20240530

日記386

トゥー・シャドウズ

2024/05/29 昨日
八時前にスタバを出て、すた丼を食べて帰宅。帰ってからは何をするでもなくすぐに寝る準備をして爪切りなどして早めにねむる。

2024/05/30 今日
たっぷり寝たので一日通して調子がよかった。出勤してからは消費生活を読んだり、知らない用語の確認に時間を使う。昼からはAIを活用するユースケースについて考えたりする。
図書館で本を返してから真っ直ぐ帰る。家でペペロンチーノを作る。途中時間帯指定の佐川急便の荷物受け取り。このために図書館で時間を過ごせず即帰宅したのだった。自分で選べるなら佐川急便は使わないと決めた。置き配をやってくれないのは不便すぎる。ログインサービスも使いにくいし。
ペペロンチーノは今までで一番うまく作れた。これまで入れる茹で汁の分量を間違えて多く入れすぎていた。これでペペロンチーノをマスターできると思う。
テレビ録画していた有吉クイズを見て、この日もすぐにねむる。

20240529

日記385

街の灯と強風雨

2024/05/28 昨日
スタバ終わりにダイエーで買い物をして帰る。雨と風が強すぎて歩けないと判断したので、普段歩いている一駅分を電車で移動。五分足らずの道、傘をさして歩いたのにもかかわらず、両腕両脚がびしょ濡れになった。
同居人と『蛇の道』を見る。脚本のワンアイデアに全振りしたというか、アイデアの恐ろしさに外形的なクオリティがついてきていないという意味で、つまり悪い意味で大学生の自主制作映画みたいだと思った。しかし、それでもやはりアイデアの威力は明らかで、「自分だったら」ということを考えながら観ることのできる映画だと思う。不満点も多いが、一番不満だったのが怒らせたヤクザがすごく弱っちいこと。警察が存在しないかのように登場人物が考えて動いているように見えることの二点。期間限定無料だったし、見ないままリメイク版を見るわけにはいかないと思ったが、見ないでもよかった。香川照之が死体を蹴るシーンは怒りに任せての行動のはずなのに、まるで相手が怪我するのを気遣うような「蹴るフリ」そのままだったのであとに続くラストシーンにも影響するほど冷静になってしまった。あれでは香川照之がかわいそうだ。アクションシーンを入れるのであればしっかりアクションできるように準備しないと駄目だと思う。逆に演出意図とも受け取れるぐらい、迫力に欠けていた。

2024/05/29 今日
渋谷出勤。スクワットをしてから出かけても時間に余裕ができるような素晴らしい朝だった。早起きにはそれだけ価値がある。午前だけの作業だったので、自己判断で午後以降は自己学習の時間に充てる。そのため十時半にはLUUPを使って一旦帰宅し、洗濯機を回す。
その後、粗品の週刊誌記者の張り込み現場を押さえる動画を見るなどしてだらだらする。お昼にはペペロンチーノを食べる。ニンニクを引き上げる方法でやってみたがどうも油っこさが出てうまくいかない。
ダラダラするために帰ってきたわけではないので自分のケツを蹴っ飛ばし、十四時前にスタバにくる。『いつもの言葉を哲学する』読了。「いつもの言葉」というが「いつもの」感が少なかった。とくに最後の四章は、新聞の見出しを取り上げたり、コロナ禍で生まれた新語にフォーカスされるなど哲学的というよりは社会課題への問題提起という色が濃かった。たんに哲学科の先生が書いているエッセイというだけのことで「哲学する」とは、新書まるだしのミスリードタイトルだ。それでも読んでいると著者の人の良さがにじみ出ている箇所もあって、とくにあとがきの謝辞にはグッときた。
言葉に対するアプローチは、哲学の”そもそもの根本から問い直すスタンス”よりも、文学の”既にあるものを通して表現する(受け取る)”というスタンスのほうが射程が長いように感じられる。たとえば辞書に書かれている語義に対する受け止めについて、哲学的なスタンスを取るほうが俯瞰して見られる分、より見通しがきくように思えるのだが、文学において辞書に書かれてあることを一旦正しいものと受け止めて扱うスタンスのほうが、その先へ目が向かうため、結果的に遠くまで見通せるのではないかと思う。また、ある言葉や出来事に対する社会的な受け止めについて、より今風の「社会が注目している以上、そこに何か問題があるのに違いない」というような目では見通しにくい局面というものがあるはずだと思うし、そういった”いつもの生活感覚”では届かないところについて「哲学する」みたいな展望があれば良かった。いつもの〇〇を哲学するというのはそういう試みでないと成立しているとはいえない。
少なくとも自分にとって「いつもの言葉」というのは政治家のよくある言い抜けのための常套句などではないし、人によって「いつもの言葉」は全然違うものであるにしても、コロナ禍で急によく聞くようになった新しい言葉遣いなどは”いつもの”というよりは”有事の際の”に近いのではないか。これが書かれた年と新書という形式によっていくらか割り引いて考える必要はあるのかもしれないが、「哲学する」というのはそうやって割り引いて考えたうえで対象となるような営みなのだろうかという疑問は残る。
大江健三郎『定義集』を読む。これは上記の新書を批判するにあたって「虎の威」とした(となってしまった)エッセイなのだが、広辞苑についての受け止め等が思った以上に素朴で驚く。専門家に対する敬意がそうさせるのだと思うが、それだけではなく、大江が外国文学を読むとき、翻訳を読んで満足するのではなく、自ら原文にあたり、自分でも訳して内容を噛み砕こうとするときの杖となる「辞書」に対する長年の信頼がそうさせるのだろう。ちょっと悩んだときに開いてみるという検索型のツールではないのだ。いや検索型のツールではあるのだろうが、その頻度の面でも姿勢の面でも「ちょっとわからないのでググってみる」という度合いの積極性ではないように思える。そう思うこと自体、行き過ぎた敬意を示しているようだが、昔ながらの道具が持つ「焦点がぼやけない」感じというのはあるんだと思う。ネット検索は便利だが、その検索結果については妥当性をつねに判断しないといけない。判断事項を先送りにして、なんとなくの理解で済ませるということは検索するたびに起こることだ。そんなふうに問題が自動的に奥へ進んでぼやけていくようなことが辞書を引くときにはない(少ない)のではないか。
しかし、とにかく自分に言わないといけないのは「劣等感を隠すために敬意を持ち出すな」ということだ。自分にとって大江健三郎は偉大な作家だし、書くものを通して知るかぎり立派な人間だ。それでも自分は彼が立派な人間だということは一旦無視して、ただ偉大な作家として彼の作品にあたるべきだ。
訳文でしか海外文学を読んでいないということに劣等感がある。これについては「やるかやらないか」の二択で「やらない」を選択しつづけてきた。内心それでは駄目なのではないかと思っているから、果敢に原文にあたっている大江の知的活動に頭が上がらないということになる。だから、尊敬しておけばそのぶんラクができると思っているところがないか、注意して自分で自分を監視していなければならない。手間だ。
『ナボコフの文学講義 上』を読む。フローベールの章は『ボヴァリー夫人』を読み終わってからあたることにする。とりあえずオースティンとディケンズの章を飛ばし飛ばしで読み終えてしまい、池澤夏樹の解説を読む。池澤の解説によるとナボコフの目から見れば「文学に思想は不要」ということなので、ナボコフが大江を読んだとしても評価しないかもしれないということをすこし思った。ただ、当然のことながら大江が自身の小説作品を思想の入れ物としているわけではないから、必ずしもそうなるとは限らない。だからここですこし思ったことは
、よく考えれば訂正されるはずのことだ。しかし、すこしそう思ったところには、大江が大江の条件のなかで作品を書いているということへの評価をどうするかによって読む側にも分岐が表れるように思えるということがある。大江は偉大な作家だが、彼を偉大な作家とする条件がすこしだけ欠けていたとしたらどうなっただろうかというつまらない空想をしてしまう。この空想についても元を辿れば大江のことを立派な人間だと考えるところからきているようだ。
ともかく、間違った尊敬の仕方をしてその人にとって失礼になるのは、もっとも情けないことのひとつだ。崇拝するな。軽々しく先生と呼ぶな。むしろやるべきことは逆。たとえば彼が純文学に対して寄せる無謬の信頼を攻撃すること。あれは権威主義ではないか(という紋切り型の言葉ではびくともしないだろうが)。
『存在することの習慣』を読み始める。この本は『定義集』で勧められていたので借りて読むことにした。フラナリー・オコナーという小説家の書簡集とのこと。小説家がどうやって生活のなかで書いていくことを習慣にしていくかということが手紙の中に表れているらしい。参考にするべきところが多いはずだと直感した。
こうやって読書をすすめていくのと、課題図書がずらりと並んでいるのとで、読む本がない状態というのは自分にとってありえない。大学一年の頃からずっと読むべき本に追いかけられているが、これにはゴールがない。

20240528

日記384

三色刷り

2024/05/27 昨日
閉館時間まで図書館にいて、千代田線で下北に戻る。図書館での読書の余勢を借りて電車内では『定義集』を読む。ある程度集中力が出て頭が回り始めてなおかつ疲れていないときに読まないと、読み飛ばしたり流したりできないほど密度の濃い文章にも関わらず、流れていってしまうことがあるので、きちんとコンディションと相談して読まなくてはならない。そういう重い本と比較的軽い本を両方リュックに詰め込んでおくというのは通勤時間のある生活においては不可欠の工夫だといえる。「小説を書く人のために」というタイトルのエッセイには自然集中力が高められるが、そういうわかりやすいタイトルではなくても、すべて吸収するべき文章でひとつも取りこぼしが許されないという感覚がある。何かに似ているなと思ったら、家で飲んでいるプロテインのULTRAについて、ホエイプロテインの含有率の高さから顆粒一粒でさえこぼすことは避けたいと考えて専用スプーンを使ってシェイカーに移すときの感覚に近い。それでも手の震えや気の緩み・油断などでたまに大胆にこぼしてしまうというところも似ている。ところで関係ないが、顆粒がどうしても変換されずどうした訳だ? と疑問に思い検索したら顆粒は「かりゅう」と読み、「けんりゅう」とは読まないらしい。かりゅうと読むのは知っていたが、同時にけんりゅうとも読むはずだと思いこんでいた。耳でもけんりゅうと聞いたことがある気がするのだが、そうすると自分自身の間違った発言が自分の耳に入っていただけだったのか。少なく見積もって十年ぐらいは「けんりゅう」生活を続けていた。恥ずかしい。
二十二時半すぎの帰宅になり、Bはぎりぎりのところで目を瞑ってうつらうつらし始めていた。残念に思いながら自分も寝る準備をする。サニーボーイを一話だけ見て二十三時半にはねむる。バスタオルを首に巻き、毛布を被ってねむる。

2024/05/28 今日
雨降るなかを霞が関経由で出勤。雨脚が強めだったので虎ノ門駅で地下に潜り、ヒルズのビルまで地下道を行く。チャットとメールと電話でひとくだりずつのやりとりがあるだけ、打ち合わせに二回参加しただけの暇な一日だった。昨日からAIを使える環境が備えられていることに気がついたので引き続き4.0を使って、AIと会話して遊んでいた。その他、AIを使ってこんなことをしましたという事例集がまとまっていたのでそれらを古い順に眺めていった。AIは面白いが、それを使う人間とのやり取りが記録されている資料はより面白かった。
定時退勤。退勤時間にも雨が降っていて図書館まで歩けないので下北に戻ってスタバにいくことにする。スタバ前にすた丼で生姜丼を食べる。『定義集』を読んで日記を書く。「どうしても取り返しのつかないことをどうしても取り返すために」これはひょっとしたら、皆で共有している、しかし各人にとっての念願なのではないか。

20240527

日記383

難局

2024/05/26 昨日
一昨日、展示を見に行く道すがら気温が下がっていた影響で喉の調子が悪くなっていた。できるかぎりの養生をして(首にバスタオルを巻いて)寝たのだが、それでも朝起きたときには調子が悪かった。仕方ないので午前中を潰して安静にする。一時間のうたた寝でなんとか持ち直したので予定されていたJリーグ観戦に出かける。FC東京ーガンバ大阪の試合。ガンバサポーターの近くの自由席だったこともあり、とにかく大阪人たちの圧力がすごかった。なぜか東京の人たちがYou'll Never Walk Aloneを歌い始めたタイミングでこの日一番のブーイングがガンバサポーターから沸き起こったのが面白かった。それに負けるかたちですぐ歌いやめたのが一番面白かった。ひょっとしてボケとツッコミ? 試合は0−1でガンバが勝った。帰りしなに負けた東京サポーターの女子二人組から「最悪の気分って感じでもない」というこれ以上ない負け惜しみの声が聞かれた。こういうこともあるから引き分けなんてぬるい結果ではなく白黒決着つく試合が魅力的だ。VARで取り消されたけど終了間際に同点ゴール未遂があり、会場が一瞬盛り上がったのが良いガス抜きになったのだと思う。試合後、スタッフ以外誰もいなくなったスタジアムに残り、NHKプラスで大相撲の千秋楽、大の里ー阿炎の対戦を見る。大の里が阿炎を圧倒して優勝を決めた。来場者数三万人弱がスムーズにお行儀よく帰っていくのもすごい。FC東京の残党が飛田給駅を埋め尽くしていたのでレンタサイクル(ダイチャリ)を使って吉祥寺まで移動することにする。思っていたより距離があってしっかり一時間もチャリを漕いでいた。電動とはいえ長時間なので疲れた。前住んでいたマンションを確認したあと、パルコの前に移動して酒を飲む。すこし空気が冷えてきたので、首を冷やしては喉痛がぶり返してよくないと思い、ユニクロで購入予定だった感動パンツを購入し、首巻き代わりに使う。おかげで喉痛が悪化せずに済んだ。感動こそしなかったが、首が寒いときに巻きつけることのできるサイズの布は有り難い。日高屋で野菜たっぷりタンメンと餃子を食べてから二十一時に解散。肌寒さは継続していたのでまっすぐ家に帰る。翌日七時起きということもあったので帰ってすぐ熱準備を済ませてねむる。

2024/05/27 今日
この日も首にバスタオルを巻いて寝たおかげで体調はすっかり万全になった。仕事は適量あったのでそれを適当にこなし、あとはWEB ACROSSの定点観測インタビューと消費生活の記事を読む。サンプル605の日記を四月分から何気なく読んでいて、そのまま五月分も読んでいたら不意に率直な表現に出くわして涙が出そうになった。婚約者のことをフィアンセと呼ぶのなんか面白いなと思っていたらそこが伏線になっていたなんて。それ以外の時間には小説のことを考える。職場のPCでチャットGPTを使えるのでそれを駆使して特定の職業のことを調べたり、その職業人がどういう特性を身に付けているのかを聞いてみたりした。
昼休みやおやつ休憩時間に階下のアーバンファミマでやっているポップアップストアのかばんを物色。おしゃれなのがあったので母親へのプレゼントとして退勤後に購入する。吉野家で飽きずに唐揚げ定食を食べる。図書館に来て『いつもの言葉を哲学する』を読む。日記を書く。

20240525

日記382

スピードで圧倒


2024/05/24 昨日
スタバを二十時半に出て友人と下北沢で飲む。友人は背伸びせず見渡せる範囲にあるものを受容しているだけで、自分自身では何もしないで満足していられるタイプなのだが、そのことに不安を覚えることはあるらしく、自分で何かを始めるわけでもなく、ただただその不安を吐露したり何かやることのある人を羨ましがったりして愚痴を言ったりしている。話を聞いていると「普通」に到達するのを本気で目標にしているようだ。自分から何か言えることがあるわけでもないし、その道筋や進路、方法の工夫についても興味を持てないので、いよいよ話すことがなくなってきている。ちょっと前までは映画の話をしていたが、同じ映画を面白いと言っていても、見ているところが噛み合うようで全然噛み合わないので相手の話を受けて何かを言おうという気が起きない。何かしらのイベントにいったり、あいだにボードゲームを挟んだり、知らない人を連れてきたりする必要がある。Xのアカウントを開設してツイートの最大いいね数をどちらが多く稼げるかという企画を持ってきた。あまり面白くならないのではないかと直感的に思ったが、せっかく持ってきた企画を無下に断るのも気の毒だったのでとりあえずやることにした。クソみたいなアカウントを作って全然興味のないアカウントをフォローしまくっていいねしまくるという無駄な時間をしばらく過ごし、そのせいで夜ふかしをしてしまう。酔っ払っていたとはいえアホすぎる。とはいえ勝負は勝負なのでそれには勝って終わりにしよう。

2024/05/25 今日
九時過ぎに起きる。三日ほど前、寝室の窓につけていたサイズの合っていない遮光カーテンからサイズぴったりのブラインドに変更した。サイズはいいのだけど遮光性能がなくなったことで、前日夜ふかしをして寝不足になるのを避けるため朝寝坊したいときにも目が覚めてしまうので問題がある。寝不足で土曜日を過ごすことになる。午前中にスクワット。今週届いていた『脳内ニューヨーク』のBDの再生確認。日本語字幕あったらいいなという期待は実らず、英語字幕で見ることになる。久しぶりに見たのだが画面といいモチーフといい暗い映画だと感じた。死の問題を寓話的にだが直接扱っている。三〇分ほど見て止める。ペペロンチーノを作って食べる。味付け・分量の加減は掴めてきたがタイミングがまだ掴めていないのか乳化がうまくいっていない気がする。どうなったら成功なのかわからないまま作っているのも良くない。油っぽい仕上がりになっていると思うので多分駄目なんだろうと思うがそういうものだと言えば言えるぐらいの微妙さに仕上がる。シャワーに入ってから散髪に行く。いつもの人にいつもの髪型をお願いしたうえで、こういう感じにセットしてくださいと一年前の自分の写真を見せたらいい感じに仕上げてくれた。リクエストをするとやる気が出るタイプなのかもしれない。たぶんプライベートで良いことがあって機嫌が良かったとかそんなのだろうけど、理由なんてどうでもいい。何にせよチャキチャキやる気で仕上げてくれる職人気質に直に触れられるのは楽しいことだ。その足でスタバに行って『いつもの言葉を哲学する』『定義集』を読む。日記を書く。

20240524

日記381

二〇年代の遠近感

2024/05/23 昨日
結局読書と日記にすべての時間を費やして図書館をでたのが閉館五分前。同居人が働く表参道のオフィスに立ち寄り、『悪は存在しない』の二回目を社員たちと見てきたという社長とその映画の話をする。ニコニコして話してくれるから話しやすいのだけど、とくに出だしにおいて下手なインタビュアーのような直接的な質問から会話を始めてしまい、相手の出鼻を挫いていないか心配になった。しかしそれなりに距離のある人と映画の話をするのは面白い。ちゃんと自分のポイントオブビューを提示するという手順を踏んでいるから中身のある話になる。映画の話は面白いものだったと再認識させられた。自分にも鮮烈な印象を残した夜のシーン、車のライトがきれいな光のギザギザになるところは、レンズが良いとああいう画が撮れるらしい。ためになることを教えてもらった。映画を見て「物事を自分の思う方向に決めつけない姿勢」を自分は前提にしているつもりだが、それを引っ張って理由がわからないと居心地が悪い状況を映画が作り出してきているから、普段のペースを乱されて居心地の悪さを二重に味わう羽目になったという話をした。映画を見て映画が伝えるメッセージを正確に受け止めるのではなく、自分がそれを見てどう感じるかというところにフォーカスするということを言っていて、それには完全に同意だった。そういうときにはあまりにも言っていることがぴったりするので話を広げにくいということが起こるということを知った。向こうもお酒を飲んでいて話しやすいセットが組まれていたのでもっと話をしたかったがすぐに運転代行が来てお開きになった。下北沢から歩いて帰る。ボーナストラックの無人花屋でひまわりが売られていた。夜の電灯に照らされたひまわりの黄色が好きだ。あと、初夏というのもあってほんのすこし季節を先取りしているのでおしゃれに感じられてそれもよかった。買って帰ることはせず。部屋で見るのとはすこし勝手がちがうし、そのちがいを尊重したかたち。

2024/05/24 今日
渋谷に出勤。この日とあわせて残り二日なので名残惜しい。立ち合いという仕事はかなり自分の時間が作れるからずっとやっていたいぐらいだ。午前の搬出作業の立ち合い後、デニーズに行ってモーニングを注文する。二時間半強の滞在でグーグルのデータアナリストの学習を進める。『戦争と平和』を読む。購入を検討しているエクスペリアの情報を集める。昼休み終わりの時間に作業場に戻る。午後の作業立ち合いも皆さんテキパキと動いたおかげもあり、十四時前には終わった。道玄坂を降りて宮益坂を登って茹で太郎にいく。豚丼セットを食べる。その後銀座線で銀座まで。ソニーストアでエクスペリアの実機を触ってみる。カメラ操作の懸念事項、縦持ちでシャッターを押すときにシャッターボタンが下にありすぎる問題は、設定で音量ボタンをシャッターボタンに変更できることで解決した。高い買い物だし、懸念がある場合は触ってみるにかぎる。それにしても今使っているMACよりも倍ほど高いというのはどうかしている気はする。ただデジカメを買おうとしたときに金銭感覚は引き上がっているし、スマートフォンならぬスマートカメラと位置づけて日常的にガシガシ使っていくのであれば、総合して納得できる値段ということになりそうだ。いつの間にかソニーファンになっている。スパイダーバースの影響でノイズキャンセリングヘッドフォンを買ってみてその使用感に満足してからソニーが気になり始めた。ノイズキャンセリングイヤホンも買ったし、今回エクスペリアを買うことになれば、これはもう立派なソニーファミリーだ。あと、関係ないけど『Sonny Boy』のことを最初サニーボーイではなくソニーボーイと読んでいた。
ちょっとくたびれたので帰宅することにして、家で大相撲十三日目を見る。明生ー阿炎戦は両方とも応援している力士で両方とも八勝四敗の成績だったので両方ともを応援していたが、それでも最後明生が阿炎にすくわれたときには思わず大声が出た。明生に勝ってほしかった。終わったらすぐスタバに行けばいいのにyoutubeでサニーボーイの考察動画をだらだら見て十九時過ぎになる。あわててスタバに出かけてとりあえず日記だけは書く。この後二十時半から友人と下北飲み。合流する前にすこし時間が余ったから坂本慎太郎のインタビューを読む。こういう感じで考えるのがいいというエッセンスがむき出しになっているので坂本慎太郎のインタビューは読みやすい。その考えを自分の考えにしていくというのもやりやすいと思う。ただその考えを使いこなすというか、その考えで生活するというのがむずかしいと感じる。ここからは方向だけきっちりわかるけど道がないように見える。

20240523

日記380

ことばは沈黙に 光は闇に 生は死の中にこそあるものなれ

2024/05/22 昨日
図書館に二十二時までいたあと、霞が関から電車に乗って帰宅。ダンジョン飯を見る。すぐねむるつもりがいろいろ考えるべきことを放り込まれて入眠が遅れる。俺には責任感もあるし考える力もある。ただ考えるにしてもタイミングというものがある。寝込みを襲われ一刀両断にされたところでそれはこちらの責めを負うべき出来事にはならない。「普通」というものに抵抗しながらここまで流れ着いたという自覚がある。自負することではないから自覚というしかないのだけど、今いるこの場所に満足感があるから「普通」というものに回収されないようにする過去の自分のひとつひとつの選択やその積み重ねによって培われてきた姿勢を自分自身で蔑ろにしたりむやみに軽んじるようなことはやりたくない。それにしても、咄嗟の受け答えのなかにいい加減な回答があったことは認めざるを得ない。ただし、こちらの認識としては寝込みを襲われたというもので、自分の実力・実意を反映したものではないということははっきり強調しておくようにしたい。

2024/05/23 今日
目覚ましが鳴ってからスクワットができるギリギリの時間までベッドから離れられない。ねむたすぎる。それでもしっかりスクワットをやって出勤したからえらい。職場ではタスク消化と不明点の質問コミュニケーション、チーム打ち合わせ、新しい登場人物とのチャットがあった。隙間時間にWEB ACROSSの消費生活を読む。昼休みには前日行った居酒屋ランチが気に入ったのでお代わりをしにいったのだが、バイト君の対応含め昨日とは明確に段が下がっていて微妙だった。昨日ふたりで喋りながら歩いていると感じなかったがひとりで歩くと結構遠くまで来なければならないこともわかった。虎ノ門ヒルズステーションビルB1Fの居酒屋「KAN」、残念だけどもう行かない。
定時で退勤して吉野家で唐揚げ定食を食べる。大相撲を見る。琴櫻つよし。三敗・四敗が入り乱れる荒れた場所になっている。明生は本当に痺れるような息もできない取組で見事大栄翔を破り勝ち越し。四敗なので「まさか」はまだあり得る。頑張ってほしい。
図書館の近くで友人と一時間半ほど電話する。近況を聞く回だったけど結構驚かされた。とにかく元気が一番だと思うし、無理をしない範囲で頑張るということを頑張ってほしい。要するに頑張らない構えをできることが重要ということだ。わかりやすく頑張るのは力士に任せて、人にはわかりにくいかたちで頑張るようにしよう。
昨日借りた大江健三郎『定義集』と古田徹也『いつもの言葉を哲学する』を読む。「いつも」の厳密でなさをそのまま受け止めて哲学しようとする厳密さがあり好感が持てる。自分のいつもの感じ方というのは好感というものなしにはありえないのでそれでいいといえばいいのだが、もしこの本を好感なしで読んだらあまり感心しないのではないかという気がする。その意味で、読む側への有無を言わせぬような力強さはうすい。まあ、それが好いということなのだけど。

日記806

SAY Noh 2026/10/04 昨日 20982 バスケはオーラスの試合で逆転のブザービートを決めることができた。あまりよくないプレーもいくつかあったが、すべてが帳消しになるシュートだった。映像を見返したら歓喜のあまり祝福するチームメートを完全無視で...