20230314

日記67

舗道の下には土がある



昨日
スタバからの帰り道に酒を飲む。ちょっと調子に乗ってちょっと飲みすぎる。帰ってから『ノーカントリー』を見たくなったので見る。1時ごろに寝る。
最初から終いまで見通したわけではないと思うが、もしかすると終いまで見通したかもしれない。いずれにせよこの映画は何回も見ている。十回は越えないと思うがわからない。
インスタグラムの新アカウントを開設する。コンセプトと簡単な運用ルールだけ決まった。固定ハッシュタグがまだ決まらない。とりあえずは#tokyocoolだが、それ以外の被らないハッシュタグはないか。一日一投稿。1年で365投稿。腕を上に伸ばして下向きの角度で撮ること。
uekaramesen_street
これが一日も欠かさず一年中続いている。毎日投稿なので厳選するのは土台無理な話だが、それでも良い写真はいくつか撮れた。それに全体を通して見ると傾向がある。自分だけにわかる微妙なものかもしれないけどやっぱり傾向はあると思う。

今日
『弱いロボットの思考』を読み終える。結局、弱いことによるコミュニケーション機能が与えられているという感じがしてしまう。ルンバのように機能から始まって結果的に愛着が出るというかたちがきれいだと感じる。愛玩目的というようになると何かがちがってくるような気がする。犬猫のことを考えると違ってはいないんだろうけど、弱いロボの場合、仕組みを知った上で楽しめるものではないような。ただ、コミュニケーションに関しての考え方のヒントになるのは間違いないし、応用できたら面白いと思う。
弱いロボットに親密さをおぼえ始めるとその過程で「弱い」と形容することが嫌になるというのがある。弱いというのが必ずしもネガティブなものではないと考えようとするけど、それでもいいんだろうけど、どちらかといえば言葉遣いのほうを変えたくなる。
大江健三郎の訃報が出る。読もうと思って本屋を探し回っていた筒井康隆と蓮實重彦の対談本で大江が対談テーマになっているのを知り、アマゾンで購入し読み始める。
在宅仕事が終わってすぐスタバにくる。途中、駅前で上から写真を撮る。
そういえば昨日からマスクしなくてもいいよというおおやけのアナウンスが流れた。マスクなしは楽だし、マスクなしの人が増えてくるのも良くて、やっと収束しはじめたという実感がある。
マスクをしたい人はマスクをしていて不審でもないし、マスクをしている人の割合自体はぐっと下がっていてちょうどいい塩梅になっている気がする。今自分は花粉症がひどすぎる場合にマスクをするような感じで、一年中ほとんどマスクはつけていない。

20230313

日記66

一昨日

午前中はスタバに行く。午後から代々木公園にいく。下北沢の駅構内で権兵衛のおにぎりを、原宿のニューデイズでお酒を買ってピクニックスタイルで過ごす。

先週末にも代々木公園でモルックをやったし、代々木公園は春先の定番になっている。

アイルランドフェスがやっているという情報を持っていたのでNHK側に移動する。アイルランド味の薄い、しょぼいフェスだったのでぐるりと一周だけして、そのまま渋谷まで歩く。途中北谷公演で小休止、RAGTAGに寄って服を見る。PARCOからApple storeに下りていく道で彼女がiPadを買うと言い出し、本当にその場で買う。Apple storeから下った道から横断歩道を渡った先の突き当りが工事現場になっており、そのフェンスに昔彼女がデザインしたポスターが掲示されているのを見つけ、ふたりの(主に俺の)テンションが鯉のぼり式に上がる。「オシャレの中心地渋谷の街並みをクールなカラーで。」その余波で王将に行こうとするも店の前でぼーっとしていたらたちまちのうちに行列ができてしまい、高架下中華はやめにする。

下北沢のツタヤでブルージャイアントエクスプローラの6,7,8巻を買って帰る。

ブルージャイアントを読んでいると、エコーチャンバーという用語に思い当たる。エコーチャンバーとは全然違うのかもしれないが、知識や感情を新しく知るというよりはもともと自分が良いと思っている価値観をそのまま純度高く肯定してくれるようなところがこの漫画にはあって「気持ちよく」感動できる。そういうのは上手く使えれば効果的なブースターになると思うが、それだけに浸りきりになったらかえって不健全だという気がする。そういう気がしてうかうかしていられず居心地の悪さを感じるから結果的に良い漫画だとは思う。レッスン回で代役として教えた生徒たちを通してスティーブン先生と出会うシーンに、「はじめましてという気がしません」に、やっぱりグッときた。あとエコーチャンバーじゃなくてエコーチェンバーな。

おとぎ話を読んでもらうときの面白さには2種類あって、それは未知の物語を知ることと既知の物語と再会することだ。おとぎ話の受容については後者のほうが大きいのではないかと思う。自分の中にあるものと外にあって読まれるものが同じだというのを確認して安心するというのがおとぎ話の楽しみ方なのではないかと思う。正しい物語によって安心できる効果。ブルージャイアントの感動もそういうのに近い。

感動に良い感動とそうではない感動があると思っている人の意見だ。建前の上では感動に貴賎なしと言っておきたいが、実際には貴賤あるしな……という感じなのかもしれない。他人を考えの要素に含めるのであればやはり建前は重要だ。しかし、その言い方をしていたらありうべき「本音」がありそれが本質的だというミスリードにつながるのでこの言葉遣いはするべきではない。ただ単純に自分のことだけで考えるときと他人を勘定に入れて考えるときにはスタイル上の変更をきたすということで説明がつくのではないか。

寝ようと思いつつも三笘のブライトンの試合をフルで見てしまう。ブライトンはわかりやすくリスクを背負うサッカーをしていて面白い。

DFとGKを含めた最終ラインでもつなごうとするのはゲームのやり方だと思っていたがそれを現実のものにしているところに驚いた。


昨日

朝の時間は読書会。この日もみっちり2時間以上かける。空腹になったので昼すぎにピザを食べに行く。外席に座ってNYスタイルでピザを食べていると通りがかりの知り合いに声をかけられる。サウナに行ってきてこれから美容室に行くんだと教えてくれた。

まさに明るい人で、誰に対しても気後れすることとかないんだろうなと思わせる。

アンティーク雑貨屋に行く。彼女が皿を買う。薬局に寄って切れていたティッシュとついでに洗濯用洗剤の詰替え用を買う。帰って確認してみると詰め替え用の洗剤は新品がまるまる余っていた。

ストック癖は自分の生活上でわかりやすく攻撃をうけやすいポイントかもしれない。

帰宅して図書館で借りてきた『弱いロボットの思考』岡田美智男を読む。夜は日干しの骨なし冷凍縞ほっけをフライパンで蒸し焼きにしたものとオートミール粥を食べ、すこしの日本酒を飲む。

翌朝は早出なので9時過ぎ就寝目標を律儀に守り、9時半には寝てしまう。


今日

早出だったので15時半には退ける。渋谷スカイにme'の展示を見に行こうとしていたがスカイのチケットが売り切れだったので諦める。代わりに『Winny』を見に行く。あまり期待できないと思っていたので期待していなかったが、期待していなかったのは正解だった。残念。

演出がまずいので役者の演技がもったいない。それでも自走できる役者は、具体的には吹越満や皆川猿時、三浦貴大は、映画を力強く引っ張っていて存在感を示していた。自走はできないけど置き場所によっては輝く名の知れた俳優が割りを食っていたと思う。具体的には東出昌大、吉岡秀隆、吉田羊。このなかで吉田羊はとくにかわいそうで、短い出演でただ泣いていただけだが、かなりの無駄キャスティング無駄泣きだと思う。そういう賞があったら受賞するにちがいない。

社会的な意義を問い直す系の映画の責任は重い。面白くなかったりクオリティが低かったりすると、二度目の殺人のような結果になってしまう。

スタバに行って『弱いロボットの思考』を読む。

133p

では「倒れそうになる動作をむしろ歩行に生かす」とはどういうことだろう。発想のベースにあるのは、「倒れないようになんとか踏みとどまる」のが大変ならば、むしろ「倒れてしまうことを前提に、そのバランスが崩れたら、それを修復すればよいのではないか」という楽観的なスタンスであった。

地面と他者とを並置するピリオドもあって、感覚的に正しいと納得できる部分が多い。

自己完結できない倒れ込むようなコミュニケーションには身に覚えがある。そういうコミュニケーションしかやったことがないといっても全然過言ではない。教員を目指していたときには自立したとは言わないまでもある程度掴みどころを用意するコミュニケーションの必要性を感じていたと思うが、結局、それを身につけることはできなかった。面接は今でも苦手だ。

面接といえば、この前英語ではinterviewと訳されるということを知り、自分のなかで面接をインタビューと翻訳した上でそれに向けて準備するという意識でやってみればいいのではないかと思いついた。これが成功したら面接をインタビューと思うライフハックとして世に発表したい。インタビューの予定はいまのところまだないけど。

世にいう面接のことは以降面談ということにしている。受験者と試験官という立場のちがいを俺は一切許容しないことにした。その場合、面接という言葉遣いからあらためるべきだ。実質面接だったとしてもそれをこちらからは面談ということは自分のスタンスにとっては大事なことだ。

倒れ込むようなコミュニケーションに話を戻すと、文章作成も同様の進み方をすることがあり、むしろそうなってから書くスピードが上がるんだというのは覚えがあるとはいえないもののそうだろうなという気がする。この場合は書いたものにもたれかかるようにして書き継いでいくという意味らしい。自分の場合はそれを「書いたものに振り回される」と表現したことがあり、アンコントロールというニュアンスのみでそう書いたのだけど、質ではなく量書くと決めて書くような場合にはそれでわるいということはなくなるのでどんどんもたれかかって意図しないところにふらふらしながら書き継いでいけばいい。

もっと長く書こうとすると、一文の長さがどんどん長くなる。そういうことじゃないんだよ。まあそれでもいいんだけど、饒舌になるというのは、ドリブル試行の回数を増やすことであって一階のドリブルの距離を長くすることではない。まあそれもあるんだけど、それはドリブル距離を伸ばすための方法のひとつにすぎない。しかもあまり効率的なやり方ではない。

20230311

西播磨展望台でのこと

情ハム


西播磨展望台でのこと

高校の時の友人たちと、卒業旅行の一環で西播磨展望台に併設されているコテージに泊まりにいった。卒業旅行といっても高校卒業後専門学校に通っていた友人の卒業旅行だったため、大学にいった私はまだまだのんきな学生の身分であった。

時期は3月でまだまだ寒かったのだが、道中でBBQの食材と酒と花火を買い込み、旅行のテンションでなぜかトランプとプラスチックバットも買っていった。到着してすぐの昼間は、これまた併設されていたバスケットコートで3on3をやって、夕方ぐらいから飯の準備をして飯を食い終わるとあっという間に夜の時間になっていた。星を見たのはほんの言い訳程度の短い時間にすぎず、そのあとは酒を飲みながら罰ゲームありのトランプゲーム(たしか大富豪だった)に興じた。夜通し飲んで、何を喋ったのかもろくに覚えていないのだが、とにかくプラスチックバットが「ケツバット」という罰ゲームの役に立ったということだけは覚えている。

3時すぎになって、友人のひとりが急に翌日の用事を思い出したようで「帰らないと」と言い出した。展望台は山の上に位置していて、基本的には車がなければ来られない場所にある。しかし30〜40分歩いた先に駅があった。友人はその駅から電車で帰るという。まだ暗いしその駅まで歩くのは大変ではないかと思ったが、酔っているのもあって、面白そうだし付いていくと申し出た。

当時の携帯電話のライトは申し訳程度の貧弱な光しか発することができなかった。コテージがある場所から一歩離れるごとにありえないほど暗くなった。一寸先は闇という言葉が言い表しているのはこういうことだったのかという発見があり、夜の山のおそろしさを初めて知った体験だった。歩こうとした道は、獣道でさえなく、舗装こそされていないものの普通の山道だった。しかし、帰ろうと焦っていた友人でも全然無理だと諦めるぐらいの本当の暗さがそこにはあった。あそこまで暗いということは月のない夜だったのかもしれない。一歩ごとに深まる闇に視覚が奪われていくにつれ、森のやかましさがぐんぐん前に出てきた。星を見上げるということは思いつきもしなかった。友人と私は、自分の足で真っ暗闇へと近づいていく過程で「これは無理だ」という感覚を、たまらず振り返った先のコテージから漏れる光のありがたさを共有した。

われわれは20歳を過ぎてもまだ山の夜道というのは歩けたものではないということすら知らなかった。街で生まれて街で暮らしてきたからだ。

朝日が空を明るくするのをコテージでしばらく待ってから、友人はひとりで駅まで歩いていった。


20230310

日記65

昨日
スタバの後さすがに酒のんで帰る。ビレバンでブルージャイアント買おうと思うも置いていなかったので蔦屋で5巻まで買う。帰って読むと4巻までは読んでいたことがわかる。しかし今読んでよかったと思えるので結果オーライ。いつ読んでも今読んでよかったと思える疑惑があるけど。
一応プランクもする。一応というのは180秒一気にではなく60秒×3セットにしたから。だいぶイージーになったので追加でもう60秒。
彼女のpixel6aの設定が押して寝るのが遅くなる。1時過ぎに就寝。

今日
在宅仕事。集中してやれば1時間半で終わる仕事をだらだら7時間かけてやる癖が発動。1時間半で終わらせた後勉強するのがベストなんだけど、勉強するのも面倒なのでだらだらオーディブル聞きながら仕事しているふりをする。しかしオーディブルのほうに集中できるほど無になれる作業でもないので結局どっちつかずになってしまう。レイモンド・チャンドラー『高い窓』は読みやすいというか聞きやすいのでぎりぎり何とかなる。聞いているうちに誰かが誰かに殺された。何のことかわからないし全然何とかなっていないのかもしれない。誰に殺されたのかは謎だけど、誰が殺されたのかは謎ではないはず。
ちなみに朗読サービスは図書館で借りれた芥川龍之介の河童(c.v橋爪功)がベスト。江守徹の中島敦『山月記』もだいぶ良かった。日下武史の漱石『硝子戸の中』も。オーディブルはイントネーションも完璧とはいかず数勝負という感じがある。
スタバにいってドリップコーヒーをたのむ。夕方までに一日分の紅茶はすでに飲んでいたし、さすがに摂取カフェインが多い。
隣の席の女子高校生だか大学生の二人組が予定にどの男を誘うかの打ち合わせをしている。決まったらその場ですぐに連絡し、しばらくしたら「来るって」と報告していた。スピード感がある。ひとりはなんか言うときに指パッチンをする癖があってべつにいいんだけどちょっと気になる。いつもするわけではなくしないときもあるのがまた。
飲むときの話とかしているので高校生の線は消えた。最近高校生は中学生にみえるし、大学生は高校生にみえるのだけど、年齢がいくとそうなるのか、実際に見た目があれしているのか、どっちなんだろうか。べつにどっちでもいいが。
小説を書かなければという謎の使命感と久しぶりのカフェインとが相互に作用して、下の文章を書かせた。


情報ハムレット
通称:情ハム

ミュートのまま5分ぐらい喋っていた。
だれか教えてくれよと思う。無理な話ではあるんだけどそう思うことは止められない。逆ギレというと激しい反撃のニュアンスが伴うので、そこまでいかないのは当然だとしても、自分がわるいしそれを認めるのにもかかわらず、心情的には反感をおぼえるという状況は普通によくあると思う。普通によくあるのにそれを言い表す言葉がないというのははっきり言ってチャンスなのだが、こういう場合によくあるのは、そういう言葉がすでに存在していて、それを自分が知らないというケースだ。そうやって悔しさの上塗りをするのも癪なので反動思考もいい加減にしておく。ミュートを解除し、何食わぬ顔で5分前と同じことをリピートする。

0か1か、それが問題だ。
情報社会とは言っても、煎じ詰めると、やり取りされるのは0か1どちらかの信号でしかない。さまざまなプロトコルでがちがちに構築されたデータ通信も、一枚一枚ヴェールを剥がす手間を惜しみさえしなければ0か1かにたどり着く。
途中、暗号化という謎掛けをされることもしばしばではある。だが、その謎にしても解読できないというところにしかない。鍵があってそれによって解読されるということがわかっていれば同上である。
これらはすべて古典の話である。今は0と1のそれぞれにグラデーションがある。文字通り”無数の”グラデーションで、弱い1、もっと弱い1、それよりは弱くないもののやはり弱い1というように、0か1かとばかりは言っていられない状況にある。もちろん弱い0や強い0もある。昔の人は知っていなかっただろうと思われる0があって、今の人たちのあいだではそのことは常識になっている。ただし、当然そんなグラデーションを扱うのは人間の手に余ることである。グラデーションを計測する専用の機械がその任にあたっている。つまり状況を簡単に説明するとこういうことになる。われわれには知ってはいるけれどわかっていない事柄があり、それがこの社会を動かしている。
システムがどういう仕組みで動いているのかを人間にもわかる言語で説明するシステムもある。専門的には「翻訳システム」とよばれているが、可逆性はなく、翻訳された言語を再度システムの側に流し込んでもエラーを返すだけである。システムに言語をインストールしている場合には自動的に再翻訳し、もとに戻すことはできる。この場合、言語はひとつの暗号鍵の役割を果たしているといえる。
ここから導出される結論は「システムはいい加減な説明をしている」というものであり、そのことで腹を立てる人間は一定数いるものの、大半は仕方ないことだと考えており、有り体に言って受け入れムードである。言語の側、あるいは人間の理解の側に問題があり(問題というのは先天的機能不全のことだ)、それにもかかわらず伝達しようと頭を悩ましたシステムの側で、なんとかひねり出した説明形式ということになる。腹を立てて破れかぶれになった一定数の人間はそれをマキグソと呼ぶのだが、一般にそれはシステミ(systemi)と呼ばれることになった。

システミ systemi
システミの見分け方は簡単で、それが怪文書であるかどうかである。怪文書と呼べるかどうか、それがリトマス試験紙の見分け方になっている。読んでみると書かれてある内容は理解できるのに、内容の中身が理解できないというのがここでの怪文書である。よくある間違いとしては内容そのものが理解できないように構成された文書を怪文書と捉えることが挙げられる。
やがて暇な人間は、自分たちの手で擬システミを書き上げようとした。システミの「理解できるのにわからない」という特徴に面白みを感じ、それを制作したいと考えたのである。人間の制作した擬システミの完成度を計測するシステムもすぐに開発され、これで遊んでいろと砂場とスコップを渡されたかたちの彼らは、おとなしく、それでも彼らなりには過激に、擬システミの作成に奔走した。
優れた点数が付けられる文章を探してきて計測システムに通してみる遊びも発明された。しかし、全文書アーカイブを計測システムに通して上から順に点数をつけるシステムがすぐにあてがわれ、遊びはすぐに終息した。そのことで既存の文書の可能性はすべてが明らかになるというかたちで絶たれ、新しく文書を作る以外の遊び方はできなくなった。
擬システミは、それが未完であれば高い点数が付けられる傾向がある。そこに目をつけ、わざと未完の作を提出するものが現れたが、その場合には点数はあまり捗々しくなかった。制作者の不慮の死によって途中で終わってしまった未完の作は、同じ制作者による他の文書よりも高い点数がつけられることが多かった。そのことで結果的に彼らは、少なくとも点数の観点からは希望を持って制作できることになった。自己ベストは自らの死後更新できるという見込みは、彼らの薄暗い人生観を仄明るくした。

ロッドとは
パーマをかけるための器具を髪の毛に巻きつけたまま長いエスカレーターを降りていく女の人を見た。エスカレーターを降りるということはコンコースに向かっているということであり、それは彼女が電車に乗り込もうとしているということを意味していた。急いで美容室を飛び出したのではないことは、彼女がエスカレーターを歩くという禁を犯していないことからもうかがえた。ベルトに左手を乗せ、目線はまっすぐ前より少し下に固定されており、おかしな様子は見受けられなかった。格好も20代後半の女がこのあたりでよくする服装から逸脱しているわけではなく、頭をのぞけば何もおかしなところはなかった。しかしパーマを掛けるための器具一点だけが奇妙で、彼女の落ち着いている様子がかえって好奇心を掻き立てた。これほどまできれいに普通が奇妙に反転する例をすぐには思いつけない。
たまらず検索したところ、今春から始まりつつある新たな流行のヘアスタイルなのだということがわかった。反転した奇妙はもう一回転して、もとの普通へと戻っていった。
しかし、それからしばらく経って気づいたのだが、それ以降一度も外出先でそのヘアスタイルを見ることはなかった。そのことに気づいてたまらず検索したところ、その奇妙なヘアスタイルの情報は見つけられなかった。そもそも何と検索すればいいのかもわからない。あのとき長いエスカレーターを降りながらどうやって検索したのか思い出せないし、ひょっとするとあれは夢なのではないかと思い始めた。しかし、どう思い返しても夢だったという気がしない。ただ、寒い日だったから季節は冬だとしても、あの日私は電車に乗ってどこに向かっていたのだったか、それを思い出せない。
私には日常的に写真を撮る習慣がある。また、位置情報を記録するデバイスをつねに身につけている。仕事以外で電車に乗って出かけた日というだけで、それなりに候補をしぼれるし、候補日の写真を見ているとなんとなく一日の過ごし方を思い出せることも多い。2月9日か、2月15日のふたつの候補にまでしぼることができた。その日の検索履歴を確認する。2月15日はそもそも検索をしておらず、結果、2月9日がイベントの日ということになった。検索履歴のなかにそれらしいものがあった。
【ロッド ファッション】
ロッドというのは調べてみると「パーマをかける際に髪の毛を巻く、プラスチックなどでできた筒状の用具」だという。私は、今このときにも「ロッド」という単語を知らなかった。だが検索履歴には「ロッド」という単語が使われている。そのことを不思議に思っていると、だんだんと、その日私はひとりで行動していたのではなかったという記憶がうっすら浮かび上がってきた。誰と一緒だったかということは思い出せず、誰かと一緒だった気がするというところまでしか思い出せない。
私はいくらお酒を飲んでも記憶を失ったことがなく、酔って記憶をなくすという経験に憧れを抱いていたぐらい、記憶については確かである、はずだった。しかし、実際には、その日なぜかひとりで行動していたと思い込んでいたし、今も誰かと一緒にいた気がするという不確かな状況しか思い出せない。そもそもなぜ電車に乗ったのか、どこに向かっていたのだったか、これらすべてが全然思い出せないという事態を目の当たりにして、私の記憶にはぽっかりと穴が空いているということに気がついた。おそらくは、ついに、やっと、とうとう気がついたのだろう。起きた瞬間に見ていた夢のことをまったく思い出せなくなるあの感触が寝る前から現前している。置かれている状況からすると、もうすこし途方に暮れてみても良さそうなものなのに、現実感のなさと私の知らない私の存在の予感とに、そしてこの私のものにほかならない好奇心によって、随分わくわくしている。少なくとも今このときまでは。


20230309

日記64

今日も在宅仕事。終わりにスタバに出かける。最近行っている最寄りのちょいおしゃれスタバではなく、駅向こうの地下席のあるスタバ。数年前にほぼ毎日通って一作目の小説を書いた場所でもあるので懐かしい。
ほとんど毎日ペースでスタバにはお世話になっているが、地下席のあるスタバ(通称クラシックスタバ)は、一週間のうち一日ぐらいしか行かない。それもエキウエのほうが満席で座れなかったときの代替案だ。通うにあたっては何よりもまず距離の問題が大きいということの証左だと思う。ジムなんかも施設の充実度より生活動線上にあるかどうかを最優先にするのが良い。

NEATのパンツをおろす。去年、グレーブルーの色味がきれいで一目惚れして買ったはいいが、合わせるのが難しくて全然履けていない。そういう難しいアイテムがちょっとずつ増えていっている。クローゼットの前で頭悩ませるけれど心強い感じがする。今日もあったけど好きなもの同士を組み合わせてもうまくいかないときはどちらかを引かなければならない。たくさん仲間になる系のRPGでパーティメンバーに頭悩ませるときの感覚に近い。好きだけを優先した無茶なメンバーにしてみたい欲求もあるが、せっかく好きな服を着ているのにそれを着てテンションが上がらない事態はまあまあの悲劇なので、冷静になって上着をクローゼットに戻した。
このパンツは本当に履いていない。そのうえもう一本履かないパンツを買ってしまって我ながら愚かだと思う。

昨日は酒を飲まないで帰ったのでアルコール中毒ではないのを自分に証明できた。ただしプランクをやらなかったのでプラマイゼロ。今日はさすがに飲んで帰ると思うが、その代わりプランクはやろう。
去年の冬前からだったか、カフェインを抑えるという試みをしていてそれがずっと続いている。スタバにきても基本はティーで、今日はカフェイン摂りたいなという気分のときだけカフェラテを飲んでいる。有無を言わせずドリップコーヒーだった頃がすこし懐かしい。書こうとしているわけだからコーヒーを飲む生活に戻してもいいかと思っている。さすがにもうカフェイン中毒を治す実験は成功したと考えていいだろうし。
カフェイン断ちの期間はもう終わっている。とはいえ一日の摂取量はスタバのショートドリップ程度なので経度の依存に抑えられている。それよりもアルコールのほうがきつい。あとは体感でもっときついのは運動不足。

そういえば昨日ネットニュースで流れてきたニコボのことをずっと考えている。弱いロボットというコンセプトはくるのではないか。言おうと思えばいろいろ言えるだろうけど、感情を持っていかれているというのが大きい。
弱いロボットの良さは弱いところにある。ロボットに背負わせるのにこれほど適した特徴はないのではないか。人間は保護欲求をある程度満たされると、自分が被保護対象になるとしてもそのことによる不満はかなり低減されるような気がする。AIなどの知で人間をサポートさせるためのボトルネックになっているのはもはやAIの性能ではなく、サポートされる側の感情なのだろうから、それをケアする体制として弱いロボットという概念は今の状況にスポッと嵌るような気がする。
たとえばうちのルンバなどはわりと旧式の型番で、きっちり掃除するということはそこまで期待できない状況になっていることに気づいて久しいが、だから買い換えようというよりはむしろ個体としての愛着が湧くフェーズに入っている。ある程度はルンバにやってもらって、ちゃんとした掃除は自分たちですればいいか、というのは少なくともルンバを導入したときの感覚ではない。
ところで、こういうことを考えるのはNetflixで『PLUTO』がアニメ化されるニュースを知ったからでもある。なんだかタイミングが良い。これはニコボのメーカーが『PLUTO』放送のタイミングをはかって発売することを発表したのだろうかと最初は考えて、そうならとてもクレバーだなと思ったりしたのだが、もうひとつの可能性としては、検索エンジンで『PLUTO』を再生したことで、誰かがこういうのもありますよとさりげなくニュースをサジェストした結果、たまたま(のように演出されて)ニコボにたどり着いたというものがあり、もしそうだとすると導線・結果ともに申し分なく、『PLUTO』を読んでいるときに近未来だったものと現在がすでにつながっているような感慨をおぼえる。あまりの見事さにニコボを購入しようかなと本気で検討しはじめたぐらいだ。
結局、いっしょにPLUTOを見ることになったんだから面白い。しかもPLUTOを見たときの反応というのはこのときには想像することさえできなかった。今から見てもこのときのビジョンはクリアだったと思うが、ビジョンを実現した後のリアルにはその先がある。

ニコボの機能で良いなと思うのは、自分では移動できないが移動したことはわかるというところだ。それによって部屋の中を連れ回したくなるのは明らかだが、ルンバに押されるニコボを想像しただけで、その光景がかわいすぎて顔が綻んでしまう。押されるニコボももちろんかわいいし、仕事熱心なあまりニコボを押すルンバもかわいい。両者かわいいというのが味噌で、相乗効果というのはこういうときに使う言葉だと思う。
幸か不幸かこのビジョンはまだ実現していない。Bに対してルンバがあまりにも凶暴そうに見えるのでとてもじゃないがその絵を見ようという気になれない。

↑2023年5月からメーカーに売られることになるニコボ


↑型落ちになったが元気に部屋を掃除してくれているルンバ641


最近、服やら何やら、お金を使って何かを買うことで楽しみや満足を得ているような気がして、楽しいし満足はあるんだけどやっぱり馬鹿らしいなと思う。
この前なんか「有名人の2022年ベストバイ」みたいな記事をとくに何も思わず、へえー、すげー、かっこいいなーとか言いながら面白く読んでいて、昔の自分だったらもっと反感を持っていたはずなのに、あの気持ちはどこに行ったのかと不思議な感じがする。
まあ、当時は自分の好きに使えるお金が今よりもっと全然なかったから。そういう反感おぼえてもまあしょうがなかった。でもあのとき軽薄だとかそんなものつまらないと思っていたのは半分当たっていると思う。好きな服を買ったり美味しいものを食べたり、ちょっとは良いんだけど、ちょっとしか良くはない。もっと図書館で借りた本読んだほうが絶対良い。間違いない。ただちょっと良いことをするのはわりとラクだし、それなりに満足も得られる。もっとそれがやりたいの度合いを増やせればいいんだけど、手に入るものはどこまでいっても手に入るものでしかないので自ずから限界がありむずかしい。ここは一発あほらしいお金の使い方をして溜飲を下げようかという結論に流れていきやすい。それはそれでもうすこしすぐのところに限度があるんだけど。使えるお金は使える分しかない。
すこしのお金でやっていける能力をこれ以上鈍麻させないようにしたい。

20230308

日記63

昨日
仕事後にいつものスタバに行って日記や映画の感想を書いたあと、誘われて焼き鳥屋にいく。一本50円という破格の焼き鳥屋だが、ビールが580円するので、満足いくまで鶏肉を食えるものの飲み物をたった一杯に押さえたのにもかかわらず3000円した。これでも充分安いのだけど、こっちは破格の値段という錦の御旗のもとに集っている志士という気持ちなので、若干、ほんの気持ち、高く感じられてしまった。食事の最後に買ったほうが奢るという格好良いじゃんけんをして見事勝ったためそう思ったのかもしれない。この日は映画に行かなかったけど、なんだかんだ毎日お金を使っている。
ネクストインファッションS1の最終話を見る。ひとりで見るよりふたりで、この服が好きこれはあんまりとか好き勝手いいながら見るのが楽しいということを知る。もう書いたことかもしれないけど。ちなみにネクストインファッションの感情面の演出はとてもチャチで、CM以上に時間の無駄だと思う。それがなくても十分面白いのに、客を一人残らず楽しませるというポリシーのため余計なことをしている。べつにそれによって台無しになるというものでもないからみんな目をつぶるんだろうけど。
プランク30日間チャレンジはいま何日目かわからないけど180秒まできた。ラスト20秒は気力だけで耐えていたが、いかんせん身体が無理で、プランクの姿勢のままだんだん膝が落ちてきた。最後1秒は際どく膝をつきそうになったし、これ以上はもう無理なのかも。
24時には就寝する。最近は睡眠スコアが90を上回る日も珍しくなくなってきた。

今日
在宅仕事。朝は洗濯機を回す。昼は近所の弁当屋まででかけのり弁当と豚汁を買う。とくに豚汁はセルフサービスなのでこれでもかというぐらい大量に具を入れることができ、とてもお得である。日によっては弁当を買わないで豚汁だけ買うこともある。
とても規則正しい生活が出来ていると思うし、そのおかげで毎日楽しい。でもこうやって安定していると、安定しすぎているのではないかと不安になる。やっていないことはまだたくさんある。できることはまだやっていないことをやっていくことしかないのだけど、全然ちがっていて、そもそもそういうことじゃないのかもしれない。
人を巻き込んで何かをやって、その結果で自分を満足させることはできない。それに挑戦するための能力にさえ欠けている。充分検討したとはいえないけど、それはなんとなくわかった。腹立たしいことに時間もそんなに多くない。遊んでたのしいという以上の何かをやらないとだめだ。誰かに期待していないでひとりでやるしかない。結局誰かに期待してしまうことになるんだろうけど、それでも「自分の思い通りに足を動かしたり手を動かしたりできるのは自分の足や自分の手しかない」ということを肝に銘じておかなければならない。人を動かすのは難しい。そのうえ「思い通りに」となると全然無理。
誰かに見てほしいという気持ちがまったくないというのは、自分で思っているよりアドバンテージになるのかもしれない。アドバンテージと言ってもそれは誰かに見てほしいという願望を抱えた者同士のあがる土俵上のことだから結局ナンセンスなんだけど。それとも、本当はそこで勝ちたい? そうだと思ってみるとそう思えるし、実際そうなのかも。しかしその場合、アドバンテージはそのまま立ち消えになり、ただただひかえめで大人しい性格のひとりの人間がいるだけのことになる。だからとりあえずは前者で押していくことにする。
しかし書くべき小説がない。仮に小説を書くとしてだが、これをやるしかないという切迫感をともなったテーマがないし、それと前者の結果としてナラティブもない。とにかくじたばたしてみるという分別(無分別)もなければやる気もない。
いや、やる気だけはなくはない。ただそれを持続させるだけの気力・体力がない。集中力もない。時間は作ろうと思えばいくらでも作れるが、時間がふんだんにあっても結局はだらだらするだけのこと。
誰かに見てほしいわけではないが、誰かに見てもらう必要はあるということを今思った。主観を磨くためにべつの主観を利用する必要と言い換えてもいい。だから、そのことを踏まえた上で皆、自分のことや自分の成果を見てほしいと言うのか。たんにそういう変な欲求があるだけだと思っていた。迂闊だった。そういう変な欲求があるやつが周りにいるから、それにとらわれて、誰かに見てほしい人間のモチベーションを十把一絡げにして考えていた。
嘘をついているやつがいる。願望を願望するときに、まるでその願望が欲求由来のものであるような顔をして、周りに同調しながら、自分のアドバンテージを駆使してたくみに立ち回っているやつがいる。そいつはべつに嘘をついているわけでもなんでもないのだけど、現にこの俺は騙されていたんだし、嘘をついている嘘つき野郎と言っても(俺の主観上)過言ではない。
騙されていたことは腹立たしいが実際良い戦略だと思うので、これからはその線で行くことにする。
どの意味でも、どんな立場でも「ひかえめ」で良いことはひとつもない。矢面に立たないでいるということはできるが、ここら一帯は一本の矢も一個の石も、泥団子すら飛んでいないのだから、ここで見晴らしの良さを求めないのは高所恐怖症ということでしか説明がつかない。昔から私は、高いところだけは得意だったし、今も高いところにいるのが性に合う。見られることにはなると思うけれど、べつに見られて死ぬわけじゃないんだから、多少の居心地の悪さは飲んで、今よりもっと高いところにのぼるべきだ。誰かに見てほしいからということはわざわざ言わないでもいいが、高いところに上ろうとするのは誰かに見てほしいからじゃないとは言うべきではない。べつに言ってもいいんだけど、戦略上言わないと決めたなら言わないでいるほうが理にかなっている。

20230307

日記62

音楽をやっている友人から連絡がある。DJとして出演が決まっているらしく、その練習をしているという。自分もこれから何をしようかなと思う。
ひとつ思いついていてやりたいと思うことがあるのだが、やる前にそれを日記などに書いてしまうとそれで満足して始めないということをすでに学んでいるので、ここには書かない。
いわゆるひとつのゲームで、期間長めのゲームになることを見込んでいる。ルール・レギュレーションの策定など、準備を進めないといけないなと思っている。誰かの船に載せてもらうのではなく自分ひとりで企画する場合、見切り発車してもすぐに止まるだけのことなので、それなりに用意して臨むことが必要になる。いい加減に何かを始めたりすぐに止めたりするうちにも、どうやら学んでいることもあるらしい。
……やばい。完全に忘れている。ゲームを成立させるために内容を書かなかったことで何のことやらわからなくなった。生きているといろんなことがある……。
在宅勤務なのだが仕事の量が着実に増えてきており、実際に残業はしないまでも勉強にあてる余地がなくなっているのには困った。終業後勉強をするのは、それはもうサービス残業にほかならないという真っ当なコンプライアンス意識がすでに私のなかには醸成されている。
ホットオートミールを食べていると、お粥という料理の完成形は米ではなくオートミールなのだという観念が生じてきた。お茶漬けも然り。お茶を使ったお茶漬けはわからないが、お湯を使ったお茶漬けであれば、オートミールが正解だと確信する日も近い。ただ昼夜どっちもオートミールにするとお腹が減る。ファスティング終えてからもなんとなく糖質制限を軽く続けていて体重が減り、とくに上半身の上半身が薄っぺらくなってきた。肝心の上半身の下半身にうすくなってもらいたい。
この頃はまだ体型に気を遣えているようでえらい。今の自分も感心していないですこしは運動しないと。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...