20220823

日記33

今日
ICCでやっている原寸大ゲルニカの8K上映のイベントに行った。
ピカソはピカソ美術館で見て以来二回目の鑑賞だが、今回原寸大のゲルニカを見て、ピカソが評価されている理由、その魅力を理解できたように思った。
ゲルニカには画面いっぱいに動物たちと人間たちが描かれており、彼らはおなじ機能不全に陥っているように見える。その口は大きく開かれ何かを言っているようでいて、意味のある言葉を発することができない。また、目は見開かれているものの何かを見るということができていない。目が見えるのに目に映ったものが像を結ばない(=何も見えない)ように仕向けられているというのは、目が見えないこと以上に残酷な仕打ちだと感じさせる。なぜそうなるのかといえば、そこに全体を同時に脅かすほどの大きな脅威があるからだ。
人物画のなかには、絵に描かれた人物がこちら側を見返してきていると感じさせるほど、まなざす力のある作品もある。それらの作品を見ていると、絵画世界にとっても「あちら側(われわれからすればこちら側)」というものがあるということを絵の人物が知っているようにさえ思われてくる。それとは反対に、ゲルニカの人物たちは、あちら側というものにはまったく想像が及ばず、その可能性も奪われているように見える。動物はもともとその可能性を持たない(あるいはかなりの程度制限される)。生きるということを要素のひとつとして、しかもそれだけを俎上に載せる場合、動物と人間とのあいだのひとつの区分は失われる。われわれが絵を見るとき、絵の側から見返されることなど絶対にないと感じるとするなら、おそらくそれは許しがたい不均衡となる。たとえば、ぬいぐるみを見て、それに生命が宿るという想像が一切断たれているとすれば――私から見ればそれこそ「想像の世界」なのだが――、そこには何をもってしても埋められないほどの欠落があるとみなされる。その欠落はある種の精神性とは共存し得ないものだ。
苦しみの大きさのゆえに、そういった見る機能を奪われている人物や動物を、絵画作品としてこちらから一方的に見る羽目に陥っているという事態がゲルニカで起こっていることだ。見えるが何も見えていないというのは、想像も記憶もできないはずのことなのだが、私はそれを想像できるし、そういう記憶があるように感じられもする。
私は、私なりのスケールで、なにかに追い詰められた経験を持つ。そのとき、何も見えないまま虚空を見るように何も見ていなかったり、自分が何を言っているのかわからないままただ声を出していたり、とにかく狭いところに閉じ込められてじたばたしていたような感触だけが残っている。そうした感触が仲立ちとなって、本来であれば想像できないものを想像させるのだ。可能であるはずのものが不可能になることを表すというのは、不可能であるはずのものが可能になることを表すことと同じではなく、両者は異なる表現である。しかし見方を結果に寄せるのであればそれは「反転する」ということを表していて、ON/OFFのように切り替えられる内容となる。しかしON/OFFの操作が可能になること自体、外側からの視点を必要にするもので、もしOFF状態になれば、あらかじめそれを予期していたり、何かしら保険を打っておかないかぎり、ふたたびONへと戻ることはできない。その閉じ込められた状況を描いているのがゲルニカだ。
だいたい上のようなことを考えゲルニカを見ていたが、そういう目で見ると、絵の中に例外的な「目」が見えてきた。描かれたものの並びのなかに例外がひとつでもあれば(ゲルニカにおいてはこちらをあちら側として見る目がひとつでもあれば)、全体の印象がそこを起点にぐるりと回転してしまう。ゲルニカでは牛の目がその役割を果たしていた。見えているものがあるから見えていないものがある。見えているものがなければ見えていないという事態は意識にのぼってこない。それらは別々のものとして並立するかぎり、つねに比較の対象となる。動物たちと人間たちを並立させるのは人間たちに優位な部分もあれば、動物たちに優位な部分もあるということを示すためだ。認識能力が制限されていることによってスムーズに流れていく認識があるのだといえる。
絵のなかにあって、ある状況に立たされて、「見ているからどうだというのだ、見るから何だ」と言われると、答える言葉を失ってしまう。それに、絵の人物の口からほとばしり出たのは、うめき声ではなく誰かの名前や意味ある言葉だったかもしれない。考えれば考えるほど、想像しようとすればするほど、想像などできないという感じ方が強まっていく。限界はあっという間、すぐ先にある。想像することなど全然不可能だという感じが際限なく強まっていくなかで、ただ見ている牛の目は、それに蓋をするように働きかけるようだった。目の前に高精細8K映像としてある大きな絵に圧倒されながら、その絵をもう一度見てみようという励ましになった。それを見て何かを言う必要に迫られるわけではないし、牛がしているようにただ見てみようと思い、牛の目を見ることが、絵を見ようという意欲に変わるのを待った。

20220820

面接こわい

面接面談それに類するものがとにかく苦手だ。
通常の会話や対話であれば得意とは言わないまでも苦手ではない。
しかし、こちらが低い椅子に座り、向こうが高い椅子に座っている状態での対話、あるいは、こちらがひとりで向こうが多勢での話し合いとなると苦手だ。反対に、こちらが高い椅子で向こうが低い椅子、あるいはこちらが多勢で向こうが無勢での対話であれば苦手とは思わない。要するに自分が下風に立っている状況下での会話というものに苦手意識を持っているという話だ。
おそらく最初は誰だってそうで、プレッシャーに晒される経験をしつつ、ちょっとずつ面の皮を厚くしていくのだろう。自分はそういう経験を避けてきたからいつまでも(いまだに)苦手なままだ。とはいえ年齢を35まで重ねると、望んだわけでもないのに面の皮だけはきっちり厚くなっているようだ。実際にテーブルについて話すことはないと分かっているときには種々様々な多くのことについて全然屁とも思わない。かくして、順境では不遜、逆境にはとことん弱いという残念なメンタリティが醸成されていく。さらに恐ろしいことには、まあそんなものだろうという開き直りが今までよりもスムーズに展開できるようになっている。伊達に35年間生きてはいない。
しかし、実際困るのは、面接面談の機会が自分の生活から消滅しないことである。
この前も、面談の必要があって、面談を行なった。近頃の面談は対面式ではなくインターネットを通したリモートでの遠隔式が多く行われ、今回行なった面談も遠隔式であった。画面越しのやり取りとなるリモート面談では、体感で五割ほど緊張が緩和される。仔細に見れば、ピーク時の緊張はほとんど従来どおりなのだが、その時間は短い。また、対面式に起こりうる「緊張の助走」がないことで、ピークそのものも下降傾向にあるといえるかもしれない。
こういった追い風を背にして、いまだに緊張するのはなぜなのか。なぜなのかと問いかけながらそれを解き明かす気持ちはまるでないのだが、何かがおかしい、おかしいはずだという確信めいた思いがある。ただ、それをつかんで観察しようという気が起きずに、いつまでも恐怖心相当の扱いをするのが常である。喉元過ぎれば熱さを忘れる式の知恵が充分に発達しているため、やおら持ち直しては、すぐ寝て忘れてしまう。この痛い経験を反省材料として次に活かすということがない。

それでも「成長」したなと自分事ながら思うのは、面談に際して事前に準備をするようになったことだ。20代のときには面談が嫌すぎて、将来確実に起きる面談という事実をできるかぎり無いものとして過ごそうと決意していた。ああ言えばこう言うという想定問答も独り相撲じみて馬鹿らしいと思っていたし、嫌な出来事にかける時間は少なければ少ないほど良いという信念があった。将来確実に起こることであっても、今この時点では起きていないわけだし、気を紛らわすための方策はいくらでもあると思っていた。そして、気を紛らわすことは実際にできた。その時から好きなお酒はあったし、良い友人たちもいたからだ。
今は楽しいとき以外のお酒を飲まないようにしている。そして気のおけない友人の数はがくんと減った。だから、面談を明日に控えた夜などには、考えたくない面談のことなんかをつい考えてしまう。それでもできるだけ考えたくないと考え、さして見たくもない動画を見るのだけれど、さして見たくもない動画なだけあって集中して見ることにもならず、ややもするとまた明日のことを考えてしまう……。
ただ、何度も緊張していると緊張にも特徴があることがだんだんわかってくる。そのひとつに、自分より緊張しているように見える人がいると緊張が和らぐというものがある。受け答えができていない人がいて、自分はそれよりはマシだと思えると、驚くほど気が楽になる。覚えのある人もいるだろう。

その日、囲碁の最年少プロが誕生したというニュースが流れてきた。電話でその話を何気なくすると、受話口から「そのニュース知ってる。記者会見でぜんぜん喋れていなかった。小学3年生だとちょうど喋れる子と喋れない子で二分される時期だね」という情報が漏れてきた。自分は通話を切るとそのまま記者会見の動画を検索して、10分31秒ある長めのダイジェスト版の動画を見た。考えないでも答えられるような簡単な質問にもたっぷり時間をかけ、ほとんどマイクでも拾えないほどのか細い声で短い返事をするだけの動画だったが、そのときに自分が見たかったものがまさにそれだった。
今回の面談は、小学3年生の最年少囲碁棋士のおかげもあり、おもに精神面で入念な準備ができた。見も知らない人から良い影響を受けられること、見も知らない人に思いがけず勇気を与えることもあること、この世界では他人に影響を与えあって生きていけるということは、それだけで素晴らしいことだ。人のふり見て我がふり直せというときの「人」というのは、必ずしもネガティブな役回りだけを含意するとは思われない。この言葉における人と我というのは、人同士のつながりにおけるバリエーション(多様性のひとつであり、今回の件で自分はその紐帯をたしかに実感した。
しかし、いくら精神面では万全だと思っていても、面談で言うことがはっきりしていなければ、その付け焼き刃は脆くも剥がれ落ちる。つぎは精神面の準備とあわせて、それ以外の準備もやってみようかという気になった。

20220813

海の思い出

東京に住み始めたのは秋だった。それから季節が三回めぐり、夏がくるたび気持ちは自然と海に向いた。海なし県で生まれ育ったから、今でも海を見るとテンションが上がる。小田急線一本で江ノ島に行けるというアクセスの良さは、それまでにはなかった海との距離感だ。自宅アパートからはじめて海を見に行ったとき、これはいい、毎週海に行こうなどと思ったものだ。
実際の頻度は年に2,3回というところに落ち着いたのだが、それでも行こうと思えば行ける距離に海があるという感覚はこれまでにはない解放感を夏にもたらした。水道水の蛇口の横にビールサーバーのコックを附設したとは言わないまでも、それに近いブレイクスルーが生活に導入された感があった。
海は見て良い。水平線の単純さと波のかたちの複雑さを交互に見ていればそれだけで満足できる。水平線は心に思い浮かべやすいから、本物を見ないでも満足できそうなものだが、視界に入り切らない水平線を目の前に配置すると、そこにはやはり写真で見るのとは違った感覚が入り込む。逆にいえば、青色が視界を埋め尽くすときの強い印象を抜きに「海を見た」とは言いづらい。
そして波は単調さが良い。ちがう形のバリエーションを何度も繰り返す。ひとかたまりの水が順に押し寄せてきてしかも尽きることのないという感触が、ある種の催眠状態へと誘いこむ。いろいろのことは終わるし、いろいろの中には私を取り巻くすべてが含まれているから、余計な気をもむ必要はないと思わせておきながら、同時に、延々と続く単調なリズムは「終わらない」というメッセージをも発信していて、終わったとしてもべつに終わったりはしないんじゃないかという、言葉にしてみると奇妙な、おかしな気分を持ってくる。
砂浜に寝転がって目を閉じればわかることだが、波の音というのは思っていたよりずっと大きい。海は聞いて良い。
海はひとりで行っても、友達と行っても楽しいが、ひとりで行くほうが海が持ってくる感覚に集中しやすい。ひとりと行くときと誰かと行くときにはコンサートと音楽バーぐらいの違いがある。友達や恋人と行く場合、海は贅沢なBGMやとっておきの背景になる。

この夏、友人と海に入った。私から見ると彼は、海そのものというより海という概念に興味があるように見える。「夏、海に行った」という事実を得たいだけ、と言うのは言い過ぎかもしれないが、絵日記の宿題のためにそれをやらないといけないと思っていて、しかも絵日記を書かないままでいるのが彼だ。そして十中八九言い過ぎではない。砂浜の感触、波のかたちといった海浜で生じる具体的な現象に注意を払っている様子はない。夏だから「海に行く」をしたいという骨筋張った経験主義者に見える。たとえば、私が黙って海を見て楽しもうとしても、いつもの日常の話、電車で1時間半かけて来た場所でいちいちしないでもいいような話をしかけてくる。とりわけ閉口するのは、つまらない質問を次から次にしかけてくることだ。頭を一切使わない発話として質問をされると、こちらでその答えを持っていない場合には、自分の中で展開している思考を止めて、その質問のことを考えなければならなくなる。そもそも「自分の中で展開している思考」などといっても、取り出してみれば海を見て浮かんでくるとりとめもない感想の類でしかないから、取り出して「話題」にするには弱い。だから黙って海を見ているのだ。ただ話題としては弱くても、インナーワールドでは重要なことでもあり、海という特殊な環境ががもたらした感想だから大事にもしたいのだが、それを中断させてくる。たんに無視して済ませるのもむずかしいから、つい釣りこまれて「このあたりを歩いている人は年収いくらぐらいだろうか」とか「土産物屋で浮き輪を買ったらいくらになるだろうか」「ドンキで買ったらいくらぐらい安くなるだろうか」といった話に付き合わされることになる。そういう質問につきあわされていると、この人には海を見て思い浮かべることが何もないのだと判断して問題ないだろう。
この友人とは大学来の付き合いだが、近頃はお金に関する話が増えている。思い返してみれば、当時からシビアな出金管理をしており、今にして思えば、心に占めるお金の割合が昔から多かったのだろうと推測されるが、その頃は私たちふたりとも全然お金がなかったから、お金の話をしようにも「どこどこの居酒屋が安い」とか「レンタルショップで100円セールがはじまった」とかそういう話にしかならなかった。今はアルバイトをしていない大学生よりは所持金が増えたこともあって、具体的なお金の話ができるようになったこともあって、面白くもないお金の話を毎度展開されるようになった。自分としては、お金は嫌いではないし、もしたくさんのお金を作れる身分であれば、お金の話も面白くなってくるのかもしれないが、そんな実績も展望もないのでお金の話は楽しくない。そんな実績も展望もない身空で、よくも得々と、飽きもせずにお金の話を続けられるものだと感心する。また、上記に付随して彼の口から「客として金を払っているのだからこういうことはやめてほしい/このぐらいはやってほしい」という大学時代には決して聞かなかった台詞が聞かれるようになった。これは切なくもある。
私は、わざわざ1時間半をかけて海に来てまでやるほど「お金の話」に興味を持てない。そして考えてみるとおそらく、彼もそこまでつよくお金の話に興味があるわけではないだろう。ただ、それ以外のことに興味を向けることができないだけなのだと思う。目の前に海があっても、概念としての「海」に用があるだけで、それを仔細に見つめてみるという発想もなく、海に行ったらやると決めていた「浮き輪で波に揺られる」を実行に移そうということ以上の思惑がないのだろう。だから、いわば退屈しのぎで頭に浮かんだことを考えなしに口に出し、それが正真正銘・真正直なだけに「このあたりを歩いている人はいくらぐらいの年収だろうか」という台詞となって飛び出してくることになるのだ。
しかし、そんな彼とても、七里ヶ浜のビーチに到着し、いつもより高く波打つ海を目の前にしては否応もなしに興味が海そのものに引きつけられた。それを証拠に、背負っていたリュックをブロック塀のところに放り出すが早いか、前々回の海水浴の反省として防水仕様に買い替えたスマートフォンを手に持ったまま海の中に踊りこんだ。くだらない会話内容に比べ、この反応はまったく正しい。海は入って良い。
この日の海はサーファーにとっては好適だろうと思われるやや荒れ模様の波で、太平洋を北上してくる台風のせいか、六波にひと波は首まで届くほどの高さの波がきていた。そして事件は起こった。
海に入って5分も立たないうちに、彼が不安げに「(水着の)ポケットからスマートフォンが落ちそう」と口走ったその次か、つぎの次の波に揉まれた直後、「スマホ落とした!」という叫び声が上がった。夢中になって足元を探すも、スマートフォンが見つかりそうな気配もなく、前かがみになって必死で探すうちにかけていたメガネまでもが波にさらわれていった。すべてはあっという間の出来事だった。それから小一時間、途中少しだけ雨も降る中、波に洗われながら、強い波で浜まで何度も押し戻されながら、極端に弱くなった視力で、足の感触なども駆使しつつ探したものの、結局、スマートフォンもメガネも見つからなかった。
ポケットから落としたスマホが流された瞬間から七里ヶ浜をあとにするまで、彼は諦めずに失くしたものを探し続けた。そのひたむきな姿を見て、私はひさしぶりに腰砕けになった。とくに、連鎖的にメガネを失くした瞬間には、身も世もないほど転げ回り、笑いすぎたせいなのか何故か背中が痛くなったほどだ。雨が降ってきて周囲の人影がそそくさとビーチから引き上げていくなか、雨など物ともせず遮二無二探し続けるその姿には鬼気迫るものが感じられたし、不可能を可能にしてみせるというミラクルメーカーの面持ちをその背中にみた。彼の背中は「見つかるに決まっているさ」と、常よりは言葉少なながらも雄弁に語っていた。
不可能を可能にするんだという心意気は、ときに誰かの心を打つ。波を全身で受け止めるという、海を相手にした極上の遊びをしていると見られたのか、砂浜を歩きすぎる二人組の女から「楽しそう、いいな」という詠嘆さえ引き出した。砂浜に寝転びながらその声を聞いていた私は、こみ上げてくる笑いをこみ上げるままに任せ、その余勢を借りて起き上がった。視界一面にグレーの水平線、そして、さっき見たのとまったく同じ場所で、正面切って波に立ち向かう小さな男の姿が目に飛び込んできた。賽の河原の石積みは、概念としては耐えがたい苦痛だが、誰かが実際にやっているのを見ると、それとはまた違う感慨がわくものだ。感心するというのもある。可笑しいのも当然ある。哀しいというのも含まれる。それらが渾然一体となって現実に具象している。あるいは、因果を入れ替えて、現実に具象しているから渾然一体となって感じられると言ってもいい。

水平線と小さな背中とが作り出す鮮やかなコントラストは、海だけではどうしても作り出せない、この夏特有の美しい景色だった。海にはほとんどすべてがあるが、ユーモアだけは足りていなかったんだなという発見があった。

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20220802

日記32

昨日

引っ越し後の家が引越し前には想像できなかったほど快適でとても暮らしやすい。家賃5万円の最初の部屋からすると3倍以上の過ごしやすさは悠にある。ともすると受け取りきれないほどの満足感が実際に目の前にあり、この暮らしを噛み締めていなければもったいないという気がつよくする。この半年間で社会的なものもそうではないものもふくめ様々な事件があり、現実感が「希薄になる」というより「揺さぶられて輪郭が二重に見える」ようになったのだが、引っ越してからの生活は、そういった現実感覚のブレ・まとまりのなさの「仕上げのイチゴ」のように思われる。私の現実感覚は、私にとっての現実を反映したものに違いないが、現実と現実のイメージがこうまで乖離すると、現実というのは大体こういうものだとする自分の見識の乏しさが露呈したということになる。まあ私はもともと現実についてほぼ無定見にちかいというか、あんまり自信がない領域だというくらいの認識はあるのだが、それにしても全然駄目だったということが明らかになった。あるいは、よく言われるように「現実とは想像を超えるものだ」ということを示しているだけなのかもしれない。この齟齬について自分の方に原因があるとするのは、見る人が見ればそれだけで夜郎自大の気味があるともいえる。

東京に引っ越してきた直後にも現実感のなさはあった。旅行感覚が続いているような。しかし、旅行感覚は2年ぐらい経つと完全になくなった。それでも現実感のなさは続いている。最初の現実感のなさと別物になっているから、同じ現実感のなさとして処理するのが適当ではないけれど、現実はひとつしかないのだから現実感も正しいそれが一個あるだけというイメージに基づいて、それとの乖離感覚が継続している。大体このへんにあるにちがいないという見当をつけた場所を離れず、周囲をぐるぐる回っているだけ?

現実にも現実感にもそれなりに距離を置いている感じで冷淡に接している気がしているが、「現実感のなさ」という観念については好物と言っていい。

小説『ゴジラSP』を読み終わった。アニメの補完になっているのは脇にいる人物の語りで、そこがとくに面白かった。読んでいると、ある登場人物について、当人のポジション・視野からきちんと考えていてしかも賢いと思わされることがあった。皆それぞれ自分自身の限界を把握したうえで発言したり行動したりしている。ナラタケシリーズ・特異点の語りについては”SF的想像力”の駆使というか、ラボ環境での操作という感じでノイズが少ない分、書きやすい(読ませやすい)のかもしれない。「はじまり」と「終わり」が決まっていてその経路を辿るように構成するというのは(難易度や納得度を棚に上げれば)できないことではない。その場合、「それしかできない」ということにしてしまえば、「それしかできない=だからそうなる」となって、「そうなる」ことになる。「そうなる」以上、納得しない余地がない。

「そうなる」ことに影響を受けつつも、それとは本質的に関係ないところで持ち上がる思考のほうに興味をおぼえる。不条理だけをならべても不条理は成立しないというのは、条理に合うことを不条理の隣に並置するということ以上に、条理−不条理とは関係ないものが要請されるという意味だ。能力・機能外の領域がなければ物語は立ち上がらない。

JJが消失する前に言っていたことはアニメのほうで描かれている。会話でのやり取りは、発せられた言葉に対しての現場における最適解以上のものにはなりえない。それによって作られたとりあえずの流れに沿って新たな言葉が導かれるということは起こるが、そうなるともともとの言葉の意味は立ち消えて、その時の暫定版解釈がとりあえずの決定版になる。後々ちょっと引き返してみたい気がして、頭の中で実際に引き返してみて会話の流れを想像するとき、本意とその時点で感じられる別の解釈が生まれるかもしれないし、有耶無耶で不確かな与太話めいた妄想に終止するかもしれない。いずれにせよ、これ以上考えても仕方がないとその都度思い、考えるのをやめては、またふとしたきっかけでそのことを思い出し、考えても仕方がないと思うところまで考えてみて、何かに近づいている感覚を得られたり得られなかったりする、ということができる。

「消失する」というのはそれ自体ドラマチックなアクションだが、それを物語の頂点におかないやり方が自分にとっては好ましい。消失とは無関係に、日常にどっぷり浸かっている状況で発せられる言葉のほうに多くヒントが隠されているという構造を自分の書く小説内にも作りたい。冗長性を高めるための足し算というのは方法だが、それを目的にして何かを書くと、その意図が透けて見えて余計に中身が目減りしてしまうおそれがあるので、感情やアクションを積み重ねていきながら、能うかぎり大きなスケールの模様を描きたい。そのためにタテとヨコの瞬間移動を自在に扱うという意識をもつ。

『モガンボ』を見る。ジョン・フォード作品を2,3本見た上でこれを見て面白さが感じられないならジョン・フォードは捨ててしまってかまわない。そう言い切れるぐらいには面白い映画だった。あんなふうに悔しがったり転んだりするのは、絶妙にキラキラしていて、でも目を背けるほどには眩しくなくて、しかるべき距離は保たれているしとにかく魅力的だ。

モガンボについて検索すると、何でも「紅塵」のリメイクらしいということを知る。ちょっとした符合だけど面白い。


今日

渋谷で11時から『俺は善人だ』を見る。よく似た二人を一人二役で演じるのはいくつか見たことがあるけど、このモチーフに振り回されたりせず、さすがうまく取り扱っていると感じた。仕掛けにさしかかるまでの前段の見せ方も良くて、仕掛けの場面が引き立っていた。『モガンボ』も映画館で見たくなったので19時半の回のチケットを買う。

蕎麦を食ってから下北沢に戻って図書館でレンタル予約した『大いなる不満』を受け取りに行く。『ロウカの発見』は、「科学」と「物語的なものの見方」との関わり方についての風刺画で、主体を個人ではなく集団においているあたりもよくできている。

ジョン・フォードは夏以降あまり見なくなった。が、のちに『フェイブルマンズ』を見たときに「あれがあのJF!」と感じ入ることができるだけの素養をこのときに得ることができて幸運だった。

この時期SFを読んでいるのは何かを得たいと思ってうろついている感じだ。自分の書くものはSFになるのではないかという思いがあった。しかし、書くものについて設定に制限を受けたくないという理由でSFに近づいただけで、SFに対して特別志向があったわけではない。今書いているものもとくにSFではないはず。

20220726

日記31

昨日
吉祥寺の家を引き払って、下北沢の新居に引っ越しをする。引越し業者を雇ってする引っ越しは初めてだったのだが、彼らのテキパキした動きは芸術点が付けられるほどで、プロだなあと感心した。攻撃は最大の防御というか、一気呵成に仕事を終わらせることで素人であるこちらに口を挟ませないのも理にかなっている。ツーマンセルは嵐のように来て嵐のように帰っていった。12時過ぎから荷解きに取り掛かって一日掛かりで吉祥寺分の段ボールはなんとか消化する。かなり捨てたのにも関わらず服が、有り余る服が置き場を探して70Lポリ袋2袋分、とりあえずの配置に取り残されている。新居は以前に比べると広くて収納も多い家なのだが、当然無尽蔵の収納というわけではなく、素人考え丸出しの「とりあえず」で運んでもらった物たちをもっと捨てる必要が出ている。作業を切りの良いところで切り上げ、近所のスーパーまいばすけっとで晩飯とビールを買いに出る。引っ越し蕎麦を食べビールを飲んで引っ越しを祝う。
吉祥寺に住む前にも下北沢に住んでいたため、下北沢にはすぐの帰還ということになった。吉祥寺時間はおよそ1年半しか経っていないが、「吉祥寺」はある程度見て大体満足した。強いて言うなら、位置的にも井の頭公園至近だったため、とくに冬の夜の井の頭公園散歩で感じられる良さが惜しまれる。ふらっと散歩に出かけるときに行き先など何も考えないでも井の頭公園を1周しながら足の向くほうに適当に歩けばいいのは、漫然とする散歩の一番の楽しみで、これからする散歩のお手本にもなるだろう。
下北沢の良いところは、とにかく新宿渋谷に近いことなのだが(最初に東京暮らしで選んだのもそれが理由だった)、前回住んだ経験から言うと景観に優れているというのも大きい。駅前の施設は前回住んでいる最中にもどんどん新しく小綺麗になっていったし、さかんな再開発のエネルギーを感じる。この頃は緑道整備までされてきて、いよいよ仕上げの段階かと思われる。しかし景観の一番は、おしゃれをした人が多く遊びに来ることで、色んなタイプのスタイルやファッションで目を楽しませてくれる。ファッション誌のストリートスナップを地で行くような格好良い人に出くわすのが日常的になると、なにか自分まで格好良くおしゃれになったという錯覚が手に入る。これは他のどの場所にもない下北沢の良さである。

20220724

日記30

昨日

コピスの6Fジュンク堂書店で『ゴジラS.P』を買う。PARCOの1Fシティベーカリーで買った本を読む。

面白い小説というのは、自分が読める小説の範囲内にしかない。外国語で書かれていたり、古語で書かれている文章作品について、翻訳を通してしか読むことができないというのもそうだが、もし自分が文学にまったくの不案内で知的好奇心にも欠けており、読める小説の範囲内で本を選んで満足する本好きだったとすると、文学の正統とされるものや古典的名作とされる作品を素通りして平気だったのだろう。今、芥川賞作家の作品や直木賞作家の作品、本屋で売れているとされるジャンルの小説をスルーしても何の痛痒も感じないのとまったく同じように。

それらがべつのことであり、自分の読んでいないものではなく自分が読んでいて多くの人が読んでいないものの方に読むべきものがあると主張するには、それが古典的名作だから、有名な文学作品だからという理由だけで押していくのは無理がある。それは権威主義ではないかと言われて終わりだ。

しかし、他の言い方はとくに思いつかない。自分が言うとしたら次のようになる。

小説を読んでいるということは、あなたもいつか小説を書くということなのだからそのときの自分の役に立つように、いまの自分自身の外にあるものを探しに行くように習慣づけたほうがいい。

これについては、いいや、私は小説を書く気もないし、いつか小説を書こうという気を起こすこともないと返されて終わりだ。しかし、自分としてはその意見というか言い草には異議を唱える。それは、その人の言う私は小説を書くことはないという意見について、嘘をついているにちがいないと言いたいのではない。そんなふうに上から下に落ちていくように小説を読んで、何が楽しいのだと糾弾したいような気になるのだ。本当には小説を書かないでもいいが、いくらかは自分が小説を書くということを考えないでいて、あなたの人生に小説が必要だということの意味が私にはわからない。たしかに、「書ける/書けない」の問題が「書きたい」の先にある。それにしても「書きたい、だけど書けない」と思っているほうが潔いのではないか。諦めたままで小説を読むことの居心地の悪さを小説を読むことに感じないで、小説が読めるとは思えない。そんな体たらくでも読める小説を読みたいというのであれば、私はそんな小説は、というかそんな読書はつまらないと思う。それは私が現在売れている小説を読まない理由とはちがう。

海を見に行く前日、ピンチョンの『V.』を読み返した。小説全体の中でもとくに目立つ場面というわけでもなく、何ということもないシーンなのだが、スケールの大きさと細やかさの両方があった。ある人物の目線から主要人物の動向が語られるのだが、その人物の物語に対する役割とはまったく関係ないところに彼の生きる世界がある。章の中の一節にしか登場しない人物でありながら、そこだけを読んだとしたら、まぎれもなく彼がこの小説全体の主人公だと感じられる。チョイ役に目鼻をつけて台詞も与えてやるというレベルの話ではなく、これから彼の冒険が始まるのだと思わせられるように書かれている。だが、じつのところ、その場面というのはふたりいる主人公の片割れがいつか誰かの話を聞いて再構成した昔話を思い出しているいわば妄想シーンでしかない。Vの秘密に迫るため、何らかの重要な役割を担っていると考えられている女性と関係している男二人をただ見かけただけの列車の客室係の目線で、男二人の異常さ・冷徹さを描くというのが、この場面の小説内での位置づけということになろうかと思う。

そこにグローバルな視座とそれによるスケール感も乗っかってくるから、本当に敵わないと思わさせられる。しかし、このあたりは非常によく書かれているとはいえ、ある程度勢いで書き飛ばしていると考えることもできる。たとえば『ヴァインランド』では日本人のタケシフミモタが登場するが、それは日本人のイメージとぴったり一致するような登場人物ではない。もちろん、彼も活き活きとして活躍するから、そんなイメージとの一致がないからといってそれがどうしたということでしかないのだが、地中海の多様な民族がまじわる土地のダイナミズムを見せられ、その知らない世界を活き活きと描いているからといって、正確さを含めたすべてのバロメータが途轍もなく高度であるというのは目を瞑ってバンザイするようなものだ。

小説を書き始めてからあらためて読み始めた『V.』は面白すぎる。再再読だから、初読・再読時よりも細かいところに気がつくようになって、よりその面白さを掴めるようになってきたというのもあるだろうが、自分の小説を書いているとピンチョンの書きぶりの特徴がわかる。これはどの作家の作品についても言えることだろうと思うのだが、それにしてもピンチョンの場面の飛ばし方はすごい。一回で全部が入ってこないのだから考えようによっては説明不足だといえると思うのだが、何かを説明している余裕などないのだろう。そもそも数回読めばわかるようになっているのだから説明不足ではなく、たんに読む側の認識・認知能力の不足でしかない。これに関しては数回読み返して補っていくしかない。


家の前の蒙古タンメン中本で五目蒙古タンメンを食べる。ちょうどギリギリの辛さで汗が吹き出たけれど、辛いだけではなくちゃんと美味しかった。15時半ごろから家でSwitchのボードゲームをして遊ぶ。ウィングスパンで一敗地に塗れ、メンバーが増え三人になってから再度海底探検、エセ芸術家で遊ぶ。最後に締めのドブルで勝ちを収め、会がお開きになる。

引っ越しを二日後に控えていたので、遊びながらも準備を着々と進め、大方済む。

このときはわりとよく集まって遊んでいたが最近はTCBのメンバーが揃うことも少なくなって若干の寂しさがある。


今日

近所の町中華「龍明楼」で豚バラチャーハンを食べる。ここは気軽に行けて良い店だった。在宅勤務の折にはワンコインの弁当にだいぶお世話になった。下北沢の新居の鍵を受け取り、アースレッドプロαの蒸散のため新居に行く。エキウエのスタバで本を読んで、吉祥寺に帰る。1年半ほど吉祥寺に帰る生活を続けたが、結局コロナ騒動の最中に引っ越してきてコロナ騒動の最中に引っ越していくことになった。前半はとくに飲み屋などの開拓がろくにできず、ポテンシャルのいち部分しか楽しめなかったのは残念だったが、電車に乗らないでも全部が解決できる便利さは便利だけど、やはり街全体は郊外の域を出ない。それを象徴するのが駅前のバスで、とくに公園口のバスの動線の酷さがいかにも郊外然としており、著しく街の格調を下げている。せっかく井の頭公園があるのに、公園に行くまでの道があんな体たらくになっているのは相当マイナスが大きいということに街作り担当は気がつかないものだろうか。吉祥寺に住むために駅徒歩30分の場所を選ぶ人の足としてバスの輸送力が欠かせないんだとしても、あの狭い道をバスが通るのと、安全確保のために警備員が拡声器の大音量で注意を促す景観は、控えめに言っても前時代的で、みっともいいものではない。

吉祥寺は二流の街であるというのが一年半ほど住んで出した結論だ。一流の街になるためには駅前のバス動線の醜さを解消する必要がある。新宿渋谷まで20分足らずで行けるアクセスと井の頭公園を持ちつつ一流になれないということの意味を重く受け止める必要がある。公民館も各所に点在していてよかった。図書館も街なかにあって利便性が高い。それにもかかわらず一流になれないのは、駅前のバスがいらぬ混雑を生んでおり、通行人をみっともない気持ちにさせるからだ。

20220723

日記29

昨日

市政センターに行き転出届を出す。香港風麻辣麺のファーストフード店で4小辛のラーメンを食べる。

その足で下北沢に移動し、スタバで『失われた時を求めて』を読む。円城塔の『ゴジラSP』が本屋に置いてあれば買って読みたかったのだが、二店舗回って見つからなかった。

永原真夏のワンマンライブを見るため、開場時間の19時ジャストにSHELTERに入る。MCで「無駄について考えている」と述べ、メンバーに対し「無駄だと思うものは何かないか」と話を振っていたのが気になって、その後の二曲のあいだじゅう「無駄」と言われてピンとくる答えを探し続けてしまった。ベスト回答は「2000円札」、挑戦したい回答は「16進数」というところに落ち着き、次の曲からはふたたび曲に集中することができた。ちなみにその曲が本構成のラストだった(その後アンコールでたしか4曲か5曲追加で歌ってくれた)。

ライブを見に来ていた友人らと下北の居酒屋に行って酒を飲み、電車で吉祥寺に戻って井の頭公園を散歩した。

永原真夏の歌は「そうだよなあ」という共感をもって聞ける。ただ聞く自分の側が少しずつ変化して図々しくなり、今では「そうだよな」が行き過ぎて当たり前のように感じられるようになってきた。たとえば「遊んで生きよう」に対しては、生きることがすでに遊ぶことだという認識でいるから、遊んで生きようと聞くと自分の中では「生きて生きよう」に変換されてしまう。ただ、この規模感のトートロジーはいつ聞いても可笑しくて楽しくなる。あと「泣いたり笑ったりできるんだよ」については、こっちも進み具合は同様だが、上のような言ってしまえば雑念は湧かないで、ストレートに共感して共振する。とはいえどっちの体験がどうというのはないし、永原真夏がMCでうまいこと言えないでいた「いわゆる”良い曲”だけが曲じゃない」というのはそのとおりだと思う。良いという言葉遣いをしてしまうとすでに罠にはまっていて[良い/わるい]の二分法にどうしても引っ張られるので、べつの言い方を工夫するべきだとは思うが、それでもじゅうぶんに意図を汲み取れる場の力学があった。そういう場をステージとして作り上げられること自体がすでに達成であるし、そもそも「フィーリング」が伝わっているという事実があるので、うまいこと言えないなんていうのは些末なことにすぎない。

自分が辿りつつある線の軌道を確認するために永原真夏のライブを見に行くというのは私にとってはかなり有用だ。貼された点ではなく不断に引かれつつある線として見られるから、こちらの線との比較や定位がより精確になるという気がする。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...