20240616

消去法スマート、あるいは短くて重い杖

最近、スマートという言葉に興味がある。電話というツールがスーパースマートになって久しいが、それにともなって、扱う側の人間もそれなりにスマートを進化させている。そして、状況の変化のなかでスマートの定義そのものも少しずつだが確実に変化していっているはずだ。
……はずなのだが、大きな船に乗っていると乗員である自分もつねに動いているという事実に気がつかないように、時間の経過による緩やかな変化には気がつきにくいものだから、スマートの定義やそれ以外のものとの位置関係も変化しているものの自分たちでは変化に気が付きにくいということが起こっているように思われる。その変化に興味がある。
今のスマートと以前のスマート、両者の変化したところと変化していないところ、それらのスマートとその関係に興味がある。ここでの「変化していない」というところも、スマート概念からすると普遍的で、だから変化していないといえるものもあれば、十年の時間単位では変化が見えないけれど百年単位で見れば変化しているというものもあるだろう。
人類が誕生してからしばらく経つと、腕っぷしという意味での力に加えて、「賢さ」が重視されるようになった。時代や環境によっては力によって賢さが無力化されることがあったが、それはあくまでも例外的な一時期、限られた環境下のことであり、基本的に賢さは重要な指標であり続けた。ようするに賢さという価値が発生してから、人類は一度もその価値を手放していない。それはホモ・サピエンス(=賢い人)という呼称にも表れているし、自分以外の他人にどう思われたいかという個人の思惑にも表れている。
後者は前者ほど歴然と表れていないが、人間がアーカイブとして残ろうとするときに起こる自然淘汰において、もっとも重要な指標となるのが「いかに賢いか」ということであるのは明らかだ。歴史を学ぶことが常識になっている今、賢さという価値についてまったく知らず、あくまで無謬であるとする姿勢を維持することは簡単なことではない。そもそもそういったスタンスを選ぶということにも賢さは存しなければ済まないというわけだ。
だが、現実には資質や環境の問題もあるから、そういったことを考えない人たちが存在しなかったというわけではない。どの時代にも賢さについて興味関心をもたない人はいただろうし、それは多数派でさえあっただろう。ただし、現在時からみて千年前の多数派は存在しないも同然、というのは言いすぎであるにしても、不可視でかぎりなく透明な存在であることは疑えない。
名も知れない賢人が千年前にもおそらくいたのだろうと想像することはあっても、名も知れないただの人がいたのだろうと想像することはない。そう想像する機会が少ないのは、そういった想像をする人の賢さが、自分に似た境遇のだれかを想像しようとし、つまりあり得たかもしれない自分を想像するにおいて、暗々裏に賢い人(社会に馴染みきれない・社会を不完全な乗り物とみなす)を想像するだろうからだ。考えるものは自らを賢いものとみなす。無知の知を問いたソクラテスにしても(そして彼の発言をフォローする無数の人たちも)、知について譲歩することでその奥にある知を得ようとしたわけで、賢さを放棄したわけではない。謙遜して自分は賢くないというものがしていることといえば、目の前のリンゴを齧らないだけの賢明さが自分にはあるという主張にすぎない。物事を客観的に見ていますよという宣伝だ。
しかし「賢さ」というのがむき出しの概念であるということは言えて、直接に「賢さ」に言及することがかえって賢さから遠ざかるという段階が出現する。ただし、これは賢さを指標にすることをやめるという話ではない。その指標をやめるように見せて、実際には隠しパラメータにするだけの話だ。これは本質的にペテンであって目くらましにすぎない。自分より愚かな人間に対してのみ有効なやり方で、賢さという長いスパンの考えにおいて有効となるものではない。有効期限が自分自身の人生をすっぽり覆うために、個人としてこのやり方を選ぶというのは合理的な選択だといえるかもしれないが、現在から見て錬金術がまったくのナンセンスに感じられるように、十分考慮を経たうえで判断するなら(今の常識で考えれば)、ただのナンセンスでしかない。賢さを秘蹟であったり魔術的なものであるとするのは、手品師の手品のようなものだ。ネタの割れた手品を見て喜ぶものは誰もいない。
それとはやや違う、しかし似たケースとして、賢さ以外のものに価値を置くという考えが台頭する。賢さ以外のものとして「愛」というものを発明し、それに殉じるという姿勢だ。これは個人として限られた生を前提とする立場からは賢い選択だといえる。「それがあれば生きられる」という杖を手にするやり方で、現在時からは存在の見えない多数派も、じつは生まれてから死ぬまでのあいだに銘々でこの杖を手に入れて、それを握りしめて死んでいったのだと考えられる。それは個人の選択として、たとえそれしか道がなかったとしても、十分に賢い選択だと考えられる。この選択によって、過去の多くの人たち(そして存在しない未来の多くの人たち)、本来は不可視の存在である彼らと精神的なつながりを持つことができる。たしかにこれは必要十分な利点であるのかもしれず、同じ杖を持っているという標(しるし)が、透明で見えないはずのものを感じ取らせるよすがになる。その世界観は現実における確かな支えになる。

自分には賢さに逆行したいという思いがある。そもそもの前提に異議を唱えるためには賢さを捨てる必要があると思うからだ。しかし、逆行するのはともかくとして、捨てるということはむずかしい。じつは試したこともないのだが、どこまで行っても「本当の意味での賢さ」という考えから抜け出せないという気がする。
しかも、杖から目を離すこともできないと思う。手に取ろうとしないのにもかかわらず、つねに視界の中には入れておきたい、選択肢として可能性を残しておきたいという思いが離れない。これは臆病からというよりは自分の思う「賢さ」からそうしているつもりでいる。
どこまで賢くなれるのかという自分自身に向けた問いは、賢いという価値がどういった形式・内容にまで変化していくのかという問いに置き換えられる。社会のスマートが変化していくのを尻目に、部分的にはそれに逆行し、べつの部分では順行するかたちで、独自のスマート観を進化させることで、結果的に幅を持たせたいというのが現在のところの漠然とした展望である。
また、幅という観点からは、賢さを重要な指標にしていない存在にとっての賢さにも興味がある。自分以外のもの、外側からの視点を取り入れるために、「賢さ」がいろいろある指標のなかの一要素にすぎないという考えを想像して、それを自分の在り方の参考にしてみたい。

20240615

日記398

ライブ映画をライブで

2024/06/14 昨日
金曜日は仕事をしていても気持ちが軽い。案件の並列処理が重なってきたのでそれなりに忙しくなりそう。しかもチームメンバーがひとり退場するとの発表があった。その人はわりと残業対応が多かったので、単純に考えると仕事のボリュームがそのまま降りてくることになるはずなので若干気が重い。一月か二月に入場させて六月に退場させるというのは管理体制の杜撰さというか計画性のなさでしかないので、どう考えてもその割りを食っている。非正規社員に対しては普通にそういうことをしてくる会社だということをあらためて認識したうえで、振られた仕事はきっちりこなすというスタンスを取るべきだと思った。無駄に顔色を伺ったり、必要以上にいい仕事をしようと息巻いたり、身を入れても働いても仕方がない。
そんななか、安全上のリスク管理をする新ルールをうっすら破ろうとする打ち合わせに参加することになった。「まあルールは大事だけれど経費やスケジュールの問題があるし、ね?」みたいな”現場の”考え方があり、新人としてそういう機微に気づいていないふりをしつつルール準拠のフローを押したが、良い人たちにじっとり説得されそうになった。結局その場では方針についての結論が出ず、上長に相談しようということになって打ち合わせが終わったのだが、上長との打ち合わせでは上長から「とはいえルール遵守は鉄則だ」という話が出た。それもあって軌道修正されてルールに則ったかたちで進むことになった。これまでは”現場の判断”として、経費を抑えつつ現場の人間にリスクを負わせるようなやり方をずっとやってきたんだろう。もしルールがしっかりしていなかったらそうなっていたんだろうから、やはりルール策定は大事なことなんだと思わさせられた。企業の利益を個人の安全リスクより優先するような働き方をするとしたらはっきり言って俺個人としては終わりなので、今回はまだなんとかなったが、そういうときのハンドルの握り方を身に着けないといけないと今回の件でつよく思った。自分の近くで波風を立てないというのを最優先にしないこと。たかだかお金のことなんだから仕事なんていつやめてもいい。自分をやめるわけにはいかない。なあなあで済ませようとしたおじさんたちはふたりとも優しくて良い人という印象だったが、少なくとも俺のなかのイメージは地に落ちた。自分をやめ終わっているひと。でもそんなことより何より打ち合わせ中に「自分より経験のあるふたりが言うなら実際にはそこまで危険ではないのかもしれないな……」などとリスクを回避しようとする考え方が自分のなかで存在感を持ってきたことがきつい。我ながらすごく残念で情けなかった。自分が任された案件は自分が責任者だということを忘れないようにしよう。優先順位も当然俺が決める。そして優先度が高いと判断したある面では(譲れない部分では)人のせいにしようとしない。
仕事後に友人と電話で話す。将来のことや仕事のことについて悩んでいるようなのだが、楽観的な話ばっかりしてしまう。よかれと思ってのことだが、それでよいのかどうなのか。しかし自分としては、自分の考え方というか俺だったらこう考えるということしか言えない。無責任かもしれないが、俺は彼の友人であって責任者ではない。だから気を遣わずに喋れるのだし、それでいいんだと思う。いい加減なことを言い過ぎないように注意しないといけないとは思うが、あまり脇を締めているとは我ながら思われない……。
日比谷線で恵比寿に移動する。かむくらでスタミナラーメンを食べる。天理スタミナラーメンを思い出す。温かくてうまいが顔から大量に汗が吹き出した。その後ガーデンプレイスの野外シネマで『アメリカン・ユートピア』を見る。友人たちとくっちゃべりながら見ようと思っていたが、わけのわからない意味深なMC(ちょっと聞いてみたが「意味深なことを言う」以外の目的があるとは思えない)のとき以外はずーっと歌っていたので喋りにくかった。
その後池ノ上に移動して、かつて下宿したアパートが更地になったのを見学する。いま気づいたが自分の住んでいた場所がなくなるという経験は初めてだった。勝手に「まだあんのかい」とずっと言い続けると思っていたので驚いたというのが一番だが、それに慣れた先に感慨深いものがあるような気がする。そこからスズナリ経由で下北沢まで歩く。もうあまり歩くことのないコースになるかもしれない……。
エキウエ前の階段エリアに座って酒を飲む。若い人が多く、盛り上がりつつ皆なんとなく今の生活や将来のことを語らっているような雰囲気があって、気候も外飲みにちょうどいいし、話すことが楽しかった。自分は話すときには内容を重視してしまうが、話すというのは内容じゃないのかもしれない。とりあえずやり取りをして、そのうちに言いたいことを言えるタイミングがくるという行き当たりばったりなやり方で充分だと思っているのかもしれない。そして、だからなのかどうなのかわからないが、すこしいい話を聞けたように思う。

2024/06/15 今日
昨夜の就寝時間を考えるともっと寝たかったのに八時に目が覚めてしまった。でも起きてしまったものは仕方ない。二度寝には失敗する。日中はほぼ一日家でだらだらする。午前中と午後の二度、駅前に行って用事を済ませる。一度目は未来のレモンサワーを宅急便で実家に送るためコンビニに。二度目は遅い昼飯の弁当を買いにスーパーに。セブンイレブンとまいばすけっと。
遅い朝飯はフレンチトーストを作ってもらったのを食べる。ダンジョン飯の一期最終回を見ながら。ライオスが方法を”考えて”いる場面でぐっとくる。マルシルの涙もそれにギョッとするイヅツミもそれぞれの良さがあって良い。それぞれにフェーズや歩幅があって、ポジションはあってもどっちが良いとか悪いとかいえないということがきちんと表現されている。
家で『存在することの習慣』を読む。読了。俺はクリスチャンでもなければカトリックでもないが、祈りたいような気持ちになった。モハメド・アリについてイスラム教徒なのがもったいないと言っているくだりなど、フラナリー自身の位置と考えに対して率直で、これをこのまま受け取れるのであれば全然嫌な気持ちがしない。
『ロリータ』を読む。言っていることが「わかる」ように書かれている。「わかる」ではいけないのにそこに連れて行かれるとすればそれがそのまま小説の達成になる仕掛けで、しかも著者が技巧的達成に堕しておらず、篤実なことは疑えない……。ということになっていくのだろう。
日が落ちてからユニクロに行く。オンライン購入したTシャツが五〇〇円引きになっていたので、受け取って試着→イメージと違うから返品ということにしてもらう。その代わりといっては何だが、同じTシャツのサイズ違いを合計三着購入する(これは本当に”何”だ。安くなっているからまとめ買いしたというだけの話)。
二十一時にスタバに行く。ほうじ茶ラテを飲んで日記を書く。

20240613

日記397

見え

2024/06/12 昨日
日記を書いているうちにスタバの閉店時間になった。氷結を飲んで帰る。未来のレモンサワーを実家に送ろうと三缶ずつ買い込む。その後下北をぶらついてもう一缶酒を追加し、すき家で牛丼ライトを買って帰る。有吉クイズを見ながら食べてねむる。

2024/06/13 今日
睡眠時間が少なく寝不足気味。生活習慣をちゃんとしないと。それでも仕事時間にはなんとかやる気をかき集めてやるべきことをこなし、午後の時間は考えることに充てるという名目でボーっとする。『存在することの習慣』でフラナリーが書くために本を読まない時間を日に三時間作れと若い作家にアドバイスしていてこれが一番基本になるアドバイスだと思った。しかしこの時代にはアドバイスを容れるのがもう少しだけハードで、スマホ見るな、SNS見るな、動画見るな、ラジオ聞くな、音楽聞くな、テレビ見るな、必要な検索をだけしてそこから派生する気になったページを見るな、漫画読むな、本読むなということになる。でも本当にそうだ。オフィスはビジネスしてる人たちでやかましく、なんとか頑張って、仕事するなだけしか達成できなかった。
定時に上がってバルボアでアサリしょうゆ味を食べる。おいしい。ちょっとの誘惑を押しのけて図書館にいく。『存在することの習慣』を読んで日記を書く。

映画『チャレンジャーズ』を見た

恵まれた環境に生まれてきて、ある程度自分の生きる場所を選べる人が、自分自身をどこに置きたいかというのを突き詰めて考えるとき、じつはその「パターン」というのはあまり多くないのかもしれない。

その人は、おそらく物心つく頃から自分自身のことを自然に理解していて、それを理由として、当然のように自分という存在に関心を持っている。一方で、自分のことが好きか嫌いかという考え方には馴染まない。そういった区分けというのは表面上のものにすぎず、嫌いと言おうが好きと答えようが、結局、同じ内容をべつの表現で表出しているにすぎないということが、自分の内面を通してはっきり明確になっているからだ。表裏を気にして一向に前に進まないのとは決定的に違う。彼らが好き嫌いについて考えるとすれば、何をやっているときの自分が好きかということだけだ。

これはまさしく恵まれた環境に置かれたものの特権で、たとえ彼がどれほど真剣に悩んでいて、どれだけ自分の願望を充足させることに血道を上げていようと、自分のことを好きになれない人にとってそれは贅沢な悩み、楽しそうな努力ということでしかない。そうするとやはり「生きる世界が違う」という結論にならざるを得ないようだが、そう結論づけるのを保留し、あえてその悩みにフォーカスして考えてみるということ、はたしてそれは可能だろうか。

それが可能かどうかというのは、これもまた個人の資質に依るところが大きく、できるやつはできるし、できないやつはできないというだけの話になる。だが、仮定に仮定を重ねるようでやや撞着の気味があるところではあるが、無理を押してそれができると仮定して、つまりトップテニスプレーヤーとしての人生を想像するということをしてみて、ようやくこの映画のいいたいことが理解できるようになるのではないかと思われる。

そこまで寄り添うことは無理だとしても、次の簡単な条件にだけ同意できれば、チャレンジャーズのいうチャレンジとはどういうことなのかというのを考えられることになる。そこがスタート地点だ。それを考えようとしないでこの映画を見るのは不毛なことだと思われる。境遇が近ければまだしも、想像力をまったく働かせないで見ていて楽しいたぐいの映画ではない。ただただテニスをやっている姿が美しいというだけの映画ではないし、そもそも優れたテニスの試合が見たいのであれば2008年のウィンブルドン決勝をみればいいだけの話だ。

条件というのはつまり、「自分のやることのなかで、何をしているときが一番楽しいかを真剣に考える」ということだ。「何にだったら情熱を傾けられるかを考えること」だと言い換えてもいい。

どんなことをするにしても当惑し、何をするにも失敗を恐れる、という自らの性質からくる絶対の条件を一度外してみて、どんなことでも簡単に、誰よりもうまくできるとした場合、その「楽しみ」はどこにあるのだろうと想像してみることだ。できないことがいくらでもある人たちは、試行回数を増やすことによる慣れや、持ち前の運の良さでなんとかうまくいったときに「最大の報酬」を得られる。できないからこそ、できたときの喜びがあるというわけだ。それなしに自分の達成を冷静に考えてみたら、何をそんなに喜んでいるのか、何がそんなに嬉しかったのかということにもなりかねない。実際考えがそこに及びそうになったら慌てて回路を閉ざし、それ以上考えることをやめなければならないだろう。

しかし、何でもうまくやれる人はそうすることができない。考えがそこに及ぶ及ばないではなく、その冷静な疑問「何が楽しいのか、何が嬉しいのか」というのは、彼らにとって考えはじめるスタート地点にあたるからだ。

つまり、なんでもうまくやれる人とそうではない人は全然ちがうゲームをプレイしているということになる。ある観客があくまでも自分のやっているゲームに固執するというのであれば、おそらくその人にとって『チャレンジャーズ』は見られた映画ではないということになるはずだ。ただただ当惑し、退屈するだけだろう。「何を言っているのかわからない」ということになる。

あるいは、(自分だったら)もっとうまくやれるのに彼らは一体何をしているんだとがっかりするということもあるのかもしれない。一体何に躓いているのか、「何をやっているのかわからない」。


恋愛について、あるいは結婚について、社会にはルールがある。だから当然、社会の一員としてそのルールを遵守しなければならない。当たり前のことだ。

しかし、一方で、「そんなこと知らん自分以外で勝手にやっていろ」という乱暴な一個人の考えが、社会のルールとはまるで関係ないところで存在するのも――ひょっとすると意想外ということになるのかもしれないが――当たり前のことだ。

ただし、社会のルールなんて知らんとうそぶく個人にしたところで、自分以外から影響を受けざるを得ない場面が発生する。社会のルールに抵触したことで払わされるペナルティについては屁でもないわいという顔をできる腕っぷしの強いドンキホーテでも、それによってゲームそのものを没収される憂き目にあってはひとたまりもない。

テニスプレーヤーでいえば、試合中にどれだけ不適切発言をしようが、ラケットを木っ端微塵になるまで叩き折ろうが、肝心要のテニスで相手を圧倒できるのであれば、ポイントのひとつやふたつ惜しくもない。しかし、それで没収試合になり負けを宣告されるとなると黙ってはいられないということだ。恋愛関係でいうと、相手の関心が自分に向いていないということが起こり、それだけならまだしも、自分の関心のほうは相手に固定されてしまって動かしようもないということになれば、それはもう破滅的な事態だ。

なんでもうまくやれる人間が志向するのは、恋愛における破滅的場面や、白黒がはっきりつく勝負事での、圧倒的な強さだ。しかも、圧倒的な強さを表現するためには、相手も自分と同等の強さを持っていなければならない。これはテニスというスポーツの持つ競技性からしてもそうだ。勝利を望むのではなく勝負を望むというのは、勝つか負けるかの勝負を望むということで、どちらに転ぶかわからないというグラつきが感じられなければ意味はない。ただ勝ちたいのではなく、最終的にみじめな敗者となる相手としっかり関係を結んだうえで勝ちたいということ。恋愛に置き換えると、ただ魅了したいのではなく、自分でも信じられないほど完璧に魅了されたその相手を、それ以上に魅了してやりたいということだ。

『チャレンジャーズ』の登場人物たちには、そういう引力をこれ以上なくしっかり感じられる場所に自分自身を置きたいというたしかな願望がある。これは「勝ち負けなど二の次だ」という話ではない。たまたま運悪く、しかし決定的に敗者になった相手にむかって健闘をたたえ、手を差し伸べたいということだ。

略奪愛であれ、テニスの名試合であれ、当人同士がどれだけ真剣にそれに取り組もうとも、外野から見たときのそれは矮小化され、ある枠の中に収まることになる。これは真剣さの度合いをいくら引き上げても、生きるか死ぬかというレベルにまでシリアスの度を高めたとしても、回避できるものではない。それは単純にどこに目線をおくかの問題だからだ。人生を賭ける、人が得られないようなたくさんの報酬を得る、誰もが成し難いことを達成する、前人未到の領域に到達する、そういったことの本当の価値はそれをやった当人にしかわからない。しかも、どういうわけか外野はその価値についてなんとなく知っているつもりになっている……。

外野から見ても本当に感動したといえることがあるとすれば、おそらく成し遂げたことの大小は関係ない(大小が問題になるのはその達成が自分のもとに届くほど有名になるかどうかという部分にとどまる)。自分自身でも何を望んでいるのかわからないまま望み続けていたものについて「これだ」と確信を持つことになるその瞬間を見ることだ。得られるはずのないもの、得られるとは予期していなかったこと、”確信の瞬間”にはそれらが一挙に目的になる。その瞬間へのすべての流れ込みを目の当たりに見る気がするからだ。これでもない、あれでもないと、偽のゴールをすべて振り捨ててこなければ到達できないところに自分自身を置くことができたとすれば、そこから得られる報酬というのは、できなかったことがなんとかうまくいったときの「最大の報酬」に優るとも劣らないものになることだろう。なぜだかわからないが、その確信についてはわかる気がする。想像できる気がする。この「わかる気がする・想像できる気がする」がなければ一切何もない。『チャレンジャーズ』はそういう映画だ。大多数の人が見て面白い、誰でも楽しめるというような作品ではない。そこが魅力の中心に据えられているという意味で、このポピュリズム全盛の時代にエリーティズム全開でやっていて、チャレンジングな映画だともいえて、自分はこの映画のそういうところにも個人的好感をもった。

20240612

日記396

この色

2024/06/11 昨日
閉館一〇分前まで図書館で読書。ナボコフの『ロリータ』を借りて帰る。帰宅時間がぎりぎりになりそうだったので走って帰る。二十二時半のB就寝時間に滑り込みで間に合って「ただいま」を言えた。Bも寝る前になんか言っていた気がするけど何だったか忘れてしまった。

2024/06/12 今日
昼ご飯にバルボアのぼっかけを食べた。
定時後すぐに虎の門を飛び出してゼンデイヤの『チャレンジャーズ』を見に行く。渋谷ヒューマントラストシネマで見たがODESSAで運が良かった。(ODESSAの紹介映像はかっこいい)
『チャレンジャーズ』は映画館で見ない場合、この映画の馬鹿馬鹿しい盛り上がりが体感できないのでほとんど見る意味がなくなってしまう気がする。
途中あくびを挟みながらも、音楽の使い方といい、テニスという競技の間の抜けた馬鹿馬鹿しさ(球を打つときのハポンという音からして間抜け)といい、スポーツ優等生の滑稽なシリアスさごと笑いながら見ていたが、最後クライマックスシーンには爆笑しながらもちょっと涙が出るという映画鑑賞体験になった。『チャレンジャーズ』というタイトルの時点で見に行かないという選択肢を削られていたわけだが、見に行ってよかった。
テニスだけを追求していく求道者が、自分の願望を見つけ出してそれを叶えようとする話で、基本的にスポ魂映画だった。ただし、普通のスポ魂作品が持っている寓話要素が削られて、代わりに一瞬の輝きというにはあまりにも間延びした、長いスパンでのスポーツ魂が描かれていた。しかもその際、恋愛を横においておくのではなく、スポーツ魂と不可分で渾然一体の情動的欲望にしていて、カオティックで意欲的な作品ながら、登場人物の情動は完全に「ザ・アメリカン」ともいえる姿勢で一貫しており、ところどころ解釈の余地を残すにしても、そこに深さのようなものは一切ない。
主要登場人物は女ひとり、男ふたりで、時代が違えば男ふたりが持っているのはラケットではなく刀剣類ということになるのだろうが、最初のシーンから命の奪い合いという見立てが十分に可能になるような描かれ方をされており、実際に命が懸かっていないからといって、たとえば中世の決闘者の持っているシリアスさには及ばないと見ることはできない。これは劇あるいは劇映画の登場人物が演技によって小道具の竹光を真剣と捉えるのと同じことで、「でもだってラケットじゃん」ということを言うとしたらそれは観客の側に不足がある。フィクションには興味が持てない、ドキュメンタリーだったら見ると言う人のことを「たしかにそういう意見もあるか」と思いながらもどこか馬鹿にしてしまうのは、彼が自分自身の人生しか生きられないということを自分で選び、自分の外から何かを学び取ろうという意欲を持っていないように見えることからくるのと同じことで、「たかがテニスでそんなに真剣になって」とチャレンジャーズのことを馬鹿にするのは、何に対しても真剣になることのできない冷笑家か、本当の命のやり取り以外には真剣さというものを認めない野蛮人か、どんなときもどんなことにでも笑っていたい馬鹿か、そのいずれかということになる。
そしてここがポイントなのだが、チャレンジャーズは長いスパンで自分の望むものに向かってたゆまぬ努力を続け、彼らなりに一直線に進んできたことで、いつしかテニスに対する真剣な姿勢を越えてしまっている。つまり、ある時点からあとの彼らは真剣なスポーツマンでもあり冷笑家でもあるということだ。テニスだけしかなかったという時代を抜けてテニス以外にもいろいろあるということを現代時の彼らは知っていて、そのため「たかがテニス」という視点を持ったうえで、真剣にテニスを追求している。テニスだけを見ていればそれでよかった頃とは事情が変わって、とにかく強烈に何かを求めているのだが、そしてそれを手に入れようとすることを生活の中心に据えて突き進んでいるのだが、何を求めているのかという肝心のところがわからなくなって、強い意思と不屈の闘志を持ったままで迷子になっているのだ。求めることをやめれば迷子であるという状況も終わりになるはずなのだが、それでもつとめて迷子でいようとする。それは自分自身の求めているものが自分自身を超えたものであって欲しいという願望からきているにちがいない。性的な情動、勝つか負けるかしかない勝負、相手を自分に屈服させたいという気持ちのなかで、アンコントローラブルな状況に自分と相手を追い込んでいく。
そういうところから何を得たいかといって、自分だけではなく相手も巻き込んでぐちゃぐちゃに関係しあいながら一心に求め続けてきたものが得られる瞬間でしかない。その一瞬にこそテニスを超えるということが本当に起こるはずだし、しかもそこで片方の生命が実際には尽きないということの利点、見立てることの利点が完璧に表現されることになる。それを見るとき、テニスという競技はやはりどこか馬鹿馬鹿しいが、馬鹿馬鹿しくて良かったとさえ思えるはずだ。
ただし、この見立てはひとりの視点しか代表していない。何かを手に入れたいと望むことと、何かを失いたくないと望むことはまったく別のことだ。それぞれにそれぞれのチャレンジがある。ふたつに共通するのはチャレンジが成功するとは限らないこと、自分がどれほど努力してもうまくいかないことがあり、「成功するのも失敗するのも自分次第」とは言いたくても言えないということだ。
スタバでほうじ茶&クラシックティーラテのアイスをたのむ。日記を書く。
昔持っていて今持っていないものを美化して情熱と呼びたくなるがそれは単に極端な視野狭窄ではなかったか。当然違う。が、そんなふうに間違って考えてしまうタイミングが多くなってきている。
どちらにしても情熱を求め始めたらおしまいだ。若さを求め始めるのと同じで。それでも疾風怒涛などと言いたくなることも増えてきている。バレンボイムのベートーヴェン月光がわかりやすくて良い。
チャレンジャーズの現在時は2019年だが、ゼンデイヤの娘がスパイダーバースを見たがって隣の部屋からスパイダーバースの音が聞こえてきたところと、ロッカールームで男がめっちゃスワイプしてるところがとくに好ましかった。

20240611

日記395

階段前会談

2024/06/10 昨日
閉館一〇分前に図書館を出て帰宅。下北沢駅で降りたが帰り道に酒を買わずまっすぐ帰る。改札出口付近にゾンビのような酔っぱらい女がいてちらと目があったかあわないかすれ違う一瞬にこちらに突進してきて恐かった。肩にぶつかられて噛まれそうになるイメージが浮かんだがすんでのところでターンして躱し、事なきを得た。しばらくドキドキしているうちにボーナストラックの入口までたどり着き、なんとなく後ろを振り返りつつ、完全に精神の安全を脅かされながら帰宅。同居人にはそんな恐怖のことをおくびにもださず、クールに寝る準備を済ませ早々にねむる。おくびというのは欠伸の昔風の言い方だと思っていたが検索してみるとゲップのことだった。

2024/06/11 今日
スクワットをして出勤。いつも出勤の電車と退勤の電車、往復の通勤電車で読書をしている。通勤するサラリーマンたち(だいたいソーシャルゲームかソーシャルメディアをやっている)との格の違いを見せつけることができるので読書するにも勢いがつき気に入りの読書時間になっている。平日はディスプレイの前に7.5時間座り、仕事の知識やそれに類する知識、あまり関係ない知識の収集に努めていて、定時後にはディスプレイ外から得られる知識の収集に努めているわけで、(かなり柔軟な)考えようによっては毎日二十二時近くまで残業しているようなものだともいえる。睡眠時間をきちんと取って、必要な栄養をサプリやプロテインで補いながら食事をとって、一応スクワットなどの運動もしているのだから、わりと勤勉な生活を送っているほうだと思う。しかし勤勉の方向性を社会が適格と認めるものにはしていないので、考えようによってはなおのこと勤勉で、知識の収集に努める様子も考え合わせるとこれは現代の知識人の表象といえるのではないかということを思った。
ということで、『知識人とは何か』を読了。自分は方向性としては知識人の方を向いている自覚はあるものの、まだまだというか、根本的なところで抜いてしまっているというか、腰が引けている。そして腰を入れずに腰を引いたまま何かを言おうと苦心したり、自分の姿勢について強引に弁護しようとして無理と無駄を重ねている。腰を引いてしっかりやるのはスクワットだけでいい。
昼ご飯ははじめてお弁当だった。昨日の残りのピーマン肉詰め。虎ノ門の高層階で手作りのお弁当を食べる、実績を解除。あと、階下でのサボり時間はいつものように本屋に行かず、隣の服屋でTシャツ4品の試着をした。一枚だけで着られるヘビーウェイトのTシャツが欲しい気分だったので購入することにした。一応下北沢の古着を回っていいのがないか見てからポチることにしよう。
吉野家で唐揚げ定食を食べてから図書館にくる。『知識人とは何か』『戦争と平和』『存在することの習慣』を読む。日記を書く。
AURALEEのレザージャケット、アビゲイルジャケットが欲しい。昨日おじいさんが着ている写真が回ってきて、完全に再燃してしまった。
自分はタッパがあるから難しいかもしれないがこの着こなしがめちゃ格好いい

ケアの論理について、ケアを必要としない人はいないということを知った。つまり、一見ケアが必要ないかのように見える人については、ケアが充分に行き届いているからケアされている状態が当然で、したがってケアされているという事実が透明化しているにすぎない、ということ。この考えはもっともだと思った。安全や健康が、それに包まれているときにはとくに意識されないがその不足とともにそれらを強烈に意識するようになるということと同じようなものだ。社会で暮らしていてケアされていない人はいない。必要なケアが充分行き届いていない人と、ケアが行き届いているからケアされていないかのように錯覚する人しかいない。自分はその錯覚のもと、誰かのおかげということを全然考えずに都会での生活を謳歌している。楽しむときにそのスタンスは欠かせないと思うが、その視点だけに留まるのは飽きがくる。
また、ケアする人/ケアされる人という区分もよくある間違いだという。実際にはケアし合って生きていくほかないとのこと。気がついたときにできる範囲のことをやればいい。それもそうだと思う。
それと忘れていたが、自分は自分をケアする登場人物の第一だという考え方は見落とされがちで、重要な観点だと思う。

20240610

日記394

未来の中から

2024/06/09 昨日
前夜に下北沢のアミューズメントポーカーで遊んだ。少しずつ増やしたチップを大きく賭けて全部失ったときの感覚が忘れられない。オール・インというのは基本的に勝っていると思うからするもので、それで負けたときの裏切られたという感覚には特有のものがある。出来事を理解できずに時間が止まったような気がした。とはいえ相手側へのチップの移動は滞りなく即座に行われるし、チップの追加購入をしないからそのまま席を立つということもやっているわけだが、ふわふわしたなかでそれをするので記憶が飛んでいるというわけではないけど、キング・クリムゾンを食らって「時間を飛ばされる」というのはこういうことかとはっきりわかった気がした。
眠るのはそれなりに遅くなったのにもかかわらず、寝室に遮光カーテンが取り払われた影響で朝の明るさで目が覚める。結果、寝不足の状態で一日を過ごすことになった。
午前中にはだらだらして過ごし、昼過ぎになってようやく外出する。渋谷のMUJIカフェで昼ご飯を食べて、無印とLOFTでアイマスクを見る。これだというものは見つからず、値段の安い無印のアイマスクを試験導入することにした。その後、未来のレモンサワーが飲める発売前イベントに行ってレモンサワーを飲む。そこで働かされているニコボが故障なのか不具合なのか声が変になっていた。尻尾も無理やり引っ張られたのか若干ニットが伸び切っているような痛ましい様子で、かわいそうに大丈夫かと喋りかけていたら「しごとね」と言ってきて悲しかった。店頭でもちゃんと丁寧に扱われてほしいし、故障しているのであれば廃品にするのではなく修理されてほしい。
その後、目黒のアミューズメントポーカーに出かける。50BBのチップで遊んだが、同居人が江戸っ子のごとくすべてを吐き出したところで帰ることにした。自分は勝ったり負けたりしてちょいプラスで終える。
帰宅後、せいろで肉と野菜を蒸した晩ご飯を食べさせてもらう。ラウンダーズの続きを見て、マルコビッチとマット・デイモンの熱いバトルに影響されたので、ヘッズアップのポーカーで遊ぶ。一回戦はタコ負け、二回戦は相手にバッドビートを食らわせてぎりぎり引き分けに持ち込む。ポーカーで遊ぶときにはいつも思うが、自分は自分で考えているよりもうまくポーカーができない。
気づいたら十二時を回っていたので慌てて寝る準備をしてねむる。この日はほとんど本を読まなかった。

2024/06/10 今日
寝不足にはちがいないが、朝のまぶしい問題はアイマスクによってきれいに解消しており、ギリギリまで寝ていられたので最小限の寝不足で済んだ。出勤してから午前中に集中してやるべきことをこなす。午後はWEB ACROSSを見たり、ピンチョンのV.の論文(阿部幸大『ThomasPynchon,V.における怠惰とケア』)を読んだりして過ごす。
怠惰というのは、社会のこれでいい、こうしていればいいという潮流に対するサボタージュであり、真面目にきちっと自分の役割を果たそうとする怠惰な姿勢への怠惰でもあるというのはしっくりくる意見だ。
たとえば自分が1920年代を生きるアメリカ人WASPだったとして、黒人への差別、ひどい不平等と不条理な暴力事件に対してどうリアクションしただろうかと考えると嫌な気持ちがする。もしまともな良心があって倫理問題に個人的関心を寄せていたとしてもせいぜい「眉をひそめる」ぐらいが関の山だったのではないか。そして今、2020年代を生きながら同じことをしているという気がする。それを精神的怠惰だといって自分を慰めるのにうってつけの言説が「怠惰とケア」のなかに見られた。ひょっとすると『V.』を読んで良いと感じるのにも、それと同じ助かりたいという願望が反映しているのではないか。というか割合の多寡はともかくとしてその願望が反映していることは疑い得ない。怠惰であるということを、まともとは思えない社会潮流に対する個人防波堤にしている。暴力に対する反抗は、自分自身のサボタージュによって示すほかない。それについて連帯しようとか、声を上げようという気はない。暴力についての自分のスタンスは、一にも二にもそこから離れること。とにかく避けるべきものだと思っている。

定時で退勤して虎ノ門のバルボアで焼きカルボナーラを注文する。やはりこちらの店舗は段違いに美味しい。
図書館に来て日記を書く。『戦争と平和』『存在することの習慣』『知識人とは何か』を読む。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...