20220823
日記33
20220820
面接こわい
20220813
海の思い出
20220802
日記32
昨日
引っ越し後の家が引越し前には想像できなかったほど快適でとても暮らしやすい。家賃5万円の最初の部屋からすると3倍以上の過ごしやすさは悠にある。ともすると受け取りきれないほどの満足感が実際に目の前にあり、この暮らしを噛み締めていなければもったいないという気がつよくする。この半年間で社会的なものもそうではないものもふくめ様々な事件があり、現実感が「希薄になる」というより「揺さぶられて輪郭が二重に見える」ようになったのだが、引っ越してからの生活は、そういった現実感覚のブレ・まとまりのなさの「仕上げのイチゴ」のように思われる。私の現実感覚は、私にとっての現実を反映したものに違いないが、現実と現実のイメージがこうまで乖離すると、現実というのは大体こういうものだとする自分の見識の乏しさが露呈したということになる。まあ私はもともと現実についてほぼ無定見にちかいというか、あんまり自信がない領域だというくらいの認識はあるのだが、それにしても全然駄目だったということが明らかになった。あるいは、よく言われるように「現実とは想像を超えるものだ」ということを示しているだけなのかもしれない。この齟齬について自分の方に原因があるとするのは、見る人が見ればそれだけで夜郎自大の気味があるともいえる。
東京に引っ越してきた直後にも現実感のなさはあった。旅行感覚が続いているような。しかし、旅行感覚は2年ぐらい経つと完全になくなった。それでも現実感のなさは続いている。最初の現実感のなさと別物になっているから、同じ現実感のなさとして処理するのが適当ではないけれど、現実はひとつしかないのだから現実感も正しいそれが一個あるだけというイメージに基づいて、それとの乖離感覚が継続している。大体このへんにあるにちがいないという見当をつけた場所を離れず、周囲をぐるぐる回っているだけ?
現実にも現実感にもそれなりに距離を置いている感じで冷淡に接している気がしているが、「現実感のなさ」という観念については好物と言っていい。
小説『ゴジラSP』を読み終わった。アニメの補完になっているのは脇にいる人物の語りで、そこがとくに面白かった。読んでいると、ある登場人物について、当人のポジション・視野からきちんと考えていてしかも賢いと思わされることがあった。皆それぞれ自分自身の限界を把握したうえで発言したり行動したりしている。ナラタケシリーズ・特異点の語りについては”SF的想像力”の駆使というか、ラボ環境での操作という感じでノイズが少ない分、書きやすい(読ませやすい)のかもしれない。「はじまり」と「終わり」が決まっていてその経路を辿るように構成するというのは(難易度や納得度を棚に上げれば)できないことではない。その場合、「それしかできない」ということにしてしまえば、「それしかできない=だからそうなる」となって、「そうなる」ことになる。「そうなる」以上、納得しない余地がない。
「そうなる」ことに影響を受けつつも、それとは本質的に関係ないところで持ち上がる思考のほうに興味をおぼえる。不条理だけをならべても不条理は成立しないというのは、条理に合うことを不条理の隣に並置するということ以上に、条理−不条理とは関係ないものが要請されるという意味だ。能力・機能外の領域がなければ物語は立ち上がらない。
JJが消失する前に言っていたことはアニメのほうで描かれている。会話でのやり取りは、発せられた言葉に対しての現場における最適解以上のものにはなりえない。それによって作られたとりあえずの流れに沿って新たな言葉が導かれるということは起こるが、そうなるともともとの言葉の意味は立ち消えて、その時の暫定版解釈がとりあえずの決定版になる。後々ちょっと引き返してみたい気がして、頭の中で実際に引き返してみて会話の流れを想像するとき、本意とその時点で感じられる別の解釈が生まれるかもしれないし、有耶無耶で不確かな与太話めいた妄想に終止するかもしれない。いずれにせよ、これ以上考えても仕方がないとその都度思い、考えるのをやめては、またふとしたきっかけでそのことを思い出し、考えても仕方がないと思うところまで考えてみて、何かに近づいている感覚を得られたり得られなかったりする、ということができる。
「消失する」というのはそれ自体ドラマチックなアクションだが、それを物語の頂点におかないやり方が自分にとっては好ましい。消失とは無関係に、日常にどっぷり浸かっている状況で発せられる言葉のほうに多くヒントが隠されているという構造を自分の書く小説内にも作りたい。冗長性を高めるための足し算というのは方法だが、それを目的にして何かを書くと、その意図が透けて見えて余計に中身が目減りしてしまうおそれがあるので、感情やアクションを積み重ねていきながら、能うかぎり大きなスケールの模様を描きたい。そのためにタテとヨコの瞬間移動を自在に扱うという意識をもつ。
『モガンボ』を見る。ジョン・フォード作品を2,3本見た上でこれを見て面白さが感じられないならジョン・フォードは捨ててしまってかまわない。そう言い切れるぐらいには面白い映画だった。あんなふうに悔しがったり転んだりするのは、絶妙にキラキラしていて、でも目を背けるほどには眩しくなくて、しかるべき距離は保たれているしとにかく魅力的だ。
モガンボについて検索すると、何でも「紅塵」のリメイクらしいということを知る。ちょっとした符合だけど面白い。
今日
渋谷で11時から『俺は善人だ』を見る。よく似た二人を一人二役で演じるのはいくつか見たことがあるけど、このモチーフに振り回されたりせず、さすがうまく取り扱っていると感じた。仕掛けにさしかかるまでの前段の見せ方も良くて、仕掛けの場面が引き立っていた。『モガンボ』も映画館で見たくなったので19時半の回のチケットを買う。
蕎麦を食ってから下北沢に戻って図書館でレンタル予約した『大いなる不満』を受け取りに行く。『ロウカの発見』は、「科学」と「物語的なものの見方」との関わり方についての風刺画で、主体を個人ではなく集団においているあたりもよくできている。
ジョン・フォードは夏以降あまり見なくなった。が、のちに『フェイブルマンズ』を見たときに「あれがあのJF!」と感じ入ることができるだけの素養をこのときに得ることができて幸運だった。
この時期SFを読んでいるのは何かを得たいと思ってうろついている感じだ。自分の書くものはSFになるのではないかという思いがあった。しかし、書くものについて設定に制限を受けたくないという理由でSFに近づいただけで、SFに対して特別志向があったわけではない。今書いているものもとくにSFではないはず。
20220726
日記31
20220724
日記30
昨日
コピスの6Fジュンク堂書店で『ゴジラS.P』を買う。PARCOの1Fシティベーカリーで買った本を読む。
面白い小説というのは、自分が読める小説の範囲内にしかない。外国語で書かれていたり、古語で書かれている文章作品について、翻訳を通してしか読むことができないというのもそうだが、もし自分が文学にまったくの不案内で知的好奇心にも欠けており、読める小説の範囲内で本を選んで満足する本好きだったとすると、文学の正統とされるものや古典的名作とされる作品を素通りして平気だったのだろう。今、芥川賞作家の作品や直木賞作家の作品、本屋で売れているとされるジャンルの小説をスルーしても何の痛痒も感じないのとまったく同じように。
それらがべつのことであり、自分の読んでいないものではなく自分が読んでいて多くの人が読んでいないものの方に読むべきものがあると主張するには、それが古典的名作だから、有名な文学作品だからという理由だけで押していくのは無理がある。それは権威主義ではないかと言われて終わりだ。
しかし、他の言い方はとくに思いつかない。自分が言うとしたら次のようになる。
小説を読んでいるということは、あなたもいつか小説を書くということなのだからそのときの自分の役に立つように、いまの自分自身の外にあるものを探しに行くように習慣づけたほうがいい。
これについては、いいや、私は小説を書く気もないし、いつか小説を書こうという気を起こすこともないと返されて終わりだ。しかし、自分としてはその意見というか言い草には異議を唱える。それは、その人の言う私は小説を書くことはないという意見について、嘘をついているにちがいないと言いたいのではない。そんなふうに上から下に落ちていくように小説を読んで、何が楽しいのだと糾弾したいような気になるのだ。本当には小説を書かないでもいいが、いくらかは自分が小説を書くということを考えないでいて、あなたの人生に小説が必要だということの意味が私にはわからない。たしかに、「書ける/書けない」の問題が「書きたい」の先にある。それにしても「書きたい、だけど書けない」と思っているほうが潔いのではないか。諦めたままで小説を読むことの居心地の悪さを小説を読むことに感じないで、小説が読めるとは思えない。そんな体たらくでも読める小説を読みたいというのであれば、私はそんな小説は、というかそんな読書はつまらないと思う。それは私が現在売れている小説を読まない理由とはちがう。
海を見に行く前日、ピンチョンの『V.』を読み返した。小説全体の中でもとくに目立つ場面というわけでもなく、何ということもないシーンなのだが、スケールの大きさと細やかさの両方があった。ある人物の目線から主要人物の動向が語られるのだが、その人物の物語に対する役割とはまったく関係ないところに彼の生きる世界がある。章の中の一節にしか登場しない人物でありながら、そこだけを読んだとしたら、まぎれもなく彼がこの小説全体の主人公だと感じられる。チョイ役に目鼻をつけて台詞も与えてやるというレベルの話ではなく、これから彼の冒険が始まるのだと思わせられるように書かれている。だが、じつのところ、その場面というのはふたりいる主人公の片割れがいつか誰かの話を聞いて再構成した昔話を思い出しているいわば妄想シーンでしかない。Vの秘密に迫るため、何らかの重要な役割を担っていると考えられている女性と関係している男二人をただ見かけただけの列車の客室係の目線で、男二人の異常さ・冷徹さを描くというのが、この場面の小説内での位置づけということになろうかと思う。
そこにグローバルな視座とそれによるスケール感も乗っかってくるから、本当に敵わないと思わさせられる。しかし、このあたりは非常によく書かれているとはいえ、ある程度勢いで書き飛ばしていると考えることもできる。たとえば『ヴァインランド』では日本人のタケシフミモタが登場するが、それは日本人のイメージとぴったり一致するような登場人物ではない。もちろん、彼も活き活きとして活躍するから、そんなイメージとの一致がないからといってそれがどうしたということでしかないのだが、地中海の多様な民族がまじわる土地のダイナミズムを見せられ、その知らない世界を活き活きと描いているからといって、正確さを含めたすべてのバロメータが途轍もなく高度であるというのは目を瞑ってバンザイするようなものだ。
小説を書き始めてからあらためて読み始めた『V.』は面白すぎる。再再読だから、初読・再読時よりも細かいところに気がつくようになって、よりその面白さを掴めるようになってきたというのもあるだろうが、自分の小説を書いているとピンチョンの書きぶりの特徴がわかる。これはどの作家の作品についても言えることだろうと思うのだが、それにしてもピンチョンの場面の飛ばし方はすごい。一回で全部が入ってこないのだから考えようによっては説明不足だといえると思うのだが、何かを説明している余裕などないのだろう。そもそも数回読めばわかるようになっているのだから説明不足ではなく、たんに読む側の認識・認知能力の不足でしかない。これに関しては数回読み返して補っていくしかない。
家の前の蒙古タンメン中本で五目蒙古タンメンを食べる。ちょうどギリギリの辛さで汗が吹き出たけれど、辛いだけではなくちゃんと美味しかった。15時半ごろから家でSwitchのボードゲームをして遊ぶ。ウィングスパンで一敗地に塗れ、メンバーが増え三人になってから再度海底探検、エセ芸術家で遊ぶ。最後に締めのドブルで勝ちを収め、会がお開きになる。
引っ越しを二日後に控えていたので、遊びながらも準備を着々と進め、大方済む。
このときはわりとよく集まって遊んでいたが最近はTCBのメンバーが揃うことも少なくなって若干の寂しさがある。
今日
近所の町中華「龍明楼」で豚バラチャーハンを食べる。ここは気軽に行けて良い店だった。在宅勤務の折にはワンコインの弁当にだいぶお世話になった。下北沢の新居の鍵を受け取り、アースレッドプロαの蒸散のため新居に行く。エキウエのスタバで本を読んで、吉祥寺に帰る。1年半ほど吉祥寺に帰る生活を続けたが、結局コロナ騒動の最中に引っ越してきてコロナ騒動の最中に引っ越していくことになった。前半はとくに飲み屋などの開拓がろくにできず、ポテンシャルのいち部分しか楽しめなかったのは残念だったが、電車に乗らないでも全部が解決できる便利さは便利だけど、やはり街全体は郊外の域を出ない。それを象徴するのが駅前のバスで、とくに公園口のバスの動線の酷さがいかにも郊外然としており、著しく街の格調を下げている。せっかく井の頭公園があるのに、公園に行くまでの道があんな体たらくになっているのは相当マイナスが大きいということに街作り担当は気がつかないものだろうか。吉祥寺に住むために駅徒歩30分の場所を選ぶ人の足としてバスの輸送力が欠かせないんだとしても、あの狭い道をバスが通るのと、安全確保のために警備員が拡声器の大音量で注意を促す景観は、控えめに言っても前時代的で、みっともいいものではない。
吉祥寺は二流の街であるというのが一年半ほど住んで出した結論だ。一流の街になるためには駅前のバス動線の醜さを解消する必要がある。新宿渋谷まで20分足らずで行けるアクセスと井の頭公園を持ちつつ一流になれないということの意味を重く受け止める必要がある。公民館も各所に点在していてよかった。図書館も街なかにあって利便性が高い。それにもかかわらず一流になれないのは、駅前のバスがいらぬ混雑を生んでおり、通行人をみっともない気持ちにさせるからだ。
20220723
日記29
昨日
市政センターに行き転出届を出す。香港風麻辣麺のファーストフード店で4小辛のラーメンを食べる。
その足で下北沢に移動し、スタバで『失われた時を求めて』を読む。円城塔の『ゴジラSP』が本屋に置いてあれば買って読みたかったのだが、二店舗回って見つからなかった。
永原真夏のワンマンライブを見るため、開場時間の19時ジャストにSHELTERに入る。MCで「無駄について考えている」と述べ、メンバーに対し「無駄だと思うものは何かないか」と話を振っていたのが気になって、その後の二曲のあいだじゅう「無駄」と言われてピンとくる答えを探し続けてしまった。ベスト回答は「2000円札」、挑戦したい回答は「16進数」というところに落ち着き、次の曲からはふたたび曲に集中することができた。ちなみにその曲が本構成のラストだった(その後アンコールでたしか4曲か5曲追加で歌ってくれた)。
ライブを見に来ていた友人らと下北の居酒屋に行って酒を飲み、電車で吉祥寺に戻って井の頭公園を散歩した。
永原真夏の歌は「そうだよなあ」という共感をもって聞ける。ただ聞く自分の側が少しずつ変化して図々しくなり、今では「そうだよな」が行き過ぎて当たり前のように感じられるようになってきた。たとえば「遊んで生きよう」に対しては、生きることがすでに遊ぶことだという認識でいるから、遊んで生きようと聞くと自分の中では「生きて生きよう」に変換されてしまう。ただ、この規模感のトートロジーはいつ聞いても可笑しくて楽しくなる。あと「泣いたり笑ったりできるんだよ」については、こっちも進み具合は同様だが、上のような言ってしまえば雑念は湧かないで、ストレートに共感して共振する。とはいえどっちの体験がどうというのはないし、永原真夏がMCでうまいこと言えないでいた「いわゆる”良い曲”だけが曲じゃない」というのはそのとおりだと思う。良いという言葉遣いをしてしまうとすでに罠にはまっていて[良い/わるい]の二分法にどうしても引っ張られるので、べつの言い方を工夫するべきだとは思うが、それでもじゅうぶんに意図を汲み取れる場の力学があった。そういう場をステージとして作り上げられること自体がすでに達成であるし、そもそも「フィーリング」が伝わっているという事実があるので、うまいこと言えないなんていうのは些末なことにすぎない。
自分が辿りつつある線の軌道を確認するために永原真夏のライブを見に行くというのは私にとってはかなり有用だ。貼された点ではなく不断に引かれつつある線として見られるから、こちらの線との比較や定位がより精確になるという気がする。
日記788
注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...