20260228

日記725

シモテハケ

2026/02/27 昨日 12893
TCBのBとまず合流してビールで乾杯。駅前をぐるりと回ってからエキウエ手前の階段で飲む。演劇が終わったらさいちゅうには過大に感じられていたいろいろを冷静に見つめるようになるという話をした。プレーヤー視点ではすごい動きをしているように感じられるが、客観的に見ると良いも悪いも大したことではないというたぐいの、情けないというか心細い話。Nも合流し、氷結無糖レモン4%を買ってミカン入口で飲む。トリキを提案するとやはりテンションが上がるのか即採用される。しかし2階の店も地階の店も満席で入れず。じゃあどうするかとすこし頭を動かす。せっかくなので行ったことのない店に入ろうという話になり、つねに目に入りながら選択肢から自動消去していた鶏ヤローという店に入ってみることに。レモンサワーが100円という破格だった。エビセン、枝豆、キャベツの三択から選べるお通しにエビセンを選択し、唐揚げ10個を注文。若い客の活気のある雰囲気を味わいながら飲むと酒が美味しかった。実際にはレモンサワーがほんのすこし臭い気がして嫌だったのだが折角の機会なので雰囲気に誤魔化されることにした。唐揚げの余り1個に対して、1〜100のあいだで自分の食べたい度数を発表してその数字が高い人が残り一個の唐揚げを手に入れるというゲームをする。自分以外のふたりは「100」と回答。一個だけ残った冷めた唐揚げを「100」で欲しいというふたりは頼もしいやら情けないやら。自分は「70」というどっちつかずの数字になった。たしかな欲望を感じる数字で、これはこれで気持ち悪さがある。お前らには他にやりたいことがないのか? と疑義を呈すると、片方からは「俺にはつねに0か100しかない」というあまりにもデジタルな返答。本人のキャラクターと合致している。もう片方はゲームの眼目を理解していないのか、理解していながらゲームの成立よりも唐揚げの入手を優先したのか、いずれにしても本人のキャラクターとの乖離があり、むしろそこに合致が見られるような込み入った納得があった。梅ヶ丘の羽根木公園まで夜梅を見に行く。現今の目を覆いたくなるような政治やそれを受け入れる風潮についての不満というか恐怖心の話。Bの文筆仕事の話(もっと書評の仕事がほしい、ブログに書評を書くのと媒体に載せるつもりで書くのには書き方がちがってくる)、あとは自分が小説を書くためにもっと時間を使うべきなのに日記を書いて時間が過ぎてしまうという話をした。書けない小説を書こうとするより書ける日記を書けばいいと言われる。まあそうなんだが、そういうことではない。ピースを構築したい。ひとかたまりのブロックをどんと置きたい。下北沢の駅まで見送って帰る。ゆっくり寝る準備をして1時半すぎに寝る。


2026/02/28 今日 4552
9時半に起きて、ゆっくり出かける準備をしてから11時すぎにスタバに入る。エキウエが満席だったのでクラシックのほうに入る。小説について考えて、それなりに良さそうな箱を見つける。構成を考えたりする前にすぐに書き出してしまった。ぐっとこらえて書き続くようにまず構成を考えたほうがいい。書き始めるのはいつもテンションなのだが、書き続けるのに必要なのはテンションを離れた構成のほうだ。冒頭になる部分と冒頭かわからないがどこかに配置できる部分をすこし書いた。日記を書いて13時40分になる。まねきねこでのフルート練習を終えてスタバまできた家人と昼ご飯を食べにいく。

20260227

日記724

夕映え通り

2026/02/24 一昨昨日 6573
スタバを出てから家人と駅前で合流してトリキに行く。家人を待つあいだ20分ぐらいミカンの入口で氷結無糖レモンを飲んでいた。反省というか反芻というか、吸収できるところがたくさんあるはずなので、それらをひとつひとつ俎上に載せて一機アップのキノコよろしく活用しようという肚だった。無理に反省しようとしたり、太郎冠者(猿)のように反省のポーズを取ろうとしたりしなくていいが、もし次があったらこうしようと思うのは、ゲストのような顔をしてそこにいる時間をごく最初のうちで終わらせて、ホストのように振る舞う時間を多くするよう心がけるべしということだ。もしそれで失敗したとしても勉強にはなる。ゲストのように引いた姿勢でおとなしくする練習はもうやり尽くしていて、それは達意の域、経験値もカンストしている。


2026/02/25 一昨日 10295
午前在宅勤務。午後休を取って狛江湯に行く。温冷交代浴で神経をゆるめられた。脱衣所で服を着ているタイミングでおじさんに「かっこいいね」と親指を立てられる。オーラ消すの忘れてたか? と一瞬焦ったが(褒められていないことによる狼狽)、洋服を褒められたのだと気づき恥ずかしくなった。松の家でダブルロースカツ定食を食べる。帰宅して30分間の昼寝。夕方から勝どきの第一生命ホールまでクラシックコンサートに出かける。演目はメンデルスゾーン、モーツァルトのフルート協奏曲、ビゼーの交響曲、アンコールにはアルルの女のアダージョがかかった。去年のヴァイオリンソロがひとり立ち向かうような立ち方だとすれば、今年のフルートは受けたり流したりするような柔軟な立ち方で、そのちがいが面白かった。こうやって聞くとやっぱり音楽はいいものだ。ただし、演奏中に子供がおしゃべりしていたり、ソロで息継ぎの息遣いの音が聞こえるような張り詰めたなかで咳をするおばさんがいたり、音楽の外にあるお邪魔が気になった。演奏主体やほかの聴者の邪魔をするぐらいならその席を空けておいてほしいものだ。帰りに勝どき駅近くのチェーンイタリア料理店に行こうと思ったが満席だったので、仕方なくなか卯で親子丼を食べた。翌日はものすごく早起きになるのでなるべく早く帰ってできるだけすぐ寝る。


2026/02/26 昨日 26689
朝5時起きで東京駅6時20分発のバスに乗り込む。よっぽどトロトロ行ってやろうかと思ったが、コミュニケーショントラブルが発生したらしく、至急対応が必要になったので、時間通り現地に入っていてよかった。施設の主的存在とコミュニケーションを取ったりしながら工事の進捗を報告する。なんとか午前中に完了した。蕎麦やに行ってとじそばとミニ天丼を注文する。そのほか仕事の調整をちょこまかとこなし、バスケに行くためには出なければいけない時間になんとか飛び出す。館山駅から海まで歩き、今回の稽古で学んだ発声練習をして喉を開いてから、海に向かって大声でセリフを言った。なんとなくそこに弔いの気配が漂ったのは、夕日になりかけの傾いた太陽が差してきたのと、干上がった砂浜に大きな魚の死体を見つけたのと、強風で椰子の木に激突させられたのか海沿いの道端に雀の死体を見つけたのが影響したかもしれない。とにかく、終わった演劇作品のセリフを言うと変な感慨が湧くということがわかった。
館山駅前のスペースでクレープを食べてからバスタ新宿行きのバスに乗り込む。乗る前に危惧していたとおり渋滞に引っかかった。とろとろ走る時間が長かったにしては遅れは15分で収まり、バスケ参加にはほとんど支障が出なかった。荷物を減らすためボールを持っていかなかったのでシューティングの時間はなくてもよかったのでそれを考えるとピッタリの時間になった。この日も調子よくプレーできたが、活動限界を超えて動いた感じがあり、帰りの電車内ではかつてないほどヘロヘロになった。帰ってすぐシャワーを浴びてできるだけすぐ寝た。23時半。


2026/02/27 今日 4038
朝から大手町で用事。終わってから代々木上原駅の中華で昼ご飯。ご飯大盛りに100円かかるようになっていた。それでも美味いしお得感はまだある。帰って刃牙道と前日のバスケのプレー動画を見る。日記を書く。電話がかかってきて内容について予想できたので「はいそうです」とか答えていたら全然そうではなかったので火消しに失敗。ボヤ騒ぎが持ち上がる。電話で詰められるのが30分にもおよんだ。よくそんな体力あるなと感心させられた。はっきり言ってばかばかしいが、適当に話をしているだけで時給が発生するのと、ラクな姿勢で申し訳なさそうに反省の弁を述べるシチュエーションが面白かったので、そこまでストレスがかからず。しかしバスケの予定があったりした日にはめちゃイラつくのだろうから、何事にもタイミングがあるということか。この日は「本当に申し訳ないと思ってます?」を一回しか言われなかった。演技力・表現力が向上した可能性がある。1時間残業してからTCBのメンツで下北飲み。興が乗れば梅など見に行くかも。

20260224

日記723

このひととき

2026/02/23 昨日 11598
この日はいわゆる千穐楽だった。結局、家人は4公演すべて観に来てくれて、この日は元職場の後輩たちを連れてきた。自分にはまだ出番があるのに、へなへなと力が抜け、局限性の花粉症にかかったりして大変だった。楽屋で鼻をかみかみ、次の衣装に着替えてから溜まりに降りていく。場所と仲良くなるということができたのかはわからないが、最初に見たのとちがう顔になったような気がする。牙も生えてなければツノも生えていない、ただし、いたって普通というにはやや眩しい、舞台の顔。恐ろしげではあるが必要以上に恐れる意味も必要もない。自分はとりあえずは自分の出来が気にならないというところまで来れたのではないか。これ以上の表現は何をどうやっても自分には(まだ)できない。楽しいとか、楽しかったとかいう必要がないだけのそれがあり、そのことに対する深い満足感があった。やったらやっただけ楽しい。自分は何かを犠牲にしてまでも演じたいという思いは持たないだろうから、これが天井なのではないかという予感がある。それで3年前にもそう思ったように、しばらくは演劇は良いかなと考えていた。ところへ、来年も、今回の作演出がプログラムの作演出を担当するという本当に想像していなかったことが発覚し、終わったと思っていたレールにその先があるということが急に明らかになった。演出と演助に言おうと思っていた感謝の弁を引っ込めることにした。俳優が演出を尊敬しすぎることになる(犬が腹を見せるように腹を見せる)のは、百害あって一利無しだと思うからだ。もろ手を上げて敬意を示すというのはプレーヤーたる者のやっていいことではない。これに続きがあるとわかったとき、即座にまたやりたいと思って、感謝の弁を控える方向に舵を切ったということが結果的に表わすことになるものはあるが、それはまあ仕方ない。自分は自分の感情をそこまで徹底的に管理できない。「またやりたいです」と思ったことを確答しないという中途半端な管理になった。でも今はそれでよかったと思っている。
次回については、自分への”ご褒美”として参加しよう。今回、自分の得た実感として、俳優というのは人の作ったレールに乗って走る貨車のようなもので、創造において”良いとこ取り”をする存在だという気づきがある。それはそれでたしかに楽しいのだが、自分が楽しめる範囲はその外にもあるはずだ。これからも演劇に関わりたいのであれば自分は演出をやるべきだ。すくなくともそれを見据えないまま役者や俳優として活動するのは、単なる気晴らしであれば可だが、そこに傾注してシリアスになるには全然足りない、まさに役不足だ。
というわけで、次回までに自分がやるべきことをやれたら参加するということに決めた。とにかく書かなければならない。何を書くのかといえば日記ではない、小説だ。
それはそうと、役者の人たちとの飲み会は本当に刺激的で楽しかった。とても上手な俳優が「役を自分に引きつけてラクな方へ逃げた。もっともっと役にアプローチできたらと思って挑戦しようとしたけど難しかった」という主旨の反省をしていて、だからこの人の演技は見る者の心に響きを与えるんだと、これが役者としてシリアスに楽しめる、演技を楽しむ範囲が深い人のやり方なのかと感服させられた。あとは、舞台を見ていて自分がそこに立っていないことが悔しくなって参加を決めたという出演者、舞台の上で人に見てもらっていると感じることが楽しいという出演者など、自分には考えられないような視座があり、こういう人たちが俳優なんだと思わさせられた。彼らの横に並ぶと自分は俳優でも役者でもないただの出演者だなと思う。謙遜でもなんでもなく、自分は”俳優でも役者でもないのに舞台に立って演技する人”だ。ある種の舞台にはそういう人にも居る位置があると思うが、その生息域は限られるだろう。
出演者の話で一番刺激的で悔しかったのは、漫画を描いているという人がいたことだ。仕事も恋愛も推し活もやりながら、漫画を描き、演劇にも参加するというバイタリティが何よりも格好良かった。来年も参加するかどうかという問いに対して、「今回の参加にあたっては漫画を描くのをお休みしてその時間を演劇に使ったのだが、来年は漫画を描きたい」という回答をしていて、これこそが自分の言いたかったことだと、言うべきことだったはずだとつい歯噛みをした。自分の描いている漫画についても「よく見せられるね」という同好の士に対して、「自分は見てもらって全然構わない、見てどう思うかはその人の領分であって自分の領分ではない」という主旨のことを言い放っていて、その格好良いセリフと、それを言うとき真っ直ぐどこかを見ているような説得力のある眼差しに嫉妬した。自分が良いと思うように生きている人間の目だ。それは演技が上手いとか表現がどうとかいうのを超えて、同じ志を持つ者にアプローチする。家人の友人が、彼女のどういう部分を良いと感じたのか、くわしく話していないから聞けていないが、たぶんそういう直線の部分を敏感に感じ取ったのだろう。役へのアプローチも、役の”推し”を想像することで、自分が自分の推しを推す感情でまずは繋がり、そこから役に迫ろうとするというもので、なるほどと膝を打つような説得力があった。小細工をせずにまっすぐ最短で迫ろうとする理詰めの部分。そういうところも敵わないと思わせてきた。悔しいというのにしても、せめて悔しいというスタンスをとらないと駄目だろうと思うからそう言ったまでで、本当のところは(現時点では)敵わないということになる。さすがに今回は完敗だ。


2026/02/24 今日 3524
一日在宅勤務。演劇出演者が出演する夢を見る。幼い娘を演じた共演者なのだが、この短さで登場するのはそれだけ自分の中に存在感があるということだろう。なぜかいっしょにバスケをしていて、そこはリングまで異常に遠い倉庫のような場所なのだが、ちょっと目を離した隙に骨折→治療をして再登場した。笑顔で明るく「骨折しちゃいました」と言うので、「どういうプレーで?」と聞くと、相手の悪質なファウルだということがわかって、そいつを見つけ出して復讐してやると思ったという内容の夢だった。あとは漢字の組み合わせで四人分の名前を作れるという、叙述トリックに使えそうだなと閃く夢を見たが、夢現の状況ながら、感じが違うんだったら叙述トリックにはならんやろうとツッコミを入れてから二度寝をした。
仕事は休んでいた分のフォローをしなければならないこともあって忙しかったのだが、とにかく元気が出ない。これが軽度の燃え尽き症候群かと心当たった。起き抜けにインターネット情報で「憲法改正案」というのを見て、その内容が意味する”進みたい方向性”に「え?本当に?」とびっくりしてげんなりしたこともある。
元気が出ないまま働いて、30分ほど残業してからスタバに行く。日記を書く。21時から家人とトリキに行く予定。今回の演劇体験についてはまとまった文章を書くべきだ、が、とりあえずは日記に書く分だけ。まとまった文章については「演劇演出論」的なものになる想定。ややサイズダウンして、「こうやって演出しろ」というTIPS集になるかもしれない。

20260223

日記722

おしゃべりでもなく歌わない


2026/02/22 昨日 9269(途中から)
スタバを出て梅窓に向かう。梅窓の前の道で仲間の出演者がビラ配りをしているのに出くわす。つい自分もビラ配りをすると申し出てしまい、うどんを食べる時間がなくなったので、あわてて松屋に入って牛めし(つゆぬき)を食べる。その後、本多劇場から4枚ほどビラを持ち出し、そのへんで配ろうとする。風が強いし、人相があまりよくないし、人相がわるいし、場所がよくないからか、30人ぐらいに声をかけて一枚も配れず。もとの場所に戻ってみると仲間がふたりに増えていて、つい3人目の配り手に加わってしまう。前日のブリーフィングではひとりひとりの目を見て配るのがコツだと聞いていたので、3人で配るというのはコツに反するやり方だった。「別の場所で配ってきます、ビラ半分もらいます」という申し出をそのまま受けて、ビラ補給要員としての働きに終わった。その後すこしビラ配りをしようという気配だけ出して、楽屋がオープンする時間になったということでそのまま劇場に入る。先に楽屋に着いていた仲間から「配れましたか」という至極真っ当かつ事前に想定できる質問を受けたので、すかさず「ばっちり!」と短く回答する。まあ、嘘も方便という言葉もあるので。どんな人でした?という質問に備えて、サングラスをかけたお兄さんと優しそうな女性、という回答を用意していたが、向こうも嘘も方便という言葉を知っていたのか、そっち方面でのそれ以上の展開はなかった。
この日はとにかく袖で笑って(口角をあげ、目尻を下げる笑い顔を作って)、できるかぎりやわらかくて大きい第一声を出そうという目標を立て、それ以降は相手とのセッションだという意識でのぞんだ。客席にTCBの連中がいるというのも助けになって、前日とはちがうパフォーマンスを出せたと思う。自分以外の全体としてもたぶんテンションが高く、しかも集中力が高い、高パフォーマンスだったと思う。TCBの連中はMRんがかわいかったとろくなコメントを発さなかったが、自分としてもこの日はとくに彼女のパフォーマンスが発揮されていて、いわゆる「良いお芝居を見た」という観劇体験に大きく寄与していたように思う。家人の友人はSTキがとても良かったと、さすがお目の高い評価をしていて、直接俳優にも声をかけたらしい。そういうことをできる人間というのは素敵だなと思う。良かったと思ったとき「良かった」ということの価値は相当高い。STキに対する高い評価というのは、自分の役柄のこともあって鼻が高い。
そのまま友人たちと家に行き、代田ボードゲーム会をやる。まずはドブルでアイスブレイクしてからタイムボムとワードウルフで遊ぶ。あっという間に20時、21時になり、新婚のふたりを迎えてまたワードウルフで遊び、22時を過ぎておひらきになる。充実感のある一日になった。


2026/02/23 今日 3489
公演最終日。朝ご飯を食べてシャワーを浴びてから11時頃に家を出る。スタバが満席だったのでブルックリンにくる。日記を書くためにテラス席に座った。この日の気温は最高20度オーバーの小春日和で、シャツにカーディガンを羽織っただけという出立ちでテラスにじっとしていても全然寒くない。日記を書いているとまだ終わっていないのにもう終わったような気持ちになる。終わり方にもまだ知らなかった種類のものがあるのかと気付かされた。初日、二日目、三日目と、その日の公演が終了するたびに、「ああ終わった」と切ない気持ちになるから、それを繰り返したことで、”終わり”の感覚を先取りできるようになっているということだろう。終わるのがいやだという気持ちが自分には強く、いつもそればかりに意識が行って、そのそばにあるものに光が当たらないというようなことが起こっているが、こうやって終わりが繰り返されたおかげで、じつは終わるのがいやな気持ち以外にも、必ずしもわるいとは言えない、かといって良いとも評価できない未知の感情があるのではないかと、見当がつくようになった。
直接会って話ができるうちに言いたいことは余さず言っておくようにしよう。オーラス。本当はうつろ稽古をやりたいぐらいだ。いや、最終公演で終わらせずやりたかったらやればいい。これで終わりだという感情はのせたくない。今日も「やわらかく、大きく、相手を見て」。

20260222

日記721

止まらない思い出化

2026/02/21 昨日 
スタバを出てから13時すぎに楽屋に入る。劇場最寄りのローソンで買っていったおにぎりを楽屋で食べる。楽屋でなにかするとちょっとずつ場に慣れるはずだという目論見と全然違って、出演者とおしゃべりをしても緊張が解けない。前日に一度客前舞台に立ったのにもかかわらず、まだそのときと同じかそれ以上の緊張があり、時間がたって落ち着いていくどころかどんどん緊張していき、結果浮ついたまま本番を迎えてしまった。昨日の反省点、もっとこうできたら良いと思ったところを意識して、意識しすぎの状態になってしまったように思う。昨日の今日で本当に情けないことだが、日記に書いた”えらそうなこと”がちゃんと全部自分に跳ね返ってきたかたちだ。この日のみんなは(相対的にとかでは多分なく、実際に)ちゃんと良くなっていたし、あんなことを書かなければよかったと後悔している。とくに公園・雑踏・デパートにおける自分の一連の動きにはやわらかさのかけらもなかった。修正点を修正するなんて器用なことをしようとしていた自分の浅はかさが恨めしい。自分のやることはもっとシンプルでいい。一旦、客のことは忘れよう。
この日15時からの公演は、千葉くんだりから友人がひとりと家人の知人で自分とも顔見知りがの大人たちが3人、前回の演劇WSでいっしょだった俳優仲間がひとり見に来てくれた。終演後に会話したとき、友人からも知人の大人たちからも忌憚のない意見が寄せられて有益だった。最初の「さっちゃん」の言い方。
客のことを忘れようと思っているのだが、自分の声が客席に聞こえない問題があり、その解決ができていない。なんとかするには声を張り上げるしかないのではと思っているが、大声を出すために舞台に出るわけではなく、演技するために舞台に出たいわけだから、この二者択一については答えが出ている。だからまあ俺のセリフが聞こえた人はラッキーだ。
中打ち上げを切り上げ、家人たちの待つベルプリに移動する。演劇の話をすこししてもらってから、彼らに家に来てもらう。昔の仕事でとくに印象的だった仕事の話、最近バスケの公式戦で得点王になった話が聞いていて面白かった。結婚式するしないの話になったときには緊張感が出た。家人が座りながら寝そうな状況になっていたので23時頃お開きになる。


2026/02/22 今日
8時すぎに目が覚める。出かける準備をしてスタバに行く。何をどうすればいいのかわからなくなって頭が混乱している。何がやりたいのか、それを実現するためには何が必要なのか、結局自分で考えてそれを実行するしかないわけで、目標設定から楽しむための方法まで、自分の勝手でやっていいし、自分の勝手でやるしかない。それが自由とされるもののはずだ。どうしようかという悩みを解剖してみると衒気が出てくるようだ。観客からの良い評価がほしいと思っている? 認めたくないが、この器にはそういうものが入り込んでしまっている。かっこつけようとするダサさがあるし、自分にとっての泥臭さの”泥”はそういうものを抱えていることだ。そういうものに照明を当てられて舞台の上に歩いていくことになっているのはかなり危険なことだが、それを払拭するためには結局、目の前だけに集中することしかない。
結局フィジカルの部分が重要で、そのためには上のようなことにフォーカスするのが良いと思っているが、頭で考えておく部分としては「気持ちが圧される」ことになるシチュエーションで、演技プランのなかにはシマッタ感、やっちゃった感、気落ちを出そうとするというものがあるのだが、それをやろうとすると身体が小さくなってしまい、声も小さくなるので、そこを調整して、気丈に振る舞おうとする感じ、気落ちなどしていないと取り繕おうとしたり、立て直そうとする空元気のニュアンスを出すのがいいかもしれないと思っている。もうすぐ楽屋に入れる時刻になる。コンビニで買って楽屋で食べるのは止して、梅窓でうどんを食べてから劇場に入ろう。失敗のチェーンを断ち切るため、ようするに験を担ぐというやつだ。結構参っているかもしれない。どうにか楽しいへ抜けてみせよう。

20260221

日記720

作られる集中

2026/02/19 一昨日 24454
GP(ゲネプロ)の日、まずは昼ご飯はEitoカレーでオムレツカレーを食べた。楽屋に入る時間は13時以降とアナウンスされていたのだが、気持ちが焦って40分前(実際のところ1時間前)に到着してしまう。北沢タウンホールで行ったことのないエリアに行ってみようということで屋上庭園を見つけたので入ってみたりして時間をつぶす。GP前に舞台を開放してくれる時間が1時間半ほどあったので舞台上という空間に物理的に慣れようと長めのアップをする。俳優のひとりがWSで使ったというシェイクスピアの脚本を持ってきてくれたのでそれを使って発声練習をする。よく喋る羊飼いのセリフを喋ってみる。緊張の押しが強く、袖で出番を待つあいだ「ここは公園、これから娘に会える」という気持ちになるのがむずかしかったが、袖から飛び出して向こう側に相手が見えたらある程度そこだけに集中できた。唇を結んで緊張をほぐそうとする無意識の行動を抑えられず、やってしまってからあっと気づくということがある。そこに持っていかれた分だけその場所を公園ではなく見せてしまうのだと思うので、やってしまったことはやってしまったこととしてその場ではすばやく無視するしかない。モニターや袖で見ていると、皆なんとなく客のほうを意識しているように感じられる。硬いというのではないが、なんというかちょっと元気というか、外面(そとづら)が良い人が見せる外面のような感じがあって、稽古中にしっくりきていた空間とはちょっと違っているのではないかと気になった。たぶん「客に届けよう」という意識の表れなのだろうが、その出方がそれぞれで、人によっては自分を出そう、全力でやろうという振り切りになっていたり、人によっては客席をふくめた場の空気を察知して客席と舞台上をうまくつなげようとしていたり、演出として全体にかける言葉がとてもむずかしい状況にあるように思える。「緊張しないように」と言われても、それは「頑張れ」以上に意味をなさない言葉だと思う。だからその心を汲み取ろうとしなければならない。「もっとやわらかく」「リラックスして」「楽しもう」ということの言い換えだろう。テンションの上下軸から完全に切り離された横軸というふうに、完全に別ベクトルでは処理できない、つながってしまう部分なので、いかにテンションを下げずに舞台の上でやわらかく居られ得るかという話なのだと思う。単純なセリフ量によっても、物語を推進する役目の言葉を客席に向けて届けないといけないという部分でも、ほとんどの俳優は自分が負っている負荷とは質・量ともに全然違うものなので、当然自分からもっとやわらかくしたほうがいいのではないかということを言うわけにはいかない。そもそも自分に与えられたセリフ量だけでもいっぱいいっぱいになるので、そういうことを言おうとさえ思えないが。でもこの演劇作品にはGPでの結果の””その先”がある。作演出におもねるようなことを言いたいわけではないが、現状、この脚本の持っているポテンシャルを最大限引き出せているとはやっぱり思えない。「幕が開いたら作品は俳優のものだ」という言葉は、かなり重く響いた。稽古中に起こっていた”出来事”、ああ良いなあという感覚が一日でも多く再現されたら最高だ。だから結局、楽しむということに尽きる。17時半頃に返し稽古が終わり、飛び出しで体育館に向かう。1週間ぶり以上のバスケをするためだ。この日はここ3ヶ月でもなかったほど調子が良く、シュートタッチがほとんど上振れ上限いっぱいまで上がっていた。楽しんでプレーする感覚はこれだという確信のなかでボールを触っていられたからだ。2,3日おきにバスケをやっているときの慢性的な疲労がないこと、腰から臀部にかけての痛みが無視できる程度に収まっていることが、この感覚に至る条件なのだろう。同点に追いつく3Pを終了間際に決められたり、ボード裏にドリブルで侵入してマイナス角度の位置から腕だけ出して打つシュートが決まったりと、ストリートバスケ的な感覚で自由に楽しめた。脳内物質のおかげで疲れを忘れてプレーしたので帰りの電車内で疲れがどっときた。まいばすけっとで焼きそばともやしを買って帰る。焼きそばを作って食べる。寝る準備をして寝る間際、家人が波佐見出張から帰ってきた。身体の疲れから出迎えることもできずそのまま就寝。


2026/02/20 昨日 12819
朝起きて、ゆっくり身体を起こす。体幹の筋肉痛はあったが許容内で収まっている。家人にドラム練習の成果を見せる。8ビートの100BPMはそれなりに叩けるようになってきたが、TRAIN-TRAINの176BPMをメトロノームで鳴らしてみると右手が追いつかないということがわかり、ドラム習得ハウスにはまだ別の部屋があったのかということで、その間取りの広さがまたひとつ明らかになった。冷食チャーハンを食べてからセブンのコーヒーを飲みながら歩き、13時半頃に楽屋に入る。舞台上でアップをして、15時から2回目のGPをする。返し稽古をして、全体で気持ちを上げる円陣、19時開演の初日を迎える。溜まりで客入りをモニターでき、止せばいいのに客が入っている様子を見てしまう。GPでこれ以上の緊張はないだろうと思っていたのだが、それできっちりその先の緊張へと至ってしまった。緊張しないというのは無理だから、緊張に克つ集中を、と思って袖でイメージトレーニングを繰り返す。ここは公園、左手には砂場と滑り台、奥にはブランコ、毎日のようにではなく実際に毎日遊んだあの公園。
家人と、前回お世話になったAチームの俳優さんが見に来てくれたのでロビーで挨拶をする。「どこかでやっているの?」という社交辞令質問をもらう。あれ以来ぶりですとそのままを回答。社交辞令はやっぱり嬉しいものだ。その気持ちが嬉しいのと、数十%は真に受けられる自分の気質とによる。また、今回の共演者のお知り合いから、「経験者だと思いました」という素人を褒めるとき用の褒め言葉と「フラットにセリフが言えていた」というお言葉をいただく。知らない人に自分を見てもらってその感想の言葉をもらえるという経験で、初めて味わう嬉しさがあった。懸念していた声が聞こえないのではないかというところについても、真ん中やや前方に座っていた家人いわく「ちゃんと聞こえていた」とのことだったのでほっとした。三日月ロックに入って生ビールで乾杯する。”すっごい×4、あれ”な感覚があった。起こった出来事について書くと、記憶が遠くに行ってしまう感じと、複雑な感情が単純に確定してしまう感があり、それが日記を書くということなのだが、それがちょっと許しがたいほど惜しい。それだけ素晴らしい経験をさせてもらっているということだ。KANSHAとか言うと、ものすごくシンプルに収束されてしまう気がしてそう言いたくないのだが、そうとしか言えない感情が湧き起こるのを感じている。与えられたものの大きさを思うときに誰しもが感じることを思っている。もっと詳細な部分については日記には書かないでおいて、べつのかたちで”返そう”。感じることと考えることを混ぜることはまだできない。遠くない将来、考えるフェーズに入り、あらためてこの経験を評価することになるはずだが、いま感じていることを裏切りすぎないようにしよう。裏切るというかべつの観点を入れるということだが、それは考えるということの仕組み上避けられないことだ。ただ、大づかみにするときにも細部に流れているものがあるということを忘れないように。それなしには意味がないといってもいいぐらいその流れは大切なものだ。


2026/02/21 今日 3399
公演二日目。パンを食べて11時頃出かける。スタバで日記を書く。書くのはちがうのではないかと思ったが、むしろそういう部分を含むときにこそ、書くべきことがあるともいえるので、しいて書くことにする。感じ方のことだ。書くのであればもっと細々した部分についても漏らさずに書くべきだが、時間の制約上それができない。まあもっと早くスタバに来ようと思えば来れたわけで言い訳だが。この日は友人と、家人の前職場の人たちが見に来てくれることになった。これもひとえに家人の人脈と私の人望のなせるわざだねという話になる。そいつらに見られると思うとまた違った緊張が走るという予感が今の時点ですでにある。次々に扉が表れやがるので、一体緊張には何種類のバリエーションがあるのかと呆れてしまう。今日も早めに現場に入り、緊張疲れして脳を麻痺させよう。ただし舞台の上で会えることの嬉しさとその反面のさみしさを感じるだけの機能は残しておくことにする。いや、それは意識レベルが下がっても、ぼんやりしたなかでも感じられるもののはずだ。

20260218

日記719

現実のみぎり

2026/02/17 昨日 7845
朝から出社。月例のミーティングで少人数グループディスカッションが行われる。現実だが嘘の内容をつらつらと述べ立てた。物怖じせずに内容のないことを言うことがいつの間にかできるようになっている。面接となるとまた話は変わってくるのかもしれないが、人に向かって自分のこと話すという意味では大同小異だろう。そろそろ転職でもするかな。転職期間という自由時間も欲しいことだし。仕事は相変わらず画面の前でめまいがしそうになるくらい忙しい。翌日からの3日間で休みをとるために締め切りが前倒されるから体感で倍忙しい。普段暇しているから、こうやってたまに忙しいと「どうしたどうした」と言って身体が起きてくる感覚がある。それ自体は感覚としてわるくないし、シンプルに生きてるって感じはするので、ワーカホリックの人が無反省にワーカホリックに陥る理由もわかるようになってきた。今は昔と違ってそれがわかったうえで、仕事のしすぎはしょうもない、非合理的で非経済的だと断じることができる。人のためとか言う前にもっと自分に焦点を当てろよ、誰かが出てくるのはそれから先だろうと。こういうことをいうと「子供がいるとそうは言ってられないんだ」と言われるかもしれない。でも違うだろうと言いたい。子供あっての自分ではなく、自分あっての子供だろう。親あっての自分ではなく、自分あっての親だろう。違うとは言わせない。そうすると今度は「もう自分のことで頭を悩ませるフェーズは終わったんだよ、その探求は終了しました」とか言われるかもしれない。そうなったらたしかにもう終了で、こっちから言えることがあるとすればあとはもう「じゃあ今誰が喋ってんだよ」しかない。肩書か? 社会的地位か? あまりにもくだらなくないか。頑張ってきたからね、マイクの音量はたしかに大きくなったのかもしれないね。でも、まじで真剣に、シリアスに「それでいくの?」
1時間強の残業でオフィスを出て原宿経由で帰宅。途中ハラカドに寄って、渋谷マブルスというアプリで貯めたポイントでチキンブリトーを食べる。平日夜のハラカド屋上エリアは空いていて開放感があり、すこし先に東京タワー、眼下には原宿のあの交差点とビューが良く、穴場中の穴場だった。東京には街のまん真ん中にポカっと空いた、まさに台風の目のように静かなエリアがある。だいたいが新しく、どの設備も申し分なくきれいなので、こういうのを見ずに東京は汚いということをイメージで語っている向きには、もっとコンクリートジャングルの探索に身を入れろと、何やってんだしっかりしろと、喝!を入れたい。CBDショップでオイルの試食をさせてもらう。前回2適であまり効果を感じなかったと嘘をついて(じつはうっすらだが”効果”を感じた)、スプーンに4適垂らしてもらった。リラックスした気分で帰宅。自分の場合、リラックス効果は道行く人の顔を1秒長く見られるようになるというかたちで現れる。
帰ってからは適当な動画をいくつか見て、寝る準備をしてからいつもより早くベッドに入る。寝付くのにすこし時間がかかったがそれでも23時過ぎには寝たと思う。


2026/02/18 今日 1842
7時半に起きる。公園にシュートを打ちに行こうかと思っていたが、それよりもスタバで日記を書くほうがいいだろうと思い直し、洗濯機械を回してから風呂に入る。準備を万端整えて、スタバに出かける。コヤイリ前で気持ちが昂っているからか、朝の時間で疲れがないからか、舌鋒が何割か増しで鋭いかもしれない。今日はバータリ、ランスルー、ミザンス調整だと聞いている。カミテ・シモテを始めとして演劇用語が語彙の中に入ってきた。あえてカタカナで言うのがかっこいいという変なところに入り込んでいるが、まあ飽きるまではそのスタンスでいこうと思う。今できないことが急にできるようにはならないし、できたとしてもそれはできることだっただけの話だ。シンプルにできることをやるだけだ。あとはやっぱり自分らしく。自分らしく、と意識する必要は普通に生活しているととくにないものだと思うが、空気が薄いところ、光が強いところ、磁場がおかしいところなど、普段行かない場所に足を踏み入れるにあたって、最終的な調整の指針として必要になるのは”自分らしくいること”なのだろう。そもそも自分がやりたいと思ったからやるわけで、誰かに何かを言われたからやるわけではない。自分がやりたいと思ったのはどういうことだったのか、その時思ったこと(軽い気持ち)、いま感じること(重力)、いま何を自分はやりたいのか。言い訳なんかはあとでいくらでも考えられるから、一旦いまにフォーカスしよう。11:05、11:06、11:07。集合時間は11時半だ。

2026/02/18 今日 つづき 10623
いまは19:43。場当たりの初日が終わってスタバにきた。気負いがそのまま裏返って、勢い込んだその勢いのままに空回った。緊張しているのか? との指摘。稽古場でやるすべての通し稽古で毎回律儀に緊張していたのだけど、これまでは緊張しているのかと言われたことはなく、つまりそういうメッセージをオブラートに包んだものだと理解しなければならない。相手を見てやるということが演技では重要だと、今回のWS第一回目でも、3年前に参加したプログラムのWSでもあれだけ言われてきたのに、それがスコンと抜けるのだからやりきれない。集中しようとしているのに、自分の演技プランを出そうとして相手を見れていないという指摘を受けたのは、緊張していたのもあるが、気負いすぎで固くなっていたということだろう。照明を当ててもらった状況で、床にテープが貼られていてそれがバミリと呼ばれ意識のうちに置いておく必要がある場所で、遠い壁、高い天井を持つ空間に声を届けるというタスクにフォーカスしたら、それ以外がすべて抜けたというような体たらく。いや、そこまで卑下する必要はない、セリフが抜けたわけではないし、いつ出ていくか、いつ袖に帰るかということはちゃんと覚えているのだから。それでも完ぺきに手と足が同時に出てしまったが。あとは唇を噛んだり、登場人物の心情とは関係ないところで(つまり緊張を緩和しようと)口が動いたり、というのをほとんど無意識でやってしまい、やってしまった瞬間にやってしまったと感じて、ちょっと遅いと悔しくなる感じがあった。身体感覚の違和感を払拭した状態で臨まないと、緊張や負荷で無意識が出てくるようなことがあればそのタイミングで違和感を解消するための行動が全部出てしまうと思っておいたほうがいい。演出でくれた言葉のうち、「その場と仲良くなっていきましょう」という言葉には自分のような緊張しやすいタイプにはたくさんの汲み取るべき内容がある。単純接触の回数および接地面を増やす意味合いで舞台の上の”歩数”を稼ごうと休憩時間なども舞台にいるよう心がけた。自分にとって必要と思われる自分用の行動は勝手にどんどん進めていくべきだ。緊張するのは止められないから、どうにかしてそれに対処するしかない。
そもそもこれまで自分は、相手に何かを伝えよう、伝わるように何かを言おうとする努力というか、そういう意識付けや習慣付けに背を向けて、背を向け続けて生活していたわけだから、舞台に立つからといって急にそういうことができるようになりたいと望むのは、虫のよすぎる話なんだと思う。それこそ付け焼き刃になるしかないし、相談された側も困るような、今さら何言ってるんだという話でもある。今回の場当たりのおかげでこれでは駄目だとつくづく感じた。これからはもっと伝えることに意識を持つぞ。ということもあって、翌日は集合時間よりも早めに入って練習に付き合ってほしいと相手役の俳優に楽屋前で伝えた。
こういうのも全部、自分の向きたいほうに引き寄せて喋りすぎている。もっと記号的に簡便に、的確な情報処理の観点で捉え直してもいい。「頑張る」というのを「頑張るというのはつまり、意識を集中させ身体のなかでエネルギーを増幅させてうんぬん」というふうに表現についての表現に凝る方向に進めるのではなく、「ボリュームを増やす」、いやそれだと何のボリュームという話になるのでもっと「気合い入れる」という、ほとんどあれ(思い出した、トートロジーだ)みたいな転換で捉えればいい。ようするにノリ、というような話だが、実際にそれが重要だ。こだわらずにテキパキ情報処理しろということで、必要に応じてそのモードに切り替えられるようにそのチャンネルを持っておこう、そのチャンネルを構成する番組を構築しようという話だ。それは俺が小説を書くことの阻害にはならない。それはそれでそのチャンネルがあるというのを自分が一番良く知っている。帯域が違うのでお互いに干渉しない。心配いらない。

20260216

日記718

目と目で見つめ合う


2026/02/12 四日前 8488
午前在宅。コンビニに出かけて新聞を買う。自分の口から発した言葉が新聞に掲載された記念として該当の朝刊を購入した。その後は仕事仕事になる。午後出社。忙しすぎるの一言。こんなに仕事するのは嫌だよという調整仕事があとからあとから降ってくる。残業になった。疲れたしそのまま帰宅しようかと思ったが、ただ仕事をしただけのあんまりな一日にするのも忍びないので、踏ん張ってスタバに行く。『失われた時を求めて』を読んだ。ソドムとゴモラ2-1に入ったところから面白さを感じられるようになってきた。声に近さを感じる。『八月の光』も読んだ。ジョーが義父に厳しくされるよりも義母に優しくされることを憎く思うところなど、不可解どころかそうだよなと感じられるように書かれてある。よく書けているなと思った。フォークナーを読むのは一作目だが、読み始めてからずっとよく書けているなと思い続けている。


2026/02/13 一昨昨日 12992
朝から出社。午後に在宅に切り替えようと思っていたのに、電話がかかってきてしょうもない話に付き合わされた挙げ句、対面打ち合わせを入れられる。聞いていて情けなくなるような言葉遣いでげんなりさせられたりして、しばしば絶句した。実際に何も発さずに黙っている時間が10秒ほど続くというのが複数回あり、向こうはこちらにこちらは向こうに呆れているというのを隠しようもないということがお互い伝わったように思うのだが、ひょっとすると向こうは発信するだけでこちらからのそれを受け取ってくれていないかもしれない。発信に余念がないというやつだ。
残業を30分ほどで切り上げて帰る。友人とタウンホールで集合して、演劇創作プログラムのチームAの公演を観に行った。開演前の数分のあいだ心拍数が90を超えていた。あそこに自分が立つことを想像しただけでこんなに身体にくるというのは、実際を迎えたときにどうなってしまうのか……。始まってからもしばらくガチガチだった。しかししばらく見ているうちに公演の内容と演者のパワーに元気をもらって、気づけば緊張を忘れていた。3年前の共演者にかるく挨拶してからホールを出る。友人と池ノ上まで歩き飲みする。上京最初のアパート跡にはリッチマンの住む一軒家が建っている。とはいえ場所そのものがなくなるわけではないので旧アパート前、現モダンハウス前で記念撮影してもらう。その後、バーミヤンで食事がてら飲み足し、一旦帰宅して友人に借りていたDVDを返却。駅まで送って帰宅する。なんだかんだで夜更かしになり1時すぎに就寝。


2026/02/14 一昨日 9463
13時から稽古。気持ちを落ち着けながらゆっくり準備していたら思っていたより早く時間が過ぎていって、遅刻しそうになった(5分遅刻した)。ただ、盛大に遅刻する大御所俳優もいたりして、5分程度で目を白黒させる自分との格の違いを見せつけられた。この日の通し稽古も、袖から見る皆の演技にただただ感動させられて、最高の”LIVE”だった。SS木の声がたぶんツボで、自分でもちょっとどうかと思うぐらい感動してしまう。SMAPのゴタゴタのことを思うとちょうどいいエグ味が出てきたオンリーワンのあの歌にしても「これが正解のひとつだ」というメッセージとの絶妙な重ね合わせがある。脳の涙を司る部署が常軌を逸した実権を握っている我が神経系だが、それにしても司令官はボタンを強く押しすぎている。しかも連打してくるから困る。STキの急成長も自分(?)としては見逃せない。本当にすごいと思う。頭が下がるし誇らしい。MRンの声が、駄目押しの上にさらに駄目を押すあのリフレインが、彼女の言う”感じ”を胸に直通させてくる。この作品は個人的に面白いと思うし、一般的に言うところの好感が持てる作品だとも思う。自分がすこしでも良くなることで、この作品が良くなる、作品の持つ質感に貢献できる立場にいられるというのは、まさに望外の喜びだ。正直、めっちゃこわいけどね。
稽古終わりに酒を飲んで帰ろうかと思ったが、ここが大事だという気がしたのでスタバに寄って『八月の光』を読む。相変わらず読ませる文章なんだが、稽古で得た”感じ”を反芻する場になった。気がつけば稽古のことを思い出したりして読書が進まなかったりしたので。ただスタバを出てからの帰り道は結局酒を飲んで歩いた。


2026/02/15 昨日 13976
14時から自主練習。Vを連れて行って相手役の代役にたってもらう。Vにとっても初めてのおでかけになった。演出助手のビーンさんに発声のアドバイスをしてもらう。通らない声をなんとか通そうとするのは最初からわかっていた自分の課題なので、このタイミングでそこに手を貸してくれてありがたいと思った。私のような真っ白なシロウトを前に、ただでさえ考えることが多い為事なのに、伝えるタイミングとか、何を伝えて何を伝えないでおくか(あとに回すか)とか、おそらく普段よりもさらに考えてくれていて、通常であれば自分なんか本当に1ミリも頭が上がらないはずなのだが、毎回「どうもー」ぐらいの軽い会釈で済ませている。ただ恐縮していてもせっかく推進させてくれようとしている心意気に水を差すだけになるので、アホのふりをして差し出されたものを無遠慮に受け取っているつもり、アホのふりをしているつもりだ。……つもりなのだが、これを当たり前にするとアホ以下になるので、ウラカン(裏感謝)を忘れないようにしたい。それは作演出担当のNしまさんにもまったく同じことがいえるわけだが。んむあぁぁぁぁー、と言って空間の床全体からむこうの壁まで舐めるつもりで空気を震わせる発声のアップを教えてもらったので、突然そういうことを始める。人が集まってくると恥ずかしさが幅を利かせて控えめになっていってしまったが、急にでかい声ではなく、徐々にでかい声という「発声練習しているんだな」というのが伝わりやすいアップの方法なので自分のようなタイプにもなんとかギリできたりできなかったりするちょうどのアップだと思っている。人がいるタイミングでも何回かチャレンジした。このとき最初のほうにやったアップで、””喉が開く”という感覚を初めて得たかもしれない。ぐらいのちがいがあった。
稽古が一回一回終わっていってしまうのがさみしい。自分には舞台の上に会いたい人がいて、舞台の上ではまだその人に会える。それが嬉しいんだという気持ちが本物みたいになってきている。だからあらたに出てきたさみしいというのも嬉しい気持ちと同じぐらい本物で、もともと持っていたものと合わせて、本物のさみしいがふたつある状況になっている。そう考えると不思議だ。ただまあ小説を読んでいたらよくあるといえばよくあることか……。向こうではなくここにあるというのが不思議ということなのだろうか。
表に出ている人に言及するのに仮名を使う必要はないのではないかと一瞬思ったが、よく考えたらこれ(日記)は自分の現実にそれなりに近接しているフィクションだというのが私の見解だったというのを思い出したので、これはこれでよいということにする。Vをボストンバックに入れていたのでまっすぐ帰る。酒を飲みながらにはなったが。


2026/02/16 今日 9172
午前在宅。あれもこれもと片付けているうちにすぐ昼すぎになる。準備をして最後の稽古に出かける。松屋でキムチカルビの定食を食べた。見学者ありのなかで最後の通し稽古をする。自分から見れば皆スムーズに進められていてよかった、という感想だったのだが、プロの演出家の目はさすがにすごいと思った。自分がテンポの良さと見たものは、テンポの良さではなく、かかりすぎ走りすぎということらしく、たしかに何度も見ているから分かるのであって初めて見る人には分からない(分かりにくい)箇所があるというのはたしかにそうかもしれないと思った。また、相手が何を言うか知っている受け答えになったらマズいというのはその通りだと思う。自分は舞台からはける移動のときに気を抜いてOFFになったところがあったという指摘を受けた。まったくの無自覚で無意識だったので、そうなったときに素の自分が出るのではなく、役の自分が出るような状態に持っていけるようにしたい。……というのは挑戦しようとすることにかこつけた体裁の良い言い繕いだ。自分のセリフ・アクションが終わったと思って気を抜いたのがはっきり見えるほど気を抜いたということが、ある程度時間が経ってだんだん恥ずかしくなってきた。それが恥ずかしいことだという感覚はある。恥ずかしい。
この日は酒を飲まないで吉野家の牛丼を食べてまっすぐ帰る。スタバに行こうかと思ったが、雨が振り始める予報だったので家で日記を書くことにした。22時半過ぎに書き終わり、寝る準備をして寝る。

20260211

日記717

歩一歩

2026/02/07 四日前 8274
演劇稽古前にバビシャーでチーズナンを食べる。集中しよう集中しようと考えて閉じている気がする。もっと相手に向かって開かないととは思うのだがそのやり方がわからない。集中しているからなのか主観的な感触はわるくないからよけい性質がわるいのかもしれない。とりつく島もないのではないか。比較的短くて少ないセリフを完ぺきにおぼえるところからその先、その先で何ができるかというのが演技力うんぬんなのだろうと思う。自分は言うべき言葉を介した感情表現がうすいなとつくづく感じる。
20時半ごろ帰宅したら誕生日の前夜祭ということで家人が鯖のパエリアと豚肉の蒸しを用意してくれていて、ありがたくいただく。美味くて一気に全部食べてしまった。


2026/02/08 一昨昨日 12740
朝リビングで寒がっていると家人が見かねて暖かいサンダルをプレゼントしてくれた。サンダルのほかにはドラムスティックと練習用叩き台もプレゼントしてくれて早速ドチタチドチタチの練習を始めた。脳が全然追いつかない感覚、首の後ろ側に頭が置いていかれる感覚を得た。しかし考えようによってはこれが伸び代ということになる。
録音になったセリフのレコーディングをするために早めに稽古場のスタジオに入る。マイクの前でセリフを発することの難しさをただただ浴びるだけの不満足なレコーディングになってしまった。自分に満足な力があるとは思わないが、とにかく緊張していて自分の硬い声が吹き込まれただけに終わり不本意だった。心の準備ふくめきちんと準備していかなかった自分がわるい。場慣れするための場だとか言ってる場合ではないのにどれだけ好意的に解釈しようとしても経験を得た以外に収穫はなかった。ショックを引きずったままこの日の稽古が終わってしまった。仲間のひとりが誕生日だと言うのをおぼえていてくれて生菓子をプレゼントしてくれた。まずその気持ちが嬉しいし、セブンで買えるスイーツの中でもたいそう美味しい部類に入る。
一度帰って荷物を置いたあとかりべ亭に出かける。翌日に初シェラスコが控えているので肉ではなく魚をメインで注文した。徒歩でこの満足にアクセスできるのはイカすという話をした。料理屋に関しては経験に開きがあるからはっきりした同意は得られていなかったかもしれない。

2026/02/09 一昨日 20344
朝から雑司が谷まで出かけてKの墓を参る。おそらくは文学好きのGが墓の上で眠っていた。親近感が湧くものなのか、場所柄なのか、自分にしてはめずらしいことにつよい嫌悪感を抱かなかった。目標に向かって積み重ねることについて誓いを立てた。おそろしいのは去年も同じことを思っていながら進捗が一切たいということで、ただ年齢的にももう「待ったなし」という状況を確認して誓いというつよい表現を使うようにしている。副都心線で原宿に引き返し、表参道まで散歩がてら歩いて移動する。アップルストアでiPhone17proのカメラを見たが、Xperiaよりも使い勝手が良さそうな感触だった。
今日のメインイベントのひとつ、初シェラスコでバルバッコアに。肉をたくさん食べたい目論見で豊かなサラダビュッフェの野菜を一切れずつしか皿に乗せない戦略をとったのだが、そんな小細工をしたのにもかかわらず、あえなくお腹いっぱいになった。胃袋の満足ではなく心の満足を取ること、食べる肉を厳選し、その肉を2,3切れ単位で皿に運んでもらうこと、これが肝心だという学びになった。しかし食事においてこんな満足があり得るのかという満足があった。その存在も知らなかった身にはたいそうありがたいことだ。お腹いっぱいで下北に戻る。家人の役所手続きに付き添いをして区民センターと警察署をはしごする。帰りには羽根木公園を通って梅まつりの様子見をした。
帰ってからブルージャイアントシュプリームを読んで、暗くなってから新代田まで夜の散歩をする。下北沢一番街まで回ってきて、バーミヤンのほうのローソンまで歩くコース。待った待ったでここまできたけどついに待ったなしですという話をした。目標を立てる。


2026/02/10 昨日 18521
朝から出社。昼から在宅。夕方からバスケで狛江に出かける。あたらしいバッシュをおろした。若草色が気に入っていて履くだけでテンションが上がるのでその強みが機能面を凌駕する。

2026/02/11 今日 5247
一日家にいてブルージャイアントシュプリームを全巻読む。ドラムの練習。夕方から高円寺のバスケに出かける。

20260206

日記716

投げるからには

2026/02/05 昨日 13328
20時にはスタバを出て酒を飲まずに帰宅する。16時という遅い時間に昼ご飯を食べていたのでサッポロ一番塩だけで済ませてすぐに寝る。


2026/02/06 今日 7153
朝から出社。タスクが多い。追われるようにして13時まで働く。一区切り付けたので在宅に切り替える。豚とんでカレー味の小らーめんを食べるがいつもの味のほうが美味しい。帰宅して30分だけ昼寝する。そこからタスク消化のため画面の前にもどり、しこしこ働く。1時間半弱の残業になった。
もうすぐ39歳になる。楽しい時間はそれなりに多いし、労働時間中にも嫌な時間はほとんどない。週に2回ほどのペースでバスケットボールをしていて毎日8時間ぐらい寝れているから心身ともに調子がいい。読むべき本を読む時間、日記を書く時間はバスケをしていない日に限られるが、2時間から3時間ほどある。酒を飲む頻度は週7日から週2日ぐらいにまでに落ち着いた。毎日飲んでいた頃には考えられなかったことだが、酒を飲まない週も当たり前のようにある。
こういう何不足ない生活を送っていると、何でもできるという気分になってくる。だから実際、演劇にも挑戦することになって、もうすぐ本番を迎える。
しかし、自分には為事(しごと)がない。為事というのはいわゆる仕事ではなく、為にする事という文字通りの意味で、自分の為にする事だ。社会の一員として、つまり社会人として生活したいという欲求が自分にはうすいので、仕事に対する移入もほとんどない。まだバスケットボールや演劇のほうが力を込めてやれる。しかしそれにしても一生懸命やるということにはならない。誰かを押しのけてでもこのゴールを決めたい・止めたい、勝ちたいとは思えないし、誰かとぶつかってまで自分の演技を貫きたい、自分の動きに周囲を巻き込みたいという願望もない。集中力など各種自分の力を発揮するための適当な場が与えられてありがたいという気持ちはあるが、サイコロを振る、先読みしてアクションするという以外にもいろんな能力が必要になるボードゲームを遊んでいるような気分で、半ば自分の力を試しながら、半ば自分にできることを恃みに思いながら、おしゃべりしつつアイコンタクトしつつ、たわむれに盤面を進めているにすぎない。もし振り出しに戻るというマスに止まったら、歯を食いしばってもう一度やり直すということは多分しないで、躊躇なくべつの遊びに移行するだろう。音楽演奏や詩吟、ピックルボールなど、すでにその候補もいくつかある。自分は仕事の時間を支出しつつ、やりたいことをして自由に遊んでいるいい身分だ。遊ぶことはあまりに楽しいので、その自由を購うための仕事をも含め、どうも手放す気になれない。嫌なことが多かった仕事を経験していることも、いまの居心地の良さを失いたくないという気持ちに拍車をかけている。
ただ、時間は有限で、自由に使える自分の力を発揮できる時間、その力が今ある量だけ継続して使える時間はさらに限られている。自分にとって今こそがゴールデンタイムだという意識はある。その時間をどう使うかを自分は真剣に考えなければならないなとも思っている。遊ぶために使うのもひとつの手だ。負担にならない仕事をして遊ぶ時間を確保し、みなぎる気力や体力をふんだんに使って生活するなかでそのとき目の前に流れてきた綿毛を掴むという生き方。今何かを選ぶということをしないとするなら、自分はそうやって生きることになるだろう。「あそんでいきよう」というのは個人としての人間がたどり着ける最高の価値観だから。
あるいは、為事をして生きていくというアイデアがある。とにかくがむしゃらに一生懸命生きるということだ。自分は自分自身が何かを犠牲にするような生活をのぞまないが、それでも、自分で「一生懸命やる」を選ぶという条件であれば、自分にもできるのではないかと思っている。他人が言ったりやったりしていることに対して「それは違う・間違っている」と感じる狭い領域が自分にもある。そういうときはスコープが下手に伸びているだけで、ただ狭い了見にすぎないのかもしれないが、その違和感をバネにして高く飛べそうだという直感が働く。相手が間違っていて自分が正しいというのではないが、自分が正しいというのはある。相手の間違いのおかげで自分が正しいと思う線が見える。だからまずはその線を引きたい。それはまたいつかの自分にとっての相手になって、その間違いはいつかの自分の目に正しいと思う線が見える補助にもなるだろう。しかし重要なのはいつかではなく今だ。だからまずは線を引きたい。今から一本でも多く線を引きたい。それが自分の為事だという気がしている。いびつなことは気にしないでもいいが、いびつであろうとするのは違う。それ以外はまだ何もわかっていない。たぶんこれからわかっていくことなのだろう。始点だけを意識して引き始めるのがいいのか終点を決めて始めるべきなのか、線と線との接続は、重ね合わせは、統合は、どういうかたちでなされるべきなのか。ある程度は線に任せるのがいいのか、そうだとしてそれはどの程度か。
スタバに出かけて考え事をする。どうすればいいか、どうしようかと考える余地があるというのは恵まれていると思うし、考える余地があるかないか選べるなら断然前者を選ぶのだけど、それはそれとして、実際、どうしようか。とりあえず書け、でしかないのだが、そんなことを言っていても仕方ない。賢犬を流すつもりはないが、賢犬が立とうとしない以上、賢犬が飛び出てきた日のように、何かを見つけるためにふらふらする時間を作らなければならない。いつかはいつか(賢犬)、今は今。さて。

20260205

日記715

リメンバー・ミー

2026/02/04 昨日 7558
20時前にスタバを出てすこし外で飲み、ダイエーでサバ味噌缶(はごろもフーズ)と納豆、家人が食べる用の納豆巻きを買って帰る。M1関連の動画がリリースされたので目ぼしいものをいくつか見る。翌日は朝早いので早めに寝る。


2026/02/05 今日 11563
奈良の実家付近にいて近鉄奈良駅から家まで帰ろうとする途中でクマが出たという騒ぎが持ち上がる。やすらぎの道の郵便局のあたりでクマが出る予兆(熊の子)を見つけたその矢先だった。大きな叫び声が上がり、そちらを見ると三条通りのほうに大きなクマが出現していた。大慌てで神社のほうの路地に逃げ込む。その道の先に入ったことのないお堂があり、緊急事態だからということで勝手に門を開けて中に入った。建物の中は外から見たよりかなり広く、電気がつかずに暗いし、迷路のようになっていたこともあり、なかなか向こう側へ抜けられない。苦労してやっと向こう側へ着いたと思ったらぐるっと回っただけだった。案内の小坊主が慌てる我々を見てニヤッと笑ったので敵側の手先かと疑った。ニュースでは街に出たクマは一頭ではなく、クマ軍ともいえる集団で襲ってきていると報じていて、何らかの大きな力が働いていることを思わせた。その後なんだかんだあったあげく急襲を受け絶体絶命になったのだが、都合よくヒーロー視点に切り替わってアトラクション的にクマ退治をする夢に切り替わった。都合の良い夢だと思い緊張感ががくっと下がるのを感じた。突き詰めて考えると絶体絶命のタイミングですでにゲームは終わっていて、愉快な偽記憶を植え付けられているようにも受け取れそうだったので突き詰めて考えるということはするまいと、あえてアトラクションを楽しんだ。急流滑りのようなスプラッシュ系のアトラクションもあって、楽しもうとする分にはなかなか楽しめた。
遅刻したくないのできっぱり目覚めることにして早々に家を出る。時間きっかりより2本早い電車に乗って有楽町経由で新豊洲まで。この日は最終出社日の人に同席しての立ち合いだった。今と比べると社会全体にコンプライアンス的な意識がほぼないような厳しい時代を生き抜いてきた人なので、おとなしい印象のなかにも硬い芯があるように感じられるのだが、物腰がやわらかで丁寧にコミュニケーションしてくれていた。あまり接点がないまま過ごしてきたが、引き継ぎをすることになって一気にやり取りが増え、そのなかで好感を持つようになった。仕事のことについてはとくに言うことはないので「お元気で」とだけ言おうと身構えていて、午後からの仕事でべつの現場に移動するタイミングで最後のあいさつとしてそのことを伝えられたので良かった。ごくシンプルに元気でやってほしい。
大手町に移動してからの仕事は悲惨な状況で、ほとんど何もわからないまま先方の質問を受けては確認しますということを小一時間のあいだずっと繰り返し、目ぼしい成果も挙げられないまま時間切れで解散になるという体たらくだった。大の大人4人に囲まれて、仕事上は質問をしなければならないが、ひとりの人間としてはこの人に追及するのは忍びないという優しい視線を感じて、世の中捨てたもんじゃないなと、すこしホッとさせられた。わからないことはわからないと言うしかない、わからないというのが俺の仕事だ、と割り切って伝えることはできた。最低限の仕事だが最低限の仕事は果たした。
這々の体で帰路につく。ろくにご飯を食べる時間もなかったので帰宅してすぐ冷食チャーハンを食べる。タスクは溜まっているがとりあえず明日に回し、定時で退勤。
デザインと色だけで決めたニューバッシュが到着していた。この日はバスケに行くつもりでいたのだが、足の疲労が抜けていないので行かないことに考え直す。新しいバッシュを履く日には良い感触を得たい。感触がわるいなかでシュートを打っても全体の成功率が下がる練習になってしまうというのもある。これからは毎回の質というかコンディションも調整していかなければならない。というわけでスタバに行き『失われた時を求めて』を読む。ソドムと植物の交接について。人の欲望についてはあまり関心を持てない。人のファッションについても同様だ。自分というものを切り離してそれらを考えることの意味がわからない。意味というかやり方というか。

20260204

日記714

最もオクロック

2026/02/01 一昨昨日 8545
タウンホールのスカイラウンジみたいな眺めの良い部屋で稽古をした。出演場面となる公園を具体的に想像するなかで、幼稚園から小学校まで遊び倒したマンション前の公園を記憶に呼び出した。集中力を高めようとするなかで、肝心のコミュニケートするべき相手役を無視するかたちになってしまい、きれいに本末転倒していて我ながら可笑しくなった。集中しすぎなのかテンパりもエスカレートし、スローモーションで走る場面で手と足がいっしょに出るという面白を演じてしまった。稽古の途中で新宿方面のビルから黒煙があがるのを発見する。火事だった。
自分がやりやすいように、マイペースを崩さないようにとラクな体勢をとろうとして、周囲の援助もあってその通りできているのだが、自分がやりやすいということはその分誰かが居心地わるくなっているということでもあるという一般論があるので、どこに対してそうすればいいのかわからないがもうすこし気を遣うようにしようと思わないでもない。しかし残念ながらこれからは思うような余裕もなくなっていくことだろう。家に帰ったらカレーとその作者が待っていた。我が家はジャワカレーにテーブルスパイスを足したカレー。美味かったのでたくさん食べてお腹いっぱいになりすぎた。それで睡眠の質が落ちる。等価交換、ということでいいのか。


2026/02/02 一昨日 9292
朝から出社。午後から在宅。スタバに行って日記の代わりに演劇経験についての文章を書く。原液感がつよい。もっと散らせるかあるいはもっと突き詰めるか、どちらでもいいがどちらかに方向づけないとどうにもならない。テンションがあがったときに、思ったことを棒大にする作業に集中してしまう。それはそれで楽しいのだが、あとに続くものがないということになってしまう。この日も書くだけ書いて帰り道に酒を飲むという発散になった。ところで坂本慎太郎の『ヤッホー』は良い。楽しくなったし、将来もこれを聞いて楽しくなるだろうことが想像のうちにやってきた。やまびこのように。


2026/02/03 昨日 21870
一日在宅勤務。こういうとき休みが全面に出てほしいのに、たくさん働かされた。無駄な依頼も多い。無視すると倍になる感じなのでいい加減に付き合っている。最小限に抑えられている手応えはあるのだが、それでも面倒だ。鷺ノ宮までバスケに出かける。西武新宿駅に行く途中スポーツショップでバッシュを試着。感触がわるくなかったのでそのままネットで購入した。今回はデザイン重視で選んだ。履いていてアガるというのが機能面を補ってあまりあるという判断だ。たぶん機能はどれもそれなりに高いのだろうし。鷺ノ宮は急行が止まるとは思えないほど、駅前なのにうらぶれた雰囲気で、中学校にむかう道も暗くて寂しいのだが、体育館はかなりきれいだった。参加人数が少ないこともあって出ずっぱりになりだいぶ疲れたのだが、みな上手くて当たりは優しいという最高の環境だったこともあってだいぶ楽しかった。
くたくたになりながら高田馬場乗り換えルートで帰る。家人に駅まで迎えに出てもらい、まいばすけっとで恵方巻ほかを買って帰宅。Vは先に寝てしまっていたが、今年も節分の儀式をした。


2026/02/04 今日 5242
午前在宅、午後から出社。一日働き詰めで疲れた。しかし睡眠時間の確保したことでまあ前向きにタスクをこなし、背負わされた荷物をひとまず置くこともでき、終業後には達成感があった。渋谷経由で下北まで戻りスタバに行く。『失われた時を求めて』ソドムとゴモラ、『八月の光』を読んでから日記を書く。20時前にはスタバを出て飲酒しながら帰るつもり。また『ヤッホー』を聞くだろう。

20260202

死後の世界にいる「私」を演じるということ

演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をしている。

私には娘がおらず、配偶者と離婚してもいないのだが、〈離婚して自由に娘に会わせてもらえない父親〉を演じることになった。演劇の舞台なので、それがどういう場面で、役者としての自分がそこでどういうセリフを言うかというのは決まっている。作・演出のNさんは演じること全体について説明してくれたことがある。それは間違いなく彼の演出のなかでもとくに優れた内容だった。いわば基本のキであり、そのために訳知り顔の評論家気取りの連中にも簡単に引用されそうな内容なのだが、それでもその重要性は揺るぎないものとして感じられる。それはつまり、彼の演出によってそのアイデアが自分のなかで揺るぎないものとして感じられるようになったということだ。とにかく不安を感じがちになる役者に対して、信じるべき灯台の光となるようなことをはっきり言えるということ。それは数ある演出家の資質のなかでももっともポジティブな要素のものだと思う。前置きが長くなったが、彼が何度となく言ったのは次のことだ。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」


私は他人がどう考えるかということについては感じるままに想像する以上のことをほとんどしておらず、どうせ大したことではないのだろうから、いちいち取り上げるほどのことはないと高を括っている。他人がどう考えるかということに対して真剣に併走するのは大変なコストがかかるということを自分に照らして知っているので、そのコストを支払おうという気にはなれない。真剣に考えを尽くしたとしても「そこじゃない」という見当違いが起きるというのも全然めずらしくなくむしろ往々にしてあることで、それも自分に照らして知っていることだ。だから、自分はどう考えるかということにフォーカスして、他人のこと、他人の考えることについてはある程度までと線引きしおろそかにしてきた。そういうわけで「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」というのを実践しようとしてまず苦しんだのは、登場人物がなぜそんな事態に陥ったのかというところを〈この私〉につなげる部分だ。私が演じる〈その私〉は、何かがどうにかなり、どうにかなった先でいろいろなことを取捨選択した結果、その立場に位置するようになっているわけだから、それを私にも納得できるようなかたちに成形する必要がある。のっぴきならない事情が重なって、出た目が思わしくなく、疲労が重なった挙げ句、追いやられた先で破壊的な結婚をすることになり、娘を愛していながら自由に会えないという厳しい状況に陥ったのかもしれない。これを真剣に想像することは簡単ではない。しかしそういう人は実際にいるというところから、それをヒントにして自分と接続する回路を、遠回りにでも、か細い線になってでも、つなげようとすることはできる。それに彼は彼で、この私と同じように自分の状況を顧みたとき「陥った」というふうには自分のことを考えないかもしれない。

いずれにしても、この私への接続については「できる」という思い込みを発揮するだけのことにすぎず、結局のところ、いい加減な想像の域を出ない。「普通こうでしょ」という、いい加減で許容しがたい他人の意見と似たものになる。しかしそれは怠惰が鍵なので、他人の考え一般について自分が使っているのと同じ鍵で開けられる。まあ大体こんなもんという大まかな切り取り方で必要十分ということだ。むしろそこから逸脱すると、他人からは容易に認めることができないゾーンに突入してしまうだろう(じつは私はそこへ行きたいのだが、今回の演劇では一旦保留としている)。だから結局、怠惰な想像力で「まあだいたいそんなところ」となる範囲内で調整するのが自分の仕事ということになる。それでも、普段使っていない筋肉を使うときのように身体の動かし方のバリエーションにはなるので、この私にとってもエクササイズ的な良い効果が期待できると思っている。

ところで、より面白いと自分に感じられる仕事は、死後の世界(あるいは生前の世界)にいる場面を演じるということだ。私は死後の世界というものを一切信じておらず、人がそれを信じることも馬鹿らしいと考える点で、他人からは「死後の世界がないことを信じている」よう映る姿勢をとっている。
だから「とりあえず脚本上セリフは決まっているが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せる」とき、死後の世界にいる自分のことを想像するわけだが、その自分のなかでどういうことが起こるかといえば、自分が信じていない世界のなかにどういうわけか入り込んで、そこでまごまごするというよくわからない事態だ。たとえば「現実」というのは信じる信じない以前にもう現実としてそこにあるものだから、前提としての”オフにできない機能”が元々そなわっていて、それをオフにして考えること全般がナンセンスだと思い込ませるたぐいの要素を備えている。私は疑おうと思えばそのことを疑うこともできる。つまり現実の現実性について虚偽だと暴き立てるような態度をとったり、それをフルシカトして自分の思う通りまっすぐ進むということをあえてしたりもできる。私は私次第ではそうすることもできると知っているが、同時に(ほぼ次のページには)そうしないということも明らかに知っている。死後の世界にいる自分を演じるというのはどういうことなのか。自分が演じる死後の世界というのはどういう場所なのか。自分の視点からはその場所のことはまったくわからないのだが、現実の持つ現実性という奇妙な図式を反転させたときのような奇妙さがその場所には漂う。また、外形的な強制力(今回の場合は演劇の舞台)によって、自分が自分の想像の外に置かれるということも起こる。「自分の外にある」という状態は、自分機能におけるコア部分の機能不全にほかならず、自分にとって許容範囲を超えることになるのだが、そのこと自体が次のように想像してみることをトリガーに発生している。
「とりあえず脚本上セリフは決まっていますが、その場面に臨んだときに自分だったらどういう感情になるかを想像して、その感情のうえにセリフを乗せてください」

私は死後の世界というものを信じていない。そんな私が死後の世界にいる私を演じることができるのだから、これを僥倖と言わずして何を僥倖と言うのか。私は演劇プログラムに参加して、舞台で演じるという特殊な経験をする。蓋し僥倖である。

20260201

日記713

正午すぎのみな味

2026/01/30 一昨日 8073
朝から出社。午後から在宅にするつもりが不要な対面打ち合わせを入れられたので終日オフィス勤務になった。アホウ相手にはアホウ相手用の対応をするだけだが、質問内容が不明瞭な質問をしてきてとまどっているとそんなことにも答えられないのかという態度を示してきたり、何を言っているのかよくわからないなりに汲み取って絞り出した回答に対して食い気味で否定したりして”主導権”を握ろうとするやり方があまりにもアホ丸出しで、話をしているときについ気分が落ち込みそうになった。もっと根本的に、最初からそんなアホウと関わらないでもいいような対応を考えないといけない。まあ普通に考えて遠ざけるか離れるかだ。
定時退勤後、失効直前のマブルスポイントを消費するため原宿までチキンブリトーを食べに行く。NYで食べたブリトーを思い出した。NYの外食が軒並み高すぎるなか、比較的安価でお腹にたまる食事としてメキシカン料理がありがたかったのを思い出した。大学生時代に東京に遊びに行って滞在を安く抑えるために食費を切り詰める、以上の切り詰め方をNYではしていて、あのときのひもじい気持ちを思い出す味だった。なんでも贅沢できる旅行よりも、不十分なところがあったりしっかり制限がある旅行のほうが旅感が感じられる。旅情とまでは言わないが、お腹を空かせて通りを歩く経験というのは都会を旅する醍醐味のひとつだ。
ハラカドの1FにCBDショップがあったのでオイルを試させてもらう。「効果はバツグンだ」というのを期待するのだがそこまでにはいたらなかった。しかしその微妙さを「効果は今ひとつのようだ」と評価してしまうのも憚られるぐらいの効果はあったように感じる。乾燥からくるのか、かるい喉の痛みがあったのだが、その痛みは感じられにくくなったように思ったからだ。いずれにしても知覚に作用するということはなかった。(当たり前だが)
帰って演劇資料として提供してもらった動画を見る。参考にするという観点がすぐ抜け落ちて劇の内容に意識がいくのはさすがの吸引力だなと思ったが、夢中になっている場合ではないと気を取り直しつつ見た。今なんて言った? となるセリフがおぼえているかぎりでは一回もなかったので、彼らは何よりもまずナレーターで、その上に演技の肉付けをしているということになる。なので少なくとも自分に感じ取れるかぎりでは二重の技能を身に着けていて、さらに舞台度胸、記憶力、対応力など、総合的な能力を高いレベルで備えているということだ。さらにその前提をクリアした上で、自分の役者としての個性を発揮しようと苦闘しているわけだから、平手で立ち向かおうとしてもどうにかなるような相手ではない。そんなことは資料として渡された動画を見るまでもなく理解していたことだったのだが、まずいことにそこに実感も加わってきた。自分としては行けるところまで行って、やれることをやるだけだが、ナレーターとしての機能を果たして演劇の成立に寄与するというところで満足するかぎりでは自分が参加した意味はなくなってしまう。何が足りていなくても、たとえ場の成立や違和感のない進行のために足を引っ張ることになったとしても、1ミリでも多く”自分”を発出することを心がけていこうと思う。そのためにはセリフを覚えて、流れを覚えて、すこしでも堂々とした気分でいられるようにきちんと準備をすることだ。結局のところ、ピラミッドの積み上げ方にはそこまでのバリエーションはない。土台から頂点へとすすんでいく手順は変えられない。



2026/01/31 昨日 21833
朝から新横浜まで出かける。バスケの大会に出場するためだ。身体の不調部分は落ち着いていてほとんど痛みもなく、活躍するぞと意気込んで出かけたのだが、一番乗りで体育館に到着してアップがてらちょっと身体を動かしただけでいつもにはない息切れがある。その時点で嫌な予感があったのだが、まあ朝一番だから、温まってきたら大丈夫だからとシュートを打っていく。ランニング系のアップをしないまま試合が始まると、これが行きの電車で”走り勝つ”と意気込んでいた人間のやることかぁ!? ばりの息の切れ具合。気持ちだけでなんとか食らいつき、押されて押さえつけられてヘロヘロになりながらゲームタイムを消化する。タイマーを見ては「早く終われ」などと、わざわざ横浜くんだりまでのこのこやって来てまでなんで参加しているのか全然意味がわからないことを思う始末。6分ハーフで4試合やって得点は12ポイント程度にとどまり、マッチアップ相手の得点(つまり自分起因の失点)は少なく見積もってもその1.5倍はあり、チームの勝因どころかまったく逆に敗因になってしまった。終始相手ビッグマンのペースのなかで「なんとか付いていく」という意識以外には何も考えられず、こちらのペースにペースダウンさせるという、試合に参加するようになった最初の方に立てていた戦略を忘れていた。そもそも自分はタッパがあるだけでビッグマン的なプレーは苦手なのだから、そこで勝負する、負けないように付いていく、というのは端から間違った選択だ。相手のDFがマンツーマンならアウトサイドに逃げていればそれだけでインサイドにスペースを作れるが、ゾーンDFをされるとその省エネ戦術を使えない。そうするとインサイドに入ってキックアウトし、アウトサイドからのシュートをアシストするというのが自分にできる仕事になるわけだが、当たり負けして面を張るのも成功しない、なんとか入れてもらってもキックアウトするパスの選択と質がよくないと、総じてポストプレイの質が高くないことになった。ただ中で受けて外に出すということに徹してタスクフォーカスすればいいのだが、というかそれしかできない以上それをやるべきなのだが、それは自分のやりたいことではない。自分を殺してチームを勝たせる肚が決まっていない。しかしそんなに大げさに考えなくてもいい。ずっとそれをやるのではなく行き詰まったとき用の突破口としてそのプレーを選択し、それを成功させたあと、そこから駆け引きをすすめればいい。親指ないし人差し指になるようなポストプレーをひとつ持っていなければと思った。肚を決めてポストプレイの練習をしよう。
くたくたになって下北に戻る。帰りの東横線日吉〜渋谷が混んでいたのもきつかった。家人と合流して梅窓のうどんを食べる。消化のことを考えて肉うどんを選択。帰宅してシャワーを浴びて体力を回復させるために30分程度昼寝をする。洗濯機を回してから演劇の稽古に出かける。最初の本読みの頃にできていたセリフの言い方ができなくなっていた。同じセリフを、その時に初めて発した言葉かのように言うのはむずかしい。動くときにも段取りを知っている(段取りを覚えていると)とそのまま”段取りを知っている動き”になってしまう。セリフを言い終えたときにも安堵感から自分のターン終了感が出てしまう。こうやって書き出すといかにも初歩的なミスで、そんなことはやらかさないだろうと思えるのだが、あの場にいると考えることや視野がとにかく極小になって、出来の悪い機械そのままのような動きを本当にしてしまう。あの場にいると、という部分のマインドセットを舞台や稽古場ではなく、演劇の設定した場面に設定しないといけない。これは集中力が必要なのだと思う。本番でいきなりそれを発揮するのは無理があるから、ここから先は一回一回の稽古で集中力を発揮しよう。
パンを一個食べていっただけだったので稽古終わりには腹ペコ状態だった。でもこの空腹感はわるくない。他三名の参加者といっしょに新聞のインタビューを受けた。その流れで駅までいっしょに歩く。四人とも演劇経験はほとんどないメンバーなのだが、稽古が楽しいということで意見の一致を見た。演劇稽古全体をとおして、メンバー同士の距離感は”東京”という感じで、自分にはちょうどいい。もっと仲良くなってもいいのかもしれないが、それと同量かほんのすこしだけ多量の、もっと仲良くなるということはないほうがいいのかもしれないという思いがある。やはりこれが適切な距離感・間合いというものなのではないか。わからないけど。
ダイエーで家人の分と自分の分の助六・いなり寿司、ビールと氷結を買って帰る。ザ・コントというコント番組でロングコートダディの「ネオサイバーアーム」のネタとジャルジャルの「音響のスギさん」のネタを見る。キングオブコントよりも自由度のある”テレビコント”のフォーマットでやりたい放題やる二組の方向性は違ったが、とにかく面白くて圧倒された。早めに寝るつもりが12時すぎの就寝になる。


2026/02/01 今日 2571
7時頃に目が覚める。そのまま起きると寝不足になるので二度寝しようとするもしっかり覚醒していて二度寝に失敗する。仕方ないので9時ごろに起き出してきて出かける準備をして、スタバに出かけて日記を書く。そのまま昼ご飯を食べてから13時からの稽古に行く。全集中舞台俳優の呼吸で場に臨む所存。

日記735

通い慣れた広い道 2026/03/14 一昨昨日 8265 午前中に映画『トレインドリームス』を見た。一人称映画というのはドキュメンタリーではなく劇映画でしかありえない形式だということを思った。ドキュメンタリ映画については好きでも嫌いでもないが一人称映画は...