20231214

日記261

帰り道

日曜から我が家で風邪が流行。私も月曜には引き始め、火曜には高熱で仕事を休む。水曜などはまだ熱が完全に引かないのにやるべき仕事のために在宅で仕事をし、仕事が終わったらすぐねむるという謎すぎる一日を過ごし、木曜になってようやく熱が引くも、喉の痛みが強くなってきて嗄れた声しか出せず、代わりに咳ばかり出そうになる。本当に毎年のように風邪を引く。二十代の頃は風邪なんか全然引かなかったので、今のこの風邪への冒されやすさには慣れない。飯の大盛りをついたのんでしまうのと似ているが、風邪の場合は毎回かかるたびに何もできない時間が多く発生してただただ切ない気持ちを味わう羽目にもなるし、実害がはるかに大きいので、もう自分は風邪を引きやすい人間なんだという自己認識でもってしかるべく予防に努めなければならない。
風邪を引いておかゆ中心の三食を三サイクルも回すと、鏡に映る顔がやつれて見えるというのは知識としてわかっていたことではあるが、今日出かける前の自分の顔はなかなか強烈だった。一日中仕事をさせられたあとだというのもあるが、若いときの細さとはちがう、やつれたと形容するのがぴったりの顔だった。若いときに頬がこけていると、そういう性質・体質なんだと思わせるところもあり、違和感というかその人がたくさん食べたり運動したりしてふっくらとしたときを想像してそこから引き算をしたような物足りなさもある。一方、年が重なって頬がこけていると、そこに違和感はない代わりに、枯れ木に水分がないのが自然に思えるようなおさまりの良さがある。それまでの自分を知っている自分じゃなかったら全然違和感を覚えない顔かたちだというのが自分にもわかるだけに、際どいところで強烈な違和感を感じる。違和感というか、鏡を見る自分自身の目から発せられる抵抗感だ。そのせいで余計に目玉ばかりがギョロつくように感じられもする。
風邪を引いているときにはつまらない動画ばかりを見て過ごした。それで自分は何もしていないことには耐えられないのだということを知った。じっとしてどこかに考えを飛ばすより、動画の切れ切れの瞬間に気を取られている方がラクだ。しんどいときには考えることが陰気になって寂しいことや不安の方に流されていくからできるだけ考えたくないというのは、無くもないが、実際より少しばかり高級なものの見方だ。実際は考えようという気がそもそも起きない。考えない状態でじっとしていようとすると、半自動的にスマホに手が伸び、いらぬアプリを開いて動画が流れるのに任せるということが起こる。考えるべきことはそれなりに多くあるはずなのに全部棚上げにしてしまえる。そしてあろうことか仕事などに手を染め、風邪のせいでただでさえ残り少なくなっている体力ゲージを消尽してしまう。もっと考えて一日を過ごすべきなのは明白なのに、とにかく考えないのはラクだから、とりあえずは風邪のせいにもできるしということで、いらんことだけをやって二日間を溶かした。
自分には頭の良いところがあって、そいつが全体を把握したりコントロールしているときには自分ながら大層心強い。だが、もともと控えめな奴だったのが最近ではよりおとなしくなっていって、全自分の中でのそいつの比率は降下の一途、存在感が縮退を続けている。こんなのは駄目だからやり直せと大声で言ってほしいと思うこともあるが、大声を出させておいて無視するんじゃないかという単純だがいかにも自分がやりそうな懸念が思い浮かぶ。
眠ってしまって夢を見るほうが起きていて面白動画を見るよりもよっぽど有意義だ。しかし寝付けない時間に何も見ないでじっとしているのはつらい。
寝ようとしてじっとしてるとき、何回か昔のことを思い出したりもした。
昔のことを思い出すのは夢を見るよりも有意義だ。ただ、夢を見るとき場合によってはそれが怖い体験になったり苦しかったりするのと同じように、昔のことを思い出すのも良いことばかりではない。そういったマイナス面も含め、思い出すこと自体良いことだというのは頭の良いやつの意見だ。そういう意見はしんどいときの自分からは支持を得にくい。
大学一回生と二回生の最初の方だけ仲良かった友人のことを思い出した。差し迫ったユーモアを感じさせる身体の小さな男で、交遊時期に比してよく思い出していてほぼレギュラーメンバーなのだが、今回は自分たちで作ったサッカーサークルに連れ出したときのことを思い出した。「テクニックとスピード!」と言いながらほとんど前に進まないドリブル(反復横跳びの要領で細かいボールタッチ)を繰り返していた。海外サッカーが好きで昼休みにサッカーをしている二〇歳の元帰宅部相当のサッカーの技術だった。(剣道部だったらしい)
今から思えばほとんど戯画化されているほど厭世的な人柄で、こんな変わったやつがいるんだと思ってぞっこんになったのだった。電車で帰宅するのがダルかったり不可能になったときにはよく彼の家に押しかけて泊まらせてもらったりした。いつも笑わされていた。
ある日完全に学校に来なくなり、それからしばらくしていっしょに入っていたサークルも大学も辞めて実家に帰ったらしい。電話をかけてそのことを聞いたがその後音信不通になった。猫背でとにかく細く骨ばっていて、無頼に憧れがあるのか飲めない酒を飲んで道端の電信柱と仲良くなったり、一旦喋る気になったら捲し立てるように喋りまくったり、やることなすことがすべて二十歳のわれわれからはいかにも天才的な振る舞いに映った。今はそうは思わないけど、当時ももしそう思っていなかったらもっと友達のようになれたかもしれない。少なくともやんやと囃し立てて一方的にスポイルする感じにはならなかったと思う。


2023/12/14 今日
在宅バイト。ザ行を一時間ほど。人からすこし詰められるようなことがあっても風邪を引いていると、だからどうしたそんなことよりこっちは体調悪いんじゃという気になって開き直れる。彼女は仕事のロケで前日深夜からロケバスに乗って静岡まで出かけていき、朝日を使った撮影風景が送られてきた。自分たち世代の男で知らない人はいないほどのビッグな芸能人と山頂風景の朝日を使ったCM撮影なので業界人感がすごい。身長が意外と一五八センチしかないらしい。
仕事後、四日ぶりに外に出てスタバにくる。すごく咳が出そうになるもすごく我慢して咳を出さないようにする。咳をしてもスタバ とか言ってる場合じゃない。

20231209

日記260

人待ち

2023/12/08 昨日
在宅バイト。わりと好調だったが気力と体力をきっちり消費した。ザ行は一時間弱で済んだが妙に疲れてしまって外に出る元気がなかったのでちょっと寝ようと思ったが、結局パワーナップを取ることもできずベッドに寝そべるだけで時間が過ぎ、スタバに行くこともなかった。せっかくの金曜日の夜を完全に無為に過ごしたわけだ。これは仕事の忙しさとか冬の寒さとかいろいろ言おうと思えば言えるが、突き詰めれば体力の無さに起因するものだ。なんとかしないといけない。と言いつつ、前日にはできたラジオ体操さえできていなかった。
家から一歩も出ないで、ダイエーで買ってきてもらった二割引のカツ丼を食べる。こんな一日でもカツ丼がおいしいのはおいしい。スコット・ピルグリムのアニメを最終話まで見る。若いスコット、年老いたスコット、もっと年老いたスコットが出てくる。自分の今の年齢に近いのは年老いたスコットなのだが、そういう見方をしようという気は起こらない。そういう見方というのは若い頃を人生の一時代を振り返るように見るような見方だ。
とはいえこのシリーズにおいても、年老いたスコットが若いスコットに対してそういう見方をしているわけではなかった。このシリーズ全体に通底する良いスタンスだ。年老いたスコットも年老いたスコットなりの「今の問題」を抱えていて、当時の自分を矯正することで遡及的に現在を改良しようとするのに充分なほど若いスコットに構い付けない。若い頃にはいろんな問題がある、年老いてもべつの問題があるってだけの話なんだけど、物語を作ろうとするときにはなぜかそんな当たり前のことが見失われることが多い。分別のある、別人のように成長した「年老いた自分」が未来にいるなんて想像すること自体が、もしそんなことをしていればだが、若い人間が引き寄せられがちな妄想ではないか。
「自分の通ってきた時代のせいにするのは間違っている。黒歴史というのは冗談で言い始められたんだと思うが、口にされるうちにギャグではなく共通言語になってしまっているように思う。あの時代の自分はおかしかった、なんていうのは間違っているうえに失礼なことだ。あの行動は間違っていたと、具体的なひとつひとつの行動について反省する手間を惜しんで「青い時代」のせいにするのは中年のみっともない感受性の鈍磨だ。誰かに迷惑をかけたりそれ以上のことをしたのは、当たり前だが「その年代の自分」なんかではなく自分だ。過去から切り離されて今の自分があるわけではない。こんなのは当然のことだが、それでも、感じることを前面に出すなら過去の自分と今の自分はものすごく切れているように感じられるというのも主観のうえでは明らかなことだ。そんなところに棹さして流されるのを危ぶむというのが分別ある大人のすることであって、やすやすと流されながら「黒歴史おつ」とか、過去の自分自身にとっても意味不明のことをつぶやいている場合ではない。若さとか若い頃を理由にして免責されようとする人間ほど年相応という言葉を使いたがる傾向があるように思われる。昔ほど感覚が鋭敏ではなくなったからその分ラクになったというのは事実なのだろうが、それをまたぞろ行動しない言い訳に使い出すなんていうのは若さのせいでも中年という年代のせいでもない。くだらないお前自身の取るに足らない問題だ」と中指を突き立てるようなスタンスの持つポジティブな側面が爽やかに描かれているアニメで面白かった。

2023/12/09 今日
九時前に起きてトーストを食ったあとスタバに行く。『数の値打ち』を読んで日記を書く。家の近くで日記のWSがあるというのをツイッターで知る。日記のワークショップというのはどういうものなのだろう。日記を書くというのにもノウハウがあってそれを共有するということなのだろうか。
今自分も日記を書いているわけだが、三月頃からほとんど毎日書いていて、たぶん人生のうちでもっとも日記が続いている時期だ。だから日記を書き続けることについては今がもっとも一家言ある時期でもある。
始めるときには配置する場所が大切で、続けるにはフォーマットが大切だ。配置場所についてはインターネットで公開するか、公開しないかという二択が大きい。人に見せる用の文書ではないと自分に言い聞かせながらインターネットで公開していたり、たまにツイッターにも日記書いたよと投稿しているのは、完全に無矛盾とはいえないことだが、第三者にもアクセスできる場所に文章を置くということ自体に、自分が書くことへのちょうどいい緊張感だったり刺激をおよぼす効果があるのでそれを利用している感じだ。じつは文章を書くこと自体に他者性の刺激はあるのだけど、それだけでは弱いから公開している。文章を書くこと自体の刺激で行動できるのであればそうしたほうが良いというのが自分の意見だ。
続けるためのフォーマットについては各自の工夫をこらす部分だと思うが、自分のやってみたことのなかでもっとも良かったのはタイトルに日付を入れず、日記をナンバリングすることだ。これにより日記の数字はカウントアップしていくわけだが、それだけで前回の日記から今回確実に良くなる部分ができるということになる。日記というのは続ければ続けるほど良いものだから、必然大きい数字ほど良いでしょうというわけだ。しかもこのやり方だと、もしかなり日付が空いてしまうようなことがあっても(そんなことはざらにある)、途中の数字からまた続きを積むことができる。それによって再開するのもやりやすいし、再開についても動機づけられやすい気がする。
あとノウハウとは関係ないところだが、日記を続けられるためにもっとも大切なのは平穏無事な毎日だ。三月からの自分の生活を振り返ると、退屈なほどの繰り返しが目につく。もっと日記を書いている暇なんかないほど種々多様なよしなしごとが起こり続ければ良いのにと、とくにそれに対しての方向づけを自分にも周囲にもおこなってもいない状況で棚ぼたを狙い続けている。それでずるずる何も起こらないままほとんど毎日スタバに通い詰めてできたのがこれらの日記だ。あんまりよくないことだと思うが、それでも日記が260を数えられたことだけは、その内容などとは関係ないところでまあ良かったと思っていられる。同じように暮らしながら日記を書かなかったバージョンの自分もいたと思うし、その自分はあまり離れたところにおらず、わりに想像しやすい。そいつよりはマシだったと思える。
ただ、退屈だけが根本的に新しい行動を連れてくるきっかけになるというのも経験として知っているので、日記を書いていることによる安定について、あまり続くようだと単純なカウントアップを喜んでいるわけにもいかない。
それに、小説を書くための助走にするために書いていた日記だったが、バイトが小忙しくなって体力を持っていかれることで、助走部分だけでへたばってしまって肝心の小説まで気が向かないということがここ二ヶ月ぐらい続いている。夏期間よりも冬期間のほうが捗るはずなのにこの体たらくでは来年の完成も危ぶまれる。何か方策を考えないと……。
さいごに続けて日記を書くことの効果をひとつ。
それなりの期間続けて何かを書いていると、いつも同じことを言っているなということが出てくる。もうすこし短く期間を絞った場合でも、このときはこのことについて重点的に考えていたのだなということがわかったりする。書きながらまた同じことを書いている気がすると思うこともしばしばだ。そのぐらい曖昧な感覚で、頭を動かすというよりも指を動かすつもりでばーっと書くのが、やっぱり長く続くやり方なのではないか。そして、どんな形であれ内容であれ、続けて日記を書いていると、日記を書き続けるということがやりやすくなっていく。

20231207

日記259

五度目

2023/12/05 一昨日
九時前にスタバを出て仕事終わり下北に飲みに来ていた友人と合流し、飲みながら茶沢通りを歩いて三軒茶屋まで行く。日高屋で晩飯を食べて来た道を引き返して帰ろうとしたところ、小雨が降っているのとタウンホール行きのバスがちょうどきたのとが重なり、咄嗟にバスに乗り込んで下北沢まで戻る。ナンセンスな移動に二二〇円を支払う遊び。駅前で小雨をしのぎながら、来年に対人活動の軸になれば良いなという思いつきのアイデアを話す。酔っ払って良い気分だったのとそのサークル活動に付随する固有のノスタルジーによってまだ始まってもいねえのにテンションが高騰する。こういう場合にはたいてい現実に運ぼうとしたときに思ったよりうまくいかないと挫折を知る結果におわるのが常なので、あえてちょっとテンションを下げつつ、具体的な活動について考えるよう軸足を移していきたい。成功の条件はいろいろあるんだろうが、やはり空間的な意味での「場所」の問題が一番大きいと思う。これをうまく解決できればそれだけで軌道に乗るのではないかとさえ思えるが、あの頃のサークル活動ではあらかじめそれが用意されていたのがやっぱり大きかった。あの頃からバイタリティが減っていなければ知恵がついた今ならトントンの条件だといえるはず。バイタリティが減ってさえいなければ。

2023/12/06 昨日
在宅バイト。ゆるやかな一日だった。仕事後にBunkamuraル・シネマ・宮下で上映される『ロスト・イン・トランスレーション』を見に行く。Bunkamuraの建物というか東急の建物が潰れたのは知っていたが、Bunkamuraの施設だけは残ったんだろうとノコノコ出向いたところ、正面入口が暗くて入れないようになっていて、裏から入るのかと裏に回るも入れない。そのときになってようやくBunkamuraル・シネマ宮下の宮下の意味に気が付き、悪態を垂れながら急いで渋谷を横断して映画館に向かう。時間ぴったりに東急のほうに着いたので遅刻確実かと思われたが、長々と一五分ぐらい予告を流してくれたおかげで肝心の本編には間に合った。
しかも映画を見ていると直前に渋谷の街を横切って足早に映画館に向かう時間が効いてきたのでつくづく運が良かったと思った。映画の中の街の風景と二〇年余の時間経過をこえてリンクするように感じられた。『ロスト・イン・トランスレーション』については言いたいことが結構あって、ちょっと間をおいてから感想を書きたい。
映画館から出て、現実で現在の渋谷に戻ってくると、まるで龍宮城にいたかのようなトリップ感覚を味わえて面白かった。二〇年前から現在時に帰ってきたという気分が共有できてよかった。
よせばいいのに渋谷の街を歩きたくなったので、駅前でカレーを食べたあとセンター街のあたりまでぐるりと回った。映画は旅行者の視点で東京を眺めるのが特徴的で、東京に来たての頃のそれと似たような感覚を懐かしく感じて良いと思ったのに、缶チューハイを手に無意味に歩くこの歩き方はよくいえば対照的、わるくいえば無関係な歩き方にしかならないのだった。まあそれはそれで楽しいし、歩くのにそこまで寒くもなかったから良かったといえば良かった。あの映画を見てそれをしないという選択肢は実際なかったわけだし。
下北沢に戻ってすこしだけベンチに座って飲む。「白々しい」のようにひとつの言葉をふたつつなげて形容詞になっている言葉を順番に挙げていく遊びで対戦相手から「おどろおどろしい」というウルトラCが出て、それはもうおったまげて「お見逸れしました」と言った。

2023/12/07 今日
在宅バイト。ゆるやかな一日だったので3blue1brownの線形代数のエッセンスシリーズのこり3エピソードを一気に見終える。と、そんなことをしていたら夕方に考えないといけないことがあったのを思い出して結局一時間のザ行。久しぶりにラジオ体操もできて調子を取り戻せそうだったのに失敗だった。
終わってからすぐスタバに行って『数の値打ち』を読む。文体と反復の章を読み終える。あれも東京これも東京というフレーズが昨日映画を見てから何度となく繰り返されているので感想を書きたいと思っていたが日記を書いているうちになんとなく気持ちが落ち着いてきた。日記を書いていると細かいことに注目したり、わざわざ書くまでもないことを書けるという利点がある反面、これについて書きたいという気持ちを遠くに運んでいってしまう効果があるようだ。気がつけば小説も全然手を付けられていない。これじゃ困る。困るけどしょうがないといえばしょうがない。もっと余剰分が出るように日々の労働量を抑制する方向で考えたい。

20231205

日記258

MTB(マウンテンバイク)

2023/12/04 昨日
スタバを出て帰宅する。晩飯に作ってくれた鍋をつつく。こういうときにはかえって金麦が良いんだろうと思ったのでダイエーで買っていった。冬の鍋はあたたかくておいしい。『インヒアレント・ヴァイス』を見る。この映画は映画館でも三回ぐらい見ているし、都合十回は見たのではないか。しかし今年になって見たのはこれが初めてだった。仕事について仕事以外の時間にもつい考えてしまうような堕落した人間になってしまっていたので、薬を飲むような気持ちでこの映画を見た。ビッグ・リボウスキのデュードかこの映画のドックのどちらかを自分にとってのメンターとして設定したいと考えているのだが、九〇年代というのはあまりにも昔で自分にとってのリアルタイム性に欠けるという問題があり、ビッグ・リボウスキのほうにはそのぶん距離を感じないでもない。しかし、時代云々を言い始めたらインヒアレント・ヴァイスのほうは上映時期こそ二〇一〇年代だが、舞台は七〇年代なわけで、もう好きにしたらいいじゃないのということになって終わりだ。距離のことを言い出したらそもそも太平洋の向こうのお話なわけで。デュードにせよドックにせよ、乗り遅れ感というか引きずられ感というか、そういう状況下にあって面白おかしく生きていこうというとくにどこにむけて発散されるわけでもない気概があって、自分も何がなくても気概だけは持っていないといけないなと思い、弱っている気分を明るくさせてくれる。(弱っていないときにはそんな気概なんかどうでもいい。暑い日に熱い風呂なんかどうでもいいのと同じ)
寝しなにアベマのお笑い番組を見る。井口がどうしても泣かないという企画と、しずる村上とライス関町の喧嘩仲裁企画。喧嘩の方はたぶん誰がどうみても村上のほうがわるいというか、村上の方が分が悪いと思うので、かえって村上を応援したくなった。でもやっぱり急に怒り出す人はよくない。よく寝たほうが良い。大学生の時、自分が友人に対して急にブチギレたりしたことを思い出した。あれは良くなかったし、テスト期間か何かで寝不足が続いていた。

2023/12/05 今日
在宅バイト。向かっていく気持ちで仕事に取り組んだおかげで昨日よりマシな一日になった。しかし残念な打ち合わせで定時を一時間以上も過ぎ、無駄なザ行が発生した。すぐスタバに行って『数の値打ち』を読む。反復・冗長性・私小説・文体という(日本)文学らしい話。文学に触れたときの感覚というのは特別なものだからつい握り込もうとしてしまうが(読んで楽しんでいるときには握り込んでも問題ないというか推奨されることだと思うが)、ずっと握り込んでいたり、神棚に供えたりするのはちがうと思う。むしろすっぱり切り捨てたりしても何も残らないことにはならないから手を離すように心がけるぐらいでちょうどいい。大事なのは本と自分による協力プレイ(冒険)は続いているという意識を持って、読み終わった本を聖典化しないことだ。
あと文体分析では簡単な心理分析等を用いて書かれた文章から書き手の属性を診断できるらしく、興味がある反面ちょっと嫌な気持ちになった。何かが高いという結果になれば良いんだけど何かが極端に低いみたいな結果が出たらと思うとあらかじめ反発しておきたい気持ちになる。

20231204

日記257

走るビンテージ

2023/12/03 昨日
午後にスタバを出てダイエーで昼飯を買う。友人と駅前で合流してフェンスの前で立ち話の練習をする。最初お笑いの話ばかりしているのが可笑しかったぐらいで、声も全然出ていなかった。声を張って立ち話をしているほうが異常なのだが、フェンスの前で立ち話をするとその正常/異常がきれいに入れ替わるから面白い。
家でボードゲームをいくつかしながら、東出が相撲部屋に猪カレーを振る舞う動画を見る。大量の食材をいっぺんに料理する動画、それをぐんぐん胃の中へ収めていく動画というのは見ごたえがあるしよくわからない面白さがある。その後、ボードゲームをしながら録りためていてどうにもならなかった日曜美術館を消化していく。三本分みた。というか流した。
ボードゲーム終わりにちょっと話したが、ファッションの話をきっかけにひさしぶりに面白い話になった。たぶん誰でも自分の話をするのが一番面白いんだろうし、たとえそれが何度も聞いている相手の話でも、それなりに変化がありさえすれば何度でも楽しめる。あとは話し手の自己認識にずれがあるとそれを指摘してやりたくなるし、それは相手の背中を掻くことで、それをすることで相手だけではなく自分にとっての自分の自己認識にも触れるような感覚があるからそれが楽しいんだと思う。これは気のおけない相手でないとできない対話というか無責任カウンセリングなのでやれる相手が限られている。こんなことばかりやっていたらやばいんだろうけどたまにであれば楽しいし、たぶんそこまでわるくない、はず。
駅で彼女と合流し友人を見送って夜飯にうどんを食べに行く。ここ最近うどんと言ったら梅窓に行っている。うどんはもちろんのこと鶏天とおこわが美味く、お酒を一杯飲むことで全体的に高い満足感を得られる良い店だと思っている。注文を受けてから用意するからか、鶏天とうどんが出てくるのはそこまで早くないが、お客含め店内の雰囲気が良いのでゆっくりビールを飲んでうどんを待つ時間もわるくないと思っている。帰宅してスコット・ピルグリムと元カレ軍団のアニメを一話分みる。あまりにも月曜が憂鬱なので早めにねむるという選択をする。日曜夜からみる月曜は実際の月曜よりも獰悪な顔をしている。


2023/12/04 今日
在宅バイト。仕事が嫌だという後ろ向きな気持ちがどこからくるのかといえば、こんなことやってたくないという積極的な消極姿勢の表現によって、立場がすこしずつ削り取られていることからきていると分析の結果あきらかになった。卵が先かニワトリが先かという問題は日を経るにしたがって後景へとしりぞき、今となってはただ結果だけが負のフィードバックを返し続けることでさらなる嫌気を引き起こすスパイラルに陥っている。得点をあげることがむずかしい環境で、やれることといえば失点を喫しないよう注意することだけだが、上述の消極姿勢を四六時中びた一文発することなく過ごし続けるということは不可能である以上、降下速度をできるかぎりゆるやかにする以外に方法はない。得点を挙げようという意気を完全には失っていないと自分に言い聞かせるのも大事なことのように思われるが、それを言い訳にしてあぐらをかくというのが挙句の果てに起こりうることだという自覚はあるのでやや消極的に得点機会を伺うというのがバランスを失しないという意味でふさわしい姿勢だという気がしている。心を入れ替えるというよりは環境を入れ替えるほうが便宜だ。まずいのはこのままずるずると続けてゆるゆるとしかし確実に消耗していくことだ。運動の習慣を取り戻さないといよいよまずいのではないかと思っているが、なんだか最近とみに腰が重い。
ほぼ定時、ザ行ほぼなしでスタバにくる。『数の値打ち』の二章を読み終える。なんだか七面倒にも思われる操作の数々が何の目的で行われているかというのが明らかにされる章の終わり間際になっておもむろに元気が出てきた。どうやら、どのような切り口でも、どんな取り上げ方でも、新しく何かを明らかにしたい、それまでにない特有の光を当てたいという願望を満たすために方向づけられた行動らしい。

20231203

日記256

漫才さん

2023/12/02 昨日
十五時頃にスタバを出て、酒を飲みながら家にいく。ボードゲームをして遊ぶ。タイマン形式のTHE GAMEというゲームで、あまり面白いギミックともいえない単純なゲームだが、対戦という形式に宿る面白さで時間が過ぎるのは早かった。夜の時間には譲ってもらったリストバンドを使ってあらゆるライブハウス会場に入り込んで、どんな場所なのかを確認する。大きい音が出て天井が低い場所ということで、そこで演奏していたバンド同様それぞれの特徴と言ってとくに何もなかった。かなりの空腹を耐え忍んだ後、ステーキ松でミスジステーキ三百グラムを注文する。肉質が固いのもあるし流れている音楽からもアメリカンダイナー感が多く漂い、肉を食うフェスティバルと化した。あとから隣の隣に座ったおひとりさまの初老の男が赤ワイン二杯を注文して右手左手におき、溶岩石から一旦肉を引き上げたうえで晩餐を執り行っていて、さすが年の功でリッチを心得ていると感心させられるような食事風景を展開していた。
帰宅してM1の準々決勝の動画をいくつか見て、東出が相撲部屋にあそびにいく動画を見て、ねむる。コメント等は面白くないし自然体がこなれすぎてて一般人に見える。

2023/12/03 今日
九時前に起床。スタバに行って本を読む。『数の値打ち』、ちょっと難しい。というかここまでのところあまり内容に興味が持てない。サンプルとアーカイブの章。昼から昨日に引き続きまたボードゲームで遊ぶことになっている。戯れに漫才のネタを考えようとしてみるも、予想通り難しかった。人がどう思うかというところを意識せざるを得ないからその時点で負担が大きかった。自分のやり方とは相性がわるいなんて言ってたらだめなんだろうけど、相性がわるいものはわるい。

20231202

日記255

高い生活

2023/11/30 一昨日
在宅バイト。頑張って定時に終わらせられるように計算しかつしゃかりきにやる。天空橋まで音楽ライブを見に行く。「of BLUE」というかっこいいタイトルのライブで、カネコアヤノと坂本慎太郎のツーマンだったので期待していたが、一階のオールスタンディングの環境がライブハウス慣れしていない自分には過酷で、後ろの人の視野を奪っている意識もあるから直立することもできず終始変な姿勢で満員電車の中に突っ立っている感じになり、音楽を聞くとしてはかなり劣悪な環境だった。主催の団体があきらかに客を入れすぎていると思う。特別な体験という感じがなかっただけではなく、あらかじめ楽しみにしていたほどではなかった。チケットの値段に見合うほど楽しいライブでもなく、総じて残念だった。下北沢までの帰り道も長く、帰り着いたときには腹ペコだったので、餃子居酒屋ダンダダンに入って餃子を食べようとするも、スタッフの数が七人ぐらいいるのに注文した餃子が出てくるのにたっぷり二十五分かかった。バイトの人たちは楽しそうに働いているのでわるい店ではないと思うが、客からしたら最低ランクの店といって間違いなく、下北沢で二度と行かない店がひとつ増えた。
自分にもお金を払って時間を使えばそれなりの体験ができるという考えがどこかにあって、その期待が裏切られたときには必要以上に攻撃的になってしまうところがある。こういうカスタマー精神に肩までどっぷり浸かったままでいると、自分では何もやらないくせに匙を口に運んでもらっていながら順番が違うと喚き散らす豚に近づいていってしまうので、満足感は自分が行動したときに得られるものであって、お金を払えばもらえるものではないという認識を取り戻すようにしなければならない。
まあ全然そんな話ではなく、お金を払うときには前もって調べられるものは調べる、衝動的に適当な選択をしないでおくというだけの話かもしれない。かもしれないというか実際そうだ。

2023/12/01 昨日
在宅バイト。頑張って定時に終わらせられるように計算しかつしゃかりきにやる。吉祥寺まで演劇を見に行く。「ハイ・ライフ」というタイトルのロンドンの場末が舞台の演劇で、東出昌大めあてに東京公演の初日を見に行く。物を手に取ったり、とったものを置いたりする所作に所作性を感じて最初こそ落ち着かなかったものの、段々場の空気が馴染んできて最終的には作品があらわす場末感というか、ゆるやかな終末っぽいいい雰囲気になったのでたぶん演劇としてもまずまずよかったんだと思う。しかし作品の出来どうこうというより、自分だったらどんな感じに演るだろうと舞台上の男と自分とを重ねながら見るという見方をして、その見方がうまく行き過ぎて不思議な気持ちになる瞬間があってそれが面白かった。顔を知っているだけのひとりの人間が目の前にひとりの人間としていて、すごく近い距離に感じながらも同時に彼我のあいだにある遠い距離のことも考えたりして、混乱し分裂しそうになるのを今という時間で無理やりにまとめ上げてじっとそこに座っているというのを楽しめたんだと思う。東出の顔と身体の造形はやはり並外れていてそこを見ているだけでも十分な満足が得られるものと思うが、ライトが当たってかっこよく映える格好でそこにいる彼よりも、長い手足を手持ち無沙汰気味に持て余しながらあちこちうろつきまわる彼を見るのが面白く、声と笑い声が特徴的なのに加えて、舞台にいる彼の魅力を感じさせた。演技の上手い下手とか、運動神経の良さとか体力の有無というのも大事なところなのだろうが、そういうところより以前に人の魅力はあるんだというのが実感できた。
演劇を見終えてその足で闇太郎にいく。吉祥寺に住んでいたときにはコロナが全盛だったこともあり全然行けていなかったのだが、もしまだ吉祥寺に住んでいたら通いたくなる良い店だ。店主のちゃきちゃきの江戸っ子気質とグラスで飲む瓶ビールとおでんが良い味で、最近ではあまり見ないほどかなり満足いく良いお酒だった。常連になってつまらないおでん批評などして憎まれ口を叩かれるようになりたい。

2023/12/02 今日
前日に夜更かしをしたこともありちゃんと休日らしい時間まで寝た。支度をして昼飯を食いに出かける。下北沢で開催の「ニテ」というサーキットフェスを見に来ている友人と合流。キッチン水谷で豚キムチカレーを食べる。本格っぽいスパイスカレーなのに豚キムチカレーというチャレンジもしていて志の高さ(低さ? 少なくとも絶対値の高さ)を感じさせる。腹ごなしに少し街を歩き回った後、スタバに入って『数の値打ち』を読む。そのあと日記を書く。

日記818

生まれいづるもの 2026/11/05 昨日 午前在宅。渋谷で健康診断を受けてから午後出社。普段とは別チームの打ち合わせに出る。報告メインだがそれも早々に終わり、あとは仕事上の世間話の色合いが濃い。円滑なコミュニケーションのためのコミュニケーション。べつに...