20240608

日記393

普通目線

2024/06/07
スクワットと腕立てをしてから出勤。大した回数では全くないけどこうやって書くとマッチョでストイックな雰囲気が漂う。寝不足の影響で職場では何もやる気が起きず、かろうじてやったとこといえばピンチョンの『V.』についての論文を読むことだけ。
定時退勤し、銀座線で渋谷へ。十九時半からの『SELF AND OTHERS』を見るまでのあいだ、宮下公園の屋上エリアの芝生コーナーでかるく昼寝をする。まあまあの人口密度だったが、起きたとき隣に女子高生が寝ていたのには驚いた。渋谷の高校生にはパーソナルスペースの概念がないんだと思った。
映画は期待した通り、大きなスクリーンで牛腸茂雄の写真が見られて満足した。見たらいつも泣いてしまう兄弟の写真があるのだが、それは映画には登場しなかった。あえて避けたのかわからないが、その写真を意図して入れなかったのであればなんとなく気持ちがわかる。あの写真がなかったのはかえってよかった。どういう理屈でそう思うのかわからないが。
信州そば屋で信州カツ丼セットを食べて帰る。そばつゆを盛大にひっくり返してしまった。テーブル一面がそばつゆにまみれてしまった。表面張力でテーブルから下にはこぼれていなかったのに、紙ナプキンで余計な手出しをしたことをきっかけにこぼれ始めた。なんとなくそうなるのではないかという気がしていたが、何もせずに店員を呼ぶのもどうかと思ったのが判断の誤りだった。
下北沢に戻り、同居人がダイエーで無洗米5kgを買ったはいいが重すぎて動けなくなったとのことだったので合流して帰宅。ダンジョン飯と有吉弘行の脱法TVを見てねむる。ダンジョン飯はどんどん面白くなっていくところのはずなのだが、漫画で読んだときの「そうきたか感」は若干うすかった。アニメになったことでそう思うのか、知っててみるからそう思うのかわからないが、感覚としては結構期待外れに近いものがあったので両方の理由を足してそうなるということかもしれない。有吉弘行の脱法TVは最初から飛ばし気味でくだらないながらも面白かったが最後のヤラセ回が全然面白くなく、尻すぼみの感があって残念だった。ただ乳首回の片桐仁の人選は最高だ。

2024/06/08 今日
たっぷりねむって九時前に起きる。洗濯機を回して、マフィンを食べる。テレビを付けるとNHKのカネオ君がやっていて黒部ダムを取り上げていた。面白くてつい全部見てしまう。その後Eテレでヴィランの言い分の蛇VSみみずも面白くて全部見てしまった。そのせいでスタバに行くのが昼前になる。『存在することの習慣』をすこし読みすすめてから渋谷へ。『エドワード・サイードOUT OF PLACE』を見る。本人を撮影しないドキュメンタリーという手法もそうだが、意欲的で見る価値のある作品だと思った。イスラエルとパレスチナの問題について書くことで向き合ったサイードを題にとる以上、すべてがわかるように映画を作るなんていうことはできないが、すべて網羅できないのであれば最初から触れるなということにはならない。ある種の完璧主義は、「放っておけ」というすべてを放り出して目をつむるという態度に直結する。それが個人のスタンスなのだとすればそれについて何かを言うことはできない。しかし、そういう暗黙の了解は、不完全だとしてもそこにある問題を取り上げようとする人の足を引っ張るような圧力に転じて、しかも個人個人は自らの発する攻撃性に無自覚だったりするので、つねに注意していなければならない。安住の地がないという意識がサイードにあって、彼はそこに一定の居心地を見出していたようだ。彼はそう主張できるだけのルーツやアイデンティティのゆらぎをつねに抱えていたからそう言えるのだと思うが、ホームがないという感覚の一部分は自分にもわかるという気がする。自分の置かれた状況からはそういうふうに感じるということに無理があるというか、そのまま人に言っても通じないのかもしれないが、サイードが感じていたつねにアウェイという感覚をもっとうすめた形で分有しているように感じる。居心地のわるさという意味では、他人にとってリーズナブルな理由がない分だけ自分のほうが声を大にして言えない感覚としてそれを持っているとさえ言えるかもしれない。そしてそれをもとにして考えると、ここは自分の居場所じゃないという感覚や、なんとなくくつろげない、居心地がわるいという感覚は、そのまま自分という存在の特権性につながっているようにも思える。言ってみれば自分を中心に放射状に広がっていくエリーティズムということになるのだが、それはこのように言ってしまったときに起こるネガティブな側面の強調ほどにはわるいことではない。また同様にサイードのいう「知識人」という考えも、サイードが語るときに強調されるポジティブな側面をそのまま受け取って良しとされるものでもない。
自分を重要視することから始めて、自分以外を取り上げるようになるという姿勢は、自然な経路を辿ってもたれることになる。ここで重要なのは、なんらかの障害があってその進行が途中で終わり、自分を重要視するフェーズで止まってしまったとしてもべつに問題はないということだ。問題は、自分を通らずに自分以外を取りあげたり引き立てるということができると信じて自分以外を助けようとすることを始めてしまい、途中で自分のほうへ引き返すことだ。そこではひとつの経路を逆流するということが起こるから、べつの人との衝突が発生することになる。あるいは自分という存在価値を自分以外のものに委託してそれを持ち上げようとすることも、いたずらに他人との衝突を生むことになる間違った方法だと思う。間違っていても不完全でもひとりよがりだったと言われても、自分というものはただ自分を代表してそこにいると考えて自分以外のものと向き合ったり手を借りたり貸したりするのがいい。そうすると、自分というのはやっぱり非力なものだから、だいたいいつも情けない思いをしていなければならない。でもそれもしょうがないと思って、へらへらしながら自分を代表していくしかやれることはない。これが自分以外のものに殉じようとする間違った姿勢に抗い続けるための唯一の道なのではないか。
映画のあと「なかじま」でチャーハンセットを食べる。その後クロスタワーのスタバで『存在ー』を読んで、日記を書く。

20240606

日記392

ちぃばす亭

2024/06/05 昨日
『ボヴァリー夫人』を読んで閉館十五分前に図書館を出る。とうとう金の問題でエンマが大変なことになりそうだ。やっぱりルウルウみたいなヘーコラする商売人が一番危険だ。
電車移動+αで『音楽と社会』を読み終わる。下北沢のブックポストに本を返却したあと、昔のティップネス通りのベンチに座って音楽を聴きながら氷結を飲む。ベートーヴェンのPiano Concerto No. 5 in E-Flat Major, Op.73。ドンキに寄ってプロテインと酒とあたりめを買って帰る。帰ったらすぐにねむる。

2024/06/06 今日
朝起きて筋肉体操のスクワットとただの腕立て伏せをして出勤。何もしていないようで暇になりそうになったらやることが降ってくるという絶妙の塩梅だった。そのためこの日は途中抜けして本屋で立ち読みする時間はなし。昼休みにYoutubeにアップされた大江健三郎の文学再入門というNHKの番組の第二回を見る。マルメラードフが賑やかしのような無意味な死を遂げる場面。全然忘れていたが言われたら思い出すものだ。大学から文学を読み始めるようになって最初のドストエフスキーが『罪と罰』だった。が、面白さが理解できず。その後、他のドストエフスキー作品はすべて面白く読んだものの『罪と罰』だけはまだ読み直していない。大江も『罪と罰』をはじめて読んだとき面白いと感じなかったらしく、またその一方でそれ以外の『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などは面白く読んだらしく、同じじゃないかと思った。ただし彼は十二、三歳で『罪と罰』を取り寄せて読んで、それで面白くないと言っていたのでまあ違うといえば違う。いずれにせよ大江はかなり早熟だ。三〇代になって読み直したら『罪と罰』は明るいところがあって面白かったと言っていた。ドストエフスキーに明るいところはないという印象なのであらためて読んでみてもいいかもしれないと思った。ただ歯抜けの爺さんのむき出しの笑顔というような強い印象がドストエフスキーにはあるので、もしそれを明るいと言っているのだとすれば明るいということになるのかもしれない。漫☆画太郎の画風は強くて可笑しいと思うが、まだ明るいとは思わない。
定時退社。バルボアの霞が関ビルの店舗でぼっかけパスタを食べる。宣言通りハマってみせたわけだが、店舗による味の違いがあると思った。虎ノ門店のほうが断然美味い。今日は昨日ほど腹が減っていないということはあるが、多分それだけではないはず。チェーンだが店舗によってはっきりクオリティに差がある店。そういうのがかえって信頼できると思う。王将しかり、あとはちょっと思いつかないが、人が作っている以上、そこに良し悪しはあってしかるべきだ。そういえばタリーズもそんな感じだった。俺の作ったソイラテに当たった人ごめん。カプチーノに当たった人まじごめん。エスプレッソたのんだ人はナイスチョイスでした。
図書館に来てメールを書く。昔から人に文章を届けるのに苦労する。仕事でメールを書くようになって、そのあたりを機械的にこなすスキルが身についたのはよかった。が、いざ仕事を離れてメッセージを書くとなると、文章の形や気分の乗せ方に間違いのないようにと念には念を入れて調整する作業がはさまれるので余計な時間が掛かるし疲れる。もっと豪放に、ひねりを加えようなどと思わず、この日記を書くときのように思ったまま書くのがいいんだろう。わかっていても難しい。一方で読者を想定していないこの日記はラクなものだ。できるだけひねろうとせずに真っ直ぐ書くようにしたい。自ずから限界があるというか、無意識に近づくほどどうしてもひねろうとする気分が出てくるので、それを正面で受け止めず、ある程度仕方ないとも諦めて、そういった気分を横目に、さらさら流していけるようになりたい。
そういえば会社の暇な時間に考えたのだが、すこし前からこの世界の日本人の顔パターンが尽きていないかという疑問がある。運営に報告したいのだが窓口が見当たらない。
似た顔というか同じパターンの顔がよく現れるようになっている。話したことはないけれど一時期よく見かける人、その人の顔が持ち回りで使い回されているのに気がついた。これというのには二種類の解釈があり得る。この世界に用意されている顔パターン数を超えた記憶力を自分がもっていて、想定される記憶力よりも優れているため、二周目か三周目が発生してしまっているという解釈がひとつ。もうひとつはより単純だがあまり採用したくない解釈で、自分の顔識別能力と記憶力の閾値を超えるだけ日本人の顔を見てきたというもの。世界にとって穏当なのは後者の解釈だろうから、人はそちらだと言うことだろう。それはわかっているし、べつに争う気もない。とにかく、最近になって急激に”これまでにどこか別の場所で見たことのある顔”がどんどん飛び出してくる。既視感のある顔。デジャビュフェイス。言うまでもないことだが、デジャビュフェイスは自分にとってはどれも印象的な顔で、いい顔だと思う。表情の型がしっかりしていて感情と思考が無理なく外に表されているように感じられる。顔が表したいであろうことが、自然に過不足なく、顔に出ている。

20240605

日記391

昼のピクニック

2024/06/04 昨日
図書館を二一時半ごろに出る。伊勢原行きの急行に乗って下北沢に帰る。ベンチで氷結を飲みながらベートーヴェンのコンチェルトを聴く。三〇分間ほどしてから帰宅。洗濯機の予約だけしてすぐにねむる。

2024/06/05 今日
早めに起きて洗濯物を干す。いつもの通勤電車に乗る。朝方にあった人身事故で四分間の遅れ。霞が関からの七分間の徒歩で元気が出るぐらい、とても天気の良い日だった。朝の涼しさと抜けるような青空の協演。梅雨なのか雨がちな一週間にスポットで訪れる晴れ間は嬉しい。
仕事は暇だったので音楽について考える。
まず、音楽には解釈を必要としない領域があるとして、それを味わおうとするのであれば歌詞は不要なのではないかということを思った。感情の方向性をまとめる効果にしても音が担えるものだろうし、まとめるだけでよしとするのではなく、ダメ押しのように言葉を使ってひとまとまりにする意味はあるのだろうかと思った。
あとは音楽を聴くことで自分の内部に矢印が向くというのがクラシック音楽の演奏を聞くときに起こることで、演奏者がこっちを見ろと矢印を引き受けるのがポピュラー音楽の主張だということを思った。
ポピュラー音楽の演奏者は、演奏しながら聴衆から自分に向けられる矢印ごと自分に矢印を向けているわけで、その音楽への向き合い方に違和感はない。
ただ聴衆がポピュラー音楽を聴いてそれをありがたがるということには違和感がある。聴衆は演奏者が自分自身へ向ける矢印を目で見て、それに自分を重ねることで矢印を自分に向けるということを学習するのかもしれない。それなら話は通る。
音楽というのは、基本的にはそれを自分の内部へ取り込むことだ。だから言葉のように音の作り出す効果とは無関係に誘導的に働く外要因を入れることに意味はあるのか。そういった意図しない誘導が起こらないようにするというやり方は考えられる。しかし、できるだけ邪魔にならないような言葉を使ってまで歌を作り出すことに意味はあるのか。ポピュラー音楽だからそうやって餌を撒かないとやっていけないということか。取っ掛かりとして受け入れられた意味のある言葉は、何度も聴き続けるうちにそのまま引っ掛かりになるんだろうと思うが、演奏者としてはそうなる前に新しい曲をリリースするから問題ないということか。これらに対して断固ノーということでないかぎり、クラシック音楽など特定の音楽(特別な音楽)を聴くことにしか音楽を聴く意味を見いだせない。BGMとして”ながら聞き”に聞く分にはある程度なんでもいいのかもしれないが、そういう”それなりの音楽”に対して、別のことをする時間を削り、音楽を聴くための時間を作って音楽を聴くということをやる意味はない。
盛り上がりたいならサッカーを見るし、感動したいなら映画を見るし、考えごとにつなげたいなら本を読めばいい。その全部に一時的な倦怠をおぼえ、そのうえちょうどタイミングよく時間が空いていたら、暇つぶしに音楽ライブに行ってみてもいいぐらいのことだ。いや、それでも酒のんで昼寝したりする方が楽しいような気がする。サッカーの面白さを理解できず、考えごとをしたいわけでもない、感動するために二時間同じ作品を見通すだけの集中力はない、酒を飲むことは楽しみではない、そういう人が音楽を聞いて溜飲を下げるのかもしれない。だったらそれはこんなふうに攻撃していい相手ではない。あれもやりたいこれもやりたいという好奇心と意欲に溢れた人で、黙って部屋のなかでひとりポピュラー音楽を聴いて楽しむという人はさすがにひとりもいないだろうと思うが、そういうわけでもないのか。カラオケが好きで自分がそれを歌うために、覚える作業として歌を聞くというのであれば合点がいく。
とにかく自分はポピュラー音楽や商業音楽を相対的にかなり低くみている。楽しい気分になりたいというのは理解できる動機だが、それもにしても自分で作り出せるから、そこに効用があるだけの音楽にはあまり価値を置かないでいいという立場だ。自分はドライブもしなければカラオケにも行かないから、それで相対的にポピュラー音楽の価値が下がるというだけの話だ。
ただ、「絶対音楽」(それがどういう絶対なのかわかっていないが)には興味があり、近づいてみたい気持ちがある。そこで起こるかもしれないことには興味惹かれる。心底驚かされてみたい……。
定時退勤。余計なことを考えて過ごしたからかすごくお腹が減った。ちょっとフラフラするぐらいだったのでビルのそばにある「バルボア」というパスタ屋に行く。そこで気になっていた「ぼっかけ」を注文する。これが食べたことのない味ですごく美味しかった。食べたことのない味で美味しい場合、しかも空腹時に食べた場合、ものすごくハマることになるのを経験上知っている。実際さっき食べて三時間ぐらいしか経っていないのに、もう食べたいまた今食べたい。
図書館に来て『音楽と社会』を読む。協調ばかりで進む無意味な対談とは全然違っていてずっと緊張感がある。ふたりとも手に持っているものを相手に見せようとするのではなく、つねに先へ進もうとしているからスリリングで面白い。

20240604

日記390

梅雨の正三角形

2024/06/03 昨日
スタバにいると外から雷鳴が轟いてきて、強い雨が降ってきている様子だった。帰宅しようとしていた時間を遅らせて雨雲レーダーを確認し、比較的マシだと思われる時間帯に素早く帰宅した。帰宅後はとくに何かをやるでもなくすぐに寝ることにする。

2024/06/04 今日
朝起きて眠い中頑張ってスクワットをする。一応腕立て伏せもやった。しかし一度起きてしまえばよく寝たおかげで調子が良い。仕事は案件スケジュール調整のメールを各所に送り、新規プロジェクトの案出しの打ち合わせに参加したぐらいだった。一応考えていったのだが自部署として何を売れるかという視点ゼロだったので、気後れしてアイデアを口にすることができず、いる意味のない人が会議に紛れ込んでいるかたちになった。もともとアウトプットとしてではなくインプットとして参加しようと思っていたので想定の範囲内だが、何も言わない人がいるとやりにくそうになるかもしれず、その点ですこし申し訳なく思った。定時に即退社。富士そばでかき揚げ丼セットを食べてから図書館に来る。昔の写真を見はじめてしまい、図書館でするべきことを何もしないまま二十時半過ぎになってしまった。とりあえず日記を書く。Kindleで『ボヴァリー夫人』を読む。二一時半過ぎに図書館を出る。

20240603

日記389

So

2024/06/02 昨日
二十二時にスタバを出る。思っていたより長い滞在になった。氷結7%500mlを飲みながら帰る。帰宅後マツコ有吉かりそめ天国を見ながらチキンと千切りキャベツを食べる。あまり夜更かしにならないように気をつけて早々にねむる。

2024/06/03 今日
四時過ぎに目が覚める。水を飲んで落ち着いてスムーズに二度寝。六時半ごろ緊急地震速報に起こされる。消化器官の調子が良くないのでなんとか治そうと三度寝。七時半に起きて出かける準備をして出勤。すべての起きるタイミング・寝直すタイミングで夢を見たが、今ひとつも覚えていない。最後の起床タイミングから出勤までの時間を慌てて過ごしたことで全部忘れたような気がする。遅刻しそうになった。
電車遅延もあったがそれでも遅刻しなかった。もし仕事の評価が「遅刻しないこと」だけだったら自分はかなり有能な能吏だ。
朝からずっと打ち合わせがあり、それなりに忙しく過ごす。ぜんぜん違うことをするための時間はなかった。定時退勤のタイミングで雨が降っていたので図書館に行くことを断念し、銀座線と千代田線・小田急線で下北まで移動。下北沢では雨が降っていなかったので吉野家で唐揚げ定食を食べる。その後クラシックのスタバへ。『音楽と社会』を読む。サイードの言うこともバレンボイムの言うことも筋が通っていてわかりやすい。それに筋が通っているというというのは、ごく短い期間だけに限定して真っ直ぐ線を引けるというのではなく、ある程度の長さにおいて筋が通っている。つまり、筋が通っているという主張が可能になるように短い期間を指差して「ほら、筋が通っているでしょう」とアリバイ用に通している筋ではない。あまりにもベートーベンを褒めるので、試しにyoutubemusicでバレンボイム演奏の月光を聴いてみると度肝を抜かれた。自分がショパンをBGMにしているのは正しいと思った。これを流しながら何か別のことをするのは絶対不可能だ。
職場のビル2Fの本屋に『オリエンタリズム』を買いに行ったが、別の本棚にあった『知識人とは何か』が目に飛び込んできた。序を読んでそのまま購入してしまった。というわけで『知識人とは何か』を読む。

20240602

日記388

しかし二人は動かない

2024/06/01 昨日
成城のモスバーガーを出たあと、小田急下北沢乗り換えで渋谷に向かう。渋谷Streamの大階段ですこしのあいだ読書をして(大江健三郎『定義集』)、同じように読書をしていた友人と合流。スクランブルスクエアの3Fですこし服を見てから、ミヤシタパークに向かう。二一時前から映画『関心領域』の上映が控えていたので自分は酒の代わりにチルアウトを飲んでお茶を濁す。途中、友人が読んでいた本の芸術論の話になる。「貧しい人間にも触れられる芸術こそ真の芸術だ」という主張が展開されている十九世紀か二十世紀はじめ頃の本らしい。現代における貧しい人間というのはどういうペルソナを想定するかというのがまず疑問だが、たんにお金がないということでは当時の貧しいとはちがう意味になりそうな感覚がある。機会がない、そのため能力がないというのが「貧しい」の意味内容に近いのではないかと思われる。たとえば、読む能力にしても何もしないでいながら自動的に身につけられるものではない。そうなると方向づけや能動的な意志が必要になってくる。そういった受容側のエネルギーをまったく必要としない芸術というのは難しく、かなり限定的なものにならざるを得ない。前提条件不要の芸術というのは、それだけ広範な影響力を持つ、強い威力のものに限定される。ピカソや岡田のようないかにも芸術家タイプの芸術家が真の芸術家だと考えるのは多くの人がそう考えるという以上の意味を持たないことで、AIの回答ならそれでいいかもしれないが、そうではないだろうと思う。ただし、ある属性の人間だけに受け入れられる芸術が真の芸術とは言えないというのは正しいと思う。個人にはいろいろな所属や属性があり、その所属や属性に基づいて生活を送らざるを得ないという制限がある。そして各人の制限は不合理なところもあるが、社会において実際に機能している。その機能や分類に沿うかたちで、ある属性だけに通用する内輪ネタのように受容されている芸術は、およそ芸術の名に値しない。むしろ所属や属性を越境して、その芸術を愛好するという一点で、生活において別々に点在している人たちをひとつの新しい属性としてまとめあげる働きをできるのが、本来の芸術という言葉で言い表されるべきものの中身なのだと思う。
また芸術を受容する側から考えても、誰にでもわかるようにという制限を真に受けて制作された作品をいつまでも有難がっているわけにはいかない。たとえば絵本作家が絵本を作るときにも二種類のパターンが想定される。子供にもわかるように表現するという考えに基づいているパターンは、最初の一歩目から落とし穴を踏み抜いていると自分には思われる。それを回避できるのは制作者のやりたい表現がたまたま子供にもわかりやすい形式だったというパターンだけだ。人気のある絵本作家というのはことごとく後者に属するだろうし、それでなくとも、そのようなスタンスをうまく偽装できているはずだ。友人とは渋谷で別れ、同居人と合流する。この日二本目の映画を見に行く。
『関心領域』を見た。黒字の背景に映されるタイトルが徐々に消えていく演出から始まった。画面はしばらく黒いままだが、おどろおどろしい音楽の後景に、会話を含めた生活音が聞こえてくる。映画として見たときにところどころで過剰な演出箇所があったように思われるが、それが過剰になるかどうかというのはよく検討されたうえでないと結論付けられないだろう。当然よく考えてそうしたのだろうから、迂闊に演出過剰と言うのはよくないのかもしれない。しかし、あえて恐ろしさを強調する必要はないのではないかと思わさせられた。集団的狂気の内幕というのは、慣れからくる無関心のことで、それは自分自身の生活を尊重することとつながっている。そう考えたときの居心地の悪さは嫌な感覚をもたらした。隣が収容所という状況は特異なもので、そこでの自然あふれる生活というのは「映画になる」題材だが、ある悲惨な状況と隣り合っているということは、どこまでを隣と見做すかという問題につながっていく。隣ではないから問題にならないというのは、本来映画を見るときだけに適用されるべき考え方で、それは問題にならないのではなく映画にならないということを示すだけだ。そのようにして無関心・無関与を自身に納得させるのは、音は聞こえてくるが目にすることはないという状況であれば目をつぶっていられるという生活の送り方と構造的には変わることがない。構造的に変わらないこととは別に、距離的な問題とそれに伴う関与の度合いの問題があることは確かなので、そのままイコールではないというのははっきりさせておく必要があるにはせよ、映画館に足を運ぶことで無関心・無関与の領域外に一歩出てしまっていることは明らかなので、結果として、内蔵を圧迫されて吐き気がするあの嫌な感覚を思い起こすことになる。
渋谷の街を抜けて、井の頭線のホームまで歩く。途中にうるさい車、下水の臭い、やかましい田舎者が、やや肌寒いとはいえ基本的に快適な気候をおびやかしてきた。おかげで電車に乗り込む頃にはすこしずつ元気を取り戻して映画の話をすることができるようになった。
下北沢につく頃には晩ごはんを食べずに空腹だったことを思い出したので、ちょい飲みを兼ねて鳥貴族にいく。同居人から福岡出張での一幕を聞く。夜、社長に飲みに連れて行ってもらい、社長の同級生たちといろいろ話をすることでそれまで見たことのない社長の一面を知ることができたと言っていた。そのなかでの、良心に縛られているタイプの人(社長の友人)より、良心より好奇心を優先すると公言するタイプの人間(社長)のほうが良心的な行動をこだわりなく実行に移せるという話は、よく聞く話というのではないが、たしかにありそうなことだと思った。自分の内的生活に照らしてみても考えていないときのほうがパッと動けるようなことはある。素早く的確に行動するために考えることを手放そうとは思わないが、両方とも労せず手に入れられるのであれば両方できるに越したことはないよなと思う。しかし、自分の場合、優先順位は考えることのほうにある。
帰宅してわりとすぐにねむる。酒を飲んでいるせいで判断を誤り、ベッドでつまらない動画を見て夜ふかしをしてしまいそうになったが、悪(=睡眠時間を削ってのつまらない動画視聴)を行使しようにもあまりにも眠たく、動画視聴を断念。結果的に翌朝の寝不足を回避できた。こうなると何が良くて何が悪いのかわからない。……いや、それはわかる。

2024/06/02 今日
朝起きるのが遅くなる。二度寝に成功して十時前まで寝られた。起きてから福岡土産のおいしいマフィンを食べコーヒーを飲む。ダンジョン飯の二十二話を見る。スカイフィッシュを生み出してグリフィンを殺す回。次回が楽しみになる引きで終わる。漫画でも好きだった箇所なので楽しみ。
昼前にようやく出かけてスタバに行く。『定義集』『存在することの習慣』を読む。本当に好きな小説の、とくに好きな箇所ぐらいは英語でも読んでみようと、原文の英語で読むためにKindleで『Gravity rainbow』『V.』を買う。『重力の虹』の振る舞いのグレースが要求されるという箇所が好きなのだが、本当にびっくりするぐらい訳が素晴らしいということに気がついた。もともと好きで良いなとは思っていたが、こうやって原文にあたることではっきりわかった。佐藤良明の仕事には目を瞠る。他のピンチョン作品も訳してほしいぐらいだ。
本を読んだり日記を書いているうちに気がつけば十五時半になっていた。お腹も空いたし、ショパンのノクターンをBGMに鳴らしてくれていたフル充電のノイキャンイヤホンも電池切れになった。
昨日の芸術談義の空疎だったことを考える。それは大江健三郎のエッセイを読んでも、フラナリー・オコナーの書簡集を読んでも、エドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談を読んでも明らかなことだ。芸術とは、真の芸術とは、という言明にはそれ自体どこまで行っても空疎なところがある。だが自分はそんな空疎な会話が嫌いではない。それは会話において仮の回答を即興でひねり出そうとする遊びがそれ自体スポーツじみた試みで、昼休みに校庭でサッカーをして遊んだときの楽しみを思い出させるものだということがある。また、より長続きする(一日経ってスタバに座っている今になってもというだけにすぎないが)理由として、芸術論として得られた回答そのものが、権威がそう言ったものであれ、自分自身が考えついたと思えるものであれ、問いに対する「回答」としてあることがすでにして空疎さを呼び込んでいるということを確認することができるからだ。それを避けるためには慎重に言葉を選んでNGを選ばないよう会話を進めるのではなく、そういったお慰みにする会話をそこだけで切り上げられるように、いっそ極端なことを言ってそれに対する反駁を得るという手続きを踏むことだと思う。つまり、空疎な芸術論を自分の制作に持ち込まないようにするために、会話に流してしまうということだ。そればかりやっているのでは片手落ちだが、何かやるべきことをやっていたり、読むべき本を読んでいるのであれば適当な気晴らしや発散になる。ただし、芸術論にも自ずから段階があり、いつまでも一処に留まっているようでは飽きがくるのも早いから、ある程度サイクルを回そうとする意識は必要になる。所定の効果を上げるためには空疎なりにも工夫が必要になる。昼休みのサッカーにも進展があった。その結果誰かがプロのサッカー選手になるということはなかったが、各々すこしずつ技術の向上が見られ、それが楽しみには欠かせなかった。
スタバを出て洋麺屋五右衛門に行く。野菜たっぷりペペロンチーノを食べる。ニンニクのパンチが聞いていておいしい。塩分もこのぐらいあったほうがいいのかもしれない。と、次回の料理の参考になった。ユニクロに行って安くなっている服を見て試着してみるが、オンラインで目をつけていた商品はどれも実地試験をパスしなかった。ただユニクロに行くとよく起こることではあるが、べつの商品のなかにビリビリ電気が走るTシャツを見つけ、しかも安くなっていたので同サイズを二着同時購入してしまった。自分がこんなにもペパーミントパティのことが好きだなんて今日の今日まで気づいていなかった。マーシーと仲良しのパティがとても好い。たぶん自分とはちがうタイプの女の子と仲良しになる女の子が好きなんだと思う。そこには俺の見たい幻想の入り込む余地がたっぷりあるように思われる。
十七時前にスタバに戻る。『音楽と社会』というエドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談を図書館カウンターから受け取ってきて読む。これを読んで『オリエンタリズム』に着手するか決めようと思っていたが、オリエンタリズムを購入することに決めた。図書館で借りようと思ったが、文庫版は蔵書していなかったし、サイードの代表作と言うし持っていて良い本だろう。

20240601

日記387

島待機

2024/05/31 昨日
雨の中出勤、傘をささないという選択肢はないほどの雨量。到着がぎりぎりの時間になったのでオフィス自席で自販機のフルーツケーキを食べる。相変わらずやるべきことは少ないので、人工知能関連のプロジェクトの参加希望に手を挙げる。隣で案出しをしているといくらでも考えつきそうに思えたものだが、あれは自分でもうすうす勘付いていた通り、岡目八目というやつだった。自分のアイデアとして会社の人間に発表するというのはむずかしい。はっきり言ってどうでもいいし、実際どうでも良さそうなブレストなのだと頭で理解していても、どうしても心理的安全性が脅かされると感じてしまう。それでも案を出すためと称してAIの実践例のナレッジを漁る。以前も書いたかもしれないがこれが意外と面白い。そういうプロンプトもあるのか、と感心する。
仕事後に職場の人とアミューズメントポーカーに行く。先週から楽しみにしていたイベントだったこともあり、金夜ということもあって、嬉しくてテンションがあがる。自分の立てた目標は一にも二にも「追加バイインをしない」というものだったので、それを守れたうえで最後までテーブルに座り続けられたのでよかった。ラスト3ゲームになってから無理打ちでオール・インをして、運良く勝ったので、ラッキーだったというのも含め上々の出来だった。連れてきてくれた人はポーカー読本を読んだり、チップトリックを習得しようとしていたりと、自分よりもポーカーに対してタイトでアグレッシブなタイプだったので刺激になった。当たり前のようにチップを大きく稼ぎ、仲良し五人組の若い連中から巻き上げるだけ巻き上げて、帰り道に「今日はちょっとレベル低かったすね」にはちょっと痺れた。ポーカーテーブルは格好つけてナンボ、賭ける所作を披露する場という気がしていたのだが、まさにその通りの社交場で、自分も格好良くポーカープレイができるようになりたい。
そういえば同卓の仲良し五人組の面々は東北訛りのような訛りでお互い同士で話していたのだが、ひとり明らかに見たことのある顔だった。どこで会ったのか、何かで見たのか不明だが、バーバースタイルの男らしい髪型込みで記憶にある顔で、そのひとりをきっかけに五人全員どこかで見たような気がし出した。年齢を聞くと二十四歳だという。たぶん、たぶん二十四歳。思い切って、「ごめん。全然記憶にないんやけどどこかで会ったことあったっけ? 女に声かけるときに言うようなこと言ってごめん」と聞いてみたが、会ったことはないと思いますと気を遣ってやんわりきっぱり否定された。そのときは笑いにごまかしたけど、今思い出してもあの顔はどこかで見た顔だったと思う。どこで見たかは思い出せない……。
店は健全に二十三時閉店。帰宅してチキンラーメンを食べて待っていると同居人が福岡出張から帰ってきた。

2024/06/01 今日
7時半に目が覚める身体になってしまっている。それでは寝不足なので二度寝したいのだが、身体は今日が休日だということを知っているのかテンションが上がってしまい、うまく二度寝に入れない。映画の日なので見ようと思っていた二本の予約をしてから苦労して二度寝をする。マスクをアイマスクに、折りたたみ傘を日除けに、というわけのわからない装備で三〇分間弱の二度寝をする。それでうまくいくところが悔しい。LUUPで三茶に出てから田園都市線で二子に行く。まずはIMAXレーザー上映の『マッドマックス:フュリオサ』。これがとても面白い復讐譚だった。最近見たしょぼい映画とは段違い。文学にはちがう世界を体験できるという利点があると思っているのだが、IMAXレーザーの映画は視聴覚的にそれを実現していてすごいと思う。ウォーボーイズの説明的ではないあり方が、怒りのデスロードでの描写よりも響いた。正直、ギターみたいな楽器を弾いて何かする有名な場面はそりゃ笑うけどそこまでおもしろいとも思わないので、そういう奇天烈なところが少ない控えめさが映画全体のトーンの引き締めにも一役買っていた。本作はヴィランが魅力的で、それは主人公の隙を的確についてくるところからくる魅力だと思う。しかし冷静に考えれば彼の最後の攻撃である「お前は俺と同じだ」という主張はまったく通らない。その攻撃が有効であるという時点で、対話するふたりは決定的に異質なのだが、彼女の大きすぎる悲しみがブラインド状態にさせるのだろう。生き延びるためなら何でもやるというところは共通だとしても、彼女はまだ残忍な処刑をしていない。そうだとしても、お前は俺と同じだと言える強さがヴィランの男にはあって、そこが優れた資質なのは間違いない。その発言が効果的な攻撃であるためには、言いくるめるために言ってみるというのではなく、心底からそう思っているように言い放つ必要がある。そしてその条件をクリアできるだけの、自分勝手とはいえ、周囲に影響を与えるだけの強力なビジョンと内世界を持っているところが魅力なのだと思う。それから映画のなかで格上扱いされているのはやはりイモータン・ジョーで、それに比べると実力・求心力の面で見劣りするというところのバランスと描写がよくできていた。最凶のバイカー集団としてバイク三台立ての戦車を乗りこなしているときにあった溌剌さが、より安定して強度も高い四輪車に乗るようになってからは失われていたのが、それだけで器を表わす手段にもなっていてスムーズかつスマートな描写だった。馬鹿みたいにデカい乗り物に乗って殺し合うというのがマッドマックス3から続く主要モチーフ「乗り物」なのだが、平和な秘境では馬、小競り合い多発地域ではバイク、堅固で狂気的なシステム構築社会ではトラック、がそれぞれ採用されている。そして、最初の場面で解体されて盗まれるのが馬だったところにも物語上のわかりやすいメッセージがあった。
映画が終わってから蔦屋家電に行って売られている本の表紙を眺める。その後成城学園前行きのバスに乗ってみる。バス移動するとローカル感が得られて面白い。自転車で来れるほどの近場なのに旅行っぽさが出る。
モスバーガーに入って日記を書く。広い窓で道行く人が景色になっている良い店だ。街路樹の緑も良い。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...