20221122

ファッションの利

ファッションの利点は好きな服ができることだ。好きな服ができさえしたら、そのとき、ファッションの役割は果たされたといっても過言ではない。
もし好きな服ができたら、つぎに何ができるかといえば、その好きな服を着ることができる。もしくは、その好きな服を着ている自分を想像することができる。これはファッションでしか果たすことのできない、とても強力な享楽だ。自分が好きだと思うものを身につけることができる。このことはある種、変態的な歓びだと思うが、驚くべきことにこの行為は禁止されていない。自分が好きな洋服を着衣のうえ、公衆の面前で大手を振って歩いたとしても、誰から罰されることもないのだ。ある特定の身体箇所を隠すことが必要とされるなど、服装にルールはあるのだが、逆に言うとそれさえ守っていれば問題は生じえない。露出に絶対普遍の価値をおく、ごく一部の純粋な人にとっては悲しむべきことなのかもしれないが、それにしても、考え方を裏返すなどしてしかるべき教育を自分自身に施せば、全員が局部を隠蔽するルールを守っているということの変態性に思いを致せるはずである。純粋を犠牲にした先にこそ、目指すべきファンダムはきっとある。
あなたがある色に対する偏愛を持っているのであれば、それを発揮し、愛を表現することができる。全身くまなく青色で揃えてもいいし、より隠微なかたちで、どの服装にもさりげなく青を忍ばせてもいい。あるいは、誰の目に触れることもない下着の色を赤で統一することなど、これが呪術でなくて何であろうか。
色のほかにも、形のちがいがある。たとえば襟のかたちひとつとっても、種々様々なちがいがある。袖の長さにも極度に短くゼロに近いものもあればピンと伸ばした手指が見えないほど長いものもある。どのかたちを選ぶか、どの長さを選ぶか、どの色を選ぶか、組み合わせはほとんど無限にある。
そのなかから「私はこれが好きだ」という服を選ばなければならない。あなたが妥協を許さない性格であれば、好きな服を見つけるという事業は難航をきわめることだろう。目で見て「これだ、これが私の好きな服だ」との直感が働いたとしても、実際に着てみて全然違ったということだってあるかもしれない。さらに「これが最高だ」と思うズボンを選べたとしても、合わせるシャツがないという憂き目にだって遭わないともかぎらない。好きな服を探す過程は、人により場合によっては、非常な苦労の連続だともいえる。
だが、好きな服はいずれ見つかる。「これだ」という服が見つかる日はやってくる。ひょっとすると、それは確信とはほど遠いものかもしれない。好きか嫌いかで言われれば好きだけど…、と自分の感覚に自信が持てないままかもしれない。自分以外の他人に、仲の良い友人・家族にも、「この服が好きだ」とはどうしても言えないかもしれない。
それでも、じつはその服が好きだということはもちろんありえることだし、口に出さないままそれを表現することもできる。その服を着ればいいのだ。実際、好きなものを身に着けたときの拡張感覚には驚くべきものがある。子供の頃、お祭りで買ってもらったウルトラマンのお面を着けたときの万能感、あれを思い出してみればいい。
好きな服を着ることができるということ。これに代わる、これ以上のファッションの利点は、はっきり言ってない。あるとしても異性にもてるぐらいだ。

20221121

デザイン展と美術展

先日、代官山まで[キギ展]を見に行った。代官山駅を使わず神泉駅から20分歩くコースを使った。雨に降られないか際どいところだったが本降りになる前に目的地[ヒルサイドフォーラム]にたどり着いて命拾いした。
美術展とデザイン展は似ているようで全然ちがうということを最近になってだんだん理解するようになってきたが、そこにあるグラデーションをデザイン展よりに振り切ったような展示だった。
デザイン展は美術展とちがって観客のことをあまり信用していないというメッセージが浮かび上がるものだと思うが、今回の展示ではそのメッセージが浮かび上がることを予期した上でそれにも対処してデザインされているように感じられた。美術展のほうは、観客を信用しているというお題目を唱えながら実際には手を抜いているだけということもよくあるんだと思うから、よくあると言ってわるければそういうこともあるんだろうと思うから、あるといってしまってわるければそう言えるといえばそうとも言えるんだろうから、美術展のほうが良いとは言えないけれど、それを加味した上でも美術展のスタンスのほうが好みなのだが、行き届いたデザイン展のなかを周遊するのはそれはそれで面白い。川を泳ぐのと池を泳ぐのとのちがいという気がする。一方にはあらかじめ決められた流れがあり、もう一方には決まった流れがないというちがいだ。
さすがデザイン展といったところで、見せ方に感心したが、中身については通り一遍のものにすぎないと思った。卓越した見せ方であればあるだけ、中身についてはそれとの比較でどうしても薄っぺらに見えざるを得ないのかもしれない。考え方や文章やコンセプトがいくら凡庸なものであっても、見せ方によってはそれが輝いてみえるということもあるが、見せ方が整えられていて美しければ美しいほどそれが輝くかと言われれば必ずしもそうはならないということを明らかに示していた。(卓越したデザインだからこそ、鮮やかなほどそれを浮き彫りにしていたのだと付言しておきたい。)
ただし、見せ方が並外れて美しいことで結果的に多くの人がそれを見ることになる。見るのにも段階があり、ある程度から先は、見る側の心持ちがそのまま反映される領域になる。導入と展開をべつの領分として、デザインは導入に特化していると考えれば、つまり展開するのは各々の心の内側でのことだと決めてしまうのであれば、このやり方がもっとも優れているだろう。ちなみに、先ほどの観客を信用する/信用しないの二分は反転している。
めったに見れないような美しい内容があったとしても、それを受け取る人がいなければむなしいし、反対に、どこでも見られるような内容であったとしても、受け取る人のなかにそれを響かせる鐘があればきれいな音が鳴る。大切なのは中身や内容ではなくて、それによって鳴らされるものだ。外見や形式によって、それとの比較・二項対立によって、中身や内容は重要度の高いものと考えられがちだが、大事なことをもしひとつだけ選ぶのであれば、それは外見や形式にならないし、それと同じように中身や内容にもなりえないはずだ。
だから結局、デザインを見て自分のなかになにかが鳴るのであればデザインでいいし、美術を見て鳴るのであれば美術でいいというだけの話だ。そして、大きな音で鳴らされるとき、とても小さな音で鳴らされるときなど、局面はさまざまある。
そうは言っても音の話をしているのではないので、大きな音がしたから鳴っているという証明にはならない。もちろん、小さな音だから鳴っていなかったとすることもできない。べつにできるといえばできるのだが、それをする意味はない。鳴ったか鳴ってないかという問題は、究極的には自分だけの問題だ。究極(アルティメット)などといって大それないでも、どこまでいっても自分だけの問題でしかなく、本質的にけちな問題だといえる。けちな問題だから、それを手放そうとする[合理的な]人も少なくないのだろう。
美術であればあるだけ小さい音がなり、デザインに寄れば寄るだけ大きい音がなるのかなとも思ったりもするが、そんな簡単なものでもないのかもしれない。とはいえ別段むずかしく考える必要も差し当たってないわけで、一旦そう考えることにしておく。そして、とても小さい音が鳴ったとき、とても小さくてほとんど聞こえないぐらいなのに、それでも鳴ったという確信が去らないような鳴り方で小さい音が鳴ったときに、私は嬉しい。美術でも音楽でも小説でもなんでも、そういうものを探しているんだと思う。共鳴するなら小さな音で、というのが私のけちな人世観だ。

20221114

日記51

昨日
さる演劇祭に出演することになり、その稽古参加初日だった。参加メンバーは女6人男4人の10名で、見たところ全員演劇経験者のようだ。応募の際にきっぱりと「未経験」と書いているので、私は自分が演劇素人であることを気にしないつもりでいた。しかし、いざ参加してみると、そういう「つもり」は役に立つものではないということを再認識させられた。みな舞台経験を持っているからか、押し出しが立派な様子で、何かを言おうとすると気後れを感じてしまう。とくに3人・3人・4人のチームに分かれての寸劇創作では、とつぜん役者のなかに放り込まれたようでやりづらさを感じた。「ある言葉をもとに20分で創作してください」と言われただけで、どんどん意見を出し合って寸劇を成立させようとしていく勢いはそれなりにキビキビしたもので、乗り遅れないようにしようとするので精一杯だった。「成立させる」も「振り落とされないようについていく」も経験不足によって実際にそうなるのは仕方ないにせよ、取り組む姿勢がそうなるのは避けたいところなのでどうにかしたい。自分自身に気後れしていないと錯覚させるにはどうすればいいだろうか。
とにかく「さる演劇祭」と言いたかったのでそれによって文体が決まったところがある。下北沢演劇祭に参加した。稽古初日は愛媛での友人の結婚式のため欠席したので二日目からの参加になった。経験者がどうとか言っているが、たんに自分の人見知りが出ているだけだ。なんとなく理由として縋りやすいポイントに演劇の経験有無があり、それを利用したにすぎない。ちなみにその利用は最後まで続いた。よくない逃げ腰・及び腰の態度だ。そうでもしないととてもじゃないがやり通せなかったとすれば仕方ないことだが、終わってしまった今となっては「喉元過ぎれば」ではないが必ずしもそうだとも思われない。まあこんなことを言っても詮無きことだ。「当時は」あれで仕方なかったということにしよう。


◎初日稽古でやったこと

・注意事項説明
今回の演劇創作スタイルは稽古の進行にあわせて場面を作っていくので、欠席はできるだけ少なくするように。スケジュールの変更・詳細について。

・名前おぼえゲーム
1.自分が呼んでほしい名前を自分で決める
2.輪になってスタート
3.ひとりが相手の名前を呼びながら指差す
4.指さされた人は自分の名前を言いながら相手の指差しを受け取る★
5.誰かを指差しながらその人の名前を呼ぶ
6.指さされた人は自分の名前を言いながら相手の指差しを受け取る
7.3〜7までを繰り返す

・単語渡しゲーム
1.あるカテゴリのなかから、ひとりひとり自分の言葉を決める
 例:動物 マレーバク
2.指差していく順番を決める
3.決まった順番で相手を指差しながら自分の単語を言う
4.指さされた人は相手の指差しを受け取る★
5.自分の単語を言いながら決まった相手を指差す
6.3〜5までを繰り返す
7.べつのカテゴリのなかから、ひとりひとり自分の言葉をべつに決める
 例:飲み物 ファイブミニ
8.指差していく順番をべつに決める
9.決まった順番で相手を指差しながら自分の単語を言う
10.指さされた人は相手の指差しを受け取る★
11.自分の単語を言いながら決まった相手を指差す
12.3〜5までを繰り返しながら、同時に8〜11も繰り返す
13.カテゴリと単語を増やし、同時並行での受け渡しを増やしていく

これらのゲームで重要なのは★の箇所で、きちんと相手の発信を受け取ってつぎに進むこと。たとえば舞台上でも、セリフを言うことに気を取られすぎて相手の発信を受け取らないまま進めると単なるセリフの言い合いになる。そうならないように、相手の発信をきちんと受けてから発信をするように意識する。

・写真許可
稽古風景の撮影をするが、写りたくない人がいたら教えてくださいというアナウンス。

・クレジット名相談
本名以外でクレジットされたい人は名簿にその名前を書く。

・全体写真撮影
稽古初日の全体写真撮影。

・カウントアップゲーム
輪になってアイコンタクトだけでお互いの意思疎通をはかる。
1から数字をカウントしていく
「1」と言うときには、言いながら1人が動く
「2」と言うときは、言いながら同時に2人が動く
「3」のときには、同時に3人が動く
数を増やしていく

・30秒ジェスチャー伝言ゲーム
2チームにわかれて行う

・連想単語1分作劇
3チームに分かれて行う
(2チームでも可・人数配分は等分でなくても可)
ひとつの言葉から連想する単語を3分間で思いつくかぎりいくつも列挙する
例:マッチ売りの少女
チームで浮かび上がった単語を持ち寄り、そのなかのひとつの単語を使って1分間の劇を作る


近所の気になっていた鰻屋で鰻重とう巻きを食べる。竹でこんなに満足なんだから松はどうなってしまうのか心配になった。これまで食べた鰻は甘いタレだったのだが、からいタレもこれはこれで良いものだと思った。江戸前っぽいと思うのはたんに東京で食べているからか。
鎌倉殿の13人を見る。実朝ががんばっている。蹴鞠の東西出来レース合戦に笑った。
日付変わってハンターハンターを読む。本当に読み応えがある。登場人物の量がどんどん膨れ上がっていって面白い。まるでピンチョンの小説のようだと思うが、増えるペースだけでいえばそれすら超えている。軍人が一番よわいのも面白いし、彼らの自他の戦力差が大きいのをしっかり把握して生存しようとする思惑も、ツェリの学友という立場も、今後ゲームに組み込まれ絡まり込んでいくと思うと本当に面白くなりそう。とにかく情報量が多い。セリフ回しだけで新登場キャラクターの性格と関係性を必要な分だけ十分に開示していて、ものすごいものを読ませられたという気になった。まだまだ期待が高まる。しかもそれだけじゃなくこの一話が一話として面白い。すごい。
はやくハンターハンターの続きが読みたい。あれから一年経ったがあれ以来鰻を口にしていない。

20221113

日記50

一昨日
友人の結婚式に出席するため、愛媛の松山までフライト、初ジェットスター。成田発13時の便で松山空港へは15時前に到着。ホテルにチェックインして荷物を置いてから、久しぶりの道後温泉まで久しぶりの路面電車で向かう。いつかの旅行でも行った場所なので、エリアに結びついた懐かしい記憶をさっとなぞっていく。閉館時間間際だったので正岡子規記念博物館の内部には入られず。入り口エントランスの正岡子規像と俳句ポストで我慢する。あのときに詠んだ俳句のことはちらとも思い出せず。正岡子規記念博物館の正面に掲示されていた句は

裏表きらりきらりとちる紅葉   正岡子規

これがちょうど今の気分にしっくりと合った。道後温泉にいながらも、かつて訪問した道後温泉の名残りと見比べてみたり、そのときに起こった出来事を思い出そうとして、現在の道後温泉にいるという感じが半分ぐらいになっていた。ただ、そもそも前回の散策でも、小説で読んだ当時の名残りをどこかに見つけようとしていたし、旧蹟を訪う周り方をしていたはずだと思う。そういう今と昔とがちょうど半分半分になってどちらがどちらとも言えないまま、日を受ける短い間にきらりきらりと光る感じが、今回の散策風景に、そしてたぶん前回の散策風景にも適合する気がした。当時の訪問は夏で、今回は秋というちがいはあったけれど。

昔たわむれに詠んだ句は一切覚えておらず、ただ俳句ポストに吸い込まれていっただけだったが、今回はひとりで周ったこともあって、同じたわむれながらもできた句を保存する時間を設けることができた。道後温泉から松山市駅に向かう路面電車のなか、後部座席から通ってきた線路を見ながら得た三句

折れ曲がるレールの先の道後の湯

湯けむりに霞んでみえる在りし夏

立ったまま団子食う間の夕まぐれ


前回と今回とのちがいには、過去のことを思うのと同時に未来のことを考えてみたところにある。当時は今よりももっと先のことを考えないようにしていたのに比べて、今回は先のことを考えないようにする気持ちがうすかった。その分、先のことを考えたかというとべつにそういうこともなく、ただ漠然とまた来たいなと思っただけだったので、ただそう思うに任せた。割合にすると、過去5:現在4:未来1ぐらいの案配。

宿泊したホテルは1年も経っていないぐらい新しくてきれいだった。松山市駅前なので3Fの大浴場の外湯につかると、直下の伊予鉄の発着音や街の雑踏音がうっすら聞こえてきて、まだはやい時間帯だっただけにほぼ貸切状態で、とても気持ちのいい極楽気分を味わえた。

タリーズバイト時代の仲間と夜に集まって飲む。あれから6年も経っているから当然みんな変わっているんだろうけど、お互いについ「変わらないねー」などと言い合ってしまう。宿泊ホテルが皆一緒だったのでそれぞれ風呂に入ったあと、ホテルの部屋でアイスを食べる。みんなそれぞれの近況を話していると一瞬で時間が過ぎ、私などはもっと話したいぐらいだったが、明日も早いということで2時頃におひらきになる。

昔の自分が何を考えてどういう方針で人と付き合っていたのかということを考えてそれに反しないようにしようとするのが、久しぶりに会ったときのぎこちなさに重なってますますぎこちない空気を作り出してしまうということがあると思う。そういう流れをフツリと切ることができればそれを皮切りに当時へと一息になだれ込んでいけるものだが、そういうことが起こるかどうかというのは時の運ではないか。当時の思い出を更新したいわけではないのだし、無理に前に進んで見せるのも、前に進んだよと報告するのもちがう気がする。

当時から自分は自分勝手にいようとする気持ちがあったと思うが、今ほどそれを前面に出せていなかった。もっと短いスパンでも、たとえば去年に比べても今のほうがさらに自分勝手になれていると思う。それをそのまま昔の友人とのあいだにも適用させようとするのは違う。違うというかうまくできる気がしない。昔の友人を昔の友人扱いせずに今の友人だと思うのであれば今の自分を出すのは是非とも必要な一手なのだが、一日や二日の再会でそれをできるとは思えない。そうは言っても忠実に昔の感じをそのままなぞることも難しいから、今が滲出するのに任せるというのが去年の今頃に採用した方針だった。


昨日

天候にも恵まれ、とても良い結婚式だった。ゲストを楽しませようという気概に充ちた、友人らしさ全開の式と披露宴だった。普通という枠には嵌まらない、よく考えられた内容で本当に感服した。6つ年下なのだが、いつもお世話になっているという以外なく、バイト当時から一貫してお世話になり続けている。ホスピタリティの言葉の意味を十分理解し、表現に落とし込むことで実践してみせることのできる人間はそういない。心底まじめなパーソナリティだけにまじめくさっていられないからなんだと思うが、儀礼的なものも個人的なものもあわせて冗談が多彩なのも見習うべきところ。心意気ひとつとっても到底及ぶべくもないが。俺もちょっとは頑張らないとなと背筋が一瞬伸びる。

去年はなぜか書いていないが、友人は結婚式の準備のために寝ないで頑張るということをしていたらしい。それを見て思うのは、頑張りすぎないようにしようというのではない。長く頑張れるように頑張っていこうというのだ。彼はかつての高校球児らしい価値観をもって長く頑張れるように頑張るというのでは頑張りが足りないと思うのだろうが、それでも長く頑張れるように頑張るために頑張れるようにしようというのが自分が唯一彼に言いたいことだ。

行き帰りのフライトで『ジェントルメン』という映画を見る。あとは『となりのサインフェルド』を5,6話見る。

コンディションのせいかジェントルメンがそこまで面白くなかった。同じ環境で見た『となりのサインフェルド』がどうだったか記憶が曖昧だが、すくなくとも面白くなかったという印象はなかったわけで、たぶんジェントルメンは面白くない映画だったのだろう。

無事帰宅の連絡をすると、男3人のうちふたりまでもが飛行機を逃すという報告を受ける。相変わらずというのはこういうことだと思う。いつも終電で帰っていた自分がちゃんと間に合うように空港に向かうのも含めて。また飲みたい。

自分には「終電で帰れちゃう」コンプレックスがある。終電で帰れるからこそ抱くコンプレックスだ。そのスタンスを変える気はなく終電があるときには帰る気満々だが、だからやっぱり帰れちゃうもんでどれだけ薄まってもコンプレックスの気配は拭いえない。

20221104

日記49

今日
最近ハンターハンターを1巻から読み返している。グリードアイランド編まで読み終わった。グリードアイランド編まではとくに、すべての展開がシームレスにつながったオープンワールドのRPGをやっているかのようで、すべてのイベントが同時並行的に進行している感がある。ゴンたちの前に突如現れる新登場人物が、現れたのは突然でも、その人物なりに生きてきたという感じがちゃんとするのはどういう仕組みなのかわからないが、それぞれの人物が登場場面以外で活躍死躍することでクレジットがちゃんと蓄積されていて、その収支管理がしっかりしているからではないか、などと思ったりした。
転職アドバイザーから面接対策を受ける。転職に関することをネット等で調べていると、皆すごすぎじゃんという感じがどんどんしてきて萎縮するので、同じ内容でも人から話されることで変に構えたり萎縮したりせずに容れられるのが利点だと思った。ネットの情報は情報すぎるという欠点がある。
いつもとはべつのスタバに行ってソイラテを飲む。昔よく行っていたスタバで懐かしいが、今のスタバに慣れるとこちらはほぼマクド。源氏物語はちょっとずつ進捗していて『薄雲』の回。登場人物がどんどん物故してどんどん暗くなってきている。
帰りにビレヴァンでハンターハンター最新刊を買って帰る。

20221103

RRR

「RRR」は、一文字を3回重ねた表現なので、使用文字は一文字。「Rise Roar Revolt」の略字である。

情報社会が進むと略語競争が激しくなることが予想される。たとえば「AAA」というのはIT用語としては次のことを表現する「Authentication(認証)Authorization(認可)Accounting(アカウンティング)」一方で、日本の男女混合パフォーマンスグループ「トリプルエー」の略語でもある。世代にも左右されるのだろうが、日本で有名なのはおそらくトリプルエーのほうだ。では、世界ではどうかといえば、これは前者のプロトコルになるだろう。日本では音楽グループが有名であるように、国によってはAAAというグループだか企業だかがべつに有名かもしれないが。

ただ、もっと有名で確定的な略語もある。たとえば同じIT用語でも「www」、つまり「world wide web」はかなり有名で、べつのグループだかユニットだかが参入する余地がない。正確には、有名すぎるので参入するスペースはかえって広く空いているのだけど、取って代わる可能性はかなり低い。

一文字しか使用しない略語は、複雑さが極限まで削ぎ落とされており、シンプルゆえに強度が高い。もしそこに定着できたなら、最小の情報量で最大のインパクトを与えることができる。

だが当然、そこに参入し、定着するハードルは相当高い。それが平仮名や漢字、キリル文字、ギリシャ文字などのマイナー文字であれば、マイナー度合いに応じてハードルも下がるだろうが、アルファベット・数字などのメジャー文字である場合には、その難易度は跳ね上がる。

「RRR」というインド映画の射程は、英国諜報機関のアイコンであるJBをはるかに超えて、英語にまで達している。「Rise Roar Revolt」が英単語の組み合わせであって文字としてアルファベットを使用しているということは、現代社会に慣れた目からは一見して当然のようにも映るが、注目に値する。

どこまで長大な野心を抱けるか、そしてそれが何に対する革命かということを見逃すべきではない。この映画のスケールが、たんに大英帝国を打倒するということに収まると考えるのであれば、さすがに能天気なまでにお行儀が良すぎるだろう。


2022年11月現在、Googleで「RRR_意味」と検索すると、最初のページに以下が表示される。検索結果は約 4,230,000 件。

⇛RRR(Reserve Replacement Ratio)は、企業の業績を見る上での主要な指標のひとつである。


辞書や検索ツールに表示されるものがすべてではないし、「意味」を付け足したことでアルゴリズムが適した結果を返しただけのことだと思われる。だがしばらくすれば「Rise Rore Revolt」が「RRR」の「意味」として表示されることになっていくかもしれない。

それにしても、Rというただ一文字のアルファベットの連なりが「力強く握り合う手と手」を強烈にイメージさせるのは、映像表現の威容(Majesty)でなくて何だろうか。

PPPという文字列を見て、「Point to Point Protocol」の略語だとその意味を思い起こすのとは、同じ一文字の略語でかたちが似ているのに反して、似ても似つかない。

20221031

日記48

一昨日
西が丘サッカー場まで行き、新宿クリアソンv奈良クラブのサッカーの試合を観る。とにかく天気が良かったので、芝生の鮮やかな緑が目に飛び込んできた。あんな場所でサッカーできたらさぞ気持ちいいんだろうなと思った。前半は奈良クラブのベンチ真裏に陣取ったおかげで、ゴール取り消しのときの監督の抗議や、ゴールのときの監督のガッツポーズが見られたり、生観戦ならではの満足感の高い観戦になった。行きは十条駅から歩いたので帰りは赤羽駅まで歩く。
夜は下北沢で友人のモラハラ話を聞く。個人的にゆるがせにできないルールがあったとして、それをどう自分以外の他人に適用させようとするかという手際が求められる場面で、友人のそれは、手際にはそれなりの自信があって、なおかつ、最終的に押し付けるときに不可避的に発生する責任は回避したいという場合に該当するモラハラケースだった。自分のなかでつながっている手順を相手に落とし込めておらず、相手が理解しないまま適当に肯定的な表現でお茶を濁したのをそれと知りながら利用するという、お婆ちゃんの家に上がり込んで物を売りつける悪徳営業の手口と本質的に異なるところがないやり口だが、それの成功は重要な何ごとかの失敗を意味してはいないかと疑問に思う。
上記の疑問をぶつけてみたところ、それについては黙殺したまま話を横滑りさせ、べつの似たような話を始めた。理解する能力か回答する言葉、あるいはその両方がないのだろうと判断して、それ以上はとくに追及しなかったが、そういう姿勢がどうあっても責任を回避したいという彼のやり方を形作ることになっていて、何かを改善したいという要求を実現する妨げになっていると思われる。知ったうえでのことであれば、改善したいというフリをしているのに等しいし、他人をそれに巻き込もうとすることは、巻き込まれる他人にはもちろん、長い目で見れば本人にとっても無益でしかない。もっと自由闊達に改善要求をぶち上げていけばいいのにと思うが、そのためには自分自身の姿勢改善が欠かせないわけで、そういうことをするのがどんどん難しくなっているのだろう。
もっと単純に、私と彼とで重要に思うことの中身がちがうというだけの話だとも考えられる。そして、私が重要に思うことを重要に思わない人がいるということを私は理解できないし、理解できるようにしようという気もない。もしこの点について姿勢改善したほうがいいよと忠告してくれる人が現れても、私は普通に無視して、その意見については黙殺することだろう。だから結局、私たちは同じ穴の狢(むじな)なのだといえるかもしれない。私からすればそんなわけはないのだが。
全部ちがうと言いたいところだが、もっともちがうのは、コミュニケーションにおける同意や合意について、結果を最重要視しないというところだ。言質を取りたいがために会話をするわけではなく、理解と反論を求めているので、必然的に、結果よりもプロセスのほうが重要ということになる。込み入った話になってくると、あいだに差し挟まれる「なるほど」とか「たしかに」という相槌の重要性は増えてくるし、それを適当にやられるとかなり困る。
いい加減な相槌を打たないというのは会話における最低限の礼儀だといえる。理解していないときに「わかった」という意味のことを言うのは、それを言う本人にとってはその場を成立させるための友好的な方便なのかもしれないが、長期的に見れば敵対的な対応にほかならない。長期的な関係を築こうとしていたり、長期的な関係が見込まれる相手に向かっては、嘘も方便という言葉は通用しないということを、この手のことなかれ主義者は肝に銘じるべきだ。
何が言いたいかというと、じつは、私の友人はこの礼儀をわきまえているということだ。彼はわからないことについてわかったとは言わないし、同意できないことについて同意したりしない。しかし、彼のモラハラ対象は、この礼儀をわきまえていないと考えられる。わきまえているにしても、やや甘く考えているようだ。自分にとって入念に言葉を選んで意見を説明し、相手から「わかった」という言葉を引き出せたとするなら、それは「了解された」ということであって、そこで「ひょっとするとわかっていないのではないか」と疑う意義はうすい。それを疑わなければならなくなると、説明する側の手間は最低でも二倍になる。一対一のコミュニケーションにとって、それはあまりにもアンフェアだ。これは短期的にはうまく回る方策かもしれないが、長期的には、ちょっとでも込み入った話をするための相手にならなくなる。
込み入った話をしないという解決策はあるにはあるが、私の観点からすればそれは何の解決にもなっていない。誰にだっておそらく込み入った話のひとつやふたつはあるはずで、それを話して理解されたいという望みは断ち切りがたい。自分の込み入った話をうまく説明できないことがあまりにも続いて、諦めそうになることがあったとしても、他人の込み入った話を理解しようとする姿勢は保っていたい。込み入った話をしたりされたりするなかでしか得られない充足はある。
自分から見ても、この人には自分の話が話せそうだと思うような人と、そうは思えない人とがいる。他人から見ても同じような差はあるにちがいない。前者でいるためには、また、前者でいようとするためにも、かなり多くの能力が必要とされるものだと思われる。そうは言っても相性があるから、これだけあれば十分だといえる要素はない。それでも唯一不可欠だといえるのは、やはり礼儀があるかどうかだ。
「そうなんですね」とだけ言っておけばそれで済む場面はある。私はそんな場面で聞かされる話はくだらないと思うし、それと友人の込み入った話を聞くときの熱量は区別すべきだと考える。反対に、どんな話でも分け隔てなく同じだけの熱量をもって傾聴するというスタンスの人もいるだろう。文化がちがえば捉え方もちがう、礼儀における「つまらないものですが」問題と似たような構造なのかもしれない。
いや、定型的な話を面白く膨らませるような積極的な聞き方ができる人であれば、私の消極的な話の聞き分けそのものがくだらないと考えることだろう。そう考えると私のやり方はつまらないものに思えてくる。自分には能力の限界があり、それに応じたスタンスだから仕方がないと割り切っているが、このやり方がベストではないのは明らかなので、やはり若干の居心地のわるさがある。
最善は、能力があり、積極的な聞き方をできる人である。だとすれば、次善は何になるかという選択の問題になる。積極的な聞き方をできるときはしてできないときにはしないが分け隔てもしないAか、積極的な聞き方をできる相手とそうではない相手とを区別するBか、どちらが次善かという問題だ。Aのほうが最善を目指している分だけ、見た目には最善に近いように思われる。しかし、私のベストはBである。私は誰かのために私があるとは思えない。それをはっきりさせておくのが私なりの礼儀だ。その私なりの礼儀をおろそかにして、より最善に近いように見えるからという理由でAを選ぶのは、私にとってはBを選ぶことに劣る。つまり順当に言って、私にはBが次善ということになる。最善を選べず、その次も選べないので、次の次を選ぶというだけの話だ。
私はたぶん最善を選べる人に嫉妬するし、最善を選べないがそれを目指せる人にも嫉妬する。そして、真っ向から最善を攻撃できない鬱憤を、私から見て間違っていると思われる次善策を選んだ人をターゲットに晴らそうとして、その次善は虚偽のものであり間違っていると主張し、攻撃しようとするようだ。もちろん私にはそんなつもりは皆目ないのだが、そう見なされるだけの材料が揃っていることは認めないわけにはいかない。
私が最善を諦めていないかと問われて「最善を諦めていない」と言えば、虚偽になる。ただ、最善について諦めていると言いたくない気持ちがある。同時に、諦めていると言ってしまいたい欲求もあるのだが、とりあえずは最善については何も言わないことに決めている。そのことで重要な何ごとかを、自由闊達さを失っているのではないかと疑問を呈されれば、そのときこそ前後左右進退に窮して、その場で無意味なジャンプを二度といわず三度といわず、ジャンプするしかなくなるだろう。私が友人を追及しなかったのはたんに面倒だったからだが、その内訳はそのときに私が考えたものとは内容を異にしているものと思われる。

昨日
楽しみにしていたBBQがあった。豊洲のBBQ会場で、東京タワーとスカイツリーを同時に見られるのが売りだと思われる立地。近くに誰もおらず、ポツンとひとりで肉を食うという最悪の事態を想定していったおかげで、久しぶりのBBQはかなり充実したBBQになったといえる。しかし、本当はあちらこちらと会場狭しと動き回り、全員に気の利いたジョークをお見舞いするというベストパフォーマンスを夢想していったおかげで、上質なお肉、リッチな立地、低調なパフォーマンス(寝ていないだけマシだが、寝ていないだけともいえる)というボンボンキュな出来となった(BBQだけに)。焼き残し、焼き終わりの食べものを廃棄するという、純粋なBBQ観点からはもっともさもしいBBQになるという結果になったのがなによりの心残りだった。社交BBQの観点からは、食べ残しに群がるというのがもっともさもしい行動なのかもしれず、その場合は私ともうひとりでその役目を分け合えたのが収穫といえば収穫だった。一気に意気投合するみたいなことは生きていてもあまりないが、少ない機会ながらそのときの印象は強く残るもので、それを期待するけど、とくに東京に来てからはめったにない。今回もそれは起こらなかった。まあ焦らずに回数を重ねて、「弱火でじっくり」をモットーに知己を増やしていきたい。相手次第の度合いは年々高まっているので、そろそろ自分から働きかける意識をもってもいい頃合いかも。
帰宅後4時間超の昼寝(夕寝)をかまし、録画で鎌倉殿の13人を見る。実朝の苦悩が、髑髏という小道具を通じて劇的なものにつながっていき、どんどん迫真の演技に見えていった。それだけに放送後、ツイッターで流れてきた実朝役の柿澤氏の謎ポージング写真が激烈な効果をもたらした。やはりツイッターでドラマの感想など見ようとするのがわるい。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...