬

2026/10/25 一昨日 17084
スタバを出て帰宅。スパゲティ300gを茹でて食べる。ダイエーで初めて見たたらこソースを買って使ったがやはりあまり美味しくなかった。味はしっかりあるので食べられるのは食べられた。雨のなかバスケに出かける。高円寺体育館。この日はいつにもまして盛況で人数が多く、休みとプレーが交互だったのでそこまで消耗しなかったが、それでもかなり疲れた。どこも痛くないのにここという場面で走り負けたり、ここぞという場面でボールを要求できないなど、6分間を走りきる体力がそなわっていないのが浮き彫りになった。うまくなりたいという意欲はあるつもりだがそもそも走れないのでは何にもならない。前より走れるようになっていないというのが残念ながらすべてだと思う。パフォーマンスや出来というのは”走力”という土台の上に築くものだ。狛江でもよく会うおじさんに車で送ってもらう。典型的な講釈垂れたい型のバスケプレーヤーだが、さすが垂れ慣れているだけあって言っていることには一定の理がある。ずけずけと物を言っているようでいてじつは言ってもしょうがないことは言わないようにしているというのは年の功によるものか本人の資質によるものか。自分にもいろいろと注文がつくので、話半分で面白く聞いている。言ってきたことに疑問を返しても嫌な顔をしないどころか「それはね」と嬉しそうに返答してくれるので一見いやなやつのようでじつは良いやつなのかもしれない。それでこちらの聞く姿勢が話半分以上になるわけではないが。コンビニで酒を買って駅前広場で飲んでから帰る。ローソンに売っているチーズ2倍トルティーヤを買って食べる。やはり美味しくない。セブンの類似商品のほうが全然普通にうまい。それにしてもローソンに美味いものなしだ。バランスサポートブレッドは優秀だと思っているし、家人はスイーツコーナーを評価していたが、弁当類のセブンとの差はどんどん開いていく一方だ。こんなことは5年以上前から考えられていて理論上これ以上は開けないはずなのに、それでもどんどん差は開いていく。不可思議千万だ。


2026/10/26 昨日 7260
午前在宅。NBAを見る。スマホのマルチ画面で見るのが一番効率的に試合を消化できるということに気づいた。OKCのジェイダブという選手が試合中に深刻な怪我を負った。フルパワーのパフォーマンスを見ていると怪我をするのも当然だと思える。むしろけが人の数がそこまで多くならないのが不思議なほどだ。スポーツ選手は華やかだが儚い。
午後から出社。正直出社すると仕事が進んでしょうがない。進むからといってどんどん仕事を進めてもそれこそしょうがないので出社しようとはならないが、一定以上溜まってきたら出社すればいいと思っているところがある。まあまあの緊急事態(客からの大激怒の電話)が発生してその対応や状況説明に追われたが、上長に顔を合わせで説明したら納得を得られた。ただしその対応のために普通に1時間半の残業になったので八方よしとはならなかった。下北で下車し酒や惣菜を買って帰宅。ご飯を食べながら家人と『たちあがる女』を見る。個人が個人の責任においてインフラを破壊することで社会抗議活動をするというのは、個人という立場から否定できることではある。一方、社会人という観点や社会人という立場からそれを否定するのは当然可能ではあるものの、かならずしも有効ではない。当局の治安機能によって罰則を与えることやそれを肯んじることで抗議活動を否定するということがせいぜい社会にできることだ。『なめらかな社会とその敵』という本があったがそのタイトルを見て思ったことを思った。テロリズムとされる事象について個別に判断したり、その是非を評価することは今あまりにもできないという感覚はある。「ストップをかける」。人的被害を出さない方法でという条件を満たせばそれ以外に方法がない場合、そのこと自体は肯定されてしかるべき面を持つのではないか。正常に回る物事はそうでもしないかぎり正常に回り続ける。その正常のなかにそれこそ不当としか言いようのない人的被害が多く組み込まれている場合、それを止めるために必要なことは何だ。それを止める側として真剣にその方法を考えるとすると、まず驚くのはその方法の少なさと、行動によって見込める効果のうすさなのだろう。お邪魔者というボードゲームをお邪魔者としてプレーするとき、彼らが環境活動家として行き過ぎた資本主義を是正するためにサボタージュを試みているのだと想像してロールプレイすると、より真剣にゲームを楽しむよすがになると思った。今度そのつもりで遊んでみよう。『たちあがる女』はむやみに声高にならないで静謐のうちに主張する強度があった。犠牲者や身代わりがその都度発生するという機序はあるものの、それを肯定しないまでも即座に否定し去ることもできないのは、協力者を持ちながら女がひとりで抗議活動をしているという一点にあるだろう。その意味で、この映画を見るときに「たちあがる女たち」と間違って記憶していたのは大きな間違いだった。オルグせよ、団結せよ、というのはTRUEではない。この映画における音楽演奏者のように、あくまで個人としてべつの個人の側にいられたらと思うが、それは消極的で卑怯な態度だろうか。行き止まりを象徴する”水たまり”のラストシーンにも忘れがたく強い印象を受けた。


2026/10/27 今日 4160
一日在宅。昨日のインシデントの後処理をしながらNBAを見る。予約注文していたFitbit Edgeが届いた。さっそく設定をして左手に装着する。これまで運動関連のデータを取ってくれていたmibandはとうとうお役御免となるが、2,3日間だけ並行稼働させようと思う。移行前に各機の正確性を計測しておきたい意図からだ。mibandでたくさんのデータを取れた。歩数だけを見ても次の通りだ。そのほか心拍数や睡眠時間のデータもある。
2022年:8974歩/日
2023年:8247歩/日
2024年:10429歩/日
2025年:12590歩/日 
2026年:12652歩/日(10月27日現在)
データ取得はAI時代において明確になった”人間の職掌”だ。素材集めさえ欠かさなければ、つまり生活に組み込みさえすれば、その素材を使ってできることの幅は勝手に増えていく。写真も日記も広義のデータ取得にほかならない。
文学をこころざすというのは、個人という観点に依って社会に働きかけることだと思っている。個人という観点から、べつの個人へという方向でアプローチして、そこから社会に影響を与えることを目指す運動が文学の眼目にある。そう今の自分は考えている。いやしくも文学という以上、ただの体制批判に甘んじることがあってはならないが、それは体制批判を含まないということではまったくない。むしろ体制批判は前提のようなものであって、そこからそれ以上の何かを引き出すことを目指して文学は活動しなければならない。
定時退勤し理容室にいって白髪ぼかしの処置をしてもらう。スタバで日記を書く。気炎を吐いたあとなのでこの日は酒を飲まないでもいいと思われるかもしれないが、当然そういうわけにはいかない。そして、文学について付け加えると、上のような理路から「文学は教えられるものではない」と考えるようになった。ただし教えることはできなくても教わることはできる。個人が文学作品から教わるという仕方で。他人に向けて「それをしろよー」というのは教化ではなく扇動だ。自分が『たちあがる女』を見て今思っているのはたちあがる男でありたいということだ。それにつけて思い出されるのはトマスピンチョンの『逆光』(原題:Against the Day)。とくにすきな小説題のひとつだ。

日記815

観測士と観測助手 2026/10/27 昨日 6850 スタバを出てからファミマで氷結を買ってミカン入口で飲む。YoutubeMusicでひとまとめにして聞きたい曲でプレイリストを作成する。氷結は期間限定のキウイ味を買うつもりが見間違いでGFを買っていた。...