20230307

『フェイブルマンズ』を見た

面白い映画には2種類ある。
ひとつは何もしない映画、もうひとつはこちら側の面白いと思おうとする気持ちを伸ばしてくれる映画である。
スティーブン・スピルバーグ監督作『フェイブルマンズ』は前者であった。これまで私はスピルバーグ監督の映画を素通りしてきたに等しい。いつも話題作になることもあって一応目を通すということはしてきたのだが、『ブリッジ・オブ・スパイ』を除いて本当に面白いと思うことはなかった。過去の名作『E.T』や『ジョーズ』は見ていないし、『プライベート・ライアン』もスルーしてきた。子供の頃に『ジュラシック・パーク』は見たものの、恐竜が好きなのであって映画が好きだったわけでもなし、この作品によって映画が好きになるということもとくになかった。ただ、今から思い返すと、そのとき、つまり数えるほどしか映画を見ていないときでも、漠然と映画は面白いものだという感覚は持っていたように思う。見る機会は少ないものの、映画を見るということになれば、それは退屈な時間なんかではなく、つねにお楽しみの時間だった。
とくに何の気もなく見た『ジュラシック・パーク』が自分の中でそういったイメージが作り上げられる柱のひとつなっていたことは確実だろうと思われる。それでもドラえもんやゴジラ、ジブリが果たした役割のほうが私個人のなかでは大きいのだが、普通に海外の映画があって、しかもそれが面白いに違いないと疑いなく思えたのは、『ジュラシック・パーク』の経験があったからだ。そういったことはとくに意識していなかったし、これを書いている今も若干こじつけている感があるものの、今回『フェイブルマンズ』を見て、時間遡行的にそういうことを思った。この映画は、他の映画で私がほとんど無意識的にそうするように面白いと思おうとすることなく見られて、しかも無上に面白いと思えるのだ。
積極的に面白いと思おうとする心性は私にとっては癖のようになっているし、とくに小説などの場合、それをしてはじめて面白いと感じられることがほとんどなので、これで合っている、これが正しい姿勢であるとも思っている。面白いはずだと考えて積極的に作品に向き合わないのは、私に言わせれば、とげとげの厄介な殻があるからという理由で栗を見捨てることになる森の動物に近い。森には他に食べ物があるし、べつに栗に固執しないでもかまわないのかもしれないが、それでもひとつ言えるのは、栗には他に代えがたい美味しさがあるということだ。一度栗の味を知ったら、それがない生活というのはその分がへこんだ形となってあらわれるしかない。
『フェイブルマンズ』が良かったのは、いつも人の顔が中心にくるところだ。
スピルバーグの「自伝的映画」ということで、昨今のミュージシャンを題にとった伝記映画のように、すごいけど面白いと思おうとする心が多く必要とされる映画になるのではないかと危ぶんだところがなくはなかったが、実際に見てみると、それはまったくの杞憂だった。
自伝的映画ではあっても、他の伝記映画にある残念な部分がないのは、スピルバーグが監督としてスタートするまでのいわば前夜譚を映画にしているというのがひとつ、あとはスピルバーグ自身の願望が入っているというのがひとつだ。スピルバーグの願望というのは、それはセリフや文字の形で一言も言い表されていないことだが、家族がどんな顔をしていたのかを確かめたいというところに尽きると思う。場面場面で少年スピルバーグの心に残る言葉を発した家族は一体どういう顔をしていたのだろうというのは、時制こそ過去であるものの、スピルバーグ本人にとっては後ろではなく前にあるものであり、探しあてるべき表情だったのにちがいない。
学生時代に撮った戦争映画で主演したドイツ将校がどんな悲しみの顔をしていたのか、それを撮れ(見れ)なかった心残りと同じような、心残りというにはもうすこし強烈な、それを知りたいという欲求がスピルバーグを突き動かしたのだと思われる。
ポール・ダノとミシェル・ウィリアムズは、言うまでもなく素晴らしい俳優であるが、それを超えて、誰よりも幸運な俳優であると言わざるを得ないだろう。とくにミシェル・ウィリアムズが見せた、特別上映された映画を見る顔(顔というのは動きとともにあるものだということがはっきり浮かび上がってくる)は、特別な才能があればできるというレベルを超えている。俳優が映画を助けるというケースは数少なくないと思うし、映画が俳優を輝かせるというのも多くある幸運なケースだろうと思うが、その最上の形があらわれている。顔を撮るということ、それが映画のやることだという「答え」に、私は最近になってたどり着いたのだが、この映画はその傍証になるはずだ。
「思うように生きなければ私ではなくなる」という言葉と、「私たちの
あいだにエンドはない」という言葉だけが頭の中に残っていて、それを言った当人の顔がどんな表情をたたえていたかということを忘れてしまっていたとすれば、それが映像として残っていなかったとすれば、それを撮影したいというのはもっとも自然な欲求のように思われる。私は映画監督ではないけれど、なぜかこの欲求こそが一番強く自然のものであるという確信を持つことができる。それは映画『フェイブルマンズ』がある点において一貫しているからだ。
面白いと思おうとする余地がまったくないほど隙間なくみっちり、『フェイブルマンズ』はただ面白いだけの何もしない映画である。

20230306

日記61

昨日朝、オートミールを食べ、昼からは久しぶりに新宿西口に行った。あるでん亭という店でパスタを食べる。三角広場という最高のスペースの芝生コーナーでのんびりしたあと、iPhoneを購入しにいく彼女について電気店に向かう。auの謎の「総合的な判断」で分割の審査がおりず、待たされた挙げ句、結局購入できなかった。彼女は前日に美容室で髪の毛に赤っぽい色を足していたのだが、それが全部逆立ち、まさに怒髪天を衝く鬼の形相で、道行く人と肩でもぶつかろうものならボコしてやるというものすごい剣幕で歌舞伎町を早足で歩いていた。怒りのあまり手もぶるぶると震えており、そのことを指摘すると、その手でみぞおちを殴られそうになった。指摘しながらそうなることを予期していたので飛び退いて躱したが。
三角広場の居心地はとてもよかった。その後M-1の敗者復活戦で使われることになるとは予想していなかった。しかし正直漫才するのに適した空間とはいいがたい。天井が抜けるように高いし。

大塚家具で理想のソファについて考えながら実際に休憩してみる。その後ちょうどいいサイズのカバンを探して、駅のミロードの買い物に付き合う。とくに良いのがなかったからここでも購入せず。前行ったRAGTAGについてきてもらう。例のモッズコートを着てみせると悪からずということで、結局これも購入してしまう。ついでに3000円で青シャツを買う。
このモッズコート、それなりに着ているもののすべての春物コートがそうであるように費用対効果が高いとは言いがたい。間違った買い物ではなかったと自分に言い聞かせるためにできるだけ袖を通そうとしているきらいがある。

下北沢の観光客向けっぽい古着屋で黒い布カバンを購入。その後ThePIZZAで二切れピザを誂えて帰宅。最高の休日だったので、終わるのが惜しくて悲しくなった。とはいえ週明け月曜は7時出勤のため、速攻で床につき、速攻で床についたのにもかかわらずちょっと動画を見てしまい寝る。

今日
早出のため仕事が15時半で退け、渋谷駅のエクセルシオールカフェでブログ記事を書く。この後18:15からは『フェイブルマンズ』を見る。若干の寝不足は否めないものの楽しみ。
寝不足をものともしない面白さで、ぐいぐいと引き込まれた。スピルバーグが面白いというのは当たり前のことなので面白いのだが、昔もっと冷淡だった頃がすこし懐かしくもある。質の高低を横目に見ながらもほぼ好みだけで突っ走っていたあの頃。大学一年から二年のあいだ。

『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見た

下北沢のOscarというビーガンアメリカンチャイニーズのお店で昼食をとったあと、TOHO新宿のIMAXレーザーで『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見た。

SFの特徴のひとつに「愛の物語を真っ向から描ける」というものがある。「何度生まれ変わってもあなたと結ばれる」という仮定の話について、それに近い内容を示すことができる。たとえばパラレルワールドやいわゆるマルチバースのなかで、いろいろな選択があり得るということを示した上で、結局、どの世界でも隣にいるのは同じ人だったと描くことで運命というものの輪郭を描出することができる。それがSF的な舞台装置によってなされることのひとつだ。
いろいろなディテールがあるにせよそのメッセージはどれも似通っていて、物語上の新鮮味はSFという言葉からイメージされるほどない。もちろんSFを初めて見る場合には、「なんだこれは」という驚きはあるだろうが、小説・漫画・映画などの主だった作品に2,3作品ほど触れれば、どれもコア部分は代わり映えしないということに気がつくだろう。
映画などのビジュアル作品の場合は、これまでになかったような新しい描写を発明することによって「見たことない」という驚きを与えることはできるし、映画好きやSF好きにとってはおそらくそこの部分を多く楽しみにするものなのだろう。
私はSFとされる特定の作品に触れた当初から、そのキーメッセージのほうに惹かれてきた。今になってもやっぱりキーメッセージの部分にもっとも心動かされる。経験上「そうなるんだろうな」という方向そのままに物語が進んでいったとしても、毎回どうしても感動してしまう。SF映画については、感動するということを確認するために映画を見に行くようなところがある。それを不健全だとは思わないまでも、客観的にみてセンス・オブ・ワンダーには欠けると感じる。
しかし、『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見て、良かったと感じるのは紛れもない事実だし、同じような映画をあと20回ぐらい見たとしても心が動くんだろうなという感覚がある。
もちろん、同様の映画の中でも『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』の出来が良いということはある。パターンが決まっているにせよ並び方・順序が的確で、場面の連なりにしても考証がなされたうえで氷山の一角として画面を構成しているのを感じさせる。アルファ、ベータ、・・・というマルチバースの並べ方は全体数から考えたときに割り振るシリアル番号として適当とは思えないなど、瑕疵がないとは言えないものの、アルファ・ウェイモンドの闘い方が他のウェイモンドと明らかに違うところなど、逆算する形でウェイモンドにとってのエブリンの存在の大きさを感じさせる描写があったりして、少し遅れて「ああそうか」という切ない感慨を抱けるようになっている。彼が最後に何を見て人生を閉じたかということを考えても、最初のほうで提示されたガラスが割れるようにして二重に割れるビジョンという演出の必然性を感じさせるもので、映画の画面として描かれなかった箇所にも物語(主観)があるということを想起させる。こういうのはやはり品の良い演出である。演出が良いというのはこの映画のポイントだ。

そして私にとってはもうひとつポイントがあった。それは作中に印象的な比喩として出てくる真っ黒いベーグルである。この黒いベーグルが何の比喩になっているかといえば死のイメージの比喩であり、その描写はかなり直接的なものとして感じられた。それが表していたのは生々しい迫ってくるような死の恐怖のイメージそのもので、ほとんど私の頭の中から出てきたものかと思われた。昔、自室で突然〈死の恐怖〉にとらわれたときのことを思い出した。ここでいう〈死の恐怖〉というのは、死後何もないということを想像して、そのどうしようもなさに震える経験のことである。私の場合、その恐怖が迫ってくるときのイメージが視えたのは、目の前に黒い球体が迫ってきてどうしようもなさだけを感じるというような形でだった。ベーグルのように穴が空いていたということはなく、黒々とした密度の濃い黒が視えたのだが、そのときのことを思い返してみると、たしかに穴が空いていたともとれるかもしれない。ただしその穴の向こうには黒いドーナツ状のイメージよりもずっと黒いものがあって、それがあまりに黒いから穴が空いているように視えないだけのことだったのかとも思われる。とにかく黒かった。黒というのは光がないということの謂いで、とにかく何もなかった。それを視たのは20歳ぐらいの頃に一度だけで、時間帯は夜だったのだが、そのときあまりのことに部屋を飛び出したのだったか、それともそのまま寝てしまったのだか覚えていない。それまでも死の恐怖にとらわれることは度々あって、今でも定期的にその恐怖が容赦なく襲いかかってくるのだが、あんなに具体的にビジョンを持てたのはその一回だけだ。
『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』がたんに良い映画であるというのを超えていると思うのは、エブリンとジョイの和解があったあとにもベーグルは消えないというところだ。ヒーローものだったりヒューマン・ドラマだったり、ジャンルを問わず普通の映画は観客に希望を見せる。たとえ一度は黒いベーグルを見せるような過激な映画であっても、希望の光を添えることを忘れない。愛・強い気持ち、呼び方はさまざまにあるが「それ」に照らされてわれわれの生はある。何はともあれ、今、われわれは生きている。そういうふうに帳尻を合わせ、気持ちが晴れるメッセージを錨のように沈めて、われわれの魂が漂流してしまうことを防いでくれる。つまりベーグルというのは逆説的にそこに光を照らすためのキャンバスとして規定されることが多い。
私自身もそういう物語の多くに心を慰められてきた。何度となく救われるような気持ちになってきたし、これからも心底助かったと胸を撫で下ろすような経験を映画や物語に与えてもらえることを期待している。
しかし、はっきり言っておかなければならないのだが、いつか死ぬからこそ人生は美しいというのは嘘だ。いつか死ぬという事実は、人生の瑕疵に他ならず、絶対に許してはならない不条理である。たしかに、死ぬことをどう捉えようと結局は死ぬのだからそれと折り合いをつけようというのは賢明な態度だとはいえる。だが、それは仕方なく折り合いをつけるということにすぎないのであって、結局は自ら慰めることでしかない。自分の考えだけではどうしても足りないから他人の存在を使って折り合いをつけようとするのも、それしか方法がないとはいえ、それをかんぺきにこなせたところで何の解決にもならない。
ベーグルを前にしては寒々しい気持ちになるしかない。だからできるかぎりそれから目をそらし、違うことを考えようとする。楽しいことでも苦しいことでも悲しいことでも、意識を向ける対象があって心が忙しくなればなんでもいいのだ。……だが、それが不可能になってしまう特異な状況があって、自分がそんな状況に置かれてしまうとしたら?
じつは今日も仕事中に突然ベーグルタイムが訪れて全然駄目になってしまった。これを書いている4時間ほど前のことだ。ただ、いつももう駄目だと思うのだけどすぐに立ち直れる。今はもうしっかり立ち直っている。いつも立ち直れるのは集中してそのことにとらわれ続けることができないからだろう。生理的な限界なのかブレーキがかかるからなのかわからないが、そのおかげで大丈夫になる。ありがたいと思わざるを得ない。
ジョイはベーグルの前に立つしかない。ジョイは消えるしかない。いつかはそうなるしかない。いつかは今ではない。だがいつかは消えるしかない。いろいろ考えることはできるけれど、それは最低のことだ。
たとえば死刑囚のことを考える。明日の朝、刑務官がやってきてついに刑が執行されることを告げられる、そのことを毎夜想像して寝る日々というのはどんな気持ちがするものだろう。それは間違いなく最低だろうが、ひょっとすると「慣れ」によって考えないでいられるようになっていくものかもしれない。
ベーグルと自分の関係を考えてみると、自分の置かれている状況というのは死刑囚とあまり変わらない。本質的には同じことだ。ただ気を紛らすための機会が多く与えられているだけのことで、それにしたところでいつまで続くのかは不透明だ。想像力にかぎりがあるというのはそれ自体有効な回避策だが、だんだんと摩耗していく途中にも苦痛は続くし、その苦痛だけは結局残るのではないかという気がする。
この映画における、エブリンのもとに帰ってきたジョイと帰ってこないジョイが「両方いる」というイメージは、たんに帰ってくるジョイがいるという嘘の希望でもなければ、帰ってこないジョイがいるという本当の絶望でもない地点に私を導いて、これまでとはちがう新しいはぐらし方で――それに慣れるまでのあいだは――、お守りになってくれるはずだ。充分長い期間それが続くといいなと思うけれど、だったら先頃のベーグルタイムの説明がつかない。たんにそれが役に立たないということであれば説明はつくけれど、それだといくらなんでも早手回しにすぎるから、焦らずゆっくり考えたり、いっそ考えたりしないでおいたり、あるいはちょっと違うことを考えたりしたい。
とにかく黒いベーグルは最低だ。それを描き出し、中指を立てる対象として提示してくれたことで、『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』は私にとって忘れがたい映画になった。

20230304

日記60

演劇の本番が終わってから立て続けに映画を見ている。
終わってからだけじゃなく最中にも見ていて、本番は4日間・4公演だったのだが初日と2日目の合間にも『ブルージャイアント』を見に行ったりした。その他にはエンパイアオブライト、バビロン、アントマン3を見たが、アントマン以外全部面白かった。今日もエブリシングエブリウェアオールアットワンスを見に行く。あとはフェイブルマンズも見に行きたいし、公開を控えているシン仮面ライダーも見に行くつもりだ。
彼女と自宅で読書会をした。課題本はベンジャミンクリッツァ―著『21世紀の道徳』だ。ふたりとも遅読なので毎週1章ずつというかなりスローなペースで読書会をすることにした。たしか14章ぐらいあったので単純計算で14週かかることになる。ここまでじっくりと一冊の本に腰を据えて読書会をするのは珍しいかもしれない。たとえ大長編でも、2週にわけて読書会をするというのは聞いたことがない。べつにいろいろな読書会に行ってみたわけでもないが。

昨日
AuraleeとNewbalanceのコラボアイテムの発売日だった。もともとインスタグラムで流れてきたスウェットのデザインに一目惚れし、絶対にほしいと思って目をつけていた。
ただ、その途中、今週の月曜あたり、演劇本番のストレスから解放された反動で、まったく関係ない別の服を衝動買いしそうになった。映画館に行く途中でふらっと入った新宿マルイのRAGTAGで見つけたモッズコートがSALEになっているのを発見し、40%引きという文言と、ほとんどサイズ感が合うというだけの理由で衝動買いしそうになった。

↑衝動買い寸前で思いとどまったモッズコート

思いとどまった大きな理由は先のスウェットの発売日が週末に控えていたからで、欲しくなったものをもっと欲しかったものを手に入れたい一心で封じるという、服をもって服を制するというか欲をもって欲を制するという方法がうまくいったからだった。
服装にVを取り入れたいという欲求がこのところ高まっていて、たとえばノーカラージャケットを最近探しているのも、今回欲しかったスウェットに一目惚れしたのも、それが理由だった。なぜだかわからないが鋭角のラインを服装に取り入れたいという機運が高まっている。
結局モッズコートは買った。これを着るていると友人から馬鹿みたいなデザインと言われるが気に入っている。馬鹿みたいというところには同意する。カモ柄で馬鹿みたいだ。


↑とにかく欲しかったスウェット

確実に手に入れるために、オンラインストアに待機していたのに加えて、彼女の職場の近くに実店舗があるのをいいことに、開店時間の12時にあわせてお昼の時間がてら代理購入をお願いした。オンラインストアは即完売だったがなんとか購入でき、彼女も開店直後の一人目の客となって見事スウェットを購入。晴れて欲しかったスウェットが2着同時に手に入った。



↑とにかく欲しかったため勢い余って2着手に入れたスウェット(うしろ)

私には気に入った服をずっと着ていたいという欲求があるので、2着とも着倒したいと思っているが、勢い余って2着購入したことは買いに行ってくれた彼女に言っていない。ただ、この服に対しては一目惚れの度合いが今までにないぐらい高く、たとえ倍の値段がついていても買ったと思うので、その値段で2着も手に入り、かえってお得だと思っているぐらいだ。
一着だけ開けてもう一着は段ボールに閉まったままにしている。春と秋に気に入って着ている。

仕事が終わってからスタバに行く。演劇をやったことについて思ったことを書こうと思ったが、危惧していたとおりにとりとめもないものになってしまった。文章を書く能力が落ちているのを感じる。べつに低い能力でも書かないよりは書くほうが良いのは明らかだし、そもそも書かないことには当の能力自体向上していかないからあーあと思っているうちにも書いたほうがいいのは当然のことなのだが、実際のところテンションが下がってしまう。経験が、経験によって得た感慨がチャチなものに思えるからだ。私は感想レベルではあらゆる内容を大それたものだと受け止めがちなのでいくらか割り引いて考えなければならないにしても、こうまで思い込みに浸かっていて、しかも文章量がなかなか増えていかないのでは切ない気持ちにもなる。熱量=文章量というのは単純化したバロメータだとしても、たとえばこのブログなどで精緻なものを書き残そうという気持ちがない以上、ある程度はそのバロメータに依拠せざるを得ない。
すぐに文章になってこれが俺の得た経験だとすることができないだけで、たとえば人前で何かをするときに演劇以前とはちがう姿勢でそれに臨めるようになっていたり、自分の中に何かが蓄積されたのをこの一年で感じる機会が何回かあった。緊張しなくなったとか劇的な効果があるわけではないが、緊張する場面で今まで通り緊張しながらも、それが幕引きになるイメージを持てるようになった。

今週から資格の勉強を再開した。CCNPを取得するという目標を立てていて、ENCORの受験予定日は3/18だ。勉強時間の確保は、平日の在宅勤務時にはそれなりにできているのだが、天気のいい休日は(たとえば今日なんかは)思うように勉強時間を確保できない。勉強方法はPing-tだけ。CCNAでもそのやり方で当落線上ぎりぎりで受かったのに、CCNPも同じやり方では確実に落ちるだろうと思っている。今の会社が受験費用を出してくれるのでその点心強いが、自費受験だったら予定の見直しは必須だろうと思う。そんな悠長なこと言っている場合かと思うが、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないけども、今はモチベーションが落ちている。一応、べつのところにモチベーションを持っていかれていると言うこともできる。
合格したら欲しい物を買う、といったようなニンジン作戦もありかとも思うが、欲しかったスウェットは買えてしまったし(しかも2着同時にだ)、今のところはちょっと良いアイデアがない。
CCNP……。昔取得しようと勉強していたものだが、結局受験さえしないまま"今の会社"を辞めることになった。

20230303

『エンパイアオブライト』を見た

学生の頃、コーエン兄弟の映画が好きでよく見ていた。話が面白いと思ったことはないが、とにかく面白いとは思っていたので、その感情につられて話も面白いような気がしていた。
すこしいじわるな物の見方というか登場人物を若干突き放したような描き方をするのが新鮮で、他ではあまり見られない種類のユーモアを感じてだんだんのめり込んでいったんだと思う。話の筋が面白いというわけではないというのは当時から感じていたことだったので、何が面白いのかを確かめようとして数々の作品を何度も見返した。
何回見ても見るたびに面白く、見れば見るほど面白くなっていくので、やがてコーエン兄弟の映画は画面が良くてそれが化学調味料のような働きをしているのだと気づき始めた。私はシネフィルではないが、シネフィルに一定のシンパシーをもっていられるのはコーエン兄弟の映画を通して、画面それ自体の魅力に思い至った経験があるからだ。
コーエン兄弟と組んでいる撮影監督のひとりにロジャー・ディーキンスがいる。彼の撮影が素晴らしいのでは?と気づくのに時間はかからなかった。画面を「撮影」しているのは撮影監督だろうと察しはつくし、オスカーでも撮影賞があったりもするし、監督や俳優ほどに重要な要素であるにちがいないと思うようになったのだった。
だからといってロジャー・ディーキンス撮影の作品をその日から漁りはじめたということはなかった。ただ、新作がかかるたびに、ちょっと気になる作品で、見に行くかどうかの当落線上にある作品のクレジットにロジャー・ディーキンスの名前があった場合、見に行くのほうに針が振れるぐらいの影響力を持つようになったのだった。
『エンパイアオブライト』もそうした作品のうちのひとつだった。予告編を見たときには地味で正直あまり面白そうとは思わなかったのだが、サム・メンデスだし外れということはないだろう、ロジャー・ディーキンスだったら退屈はしないだろうという判断で映画館に足を運んだ。
その判断は正しかった。建物や風景、時代の空気感の描き方が抜きん出ていたからだ。画面が美しいのは間違いないが、美しいだけではない別の要素も絡んでいるように思われた。それがどういう種類の何なのかはっきりはわからないが、とにかく特別な雰囲気があった。どことなくコーエン兄弟の映画を見ているような気にさせられた。
コーエン兄弟の映画と違うのは、特別な雰囲気のなか、とびっきり格好いい登場人物が現れたことだ。知らない顔の俳優で、終映後エンドロールに注目してMicheal Wardという文字を見つけた。マイケル・ウォードは文句のつけようがなく格好いいのだが、たぶんサム・メンデスには彼を格好良く撮ろうという衒いのなさがあり、そこがコーエン兄弟とは一線を画しているところだと思った。そういうことをするのとしないのとどっちが良いかというのは好みだが、実際にマイケル・ウォードを見たらそういう悠長なことは言っていられない。それほど威力のある俳優だった。まだ若いんだろうと思うが、のちのキャリアが楽しみというよりは心配になるレベルの出来だった。平たく言えば完璧だった。
風景が醸す特別な雰囲気と、俳優の格好良さというのは、いつか私が映画に求める最大のふたつになっていたので、エンパイアオブライトは好みでいえば最高の映画になった。
私のなかで映画の良さというのは、第一に俳優が見せる表情であり、その表情を見せるために話の筋があるという順序なので、俳優に割く意識は多いと自認しているのだが、その観点からいってもマイケル・ウォードが見せるすべての表情とその順番はいちいち完璧だった。
また、彼と関係ないところでは、オリヴィア・コールマンが詩を読むシーンが良いと思った。映画のなかで詩を読むというのは、腕のいい俳優がやれば当然格好のつく場面になる。たぶん映画監督はあまりそういうことをやりたがらないんだと思う。格好良いシーンをバチッと描くことに含羞があるのだろう。この映画ではないがたとえば『インターステラー』でマイケル・ケインが朗々と詩を読むシーンなどは、コーエン兄弟には逆立ちしても作れない名場面だと思う。マイケル・ウォードを使ってサム・メンデスが作った数々のシーンはそのどれもが最高で、心のどこかでよくやるよなとは思うものの、やりきることの痛快さがある。
しかし、そんな勢いで「詩を読む」シーンを描くのは危険でもある。もしあらかじめ詩を読むシーンがありますよと通知されていたとしたら、回転数が上がりすぎて空転するさまが脳裏をよぎり、目を開けていられないほど不安になることだろう。
オリヴィア・コールマンが詩を読むシーンはこの映画の物語的・心情的ハイライトのひとつだから印象的なのだが、場違いなスピーチという形をとることで、ユーモアに包まれた見やすいシーンになった。そのおかげで映画のいちシーンで詩を読むことの素晴らしさが充溢したわけだし、このあたりのバランス感覚がサム・メンデスを優秀な映画監督だと思わせる。
詩を読むシーンが素晴らしいのは、詩が言葉で作られていて、何よりもその言葉が素晴らしいのだということをはっきり告げるところだ。言うまでもなく詩は映画の部分であり、映画が素晴らしいものになるために配置された小道具のひとつである。しかし、裏を返すと、映画が詩の部分であり、詩が素晴らしいものであることを告げるための舞台装置だということもできる。これは部分と全体についての一般的な関係の話でもあって、たとえば俳優の表情と映画の物語などにも敷衍できる。どちらが全体でどちらがその部分であるかというのは、通常考えられているよりもずっと反転しやすいものであり、その反転はかなりの頻度でぐるぐる回っているものでもある。ただ、裏返る前にはどうやって裏返るのか想像もできないだろうし、裏返った後は裏返った後で、どうやって裏返ったのかはっきりわからないようなところがある。たぶん裏返るというのは一瞬のことだからだ。それ以後は表だったものが裏になり、裏だったものが表になるだけのことで、本質的にはたいした違いはないのだ。

下北沢演劇祭の演劇に出演した2

とにかく思ったことを書こうと思って書いたのが↓で、思ったとおりに思ったことは書いた。

https://www.nyikitai.com/2023/03/blog-post.html
下北沢演劇祭の演劇に出演した

しかし、これじゃ何のことかさっぱりわかりませんと人は言うだろうから、せっかくの経験を人に伝えるに、この私でもさすがにやぶさかでないとしか言えないので、も少し具体的にどんなことをやっていたのかということを中心になるように書いてみようと思う。演劇WSというのは基本的に素晴らしいものであるという前提で書く。だから今回のWSも素晴らしいものであったというのは前提になる。そのためにかえって肝心の素晴らしさについて云々しないで、ここはもう少しどうにかなったのではないかという文句のようなものが前面に出てきがちになるかもしれないのであしからず、と注意しておく。
まずは説明会から。これは説明会・ワークショップ(以下WS)と称しているが出演者からすれば実質的にはオーディションの場であった。下北沢演劇祭の創作プログラムはプログラムAとプログラムBとに分かれるのだが、説明会はAB同時に行っていた。参加者はAかB、またはその両方に参加希望の意思表示をすることができた。ざっくり言うとこの年、Aはダンス中心のミュージカル、Bは(漠然と)演劇という印象で、ほかに大きな違いとしては稽古日に割り当てられている日数の違いがあった。私は演劇の稽古というものをやってみたいという願望があったので、稽古日が多いBを選んだ。
説明会では、まずAの演出担当とBの演出担当が挨拶をした。Bの演出のほうが感じの良さと威勢の良さの両面で上回っており印象的だった。「演劇が嫌いで」という口上は、「演劇(と呼ばれているもの)が嫌いで」という読み替えがわりと容易にできた。演劇のことが自分なりに好きなひとが言いそうなことだと思った。対象が何であっても、それについて”自分なりに”好きと言える人のほうが面白い傾向があるので、B希望にして正解だったと思った。
説明会の説明パートはスタッフの人によってスムーズに終わった。コロナ関連の注意点やこの後のスケジュールについて話していたと記憶している。オーディションパートではダンスをやったり、他己紹介をやったり、60秒の至近距離見つめ合いをやったりした。とくに手応えのようなものはなかったが、初心者・上背・家近所というわかりやすい武器があったので、挑戦的なタイプであれば私を見逃さないはずだという臆断をくだすには充分だった。
予想が的中して当選のメールが届き、WSに参加することになった。2ヶ月ぐらいの準備期間があり、そのあいだにメールで自己紹介のような文章を参加者同士で送り合ったりしたが、始まる前に変な先入観を持たれたくないと思ったので無難なことだけ書いた。この期間はとくに何もしていなかったが、期待というよりは思いつきが現実になるという恐怖が多く頭を領有していたと思う。
初日のWSは友人の結婚式が重なり出られず、二日目からの参加になった。まずやったのは自分の呼ばれ方を自分で決めて発表するということで、そのあとの「名前呼びゲーム」でさっそくその名前で呼ばれることになった。このときに大学時代から使われている友達からの呼び名を多少の被りを気にせず押し通せたことが、のちのちの展開を思えばまず正解だったと思う。名前呼びゲームでは自分の名前が呼ばれると、それを受けるターンがあり、そのときに自分の名前を自分で発声することになる。名前呼びゲームは演出がもっとも大事にしているコミュニケーションの基本、演劇の基本ということで、毎WSで繰り返しやったし、本番前のアップでもやったぐらいだから、自分に馴染みのない思いつきの呼び名に決めないでよかった。
初顔合わせということでWSではこの日がもっとも緊張したが、心理的安全性の確保に長けていることをまざまざと感じさせる演出の手際で、すぐにリラックスすることができた。一口で手際と言っても、それを発揮するためにはいろいろの試行錯誤を経てきているのだろうし、緊張という余計な軋轢を生まないための心配りはWS初日から本番千秋楽までずっと続いていて、その一点だけとっても、無い帽子を脱いででも尊敬の意を表さずにはいられない。とくに人前で緊張しやすい私にとって、演出が示した丁寧な言動・振る舞いは何よりの助けになった。
演出の影響力というものに十分自覚的であるというのは、私が思う演出家の最低条件ではあるのだが、実際にそういう人を目の当たりにすると雁字搦めに近い状態にまで自身を追い込んでいるように見えたし、これは誰にでもできる芸当ではないなと思った。もちろん完璧にこなせる人はいないし、ほぼ完璧な人のたまのミスによる負の影響は、何も気にしていない残念な演出家のそれと比べてかなり大きなものになるだろうということは予期していたし、それに当てられないようにと注意していた。(結果、私に関していえば完全に杞憂だった)
演出が繰り返し言う「コミュニケーションが大事」ということの意味が私にはあまりピンとこなかった。「相手のセリフを聴いて、自分のセリフを言うということを心がける」と聞いても、そんなの当たり前じゃん以上の感想を持てなかった。「それができない人が多い」とこぼしていたが、「そんなものですかねえ(超簡単じゃん)」という感じだった。WSが佳境に入って、本番が近づくにつれて「コミュニケーションが大事」の意味がわかってきた。WSでいとも簡単にできていたことが、一気にできなくなったからだ。私だけではなく、共演者の多くがWSで事も無げにできていた「相手のセリフを聴いて、自分のセリフを言う」ということができなくなっていた。彼らは(おそらく私も)トーストしてしばらく経った食パンのように固くなってしまっていた。固いままでも成立はしてしまうから恐ろしいということも言っていたが、それが事実なのだとしたらたしかに恐ろしいと思う。焼き立てのトーストとそうじゃないトーストは同じ組成でもまったくの別物だといえるから、そういう取り違いがもしあったなら、そしてそれに気づかないままでいるなら、これほど残念なことはないからだ。
最初の日からアップとして車座になってやる簡単なコミュニケーションゲームをいくつかやった。その後はジェスチャー伝言ゲームをやった。2チームに分かれてそれぞれに同じお題が割り当てられ、言葉を使わずに30秒間で人に伝え、受け取った人はつぎの人にそれを伝え、というふうにして、最後尾の人はお題を当てるというゲームだった。最初から難しいお題が多かったが、初心者の側からいえばそれによってジェスチャーの出来不出来をあまり意識する必要がなくなったのでかえってありがたかった。
極力言葉を用いないで成立させるというのを考えていたようで、結局、本番で披露した演目もほとんどセリフがない芝居になった。自分としてはセリフを言ってみたいという願望をもっていたので、若干肩透かしをくった形だが、本番が近づくにつれセリフがないことに感謝する始末だったのであまり大きなことはいえない。それでもセリフがないというのは役者からはもっとも不満が出るところかもしれないと思った。横のつながりを持てないまま本番を迎え、どういうことを思っているかというのを裏で聞くような機会を持たなかったので想像の域を出ないのだが。
ジェスチャーゲームで言われたことは「記号的な表現にならないで」ということだった。ゲームに勝つためには記号的な動きを取り入れて確実に伝えるほうが有利なのは間違いないが、ゲームに勝つことをそこまで重視していないということも随所で口にしていた。ゲーム自体がどうでもいいとならないようなバランスが必要なので勝ち負けもそのスパイスになるが、ゲーム自体はあくまでも手段であって目的ではないというのは、皆大人なので理解していたように思う。参加者の聞き分けの良さのようなものはつねに感じていた。かくいう自分もそうで、意図を汲もう汲もうとして、わけのわかったような態度をいつもとってしまい、勝手につまらなくなってしまったと反省している。
すでに理解していることを確認するためにWSに参加しているわけではないのに、はいはいそうだよねとひとり合点してしているのは思い返しても情けない。不安を自分なりに解消するために無意識にそういう動きをしてしまっていたのかもしれないが、いずれにせよ褒められたことではまるでない。
参加者の中には、「え?どういうこと?」とか「わからない」という人もいて、そういう態度こそ自分に必要なものだと思ったので、疑問を瞬発的に口にすることを心がけた。たとえば仕事などでは、わかっていなくてもわかっているふりをしてその場をしのいだりやりすごしたりするスキルが必要になることがあるが、WSではそれを封印しようと思った。
わかってほしそうにしていることをわかってあげない、と言うとやり過ぎのように感じてしまうが、それぐらい過激なことをやってみようと思った。こういうのは普通こうなる、というのが感じ取れても無視するというか。
そういう過激なことをあえてやってみようという気になったのは、そういうことをやっても許される雰囲気がその場にあったからというのも見逃せない。今回出演するにあたっては、演劇のお約束に付き合わないようにするというのは自分の良さを出すためには欠かせないことだと思ったから、できるかぎり非常識を押し通そうとして臨んだが、その邪魔をするのではなくかえって追い風になってくれたと感じた。しかし、そのせいで向かい風に立ち向かうという意味での興が削がれたのも事実で、今になって思うと、陳腐な例えだが「北風と太陽」のようだった。
演劇創作は、あるテーマから言葉を連想し、それをお題にしてチームごとに自由に創作するという形をとった。一番自由に決められるのは最初の何も決まっていないときなのに、そのときには皆消極的で、ある程度方向性が定まってきて好き勝手変えられないようになってから徐々にエンジンが温まってきていろいろ独創性を発揮しようとし始めるというのは、自由な創作の名に恥じないとはとても言えないお粗末クリエイティビティだが、自由を与えられていると感じさせつつ手綱を引きやすいのはこのやり方で間違いない。この点に関しては仕組まれていたと感じる。羊の集団に「ご自由にどうぞ」と言えば大抵の場合固まるものだからだ。まあ、まんまと固まってしまった言い訳なのだけど。
本番は細切れに分かれたパートをいくつもつなげたような格好になったのだが、最初に10分か15分そこらで考えたたいして独創的でもない単なる思いつきを形にして最後まで演じることになったパートもそれなりにあった。WS全体を通して創作の意識は低かったように思う。会議で当たり障りのない意見がなんとなく出て、とくに賛成も反対もされず、皆一様にパッとしないなと思いつつなんとなくそのまま決まってしまうというとき特有の雰囲気を感じた。否定しない良さが裏目に出て、「駄目じゃない」が合言葉になったきらいがある。ただ、もっと殺伐とした現場とのトレードオフで考えるのなら、間違いなくこれで正解だとは思う。
ただし、最後のほうに出たお題とその創作では、「やっぱこれなし」とか「全然違うのに変えます」というのが横行して、いい感じのカオスが部分的に創発した。はじめのうちからこれを出せていたらと思わないでもないが、全然出せないまま上辺だけスムーズに進行していかないでよかったという安心感のほうが大きい。変えたから良くなるという単純なものではないけれど、変えたい・変えるべきだという成果からみて真っ当な評価が共有できたこと、実際に土壇場で変更したことはポジティブな出来事だったと思う。
演出という立場からは「これは全部変えたほうがいいんじゃない」とは言えないので、自分たちでその判断をするしかない。もっと早い段階から、もっともっと変えていくべきだったと思う。創作については極力意識させないでぬるっと始めるという演出の意図そのままに、気づかないうちに創作をはじめていて、いつの間にか完成しているという事態に陥ってしまった。紛れもなく私たちの創作なのにもかかわらず作品に対する責任のとり方がまるでなっていなかったと思う。責任のとり方がなっていないというよりははじめからその気がない、責任がないという感じ方をしてしまっていた。どこか他人事というか、自分事のわけがないと思っていたのだと思う。そういう意識・無意識に対してフラストレーションをためる共演者もいただろうと思う。
ただ、責任をとるというのは難しくて、その気があるからといって責任がとれるわけではない。責任の一端に触れさせようとしただけなのに押しつぶされてガチガチになってしまうという事態も容易に想像できる。その意味では、責任などないと感じることで一番の恩恵を受けていたのは自分だという自覚があり、だからどの口が言うねんということを承知で言うが、もっと参加者ひとりひとりに作品についての責任を感じさせるべきだった。
配慮されているという意識は終始拭えなかったし、配慮が必要な状況に陥っていた自覚もあるけれど、もうすこし自分が作品の一翼を担っていると思えれば良かったのにという後悔に近い感情がある。本番や作品に対してもそうだが、それ以上に一回一回のWS対してもっとやれることがあったのではないか。
身体を動かすということについては真剣に取り組めた。ペアになって相手が動かした新聞紙と同じ動きをするというWSがとくに面白かった。創作部分、連想ゲームでもっと突飛なことを考えつくべきなのに前半でちょっと疲れてしまって(言い訳だ)、無難なことしか言えなかったのが自分の能力・ポテンシャルを考えるとどうしても残念だった。
コロナ下ということもあり、WSはすべてマスク着用で実施された。劇場入りして、場当たりからようやくマスクを外した状態で共演者と向き合った。このとき匿名から実名に切り替わったような感覚をおぼえて面白かった。ゲネプロ・本番(4回あって4回とも)はとても緊張したし、久しぶりに唇が荒れたりもしたが、何も考えられないほど一生懸命になっている瞬間がそれなりの時間継続したり、お互い限定的にしか知らない人たちと接近したりするのはどう思い返しても楽しかった。

20230302

下北沢演劇祭の演劇に出演した

私は、何かをやってみるときにあまり深く考えず、軽い気持ちでやってみるタイプの人間である。
昔はそうではなかった。どちらかといえば慎重を絵に描いたようなタイプで、自分の頭の中だけでいろいろ考え、しかも、それで完結できるだけの妄想力を俺は備えているのだ、とうそぶいていた。自分以外誰もいない部屋のなかで。
だから自分と向き合う時間は多かったと思う。そうすると、自分の傾向性とは真逆に振れてみたいとある日思うようになる。俺はこういう人間であると思っているが、ひょっとするとそうではないのかもしれない。その可能性について考えてみるというのは、どちらかといえば明るい気持ちに私を導いた。それまでの俺の延長線では選ばないような何かを選択してみて、俺には自由意思があるんだと自分自身に証したかった。たぶんそういうようなことを考えて、最初はただどこかに出かけていったんだと思う。東京に出てきた最初の夜、渋谷のクラブに出かけていったのもその一環でしかなかったが、何度か通ううちにまずはその場所での居方を学び、結果としてクラブでひとり踊るということの楽しさを知ることができた。
重要なのは、ひとりでいるために部屋に閉じこもっている必要はないということだ。行った先でひとりでいることと、部屋のなかでひとりでいることのあいだに大した違いはない。
何かをやってみるとき、誰かと一緒にやることが条件になる場合がある。そのときは一緒にやればいいだけで、それが終わった後にずっと一緒にいたり、それで気詰まりな思いをする必要はない。これも重要なポイントだ。ひとりの時間を多く部屋で過ごしていると、部屋から出ると四六時中ずっと人のそばにいなければならないというように考えがちだが、まずそれがそうではない。田舎ではそうなのかもしれないが、少なくとも都会ではそんなことはない。人はたくさんいるし、その効用もあり、誰も私に興味を持ってなどいない。もちろん礼儀として、あなたに興味がありますよというメッセージを送るためだけにやる通り一遍の会話は発生する。つねに礼儀正しい人間でありたいと思わないのであればそういった挨拶を無視したり、一切やらなくても問題ない。ただただ自分のやりたいことだけに集中すればいい。私には、やりたいことがそこまではっきりしていないのと、つねに礼儀正しい人間であらねばという強迫観念から、儀礼的メッセージを送ることに血道をあげているような瞬間が多くあるのだが、それも数をこなすうちに大した労力と感じなくなってくる。いつかほとんど自動的に社交上の礼儀を押さえられるようになるかもしれないし、べつに礼儀とかどうでもいいと思える日がくるかもしれない。いずれにせよ重要なのは、何かをやりたいと思ったとき、実際にそれがやれるかどうかのほうだ。
自分の傾向を踏まえてその逆を、とか、自分の延長線上にない動きを、とか、そういうある種の飛躍、つまり突飛な行動を、実際に行動に移せるかということを私は重要視している。そう思って行動するうち、いつの間にか、いい加減な気持ちで場当たり的に動くことが当たり前になってきた。
ひとり遊びをする場合、喜ばせたい相手はひとりしかいない。実際に行動に移してみなくても充分楽しいのは私にとっては言うまでもないことなのだが、それでも、実際に行動に移してみると私は驚く。その瞬間、意外に思いながらも私が嬉しそうなのを私は見逃さない。
自分ひとりで知ることのできることはたかが知れている。だから実際に本を読むのだし、実際に映画を見る。実際に演劇をやってみる。
ピンポンダッシュをやるものの気持ちは、実際にピンポンダッシュをしたものにしかわからない。私はこの手の言説には半分反対の立場である。実際にやらないでもなぜかわかるという不思議な状況をもたらしてきた数々のフィクションが私を反対の立場に押しやる。だから今でも半分反対だ。
しかし、実際に演劇に出演しライトを浴びたときの気持ちを、それをやらなかった架空の私に理解させることはできないのではないかという疑いをもってしまう。クラブで音圧を全身に受けて踊るときの気持ちを、それをしなかった私に理解させることは不可能ではないのかと思ってしまう。
他人に何かを伝えるというのは、私にとって縁遠い営みであるように思う。しかし、それを体験しなかった架空の私に向けてその実態を教えてやるという形式であれば幾分興味を持つことができるようだ。
演劇のWS(ワークショップ)を通して、これが客にどう見えるかということには興味を持てなかった。ただ、カメラを通して自分がそれを見るということであれば、見え方にも興味を持って取り組むことができた。若干興味がありすぎて、せっかく撮影してもらった動画を最初のうちは見ようとすることができないほどだった。
人に演劇WSを勧めたいかと聞かれると、答えはYES一択である。しかしそれは人が私と同じ考え方をするだろうといういい加減な他人観からのものだ。すこし人に寄せて考えると、リスクの概念がちょっとずれている人には勧められる。物事について、何もやらないことをリスクと考えるタイプの人には演劇WSを勧めたい。逆に勧められないのは人前で絶対に恥をかきたくないというタイプの人だ。私は人前で絶対に恥をかきたくないと考えて何もしないでいるのを恥だと考えてしまうクチなので、同様の考え方をする人であれば、いろいろ考えた末参加するのも全然ありだろうと思う。
その場にどうやって居るかというのが重要なのだろうと直観している。思いついたことを思いついたまま口にすることができるということ、思ったままに動くことができるということ、そういうのを目の前で見せられて、なぜそんなことができるのだと驚嘆した。ポジティブな驚きというよりはもっと強烈で、感情的にはほとんど憤慨に近かったと思う。「自己が主であり、他は賓である」という当然のことを、私は頭で理解しているにすぎないということを見せつけられたようで胸が苦しかった。
理解していることと、経験して知っていることのあいだには超えがたい溝があるということを思い知らされた。こういうことをいくら言葉でいってもナンセンスなようだが、それでもそう言うしかない。こうしか言えないというそのことを示すためにこう言うしかない。
ひとりの俳優が見せつけた権能は、本来私が発揮するべきはずのもので、しかし実際にはそうなっていないという苦痛は私にとって屈辱以外の何物でもなかった。やりたいことをやっているのは俺であるべきはずなのに、比較して優位なのは相手であるという事実。私の私用に歪ませたレンズを通してもなお歴然とした”違い”があった。技術で来てくれるならむしろ格好の餌食にできた。何しろ初心者という最強の盾を持っているので。しかしジェスチャーがうまいとかマイムがどうとかそういうのではなく、やりたいことをやるためにそこに居るという居方の面で圧倒的だった。場面に居合わせる力が図抜けていて、どんな場面にでも居られるという自信があり、しかもそれを隠そうともしない傲岸不遜なところに強烈な反感をおぼえたし、無茶苦茶に魅力を感じないではいられなかった。あの場に直面した私は「自己が主であり、他は賓である」と思うのを止めていた。そのときに限っていえば現実問題としてそうではなかったから。もし私が俳優としてあの場面に居合わせなかったら味わえなかった屈辱だったかもしれない。プレーヤーでいるということは「悔しい」の連続なんだろうと思う。
私はこれまでのほほん・のんびり・のうのうと歩いてきたし、これからも3Nを崩すつもりは微塵もないが、たまにはちょっと自分には似合わないことをやってみて楽しむということは止められそうもない。自分なりの居方を極めて、どこにでも居られるようになるという当面の目標もできた。この件に関して、仮想敵を架空の私のうちのひとりにするのではなく、他人にその任を預けられるというのが今回ひとりで外に出かけてみて得た一番の効能だったと思う。スポットライトを浴びるという奇妙な体験をのぞけば。どちらもしっかり理解させたいことなので、演劇をやったことがない私を見つけたら、実際にやってみることをつよく勧めたい。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...