20231006

日記222

金次郎


2023/10/05 昨日
演劇『ゾウ』を見に行く。なんだか開演前にそわそわしてしまったけど、肝心の内容はよかった。サーカスから連想される「これは見世物である」という前提の中に人同士のやり取りが配置されていた。関係として前者と後者は容れ物と中身になる。その関係を逆転させることを目論んでいるのかそんなことないのか、はっきりいえるわけではないのだが、転覆を図るとしたら後者から前者へのアプローチしかないわけだし、そういう踏み出しをしようというメッセージも感じ取った。踏み出す一歩というのはさりげなかろうが思いっきり力をこめようがどっちみちドラマチックになるものだが、そこに何を仮託するかによってはさらにブーストがかかるということがある。
一歩を踏み出した経験の有無がこの作品の評価を分けそうだと思った。自分の場合、踏み出した経験というより尻込みして踏み出せなかった経験によって人格が形成されているということがあるので、その一歩の価値を二倍も三倍も感じ取ることができた。
しかし、一歩の先ということを考えてみると、結局転覆は成らず、容れ物のなかに中身があるということが確認され、器の強固さ(見世物であることの確かさ)が明らかになっていた。
踏み出す一歩を段差を降りるというかたちで示したのが、この見世物のポイントといえばポイントになるだろう。降りるという動作が踏み出す一歩に重なる場合もある。そこで何かしらの逆転が起こっているのは間違いないが、それに単純なよい/わるいの意味づけはできないはずだ。それでもその瞬間を切り取って感じたり考えたりする以上、とりあえずの意味づけをしてしまうほかはなく、そしてそれを「良い」と感じたり考えたりしたいのは、どんな音楽であっても明るい曲だととらえたいという根本的な嗜好による。
あれはよい一歩だった。そう意味づけたい願望から観客は抜け出せなくなる。こと劇場において、演劇は、容易に身動きがとれないほど強固な見世物だ。


2023/10/06 今日
在宅バイト。月イチの会議で発表した以外とくにトピックなし。ザ行なし。ラジオ体操とスクワットあり。
渋谷に出かける。タワーレコードで用事を済ませてミヤシタパークにいく。涼しいを少しだけ通り越してしまっているがぼんやりしたり、翌日のワークショップへの申込みメールを書いたり、ぼーっとしたり人の流れを眺めたり日記書いたりする。近くでバレーボールのパブリックビューイングをやっていた。結構歓声があがっていていい感じ。

20231005

日記221

手を近づけてください

2023/10/05 今日
前夜に不合理で無意味な夜更かしをしたせいで、軽い寝不足になる。なんとかそれを解消させようと昼寝をしようとするのに無駄に時間を食って、バイトのPM休をとったのに十五時まで何もせずにうだうだ過ごす。何もしないというのは、もし本当に何もしないというのだったらそっちのほうがまだましで、youtube,instagram,tiktokの短い動画を一通り見て一周するというどうにもできない無駄な時間の過ごし方だった。結局、昼寝を諦めてシャワーを浴び、スタバに出かける。
この日はスズナリまで演劇を見に行く。わくわくする一方で、なぞの不安感がある。

20231004

日記220

表参道裏路地

2023/10/03 昨日
二十一時すぎに表参道に行って洋食屋で晩餐。ワインを二杯のんだ。ホホ肉を食べてあまりの柔らかさに驚嘆した。うまくて頬が落ちるかと思ったが、なんとか大丈夫だった。オムレツはポルチーニソースが掛かっていておいしい。白身魚のカルパッチョもライムのジュレが酸っぱくておいしかった。今思い出してもヨダレが出るのはライムのジュレに依るところが大きいが、全体に満足いく食事になった。しかし飲み過ぎなのかカンパニーが体調を崩し、駅で待ちの時間が発生するあいだにすべての酔いが覚めて、硬いベンチに座っていたせいで腰が痛くなり、テンションが落ち着いて帰路につくことになった。すっかり秋本番の好天候で歩くうちにテンションを取り戻せた。帰宅したのが〇時前だったので即ねむる。

2023/10/04 今日
修学旅行バスに乗っていると地元の近くを通ったので、俺ん家このへんやわと隣の席の友人に説明した。旅程が大幅短縮になったうえ、何かのっぴきならない事情で学校に卒業証明書を取りに行くという夢をみた。受付の元担任(小学校六年時)がやけに高圧的に対応してきて嫌な気持ちになった。ホワイトボードに掲出されたポスターにそのまま必要事項を書き込む謎の形式で、お固くて古い体制を感じた。夢の途中だったがポケスリのアラームで引き剥がされるようにして一気に目覚める。覚えていようとして復習の時間を五分ほど取ったのでこのとおり覚えていられた。
在宅バイトは凪の時期、楽ちんで良い。自分の後から参画したメンバーが勘違いから結構な大ごとになる伝達ミスをやらかしていて管理副担当の人がその火消しに大変そうだった。本人と管理主担当は体調不良で欠勤状態だったので余計に大変そうだった。定例とはいえいろいろ立て込む時期でもあるから、二十二時現在も、たぶんまだ働いていると思う。
一方、私は余裕綽々で、三十分間の昼寝・ラジオ体操・スクワットのフルコースをこなしたうえ、シャワーまで浴びてザ行なし。スタバに行く。読書をして、九時に引き上げ、呪術廻戦の二十四巻を買って帰ってから日記を書く。ぎりぎり傘をささないでも大丈夫な量の雨が落ちていたので、念のために持っていった折り畳み傘を折角なのでさして帰った。

20231003

日記219

シティードッグ

2023/10/02 昨日
この日も結局22時すぎまでスタバにいる。21時前で一回疲れすぎて帰りそうになってからのもうひと踏ん張りで、もうひと踏ん張りした甲斐あるものが出せてよかった。
酒を飲みながら涼しい道を歩いて帰宅。千切りキャベツと納豆を晩飯にする。SONNY BOYの7話を見てねむる。(一昨日のSONNY BOYは6話だった)

2023/10/03 今日
在宅バイト。ちょっとのタスクをぱぱっとこなし、余裕でラジオ体操とスクワットに取り組む。コンプラ勉強会でザ行を強制されるという意識がどこにあるのか不明な残念スケジュールのため1時間のザ行が発生する。こういうみっともないことだけはしないようにしたい。事情はあるんだろうし、大体想像はつくけど。
演劇WSでお世話になった演出家のNoteを読む。とくに反応はしなかったけどやっぱり触発された。おかげで19時頃にきたスタバでもずっとMACのキーボードを叩いている。「面白い」ということについて考えるのも面白い。何を面白いと感じるのか。何が面白いと感じられるのか。パースペクティブもあるんだろうと思うが、そうだとしてもより面白いが感じられるパースペクティブを取れるほうが、やっぱり個人としては正しいのではないか。
21時すぎにスタバを出る。表参道で飯食べるために電車に乗る。

20231002

蓮實重彦の書く文章は面白い

蓮實重彦の書く文章は面白くてつい読んでしまう。何が面白いかといえば、彼に特有の放言スタイルが面白い。とくに最近インターネット上でも掲載されている「些事にこだわり」というエッセイでは、彼自身何度もそう言うように、本当にどうでもいいことを仰々しい言い回しでねちねち批判するということばっかりやっている。おじいさんの文芸というジャンルでこれにまさる読み物はないのではないか。

私は蓮實重彦の著作をちょこちょこ読んでいるので、まあファンだと言っても良いだろうと思うが、ファンになった理由をごく単純に言ってしまえば、彼の書くものには知性が感じられるということがある。知性を感じられる場合というのは、知性とはかくかくしかじかの条件で発揮されるものである、などと書かれてあるわけではない。知性について書かれてあるから知性を感じられるというのは、ものを読むという習慣がまったくない人間の言いそうなことだ。読書のたぐいを一切しない人が実際にそんなことを言うはずはないだろうから、こんなのはただの偏見で勝手なイメージの押しつけにすぎない。ただ、一切何も読まない人がこの文章にアクセスする可能性はかぎりなくゼロなのでこの場での汚名は引き受けてもらおう。ものを読まない人というのは、本人の知らないところでそういう損な役回りをあてがわれたりするものだ。

蓮實重彦の知性はどこにあるか。答えをすっと出せたら良いのだが、できない。ただ、少なくとも、世の中で知性的だとされる言動があって、そのポイントをおさえているから知性的だというのではないということはできる。むしろ、世の中に背を向けている言語活動全般が知性的だともてはやされることが多い。世の中にしっかりと背中を向けていないかぎり言えない種類の言説というのはある。いろんなことに忖度しないと社会生活が満足に送れないというのは、特権的な人物以外のすべての人間にあてはまる、社会の暗黙のルールだ。

自分は知性とか賢いということに昔から興味がある。それで思うのだが、知性というのは簡単に定義することができない。たとえば、知性について「ここからここまでの範囲で自由に好きなことを言うことが知性的なことだ」と定義されたとする。それに従って物事を自由に言うことが知性的な営みだといえるだろうか。誰それのことを知性的な人物だというときに、それをただ小器用であるにすぎないと言って済ませてしまうのでは、自身の物差しを不安視しないだけの知性を備えているとはいえ、ただそれだけのことだ。

一方、知性というのは定量的にその多寡をはかれるものでもある。AよりもBのほうがより知性的だということが、知性という物差しにおいては可能だ。

書かれてあるものを読むときに読者は自分と著者とを比べることができる。たとえばこの文章の著者はひどい人間で、自分のほうが何倍も優しいまともな人間だと考えつつ文章を読むことができる。同じように、自分のほうが何倍も賢い人間だと考えつつ書かれたものを読むことも可能だ。著者は(というより著作は)、そういった容赦ない評価にさらされるという意味で一歩踏み込んでおり、その時点で読者と著者とのあいだに明確な差が生じていると考えられる。が、その差はたったの一歩に過ぎない。自分のほうが二歩分進んでいることが明らかだといえるのであれば、差し引きの結果、著者よりも読者たる自分のほうが知性的だということができる。

ところで、先ほどものを一切読まない人というのを仮定したが、当然のことながら彼らもこの社会に参画している。そして、誰が知性的で誰が知性的とは言えないかという話し合いにも参加し、いち視聴者となって一票を投じたり、場合によっては元気に発言したりしている。ものを読む人というのはなぜだかすぐに勘違いするが、ものを読まない人というのはものを読む人よりも数多く存在している。何をもって知性とするかというのを、より多くの意見が集まったからという決め方で決めるのであれば、話は勘違いした人が予想するよりずっと難しくなる。だからといって、ものを読まない人から発言を取り上げるということにすれば、何をもって「ものを読んでいる」と判断するのかということが問題になる。ものを読んでいるとはとても思えない「読書好き」というのに見覚え・心当たりはないだろうか。

知性をめぐるポジション争いにおいて、ものを読む人の中だけで活躍し名を挙げようとするのは間違いだ。知性とはこういうものだと規定し、それに従って知性的に振る舞おうとする人間がちっとも知性的に見えないのは、前提のところで躓いているからだ。断定調で話すと自信満々に見えるというのは立派なハウトゥ知識だが、それに知性というものを当てはめて、断定調で話すと知性的に見えるというと途端に馬鹿らしく思えることだろう。それと似たようなことが知性的という尺度について考えるときによく起こる。これをすれば知性的だと見なされるという枠があるとすれば、その枠を超えた思考を展開できないかぎり、著者が読者にとって読者自身よりも知性的な人間だと受け取られることはない。

読者は、新知識を吸収する過程で、既存の枠を超える体験をするから、そこに導いてくれた著者のことを知性的だとみなすことがある。しかし、読者がまともに読書し、その結果として新知識を吸収してしまった暁には霧消してしまう一時的な印象にすぎない。

一方、蓮實重彦の著作に触れて、それを知性的ではないとすることはできない。意見には社会的に見て正・不正のちがいが生じうるから、先の社会から見て間違った意見とされる意見を主張することもあるのかもしれない。しかし、それを理由にして、その表現が知性的ではないということはできない。まず、間違った結論にいたる美しい道というのは成立する。そして、特権的な位置にいて趣味的な言動に終止する個人というのは無敵である。ものの見方があり、その見方によって何かが美しく感じられるとすれば、その見方を間違っているとして修正させようとするのはほとんど不可能事だ。もし接触があれば、修正どころかただちに取り込まれるにちがいない。特異なものの見方からくる優美な言説にかかれば、つねに、他者は誘惑されることになる。

それに抗するためには、自らものを読まない人になって社会に参画し、元気に発言していくしかない。しかしそんなことはご免こうむる。そんなふうになるにしては、私は知性的であるということに肩入れし過ぎているようだ。

知性的であるということに興味があるというのは、冷静になって考えてみたらとても馬鹿馬鹿しいことだ。第一、それはちっとも知性的な姿勢ではない。第二に、よくわからない要素を曖昧なまま持ってきて、きちんと整理されていない枠組みでものを考えようとするのは、ただただ混乱をきたすのみで益が少ない。ただ、言っておくが、私は自分が知性的だと考える当のものを賛美したいわけではない。知性については、わからないなりにそれについて考えてみてそれが何かを掴めないかと望んでいるし、自分が知性的だと思うものについては、いつかそれを踏み台にしてその上に行きたいと考えている。優美な言説に誘惑されることを避けるためには、ものを読まない以外にもうひとつの方法が考えられる。もし間違っていると考えられる意見があれば、それについてそのままにするのではなく、その過ちを指摘することだ。

最近の渋谷について書かれた蓮實の言説は陳腐のきわみだ。渋谷をノスタルジーの対象として懐古するというのは、東京育ちの人間が犯しがちな典型的誤りで、特異なところはほとんどない。強いて言うならフランス女の喋るフランス語が自分には「わかる」というやや得意なところが垣間見られるぐらいのものだ。

今日の渋谷が好きだし、明日の渋谷が好きだ。いつか渋谷に興味がなくなったら昨日の渋谷は良かったということは言わないでただ渋谷から去るつもりだ。それが渋谷に対する知性的な姿勢だと私は思う。パリもニューヨークも行ったことはないが、それでもこれぐらいのことはわかる。街をくだらないと感じるようになったならその街には行かない、それが都市生活者の常識というものだ。

ただし、知性的な言説というのを離れて、おじいさん言説を全うするという観点から見れば、今の渋谷は見ていられないという発言についても、キレがあるとは言えないにせよ味わいがある。蓮實重彦が、何を手本にしてか自身で構築してきた「知性的な言説」という枠組みを完全に無視して(それどころかフリにして)、おじいさん芸人というジャンルのパイオニアになっているのを見るにつけ、彼こそが知性的な人間だと感心させられずにはいられない。老いの境涯について、自らレポートするようにして文章を書くのはごく限られたおじいさん芸人にしかできないことで、その著作は著者の特権的地位の賜物だ。これは人間の寿命が伸びて良かったことのひとつに挙げて良い。たとえば、誰かの祖父・曽祖父であるという、関係性に依拠した、単純であり月並みであると同時に特権的でもある、しかし孫・ひ孫以外にとってはとくに面白くもないもののほかに目立った効験が挙げられない情けない社会状況のなか、ひとり気を吐く老人がいる。波を読み、自分がぶつかるべき大波を待っている高齢者の後ろ姿には未来の希望がある。一般に、心の底から長生きしてほしいというのに付け足して、個人的であるとともに社会的な意見として、元気で長生きしてほしいといえる稀有な存在だ。

日記218

存在は知っている

2023/10/01 昨日
映画『ミュータント・タートルズ』を見たあと、日比谷の駅中スタバで日記を書き、千代田線を小田急線に乗り継いで下北沢に戻る。トリキで晩飯&お酒。金夜につづき今週末二回目のトリキはたまたま同じ席に通される。となりのカップルが低体温症を発症しているのかというぐらいテンション低かった。男がトリキを愛していて、女がトリキを愛せていないときによく起こる低体温症の一種だとの診断がおりる。低体温症といえば、下北駅上にできた京都冷麺の店に遅めのランチで始めて行った。冷麺だけあって料理の温度は温かいどころか冷たいにもかかわらず味は美味しかったのだが、氷が工夫されているのかしっかり冷麺しているおかげで完食するとともに身体が芯から冷えた。空腹でちょっとふるえるぐらいのコンディションで食べたからそのまま寒さによる震えに移行して、我ながらちょっとした見ものだった。
トリキのあとドンキという文字にすればわりと結構なかなかなハシゴでハーゲンダッツのマカダミアナッツ味を買い、食べながら帰る。秋本番の涼しさもあってかなりご機嫌だった。
帰宅後SONNY BOYの5話を見る。翌日のつらくてかなしい月曜に備えて早めにねむる。

2023/10/02 今日
冷麺のせいか夜中に腹痛で起きる。ユニクロのフリーの季刊誌に一冊まるまる目を通せるくらいの時間をかけて腹痛をなんとかする。ミラノの大胆なレイヤードスタイル、結構良かった。そこから再度ねむりにつき、しっかりめの夢を見たはずなのに内容を思い出せない。起きぬけには思い出せたはずなのにそこで記憶を定着させなかったのがよくなかった。夢の存在感がそれなりにあったので大丈夫だと高を括っていた。消えてしまえばあっけないものだ。
在宅バイトはタスクをだらだらこなすだけで定時になる。もっとテキパキやれば定時の中でシャワーもできたし、ラジオ体操・スクワットもできたはず。やはり働くときにはぎりぎりを狙うのではなく高みを目指すべきだ。明日はスクワットするぞ。
スタバにきて蓮實重彦の文章についてのブログ記事を書く。それだけでガス欠になり時間も20時45分になったので、9時半にはスタバを出ることにして、それまでのあいだに日記を書いて本を読む。画面を睨めつけすぎて目が疲れた。蓮實重彦の記事についてはベンジャミンのXがトリガーになって書こうと思い立った。俺なりに感じた魅力に直接迫るもっとちゃんとしたアンサーらしいアンサーになればと思ったが、良いと思ったものの良さを表現するのは難しい。(ちゃんとわかっているかどうかあやしいものについて、わからないながらわかり、そのまま良いと判断するところに自分の受容についての特徴があるからだ)
いつか明瞭にアンサーできたと思える記事が書けたら良いなと思うが、どうも自分のスタイルでは難しそうだ。これは言い訳ではなく。

20231001

日記217

ウルトラの街

2023/09/30 昨日
起きてすぐ9時すぎにスタバにいく。読書をする。13時頃に外に出て昼食とどうしようかと考えつつ彷徨い、結局チーズナンを食べることにする。お腹いっぱいになってLUUPで帰宅。昼寝をしてスタバに行くつもりだったが、友人から今下北にいると連絡を受けて街歩きに出かけることにする。LUUPで三茶に出て、世田谷線沿いを歩き若林経由で下北に戻ってくるという短経路の街歩きのあと、夕方の時間を日が沈むまで公園で過ごす。近くにある「月」を見に行ったあと、腹が減ったのでいつもの地下中華居酒屋で飲み食いする。スーパーでアイスを買って駅前の階段に座って食べる。21時半過ぎに解散。
話している中では、俺たちはこの自分のことを持ち上げられるだけ持ち上げきったという台詞が印象的だった。自分自身でも同じことを感じていたからだ。ふたりはこれまでよくやってくれた。折角ここまで来たからにはべつの燃料を見つけてさらに上へと進んでいかないと、そいつらにもわるいと思う。彼らはべつにわるいと思わないだろうし、それを知っているからこちらも本当にはわるいと思っていないが、感謝しつつ次に進むときにはそういうふうにするほうが体裁が良いし、决まりが良い。書けたものを見てもらうというのではなく、書けないときの気晴らしに付き合ってもらうというのが、やってほしいことだ。だから書こうとしているときにはそうばんばん会っているわけにもいかない。
帰宅してすぐのタイミングでべつの友人から暇だったら飲みに行かないかとの誘いがある。もう5分早く誘ってもらえたら行く気になったかもしれないが、帰宅して椅子にどっかと座ったタイミングで酒も十分飲んでいたので出かけるのは難しかった。たまにしか会わない友人にはたまにしか会わないことで発生する価値がある。ちょっとピクミンをやってからねむる。全クリしたと思ったらまだもうちょっと続くのじゃコースに入ってちょっと熱くなった。

2023/10/01 今日
朝はパンケーキを焼いてもらったのを食べる。ふんわりしていてかつ温かくておいしい。
天気は晴れだが半袖で出かけないといけないぐらい暑く、10月なのに情けないと思いつつ昼過ぎにスタバに出かける。読書をして16時前に出る。タートルズの映画を見るために日比谷に行く。
タートルズが想像よりずっと良かった。NYCのアンダーグラウンドシーンの描き方がアニメ的なデフォルメによって戯画化されていながらも結構容赦なく、それがネガティブ方向のメトロポリタン的魅力を伝えていた。都市が好きというのはお洒落なのが好きということなのだが、その足元さらに下に広がる下水スペースの上にそれらが成り立っているという事実を避けられない。清濁併せ呑むではないが(濁部分を呑むつもりは毛頭ない)、清濁混淆の中にあって衛生的に管理されている生活を享受していること(何食わぬ顔で誰かに汚濁を押し付けながらクリーンライフを享受しているということ)に対して、潜在的な意識の中に罪悪感があるので、それを見やすい形で表現してくれていて助かるという側面があった。『V.』でプロフェインが、読者である自分たちに変わって地下に潜ってくれているというのをありがたがって読んで爆笑しているというのに近い。悪だとは言わないが、汚いとは思う。アンダーグラウンドが格好よく思えるとしたらやっぱり幾分かは汚さを平気で受け入れているように見えるところにあるのだと思う。きれいな環境で一秒生活するごとに汚濁に対する抵抗力が低減する。自分は連続何秒間クリーンできれいな環境で暮らしているだろうか。地下生活などはもうとっくに無理だろう。自分が海外に行くことに対して持つ心理的障害の一部にはこれが絡んできている。きれいで安全であるということを所与のものとしすぎている。
ミュータント・タートルズで描かれる汚い液体のイメージは、それが汚い液体だということをスムーズに伝えてくれる。その意味できれいな汚い液体のイメージだといえる。あとは匂いがしないということも大きい。似たようなものに小説のなかで表現される汚い液体があるが、それは読む人の内面にあるものを手がかりに汚いということを表そうとする割合も大きい。どちらもイメージの問題ではあるが、小説が喚起する汚いイメージのほうでは人によって汚いの閾値が違うこともあり、それについてきれいなイメージということはむずかしいが、アニメという視覚表現になると、それがどの程度きれいな汚いイメージなのかというのを客観的に表すことができる。汚いということには不快感と結びつく要素が多くあるが、それをうまくコントロールして、明らかに汚いが不快感は大きくならないという視覚イメージを作り上げているのは、現実感というものを現実を無視して作り上げようとしていることの表れでもあるし、そのリアルを無視したリアリティの構築に成功し、見ているときにはそのままリアルであるかのようにさえ感じさせる難度の高い技工だ。リアリティを離れたリアルがあるわけではないというものの見方にとっては馴染みのある景色というか、不自然なところのあまりない見え方かもしれないが、リアリティにはリアルが必要だと普通に考えている人にとっても違和感の少ない映像だった。NYCという固有名に依るところも大きいのだろうが。ブルックリンブリッジに繋がれているのだったらそれはNYだという無反省意識というか思い込みというか観念的な領域がその場所にはつよく働くのだろう。自分がNYのことを好きなのは、世界的に見てそういう効果がもっとも高い場所のように思えるからだ。ローカルにということであれば、今やそれは東京がかなりの部分引き受けてくれる。
しかし、『V.』でプロフェインが地下に潜って駆除するのはワニだというのがまた良くて、これは東京には出せないスケール感だという気がする。荒唐無稽なイメージの奔流ということについては好き勝手をさせてくれない。パンクチュアルでデジタルな、システムのクリーンさでは右に出るものはないだろうから、そこを押したいところでもあるが、それを押すと結果的にすぐ観念的になったり、必要以上に概念的になったりする。だからもっと地面に近いところを感じているようにしてバランスをとるのが良いのかもと思ったりするが、それだとつい微細な心情に注目が行って、繊細なパートを云々してしまう。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...