20240106

日記278

五択

2024/01/05 昨日
スタバでワンアイデアの小説をすこしだけ進める。そのあと、気になっていた居酒屋みるくに行ってみる。ご飯はおいしいし、瓶ビールをたのめばちゃんと大瓶で、それだけでもう言うことない。そのうえで、それぞれの料理の値段にはゆるやかな傾斜があって、お金のことを気にしていれば三人でも一万を超えることはないぐらいの価格設定。大衆居酒屋の名に恥じない立派な店だった。カウンターの角の席で半向かいになった男女がマッチングアプリではじめて飲みに来たとおぼしき二人組で会話の様子が気になった。ザ・下北の若い男女という感じで二人とも容貌にすぐれており、そこからくる余裕なのかだいぶ落ち着いたトーンだった。お互いシチュエーション慣れしている感じで、乾杯して早々に昔の恋愛の話、前の恋人となぜ別れたのかという話をしていた。たどたどしさとは無縁、すばやく必要な情報を収集していてすこしも可愛げのない会話だった。その直線的な無駄のなさにはかえって世慣れない感じが醸し出されるレベルで、都会的な若い男女の一典型という感じがした。最初に男のほうがすこし遅れて到着して、さきに女がひとりで飲んでいるというのも、水面下の主導権争いとしてみると面白かった。
こちらは言葉を発明したいという話をした。いろいろ考えてみて、愛玩用のロボット一般をあらわす名詞がまだないということに気づいたので、【ロポ】というのを考えついた。
ロボットrobot→ロポットropot→ロポ
彼女は二〇〇二年頃からメールで「了解」というのを「り」と表現していたという。「了解」が「りょ」になって「り」になるのは考えつきやすい流れではあるけれど、二〇〇二年というのはもしかすると最速かもしれないと言って盛り上がった。ただ冷静になって考えるとメール文化の前にはポケベル文化もあるから最速という主張をするのはむずかしいかもしれない。
帰り道、ロボット映画の話の流れで、映画「バンブルビー」の話になる。語感でメルヴィルの『書記バートルビー』とごっちゃになって、頭の中に彼のセリフ「いえ、それをやらないほうがいいとおもいます」が流れてきて、ややややこしかった。
帰りがけに締めのどん兵衛を買う。帰宅後それを食べて、呪術廻戦の最新刊を流し読みしてからねむる。

2024/01/06 今日
昨夜寝た時間からすると早すぎる時間に目が覚める。休日にそうなってしまうと、この日が休日だという事実に興奮してしまって二度寝するのがむずかしくなる。それでもまだ空が暗い時間帯だったのでなんとか三〇分ほどかけて二度寝する。
起きてからすぐスタバに出かける。小説を書くための準備をはじめようと思ってエディターを開くが、進捗は芳しくない。テーマとか書きたいことを思いつこうとするのはよくないアプローチだというのはわかるが、それをしないとなるといくらなんでも取り付く島もないということになる。テーマ・書きたいことを考えようとしてもかなり表層近くのものに限定されるので、日をまたいで「小説を書く」ということが続かない。一気に書き上げる場合にはそれでいいのかもしれないが、一気に書き上げることは自分にはできない(その志向もない)。今書きすすめられなくなっている小説にしても、書き始めるまでに相当の時間を費やしたのを思い出した。進捗というものがなく、自分がどのへんにいるのか定位できない時間になるのですこし苦しかったのも思い出してきた。生活の中から題をとるタイプの小説はそのあたりのしんどさはないような気がする(書き始めてから小説と生活が同時に危機に瀕するというもっとおそろしいことは起こりそうだが)。
お腹が空いたので昼ごはんにすた丼を食べる。お腹いっぱいになったので一旦家に帰り、そのまま昼寝。予定では十六時に開く銭湯に行くつもりだったが昼寝が捗りすぎたので止めにする。十七時すぎに今日二回目のスタバにいく。今年の目標について考える。たくさん寝たので頭が働くはずだと踏んでいたのだがパッとしたものが思い浮かばず。時間の使い方としてあらかじめこうするべきというのを組み込んでおくというのが一番ましな部類に入った。具体的には月イチでやることを決めておく。たとえば月イチぐらいで海に行くよう決めておいてもいい。しかしもっと大事なのは運動の習慣をつけることだ。もう三十代も残り少なくなっていることだし、身体がまっすぐ最短で衰えていくのを感じていたくはない。

20240105

日記277

出没注意

2024/01/04 昨日
スタバに行ってPERFECT DAYSの感想を書いたあと酒を買って家に帰る。ふろふき大根というのかあたたかいご飯がすぐに出てきて、寒い空腹状態から温かい満腹状態に移行した。なんとなく敬遠していたポケモンコンシェルジュのパペット制作を友人が手掛けているという情報が入ったので、重い腰を挙げて見始める。一話あたり十五分弱のサイズ感で全四話だったのですぐに見終わってしまった。途中のコダックでもうだいぶ腺が危うかったのだが最後のピカチュウのところでは大幅に許容量をオーバーしてしまった。最近では涙は涙、感動は感動とわけて考えるようにしているので、涙が出たから特別だという感じはないのだが、人前だとやっぱり堪えようとしてしまう感じがある。ティッシュやハンカチを持ち歩いて鼻水を拭うのと同じように拭ってしまえばそれで済むと、もう一歩進んで考えるようにしたい。

2024/01/05 今日
女友達のあのちゃんと家飲みをする夢を見た。もうひとり誰かいて三人だったのだけど全然思い出せない。面白いことをどんどん言ってくるあのちゃんへの対抗意識があり、それを盾にしたおかげで緊張せずざっくばらんに飲めたので楽しかった。あのちゃんは意外と読書するタイプらしく、何を読むのか気になったけど、タイミングが違ったので聞かずにしまってそのまま目が覚めたのが悔やまれる。
在宅バイト。同じ仕事をするにしてもべつの形態で働いていたらと思うことがある。もっと工夫して自分の時間を売らないと損だという気がして、しかしいつも気がするだけで終わらすのだけど、もっと具体的に考えてみていいのかもしれない。しかし動き出そうとするとものすごく億劫だ。なら余計な文句をいだかず、タスクをちゃっちゃとこなして空き時間を作るほうに専念するべし。これは理にかなった結論だ。データアナリティクスの勉強をすこしだけ進める。
定時で家を出てスタバにいく。今書いている小説が詰まっていて小説を書くということができなくなっている。並行してすすめるべつの小説のことを考えるのがいいのかもしれない。新小説とその進め方について考える。

20240104

映画『PERFECT DAYS』をみた


今日一日の精度をどこまで上げられるかという問題がある。それはすべての生活者に共通のテーマでもある。一日が何か全体的なものに寄与するものだったり、何かの目的を成し遂げるための進捗で測られたりすることがあっても、そういう大きな目的やたしかな目標が全然なくても、今日というこの一日を「一日」という単位で区切ったとき、そこにどれほどの達成があるかという問題は変わらず生じうる。
毎日、ねむる前に「今日一日はどうだった?」と自分に聞いてみることができるということだ。自分のことだから実際に声に出して聞いてみないでもそれに答えることはできる。これは勝手な憶測に過ぎないが、そういう問答をしたがらない人ほど、何か目的を作っては、一日をそれの犠牲にすることで安心を得ているような気がする。それでなんとなく事なきを得ているつもりかもしれないが、今日一日を犠牲にすることで得られるものは基本的には何もないというのは肝に銘じておくべきだ。今日一日を犠牲にして生活する人は、同じ理由で明日も犠牲にするだろうし、そうなると今日や明日の犠牲はそのまま埋没費用ということになって明後日も同様に過ごさないではいられないことになる。どんな目的があったとしても、その目的のために犠牲にしていい日は一日もない。これは生活者として基本に据えておくべきことだ。
そのうえで、どれだけいい一日が続いていってもそれがいつまでも続くわけではないというべつの問題もある。それに対して反抗の意を示そうとするのは自然な流れのように思われるが、そのためであってもやはり当の一日を犠牲にするべきではない。むしろそのためにこそ、満足いく一日をもうひとつ並べてやるべきだと思う。
われわれが誰だろうと、その場所がどこだろうと、その一日を満足いくものにすることはできる。役所広司の動作のひとつひとつを見ていると、彼がそのことを心から信じているのがわかる。周囲の人とのやりとりが補助線になってそのことがよりわかりやすくなっているというのはあるにしても、ほとんど信仰そのものともいえるその生活のありよう、その確実さは、彼自身の立ち方、居方、振る舞い方が中心になって見事に視覚化されている。そして、ほかならぬ彼の生活こそが、その確固たる立ち居振る舞いを作り上げている当のものだ。ここでも鶏がさきか卵がさきかというのは、鶏が卵を生むという事実のまえにあっては影のうすい問答にすぎない。鶏は卵を産んだかという質問を毎日して、毎日それに答える。そんな日々の生活こそが完全な一日なのだ。
と、そんな当たり前のことをいちいち言葉で言ってみてもはじまらない。役所広司の一挙手一投足を見てそれを感じ取る以外に、生活者としてそれを学ぶ方法はない。生活者にとって最高の一日というのは稀に存在するとしても、完全な一日というのは絵に描いた餅だ。そんなものを目指していてはいたずらに一日を不完全なものにしてしまうばかりだ。
それもあって、正直に言って役所広司の『PERFECT DAYS』には反感をおぼえる。あまりにもストロングスタイルだから悪口のひとつでも言ってやりたい気にもなる。しかし、役所広司や登場人物たちが通奏低音のようにして反感をおぼえている「いつか終わってしまう」ということへの反感については身に覚えがあることでもあるし、「完全な」ということの意味、「Perfect Day」という曲の意味というかその曲に聞き入るということの意味が、われわれ生活者に共通する反感を表していることでもあるので、大目に見るというわけでもないが、まあ、大目に見てやろうと思った。ちょうど私が、私の過ごす一日のうち、ちょっとしようがない感じの一日についてちょっと大目に見てやっているのと同じように。

日記276

おすすめの通り

2024/01/03 昨日
前日に夜更かしをしたにもかかわらず八時に目が覚めてしまい寝不足状態になる。本州横断の長旅を終えて帰ってきた同居人を駅までお出迎え。帰ってきてお土産交換をする。寝不足状態解消のためきちんと昼寝をする。昼寝を終えてから近所のイベントスペースで餅つきがあるというので出かけていく。ぜんざいにおそろしいほどの行列ができたので早々に諦め、やきそばを買って食べる。
一〇〇円多く払って目玉焼きをつけてもらった

のちに聞いたところではぜんざいは行列が長くなりすぎてラインカットがあったとのこと。自分の意志でわざわざ行列に並ぶんだから自業自得とはいえ新年早々気の毒なことだ。甘くて温かい飲み物の口になったということでスタバのキャラメルほうじ茶ラテを飲みに行こうとするもあえなく売り切れ。井の頭線に乗って永福町で降りてみる。どこかでぜんざいが売っているんじゃないかと考えたが見込みが甘かった。歩いている途中でおそろしいカラオケハウスを見つけたのと駅ビルのカルディでコーヒーの試飲サービスを受けただけで永福町を出る。井の頭公園駅で降りて公園を散歩する。昔住んでいたアパートの前を通って映画館にいく。今年初映画は予定通り『PERFECT DAYS』。映画を見たあと行きつけの中華料理店「龍明楼」に入って晩ご飯を食べる。おいしくて良い気分になった。帰り道に小雨が降っていた。なんとなく風邪のひき始めの雰囲気があったので早めのパブロンを飲んであわててねむる。

2024/01/04 今日
在宅バイト。よく寝て目覚めが良かったので連休明けをそこまで嫌がらずにぬるっとタスクに入れた。ゆるゆるしつつもやることがあるという仕事量のバランスだったのだが、ひとつだけすっかり忘れていたことを思い出して焦った。昼にはオリジン弁当まで歩いて昼食を買いに行く。途中洗濯物をしたりして夕方ちかくまで働いて、そのままデータアナリティクスの勉強をする。定時で上がってスタバにいき、キャラメルほうじ茶ラテを注文する。甘くて美味しい。
いつもドリップコーヒーのショートなので
めずらしい注文


20240102

日記275

青天(15:15)

2024/01/01 昨日
カフェから出て家に帰ったのが十五時すぎ。それから家でテレビを見ていたら突然スマートフォンから地震速報が鳴る。すこしの揺れのあと、長い揺れがしばらく続く。それからテレビは地震と津波に関する情報に切り替わる。NHKがあまりの剣幕で避難を呼びかけるので百歳を越えている祖母が避難したほうがいいのではないかと不安になっている様子だった。海からじゅうぶん遠いからここで大丈夫だと説明する。二時間ほどずっとテレビの情報が流れている状況になる。夕飯時もテレビはすべて地震・津波関連で正月気分が吹き飛んだ。それでも近江牛と鹿児島の牛の焼肉はそれぞれ美味しかった。十八時半になってようやくテレ東系列の「充電させてもらえませんか」という出川出演の旅番組が始まったのでそれを見る。二十三時ごろにねむる。

2024/01/02 今日
八時に起きる。お雑煮をいただく。弟が愛知に戻るので送り出し。その後JR奈良駅方面に散歩。スタバに行ってデータアナリティクスの勉強をして日記を書く。一年の計画や目標について考える時間を作ろうと思っていたが、思考が散漫でトピックにうまく集中できず。スタバにはいろいろな年代の男女連れが入れ替わり立ち替わり隣の席に座っていったが、上の世代は男がシート席、女が椅子席に座っていて、下の世代は女がシート席、男がシート席に座っていた。まあ想像通りではあるが、東京では上の世代でも女がシート席に座る気がする。田舎では特定の世代より上の世代では外出時に男がえらそうにするという文化なんだろう。田舎の文化というのはほとんど形容矛盾に感じられるし、奈良でもそうなっているのは残念だ。と思っていたら両親世代の男女がきて女がシート席に座った。男はややふんぞり返る感じで椅子席に座っているが、それでも比較で好ましく思える。真面目なヤンキー理論のようでそれはそれで不本意だが、贅沢は言っていられない。

20240101

まだまだ「作文はむずかしい」と感じるので二〇二四年は作文能力についての成長をみせたい

覚えている一番最初の作文は小学校六年のときに書いた卒業文集でのものだ。テーマは「学校生活のなかでおぼえていること」だったような気がする。自分の中ではこれというものがあって、そのことについて書き始めたのだがどうもうまくいかなかった。面白いと思った体験と自分の書いた作文とのあいだにものすごい溝があって、なんでこんなことになってしまうのかさっぱりわからなかったが、この作文は失敗だという感覚だけははっきりあった。そのときに味わった挫折は大きく、正直のところ今でもまだ立ち直っていない。そのときにやるべきだったのはおそらく、失敗した作文を初稿として第二稿を書き始めるということだったと思われる。しかし、せっかく書いた作文を一度消して、新しく書き始めるということが自分にはどうしてもできなかった。できるできないというよりはその発想がまるっきりなかった。机の上に座って鉛筆を握り、何かを紙の上に書きつけるだけの労力を払っておきながらそれがまったくの無駄になるというのが許せなかったんだと思う。机に座って何かに取り組んだことで勉強する時間が減ることはあっても増えるなんていうことは当時の自分にはありえないことだった。今でも一度書いた文章を駄目だからと消してしまって新たに書き直すということが不得意だ。書いた文章をべつのやり方でなんとかつなげようとするのは、場合によっては最初から書き直すよりも手間がかかるものだというのは頭ではわかるのだけど、実際にはすぐにその判断をできないことが多い。書き直したほうが早いしラクだとわかっていても、つい、直前にできた文章の延命をはかってしまう。

卒業文集用の作文も、どんな文章だったか思い出せないが、書き出しから失敗していたと思う。作文に書きたかったのは五年生のときの野外活動で山登りをしたときのことだ。普段あまりつるまない、ちがうグループにいるクマみたいな男の子と列の前後になった。下り坂になっている道の途中、喉が渇いた自分はお茶を飲み、飲み終わって水筒をしまおうとしたときに不注意で水筒の蓋を落とした。蓋は丸い形状だったので側溝を転がっていった。あっという間に見えなくなるところまで転がっていき、水筒の蓋を失くした状態でその後の野外活動をやり過ごさないといけなくなる、そんなビジョンが瞬時に頭の中をかけめぐった。しかし、実際に起きたのはべつのことで、前を歩いていたクマのような男の子が予想外の素早さで転がる蓋をさっと拾い上げてくれたのだった。そのときの意外な感じ、蓋が助かった喜びのことなどを六年生の自分は作文に書きたいと思ったのだろう。そのほかに詰め込むべき要素も多かった。その子とはあまり仲良くなかったし、それをきっかけに仲良くなったというわけでもなかった。そんなクラスメイトを作文の中に登場させたいというのは、やっぱり自分のなかで印象に残るさまざまな要素があったからだろう。当時の自分は今よりもずっと神経質で、粗野で粗暴な雰囲気のクマ男とは仲良くなれるチャンスはなかった。それでも蓋を拾い上げてくれるというイベントが起こったときにはそのクラスメイトのべつの側面をみた気がして、そのこともまた嬉しかったのだ。それから水筒の蓋を手渡してくれるときに、小学生らしい得意気な様子のなかにも照れのような表情が浮かぶのを見て、自分やよく遊ぶ友達以外にも意識を持つ存在がいるのだと気づかされたのも、当時の自分にとっては驚きをともなう嬉しい新発見だった。だから自分が書いた作文では、そこに到達することを見込んで急ぎ足だったというのもあるが、書き出しの一文目から野外活動の坂道を歩いている場面だったと記憶している。読んでいる人が自分の思い浮かべているあの場面を思い浮かべられるかどうかということには一切頓着しなかった。そのうえ叙事的かつ主観的な記述で、自分以外には意味が通りづらかったと思う。そしてさらにわるいことには、その記述だけで所定の文章量に達したため、尻切れとんぼにただ「嬉しかったです」という抽象的な感想で作文を締めくくっていた。あとで読み返して、文章を書く経験はもちろん読む経験もほとんどなかった自分でも駄目な文章だというのははっきりわかった。自分で書いた作文を読んだときにすごく恥ずかしかったのを覚えている。

作文するときに意識するべき鉄則はそのときからほとんど変わっていない。急ぎすぎないこと。文章を無理に終わらせようとしないこと。感想にするのがむずかしい感慨や印象的な出来事ほど文章にしたくなる。今になって、宿題や課題ではなくただ作文するというとき、動機の中心には「それを面白いと感じた」というのがある。ただそれにはコンテキストがあるから、ただ中心部分だけをくり抜いてみてもはじまらないことがほとんどだ。映画の感想やお笑い番組の感想については誰もがそれを見ているというのを前提に書けるからいきなり中心部分を取り上げても問題はすくない。どこに掲載する文章なのか、これを読むのは誰なのかというのを考えるならそれだけではだめなのだろうが、今のところ媒体をえらんでそれに合わせて書くというのは考えていない。それでも、感想になっていない感想以前の感想を文章のかたちに置き換えようとするときには、できるだけじっくり腰を据えて書くことが必要だ。どう感じたのかということに対して緻密にアプローチしようとすると次第に中心からずれ始めるということもあるからいたずらに時間をかければいいというのでもないが、慌てたり急いで確定させようとすると間違いが起きやすい。

自分からみた対象の中心部分というのは、直接それを射抜こうとしても言葉足らずな観念で終わってしまうことが多い。すごいとか良かったとか、そういう形で文章を閉じるのは小学生の感想文に多い表現で、そこに実感が籠もっていると読むことも不可能ではないが、それにしてもやはり、どうすごいのかどう良いと思ったのかというのは気になるところではある。その説明のためには、ある程度は自分の置かれているシチュエーション、主観の流れを共有したり、コンテキストのなかに感想を配置する労を惜しまないことが大切なのだろう。それには時間がかかるし、自然にまとまった量の文章になる。しかし文章を書いていると、だんだんあのときと同じで短く済ませたいような気がしてくる。たくさんの要素を一文に詰め込んで、うまくまとまっていないのに無理やりまとめて短くしようと気がつけばしている。

自分が書きたいと思うのは、自分にとって固有の条件の中で起こる面白いことであって、必ずしも普遍的なことではないし、少なくとも通例的な事柄ではないから、とにかく文字量が増えるのは良いことだと考えるようにしている。それでもいつの間にか短い言葉でキュッとまとめようとしてショートカットばかり探している。それは暗号的とは言わないまでも、あるコンテキストを共有しているもの同士の符牒のようなものになりやすい。さらにそこで、実情はどうあれ心情的にはそういう言動をするのは嫌だから、ぎりぎりのところでそうなるのを回避しようとして、ちょっとした発明語を開発して使っていることも多い。だから結局、暗号のような文章ができあがる。まったく解読できないわけではないが、読むものにとって引っ掛かりが多く無用なストレスがかかる文章だろうと思う。そうなったとしても文章としては一応書き上がるので、読む人がどう思おうがそんなのは知るかとは言わないものの、できあがった文章を投稿することでそう言っているも同然のことをしている。

二〇二四年は上記のことをきちんと反省し、日記をつぎのSTEPへとすすめたい。とくに長い文章を書こうと意気込んでいるときにこそ、このことを思い出していきたい。長い文章を書こうとするときには、書く前にまずどれだけの文章量になるかを想定すること。そして「それを短くまとめよう」ではなく、「書く前の想定以上に長くする」というのを鉄則として、自分が今後書く文章についてあらかじめ意識しておきたい。

日記274

au revoir 2023

2023/12/31 昨日
帰宅してから年越しそばを食べてWBC振り返り番組をすこし見る。その後紅白歌合戦をフルでみた。前半は知らない人ばかり、後半は知ってる人が続々というところに自分のいる世代を感じた。エレカシのパフォーマンスが強い。あとはYOASOBIのアイドルの演出が豪華だった。ゆく年くる年を見てすぐねむる。

2024/01/01 今日
九時頃に起き出し、おせちとお雑煮をいただく。その後最寄りの神社で皆揃って初詣をする。せっかくなのでおみくじを引いてみた。その後猿沢池の前まで散歩をして解散。カフェに行く。

日記802

業者たちのシーン 2026/09/23 一昨日 10092 14時すぎにスタバを出てバビシャーでチーズナンを食べる。腹ごなしにゆっくり歩いて帰宅。大相撲を見る。17時半すぎに家を出て新宿のどん底へ。そこで家人が待っており、はやしさんのライスとチャーシューを...