20230516

日記109

 

飲むべし打つべし

昨日

スタバで集中して読書したあと、予定外の外食をする。回転寿司が営業時間いっぱいだったので軽放浪したあげくステーキ屋にいってステーキを食う。サラダバーが売りの馴染みのステーキ屋で、サラダバーがもともとの料金に組み込まれていることもあり、貧乏性を全開にして大量のサラダを食う。

店を出てから酒を追加で入れることをせずに、そのまま歩いて帰宅し、わりとすぐ寝る。

明確な目的意識を持たないまま食べる店を探して放浪するとき、それで良い目が出ることは少ない。自分は食について蔑ろにしているところがあるから余計にそうなる。明らかなミスになってもべつに大したことではないと思えるのでわるいことばかりではないが、こういう食事の機会ばかりになるのはもしかすると勿体ないことなのかもしれない。こう思うようになったのがダンジョン飯の影響だとすればすごく単純な話。残念ながらその可能性は高い。


今日

昨夜に引き続き大量の夢を見る。ほとんど覚えていないが猫が出てくる夢を見た。現実世界でそうであるようにゲスト的な立ち位置での猫との交流ではなく、私の、と思い切って言っても良い猫が出てくる夢だったような気がする。夢にまで見た猫のいる生活、その生活でいっしょに暮らす猫を夢に見た。他にもすごい発明をしてしまったり、どこかの部族を滅亡させたような気がするが全然覚えていない。

夢の中での猫との暮らし。全然覚えていないのが残念だ。同時にそれはそのことをこうして書いておいた功(いさおし)でもある。

在宅仕事。昼まではのびのびしていられたから夕方は大相撲三日目を見ようと意気込んでいたのに夕方になってばたばたと仕事が降ってきたせいで主要な立ち会いのいくつかを見落としてしまった。そのうえ一時間ほどの残業になる。

過去の自分には申し訳ないが、こうして昔の職場で面倒だったという日記を読むと、今の自分はどれほど幸運なんだろうと嬉しくなる。

腹立ち紛れに家のドアをバタンと閉めて素早い足取りでスタバに向かう。スタバでも週末旅行のための交通チケットをネットで買うのにさらに30分ほどを費やしてしまう。20時になってようやく『同時代ゲーム』を読む。

疲れているようだ。このときの自分は頑張っていた。大体の頑張りと同じでナンセンスな頑張りだが……。頑張りたくないことはあんまり頑張らないほうがいい。頑張りたいことを探したり、頑張りたくなる要素を見つけたりすることを頑張るほうがよっぽどいい。たぶんそうしようとしていたのだろうけど。

20230515

夢には

夢には限界がある。

寝ているときに見る夢には、現実世界では起こりもしないことや現実世界では出来もしないことを、現実的な感触をいくらかなりと含んだ感覚とともに私の主観に立ち現すことができる。

しかし、現実世界で実際に想像するこの想像の及ぶ範囲の外に夢が出ていくことはできない。夢見ることというのは、現実世界からすれば途方も無いビジョンを見せてくれることであると感じられるのに反して、現実のこの脳が想像する範囲から一歩もでない映像であるにすぎない。たとえどれほど能力が高い人物であろうと、その想像力が群を抜いて高い特別な人物であろうと、彼が一万年前の人間であるなら「電子マネー」を夢にも見ることができないはずだ。しかし現実には電子マネーがある。そして一万年前には想像力が並外れて高い人物がいた。

夢を入れ子状にして夢の夢を見ようが、夢の夢の夢を見たと主張しようが、現実の外に出ていくことはできない。

現実には先がある。一万年後には一万年後の、百万年後には百万年後の現実がある。そして夢は、いとも簡単に想像できるそこにさえたどり着くことができないのだ。それなのに夢を現実より何でもできるもの、想像力の世界の上位に置くのは間違っている。現実こそが一万年後に接続される唯一のものであり、夢はそれを見る主観が消えればただちに消えるものであるにすぎない。

それでたくさんだ、現実に想像できるものや、それよりもはるかに少ないものであっても、夢を見ることができればそれで十分だと主張することはできる。しかし、それを主張することでさえ夢の中ではできない。あくまでも現実の世界のなかで、夢には大きな可能性があると主張することしかできないのだ。そもそも夢には夢の何たるかを把握する能力にも欠けている。一方、現実感の欠損を夢の充実として捉えて、夢の本質を現実感覚の部分的喪失に見出すことは可能である。現実感覚を手放すことで、ひどい現実を手放すことができるのであれば、それは夢の功績となるだろう。恐怖を和らげるために現実を現実として意識することの邪魔立てをする、明らかに意識する状態をいくらかなりと離れる、その役に立つのが夢である。しかし、それでもやはり夢には限界がある。

その役割を果たすだけのためにも、多くの助けがいることだろう。それは毎日の睡眠、アルコール等による酩酊、あるいは教条。思考すること、現実を意識しないために脳を疲れさせること全般。

現実には、今こうして考えている何事かを考えられなくなるということ、今感じている物事を感じ取れなくなるということが含まれる。それがどういうことなのか、夢に想像できるとは思えない。


日記108

標識「重力に逆らえ」

昨日

午前中にスタバに行く。昼ごはんにすた丼で倍々すた丼というものを食べる。ニンニク臭発生マシーンと化す。あとから調べたらにんにく量がすた丼の9倍らしい。そりゃだめだ。

大相撲夏場所初日を観戦する。

せっかくの初観戦の機会なので、同じく初観戦の友人を家に呼んで相撲観戦配信をしながら見る。見る前にはもううすうす気がついていたことだが、これが面白くて驚いた。しかし喜んで大相撲を見るようになったらもうジジイの仲間入りという気がする。昔ラジオを聞き始めたときにもちょっと思ったことだし、落語を聞き始めたときにも思ったことだが、相撲を見るようになったらこれはもうジジイの終点待ったなしだろう。現に子供の頃には何が面白いのか一切理解できなかった散歩が面白くてたまらないのだからとっくに終点にいたのかもしれないが、それにしてもいよいよ「いよいよ」だ。昔は太った人間同士が相手を押したり外に出したり転がしたりする競技の何が面白いのか本気で理解できなかったし、何だったらそんなに昔でもなくつい最近までその認識だったから、そのときの感情というか気分がしっかり残っていて、今相撲が見て面白い競技だと感じている自分とちょっと前の自分とが分裂していて変な感じがする。面白いと思う前とは決定的に違ってしまってもう戻れないのだけどそれが悲しいやら嬉しいやらよくわからない感情になってしまう。まさか自分がジジイになるとはとジジイは皆驚くものなのだろうと想像するが、それに近い気がする。

四股名がたんに格好良い漢字の名前にすぎなかったのが、取組前の面差しや取組の内容や取組後の悔しさのにじむ表情によって力士の名前として印象付けられるのが良い。「明生」「朝乃山」「北勝富士」がぱっと思い出せる名前だが、他にも印象的な人物がいた。

『サンクチュアリ』を一話から見始める。晩御飯は大葉生姜の豚肉巻き。ポン酢で食べると口の中が華やかになって美味しかった。自分の内側からくるにんにく臭に苦しめられているといっそうその華やぎが嬉しくなった。

彼女のドイツ留学時代の友人が毎月仲間と集まって読書会をやっているという話を聞く。直近ではスイスの劇作家フリードリヒ・デュレンマットの戯曲でやったらしい。正直うらやましい。デュレンマット。……正直知らんかった。

自分は「鶏口となるも牛後となるなかれ」を信条にしているわけではないが、ゲストよりもホストでいるほうが気がラクだし同人誌サークルにせよ演劇ユニットにせよ読書会にせよ主催するというのが自然と第一候補になるのだけど、本当にそういう活動をしたいのであればどこかに参加させてもらうというのを真剣に検討したほうがいい。この冬に得た演劇の経験にしても、ゲストとして乗っからせてもらうことで得難い経験ができたのだし、ホストとして運営するよりかなり低いコストでそれが得られるのだから、わざわざ探し回るということはしないでも、せめてチャンスがあったとき尻込みはしないようにだけ心の準備をしておかないといけない。

いや、本当は探し回るぐらいでちょうどいいんだと思う。読書会なんてあるところにはあるもんなんだろうし。


今日

在宅仕事。落ち着いた仕事量だが一日中働く。午後からは大相撲二日目を見ながら合間にちょこちょこと働く。

北勝富士と御嶽海の立ち会いには心底感動した。二日目でこれを見れるのは運が良いのか相撲にはこれだけ熱い取り組みが頻繁にあるものなのかわからないが、もし後者だとすると相撲観戦は一般的な娯楽として当初の想定以上の位置づけになるのは間違いない。決まり手が寄り切りにならずに寄り倒しになるのは寄られる方の抵抗が並大抵ではないのを表している。

相撲が終わってから家を出てスタバに行く。『同時代ゲーム』を読む。

20230514

イージー☆ライター

軽々しく何かを言うことを覚えた。

たとえばこのブログで書いている日記などもまったく内省することなく思ったことを書き付けている。だから読む側は何が書かれてあるのか全然わからない文章に定期的にぶち当たるだろうし、それでまともに読む気をなくすことだろうと思う。だけどまともに読まれなくてもいいからとりあえず読んでほしいという気持ちがある。できたら読んでほしい、読まれるかどうかを自分で決めれるのであれば読まれる方を選ぶというぐらいの積極性はある。ただし、読まれるためによくわからない文章を書かないようにするだとか、もっと要領を得た書き方をするだとか、そういうまともなことをするつもりはない。それをそこまでやるだけの積極性がないと取るか、書きぶりを改める気もなく読んでほしいと望むふてぶてしさをみて積極性があると取るかは人によって意見が分かれるところであるだろう。……というのも、意見が分かれてほしいという願望込みでそう思うに過ぎないけれど、とにかく自分としては積極性を持ってこういうことを言っているつもりだ。

昔は自分の意見というものが自分にとって大きな意味を持ちすぎていて、それを外に出すということに高いハードルがあった。胡乱な言い方をあえて選んで、それで理解されなくても問題ないという安易な道を行くことが多かった。今も昔も、文章によって何ごとかを伝える高い能力を持っているわけではないのだが、昔はとくに、自分が目にしたもののレベルがそのまま自分のレベルだと信じていられたから、自分の能力に自身を持っていられた。他人の褌で相撲を取るようなものだが、他人の褌をそれなりの真剣さをもって自分のものであると考えられるだけの無邪気な定見があった。じつはその考え方は今も続いている。

これは無根拠な自信というものに近いようだが遠い。自分でも掴んでいる根拠が正当のものではないということは認めているという意味で無根拠に近い。しかし、何かを掴んでいると、そのロープの先がどこにも結びついていないにせよ一定の安心が得られるもので、その安心を現実に利用し活用しているという意味ではまったくの無根拠というわけではないのだ。根拠のない自信の持ち主を見ると、つい仰ぎ見る心が発動しそうになるが、その実、彼自身にとってのみ利活用される、たんに一般的ではない、しかし彼にとって確かな根拠がどこかに埋まっているにすぎないのではないかと考えるようになった。それが目に見えるところに無造作に置いてあるか目に見えないところに隠してあるかの違いにすぎない。

たとえば自分の根拠とするものに読書があるのは間違いない。しかし自分のことを読書家だとは思っていない。ブクログというサービスを利用し、ある年以降に読んだ本をすべてインターネット上に公開している。ブクログの本棚を見ると読んだ本の数字が出るのだが、恥ずかしいほど少ない量しか読んでいないことが明白になる。どこまでのラインから自分のことを読書家だといえるのかというのは人それぞれ違うものだろうが、読めば読むほどそのラインが向こう側へ遠ざかっていくのだろうなという予感は現時点でもあるから、無理にそのラインを越えようという気は起きない。それでも読み終えた本を公開しているのは、自分の不足をすこしでも埋めようとする動機を得るためだ。

読む本は面白いに違いないというものを選んでいるので、感想を書くときにはつい慎重になってしまう。たんに面白かったで済ませればいいのだがそういうことをしたくないのでtwitterで感想を言うことをしなくなった。その代わりにこのブログを作って文字数制限を気にしないで感想を言うようにした。それで気づいたのは、twitterの文字数という制限は感想を言うにあたってそこまでの障壁にはなっていなかったという当然といえば当然のことだ。面白いと思ったものについて感想を言うのは簡単なことではない。

だからどの部分が印象に残ったかというのを日記の形式を借りて書くことにした。これは感想を書くことにくらべてかなりやりやすい。しかも書いたものはいくらかなりとも感想としての体裁を保つ。そもそも感想文などというのはそんなに大げさなものではないのだが、自分にとってはなぜか自分の感想がおおごとに感じられるので、こういう工夫によって書かれる感想の数が増えるのはのぞむところだ。小説・映画・漫画問わず面白い作品について言いたいことはもっとあるので、できるだけ印象に残ったところを書いていって、もう言いたいことはないというぐらいまで感想を言いたい。

そういうことをしていると、大したことを感じていないと冷静になるタイミングが出てくる。これは感想を書くことの一番の弊害だと思う。何かを見て感動したことを大したことではないと感じる意味はないからだ。しかし、書いている途中に書いている内容に押されて、記憶の中の感動が薄れていくとしても、それ自体はわるいことではない。反芻するというのは、必ずしも懐古的になってあれは良かったと再確認するだけのことではない。ただ、書いている途中に起きることとして、間違った意味づけを与えたり、感じていることを言葉の進む方向に間違って固めていくことがある。冷静になって考えるというときにはそうなっていないかというチェックをする必要がある。そういうことが起きないように、最初から感想を言うということを控えるというのも理解できる。軽々しく物を言わないという方向性だ。

この方向性を取るのは大学生の頃や20代前半の頃には有効だ。対象をまるごと受け止めて評価・判断をしないというスタンスをとることで下地を作る時期というのは、継続的に何かを楽しもうとする目的にとって重要だ。そうするときには権威に寄りかかってもいいと思う。具体的には賞を獲った映画を見るだとか、名作とされる小説を読むといったことだ。それをやっていくと、見終えるということや読み終えるということはありえないということが理解される。

面白いのか面白くないのかわからないと、そこが半信半疑だと、感想を言うのは不可能だ。面白くなかったという感想を言うこと自体は難しいことではないので、面白くなかったという内容の自分にとって大した意味のない感想は書けるかもしれないが、何が面白かったかということに触れる、意味ある感想を書くのは簡単なことではない。だから面白いと感じることについて、自分なりの根拠を構築するための期間を設けることは、とくに最初期においてはもっとも重要なことだ。

そうやって面白いものを見つけられるようになったあと、「たしかに面白かったのだが何が面白かったのかわからない」という作品の感想を言うことには意味が生まれやすい。面白さを言おうとするなかで全然面白さの核心に近づけないというフラストレーションがたまることばかりだと思うが、無理に掴もうとして変な箇所を取り上げて感想を言うことも多いはずだが、そのせいでいくら頓珍漢な文章になったとしても、その軌跡が示されること自体に感想を書くことの意味がある。ひとつには書かれたものは読み返すことができるからだ。それをきっかけや足がかりにして、再び感想を書くことができる。書かれてあることが「面白かった」だけだと広がらない。あとから見て間違っているように思えたとしても、何か具体的な部分について触れていたり、良くなかった箇所について残されていると、それに注釈をいれる形でも部分的に訂正する形でも、感想が前に進む。それによって理解が深まるのは、その作品についてと、その作品についての自分の感じ方・意見についてである。これは作品を見てその感動を大事にとっておくだけでは得られないものだ。

しかし「そもそもそんなもの必要ない、自分の得た感動はそれほど大きい」というのは実際にあることだ。没入感覚を失わないように感動に浸りきっていたいというのは否定できるものではない。ただ、いくら下手なことを言っても、無理に感想としてまとめようとして書いたり、出来合いの形容で済ませたりということを避けて進めるかぎり、感動というのは少しも毀損されるものではない。たとえば作品がどれほど繊細な部分から成り立っていようと、それはその作品が柔弱なものであるということを意味しない。むしろ感動を与える作品というのはすべからく剛毅だ。それは裏を返すと、得た感動に傷をつけられるような強いことを、感動を受けた当人が言えるはずがないということだ。だから安心して、何が良かったか/どこが良くなかったかを、ひとつでもふたつでも思いつくだけ書いてみればいいのだ。

……というようなことを思って、ブンブン槍を振り回す気分で感想を書いている。十分なスペースが確保されていれば安全だし、長い棒をいい加減にブンブン振り回すのは楽しい。

20230513

日記107

”The Breakfast”



昨日
タリーズから出て一旦帰宅。荷物をおいて再度出かける。夜の散歩目的で三軒茶屋まで歩く。暑くも寒くもなく晴れていて最高の気候だった。これで散歩が良くならないはずがない。三軒茶屋には面白そうな店がたくさんあるなという気づきがあった。そんなのは前から知っていたし当たり前のことだけど、金曜の夜に飲み屋のある通りをなんとなく歩いているとそのことを実感できるという意味での気づきだ。あと、茶沢通りが三茶と北沢と結ぶ道だから茶沢通りと呼ばれているということにも遅ればせながら気がついた。
道中、Tinderのキャッチコピー兼サウンドロゴを発明する。
「パン!パン!パン!パン! Tinder!」
楽しかった記憶がよみがえった。夜の散歩はどの店で飲むよりも最高の飲酒体験になる。散歩が最高のものになる気候条件は、気温のコンフォータブルゾーンの狭いわれわれにとってかなり厳しい条件にならざるをえないが、それを通過してくれる春の夜(秋の夜)が数えるほどだがあるにはあるので、それをできるかぎり逃さないように構えて、ふたりで散歩していきたいものだ。

今日
朝から雨。THE朝食という朝食。フライパンを使って食パンをバターで焼いてもらう。トースターがあるというのに。そんなことは思いつきもしなかった。読書会とそのための読書を午前中から昼過ぎにかけてやる。
この世において「朝食がおいしいこと」以上にリッチなことはない。ドン・ペリニヨンだとか、お遊戯もいいところ。
スーパーまで昼ごはんを買いに行く。帰り道に雨が降り始めたので悔しくて、悔しさを紛らわすために、いやむしろ悔しさによって気分を盛り上げるために、無糖氷結を飲みながら帰る。マイケル・ジョーダンラストダンスを見ながらご飯を食べて昼寝する。
嬉しくて酒を飲み、悔しくて酒を飲み、いい天気だからと酒を飲み、天気悪いからと酒を飲む。中毒者ではないかと言わないでいるのは難しかった。
いろいろな夢を見て目が覚めたら真っ暗になっていた。19時半という時刻を確認し、べつに用事もないが飛び起きる。『同時代ゲーム』を読む。
すかすかの一日! しかしそれを日記に書いていてえらい。
昼寝ではなく朝方に見た夢だと思うが、格闘技か何かのスポーツの優勝パレードのようなイベントで、鈴鹿サーキットの闘技場形式になっている広大なオフロードコースを貸し切って、レース車のフロントガラス側のボンネットに専用の器具を装着し、優勝メンバーがそこに直立した状態で場内をぐるぐる回るという催しに参加した。自分はレース場内にいたから優勝メンバーの一員だったのだと思うが、スター選手のひとりに目が釘付け状態になっていた。上下白の衣装を着て腕組みをしながら慣れたように車の上に仁王立ちになっていて格好良かった。他にもいろいろ見たが例によって例のごとく全部忘れてしまった。
この日も夢を見た。だいたいいつも単純なというか小中学生が見るような夢だ。いくら見栄を張りたくても中高生が見るようなとは言えない……。

20230512

日記106

下北沢駅南西口

昨日
スタバを出て酒を飲んで帰ろうとしたところ、同居人からMacbookとiPadを入れたカバンをどこかで落としたという連絡が入る。ほんの1ヶ月前にも同様の騒ぎを持ち来たし、そのときも蒼白になっていたのにまた同じことを繰り返し、同じように蒼白になっているのに笑ってしまう。

そのときは運良く見つかって事なきを得たのだが、今回はもうだめかもしれない。さらに話を聞いていると、PCバッグを紛失するのは今回で3回目だという。べつに信用どうこうと言うつもりはないが、自分の大事な荷物を預けてはおけない人間だとは思う。自分は貴重品は自分の手で持つ主義だから問題ないが。

二日間飲んでいなかったので、久しぶりの酒の味が余計な味付けで変わってしまったのが残念といえば残念だった。月といえば秋だと無意識に思っているけれど、五月の月も同じぐらい良いものだという当たり前のことに気がついた三日前の気分で酒を飲みたかったのに、降って湧いたおもしろ事件のおかげで、相手の不注意・無反省をやいのやいの言いながら飲む、わいわい楽しい酒になった。

出だしから結構辛辣な書きぶりで怒っていたのかと思ったが、読み進めていると分かる通り、書いている時点では全然怒っていない。ただただ驚き呆れるばかりだ。そういう古語があったよなと調べると「あさまし」という検索結果が出てきた。まさにあさましだ。


今日

在宅仕事。この一週間の忙しさは昨日で峠をこえたので、比較的落ち着いて時間を余らせて終えることができた。途中家事の洗濯をこなしたのだが、晴れの気候が気持ちよすぎてタスクという感じがゼロになっていて良かった。五月晴れをリーズナブルに味わえる機会としてちょうど最適だった。

晴れの気候というのはそれだけで良い気分をもたらすものだが、こうしてわかりやすいインセンティブがあると尚の事良い気分になれて、家事労働という感じがごく僅かになる。

結局、同居人が紛失騒ぎを起こしていたPCバッグは昨日立ち寄った店で無事見つかったとのことだった。一番スペックの高いMacbookと買ったばかりのiPadで合わせて60万円以上する落とし物だったので、逃さなかった魚は相当大きい。

これを機にリュックを使い始めたりして、うっかり置き忘れということが起こらないよう対策をしているからか、その後一年のあいだ紛失騒ぎを起こしていない。こういううっかりミスへの対応は「心がけ」なんていう心もとないものにするべきではなく、実際の行動に干渉できる実践的な働きかけこそが重要ということだ。

いつものスタバに行くも満席だったので新しくできたタリーズに行く。オープンのスタッフが初々しくもフレッシュで、昔四条烏丸のタリーズでオープニングスタッフとして働いたときの楽しい思い出が蘇った。とくに「コンアモーレ」という呼びかけあいが端折られずにきちんと行われているのが良かった。東京に出てきてから行くタリーズ、行くタリーズのほとんどすべてでコンアモーレは聞かれなかったし、そもそも元気のない店舗が多かったので、嬉しさもひとしおだった。自分はお客にとってそんな元気に働いていたわけでもないのに、客になるとえらそうに講評したりして良くないとは思うけど、手前味噌ながらわれわれチームはかなり良かった部類なんだと気がついた。もちろんあくまでタリーズにしては、だけど。

タリーズの人たちはスターバックスのことをバックス様と呼んで敬っていた。

『個人的な体験』を読む。超然として人生の達人じみてみえる火見子が、彼女の主観からは全然そうではなく動揺しているのだと明かされる描写によって、鳥(バード)のテンパり具合がわかるようになっていることや、火見子の好感度が上がるようになっているのは一石二鳥でよくできていると思う。火見子を通して鳥(バード)への共感も(もともと全然共感できないというようにはなっていないにしても)スムーズにできるので、相乗効果がある。

『個人的な体験』を読み終わる。オーラスのアスタリスクふたつ以降の文章を含む結末には感情が揺さぶられて実際に身体が震えた。これまで自分は小説の情景描写について興味を惹かれにくいというか情景描写について冷淡というか不感だと勘違いしてきたということに、この小説を読んでいる途中で気づいた。読んでいる文章が情景描写だと感じられるときの読書の体験は、小説のなかに入れていないときにしか起こらない。つまり、優れた情景描写は読者たる自分にとっては情景描写だと気づかれないまま小説を推進させる小説の一部分になるということだ。思い返してみても、情景描写を情景描写として感じるのは小説の冒頭部分にあるそれに集中していた。まだ小説の中に入り込めていないときに、自分の想像力がじゅうぶんな推進力を持っていないとき、車軸が回転していないときに、情景描写が情景描写として感じられるのにすぎない。どれだけ集中して読んでいても会話シーンは会話シーンとして頭がそれを捉えている。しかし、情景描写シーンは本当に透明なレンズとして目の前に現れるということが、小説を読むという体験においては起こっていることなのだ。

つまり情景描写であると意識されない描写が最良の描写だということで、この論点はわかりやすいしそれなりに重要なことを言っていると思う。しかし、描写然として感じられつつ、なおその威力に圧倒されるということも傑作小説における最良の場面では起こり得るだろうし、例外はあるなかでの大まかな原則ぐらいの意見だ。

20230511

逆走せよ人間

自分の常識にたよって生きていると、知らず識らずのうちに、頭に浮かんでくる選択肢が減っていく。自分なりの判断に自分なりの美学を用いて決定していくということは基本のきだが、それ一辺倒になると雁字搦めになる。雁字搦めになったらなんとか結び目を解こうとするので生じる結果としてはまだましなほうで、よりわるい場合、考えているつもりでいてその考えが及んでいる範囲が極狭(ごくせま)ということになってしまう。「考えた結果、わたしはこう行動する」ということの繰り返しが良い行動に結びつくというのは統計的に正しいだろうが、そこには罠がある。われわれは(私だけということはないだろう)、考えた結果の結果には固執しやすい。なぜ固執しやすいかといえば考えたという積極的行為がその前に挟まっているからだ。しかも考えた場合、考えた結果についてこだわることを固執したと感じ取りづらい。対立する意見を「考えていない結果」だと簡単に決めつけてしまうのだ。これは二重に間違っている。考えた結果と対立するからといってそれが考えていない意見とは限らないというのがひとつ。こちらはまだましなほうで、考えた結果だと比較的過ちを見つけやすい。考えれば考えるほどそれに気づけるチャンスが増えていくからだ。もう一方のミスはより見つけづらい。それは「考えられた意見がつねに正しいとは限らない」ということだ。オープンなやり取りができるような知的にめぐまれた環境であってもこれは盲点になりうる。たとえばピラミッドはひとつひとつの岩を積み上げた結果としてこの世界に屹立している構造物だが、じつはそういうふうにできていない構造物のほうが数多い。このことには簡単に納得できても、自分が置かれている立場で何を選択するべきかというようなことが俎上に載せられると、知的な判断がともなうといささかなりとも感じられる場面になると、あっさりしりぞけられる。

それがまったくだめだというわけではない。継続的に見たり、統計的に考えるのであれば、考えることに決め打ちするほうがいい結果に結びつきやすいとも思われる。ただ、自分の考えることに自信を持ち、それを恃みにしながらも、そこ以外にルーツを持つ流れを自らに引き込む回路を用意しておくのはかなり重要なことだと思われる。そのほうが冗長性があるだとか、バックアップを用意するためというのもそうだが、それ以上に、「外」は自分の考えそのものにとって重要な要素になりうるということだ。ただし、それとして用いるのに、自分ではない他人が考えた結果を持ち出すというのはあまりふさわしくないかもしれない。同じ時代の人間が考えることなどは似たりよったりの結果になるからだ。それが考えた結果であればあるほど外的要素とはなりえない。未来方向の合理性や過去方向の因習もたぶん外的要素というには外の空気がうすすぎる。全然考えないで、理に合わないことを喜々としてやっている、(自分から見て)逆走する人間というのがもっとも外的な存在だと思われる。動物や機械ではあまりに合理的すぎてその用を足すための役に立たない。合理的には考えない人間というのが、われわれの用途にもっともふさわしい他人の呼び方であると私には思われる。

われわれは自分自身にとってベストの考え方をする存在でありたい。そこに向かって存在していきたいというのは、誰もが確実に、おぼろげに感じていることだ。そうであるなら、お互いにとっての逆走人間をお互い排斥せず、むしろ大いに利用しようではないか。これが、私のやっていることを見て「ああこれは完全な逆走人間だ」と感じるあなたに対して私が提案できることだ。なお、「逆走してはいないけれどコースアウトしているね……」でも可。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...