20261019

『海辺の一日』を見た

エドワード・ヤンの長編デビューの映画 『海辺の一日』を見た。

映画を見ていると気づかないうちにドラマを探す。ドラマが物語の中心になり、そこを起点にして回っていくという視聴経験をたくさん持っているから、おそらくは心が安定を求めてドラマを探すのだと思う。映画『海辺の一日』は、まずそういった起点を構築しておいてから、徐々にそこから離れていくという方法をとって、いわば遠回りのようにして話を進める。それを指さして物語の脱構築を目論んでいるという見方がありえるかもしれない。しかし、それは論じる用の物の見方にすぎない。ようするにそういうのが好きな人にとっての中心がドラマではなく評論であるというだけの話で、『海辺の一日』の意図するところからすると、同じように離れるべき対象だとされるのではないかと考えられる。
そもそももし論じるとすれば、それにあたりまず言えるのは、海辺の一日という題が示唆的であるということだ。それはたとえば「女の一生」という言い回しとの鮮やかな対照をなす。つまり、部分と全体との項対立をイメージさせる。はるかな水平線という広がりでありながら、しかし、截然と分かたれた一線でもある海辺のイメージが焦点化するのは、それなりに長い期間ある人生におけるある特定の一日だ。見るものがこのイメージに入っていくためには、一旦、見るもののほうで自動的に作成される中心点から、見るものを引き離すことが必要になる。
そのようにして場を整えられた海辺の一日だが、それが指し示すものは直接的にはその一日の出来事でありながら、それだけではない。つまり、海辺の一日は一日にして成らずとでも言うべきことで、海辺の一日に焦点しようとする試みのなかに不可避的に入り混じる、それ以外の一日、その連なりが、あたかも図に対する地のように、その模様をあきらかにしはじめる。海辺の一日以外の毎日、それを間接的に指し示すことが、しかるべく場を整えられた海辺の一日にとっての可能事になっているのだ。私の人生にとっても海辺の一日と呼べる一日はあり、実際、この映画を見ながら私が考えていたのは、海辺の一日をできるだけたくさん作るように努めなければならないという被啓蒙的な感想だった。海辺の一日とそれ以外の一日があるとした場合、実際にこの私が過ごすことになる一日はできるだけ海辺の一日にするべきだというような、ある意味でまっとうかつ素朴な論理だ。
私はいま、平日の多くの時間をやりたくない仕事をして生活維持の資を稼ぐことに費やしている。こんな時間を持つぐらいならお金を一円も得られなくても海辺に佇んで水平線に目を凝らすようなことをして日を過ごすほうがよっぽど自分にとって有意義だと考えている。そしてそう考えながら実際にはそうできずにいる。つまり文字通り”『海辺の一日』ではない一日”を、これではないよなと思いながら一日一日過ごしているのだ。だから先の被啓蒙的な感想はわりとはっきり冗談などではなく、言葉にすれば明確に非合理で、しかもごくありふれた世間並みの滑稽味を帯びつつ、そのうえ今の自分自身にとってだけ切実なものだといえる。
登場人物のひとりが言う「ビジネスに家庭を持ち込むな」という論理は、優先度を定めてビジネスを家庭の上位に置くことでその価値を高く設定するための手段にもなる。しかしビジネスには登場人物たちのあいだでそう考えられているほどには価値のあることではないということが徐々に明らかになる。登場人物たちが自分たちのやっていることについて”大したこと”だと評価するために、彼らは彼ら自身を不機嫌にすることを強いられている。忙しく立ち働いていないと立ち行かないということこそが、彼らの仕事が大変であり、簡単ではないことの証明になるというような、学生が想像するには無理のある、はるかにすくない多段階(二段階)の論理にしかなっていない。忙しくしていることの利点として論理の検証をせずに済むということがあるため、論理が論理として論理的な整合性さえとれていれば、彼らはその論理は機能していると判断できる。学生には想像するのも難しいと思うが、論理のお粗末さというのは論理的ではないことのうちにしかないと考えていられるのだ。その単純さというのはあらゆる物事に忍び寄っていて、その結果として起こっているのは単純さという概念が消えかけているということだ。単純さは単純さを認識できない。
何かをつまらないものだと判断してそれとの比較においてそれとは異なるものを面白いと見なすことほどつまらないことはない。海辺の一日以外の一日を何か有意義な一日にするという発想は、まさにそういう項対立の考え方でしかなく、そうやって作り出された有意義な一日ほど名実ともに無駄な日はない。結局のところ、面白い一日というのはただただ湧いて出てくるものなのだ。不機嫌に日を過ごすことでその湧出を妨げてはならない。生活するのにお金が必要なのであれば稼ぐだけだ。それをする日は”海辺の一日ではない日”かもしれないが、海辺の一日は何も本当の海辺にだけあるものではない。目を凝らしさえすれば、たとえ水平線ではなくとも、そのときどきに見るべき線は見つかる。
自分にとって『海辺の一日』は、そういうことがじっくりと明らかになる映画体験としてスクリーンから表れてきた。今年は海辺から海を見ていないので例年に比べると目が水平線に引き寄せられる度合いが大きかったような気がする。それも心地よかった。

『海辺の一日』を見た

エドワード・ヤンの長編デビューの映画 『海辺の一日』を見た。 映画を見ていると気づかないうちにドラマを探す。ドラマが物語の中心になり、そこを起点にして回っていくという視聴経験をたくさん持っているから、おそらくは心が安定を求めてドラマを探すのだと思う。映画『海辺の一日』は、まずそう...