20240416

日記349

ランドマーク(レガシー)

2024/04/15 昨日
スタバを出て同居人と合流。自分は飯を食ってしまっていたので、連れ合いが蕎麦屋で蕎麦をたぐる横で付き出しのホタルイカの壺漬けをさかなにしてそば茶割を飲む。
帰宅後就寝時間まで間があったのでバラエティ番組を見る。チャンスの時間、永野が「年下では笑わない、もし笑ったら100万円払う」という回のパート2。こういう動画をみて自分は笑うけど時間を無駄にしてしまったという感じはどうしても拭えない。異常な早さで就寝するほうがよかった。

2024/04/16 今日
霞が関経由で出社。一本遅い電車でなおかつ五分程度の遅延が発生した影響で始業一〇分前到着になる。普段三〇分前に出社しているのが普通になっていて我ながらえらいものだ。探し出してきた研修動画を見る。今日は気楽なひとりランチ。天気が良かったのでコンビニおにぎりを外のベンチで食べる。午後からは引継ぎの続き。和やかな雰囲気ですすむ引継ぎ。仕事なのに全然つらくない。おかしい。つい会話に夢中になって定時から五分遅れであわてて退勤する。これはなんだ? 自分が知っている仕事の感じではないというのだけわかる。そういえば午前中に七〇人の前で自己紹介の挨拶をする会があった。しかしテレビ会議だと緊張の閾値が一定で人数に比例していかない。
遅れてきた花見がてらTCBで集まって飲む会が催されることになる。六本木一丁目・神谷町・虎ノ門ヒルズで働く三人。これは十分Tokyo Coolではないか。
日記を書くためにタリーズに入る。ドリップコーヒーとアイス(トッピング別添)を注文。あとはマンハッタンポーテージとのコラボグッズがかわいかったのでオンラインで衝動買いをしてしまう。

「自分のために生きるのは限界があるよ」という言説について。お前はそうなんだろう。こういう述懐するかたちの言表というのは実感がこもっている感じがするから、普段物を考える習慣がないと、いや習慣があってさえ、ついそうだよなと思わされがちになる。ふっと緩んで束の間弱いことを言うというのは『微笑みの爆弾』の歌詞にもある通り、イメージのなかでつよい存在感をもつだけの威力あるものだ。
しかし、限界は何にでもあるし、その限界を決めるのは他の誰でもない自分なんだから、それを言っている側のもつ感慨や条件と、それを聞いている側が感じ取る条件・感慨のあいだには詐欺的な大きな開きが生まれる。諦めるということの意味がちがうと思う。同じじゃないかという意見はデジタルすぎるように自分には感じられる。
ようするに、一度でもほんとうの意味で自分のために生きたことのある人だけが「自分のために生きるのは限界があるよ」と言うべきであって、それ以外の全員はまず自分のために生きるということを完遂しようとするべきだ。ほんとうの意味でという言葉の「ほんとう」の定義は自分にしかわからないものだし、それをわかろうとするにはそれだけでかなり多くを自分に費やさなければならないはずだ。そうやって進んでいけば、少なくとも、限界なんて見えないと思えてきて当然だ。格好つけて「人のため」とか言うなよ。それを言うことで自分自身に格好つくと思っているのなら全然良い。よく考えるということは目的によっては前提条件にならないこともある。

20240415

日記348

落書きムヨウ

2024/04/14 昨日
八時過ぎに目が覚めたのでそのままスタバに出かける。日記を書くかわりに前日に催した忌死観念について書く。ダイエーで昼食を買って帰る。いつものカツ丼。すこしだけ家でぼーっとして動画「馬狼」を見たあと、梅ヶ丘方面に散歩。羽根木公園で子供や犬を見る。プールで泳いで帰宅。お好み焼きで宴を開催してからファンタスティック・プラネットを見る。いくらなんでも昔の映画すぎたがバカバカしいなかにも迫力のようなものがあった。

2024/04/15 今日
霞が関駅経由で出社。この日はよい研修素材を見つけて一日それに費やした。昼休みに念願の虎ノ門ランチに連れて行ってもらえる。前週の飲み会の支払いをPAYPAYでどうぞというチャットがきてしぶしぶ口座を開くもすぐ使えるようにはならず。明日支払おうと心に決めて定時で退勤。
下北に戻ってすた丼で夕食を食べたあとクラシックのスタバにくる。『暴力の人類史』を読む。急いで日記を書いて同居人との下北集合に間に合わせる。

20240414

死状態に移行する恐怖

昨夜、定期的にやってくる死の恐怖に見舞われるタイミングがきた。感覚としては地面に落ちていくような、まさに不可避の出来事という感じでそれを捉えている。もっと感覚主導で言うと、不可避の出来事という感じでそれに捉えられている。べつの場所に抜け出すことができない。
死の恐怖について考えるのは無駄だし、どうにかしようとはできないから、諦めて無感覚の状態に気持ちを持っていくしかない。死の恐怖が襲ってくるときというのは、自分の耳だけに影響するイヤホンで、黒板が不断に引っかかれる音を聞き続けさせられるようなものだ。かつてその音に抵抗するためべつの音を鳴らして対抗しようとしたこともあったが、どんな音を出そうしても、できるだけハッピーな音で埋めようとしても、何をどうやっても嫌な音ばかりが耳に入ってくる。その嫌なノイズを低減するには、べつの音で不快な騒音をかき消すというよりは、ボリュームそのものを下げることがもっとも効果的だと何度目かのエンカウントから学んだ。
不安感や恐怖というのは、それが始まったところがピークということになるのだすれば、いくらか耐えようもあるのではないかという気がする。問題はそれがどこまでも増大していくかのように感じられるところにある。落ちていくイメージがぴったりだと感じられるのは、落ちていく最中の時間感覚にある。まさに「落ちていく」という現在進行系なのだ。破局を迎えるのは地面との避けられない接触場面ということになるが、その地面が、自分にとってのギロチンの刃が迫ってくる恐怖が、生々しく迫ってくる。否応なくそこに引きつけられていくのがはっきりわかるというところにポイントがある。
死の恐怖というのは自分の中にある感情のなかの多くを占めるものだということもあって、誰もが持っているものだと感じている。しかし表立ってその恐怖のことを言う人は少ない。人は彼ら持ち前の慎み深さによってそれを表に出さないようにしているのだと考えてきた。しかしそれにしても、彼らの我慢強さは、自分が人たち一般に見いだしている忍耐力の度合いをゆうに超えている。本来我慢できなくなってもっと表に出てくるはずのものだ。人は何か自分にとって許せないニュースがあるとそれに対して言及しないでいることができないような環境をすでに充分なほど手にしている。それにもかかわらずほかの何にもまして圧倒的にあるはずの恐怖の感情はあまりにも言及されることがない。もしかすると、人は死の恐怖を感じていないのではないか。それは言いすぎだとしても、自分が感じるような死の恐怖を感じていないのではないか。死の恐怖に対応するものがあるとしても、穴を落ちていく、絶対に救いのない感覚としての死の恐怖ではないのかもしれない。
ある本の著者がすでに死んでもう生きていないというのは取り立ててめずらしいことではない。映像のなかで元気に笑っている人が、昔の記憶の中で話しかけてくれた人が死んでもう生きていないというのも、時期にもよるがすでにめずらしくないことか将来的にめずらしいことではなくなるかのどちらかだ。自分以外の人の死というのはありふれている。名前情報だけ知っている他人が何かの理由で死んだとき、関心の対象になるのは理由のほうだったりする。死というのはそれに見舞われる他人との距離感によってその姿を変えるようだ。心理的に近しい他人が死んだという報に接するときには、死因をはじめとして、そのときの物理的な状況や精神的な状況が気になる。あの人は心安らかに死ぬことができただろうか、と無理な注文を付けさえする。死ぬのだから心安らかでいられるはずはない。だから無理な注文なのだが、半分祈るような気持ちで、是非ともそうであればいいと思う。自分自身が心安らかでいるための臨終場面を想像しようとする。かなり多くの場合、その答えはその人の死とともに(自分にとっては)失われるわけで、「最期はおだやかだったよ」という伝聞情報などを駆使して橋頭堡を築く。とにかく自分は生きている。だから、実際のところどうだったのかとは独立にそうすることが必要だ。
実際に死が近くまで迫ってきている場合にはべつの考え方を採用することになるのかもしれないが、今のところ自分は、何がどうあってもとにかく死を避けたいと考えている。人はいつか死ぬという現在の状況には絶対の不満がある。今そうなっているというのは明らかに問題だ。自分が生きているうちに解消されるべき致命的な欠陥だと思う。
死状態へ移行するというのは何を意味することなのかまったく見当がつかない。死後の世界があって別の存在に生まれ変わるという物語はこの自分をひとつも納得させない。
加齢によってすこしずつ耳がわるくなっていって、今は嫌で嫌でたまらない騒音が自然気にならなくなっていくものだろうか。イヤホンから聞こえてくるのは基本的には素晴らしい音ばかりだ。ときたまものすごく嫌な音が鳴るこのイヤホンは、普段は外界の音を自分に提供してくれる。いろんな音が鳴るなかで、これ以上はないという最高の音が届くこともある。だからそれをミュートにして何も聞こえない状態を作りたいと積極的には思わない。ただ、ミュートにせざるを得ないほど、圧倒されるような嫌な音が鳴ることもある。自分としては最高の音を聞いていたい、最悪の音は聞きたくない。とにかくその両方を希望する。しかし、そんな希望を出すうちにも、地面は、絶え間なく、容赦ないスピードで近づいてきている。他にやりようがなく、仕方なくボリュームを落としていって、結局、消極的なミュート状態になってしまってもおかしくない。すこしずつ外界から遮断されていったとしても内界を閉ざされるのは遠慮すると思っているのは、外界の音が不自由なく聞こえるという状況に依るものなのだろうか。ひょっとすると、閉ざされた状況に置かれるやいなやあっという間に嫌気が差して、あっさりもういいやと自棄をすることになるかもしれない。しかし自分としては今のこの状況をもとに考えるしかない。早めに回り込んで、いつか死状態になることを計算に入れて自分らしく生きるなんていうことはできない。死をどうにかして避けられるものと捉え、地面に激突するとは限らないと考えること。
空を自由に飛びたいという希望がそう遠くない未来において通ると心得て、必ずしも地面に激突するとは限らないと考えて今を生きること。酔生夢死というのは、字が意味するごとく、生に酔い、死を夢見ることだ。それは死を虚構の領分に追いやった先に感覚される。首尾よくそれをやり遂げられたら実際に死ぬことはない。

臭いものに蓋をする。しかし臭いものがなくなるわけではない。蓋をするという行為がむしろ臭いものを実在させることになる。ノールックで臭いものに蓋をする。それでだいぶ善くなった。しかしまだ臭いものはそこにあることになる。だから思い切って次のように言うべきだ。ノールックで蓋をする。さらに善くなった。しかし一体何を見ないのだろうと思うことがあるかもしれない。だからあと少しだけ進む。蓋をする。
蓋をする以上、いつかはそれが開くだろう。蓋が開く。抽象的で何のことかよくわからない。それだけに希望があるようにも感じられる。箱に凝って中身を忘れる。対象が透明になる。

20240413

日記347

レガシー色

2024/04/12 昨日
千代田線で通勤。乗り込んだときにポジションさえ押さえておけばストレスをセーブできることに気づいた。電車の時間がだいたい二十分間あるので数学の歴史を読む。
学習をすすめる。事務処理のやり方を初日か二日目に動画でさらっと見ただけでこのまま実務に入るのは心もとないということに気づいたのであたためて動画を見る。飲み会があったので一日そわそわしていた。
定時に上がってから飲み会の開始まで時間があったのでタリーズで『暴力の人類史』を読む。ほうじ茶ラテのアイスとアイストッピングの別添えをオーダーした。
肝心の飲み会は、やっぱり大人の飲み会という感じで、はっちゃけられず仕舞いだった。それでも普段の自分の感じからすると異常な元気良さがあったと思う。自分としては通常よりも安全運転寄りを意識したのだが、うっすら押してみたのでちょうどその分だけうっすら引かれた感触があった。こういうときに焦って空回りを重ねないのが自分の良いところだと思うが、あわてないイコール挽回の機会を逸するということでもあったので、うっすら引かれた感触だけが自分の中に生々しく残って、帰りしなからすでに苦しい思いをしていた。大学デビュー失敗を百倍に薄めたしんどさだと思うが、百分の一に希釈してもこれだけ苦しいのだから大学デビュー失敗してたら血を吐いて倒れていたかもしれない。あるいはこの年齢で大学デビュー失敗のような失敗をするととくに厳しい精神ダメージを受けるということか。参加者からするとまじで覚えていないレベルだろうから完全に自意識過剰の取り越し苦労だ。それに仕事中の「借りてきた猫」状態とのギャップに摩擦が生じている(ような気がする)主因があるのだから、出勤時のポーカーフェイスをいきなり解消とはいかないにせよ、すこしずつ緩和していけたらいいだけの話だ。それでもこれだけは言いたいと思っていたことを言えたのでよかった。しかしそのせいで来週からのランチタイムのことを思うと今からもう気が重い。
不完全燃焼かつオーバーザラインバイオレーションを犯した飲み会のあとに、表参道で飲んでいるから来れないかという誘いがあった。地獄に仏とはいかないまでも渡りに船ではあったので(渡りに船よりは地獄に仏寄り)、二つ返事で駆けつけることにする。地下のクラフトビール店だったのだが、こちらでは心理的安全性が確保されていたので超のびのびできた(当社一次会比)。変な奴だと思われたらまずいという気持ちが自分をいかに抑えつけているのかが白日のもとに晒される結果になった。帰りに大谷翔平のなぜかちょっと憎たらしい顔の絵が表参道の交差点にどデカくかざってあったのでいっしょに記念撮影することを提案し、快く受け入れてもらう。一次会終わりにもよっぽど記念撮影を提案しようと思ったが日和ってしまってできなかった。これからちょっとずつ頑張っていきたい。
・出身地
・居住地
・年齢
・休日にやっていること
・前の職場で何をやっていたか
今回の話題はこんな感じだった。あとは隣のおじさんと大学が同じだったのですこし大学の話もした。年齢差やら何やらがあるときには何か共通点があるとついそれにすがってしまう。
そういえば表参道での二次会ではuekaramesen_streetのフォロワーを増やすことに成功した。しかも二人同時にだ。こういう企画を面白いんじゃないかと思って考えているという話を聞けて愉快だった。深夜のゴミには物語がある、というところから、それを拾い集める記録を残すというコンセプトで面白いと思った。実現するためのハードルもそんなには高くなさそう。夜遊びをしていたら簡単にできることという気がする。繁華街ではいつだって夜遊びをする人は夜遊びをしているわけだし。ただ、ゴミから感じられる物語というのは、もう夜遊びをしない人にとってそれを振り返り見る過程で価値があるのであって、いま現役で夜遊びをしている人にとっては喫緊で追いかけるべきいろんな物事があるんだろうから、悠長にゴミを撮ったり拾ったりしている場合じゃないだろうというミスマッチの問題がある。
uekaramesen_streetについてコメントしてくれた。フォロワーを増やしていくためには、①強い写真を厳選して投稿する、②短いキャプションをつける、どちらかをやったほうがいいということだった。①についてはそのとおりだと思うが、一日一投稿というルールを課すこと自体に生活にハリを与える効果があると思っていて、その効果は今のところ実感されていること。あとは弱い写真、強い写真それぞれから撮影者の微妙な傾向が長いスパン(ある程度の量)で浮き上がってくるという効果を期待していること。という大きな二つの理由から毎日投稿にしようと思っている。このやり方をしながら強い写真を撮れれば言うことないのだが、まあそんな良い機会が無尽蔵に転がっているわけでもなし、この企画に何かを犠牲にして割けるリソースがあるわけでもないので、現状維持ということになってしまう。
②についても同じで、撮って上げるだけだからお手軽簡単で続けられているという理由がまずある。キャプションをつけるとなると、撮影意図について写真を余計な方向づけや誘導をしない範囲で的確に文章にする必要があり(必要を感じ)、そのハードルがある。メタデータをつけるというかたちで客観情報を付与するのが機械的にできていいと思うが、撮影場所はすでに付けている、撮影時間は写真を見れば大体わかる、ほかに付け足すことのできるメタデータはあるだろうか。毎日投稿という性質を使って、毎日の星座占いとその当たり具合の評価とか?
撮影者がどういう気持ちで投稿しているのか、そこがもっと明らかになったほうがいいという主旨だった。公開するかしないかにかかわらずキャプションをつける試みはやっていこうかと思う。

2024/04/13 今日
六時すぎに目がさめてしまう。朝から洗濯機を二回回す。シャワーに入ってからスクワットをして、すこしゆっくりしてから昼ご飯を食べに街に繰り出す。道中フリスクのポップアップがオープンしていたので試供品をもらう。昔の自分に言いたいことをふせんに書いて貼れるコーナーがあったので昔の自分に言いたいことを書いて貼ったら、ふせんを貼ってくれた人用として味付きのフリスクをプレゼントしてもらう。十五年前の自分に言うこととして、今から十五年後の自分から言われることがなんとなくわかるので、そこと重なることを言いたいと思って、ごく短いメッセージにした。
ステーキ松でカットヒレステーキの300gを食べる。二二〇〇円の豪勢なランチ。溶岩石による脂の飛び跳ねがすごかった。前の人が食券機で一万円を使い、お札のお釣りをまるまる忘れるという凡ミスをしたので追いかけて教えてあげた。
エキウエのスタバに行ったら満席状態だったのでクラシックの方にきて日記を書く。『物語数学の歴史』を読む。
スタバを出てからダンダンで本の続きを読む。散歩のあいだ人を待つ犬がかわいかった。茶色の眉毛のあるミニチュアダックス。帰宅する前に古本屋で坂本龍一の連載第一回が掲載されている新潮を読む。「あと何回、満月を見るだろう」。山田風太郎オマージュだろうか。「あと千回の晩飯」あまり結びつきそうもないふたりだが。エキウエで花を買う。帰宅してから昼寝。起きてから坂本龍一のNHKスペシャルLast daysをみる。感情の豊かな人なんだなという印象。おかしな動きが免疫を高めるという記事を読んで実際におどけて見せる変な動きのダンスが平凡なボキャブラリーで構成されていたのがおもしろいと思った。何かに秀でているひとはなんでもできるわけではない。何でもできるひとが何かに秀でているというわけでもないということ。漱石全集の八巻が本棚にあった。調べてみると『行人』だった。
見終わったあとNHKでプロジェクトXがやっていたので見る。カメラ付きケータイの回。エンジニアの後ろ姿がかっこよかった。日本酒の会社を立ち上げた人の舵の切り方もかっこいい。好きに生きるための努力。
スタバにきて『数学の歴史』を読み終える。閉店までいて二十二時半に出る。
隣のギャル風の女の子の会話がおもしろかった。彼氏だか友達だかの家の中には汚物コーナーというスペースが設けられていて、外から入った人の荷物はすべてそこのビニールシートのうえに置かせられるらしい。病的な強迫的潔癖だが、同じような症状に苦しんでいた大学時代の面白い友人のことを思い出した。
外で酒を飲むのに良い季節なのでさすがにダンダンで氷結無糖レモン500をやる。BGMはフィッシュマンズ。そこは嘘でも坂本龍一だろとちょっと思った。asyncを聴いてみようかな。

20240411

日記346

どの橋渡ろうか

2024/04/10 昨日
図書館を出てフォロウィングを見る。全部見終わったときに全部思い出すという記憶力のなさのおかげで新鮮に楽しむことができた。時系列を入れ替えるというのを映画特有の表現として取り入れている野心的な姿勢に思わず顔がほころぶ。最近見たすずめの戸締まりという映画が子供向けの作品なのを盾に黒枠をつけて漫画的表現で過去の話ですよとわかりやすくする演出をしていたのを思い出して情けない気持ちになった。より多くの人に届けたいと考えた時点からその作者の作るものは腐り始める。
フォロウィングは音楽が良かった。映画館を後にする人たちに、おそらく例外なく帰り道に振り向かせるだけの「人を動かす力」をもった映画だった。だから我慢して無理に振り返らないようにして気持ち早足で電車に飛び乗って家に帰った。
下北沢で飲み終わりの同居人と合流していっしょに帰る。寒くも暑くもない春の夜。よっぽど酒を飲もうかと思ったが、耐えることができた。お誂え向きすぎるとかえって耐える気持ちに傾きやすい。

2024/04/11 今日
七時に起きてちょっとだけスクワットをしてからシャワーを浴び、千代田線で職場に向かう。行きの電車内では『物語数学の歴史』を読んでいたが、車内がぎゅうぎゅうですこし暑いのもなって結構不快だった。やっぱり銀座線での通勤に戻したほうが良さそう。午前中には自己研修の座学。午後からグループミーティング。その後キッティングという名の雑用。ただ案件引継ぎでやっと人と話すことができる。仕事ができるというか、そつのないコミュニケーションを上手にとれる明るい女の子に教えてもらう。こっちも愛想よくしようと思うから自然和やかな打ち合わせになった。自分としては見習うべきところが大きい。雰囲気を良くして自分も相手も楽しんで仕事上の必要なコミュニケーションをとるということを心がけないといけない。そこぐらいにしか本当にやりたいことはない。頑張らないといけない。
定時であがる。富士そばでカツ丼を食べてから図書館にくる。『暴力の人類史』を読んで去年の日記と二年前の日記にコメントをして日記を書く。いずれ日記という名の年輪になればいい。
オーラリーとニューバランスのコラボスニーカーが発表になったのに出くわした。普通にほしい。ワープドランナーという名前、都市生活者向けというターゲットチョイス、完璧な一振りが顎を直撃した。
都会的な直線に映えることが想像できるカーブがかわいい
とにかく色が良い



20240410

日記345

中央吹き抜け道

2024/04/09 昨日
TCBのひとりと花見をする(もうひとりはザ行のため参加できず)。日比谷公園からスタートして花見散歩が開演する。霞が関から出発して有楽町、銀座、新橋、虎ノ門、霞が関の順番でぐるりと歩く。ちょっと広域な銀ブラといったところ。途中銀座で二店舗ほどコンビニに入って給酒。新橋ではとんこつラーメン屋台に入る。若干の肌寒さから途中で座ることもできず歩き詰めになる。千代田線で下北まで移動して、下北でもすこしだけ飲んでから解散。
帰宅して二十二時だったが、二十二時半には即寝する。

2024/04/10 今日
久しくないほどぐっすり眠れた。やっぱりカルピスの睡眠サポート飲料が一番効く。本当は早起きして洗濯物を干してから行きたかったのだが時間がなく普通に出勤になる。渋谷経由の銀座線コースだが、わりと時間がかかることが判明した。
弁当を持って出社する。元チームの人たちと近い席に座ったばっかりに、誘い合わせてお昼を食べにいくところを指をくわえてみる羽目に陥った。弁当があるので遠慮しておきますというのは誘われてはじめて言えるセリフなのであって、行き届いた配慮により最初から誘わないでおきましょうをされると打つ手がなかった。いい加減自己学習にも倦んできたので途中堂々とスマホをデスクに放りだしてkindleで『戦争と平和』を読む。しかし、やはり周囲が気になってチャプターをふたつしか読み進められず。暇なので業後に何をしようかと考えていて、その一環で映画を調べたらノーランの『フォロウィング』が上映されていることを知ったので予約する。図書館からシャンテは歩いていける距離なので定時後に図書館→映画館というよくばり都会セットみたいなコースをとれることになった。図書館で『暴力の人類史』を読み、日記を書いて映画館に向かう。
ちょっと時間があったので有吉メモを読んだ。面白かった。

20240409

日記344

花見本読み

2024/04/08 昨日
図書館を引き上げたのが大体八時半。帰宅してゴジラSPを見ながら、せいろで蒸し上げた玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、春キャベツ、冷凍豚、ウインナーをいただく。一話二話を見たあと、有吉クイズを見る。二〇〇五年の新聞ラテ欄の穴埋めクイズだったのだが、さすがに十九年前になると隔世の感がある。覚えているところは覚えているし、言っても00年代で大学に進んだ時期なので普通に繋がっている意識はある。それでも隔世の感というほうが実感に即するようになったのが奇妙に感じられる。
二十二時半にはねむる体制に入る。二十三時にはねむる。しかしねむる直前になって自分の身体が永遠に維持できないことに気がつき、そこから死後の無を想像して苦しんだ。解決策がそのままねむってしまうこと、というのも考えてみれば恐ろしい。

2024/04/09 今日
七時に起きてスクワットをする。三分間だけだけと思ったが、筋肉痛の蓄積が思ったよりあって六種目あるうちの最初の二種目だけしかできなかった。
雨が降っていたが頑張って下北沢駅まで歩き、新経路で通勤する。渋谷駅で結構歩くがこれが一番ストレスの少ない通勤経路かもしれない。銀座線の出発駅になるので必ず座れるというのも大きい。虎ノ門についてしまえば雨に濡れる心配はない。
資料の読み込みと、新チームでの引継ぎについての説明を受ける。四月末で抜ける人から別途説明を受けることになっているが、おだやかそうながらはきはき喋るところをみると優秀そうだ。とてもじゃないが自分に後任が勤まるとは思えない。が、無理にでも自信あるように振る舞ってみようと思う。
定時で帰るころには雨も止んでいて、富士そばでカツカレーを食べてから図書館にくる。カツカレーはあんまりだった。カツは揚げたてだったが小さいし、肉部分もぎりぎり小さすぎないサイズ感で余計にみすぼらしく感じられてしまった。小さいカツなのだが小さすぎることはなく、まるで冗談に紛らしたユーモアがなく、代わりにシビアな経済感覚があるといった趣。
今日は友人と日比谷公園で花見をすることにした。待つ間に日記を書いて本を読む。雨は止んでこそいるもののまさに花冷えのする春の夜なので風邪など引かないかすこし心配だ。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...