20230511

日記105

現代の鏡磨き職人の手による仕事『新緑』


昨日

2日続けての出社。一昨日の反省を活かし睡眠時間を充分にとったため、調子が良かった。ただやはり普通に忙しく、その調子の良さを仕事に消費させないといけないのが口惜しい。ただ急いでペダルを漕ぎ続けることで残業は回避し、予定していた映画を見に行くことには成功する。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3』を見に行く。結論から言うと面白かったが期待ほどではなかった。

ガーディアンズ好きは例外なく全員ロケットが好きだが、ロケットの過去を掘り下げるか否かというのは難しい問題で、ロケット好きのあいだでも掘り下げられたくない派と掘り下げて欲しい派とに分かれる。今作は後者のための映画だった。

しかし、掘り下げられたくない派もロケットが好きなことには変わりないので、掘り下げられるということになれば、掘り下げることに対して期待もすれば楽しみにもする。

今回のロケットの掘り下げは、まあそうだろうなというもので、1,2で得たロケットの印象を変えるものではなかった。ロケットはあの身なりに反して凶暴で、その凶暴さに反して優しいところがある。だから皆ロケットのことが好きになるのだが、その優しさの原因を掘り下げて欲しいとは思わない。ロケットは、クイルに出会う前にはさぞ苦労したんだろうなと想像するけど、それを明らかにしたり、その想像を本人に直接訊くということをしないのが、われわれのあいだで交わされなかった約束もとい節度という気が勝手にしていた。

いわばBGMとしてロケットを聴いていて、そのときに聴こえる音が言いようもなく素晴らしいものだったのに、頼まれもしないのに勝手にライブをやって勝手にライブCDを制作したようなものだ。BGMを前面に出すのはガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの流儀だからそれも良いだろう。ポストクレジットの無音楽の味気なさは良い演出だったとも思う。しかしこれまでは音楽が良いということを音楽は良いということを言わずに音楽そのもので表現していた。ロケットが優しいということをロケットが目立って優しい行動を取ることなく表現していた。

映画の最後を、キモくて害のある生物を前に「かわいそうだけど」と言いながらも容赦なく撃つロケットでしめるのは良かった。ひねくれていて見え方がくるくる裏返るのがロケットの魅力なのであのラストは必然だし、それを躊躇なく選べるのはさすがジェームズ・ガンだと感心するが、ロケットのその部分はそっとしておいてほしかったというのがロケットの過去を掘り下げられたくない派の意見、忌憚ない意見だ。

ガーディアンズが順調にMCUに組み込まれていく感じがあってそれへの反感もあるので、よけいにこの部分が嫌になるのかもしれない。MCUのキャラクターだというだけで、ウルトラマンがソフビの人形にさせられたかのような魅力の減退を感じて目の瞑りようがない。最初の”何者かわからない”ときにあったガーディアンズの出自不明の魅力がしぼんでいって、かわりに記号的な挨拶や目配せで観客に尻尾を振るただの気の良いアナグマに堕してしまった。結局、出自を掘り下げることで引き起こるのは、ただのMCUメンバーになるだけのことで、じつはこの登場人物はかくかくしかじかの理由を抱えているのではないかと知らないまでも感じているときにあったつながりに替わって、キャラクターグッズの売上に貢献する「良いヤツ」というスタンプが押されることだ。

そいつの過去を知らないでも、そいつの過去を感じているだけでそいつのことが好きになるというのは無責任な態度なのだろうか。普通に考えてそうではないということは、クイルがロケットの過去を知らないままでいながらふたりが切り離せないバディであったことからも明らかだ。クイルが無責任なやつではないとしての話だが。

これはガーディアンズギャラクシー3についての不満だが、一番盛り上がっているときのMCUにも感じてきた不満というか、彼らのスタンスに関する批判になっていると思う。すべてに光を当ててコントラストを最大限くっきりさせることでそういうフィルターがかかった加工写真のようになっている。すべてが線画になる。線画がだめというのではないが、すべてが線画で表現されているということに対して趣味が合わない。隈なくすべてがそうなっているというのもそうだし、それを適応できるテーマに絞り込んでいる枠組みのほうにも物足りなさを感じる。


今日

在宅仕事。19時過ぎまで残業。疲れ果てて出かけないと思ったけど、何も考えずに家を出て正解だった。スタバで『個人的な体験』を読む。

早朝4時頃に千葉で発生した自身の地震アラートで途中目覚めさせられたものの基本的によく寝たので調子が良かった。なのに仕事で消耗して疲れて出かけないのでは何のために今日一日があったのか意味不明になってしまうと思って出かけることにした。だから何も考えずに家を出たという言い草は実際ではない。あまり考えないで書かれた文章だった。しかしこの言い草にしても気分的には正で、疲れているときにじっくり考えて判断しようとすればつい休むほうに何もしない方に傾いていってしまう。適当に切り上げたり、いい加減なところで結論を出してそれに従うのが結果良かったりする。そういう意味で何も考えずに家を出るというのはあながち嘘八百というわけでもない。

自分の常識にたよって生きていると、知らず識らずのうちに浮かんでくる選択肢が減っていくということを考えた。自分なりの判断に自分なりの美学を用いて決定していくということは基本のきだが、それ一辺倒になると雁字搦めになる。雁字搦めになったらなんとか結び目を解こうとするので生じる結果としてはまだましなほうで、よりわるい場合、考えているつもりでいてその考えが及んでいる範囲が極狭ということになってしまう。考えた結果、わたしはこう行動するということの繰り返しが良い行動に結びつくというのは統計的に正しいだろうが、そこには罠がある。われわれは(私だけということはないだろう)、考えた結果の結果には固執しやすい。なぜ固執しやすいかといえば考えたという積極的行為がその前に挟まっているからだ。しかも考えた場合、考えた結果についてこだわることを固執したと感じ取りづらい。対立する意見を考えていない結果だと簡単に決めつけてしまうのだ。これは二重に間違っている。考えた結果と対立するからといってそれが考えていない意見とは限らないというのがひとつ。これは考えた結果だと比較的見つけやすい。考えれば考えるほどそれに気づけるチャンスが増えていくからだ。もう一方の過ちはより見つけづらい。それは考えられた意見がつねに正しいとは限らないということだ。オープンなやり取りができるような知的にめぐまれた環境であってもこれは盲点になりうる。たとえばピラミッドはひとつひとつの岩を積み上げた結果としてこの世界に屹立している構造物だが、そういうふうにできていない構造物のほうが数多い。このことには簡単に納得できるとしても、自分が置かれている立場で何を選択するべきかというようなことだと、知的な判断がともなうといささかなりとも感じられる場面だと、あっさりしりぞけられる。

それがだめだというわけではない。継続的に見たり、統計的に考えるのであれば、考えることに決め打ちするほうがいい結果に結びつきやすいとも思われる。ただ、自分の考えることに自信を持ち、それを恃みにしながらも、そこ以外にルーツを持つ流れを自らに引き込む回路を用意しておくのはかなり重要なことだと思われる。そのほうが冗長性があるだとか、バックアップを用意するためというのもそうだが、それ以上に自分の考えそのものにとって重要な要素になりうるということだ。ただし、それとして用いるのに、自分ではない他人が考えた結果を持ち出すというのはあまり適当ではないかもしれない。同じ時代の人間が考えることなどは全然似たりよったりの結果になるからだ。それは考えた結果であればあるほど外的要素とはなりえない。未来方向の合理性や過去方向の因習もたぶん外的要素というには外の空気がうすすぎる。全然考えないで、理に合わないことを喜々としてやっている、(自分から見て)逆走する人間というのがもっとも外的な存在だと思われる。動物や機械ではあまりに合理的すぎてその用を足すための役に立たない。合理的には考えない人間というのが、われわれの用途にもっともふさわしい他人の呼び方であると私には思われる。

自分や他人が思う「こういう人間」というイメージを裏切る行動を示せる人間というのが、逆走する人間ということになり、イメージの裏切り行為のことを逆走というのかもしれない。

たとえば音楽のイメージがない人が突然ラブパワー全開の歌を作ってきたりするなど。そこまで大それた営みではなくても、普段とはすこし違う服装を選んだり、髪型を変えてみたり。イメージを覆すということには面白い発見という結果が待っている。それは他人にとってもそうだし、おそらく当の自分自身にとっても、新しい自分を発見する契機になるはずだ。変化そのものはもともとゆっくりあるのだろうが、それが顕在化するのは他人の目を借りるほうがわかりやすい。自分自身の変化はアハ体験のゆっくり変わっていく絵のようになされていくものなので、時間的隔たりを自然に持てる他人のほうから見えやすい。

自分に不満があるから変化するというのも考えられるだろうが、不満などなく、今の自分に満足しきっていて、なお変化を求めるということもある。不満があるからその解消を目論むという単線的な「動機」の究明は、とにもかくにも答えが出る以上の効用があるわけではない。そうした一応の回答は、一夜の安寧にはじゅうぶん寄与するかもしれないが、最後まで続くようなものでもなければ長続きするものでもない。しかし、一夜の安寧というのも馬鹿にはできないもので、そうやって一夜一夜とやり過ごしていくというのもじゅうぶん実践的な方法だとも考えられる。幸福を目標とするものにとってまず何よりも大事にするべきなのは今この瞬間であるに違いなく、それと地続きの今日、今夜、明日が楽しく過ごせるのであればそれに越したことはない。明後日のことばかり考えているのでは本来大切なものであるはずの今がなおざりになってしまう。

いろいろな思惑やお互いの過去が瞬時に交錯するから、言いたいことを言えないこともあるし、聞きたいことを聞けないこともある。他人と話をするときには当然起こり得ることだし、その不可能と可能がせめぎ合うこと自体が、他人と話をするということだ。こちらの得たいものを無制限に得られる状況があるとすればそれは会話とは言わない。つまり会話である以上、こちらには掴みどころのない相手の印象が積み重なっていくことになる。その印象をまとめるのが外形的な雰囲気という視覚情報になるのも無理からぬことではある。それでもできるだけそこにまとまっていかないように、感情が一箇所に集約されていこうとするのを自ら引き止める必要がある。相手を簡単にひとつかふたつの単語でまとめようとするのは、せっかく目の前に実在してくれている存在を単なる記号のひとつにしてしまうも同然のことだ。しかし、そういった安い願望、印象をある一箇所に集約してしまいたいという感情が引き起こされるのもその存在の実在によってであり、その邪気のないシンプルな綱引き遊びがどういう流れでそうなったのか不明なまま、いつの間にか綱渡りになっているというのも、よくある光景ではありながらその状況に自分たちを追い込んだ当事者にとっては抜き差しならず切羽詰まって感じられる。綱渡りで渡る綱は綱引きのおかげでテンションがしっかりしているものの、足場として盤石という太さではまるでないし、間違って下を見下ろせばちょうど足がすくむほどの(間違って落ちれば無事では済まされないほどの)高さに張られている。そしてその危険こそがふたりで始めた綱引き遊びの結果であり、そこに実在する楽しみの大部分を占める要素ということになる。

ともあれ、つい言いそうになったことについて、そのまま言えばよかったと若干後悔し、同時に言わないでよかったとも思うというのは、本当にひとり遊びとして遊ぶ「ひとり綱引き」だし、自分の右手と左手で引っ張った綱に乗って「ひとり綱渡り」をするという具体的にどういう姿勢でやればいいのか想像もつかないアクロバットを自ら実演する好機に恵まれたということであって、自分のやったこと・やらなかったことについての高評価および自らの幸運を悦ぶ気持ちにつながっている。それが結果的に自分と崖上とを結ぶ命綱になっていたのだと思う。崖から跳んでいながら死なずに無傷で生還しているとすればそれは命綱が機能したからだ。そもそも死んでもいいなんてもちろん思っていないし、結局のところ、跳んでもいないというのがふたつめの答えだ。



20230509

日記104

 

商店街の出口

昨日

GWが終わった。在宅勤務で定時まで働く。LUUPを駆使して、GW4日目にも行った漫画喫茶に行く。道中買ったベビーカステラを食べながら漫画を読む。竹光侍8巻と鮫島最後の15日8〜20巻を読み、竹光侍とバチバチシリーズを読み終わる。ここは午前2時までいられる最高の漫画喫茶なのだが、この日はめあての漫画を読み終わったのと翌日に出勤日で若干早起きなのとで22時頃には帰宅する。油断してランジャタイの漫才を見ていたら寝るのがすこし遅れて24時ごろ就寝。

『鮫島最後の15日』の終わり方について、思っていたのと違った。急逝というのが気にかかる。どうしても続きを書きたいと切望しながらそれが叶わないというのではなさそうだと思えてしまう。

バチバチシリーズ(以下バチバチ)は白水というキャラクターがとても良かった。かっこいい、絵になる三枚目という漫画キャラの位置づけではゴールデンカムイの白井と並び立つ。彼は明らかなコメディリリーフだが、アンチクライマックス、アンチヒロイズムとしてのユーモアがあってバチバチを読ませる漫画にまで押し上げていた。「生き様」というような格好いいセリフを吐く若い主人公に足りない要素すべてを担っていた感さえあった。「横綱は神の依代と呼ばれる」みたいなことを言って見栄を切ったこの相撲漫画のおかげで相撲に興味を持ったが、この漫画の途切れ方で冷静さを取り戻した。生きるか死ぬかという線上をいくスリルを使うのでは物語としての魅力そのものはうすい。真剣・命懸けというのはあまりにもリニアな価値観で一本調子に落ちてしまう。『ちはやふる』を読んでいて途中までは熱かったけど、どんどん実力が上がってきて真剣味が増すにつれ、そもそもなんでこんなに真剣にやっているんだ・苦しむ理由はどこにあるという疑問が出来して熱が冷めていった感覚に近い。バチバチの場合はもっと極端で、火花のように燃え尽きた。一瞬で熱くなって一瞬で冷めた。こういうことを言うのをシニシズムに取られるのは仕方ないことかもしれないが、そうではなく、自分としてはむしろバチバチのほうにシニシズムを感じる。「面白くない人生は人生ではない」というのは頭を使わないで考えているとついそう思ってしまうたぐいの直截なテーゼだが、それを大真面目に扱い、地で行こうとしている。もちろんその姿勢には魅力がある。しかし退廃的な魅力だ。

横綱を見るために相撲を見ているのではない。そういう人もいるかもしれないが、そういう人ばかりではないと思う。

「面白いと感じるところに面白さがあり、客観的な面白さというものは存在し得ない」というところから目をそらしているというように見える。土俵の上にしか面白さがないというのは異常だが、それに共感できるものしか登場しない漫画なので、わるい意味で少年漫画だといえる。閉鎖的で外側がない、そしてそれが純粋な強さに変換される機構がある。純文学あるいは純粋培養という言葉遣いが持つ悪弊と同じものを共有している。

それに真剣勝負ということで何かを測ろうとするなら『竹光侍』には及ぶべくもない。土俵の上での真剣勝負という悠長なことは言わずもっと唐突に命が失われる。時代もあってのことだが、その真剣さを良しとするわけにいかない以上、真剣さやシリアスということについてそれがあればあるだけ良いとは言えない。

なぜそれが良いのかわからないものが良いと感じられることがあるとそれには感心させられる。それがユーモアということの意味だと思う。そういう意味で白水は良い。格好わるくてかっこいい。それに比べて鮫島鯉太郎はかっこよくて駄目だ。勝ち方に凄みも説得力もない。

一方は良くてもう一方は良くないというのは単純化してそう言えることにすぎないのだが、それでも自分の単純化の仕方、つまり自分のものの見方はこういうふうになっているということを示すことはできる。

ところで、2Fにある漫画喫茶にはカウンター席があり、窓から外を見ることができる。そして道を隔てた向こう側には居酒屋がある。その居酒屋にもカウンター席があって、窓に背を向けて飲んでいる人影がみえる。この日はたまたま二人組の若い女性が酒を飲んでいた。こちら側の窓の下半分は曇り加工になっていて、座った姿勢のままでは背中をピンと伸ばさないと居酒屋の様子は見えないようになっている。漫画喫茶にいるのだから漫画に集中しないといけないというのではないが当然漫画に集中してしかるべきところ、不自然なほどピンと背筋を伸ばしながら漫画を読んでしまった。べつにこれといった理由もないのだが、窓の外のことが気になるのだ。自分でもそれがなぜなのかわからないし、不合理だと感じるのに窓の外のことがとにかく気になる。なぜなのかわからない。しかしもちろん、これはユーモアとは関係がない。いつの間にか背筋を伸ばすのを忘れているうちに漫画を読み終わって、おもむろに窓の外を見たら別の男二人組が酒を飲んでいた。LUUPのチャリを漕いで家に帰った。


今日

大崎の引越し先オフィスに初出社する。以前のビルより縦長になったこと以外は全部以前の環境に劣る。WiFi飛んでるのは利点だけどそれを言うとこれまでWiFi飛んでなかったことが異常ということになるか。

定時で帰って渋谷のチャーハンがうまい店で高菜チャーハンを食べる。帰りがけに外で映画見れるイベントに通りがかり中身が『スパイダーマンFFH』だったこともあり階段に座って映画をみることにする。15分だけ見て離脱。最初の5分で見たかったNWHと勘違いしていたことに気づいたが、FFHも面白かったような記憶があるしと頑張ろうとしたが思っていたより気温が下がってきたので腰を上げた。階段部分の石が冷たいうえ固く我慢できなかった。

エクセルシオールで『個人的な体験』を読む。読みやすいのは読みやすいが、まだ『ピンチランナー調書』ほど面白くない。

小説とか漫画とかお笑いとかと何の関係もない楽しくない生活があると思うが、その生活が楽しくないまま続くことの意味がわからない。だからやっぱりなんだかんだ言って楽しいんだと思う。どこかの高度な一点を想像してそこから見たこの自分の生活が強烈に楽しいわけではないとしても楽しくないとは言えないのと同じことだ。楽しいと口に出して言うのは、ある意味で開き直りに近いことだと思う。人に言い聞かせないでも自分に言い聞かせないでも楽しいと言うことはできる。それこそものの見方というか決めの問題だと思う。いずれにせよ重大に考えるようなことではない。自分には想像しにくいことであるが楽しくないということも同様、まったく重大なことなどではない。楽しくないということはアイデンティティにはならない。楽しいということも同じ。ただ言ってみるだけのことで、念仏のようなものだ。

この一年、いや少なくともこの一ヶ月、この一週間、一日は本当に楽しくてしょうがない。日記にそういう所感を書けたらと思っているが、この一年の日記にその楽しくてしょうがない感慨がどれだけ写し取られているだろう。あまり自信がない。日記の記述は楽しかった事実に十分見合わないにちがいない。どうすればいいのか。だからせめて「面白い」とだけ書くのをやめろというのに。

20230505

句1

be動詞月isきれいとおぼえたり

日記103

 

近景:緑、遠景:人

昨日

午前中に緑道まで行って考え事をする。帰ってきてから昼寝。下北沢のもうやんカレーに行って遅めの昼食。新規開店の抹茶アイス屋でダブルのアイスクリームを食べる。各駅停車で井の頭公園駅まで移動。公園内を散歩しながら三鷹まで歩く。

17時過ぎから三鷹でBBQをする。文字通りの青天井で気分が良かった。9人ぐらいの人がいていっしょに飲むということの盛り上がりもそうだけど、この日の気分としては暑くも寒くもない季節にのんびりした気持ちで酒を飲めることが良さの中心にあった。それでいうと井の頭公園でパフォーマーのバイオリンを聞きながらぼーっとしたことが一番良かったかもしれない。身を乗り出すほど楽しいみたいなことは、何かをやっているとき以外に感じるのは難しい。微温的に参加者皆一様に楽しいというところを目指すBBQのようなイベントは、日々のちょっとした楽しみとして機能するけれども、それで期待を超えた満足を得るのは無理だと思う。昔は緊張の中、一瞬それがあったりなかったりしたと記憶しているが、今は緊張がないかわりに飛び抜けた一瞬もない。

とはいえチルするのは当然良いことだ。ただ自分は毎日毎日つねにリラックスしていて、普段緊張の中にいないわけで、そうすると求めるのは自然緊張のほうになる。演劇のWSだったり、インタビューだったり対談だったり。緊張しすぎてグダグダになったりぼろぼろになることがあっても、身を乗り出す以外の選択肢がないほどの楽しみがある。問題はチルするのが良いとされるBBQなどの場でも若干の緊張があって、場を流すために自分のお決まりのパターンや定形表現を手放せないところだ。全然ちがうやり方を試してみてもいいはずなんだけど、いつも同じようなことをやってしまう。

早めから飲み始めてしまうと乾杯時のピークが無くなってしまうというマイナスがある。それでもいい会であればそれでもいいが、このときのBBQなどはどうだったか。もう一度頑張るということもすでに酔っているせいでやろうとは思わないというのもある。


今日

朝8時過ぎに起きてスタバに行く。そのために昨日のBBQ夜の部を途中で抜けてきたんだからまあ当然なんだけど、朝からきちんとまだ混んでいないスタバに座っていられるのには満足感がある。

いいかげん小説を書かないといけないと思って、書かれるべき小説の骨組みを考えている。

題材がないのにそれを全部頭で生み出そうとするのは骨が折れるので、というか骨がいつまで経っても組み上がらないので、外から材を取ることにする。つまり取材をするということだが、ある程度、この年のこの場所ということを決めないと取材範囲も広すぎることになるので、ある程度の部分をどうするか考えている。自分が生活したことのある時代を、今の視点から振り返ってみようというのが動機の面でも自然かなと思う。あとは場所をどうするかだが、奈良・京都・大阪が自然といえば自然なのだけど、関西というのはどうも気が乗らない。

ローカルな内容というのは固有名詞を使わないことである程度は稀釈できるからそれでいいとして、いまの自分が、生まれた当時の時代を生きていたらというifを膨らませるのが自分がいま書きたいことであるように思える。今これを書きながら思えてきた。

一見題材になりそうなものはあふれている。興味深いと思えるもの、魅力的な人というのはテレビや動画を見ているととにかく数が多い。しかしそれらが題材になることはない。きれいに整えられたりカットされたりする過程で、小説の題材として必要な部分が失われているからだ。だから画面を通さない実物を知る機会があるという奇特な状況でもないかぎり、いくら面白そうな人でも画面越しの面白さを真に受けるわけにはいかない。

ただし、そう思って見ていてもその魅力が消えるというのでもないし、画面越しの整えられた魅力によって目の前の人物の魅力は自動的に相対化され、面白さが目減りする。だから画面を見ないというのが外から題材を取ろうとするときの唯一の正解だと思う。

一旦帰宅し、パーソナルチェアに座ってうたた寝につぐ転寝をする。

夕方前に家を出てNCP(中野セントラルパーク)まで出かける。強風で砂埃が舞う劣悪な環境だった。何よりも昼日中の暑さにあわせた服装だったことにより、寒さに耐え兼ねて中野ブロードウェイに避難する。しかし怪我の功名とはこの事、『竹光侍』の6,7巻を見つけゲットする。その後サンロードのドトールで『個人的な体験』を読む。近くのリンガーハットで野菜たっぷりちゃんぽんを食べて帰る。

このときから小説を書くということは進んでいるのか。目に見えて進んでいる部分はない。というよりそこは今止まってしまっている。構想はすすんでいるかといえばそんなこともない。構えの部分を試行錯誤している段階というのが正直なところで、たしかに重要な部分とはいえいつまでもそこに時間をかけられない。

20230502

『Sunny』について

今年の年始に友達とおそくまで飲んでいて、未来に3人だけ漫画家を残せるとしたら誰を残すかという話をした。
われわれは普段人類愛にあふれるというタイプではないが、それでも、できるだけ美しいもの面白いもの優れたものを遺したいと思うほどには人類を、あるいは文化を愛している。
自分には3人を選ぶ準備ができていなかった。だから個人的な趣味ではなくごく穏当な常識的判断になるが『ハンターハンター』の作者、『ピンポン』の作者として2人を選んだ。あとひとりは悩みに悩んだが答えは出なかった。あまり考えないでも2人の名前が言えたことにはさして驚きはなく、あとひとりがどうしても出ないことのほうに意識を取られた。
酔いにまかせての放談スタイルで、昔はもっとそんな破天荒ともいえるスタイルで全然すれ違いながらも全然すれ違いを気にせずにお互い好き勝手なことを喋り合っていたのだが、ここのところそういった放談の機会も順調に減ってきていて、久しぶりに楽しく好きな漫画のことを喋りあったのだった。
しかし酔っていない今となって、なぜそんなことを言えたのかと不思議なことがある。酔っていないときでもこの2人の名前はすぐ挙がるのでべつにそこは不思議ではないのだが、松本大洋の名前を『ピンポン』の作者として出したのは、どう考えてもおかしいと思う。3人だけの漫画家、そのひとりとして松本大洋の名前が挙がるのは『ピンポン』を読んだからでも『鉄コン筋クリート』を読んだからでも『東京ヒゴロ』を読んだからでもない。『Sunny』を読んだからにほかならないからだ。

『Sunny』の舞台は「星の子」という施設だ。この施設は何らかの理由で親といっしょに暮らせない子供を引き取って育てるという役割を果たす場所で、登場する子どもたちはみな孤児である。
彼らはできるだけ不自由のないようにと「星の子」の職員たちによって庇護されている。「星の子」では子供のためのルールが定められていて、そのひとつに「大人はSunnyに入ってはいけない」というものがある。Sunnyというのは古い車で、もう動かないかわりに、その車内を子供だけのためのスペースとして外界から区切るために残されている。この「大人はSunnyに入ってはいけない」というルールをいわば悪用してなかにエロ本を隠していたり、中学生ほどの大きい子はタバコを吸っていたりする。大人たちは当然それを知っているだろうが、それでもSunnyのなかのことには口出ししない。職員が「星の子」の子たちにできるだけ不自由を感じることがないようにとどれだけ努力しても、彼らが親と暮らす子供と同じだけの自由を享受することはできない。たとえば、子どもたちは集団生活をしているからほとんどひとりになることができない。泣きたいときにひとりでいられないということは大きな不自由だろう。しかも「星の子」の子どもたちは定期的に泣きたい気持ちになるはずで、それなのにひとりになれる場所がないというのは悲しいことだ。だから職員はSunnyのなかのことには口出ししない。大人が入ってこない場所を用意することを優先したのだろう。
すべての施設がそうだということはないだろうが、「星の子」は暖かい場所だ。ここに来ることになった子どもたちは別の施設にいくことになった子に比べて運が良いといえると思う。しかし、それでも主人公のひとり春男が言うようにそこは地獄でもある。親と暮らしたい子どもが集められてひとつところで暮らすというのは本人たちにとっては最低なことなんだろう。暖かい場所で、楽しいことやきれいな風景があって、優しい大人に囲まれていて、それでもなお地獄だというのはわからないようでいてわかることでもある。不足はあれど大抵のことを用意してくれるからこそ、一番欲しいものがないというのが浮き彫りになるということだと思う。純度の高い悲しいがそこにはあって、それらが響き合ったり、ただ一粒の涙になってどこかに消えていったりするさまは、本当に胸が苦しくなるほど美しい。
悲しいがあり、それがどうなっていくのかということに関心を持つのは自然なことだ。しかし、どうなっていくかということに関わりなく、ただそこに悲しいがある。それだけがすべてだと思わないとだめなときもある。ただ悲しいだけでどうにもならないということを認めないと、悲しいがあるということに思い至れないような悲しいがある。そういう悲しいだけが出口なんじゃないかと思えるときがある。それをなかったことにするのは無理だ。

日記102

 

布の服屋

昨日

仕事後スタバに行く前に中華料理屋に入って晩御飯を食べる。町中華みたいな味がしておいしかった。ビアボールというのを飲んでみる。これはもっと量があればいい選択肢になりそうだと思った。瓶が小ちゃくてケチケチしてんなという感想がまずあってそれを挽回するには至らなかったもののおいしいとは思った。アルコールが少なめで風味はビール、炭酸はパチパチいうほど強い、冷たさはたっぷりの氷でカバーという感じで、ビールを因数分解してそれぞれの要素を強めた感があった。しかしいかんせん瓶が小ちゃくて麦色の飲料の量が少ない。

これは下北沢駅付設の「歓迎」という中華料理屋。あまり立ち寄っていないがわるくない。小田急線の改札内にある権兵衛のおにぎりを買ってピクニックに行くときにはここのテイクアウトのでっかい鶏の唐揚げをお供にすることが多い。ビアボールは流行らないまま廃れてしまった。ここでも不満の表明をしているしそりゃそうだ。

摂取アルコールが低かったおかげでスタバにいくことに成功する。スタバ帰りに氷結を飲んで、帰宅してから『Sunny』を読む。

『Sunny』には胸を突かれる。前読んだときにもそうだったけど、これほど悲しいを喚起する作品をほかに知らない。爆発する感覚がある。破裂するではまだ弱い。

悲しい気持ちがなかったらこれほどまでに美しいものは描けないし味わえないんだろうから、それを味わうこと味わわせることによって悲しい気持ちに位置を与えている。この爆発する感覚を内燃機関にすることができたらということを思うようになったのは前回この作品に触れた時にはなかった新しい感覚だ。もしそれができたらかつてないほど遠くまでいけるだろう。

すぐ得をしようとする。外から得た悲しみで距離を稼ごうとするな。さもしいよ。でもSunnyは本当に良いよね。東京ヒゴロもすごく良かったけど、やっぱりSunnyは格別だ。


今日

在宅仕事。一生懸命に仕事できたのはGWのおかげに他ならない。17時半ちょいすぎに家を出てスタバにいく。

黄金週間とはよく言ったもので、これを記す者の胸にもほら、このようにしっかりと輝いております。お互い楽しもうな。

20230501

日記101

 

三角州

昨日

8時過ぎに目が覚める。大江健三郎『戦いの今日』を読んでいるうちに家を出る時間が迫ってくる。時間ギリギリになって慌てて家を出て、LUUPを駆使し近所の児童館まで演劇WS(2日目)に行く。

2日制WSの利点は初日よりは慣れた状態で挑める二日目があるということがある。そしてこの日の発見は、衆人環視の状況でガチガチ状態のときに身体を動かすよりも、さらにもう一段階進んで、声を出すのは難しいというのを身を以て知れたということだ。脚本を読むということを、明らかに負荷がかかりすぎている状態でするのは厳しいものがあった。慣らしていかないとどうにもならない。客観的にだけでなく、主観的にもかなりひどい体たらくだった。本当にもう懲り懲りだという感じだったが、何よりつらいのは、この惨状をどうにかこうにか通過したのに3日目がないことだ。一番つらいところを抜けたあと、まあ飲みに行けたのは楽しかったが、挽回の機会がないというのがどうにも残念だ。

頭が動かない状態で口を動かすと自分が自動機械になったような気がする。現実感がないというか、普段の生活においては普通に感じられるフィードバックに対して感覚がなくなり、ふわふわと宙を浮いているような気がする。

演劇のWSはただ参加すればそれでいいやと思って何も準備していかなかったが、できるだけセリフを入れていけばよかった。すくなくとも二日目にはそれができたのにやらなかったのは合理的ではない。全乗っかりでやるというのは基本方針だったが、自分のやり方でやるということをしないかぎりは楽しくならないという当たり前のことを知った。自分のやり方でやる・その準備をするということをやって、しかもそのやり方を捨てて全乗っかりにシフトするということをやって丁度いいのだと思う。経験のある俳優が彼らなりの準備をしてきて、経験のない自分が何の準備もしていかないのは、これはもう非合理を通り越してしまっている。

いや、よくよく考えれば必要な準備をやっていかないというところから経験のなさが始まっているというだけの話だ。

WS後の飲みでは俳優たちと話ができてたのしかった。憧れを持っている俳優を目の前にして、すごいと思った感想を言うというつまらないことをしてしまって言いながら後悔だったが、酔いもありつまらない口を利くのを全然止められなかった。慣性のようなものが働いて、もうどうにでもなれという破れかぶれの言をいたずらに重ねていった。そんなことをしたいわけではないのに、べつに阿ったつもりはないしまさかそう受け取られもしないだろうけど、何を楽しいと思うかとか、どんなお笑いが好きかとか最近読んだ本でなにが面白かったかとか、もっと話すべきことはあったのに、せっかくの機会を台無しにしてしまったと慚愧に堪えない。

そのときに思ったことを言っただけだと開き直っていいことなのだが、何かもっとうまくやれたはずだ、場に対して貢献することができたはずだ、あんな微妙な表情をさせずに済んだはずだという自恃心からくる後悔だ。もし同じ機会があればどうせまた同じことをするだろう。

自分のコミュニケーションのとり方を見直さないといけないと思うきっかけになった。まあ緊張していたからとか言い訳は立つのだが、テンポとか相互理解とかに重きを置きすぎている。どうでもいい相手であればそれでもかまわないが、どうでもよくない相手に対してもそれしかできないのであれば、どうでもいい相手であれば云々とか眠たいことを言っていてはいけない。

「どうでもいい相手/そうではない相手」と区別をつけるようなやり方は、どちらに向けても良い結果をもたらさないだろう。面白い小説と面白くない小説があるというふうに、評価して目前の人に向き合うのも、たんにそれが失礼だとか、どんな人にも面白いところがあるはずだという考え方とはべつの、もっと根本的な考えのあり方の面で自分にとって必要ない天井を設けるようなものだ。ラクしようとして簡単にトクしようとしても駄目だ。

たとえば文章を書くことをとっても、作品のための文章制作と日記のための作文と仕事のメールを書くときの文章作成とをそれぞれべつものと捉えて、仕事のメール文章をいいかげんに書くということをしていては全然駄目になってしまうのではないかということを最近思ったのだが、それと同じで、人によって対応を変えるということをしていてはくだらない時間が増え、結果くだらない人間そのものになってしまうということを思った。メール文もそれに記名しているということを重く見て、不完全な作文でもべつにいいやという舐めたことをやらないようにしないといけない。どうでもいい相手とかいないんだよ、ということを信じられるようになるのを待っている時間はないから、とりあえず、どうでもいい相手であったとしても、そうとしか思えない相手に対しても、もっと緊張感をもって接見する必要がある。慣性に逆らうのは難しいし、切り替えは簡単にできないという自分の性質を顧みて、少しずつでも変化していくよう舵を切る。

これはその通りだと思う。相手も自分も、とくに自分にとっては時間が限られているということを思って、ある程度緊張感を持って人と会うこと。そうでなければやっぱり本を読まないと。


今日

在宅仕事。わりと働き詰めて18時まで。途中週に一度のラジオ「サンデーナイトドリーマー」を聴きながら洗濯物を干したり昼ご飯を食べたりする。サンドリ以外のお笑いコンテンツ、ラジオ・テレビ・動画を断っているのもあってか面白くてしょうがない。お笑いを断っているのでこれはもう当たり前だが、ツイッターも見ていないしインスタグラムも投稿専用のアカウント以外開かないようにし始めたことの効果が出始めたような気がする。黙っているとき、受容のために頭を働かせていた分が脳内会話をする分に回され始めた。今のところ目覚ましい面白さはないが、この時間をとることのほうが面白さを受容するよりも自分にとって意義のあることだと感じられ始めてもいる。

最近はランジャタイのラジオが面白くてたまらない。「…ブタクソ!」と間をあけて怒鳴るところで吹き出してしまった。電車のなかで吹き出すと周囲に不安な気持ちを抱かせてしまうことになるので気をつけないといけないのに。

具体的には、最近起こった出来事、つまり昨日一昨日のWSを振り返る時間になっている。「あー」とか「うう」とか「ぬう」とか気がつかないうちに発声してしまうことも非常にしばしば起こったと思うが、得た経験を構築して塔状の物体をつくりあげようという試みにそれは欠かせないプロセスであるように思う。言葉にならない呻き声がほとんどだったが、意味のある言葉として一番聞かれたのは「恥ずかしい」だった。それを耳にして「恥ずかしい」と思うなんて恥ずかしいと思ったりもした。単純な相殺手順だが、この手のよくあるちょっとした苦痛に対しては有効なのだろうと思う。

神経質のため、皮膚のささくれなどを剥いてしまうのをやめられない。

『戦いの今日』を読み終わる。一気に読むべきところを一気に読まずに途切れさせたせいか、気持ちの流れについていけなかった。

もちろんどんな話だったか覚えていない。きれいさっぱり忘れてしまっている。梗概に触れればさすがに思い出すだっろうとは思うが、ちょっと心配でもあるし、わざわざ思い出さないでもいいやと思うのであえて触れないようにしておくが。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...