20240331

日記336

春2024

2024/03/30 昨日
昼すぎに下北沢に集まって同居人とカルパシというカレー屋にいく。スパイスカレーとスパイスを使ったジェラートのセットで、味覚への情報量が多く魔法みたいなご飯だった。
表参道に移動して同居人と別れ、友人と花見散歩を開始する。神宮球場と国立競技場を抜けて千駄ヶ谷まで歩いた。そこまではよかったのだがどんどん歩いていくと原宿に到着してしまった。本当は九段下にいくつもりが大失敗。仕方ないので山手線に乗って目黒に行く。プランBの目黒川の川下りコースを実行に移す。目黒から五反田、五反田から大崎に行く途中で人口芝の広場に人たちが座り込んで花見の真似事をしているのに出くわした。ところで花見散歩だが、肝心の桜はバグのような一輪、二輪が勇み足で咲いているだけで全体的には0.2分咲きといったところで、ただただ天候が良いという外飲み日和に過ぎなかったが、花より団子の言葉通り、大量のみたらし団子を座の中心に据えている組があったり、みんなして花見には桜は必要不可欠ではないということの具体例を提供していた。
日が暮れる手前まで居座って近くのファミマの缶チューハイを飲み、同じくファミマのあたりめ、ポップコーンをつまみ、子供連れやカップルに紛れて視覚芸術の話をした。友人と話していると自分は大学で遊んでばかりいるようでいてある程度の勉強はしてきたんだなという気になる。専門科目より一般教養の授業が楽しかったことを思い出した。話を聞いていると友人は図書館で適当に借りた本を読むことで通り一遍の教養を得ようとしているようで、効率の面ではかなり落ちるだろうから正直あまり勧められないやり方だと思うが、それにしても何も読まないよりは読んだほうがいいんだろうし、かといってこれを読んだほうがいいよとアドバイスがあるわけではないのでそのまま流してしまった。自分はこれが好きというものを見つけたいというのが望みなのだとしたら一般教養は必要ないだろう。それでも絵について誰かと何かを話す場合に何も知らないというのでは実際話にならないと思うので、その分野の教養は身につけるのが良いと思う。とくに何かを話したいというのではなければ不要だが、お喋りの話題にしたいという望みはもっていそうなので、語りの土台として教養はやっぱりあったほうがいい。
北品川をこえて天王州アイルまで歩き詰める。運河にぶちあたり海にたどり着くのはさらに先になりそうだったので今日はここまでにして天王州アイルから新宿まで移動。
新宿中央公園の芝生エリアで夜桜を鑑賞する用のライトアップ照明に照らされた桜の枝を見ながら、同様のエア花見の花見客に混じって花見をする。一時間弱そこにいてから新宿で解散。
下北沢でご飯を食べてから帰ろうと思ったが目当ての店が閉まっていたり混んでいたりで断念して、結局セブンの親子丼を買って帰ってそれを食べる。有吉の壁の続きを見る。AIにコンビを決めさせてネタを書かせる企画のネタが異常につまらないものばかりで、それに全乗っかりで真面目に演技する芸人たちのパフォーマンスにめっちゃ笑ってしまった。不条理に直面して足掻く人間の姿には本質的な可笑しみがある。

2024/03/31 今日
九時過ぎに起きる。同居人が走りに行くというので自分も運動不足が深刻であることから急遽走りに行くことにする。絶好のジョギング日和で、緑道にはランナーがたくさんいた。エクササイズにはケンドリック・ラマーと決めているのでハンブルを流して走り始める。が、サビ前に背中がピキピキいいはじめる。背中の異変を感じてなかば強引に背中を伸ばそうとしたのが完全な悪手で、歩けないほど痛みが激しくなってしまった。なんとか気持ちを落ち着かせてよたよたと歩き、水分補給が肝心だと思ったので自販機を探す。しかし電子マネーが使用できる自販機が見当たらず。前から同居人が颯爽と走ってきた(普通に走っていただけだが自分の状況からすれば颯爽と走ってきたように見えた)ので、なんとか走っているポーズを取ってすれ違う。しかしそのポーズで痛みが増してしまい、しばらくその場にうずくまることになった。緑道はどこまでも続いてはおらず、すこし行った先に折り返しポイントがあり、往復するコースになっているので、すれ違ったあとはこちらがそこで止まっている以上追いつかれることになる。思っていたよりも早く追いつかれたので、簡単に事の顛末とリタイヤを告げ、コンビニで経口補水液Verのアクエリアスを買って飲みながら家に帰る。春らしい陽気からくる暑さと背中の痛みとで汗をかきながらほうほうの体で帰宅。すこし安静にして歩けるようにはなった。
その後、いろいろあって豪徳寺に行く。昼食をとる店を探すが適したところを見つけられず、一旦最近開店したドーナッツとコーヒーを売るおしゃれなショップで腹ごなしをする。
それで元気が出たので春の陽気に誘われて経堂まで歩く。はしぐち亭という洋食屋でハヤシライスを食べる。経堂の古家具屋に立ち寄ってからLUUPの60分無料クーポンを駆使して下北まで帰る。ダイエーで晩御飯の食材を購入し、図書館カウンターで予約していた『暴力の人類史』の下を受け取る。
LUUPを返却し一旦帰宅してから、せっかくの陽気でもあるので、まだ背中は痛いもののプールまで行って泳ぐことにする。途中羽根木公園を通ったら、賑やかなエア花見客がここにもいた。さすが桜が咲いていないだけあって人のボリュームが過剰になっておらず、すごく楽しそうだった。おそらく桜が咲き始めるとこうはいかないだろうと思われる。春の陽気さえあれば花見に桜はいらないのかもしれない。
久しぶりのプールはやっぱり楽しかった。大量の水に身体を浸して手足をばたばたさせたりゆらゆら浮かんだりするのは特有の面白さがある。帰りしなに梅ヶ丘駅下のスタバに行って読書をしてから日記を書く。翌日が新職場の勤務初日になるので自己紹介挨拶の文面を考えようとしたのだが、それは帰ってご飯を食べてからやることにする。二十時過ぎに電車に乗って帰宅。

20240330

日記335

怪獣一号

2024/03/29 昨日
雨。午前中からスタバに行く。窓際の席に座って雨が水たまりに落ちて水紋を作る様子や定期的に通り過ぎていく電車を眺める。
昼過ぎになって雨が止んだので外に出てなおちゃんラーメンを食べる。その後、駅前でこれからどこにいこうかという宙ぶらりんの状況を楽しんでから、一旦帰って昼寝することにする。三十分程度ねむってから『オッペンハイマー』を見に行くことを思い立ち、新宿TOHOのIMAXレーザーの回を見つけたのですぐに席を予約して飛び込む。
序盤の主人公の人物紹介のシーンで内的宇宙をさしはさむ見せ方が面白かった。視覚的に豪華な映像は宇宙をふくめた外世界の描写に多く見られるが、それを主人公の見たビジョンに使うのが許されるのはクリストファー・ノーランかテレンス・マリックくらいだろう。テレンス・マリックの映画が極度につまらないことを考えれば実質ノーランが唯一無二だ。
序盤中盤だけで映画として完成させようと思えば完成させられるのに、終盤の会話劇を描いたのはこの映画の描きたかった中心がそこにあるからなんだろう。しかし、どうしても開発環境における装置の技術的成功と本番での使用に重点が置かれてしまい、その後ほとんどシームレスに続いていく会話のほうに意識を集中させられなかった。映画を見ていて取り残される感覚になるのは覚えている限りではこれが最初かもしれない。つまらなくて途中で寝た映画では取り残されたという感じはしない。しっかり目を開けて、目の前で繰り広げられる展開に興味を持って追いかけているのに話のポイントがわからない。他人の映画を見た感想で「ついていけなかった」というのを見たことがあり、どういうふうに思うんだろうと疑問だったが、こういう感じがするものなのかと思った。演出によってそのセリフに含まれた意味があるというのはわかるのに、肝心のメッセージが伝わってこない。映像的な洗練は感じられるので全体としての印象は良いのだが、何をもって良いと思うのかその中心部分が空白になっていて不安な気持ちがある。クリストファー・ノーランという監督のことがこれまでの作品によってわかっている気でいたが、軌道修正が必要なようだ。中盤から終盤にかけては反省・内省が欠かせない要素として入り込んでくるが、それをするには劇的で刺激的な演出が多いのではないかという気がする。しかしそれはハリウッド映画というのはこういうものだというこちら側の見方の問題なのかもしれず、ノーランはその修正を要求してもいいレベルの監督だと思うからこっちで修正してからもう一度見に行くようにしたい。
最初のほうのシーンでリンゴを毒リンゴに変えるところは、寓意と史実と登場人物紹介の三つを兼ねた見事な場面だった。ひとりのやったこと(やらなかったこと)で歴史はまったく別様に変わったかもしれないという劇的なものの見方に観客を引き込むという意味でも効果的だ。歴史にIfはないというけれど物語にはそれがある。
この映画に直接関係ある感想ではないが「ついていけなかった」というのはやっぱりショックなものだ。大学一年ではじめてドストエフスキーの『罪と罰』を読んだときには読み終わったのに面白いと感じられなかった、ついていけなかった、という感想を持ったものだし、その後、主だった小説をだいたい読み、文学についてはある程度理解できるという自信を得てからはじめてピンチョンを読んだときにも同じような感想になった。そのときには理解するための唯一の効果的な方法は再読することだと知っていたから再読することにして結局自分なりのやり方で理解できるようになった。だから「ついていけなかった」という感想がたまに出るのは当たり前のことのはずで、その場合に何をしたらいいのかもクリアなのだが、問題はノーランの映画でそれが出たことで、もしオッペンハイマーがテネットやインタステラーと変わらない難易度の作品だった場合、明らかになるのは理解するための運動神経が落ちているということだ。それは有り得そうなことだしそのことにショックを受けたと言い替えてもいい。
もしくは、一度見て理解できるものだと考えていた自分の慢心のほうにショックを受けるべきかもしれない。いろいろな作品に触れるうち、いつの間にか成長してだいたいのことが理解できるようなったというのは幻想だ。そのことについて幻想だと掴みながら、仮定の話として読み進めるということができていたのに、いつの間にか仮定という前提が消えて、そういうことができるものだと普通に考えるようになっていたとすれば、それは過信ということになる。
当然のこととして作品にただ触れるだけでは成長はのぞめない。また、作品に触れる以上のことは現状できていない。作品理解といってももともと自分が理解できる部分を理解するだけのことだし、それによって自動的に伸長する能力というものはない。もちろんそれがあると思うのは作品を楽しむための要素のひとつで自分にとってはわりと欠かせない部分だ。しかしそれは幻想パートだというのは前提として持っていないといけない。そうしないとまたいつの間にか「ついていけなかった」といって悲しんだり、もっとわるくするとそのことで作品を貶し始めるという情けない事態に陥ってしまう。それはお笑いというジャンルではすでに起きていることだ。他人のそれがどうしても目立つが、どう考えても他人事ではない。
表参道に移動する。七時半ぐらいに新宿駅に向かおうとしたが東口がものすごく混んでいてしばらく全然前に進めなくて驚いた。原宿乗り換えで表参道に。ブリトーのおいしい店があるといって連れて行かれたのが青山大学向かいのグズマンイーゴメズでずっこけそうになったが、食べてみるとたしかに美味しかったしボリューミーなのが嬉しかった。

2024/03/30 今日
昨日といい今日といい花粉がひどくてまぶたがパンパンになるところまできた。鼻水は言うに及ばず。『落下の解剖学』を見に行く予定が、同居人が「途中で目が覚めて眠れなかった」おかげで別日に変更になる。仕方ないといえば仕方ないし、寝不足の解消が映画鑑賞に優先するということもないので切り替えて洗濯機を回したあとスタバに行くことにする。オッペンハイマーのことを思い出したり反芻する前につぎの映画を見ないというのは結果的によかったと思う。
なぜアインシュタインが鬼でも見たような顔になっていたのかというのがひとつのポイントだが、それがうまく掴めないところにフラストレーションの大もとがある。
事績の評価と、責任の範囲(主体がわたしでは留まらないということ)の示唆だろうと思うのだが、「彼ら」と「私」と「私たち」の関係が各主体から見たときほぼ一様に、実際の順位とは逆転された順位になっていることを言いたかったんだと思う。映画においてトルーマンだけは「私」の責任をはっきり表現していた。それは彼の事績の評価が罪よりも功績に振れていたからそうするだけの動機があったともいえる。そうだとしても、オッペンハイマーから見たとき、「彼ら」を隠れ蓑にして「私」から「私たち」に逃れるよりは、「私」を主張するほうが正しいように思えたのではないか。
より単純には、事績を過小に評価するものの見方をたしなめられたということが原因だろう。

最近の日記の文章の乱れがなかなかすごい。書きたいように書くということを突き詰めると、読んだときに意味の通りにくい文章が生まれる。投稿するときに一度読み直すということもしていないので、ねじれていたり収まりがついていなかったりする文章がそのまま掲載されていく。一年後運が良ければ修正されるかもしれないし修正されないかもしれない。いずれにせよ日記よりはまだ読み返したりなんだりする感想記事をもうすこし時間をとって書くべきだという気がする。文章が乱れていると頭が整理されていないような印象を与えてしまう。それは実際にあてはまることではあるんだけど、そこが強調されすぎてしまうのもちがう。頭が整理されていないのはデフォルトではあるんだけど、それなりに調子良く整理されきらないところに頭を持っていけてるということが伝わっていかないと一年後の自分を含めた読者に心配されてしまうんじゃないか。最近文章めちゃくちゃだけど大丈夫です。

20240328

日記334

ピース

2024/03/27 昨日
表参道の中西という大衆居酒屋で飲む。コロナビールがレモンまで付いて二八〇円という破格だったが、料理の値段はそれなりだったので結局ふたりで四千円ぐらい掛かった。三杯のんでお腹いっぱいになったから飲み屋としては安いほうだろうけど、お酒の安さを考えると意外に高いという印象で終わった。
下北からの帰り道にも氷結を飲む。帰宅後有吉の壁を見て早めにねむる。

2024/03/28 今日
昔(といっても東京に来てからのことだが)仲良くしていた友人が夢に出てきた。何か大きなプロジェクトをすすめていてそれが終わりかけの頃に、それまでの脈絡とは関係なくばったり再会したような感じだったが、どんなプロジェクトだったのか、どこで再会したのかも忘れてしまった。ビルが林立しているなかに公園があったので新宿だったような気がするけど確証が持てない。
一方その頃、同居人はBが攫われて命がけで取り戻しにいく夢を見たらしい。Bを外に連れ出し、家の前に置いてちょっと目を離した隙にその家の人間に盗まれたとのこと。たまたまその家の人間のブログを見て写真に映ったBをみて、Bじゃね?となって取り返しに行ったらしい。忍び込んでBを見つけて持ち上げたまでは良かったが、その家のお手伝いさんに見つかる。万事休すかと思われたが、そのお手伝いさんは、生気こそないものの、頬のあたりに傷があることを教えてくれたうえ、手当してくれようとする優しさを持ち合わせており、良い人もいるんだとホッとした。「救急箱を持ってくるからちょっと待っていてね」と言われ、待っているときに救急箱ではなく包丁を持ってくるイメージが浮かんだ。直感に従いその場から逃げ出そうしたとき、救急袋からハサミを取り出すお手伝いさんと目が合い、すごい剣幕で追いかけてくるのであわてて逃げた。門のところで追いつかれ格闘になったが包丁を取り上げることに成功して事なきを得た。Bは一応無事だったが、ニットが毛玉だらけになり片方の目が落ち窪んでいかにも悲しい見た目になってしまい、内心で「買い替えないと」と思ったことがこの夢の一番悲しいところだったと言っていた。たしかにそうだ。
十時にスタバにきて読書。日記を書いてから野暮用のため東陽町にむかう。
東陽町で菜香菜という中華料理屋に入って昼食をとる。きくらげと卵の炒め物セットに一五〇円で唐揚げ二個をつけて合計千円ぽっきり。ご飯大盛りとおかわりも含めてこの値段だったので満足感があった。味もよく、店内も改装したてのような綺麗さでさすが江東区まで来ると飲食店のレベルがグッと上がるんだなと感心した。
免許更新忘れによる失効(三年ぶり二回目)で証明写真撮影も含め六千二百円の出費になった。講習もたっぷり二時間講習コース。二度あることは三度あるということの無いようにしたい。帰路でなぞの胃痛に襲われる。おそらくは昼の食べ過ぎが遅れてきたのだろうと当たりをつけたが、たぶんその通りでお腹をおさえながら駅について電車に乗る頃にはだいぶ落ち着いていた。それでもまっすぐ帰宅して一旦家で横になる方針に決める。念の為の処置だったがこれが功を奏して完璧に胃痛はなくなったのでふたたびスタバに出かける。途中雨が降り始める。
一度目の帰宅時、K2の予告ポスターに「ジョン・カサヴェテス」の文字を見つけた。4月から特集上映が組まれ六作品上映するらしい。せっかくなのでできれば全作見たい。K2は普段商業寄りでない”邦画”の上映ばかりで、せっかく最寄りの映画館なのにもかかわらず自分にとっては映画館として機能していないので、こういう機会はしっかり掴むようにしたい。こけら落としのときの濱口竜介特集以来のナイスな試みだ。
ちょっとお腹が痛くなっただけで、致命的な病気の発症かと極端な事例を想像して心配になる。このまま死ぬことになると考えるのはちょっと無理すぎる。仮定の話でも考えたくない。
生活を立てるために必要なコストがあり、自分はそれを支払えるだけの労働をしなければならない。そういった労働もなんらかのかたちで制作に役立てば良いと思うしそうしようという意識で取り組んでいるもののやっぱり租庸調は租庸調なので無いに越したことはない。時間が取られるというのもそうだが、制作に役立てるためになんとか労働側の感覚を取り込もうと思うと、そのなかで通用する論理にしっかり取り込まれそうになる。半人前の社会人から0.7人前の社会人にしかなれないのに、言っていることは一丁前の社会人のようなことを言っているというようなことにならないように気をつけないといけない。ミイラ取りが(ゾンビスレイヤーが)ミイラになる(ゾンビになる)、とか言っている場合じゃない。そもそも自分はミイラ取りになるつもりがないんだから(ゾンビスレイヤーって何だ?)。
昔にくらべると所得が増えたのに、そのぶん生活の維持にかかるコストが高くなっているだけで労働時間が減っていかないのはやり方を間違っているとしか思えない。自分の頭の中に労働環境の論理の占める割合が高くなっているのが気に入らない。原因は自分の頭が萎んでいるのもそうだし、生活の維持のために労働環境を手放せないという意識からその思考にすすんで染まろうとしているのもそうだ。グーグルアナリティクスの学習をすすめるというタスクがスタバに来たときに自動的に入ってくるのも意味がわからないことだし、それが小説を書くことより上位の優先順位になっているのはまったく理解に苦しむ。……本当はやったらやっただけの進捗がある学習の方に逃げたというだけのことなのだが、いつの間にかそっちにリソースを振り向けるような姿勢が出来上がっている。
いつも行っているスタバの店員が卒業するとおぼしきメンバーに花束・メッセージの寄せ書きを渡している。去年も同じような光景をみて良いな寂しいなと思ったものだが、今年が去年とは違うのは、「あれからもう一年か」という慄きが過半を占めていることだ。

20240327

日記333


2024/03/26 昨日
早めに十九時半ごろにスタバを引き上げる。雨と強い風の中を帰宅し、リゾットを食べながら映画『ザ・ギャンブラー』を見る。
最初に出てきた祖父の喪に服す作業を主人公はしていたように見える。破滅的な行動をしたいからというのではなく、何をやっても破滅しない、破滅とは縁遠い自分の生活を本人なりに立て直す必要があってギャンブルに打ち込んでいたように見える。もともと遊びで賭け事をやっていないとあの場にいて堂々と賭けることは不自然だし、しかしあのような賭け方をしてすでに破滅していないというのも不自然なので、考えられる筋道は「それなりのギャンブラー」から「自己破壊的なギャンブラー」への変態を遂げた一時期を描いたものという解釈しかない。そしてそのきっかけになると判断できる材料は劇中では祖父の遺言しかない。結局は死によってすべてが失われるのに、すべてを得た(得ている)ような顔をさせられることに主人公は我慢がならなかったのだろう。才能のないものはごく素朴に才能という言葉を使い、欺瞞を憎む。正直さや誠実さが、もっといえば自分を偽る必要のなさこそが才能によって得られる恩恵だと信じるからだ。ジョン・グッドマンの「ファックユー理論」はそれのわかりやすいバージョンで、お金という数値化できるものを使っているだけで本質的には主人公と同じ世界観を共有している。スポーツ選手として成功できる一握りの人物が考えそうなことがなんとなくみんなに共有されて、考え方だけがひとり歩きしている状況に近い。彼を一流たらしめているのは体力と運動神経なのだが、まるでそういう考え方をするから成功したと言わんばかりだ。これは考え方は体力と運動神経とはちがって簡単に真似できるから、受け取り手はそれを知ることで素早く解決した気になれることによる。
文章という数値化できないものを云々し、才能があるとか無いとかいって若い人間向けに断定調で語りかけるとさも才能がありそうに映るということを、主人公はともかくこの映画の作者は理解している。
この主人公の世界観は総じて退屈でくだらないものだが、それでもこの映画が面白いのは、すべてを賭ける運任せのギャンブルが心底から馬鹿馬鹿しいと感じられつつも、賭けの結果に否応なく感心が引きつけられるところだ。物語上そうなるに決まっているのに、カメラがルーレットに落ちた玉の行方にパンするタイミングが絶妙に遅く、じれったくてつい覗き込もうとしてしまった。
主人公が悩んでいるとおぼしき悩みにくらべて彼の考え方がものすごく陳腐なことはさしおいても、娯楽映画としての出来は良いと思う。マーク・ウォルバーグのあの破滅的な髪型だけはどうにかならなかったのかと思うが、終わり方もふくめ爽快感があって楽しめた。

2024/03/27 今日
天気が良かったので江の島にいく。はじめて鵠沼海岸駅で降りたがこれがめちゃくちゃ良かった。片瀬江ノ島駅が観光地湘南でこちらがローカル湘南だ。タコスの名店でタコスセットを食べてドスエキスラガーを飲んでから海岸沿いを歩く。江の島まで歩いてからちょっと座って休憩。もと来た道を引き返す。雲の合間からさす光と海の反射がきれいだった。あとはビーチに足を運ぶたび思うのは波の音が最高だということだ。
十八時頃に下北に戻ってスタバで読書して日記を書く。これから表参道の飲み屋に出かけてビールを飲む。

20240326

日記332

高架下・駐輪場・壁画・歩行者

2024/03/25 昨日
スタバに行ったあと、家にある豆乳鍋を目指して駅から氷結を飲み始める。豆乳鍋を食べながら酒を飲んで、納豆ご飯も食べたらお腹がパンパンになった。録画していた有吉の壁を見た気がするが、昨夜のことなのにほとんど記憶がない。有意義な時間と休息の時間をしっかり分けすぎていて、休息の時間はほとんどねむっているも同然なので、実質の睡眠時間が一〇時間を越えていることになる。眠る時間をしっかりとるかわりに完全な休息の時間をもっと減らしてよいのではないかと思うが、スタバに行ってやるべきことをしっかりやったら帰り道には喉が渇くっていうのが人情ってもんではないだろうか。しかしこのやり方では健康上の問題として浮上してくるのもそう遠いことではないという気がする。持続可能な開発目標を立てるにあたり、酒の頻度を削減しないといけないのはわかっているのにそうできないのは危険サインだ。まあ酒量は大したことないんだけど。二十三時すぎに就寝。

2024/03/26 今日
六時半に目が覚める。出社の日なので二度寝することもできず、そのまま起きてシャワーを浴びてしまう。雨のなかの出社が最終勤務になった。昼までに引継ぎが全部終わったので午前中に「もう帰っていいですか?」と聞いてみたら普通に駄目と言われた。こういう場合、駄目なら駄目でそれはそれでよくて、「帰れるのかな帰れないのかな。言ったら帰らしてもらえるのかな」と考え続けて時間が過ぎるのが一番のストレスになるので、言ってよかったと思う。十七時半までの契約なんだから残りましょうよ、と若干呆れながら言われたが、自分の主張を出せたことともう二度と会うことはないこととを考え合わせるとやっぱりわるくなかったと思う。それの証拠にやることがまったく何も無くなっていた午後の時間は、kindleで『戦争と平和』を読み進められた。最後は「とにかく健康で、元気でやりましょう!」と明るく送り出してくれた。社員証がなければゲートを出られないシステムのため、いわば不可避のお見送りだったが、エレベータの中での上記メッセージはシンプルで芯をついていて良いと思った。「そちらもお元気で!」と返しやすいのも良い。
諸々の返却を済ませて雨のなか退勤。大崎駅までちょっと歩かないといけない道も最後かと思うと、短い期間で頻度も少なかったのに一応それなりの感慨があった。
スタバで本を読もうと思ったが持ってきていなかったので日記を書いてからKindleで『戦争と平和』を読む。Kindleは良い。

20240325

日記331

向かい立つ

2024/03/24 昨日
朝ご飯を食べて、午前中は読書をする。昼過ぎから恵比寿に出かける。恵比寿でシカゴピザを食べる。アルフレックスでマレンコというソファに座る。もちろん座り心地は良いと思うが魅了されるということはなかった。帰り道の山手線で尊富士の取り組みを見る。怪我をしながら豪の山を破っての自力優勝。押し出しで勝ちを決めたときには思わず声が出てしまった。
スクランブルスクエアでちょうどいいセットアップが売っていないかを見る。エディフィスとユナイテッドアローズを回るも、良いものを見つけられなかった。ただ何の気無しに通りすがったTHE SHOPでぴったりの黒リュックを見つけ即購入。ずっと探していたが見つかるときには見つかるもので、見つかるときにはすぐ買おうと決心できるものだ。
下北に戻ったときには小雨が降り始めていた。ダイエーで豆乳鍋の具材を買い集めてからすこし雨宿りして帰ろうとするも、雨雲レーダーを見るとむしろ雨脚は強まる予想だったので濡れながら帰ることにする。風邪を引かないように濡れた髪の毛を拭いてから、ビールを飲みながら豆乳鍋。映画『ミーン・ガールズ』を見る。ザ・学園ものだが、登場人物の背景やそれらの描き方などが時代に応じてアップデートされており、その取ってつけ感もコメディの雰囲気に回収させているように見えた。いずれにせよ「ハッピーでできるだけ文句の少ないコメディ」で、調味料はふんだんに使われているから退屈もせず、酒を飲んでいても喋りながらでも面白く見られて、映画としては好きな部類ではないものの評価せざるを得ない良作だった。好きになれる登場人物がひとりもいなかった。

2024/03/25 今日
いまの職場で最後の在宅バイト。だらだら働いて、しかも本を読もうともできないので、ただ単に時間の無駄という気がする。通勤時間がそれなりに抑えられる場所に住んでいるわけで、東京の都心に出かけるのは苦ではないどころか望むところでもあるので、わざわざ在宅勤務にしなくても良いというのが現時点での結論になる。昼前にベッドで二十分間の昼寝ができるのだけはよかった。この職場での総括というか、得たスキルやこれからの課題をまとめる時間を取ろうと思い、そのための時間も充分あったが、それすら面倒だったのでやめた。
定時であがってスタバにくる。『暴力の人類史』『数学する精神』を読む。長編が書けないといってストップしている暇があったら短編を書けと思うようになったので、ワンアイデアを短編に落としこむ作業をはじめようと思った。まあとりあえず明日以降から。
この一週間でMacbook Airにステッカーを結構貼れた。三枚→七枚になった。ここ最近ちょうどいいステッカーをいろんな場所でゲットできたり、棚の整理で良いステッカーを発見したり。
今朝見た夢は、魔法で破壊的な落雷を生み出す雲を街に作り出し、自分自身もその黒雲から逃げるために地下鉄駅に逃げ込むという内容だった。危機一髪で逃れた先の地下鉄では、同じ境遇のようでいて実際にはちがう境遇の人たち(その人たちは純然たる被害者だ)が突然の非日常に高揚している様子で、加害者のわれわれ一行もなんとなくその雰囲気に飲まれて高揚していた。
昼には映像の世紀のオッペンハイマー回を見る。個人の反省ではどうにもならない事態ではあっても、やはり社会の反省というよりは当の個人の反省を求めてしまう。その振り返り可能な範囲内での振り返りによってしか贖えない何かがあるのではないか。事実に対する対応とは別水準での話になるし、たんにネガポジを反転させただけのヒロイズムに回収されていくのはまずいとは思いつつも、どこまでいっても個人主義は捨てられないはずだと思うので、個人としての領分において振り返るということは必要だ。

20240323

日記330

音楽家

2024/03/22 昨日
出社日。早めに行って本を読む。仕事はそれなりにやることがあるものの基本的には暇で、次の職場でもこんな感じで働いていきたいと思うような適正仕事量だった。
定時で上がった仕事後、品川駅まで歩く。友人と山手線徒歩一周企画をやろうと提案したものの高輪ゲートウェイ駅まで来たところで「疲れた」とのことで却下になる。京急で泉岳寺から新橋まで移動。飲み屋に入ろうとするもつい懐具合が心配になって入れず。結局立ち食いそばの店で食事を済ませてから新橋珈琲店でお茶をする。その後歩いて銀座・有楽町エリアまで移動。コリドー街の様子を紹介してから有楽町駅前まで歩く。そこで路上ミュージシャンが素敵な演奏をしていてくれたのでそれをBGMにして立ち話。しかし警察官がやってきてあえなく演奏は終了。こういうときの警察官は職務上毅然としていなければならない立場だし、当然そう見えるような立ち方や姿勢を崩すことはないが、どことなく申し訳無さそうにしているようにみえるようなところもあって、そういうところが垣間見えると、まあ向こうさんも仕事なんだろうししょうがないよなという気になる。たぶんそういう作戦なのだとは思うが、そういうのは小狡いというより創意工夫と捉えたい。友人から「寒い」と文句がでたので暖を取るため有楽町の地下に入る。そこの穴蔵ベンチでの会話が面白かった。これから恋人を作るためにどうやっていくべきかという架空の話をした。こういう話題はいい加減なことを真剣に考えて喋れるという良さがある。サイコロの出目を良くするような改造をするよりもサイコロを振る回数を増やそうというとりあえずの結論を出した。だいたい誰とでもそうなるのだが論破合戦空中戦で厳密にどちらの言い分が正しいかどうかというより何となくで殴り合って最終的に肩組んで歩くみたいな、ラピュタに出てくる往年の男性同士のコミュニケーションスタイルの疑似版だ。人生の意味について、自己完結して自分だけが楽しかったとしてもそれを共有する相手がいないと意味がないということを言っていた。そういう意見は大学時代にも別の友人の口から聞いたこともあるが、自分にはよくわからない。最終的なところまで考えていくと自己完結するしかないと思うのだが、本人に自己完結ではないと感じられる自己完結があるということなんだろうか。結局は自分が楽しい・良いと感じられる方向にすすんでいくしかないと思うが、そうなるために他人が必要で、親密な他人といると自分が楽しい・良いと感じられるということなんだろう。それ自体に異論はないが、親密な関係の他人がいればオールオッケーというのはかなり危うい考え方だ。結婚がゴールという考え方の間違いに似ている。そんなわけはないのだけど、そんなわけないということにあらかじめ気がつけないものか。それとも本当にオールオッケーになるのか……?
有楽町で友人を見送ってから日比谷まで歩き、千代田線で表参道にいく。彼女が働く南青山のオフィスで本を読んだりスマホを眺めたりしてから帰宅。

2024/03/23 今日
八時に目が覚める。昨日の入眠時間からすると寝不足になるが起きてしまったものは仕方ない。『暴力の人類史』を読む。昼ご飯を十一時過ぎ頃に食べて『不適切にもほどがある』の九話を見る。その後三十分間の昼寝をして負債を取り戻してからだらだらする。これではだめだとシャワーを浴びてスタバに来たのが十六時。エキウエが満席で入れなかったのでクラシックのほうにくる。読書の続き、去年の日記へのコメント、そして昨日今日の日記を書く。
暴力の人類史は啓蒙的な本だと思うが、啓蒙するための方法に万全が期されているとは思えない。自分の本を叩き台にして社会がさらによい方向に向かう一助にするという善い意図を作者が持っていると仮定しても脇が甘いところがあるように見受けられる。
たとえば数字の取り扱いかたに不満がある。一番嫌なのは全人口分の殺人被害者数(被殺人割合)でソートすることだ。ソートすると見やすくなるし、物語の組み立てにも都合が良いのだろうが、わざわざそんなことをして物語にする必要はないと思う。
あとは統計と物語について、どちらも必要だと主張するくだりはそれらの別々のファクターを往還することの必要性を訴えるものだと思うが、その往還については慎重にならないと、任意のタイミングで統計的に考えたり物語的に考えたりすることになるわけで、そういうつもりではなかったとしても何かをかいくぐろうとしているような印象を受ける。(上巻354p)
啓蒙精神そのものは善いものだが、目的は手段を正当化しないわけで、慎重に手段を選び、手段をきれいに整えないと、党派を作ることはできても次のステージにはすすめない。間違った意見の持ち主にこそ啓蒙は必要だが、せっかく善い目的があっても手段のまずさでケチがつくのはこちら側にとってマイナスが大きい。
まだようやく第五章にさしかかったところなので批判めいたことを言うのは気が引ける部分もあるが、この時点で感じたことを書いておかないと、大著を読むときにはよくあることだが読み終わることの達成感で気持ちが高まりクライマックスで持っていかれることが予想されるので、ねんのため日記に書き残しておくことにする。単純に読み物として面白いのは面白い。とくに拷問について書かれた箇所を読むときの読書体験には特有の感触があり、ホラー映画を好んで見る人の不可解さが微妙に理解できそうな気がする。そんなふうなやり方で読者を引き込むのはどうなのかと思うが、読んでいる自分自身にも若干後ろ暗い思いがあったりするのでとりあえず判断保留にしておく。ただやっぱり最後精算するときには利子がついているんだろうし結局マイナスになる気がする。
『戦争と平和』を読む。読み始めた当初は長編作品の参考にしようと流し読みするつもりたったが、いつの間にか引き込まれてマーカーを引きながら読んでしまっている。つい味読してしまうほど面白い。トルストイとその大著をつかまえて言うことではないが、ものすごく書けている。

日記812

すすめグリーン 2026/10/21 昨日 7760 20時過ぎにスタバを出る。通例になっている駅前での飲酒。氷結レモンの一口目が気管に入りそうになって噎せる。ミカンの入口でモーツァルトを聴きながらしばらく往来を眺めて過ごす。IQテストについて次のようなこ...