20240229

日記313

横断歩道・橋・高架

2024/02/29 今日
朝はよくねむれたおかげで調子が良かった。在宅バイト。各所と調整。タスク消化。二十一時半までザ行。そのせいで体力気力ゲージともに完全に底をついた。とはいえ実際には座っているのがメインなので体力は残っている。気力を回復しなければと思って雨の中銭湯に出かける。なぜかお腹は空いていない状態だったが、せっかくのうるう日に仕事だけして消耗したこの身体に牛丼の味はどう感じられるだろうという興味があって駅まで足を伸ばして吉野家に入る。牛丼アタマの大盛りが到着して食べ始めるとお腹が減っていたことを思い出し、とくに何か変わった感覚もないままいつものように食べ終わった。劇的な何かを欲していたわけでもなかったがそれでもやはり肩透かしを食った気分になった。雨の中当初の目的地の銭湯に向かう。普段通らない角をまがって歩いていたらうっかり新代田駅にまでのぼってきてしまった。食後の腹ごなしにちょうどいいと思うことにして銭湯に入る。ただ湯がいくらなんでも熱すぎて最初は二秒と浸かっていられずにすぐにシャワーの場所に退却。蛇口をひねって水を投入しながら何とか一五秒程度出たり入ったりして身体をあっためる。最後慣れてきたから頑張ってみようとすこし無理したらすこしやけどした。帰り道ゆっくり歩いて帰っても湯冷めしないから風呂はやっぱりすごい。ただ、すねのあたりは今もヒリヒリする。

20240228

日記312



2024/02/27 昨日
わりと捗ったスタバからの帰りにダイエーでさば味噌煮の弁当を買って帰る。アルコールなし。帰ってそれを食べてからわりとすぐねむる。夜寝るまでの時間に何をしているのか意識がない。意識はあってもくだらない動画を見ているだけでそのときの記憶がないんだと思う。心が眠るための準備をしていてその時間の記憶がないというのはベッドに入る前にねむっているようなものだ。

2024/02/28 今日
在宅バイト。早く目が覚めて、ついさっきまですぐ近くに感じられた夢を思い出そうとしているうちに仕事のことを思い出した。そのせいで半覚醒から覚醒に意識レベルが上がってしまうのは自分にとってはかなり嫌な覚醒の仕方だ。
ちゃんと打ち合わせに出てから面談のために中抜けする。その後戻ってきて二十一時までザ行。面談はいざ始まってしまえばそこまで緊張しなかった。それでも始まるまで気は張ったし、帰りの移動時間だけ唯一寛いだ気分になれた。
同居人が野菜炒め弁当の塩味を買ってきてくれたので食べる。疲れすぎていて何かをしようという気になれずすぐねむることにした。しかし二十二時ちょっとすぎだったのでさすがにすぐには寝付けず、一旦起き上がって眠気がくるのを待つ作戦を採る。一応日記を書いてねむる。この日の面談で出向いた水道橋らへんの神田川と首都高と総武線が交錯する景色はたくさんの流れがある東京の良さを代表しているようで気に入った。

20240227

創作物への態度

人が作ったものについて、それが誰かによって作られたものだという事実それだけで基本的にはもう面白い。面白がる目線で見ればすべては面白いから、何かについて退屈でつまらないと言うことはできない。つまらないと宣言することは、見る自分の怠惰な姿勢を表すだけのことで、対象の面白さを毀損するものではない。だから何かを見てそれが面白くないというとき、それは面白い/面白くないという話ではない。正確にいうとすれば好き嫌いの話だ。しかし、好き嫌いという整理だったり区別では話がそこで終わってしまうことも多い。ああそれが好きなのね、ああそれが嫌いなのね、で話が終わってしまう。その人と何かについての話をしたいのであれば、好き嫌いというのは最後に持ってくるセリフになる。対象について好き同士あるいは嫌い同士でそれを褒めながらあるいは貶しながらお互いの親密さをメンテナンスするというのでなければ、片方が好きでもう一方が嫌いというシチュエーション、それらの好き嫌いのグラデーションのなかで相手を説得して自分の意見に引き寄せようとする会話を楽しむことができる。人それぞれだよねという言葉でお互いの壺の中に引きこもろうとする蛸的習性を回避してあくまで会話を続けたいのであれば、好き嫌いの話ではないという体をとるのが効果的なやり方ということになる。そこで、嫌いであれば粗を見つける、好きであれば美点を説明するというやりとりが生まれる。ただこれはどう考えても「嫌い」にとって有利だ。だから嫌い側は好き側に配慮することを忘れてはいけない。というかべつに配慮する必要はないのだが、嫌いという側に立っているだけでもう十分に有利なのだから討論で優勢なことを得意がってそれでえばったりしていると相手とのやり取りにおける自分自身の発言のプレゼンスが下がる。一度か二度しか話さない相手であればプレゼンスを無視してやり逃げできるかもしれないがある程度長期的な関係を築くのであればそのやり方は通用しない。こういう不公平な位置関係に敏感で、自分が風上に立ってえらそうになるのを回避したいがゆえ面白い/面白くない論争において嫌い側に立とうとしない人が一定数いるのも理解できる。彼らはまともな人間であること(まともな人間と見られること)を優先する人だということがいえる。もちろん社会人としてはそれで十分だし、そういう人が多い社会というのはそうではない社会に比べて住みよい社会だといえる。それでも、友人として見るのであればそれでは満足できない。もし自分の友人に嫌い側に立って何かを言うということをまったくしない人がいたとすると、その人の前ではつねに自分のほうが嫌い側で会話をすることになる。それでもいいと思わせてくれる相手であればそれでもいいのだろうが、それでも、たまには自分がフォローしたり自分の思う作品の美点を言わせてくれよという気になるはずだ。誰かに向かって何かを嫌いというとき、相手がそれを好きだろうが嫌いだろうが、まずは自分の感覚に頼ってきっぱり言い放ってしまう。そのあと相手が追従してくるか、反発してくるか様子を見ることになるが、どちらになってもそれで自分の価値観を示せるとともに相手の価値観が知られるということになって基本的に良いことしかない。ただ暗に期待するのはやっぱり反発してくるほうだ。自分の感覚にはない美質があるとわかったり、不注意からあきらかな美点を見逃しているときに指摘してくれるのは会話するということそのものが持つ利点だと思うからだ。そのためには、一にも二にも自分の感覚に正直になり、面白いか面白くないかにフォーカスして自分の旗幟を鮮明にすることだ。創作物その他についてネガティブなことを一切口にしないというのは、気を遣っているふうでいて実際には保身でやっている以外の説明がつかないと思うがどうか。

まあ、保身は必要なスキルだからそれが悪いというのではない。ただ、保身しなくていいタイミングではそうしないほうが面白いことになりやすい気がするというだけの話だ。

日記311

まさ東

2024/02/26 昨日
在宅バイトでのザ行が長引いて家から一歩も出ないで一日が終わった。こういう日は無くしていかなければならない。お金をもらうためだけに消費された一日……。翌日が出社なので先行してゴミ捨てするため玄関から十歩だけ外に出た。

2024/02/27 今日
出社の日だった。朝早くから出かけるのがなんとも億劫でそのうえ気がかりもあってつい俯きがちだったがそれではいけないと無理やりに顔を上げたら朝日と空がきれいで不意をつかれた。駅から会社までの道はビル風がすごくて飛ばされそうになった。
出社してばりばりと働きながらふと死ぬのがこわくなった。存在していられる期間が限られていることの不条理に気づき驚くというパターンでの死ぬのがこわいだが、しばらくそのことを考え、こうしているうちに時間がすり減っていくことを思い、だんだん厭な気持ちが積み重なっていった。いつも途中で考えるのをやめてしまうことで事なきを得るのだが、それ以外の回避策があるのだろうか。死んだら終わり、死ぬまでしか続かないということを考えて暗い気持ちになっていたのに、その一時間ぐらいあとの打ち合わせではいつもどおり喋る前に緊張していたりして、それを俯瞰で見てばかばかしいと思いながら画面の向こうの人に話しかけていた。何かをやって気を紛れさせるのはうまくいくと思う。しかし気を紛れさせるのだけがうまくなって気づけばタイムアップということだがそれでいいのかと考えて厭な気持ちになったのだった。昔は芯から怖かったし回避策もうまく働かなかった。三十代になってからは怖さが軽減されてきたし、回避策までの経路にも慣れてきた。しかしここへきて怖さの質が変わってきた。自分の衰えがちゃんと目に見えるようになって、今までよりもっと高い精度で終わっていくのが想像できることでふたたび怖さのグラフが上昇曲線を描き初めたような気がする。あたらしい回避策には一応目星がついているもののそれが機能しないことも予想されるので、回避策を実行に移しながらプランB、プランCと探していかなければいけない。
一度家に帰って端末を置いてからスタバに出かける。道を歩いているだけでも良い一瞬はたくさんある。そのいちいちを覚えていないから記述することもできないのだがそういう瞬間のためだったらそれを得るための活動としてバイトをするのも仕方ないかと思う。定時で会社を出たらまだすこし日の名残があり空が明るかったことや、黒いプードルが自分のことを王子様の乗る白馬と思っているかのように優雅なステップで歩いていたこと、スタバの店員がTOKYOローストは中目黒で焙煎されているというのを一言さりげなく教えてくれたこと、書き残しでもしないとすぐ忘れしまうような「ちょっと良いこと」がたくさんある。そういう瞬間をひとつでも写真に撮れたらいいと思って身構えているのだけどどうしてもちょっとだけ遅れてしまう。日記を書いていてもわざわざ書こうと思わないようなちょっとのラインで、だからこれまで日記に書くことができていないのだが、もうすこし意識してちょっとのことを書き残すようにしよう。そうすると自然見たもの中心の記述になるから行動したことを書こうとする日記とはモードが合わない。
自分は改行をあまり使わないようにしているが、それを解禁し、改行を用いてモードの切り替えをしながらつながらないことでも書き継いでいくようにしよう。

人が作ったものについて、それが誰かによって作られたものだという事実それだけで基本的にはもう面白い。面白がる目線で見ればすべては面白いから、何かについて退屈でつまらないと言うことはできない。つまらないと宣言することは、見る自分の怠惰な姿勢を表すだけのことで、対象の面白さを毀損するものではない。だから何かを見てそれが面白くないというとき、それは面白い/面白くないという話ではない。正確にいうとすれば好き嫌いの話だ。しかし、好き嫌いという整理だったり区別では話がそこで終わってしまうことも多い。ああそれが好きなのね、ああそれが嫌いなのね、で話が終わってしまう。その人と何かについての話をしたいのであれば、好き嫌いというのは最後に持ってくるセリフになる。対象について好き同士あるいは嫌い同士でそれを褒めながらあるいは貶しながらお互いの親密さをメンテナンスするというのでなければ、片方が好きでもう一方が嫌いというシチュエーション、それらの好き嫌いのグラデーションのなかで相手を説得して自分の意見に引き寄せようとする会話を楽しむことができる。人それぞれだよねという言葉でお互いの壺の中に引きこもろうとする蛸的習性を回避してあくまで会話を続けたいのであれば、好き嫌いの話ではないという体をとるのが効果的なやり方ということになる。そこで、嫌いであれば粗を見つける、好きであれば美点を説明するというやりとりが生まれる。ただこれはどう考えても「嫌い」にとって有利だ。だから嫌い側は好き側に配慮することを忘れてはいけない。というかべつに配慮する必要はないのだが、嫌いという側に立っているだけでもう十分に有利なのだから討論で優勢なことを得意がってそれでえばったりしていると相手とのやり取りにおける自分自身の発言のプレゼンスが下がる。一度か二度しか話さない相手であればプレゼンスを無視してやり逃げできるかもしれないがある程度長期的な関係を築くのであればそのやり方は通用しない。こういう不公平な位置関係に敏感で、自分が風上に立ってえらそうになるのを回避したいがゆえ面白い/面白くない論争において嫌い側に立とうとしない人が一定数いるのも理解できる。彼らはまともな人間であること(まともな人間と見られること)を優先する人だということがいえる。もちろん社会人としてはそれで十分だし、そういう人が多い社会というのはそうではない社会に比べて住みよい社会だといえる。それでも、友人として見るのであればそれでは満足できない。もし自分の友人に嫌い側に立って何かを言うということをまったくしない人がいたとすると、その人の前ではつねに自分のほうが嫌い側で会話をすることになる。それでもいいと思わせてくれる相手であればそれでもいいのだろうが、それでも、たまには自分がフォローしたり自分の思う作品の美点を言わせてくれよという気になるはずだ。誰かに向かって何かを嫌いというとき、相手がそれを好きだろうが嫌いだろうが、まずは自分の感覚に頼ってきっぱり言い放ってしまう。そのあと相手が追従してくるか、反発してくるか様子を見ることになるが、どちらになってもそれで自分の価値観を示せるとともに相手の価値観が知られるということになって基本的に良いことしかない。ただ暗に期待するのはやっぱり反発してくるほうだ。自分の感覚にはない美質があるとわかったり、不注意からあきらかな美点を見逃しているときに指摘してくれるのは会話するということそのものが持つ利点だと思うからだ。そのためには、一にも二にも自分の感覚に正直になり、面白いか面白くないかにフォーカスして自分の旗幟を鮮明にすることだ。創作物その他についてネガティブなことを一切口にしないというのは、気を遣っているふうでいて実際には保身でやっている以外の説明がつかないと思うがどうか。
まあ、保身は必要なスキルだからそれが悪いというのではない。ただ、保身しなくていいタイミングではそうしないほうが面白いことになりやすい気がするというだけの話だ。

『戦争と平和』第三部5を読む。そのまま劇になりそうな筆致で感心した。というより自分の頭のなかで劇が上映された。戯曲の場合たまに起こることだが小説でそれが起こるとは。アナトーリ、老公爵、マリヤ、ブリエンヌ、そしてマリヤの独白。

20240226

日記310

雨風寒気

2024/02/25 昨日
十時ごろに起床。トーストを食べて十一時半からラジオを録る。とりあげたニュースはアルコール量の表示変更について。あとはケンドリック・ラマーとコラボしたダムフォンについて。
十二時半に友人が遊びに来るのにあわせて駅前まで昼飯を食べに出かける。雨の中酒おつまみを買い込んで家に帰る。コンセプトという新しいゲームとカタンで遊ぶ。いつも負けている友人がめずらしく一位になった。三人でやるカタンは動き方が洗練を通り越して収束してきていて遊びがすくないと感じる。何か別の要素を導入したいと思う。『I am...』というテレビドラマを見る。恋愛フォーマットながら森岡龍のドラマっぽいなと思って満足していたら友人いわくあの映画を撮ったとは思えないぐらいイマイチだったとのこと。だらだら酒を飲みながら駄弁りながら見たので仕方ない部分はあるけどきちんと判断できているのかいつにもましてあやしいものだ。その後まいばすけっとに酒や食べ物を補充しにいく。ポケモンかるたでちょっと遊んでひとりが帰る。二枚麻雀のあとEカードで遊ぶ。読みにいくときに確率のことをどうしても考えてしまってかえって割のよくない勝負に持ち込まれていくのが面白かった。あとは相手の動き方を読むときと自分の動き方を相手がどう読んでくるかを読むときには勝手が違うというか相手の考えの深さにギャップが出ることを知った。自分の場合あまりそのギャップがないように調整しようとすると思うが、相手がそれをほとんどまったくやっていないということに驚いた。いずれにせよ相手は自分ではないわけで、相手がどんなプレーヤーなのか見極めて調整していくのが面白い。どこかのプレースタイルでぴったり止まっていることもないから調整し続けることが必要になる。それを考えると自分の動き方はずいぶん読みやすいだろうと思った。だからその裏をかくのも簡単といえば簡単で、50/50に持ち込まれてからは結構回避できた。そのときには相手がこっちの動きの変化に対応しようとしていない感じがあった。

2024/02/26 今日
在宅バイト。やるべきことをやっていたらすぐに定時になった。定時間際に作業用として使っていたエクセルの馬鹿が途中で落ちてデータが飛んだせいで作業がまるまるやり直しになり、気づけば二十時半までザ行になった。エクセルの馬鹿はもう絶対に許さない。そもそもエクセルの作業に時間をかけ過ぎだし、作業用とはいえ自動保存設定にしていなかったやつが一番の馬鹿だ。予定作業はなんとか終わらせたがとにかく疲れた。同居人がスーパーで買物をしてくれて鍋になった。結局家から一歩も出ない日になった。一応昼休みにラジオ体操をしたものの運動不足の加速がおそろしい。体型維持にもうすこしコストをかけていかないと気分高揚の天井が下がっていく気がする。心技体の体が何より重要なのは知っての通り。
昨日今日とおもしろい夢を見たのだが内容を忘れてしまった。面白いながらこのままの生活に不安を抱かされるちょうどいい塩梅の夢だったのに忘れてしまって惜しいことをした。サラリーマンのような暮らしに安穏としているべきではないぞと思いながら月曜を迎え撃つような、自分の志向に沿って前向きな気持ちになる夢だった。休日もまんまサラリーマンの休日みたいな休日に終止していたし、このままでは時間を無駄にしてしまう。スタバに行かないでBとケンドリック・ラマーを聞きながら日記を書く。

20240225

日記309

街のくまさん

2024/02/24 昨日
一週間単位で久しぶりの晴れ間になったので朝から洗濯機を回す。早起きしすぎていたので二度寝をすると十二時過ぎになる。国領にうまいインド・ネパール料理(カレー)を出す店があるというので明大前で京王線に乗り換えて国領まで出向く。ほとんど何も無い駅だったが、駅前にショッピングセンターがあってその二階にK.Cはあった。十四時半に入って店休時間の十五時ちょっと過ぎまでおいしいクルチャとカレーをいただく。
その後、よみうりランドに行くという思いつきが発案されるもアトラクションの待ち時間四十五分になっていることで気勢をそがれ別の案が採用される。仙川にあるスーパー銭湯に行くことにする。ご飯を食べた後ちょっとは運動をしたほうが入浴を楽しめるという理由で仙川の隣駅つつじヶ丘で降車して一駅歩く。道中に武者小路実篤記念館と実篤公園があるのを確認していたので実篤公園に立ち寄ってから仙川のスーパー銭湯にいく。岩盤浴を入れて千六百円なので値段はお値打ちなのだがそれと連休中日のせいで客が殺到していた。岩盤浴に入るためにベンチに座って待たされるところで気持ちがかなり萎んだ。ただ入ってみると岩盤浴では寝ているだけでじゃんじゃん汗が出て都合三回出たり入ったりを繰り返すうちに湯船に落とされたぐらい汗が出た。漫画コーナーは11000冊あるとはいいながら期待したほどのラインナップでもなかった。ただ目当てのドラゴンボールは当然あったのでピッコロ大魔王を倒すところまで読み終わった。
そのまま風呂に行く。十九時から二十時の時間帯で広いサウナは満席状態。湯船も浸かることはできるがつねに隣近所に人がいる状態で、満足いくリラックス体験にはならなかった。テルマー湯から千円安いとまあこんな感じかというちょうどのラインだった。
その後仙川駅前の杉玉にいく。仙川は駅前商店街は新しくてきれい、入っている飲食店も粒揃いなので印象が良かった。
帰りも明大前で乗り換えて新代田で降りる。ファミマのレモンチューハイ白を飲みながら帰宅。不適切にもほどがある5話を見てねむる。このドラマの仕掛け部分が明かされる起承転結の転部分で面白かった。感動シーンで音楽をふんだんに使うこれまでの演出からここへきて音楽を使わない演出に切り替えることで高い演出効果があった。この演出効果は映画では出せないテレビドラマフォーマット特有のもので、コメディミュージカルを含めた「音楽」のON/OFFで見せてくるから驚いたし結構食らった。つねにテンションが高いコメディ俳優のシリアスな演技にもさすが俳優と思わされて感心させられるところがあった。岩盤浴サウナで疲れていたのでいつにもまして速攻入眠。

2024/02/25 今日
久しぶりの再会、仕事のサボりとその隠蔽失敗など、いろいろあったのち演劇のWSに参加する夢を見る。一ヶ月の短期間で公演まで持っていくWSで、指導・演出してくれるのはあの有名劇作家(名前を思い出せないが作品は見たことがある)、役者は四人という中身だった。観客席に座ってなにかの発表を見ていたら、突然演出家本人が登場し「なぜ役者になろうと思ったのか」と詰められ、自分の思ったことを喋ったら「お前には中身がない、何を考えているのか見えてこない」と詰られた。えらい人なんだぞとアピールするような喋り方をしてきたのでそれに反感をおぼえ説明するモードに入り説明していたら、その場を取り巻いている人たちのなかに友人の顔を見つけた。おかげでリラックスして「格好のいい人を映画や演劇で見ることがあるのでそれに近づく方法はないか考えていてWSに参加することがそのヒントになるのではないか云々」と思っていることを喋ったら、無反応でどこかへ行った。これからの一ヶ月が思いやられると心配になりながらも、そこに立っていてもしょうがないので友人と飲みに出かけることにしたら目が覚めた。

20240223

映画『WILL』を見た

自分は東出昌大のファンなので、実物を見れる機会があってあらかじめその情報を得ている場合、機を逃さじと劇場やら映画館に足を運ぶことにしている。
昔はその待機列が長すぎたから、たとえ情報を手にしていても最初から見に行くことを断念していたのだが、どういう風の吹き回しか、最近ではかつてのような非現実的な行列はできなくなった。ただ、さすがに予約なしでなんとかなるというレベルではないため、普通に予約して実物を見に行っている。
ある人物における虚像と実像という側面を考えようとするとき、東出昌大ほど適した人物はいないように自分には思われる。自分は演技の巧拙についてまったくわからないから、役者として演技が上手いからファンだというわけではないし、かといって発言等から人間的な魅力を感じとって追いかけたいと思っているわけでもない。よくもわるくも等身大という印象の発言については、たまにウンウンとなることもあるがうーむと首をひねることのほうが多かったりする。
それでもなぜなのか自分でもよくわからないが『桐島、部活やめるってよ』という映画で彼の姿を見て以来ずっと気になっており、映画に彼の出演情報があればなんとなく気に留めておいてタイミングが合えば見に行くということを繰り返してきた。
規格外のスケールを感じさせると同時につまらない人間のようにも感じられるという「同時に」性に興味があるような気がする。人からつまらない人間だと思われないようにそれを隠すということをしていないのがスケールの大きさにも見えるし、単に見え方の面で考えが及んでいないだけのようにも見える。仮にすべてを意識してやっているとしたらかえってスケールダウンして見えもするところだから、かならずしも意識していることが良いことだとは思わない。むしろ時折のぞく小人物っぽさが大物感に結びついているともいえるし、それでも覚えず識らずつい仰ぎ見てしまうようなことがあるのは、もとをただせば小者感から端を発しているとも考えられる。自分は賢さの条件にはアホであるということが欠かせないとする一派なのだが、東出昌大はその基本線の中心をモデルぐらい正確に真っすぐ歩いているように見える。
彼は一般的に見て良いとはいえない部分を特長としてもっていて自分はそれが良いと思うのだが、なお良いと思うのは一般的に見て良いとしか言えない外見のうえにそれが備わっていることだ。スーパースターのぶっとんだエピソードへと突き抜けていかず、低空をふらふら安定しないまま飛び続けているように見えるのも特異なところだ。これは好き嫌いの話だが、トム・クルーズのようにスター然として振る舞っていたとしたらそのスター性に興味惹かれることはあってもここまで気になる存在にはならなかっただろうと思う。

『WILL』を見に行くことにしたのも舞台挨拶付き上映があると知ったからだ。東出昌大の実物を見るということには上の理由からも自分にとって価値がある。また、エリザベス宮地監督をドビュッシーというユニットでの活動や映像作品『みんな夢でありました』で知っていたのも大きい。近年、どんどん活躍の場を広げていてすごいなと思っていたこともあり、ここで東出昌大と繋がるのかと感慨深いものがあった。友人が大ファンだったことから影響を受けて聴くようになった永原真夏の近くにエリザベス宮地監督がいたこともあり、そのときにも偶然の符合に驚いたものだが、よくよく考えればエリザベス宮地監督が興味を持つ人物というのはそれだけエネルギーを発している特異な人物だということが言えて、そういったタレントは芸能の世界には多数いるにせよ、まったくありえない偶然ということにはならない。彼の作品の方向性も考え合わせると蓋然性の高い偶々(たまたま)というところだ。

本作は狩猟ドキュメンタリーという性質上、画面のなかで野生動物の血が流れる。まず、映画で血が流れることはめずらしいことではない。また、野山で血が流れることにしても狩猟をする人間にとっては少なくとも日常の一部でめずらしいことではないのだろう。しかし、映画のなかで実際の動物の血が流れるというのはわりとめずらしいことだ。
生きるか死ぬかという問題を突きつけるのはある種の劇の特長だといえて、それによって観客は考えることを要請されたりするが、そのなかでも血で生と死を印象づけるというのはよくある手法だ。そのため血を流してみせるのは陳腐でありふれた表現になりかねない。ある小説家は作中で血を流すことで客の集中を引きつけて緊張を高めるというのは下等な手段だと言った。そうではなく血が流れるかもしれないという可能性において緊張感を引き起こすのが上等なやり方だと小説家は説いた。自分はこの意見に賛成だ。いたずらに血を流し、見るものを驚かせるというやり方はどれだけ工夫をこらそうとも馬鹿げている。その馬鹿げているさまを逆手にとるというやり方はあるだろうし、結局それで面白いと感じさせるのであればそれで十分良いということはいえる。ただしその場合、作品がフィクションであり、流された血が血糊であるということが外せない条件になる。たとえ事実を基にした物語であっても、それを演じる人が本人であろうとも、血は贋のものでなければならない。『WILL』はその禁忌(タブー)に抵触している。

本物の血が流れるのを映すと決断する以上は、その場面も含めた作品の全体によって、かならず見る者の感情を動かさなければならないと自分は思う。しかし、どれほど優れた作品であっても最終的に感情を動かすのは観客自身なのだから、これは映画監督の職掌を原理的に踏み越えていることでもある。
踏み越える動機は自分には理解できないものだ。なぜそれをする必要があるのか、本人にもわからないようなことなのかもしれない。ただ、とにかく頭で考えた必要がなくても心に感じる切迫感はある。それで免罪されることはないにせよ、理解できないにしても、そう思う人がいるだろうということを自分ではない他人の可能性として感じとることはできる。
自分は一度進んだらもう引き返せないという状況に身を置くことをつねに躊躇する。たとえ躊躇しようとも、それを選び取るということをしないままでいようと、自動的に引き返せない状況に身を置く羽目に陥らされていることを頭では理解しているつもりだ。それでも「どうせ死ぬのだから【生きる】ということを生きているうちにすべてやり尽くすのだ」という考え方にははっきり反対だ。いつか死ぬと考えて生きることは自分のやりたいことではない。いつまでも死なないという条件が与えられているつもりで生きるというのが自分のやりたいことだ。

上の考え方にしたがって原理的に考えるのであれば、この映画を見て感動などするべきではないと思っている。しかし、そう思っていても半ば強制的に感動させられる。歌には力があるし、山を含めた映像にも力があるからだ。そのせいで自分の心は一筋の血の流れの向こう側へと押し動かされる。動かされながら、感情が動かされるのは避けられないにしても……、と頭の中ではべつのことを考えている。感情を動かされながらも同時に「厭だ」と感じるこの感情のほうにどうにか筋道をつけられないか、ということだ。
画面の向こう側からは当人自身が抱えている矛盾に対して真正面から言及する声が聞こえる。さすがに分が悪いと感じるが、負けを認めるわけにはいかない。そもそも敵ではないのかもしれないし、味方でさえあるかもしれないが、一緒になって肩を組むわけにはいかない。自分には自分の感じた厭悪を、自分の感情からみてもやや分が悪い、よわい厭悪感を守る義務がある。それが踏み潰されることがあるとすれば、それは誰かの足によってではなく、この自分の足によってということになるだろう。それを許すことはできない。
ほかのことを許せないと思う人だっているのかもしれないが、その人と結託しようとは思わない。猟銃が許せない人、食肉が許せない人、埋設処理が許せない人、不倫が許せない人、週刊誌が許せない人、感動が許せない人は、それぞれで銘々勝手に自分の領域を守ってくれたらいい。
自分にとって許せないのは、これは仮定の話になるが、何らかの信念や考え方において決断し、自分が踏み越えた行動のことをただ禁忌を破ったと言って済ませることだ。ゼロではないものをゼロだとみなすような言説については許せないし許さないという基本線に立ち返って考えるのであれば、自分の犯した罪のことを禁忌と言うことそれ自体が許されざる禁忌ということになるはずだ。矮小化された意見がもつ暴力に敏感であろうとすることだけがその処方箋なのだとすれば、矮小化された意見にこれ以上ないほど晒される羽目に陥った人間が、自分自身がそれと同じようなことをしないだろうかと試され続けるような環境や境遇に身をおいていて、しかもその姿をカメラで捉えることで成立したこの映画は、見る側にとっても「禁忌に挑戦している」で済まされていい内容のものではない。
映像を見てここまで許せないという気持ちになったのは、初めてのことだとは言わないまでも自分にとっては数えるほどしかないめずらしいことだ。しかもその中心にいるのが好きな俳優だったというのも自分にとっては大きかった。今後もこれを超える映像体験はないかもしれない。もともと感動するから良いという価値判断はしていないつもりだったが、今作によって感動は良いものだという無意識の前提は掘り返され、両者をより厳密に区別することになってしまった。この映画の中でも格好良い意見や魅力的な声は聞かれたが、この映画によって新たに獲得した観点からすれば、その意見や声に対しては首を捻らざるをえない。
舞台挨拶付きの上映だったためか終映後に拍手が起こった。そのときには胸のうちに感動があったから自分も拍手に加わった。それが間違っていたとは言わないが、流されての行動だったと反省しないわけにはいかない。面白い映画だったし見事だという思いもあったから、感動したから拍手したというのはそれこそ単純化した表現になる。しかし、もとをただせば自分の感動が根底にあり、その後にいろんな感想が続いていっているというのは疑えない。感動がないのは味気ないし、ないよりあるほうがいいのは間違いない。それでもある種の作品においては、ただ感動したで済ませられない、罠のような仕掛けがあるのも事実だ。舞台挨拶付きの上映に釣られてのっぴきならない状況に陥っている。困ったことになったし、そのせいでだんだん許せない気持ちが大きくなっている。地面に向かってぐにゃりと伸びた鹿の首が頭から離れない。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...