鈍角も鈍角
2026/10/16 一昨昨日 7599
昨日『海辺の一日』を見た。
映画を見ていると気づかないうちにドラマを探す。ドラマが物語の中心になり、そこを起点にして回っていくという視聴経験をたくさん持っているから、おそらくは心が安定を求めてドラマを探すのだと思う。映画『海辺の一日』は、まずそういった起点を構築しておいてから、徐々にそこから離れていくという方法をとって、いわば遠回りのようにして話を進める。それを指さして物語の脱構築を目論んでいるという見方がありえるかもしれない。しかし、それは論じる用の物の見方にすぎない。ようするにそういうのが好きな人にとっての中心がドラマではなく評論であるというだけの話で、『海辺の一日』の意図するところからすると、同じように離れるべき対象だとされるのではないかと考えられる。
そもそももし論じるとすれば、それにあたりまず言えるのは、海辺の一日という題が示唆的であるということだ。それはたとえば「女の一生」という言い回しとの鮮やかな対照をなす。つまり、部分と全体との項対立をイメージさせる。はるかな水平線という広がりでありながら、しかし、截然と分かたれた一線でもある海辺のイメージが焦点化するのは、それなりに長い期間ある人生におけるある特定の一日だ。見るものがこのイメージに入っていくためには、一旦、見るもののほうで自動的に作成される中心点から、見るものを引き離すことが必要になる。
そのようにして場を整えられた海辺の一日だが、それが指し示すものは直接的にはその一日の出来事でありながら、それだけではない。つまり、海辺の一日は一日にして成らずとでも言うべきことで、海辺の一日に焦点しようとする試みのなかに不可避的に入り混じる、それ以外の一日、その連なりが、あたかも図に対する地のように、その模様をあきらかにしはじめる。海辺の一日以外の毎日、それを間接的に指し示すことが、しかるべく場を整えられた海辺の一日にとっての可能事になっているのだ。私の人生にとっても海辺の一日と呼べる一日はあり、実際、この映画を見ながら私が考えていたのは、海辺の一日をできるだけたくさん作るように努めなければならないという被啓蒙的な感想だった。海辺の一日とそれ以外の一日があるとした場合、実際にこの私が過ごすことになる一日はできるだけ海辺の一日にするべきだというような、ある意味でまっとうかつ素朴な論理だ。
私はいま、平日の多くの時間をやりたくない仕事をして生活維持の資を稼ぐことに費やしている。こんな時間を持つぐらいならお金を一円も得られなくても海辺に佇んで水平線に目を凝らすようなことをして日を過ごすほうがよっぽど自分にとって有意義だと考えている。そしてそう考えながら実際にはそうできずにいる。つまり文字通り”『海辺の一日』ではない一日”を、これではないよなと思いながら一日一日過ごしているのだ。だから先の被啓蒙的な感想はわりとはっきり冗談などではなく、言葉にすれば明確に非合理で、しかもごくありふれた世間並みの滑稽味を帯びつつ、そのうえ今の自分自身にとってだけ切実なものだといえる。
登場人物のひとりが言う「ビジネスに家庭を持ち込むな」という論理は、優先度を定めてビジネスを家庭の上位に置くことでその価値を高く設定するための手段にもなる。しかしビジネスには登場人物たちのあいだでそう考えられているほどには価値のあることではないということが徐々に明らかになる。登場人物たちが自分たちのやっていることについて”大したこと”だと評価するために、彼らは彼ら自身を不機嫌にすることを強いられている。忙しく立ち働いていないと立ち行かないということこそが、彼らの仕事が大変であり、簡単ではないことの証明になるというような、学生が想像するには無理のある、はるかにすくない多段階(二段階)の論理にしかなっていない。忙しくしていることの利点として論理の検証をせずに済むということがあるため、論理が論理として論理的な整合性さえとれていれば、彼らはその論理は機能していると判断できる。学生には想像するのも難しいと思うが、論理のお粗末さというのは論理的ではないことのうちにしかないと考えていられるのだ。その単純さというのはあらゆる物事に忍び寄っていて、その結果として起こっているのは単純さという概念が消えかけているということだ。単純さは単純さを認識できない。
何かをつまらないものだと判断してそれとの比較においてそれとは異なるものを面白いと見なすことほどつまらないことはない。海辺の一日以外の一日を何か有意義な一日にするという発想は、まさにそういう項対立の考え方でしかなく、そうやって作り出された有意義な一日ほど名実ともに無駄な日はない。結局のところ、面白い一日というのはただただ湧いて出てくるものなのだ。不機嫌に日を過ごすことでその湧出を妨げてはならない。生活するのにお金が必要なのであれば稼ぐだけだ。それをする日は”海辺の一日ではない日”かもしれないが、海辺の一日は何も本当の海辺にだけあるものではない。目を凝らしさえすれば、たとえ水平線ではなくとも、そのときどきに見るべき線は見つかる。
一日在宅だったような気もするがもしかすると出社していたかもしれない。setlogで見返したら昼から出社していた。おそらくすぐに帰ってきてプリンタニアニッポンを読んだのだった。面白さがちょっとずつ出できた。スルメに味がするかのごとく。吹奏楽の練習から帰る家人を迎えに駅まで。月を見て酒を飲んで早めに寝る。つもりが漫画を読んで夜更かしになった。
2026/10/17 一昨日 20832
8時半に起きて家人の友人が教員をしている小学校まで運動会を見学に行く。不覚にも、と思った話なのだが、5年生のリレーに不覚にもぐっときてしまった。6年生のリレーはそれに比べて速さがあるだけで退屈だった。去年と同じコースを同じように走っているという感じが出ていたんだと思う。歴史を変えるという意気込みで臨んだという5年生のソーラン節がこれまた良かった。小学5年生をつかまえてその表現を”評価”するなんて、私は私なりに一生懸命生きているなあと思った。実際、身体を運んでそこに居てそれを見る以上、そうしないではいられない。
帰りに白糸というAIで看板のビジュアルを作成しているうどん屋でうどんを食べて帰る。鶏卵使い放題というサービスをこれまた真に受けて3個もカレーうどんに投入する。この日は生まれて初めてTシャツを汚さずにカレーうどんを完食できた日かもしれない。
帰宅して昼寝をしてからバスケに出かける。足の疲労はやはり抜けきっていない。が、痛むほどでもないので存分に動こうとした。高円寺学園。意図せぬバンクショットながらブザービートの3Pを決めたり、コーナースリーを決めたりできた。記憶ではゲーム中の3P成功率は2/3だったと思う。それでもハッスル感は乏しい。疲労がない状態でバスケをしたとき特有のハッスルを味わうためには3日間の休息が必須のようだ。高円寺駅前でキウイの氷結を飲んでから帰る。
2026/10/18 昨日 9383
前日の就寝時間から考えると朝早くに目が覚めてしまう。結果、寝不足気味の一日になった。代田ボドゲ会の活動日。はじめての試みとして地区会館での開催になった。絶好調とは行かないまでも、疲れが出てきた途中までは好調だった。タイムボム、人狼、お邪魔者と正体隠匿系のゲームばかりになった。やはりタイムボムが優秀。人狼はゲーム的なプレイ感から離れてもっと社交的なプレイ感にしたいのだがうまくいかなかった。試みとしては一日が過ぎる時間を2時間とか極端に長く設定することで、スピードより礼儀を重んじるようにしたかったのだが、タイムボムを遊んだあとだと普通にシロとかクロとかいうスピード感になって意図した通りに全然いかなかった。まあ全体が楽しいのが一番で自分個人としても十分楽しかったから良かった。19時半の終会時にはさすがに疲れていたけど。
ダイエーで酒と飯を買って帰宅。家人とふたりでキングオブコントを見ながら飲み食いをし、途中で寝落ち。そのまま寝る準備に移行して寝る。蛙亭のところで寝落ちしてしまった。ちなみに面白くなかったとかではなく身体の限界という感じ。ヤッホイの「チャーシュー麺、チャーシュー12倍。」で腹が捩れるぐらい笑った。あとは芸もあれば礼もあるサラリーマンの宴席芸を演じ切ったジェラードンも素敵だった。
2026/10/19 今日 5108
午前在宅勤務。10時間ぐらい寝て体調が久しぶりに絶好調になった。ここのところずっとうっすら寝不足で体調が万全ではなかったということが事後的に明らかになった。気力体力が充実しているうちにできるだけ漫画を読んだりしたかったが仕事のコールがうるさくて集中できなかった。週次定例に参加するため昼から出社。仕事をぐいぐい進めて定時で退勤。やるべきことをやってすっきりするとやっぱり調子が良い。一番はよく寝ることだが、達成感もあって元気の感が強く、こういう日を無駄にはできないとあわててスタバに行った。映画の感想を書いて日記を書く。酒を抜ければ一番いいのだろうがおそらく私は酒を飲むだろう。20時すぎにスタバを出る。