20220628

美学について

美学ということばを使うとき、「〇〇しない美学」というフォーマットがよく見られる。

たとえば、美学を押し付けない美学ということも考えられる。すなわち、自分は自分の美学を守る。しかし、それを他人に押し付けない。なるほどこれはじゅうぶん美学的な美学であるといえるだろう。内容は措いてもフォーマットをきっちり守っているからだ。内容をみても、自分のことは自分でやるという考え方を他人にも適用しているところに一貫性があり、一定の美学的効果を挙げている。しいて難点を挙げるとすれば、ここに見られる個人主義的なスタンスはいかにも美学然としていて、陳腐であるとの誹りを免れ得ないかもしれない。その対向に位置する、

美学を押し付けるのを厭わない美学

こちらの方がまだしもまともな美学であるとの考え方もあるだろう。少なくとも、わざわざ文章にして伝えるだけの甲斐ある美学だと思われる。聞く方でそれが美学だと思っていないものを美学と命名する方が、よしそれに反対する立場であったにせよ、その人にとっても新種の美学としての意義があるからである。ただしこの美学は美学として認められれば最後、その性質故に素早く伝播していき早晩陳腐化する運命にある。ただまあ、そもそも認められない可能性が高い。大勢の人にとって上の文言は、まともな美学どころかまともな考えだと思われないだろうからだ。美学掲出の当事者以外は押し付けられた美学を美学だとは見なさないという問題もある。推奨される美学ならまだしも、押し付けられてしまえば最低限の内発性も失われてしまう。そこで、

内発性を持たない美学

といった美学を急ごしらえで仮設し、美学を押し付けるのを厭わない美学が押し付けられるのを待つことはできよう。が、待つために上記の美学を仮設することがすでに内発性を含んでしまうことから、美学が内側から破綻してしまう。つまり、

内発性を持たず、破綻を意に介さない美学

という美学を誕生させる必要がある。しかしこうなってくるとべつの問題が発生する。先の「美学を押し付けるのを厭わない美学」が、どう考えても当美学の格下になってしまうことだ。もちろん、内発性を持たず、破綻を意に介さない美学の方ではそんな上下の問題はもはや問題ですらないのだが、その問題ですらないというあり方、超然とした姿勢が「美学を押し付けるのを厭わない美学」を圧倒し、萎縮させてしまう。せっかく押し付けてもらえるように工夫したというのに、その工夫の結果、美学を押し付けるのを厭わない美学が自らの美学を押し付けるのを不可能に、美学を不能にしてしまったのであり、これは悲しむべき事態である。ために最初からやり直して簡単に、

美学を押し付けられるのを厭わない美学

と、相手と直接的に対となれる美学を作り上げてしまえばいい。美学を押し付けるのを厭わない美学にとっての美学を押し付けられるのを厭わない美学というのは、まさに魚にとっての水であって、これで万事うまくいく。

と、思うのは簡単だが、そう思い続けるのは簡単ではない。すこし考えればわかることだが、美学を押し付けるのを厭わない美学から見たときに、押し付けた美学を厭わず受け取ってくれるのは、それこそ”押し付ける”美学に反するように思われるからだ。反するとは思わず、満足して押し付けている気になれるタイプもいるのだろうから、すべての「美学を押し付けるのを厭わない美学」にとって満足できないとは言わないが、少なくとも一度でも美学の格上・格下を意識させられた美学掲出当事者にとっては、押し付けるときに多少とも手応えがなければ決して満足することはできない。

このようにして美学は内的に進化発展していく。美学を押し付けない美学ではこうした冒険が起こり得ないことひとつ取っても、美学を押し付けるのを厭わない美学のほうが美学に値すると私は考える。いや、美学の名に値しないからこそ、そこを起点にスタートを切れると思うとでも言えばいいか。とにかく、スタートを切りさえすればゴールに至るまでの全過程は美しくなる。転ばない美学よりも転ぶのを厭わない美学とでも言えばいいか。

日記26

昨日
ようやくping-tのピックアップ問題すべてを処理する。とはいえ、まだ正答率が7割程度、ピックアップ問題以外には手つかずの状況なのでもう少し時間がかかりそう。

カルロ・ロヴェッリの『世界は関係でできている』を読み終わる。同じ著者の『時間は存在しない』の方がついていけた。2部までは面白かったが3部に入ってからついていけず。ある哲学の考え方(独我論)について「直感」に根ざしていて駄目だと書いてあったが、なぜ直感に根ざして考えることが駄目なのかについては納得できず。直感からスタートして理論を積み重ねるのは前提が間違っているから駄目(進展がのぞめない)、最初から考え直す必要があるというのは、古典物理学から量子論へのジャンプにおいて適用できたことで、あくまで一例でしかない。この本は量子論にいたる道筋と考え方のエッセンスを抽出し、瓶詰めにして輸出している。いろいろな物事について考えるにあたって「前提を疑う」回路を使う際、古典物理学→量子論の例を援用するのはたしかに有効だと思うが、それでも即全体に適用できるとするのには無理がある。「直感だから駄目だ」と言うのはいわば省略形だが、それが有効に機能する場面はそこまで多くないはずだ。「これは科学的知見だからOK、あれは直感だからNG」という判定が幅を利かせるようになるとその分だけ科学の進展を遅滞させる。そうした決定は科学と社会とのギャップを広げるようにも作用するからだ。科学の知見を持たないほとんどの人にとって「理解は出来ないけれど正しいに違いない」というスタンスは便宜でもあり欠かせないものでもあるが、そうやって獲得された権威は科学自身のためにならない。資金・実行力を得れば得るだけ、社会からみて目に見える結果が求められるようになる。そうなったとき、社会の視力が維持されていることを望まなければならないのに、それが十分でないとすれば、新しい知見やひょんなところからの突破口(セレンディピティ)が得られなくなることに繋がっていくだろう。セレンディピティを期待するためにも、個々の研究は実効力の説明をある程度免除されるべきだ。そのため、科学自身にとっても社会の中に科学のマインドを持つ人を増やすことが重要になる。「これは科学的知見だからOK、あれは直感だからNG」という判定そのものはただの判定であってそれだけでは足りない。その意味でも、この本には科学のマインドに触れる機会を提供する役割があり、その役割を果たしている。紙幅の制限等もあり完全にというわけにはいかないが、そもそも「科学のマインド」はもう少し複雑であって、1,2冊の本で触れるのに完全というのはあり得ないのだろう。
社会と科学研究との進み方にはギャップがあり、個人個人のあいだにも進度の差があることを考えると、社会設計において遅い方に合わせて安全を確保するというのは理にかなっている。ただ、個人が社会のスピードに合わせる必要は全く無いと私は思う。早すぎると攻撃を受けるのはどの時代でも変わらないのだろうが、今やその攻撃も自由概念が緩衝材として機能する以上昔ほど苛烈ではないだろう。攻撃を厭うのであればスピードを緩める選択もある。
個人は社会がよしとする考え方よりも前に出ることができる。社会がそれを前だと認めるかどうかはまた別の話だが。また、科学研究は個人にとって方向を指し示す針にはなっても、攻撃を受ける盾や鎧にはならないものと思う。それでは彼自身にとって十分なスピードが出ないと思うからだ。もっとも、社会がよしとする範囲にきちんと収まろうとするのであればその限りではない。

図書館で伴名練『なめらかな世界と、その敵』を手に取り表題作を読む。伴名練が編んだSFアンソロジーに手を付けるかどうか悩んだ末、伴名練の代表作を読んで決めようと考えてのことだったが、このやり方は成功した。すでに消化しきれないほどの読書リストがあるのだが、それが消化できたあとでも問題ないと判断できた。SFにせよ何にせよ「ジャンル読み」はやりたくないのでその方針にも沿う。
エイモス・チュツオーラ『やし酒のみ』を3分の2のところまで読む。面白いとは思うのだが、世界ウルルン滞在記を見て感じたようなあまり好きではない種類の面白さで、「アフリカ文学の最高傑作(帯文にそう書いてあった)」だとはとても思えない。海外の人が『痴人の愛』『豊饒の海』をさしおいて『源氏物語』を日本文学の最高傑作として挙げているのを見るような違和感がある(三作とも読んでいない上、谷崎も三島も好きではないのでいい加減もいい加減だが)。

20220620

日記25

昨日

『ゲルハルト・リヒター 絵画論/写真論』を寝る前に読んでいたら朝になってしまい結局寝たのが6時になったせいで起床が12時になる。自動起動するルンバに起こされた。

我が家ではルンバを平日13時に自動起動するようセットしている。これで床に邪魔な荷物を置いていなければ、外出しているあいだにルンバが勝手に部屋を綺麗に掃除してくれるという寸法だ。床に邪魔な荷物を置いていた場合、ルンバはそれを巻き込み、ずたずたに引き裂きたいという凶暴な願望を半ばにして床の途中でくたばっていることになる。彼にiPhoneの充電ケーブルを引き千切られるというのはルンバあるあるだろう。

じつは最近ルンバの稼働率は低い。部屋に何かしらルンバの掃除を邪魔する布(おもに衣類)が転がっているからだ。かわいそうなルンバ。小汚くなっていく部屋の床。

セブンで400gヨーグルトと冷凍ブルーベリーを買ってブルーベリーヨーグルトにして食べる。

何かを知って感動を覚えるとすぐそれをリピートする。2,3回リピートしてそのあいだにそれを継続する必然性を見つけられなかったら飽きて止めてしまう。

ハマっているというのを理由にしていちいち判断しなくていい時期があるとその分ラクになるだけの話ではないのか。だけではないにせよ、好きなものに手を出すというのを度外視すれば潜在的な理由として第一位だ。

鎌倉殿の13人を見る。OPで巴御前が出てくることに気がつき興奮したが、実際良い活躍をした。何がどういう結果を招くかわからないというのはあるにしても、やっぱりその時々の良いはある。

その時々の良いというのは巴御前が義仲から遠く引き離されて和田へ行くことになる顛末のことだ。義仲といるときにも良かったし、和田といるときも良かった。反発するにせよ恭順するにせよ、その時々に決めた方向に一心に進む性質がそれを可能にするということだと思う。不満を抱えながらということをできない一本気な性格が幸いしているのだろう。それが幸いするということ自体、当時の社会ではとくに、幸運なことだと思うが、気の強さを押して良い目が出るというのは見ていて清々する。

十三人ももう二年前になるのか。いろいろとテレビドラマがやっていて話題になる。いちいち追いかけていられないが、追いかけていたとすればきりがないだろうと思う。それでいいならこれ以上はないという理想的環境だ。

久しぶりに酒を飲む。一週間以上飲まないで過ごしたのは何年ぶりかわからない。東京へ来てからはそんな一週間はなかったと思うので少なくとも5年ぶりにはなる。昔ほど酒を必要とする場面はないなんてことはすこし考えればわかるのだけど習慣でほとんど毎日ペースで飲み続けていた。昔は緩める必要が十分あったと思うが、今はもうその必要はなくなっていると思う

飲酒習慣をやめるというのは難しい気がする。生活の実験と称して何でもやってみるというスタンスはあるけれど、こればっかりはやれない、やってみようとも思えない。

酒を飲まない日と飲む日の割合は仕事のない日とある日の割合と比べても遜色ない。少なくとも5/7は飲んでいる。五月七日は飲んでいる、ではない。

ついでにカフェインも止めてみている。恐れていた好転反応は結局そこまでひどいものにはならず、想像よりずっと穏当にカフェインを抜くことができた(バファリンAを合計で6錠しか飲んでいない)。ヤクルト1000を飲んだ日に深い睡眠の時間が増えているのと同じかそれ以上に深い睡眠の時間が増えている。頭を働かせる効果について机に向かう時間はガムを噛むことにした。

一方、カフェイン断ちについては一年経った今でも継続している。完全なカフェイン断ちから、今は緩やかなカフェインの摂取というところに落ち着いているが、昔は24時間以上カフェインが切れると頭痛がしていたことを考えると、いつ止めても問題ない状況にあるので、これはカフェイン断ちの成功と言っても良いだろう。いつかアルコールも止められる日が来るだろうか。

できるだけ抑えようと思っているが、やはり慣れと出勤習慣ですこしずつカフェイン摂取量が増えてきている。今は午後の紅茶無糖とスタバのショートドリップ相当のカフェイン量で安定している。職場でシャッキリするのと、スタバにきてMACを開いたり本を開いてシャッキリするのが必要なので妥当なところだと思っている。

20220615

日記24

久しぶり日記になった。ここ最近はping-tの問題を解いてばかりいた。

久しぶり日記というのは久しぶりに書く日記のこと。ping-tとはネットワークなどIT知識の問題を公開しているページ(一部有料)

久しぶり日記(旧だから結局)

ping-t


昨日

先週木曜に行ったゲルハルト・リヒター展でゲルハルト・リヒターに興味を持ち、すぐに図書館で予約して待ち、やっと借りられた『ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』を読む。対談集というかインタビュー集の形式だが、そこでかけられるすべての質問に対してはっきり答えていて、質問に対する答えとして不明瞭なところや、逆に質問意図を汲み取りすぎて迎合的な答えになっているところが一切ない。


”僕の作品にはトリックもシニズムも小手先の皮肉もない。反対に、僕はほとんど素人のように、なんにでもストレートにとりくみすぎていて、考えや行動が全部あけすけになってしまっているほどだ。だから僕には、具象絵画と抽象絵画のあいだの矛盾というのが、なんのことかよくわからない。”56p


”―写真家は何分の一秒しか必要としません。あなたは何時間もかけて、これらのディテールをすべて制作しなければならない。

 でもそれが作業というものですからね。つまり、黙って眺めていないで、なにかすることができるということです。それがすべてを耐えやすくしてくれます。”88p


上のような言葉を聞けば、ゲルハルト・リヒターが何よりもまず制作者だということが明らかになる。当然、展示を見に行って絵を間近で見れば、もっと直接的にそれがはっきりするのだが、自分が制作者であって、つねに制作をしているということからくる安心は、外から見ると僧侶が信仰に生きているのと同じに見える。ひとりひとりの僧侶がどれだけ信仰を篤く持っているかというのは目に見えないのと同じで、ひとりひとりの画家がどれだけ制作にとりくんでいるかも見えない。ただし、制作された作品は目で見ることができ、目で見られることを条件に作られている。

自分の目で見て、それにもとづいてなにかするというのが仕事だとすれば、見たいものを見てそれにもとづいてなにかするというのがやりたい仕事ということか。

成功した画家を見ろ。彼らはお金があるからもう描かないとは言わない。成功していない画家を見ろ。彼らはお金がないからもう描けないとは言わない。だから結局、ただ単にもう描けなくなった元・画家と、今まさに描いている画家の二種類がいるのみだ。彼らが一日のうち作品制作に費やせる時間は最長で15時間だ。睡眠時間以外の休憩もじっさいには必要だろうから、どれだけ長くても12時間が限界だろうと思う。それ以上はクリエイティビティを発揮できる時間の使い方にはならない。自分が今使える時間は一日4時間だ。これだと巨人のような仕事をこなした人と比べて3分の1の進みしか望めない。が、これまでの受信的な生活と比べると、今は彼らの3分の1ほども進めるための時間があるのかと驚く。冷静に考えると仕事をしているせいで時間がないというのはもはや言い訳にならない。


お好み焼きが食べたくなったので、スーパーに行って薄力粉、ソース、サラダ油、鶏卵、キャベツを買ってきて、お好み焼きを焼き、サッカーを見ながら食べた。結果は0−3の敗戦。どうやら日本代表チームは雨に弱いようだ。あと、チームワーク重視のチームがチーム内競争を煽られると難しいんだと思う。相手からすると軸が見えやすいし、軸を押さえればまとまりは失われるというのがそのとおりになった。

お好み焼きにもうまくできたお好み焼きとうまくできなかったお好み焼きがある。なぜかそのことを書いていないが、この日のお好み焼きは完全に失敗のお好み焼きだった。自分は料理などでも、できるかぎり一回で全部やろうと考える考え方の癖があってホットプレートに大量のお好みを投入しすぎたせいで全体に火が通らなかったのが失敗の主な原因だった。とくに中まで火が通らなかったところが多量にできたおかげで、生っぽくてたんに美味しくないだけではなく食べたら駄目な、お好み生焼ができてしまった。サッカー日本代表にダメ出ししている場合じゃない。そのときはお好み焼きを失敗させたことがクリティカルにすぎてむしろそういう場合だったのかもしれないが。

ゲルハルト・リヒターの絵のことは今も覚えている。制作過程も含めて、一見すると何かに近づいていこうとする意図を感じない絵だったが、それでも描いているあいだは作品は感性に向かっているということなのだろう。大量の反故ができて然るべき制作方法だと思うが、完成品の割合はどの程度になるのだろうか。とくにアブストラクトペインティングについて気になるが、中断せずにずっと描き続けるというアプローチをとるから意外と反故はなかったりするんだろうか。油絵の具のことをよく知らないからこういう疑問が出るのかと思って調べてみたら、アブストラクトペインティングはスキージで絵の具を塗ったり不要な箇所をナイフで削るという記述が見つかった。削っては付け足して、付け足しては削ってという手仕事を繰り返しているようで、その繰り返しの余地はほぼ無限にありそうだから、刷毛を投げないかぎりは反故になるということもなさそうだ。コンピュータを使えば簡単にリセットできるところを、実際のキャンバスやアクリル板を使うとそう簡単にリセットできないというところにも制作物としての特徴が表れそうだ。すごくエレメンタルな話だろうけど。


https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/21240

美術手帖のリヒター紹介記事

20220526

日記23

 昨日

渋谷公園通りミュージアムに「線のしぐさ」を見に行く。描画における点と線の違いについて考えさせられた。線を引くと、その線に求められて新しい線を引く必要が出る。それを繰り返していくと何本もの線が引かれることになる。際限なく線が引かれていいわけだから何本だって線を引いていい。そうすると線が集中する場所、何本もの線が重なる場所が出てくる。そして、いつかは線の引き終わり、最後の一本を迎え、それによって作品が完成するということになる。それはもう線が引かれないでもいいという地点への到達と見なせるだろうか。そうだとするなら、もし引く線の本数に制限を設けて、ある本数になると一本書き足されたら一本消えるというふうにすれば、完成にいたらないということはあるのだろうか。

なんか言ってるが、線を引くじゃなくても点を打つだったとしても点同士の関係は生じそれによって新しい点を打つ必要が出そうなものだと思う。ただ、線のほうが点よりも粘っこいというか慣性の働きなどもより前面に表れるのだろうから線のほうをフォーカスしてこういうことを言っているんだろう。いずれにせよ実際に引かれた線ではなく概念上の線のことを見ているようだ。

ミュージアムを出てそのまま歩きで代々木公園に行く。バラを見たり本を読んだりドッグランで犬を見たりする。犬同士の交流は語彙数の豊富なボディランゲージという感じで見ていて飽きない。どの犬も自分の世界と自分の役割を持っていて、それは飼い主を強く意識したもののようだった。ある犬などは他の犬どもから飼い主を守らなければならないとずっと気を張っていて、見ていて頼もしいような気の毒なような気にさせられた。のどが渇いたらベンチ前の水道のところにきて「水を飲みたい」という主張をするのはどの犬にも共通していて、単純だけど賢いと思った。

自分の日記ながら、一年経ったちょうど今、書こうとしている小説が犬をモチーフにしたものでその符号に驚いた。まあ自分なのだから符号もなにもないといえばそうなのだけど、この日記のことは完全に忘れていたから角から飛び出した相手にちょっと驚かされてそれが自分だったという驚きにも似た奇妙さがちょっとあった。

飼い主の手を自分の手とごく自然に考える犬の賢さについては、なんとなく思い当たる節がある。

その後メトロで明治神宮前〜西新宿に移動する。さっと用事を済ませて帰る。ちょっと入った路地にゆっくり動く猫がいた。ゆっくり挨拶しようとしたけど駄目で、近づいたら素早く逃げていってしまった。

この頃は引っ越し候補に西新宿が入っていて、しかもそれなりに合う物件を見つけていて内見までして感触もよく、そのうえ猫にも会えたので縁起もよく、幸先がよいためにここに引っ越すかなと思っていたのでこうやってぼやかして書いているわけだが、結局のんびりしているうちに埋まってしまった。

帰り道に寄ったスーパーで玉ねぎの大小二個入りが500円で売られていることに驚いて思わず声を上げてしまう。安さを売りにしている系のスーパーマーケットでこんな非道がまかり通っていると思うと胸が痛くなった。

この頃の異常事態はとっくに収束しているがその代わり全体的に物の値段が上がっている。経済を勉強したこともあるのでそれがいいことだと理解しているつもりだが、たまごの値段など見るとつい悔しい気持ちも湧いて出る。

『失われた時を求めて』の3巻を読み終わる。全14巻とあまりにも先が長いため根を詰めずだらだら読もうと思ってその通りにしたが、密度はすごいし、同じところに長くいるかと思えば急に別の場面に移っているし、独特のリズムがある。2巻と3巻ですでに「反復」が見られる。話者の恋愛が他人事なのに他人事で済まないように思えるのは、話者のペースに沿って進むからなのか、それとも他の要素のせいもあるのか、ちょっと判断しかねる。あれだけ熱を帯びていたものが、今はまったく熱くないと感じる時の「分裂」の感じを、深い部分で自信を損なうことになってもおかしくないのにそうならず、自分事なのにたんに分裂しているとしか思えないというふうに観察できていて、そこにある変化のことも四季の移り変わりのように自然に捉えられているのがやっぱり不思議だと思う。悲しみの中にあって考えたとき、これがこのまま伸びていけばいつか悲しみの果てにたどり着くと思い込んでいても、それからしばらく時間が経てば実際にはそんな場所に立っておらず、いつの間にか第二幕へ移っているのを知って奇妙に思いながらも演じるのをやめない、そうしてべつの衝撃に備える……、ということを続けているのはスワンだったか「私」だったか、わからなくなった。

『失われた時を求めて』は途中で置いている。いつか読むことになるのは間違いないし、一気に通読するというのがこの作品に適した読み方というのでもないからそれでいいと思っている。充分な時間をかけてゆっくり読めば、この人生とはべつの人生をもうひとつ味わえると思っても決して無理ある考え方ではないと思う。あとは読むという感じをどこまで減らせるかにかかってくる。読破とか言っていてはまるで意味がないし、再読を前提にするのがいい。それでもかなり長い小説だから読み終えたときの読破感は避けられないだろうが。

20220525

『REFLECTION』を聞くとき

音楽について、座って何かするときのBGMはショパンと決まっている。それ以外の音楽は散歩しながら聴くことが多い。
ダンスナンバーならぬウォークナンバーとして最近よく聴いているのは『REFLECTION』、tofubeatsの最新アルバムだ。ついこのあいだリリースされたばかりだが、この一週間、散歩中にずっと聴いている。
だからといってtofubeatsのファンというわけではない。tofubeatsは距離を感じさせる音楽家で、スマホのプレーヤーへの登場回数は少なくないにもかかわらずファンになれない。音楽に求めるものがそこまで多くないから探索範囲がかなり限定されていることでいわば消去法で選ばれているにすぎない。これからもライブに行こうとは思わないだろうし、もしそれと知らずに入ったクラブでゲストDJをやっていたとしてもフロアを移動して聴きに行ったりしないだろう。
それでもしばらくは散歩時に聞くと思う。インタビュー記事も読んでみたら面白かった。
GooglePlayMusicでランダムに音楽を再生すると、スキップが必要になる曲に当たることがわりとある。散歩のとき音楽に気を取られたくない。いちいちスキップ動作をするためにポケットからスマホを取り出したくない。ただでさえ面倒なのに缶で片手が塞がっているのだから余計邪魔くさい。tofubeatsの『REFLECTION』を選んでおけばそういうことが起こらない。
ド頭の『Mirror』という曲で、「OKです」とアナウンスが入る。初めて聴いたとき、女声のそれが「大崎です」に聞こえた。大崎といえば山手線の駅で、たまに終着駅になることがある。渋谷から品川に行くとき、大崎止まりの電車に乗ってしまうと大崎駅で乗り換えなければならない。急いでいるときだと心のなかで舌打ちが出るほど辛く苦しく情けないが、とくに急いでいないときだと、日々繰り返すループの終端に思いがけなく触れたような気がして悪くない。なお、大崎駅前にはタワーマンションが林立している。ほかに何もないが綺麗に整備された区画だ。設備の規模に比して行き交う人が少ないため、すこし寂しいような気分が味わえる。エモーショナルな要素が何もないところにかえって、などと言うとたちまち「侘び・寂び」の圏域に入るようだが、あの垂直線についてはあれで十分エモーショナルだとする意見も当然あるだろう。その場合は順当にエモいことになる。だがいずれにしても限られた時間帯の話であって、いついかなる時でも、という話ではまったくない。
最近読んでいる小説で、これはと思って付箋を貼った箇所に「鏡」についての言及があった。

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天才的な作品を生み出す人びとがもっとも洗練された環境で暮らしているわけではないし、とくに際立つ会話能力を発揮したり、この上なく広い教養を備えたりしているわけでもない。彼らは突然のように自らのために生きることをやめ、自分の人格を鏡と似たものにする力を持った人びとである。
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プルースト『失われた時を求めて 第二篇「花咲く乙女たちのかげに」』

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鏡と云う道具はたいらに出来て、なだらかに人の顔を写さなくては義理が立たぬ。
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夏目漱石『草枕』


他にも「鏡」について何か面白いことが書いてあったのを見たような気がするが今は思い出せない。

20220523

日記22

昨日

六本木の公園までのんびりしに行く。天気が良くて過ごしやすい気候の公園でのんびりするのはもともと得意中の得意なので、存分に羽を伸ばす。

犬を散歩させていたり子どもを散歩させていたり、みな思い思いに憩っていて、それを眺めているだけでも楽しかった。男3人で歩いているご機嫌なやつらはさすがに見かけなかった。

座るのに適当な芝生があってそこに腰を下ろしながら、企画なのかタイル絵がいくつも展示されていたのでお気に入りを探しながらぼーっとしていた。

下北沢の不動産屋で良い物件がないか聞きに行く。ネットで見つけたのと同程度の良物件も見つからず。

不動産屋というのは色々な仕事があるのだろうが、そのなかでも賃貸窓口に関しては、我々にとって有益とは言えずしたがって優秀とは言いたくない人間が多い。しかし、実際には業界内部ではそういった輩が優秀だとされているのだろう。賃貸物件を見に行くとそういう人とばかり遭遇する。そして、そういう人との交渉に疲れた夕方頃、べつの店舗で人の良さそうな若い女性が担当になり、最近このあたりに配属になったんですなどと言い、あまりわかっていないながら一生懸命案内してくれるという罠もある。もちろん、案内してくれる物件は先程までのクオリティと何も変わらない。

騙されるんじゃないかという気持ちが強すぎるのかもしれないが、つまらない部屋から埋めていこうとする意図が向こうにあったとしても不思議ではないので注意するに越したことはない。ただ、もっと協力を仰ぐようにしながら、自分の条件をはっきり口にすれば変わるのかもしれない。そうは言っても相性はある。無理なときはどうやっても無理だ。

吉祥寺で鶏肉野菜炒めを作って食べる。

当時からこんな料理ができていたのかと思うと月日の流れの早さに唖然とする。今は昔より調理器具が充実しているができるとは思えない。やろうと思わない。

さらに一年経った今ではペペロンチーノチャレンジも成功させているし、やってみようと思ったときにやってみるというスタンスで必要十分だ。

鎌倉殿の13人を見る。最後の歴史案内のコーナーをしめた芭蕉の句が全体を昇華して良かった。ドラマを見ていても情緒面でどうしても血なまぐささについていけず。感情が揺さぶられない結果、道理にも無理に通そうとした形跡が目についた。情緒もなく、道理もないと感じられたらそのドラマ視聴は破綻していることになるのだが、不合理な世界観のなかでたまに気持ちのいい部分があり、その小さな断片を飛び石のようにして興味を繋がれている。今回でいうと前景にあるメインパートの脇にあってむしろ後景に控えているような出方をずっとしてきた武蔵坊弁慶から「やめてください」というセリフが飛び出たのがよかった。これは義経から最後に労いの言葉をかけられてそのあらたまった雰囲気に照れて思わず飛び出したセリフだったが、ふたりの関係を一言で表わす良いセリフだった。こういうシーンがあるから、義経にしろ頼朝にしろ筋の悪い劇に引っ張り出されてセリフを言わされている感が出て、舞台の上に立った以上は是非も無しと無理から芝居をさせられているように見える。歴史という筋書きのあるドラマの上演を嫌々させられている公の場での姿と楽屋でひとりごちる姿がまったく別のものになるのは当たり前のことで、頼朝はそれをやるプロとして子供の頃からキャリアを積んできている。鎌倉に来てから急速にその経験を積んでいったとはいえ義経がそれに敵うわけもなく、まさに役者が違うということになる。ただ観客が変われば何を良いとするかも変わる。ここでは役者の違いというより役の違いが、よくない筋書きが所与のものとなって歴史という名前が付くに及んでなぜか良い筋書きだと勘違いされるようになることで、捉え方の面で逆転をきたし、両者の印象の好悪が反転する。しかも物語によって固着された善悪は容易には再逆転できず、例外的にそれが可能になるとすればあらたに説得的な物語をぶつけることぐらいしかない。弁慶が歴史の表舞台へと躍り出ていくのを舞台袖からのぞき見る義経が痛快そうにしていたのは、向後何度も上演されることになる人気演目の初演を特等席で見られたこと、まさに歴史的な瞬間が現在進行系で刻まれていることを意識した興奮があったからだろう。舞台の上では残念な筋書きが展開されているというのを前提に、楽屋裏でのドタバタを見せるという趣向の喜劇の、必ずしもコメディではないバージョンが歴史劇「鎌倉殿の13人」だと現段階では認識している。

ようするに、歴史上の人物であれ、現代社会を生きるわれわれであれ、公的な人格と私的な人格が分かれていて、歴史上の人物は前者が前面に出た状態で記憶されることになるが、ドラマでは後者を使って物語を盛り上げることができるという話だ。歴史は、勝った側の視点で書かれた文書からなる。その性質から勝利の立役者の人格が偶像化するのは当然のことだが、そこから部分的に漏れ出る、人間味を感じさせるパーソナルな領域というのも垣間見られ、それが魅力となって語り継がれるということもある。反対にそれが原因となって人気がなくなる人物がいてもいいはずだが、彼らはもう死んでいるためその失点については免責されるのか、人格的な特徴のうち長所とは言えないものを備えている人物も、存在感を発揮することこそあれ失うことはない。

鎌倉殿の13人が面白かったのは、義経を優秀な人殺しという突き放した視点で描いていたことで、それは義経に代表されるが義経だけに及ぶものではなく、武士として優秀な人物はすべて人殺しであるとの前提に立っており、その突き放した見方、緊張感のある視点のなかでこそ、そんな彼らにも愛嬌のある一面があるというコメディリリーフが効果を発揮していたことだ。実朝にしても、彼の姿勢と彼の歌はやはり泥の中に咲く花としての美しさであり、血なまぐさいキャンバスの上に描かれる無垢の白百合という印象が、美しさを強調してしまうという業から逃れられずにある。

まずは有名であるということからすべてが始まっているということはいえる。知っている名前であるということが起点になるというのは当たり前のことなのだけどやっぱり重要な部分だ。彼らが生きた時代から見た遠い将来にもまだ名前があるということ。

面白みのない殺人者と面白みのある殺人者のどちらを選ぶかというのは問題にならない。しかし、面白みのない非・殺人者と面白みのある殺人者のどちらを選ぶかというのは、はたして先の問題のように一蹴できる選択だろうか。現実においてとフィクションにおいてとで回答が異なると考える、現実とフィクションを区別する人にとっては、問題はさらにややこしくなる。

そのような区別がどこまで有効なものなのか、だんだん雲行きが怪しくなるなかで、一旦仮でおこなった選択がうまく撤回できるものか自信が持てないということも十分考えられるだろう。

フィクションとして面白さを求めるなかで、たとえ殺人者であっても魅力的だと感じられるということは起こりうる。そうした場合、自分のなかでの倫理観に整合性を保つため、殺人にもそれに付随する固有の事情があり、十分認められる場合もあると考えるのは自然である。その際、フィクションだからという理由でその判断を甘くするようなことがあっては危険で有害でさえあるというのは、フィクションでもその登場人物の善悪の判断を行おうとするものにとっては自明である。

一方、フィクションである以上それを善悪の判断をする材料にしないという考え方がそれに対置される。登場人物が葛藤の挙げ句、正しい行いをするということが物語の良さであるとは考えないという捉え方だ。しかし彼は良さを得ないからといって無為にフィクションに接するわけではない。そこから面白さを取り出してそれを享受するのだ。面白さというのは、主要な登場人物が結果的に正しさに行き着くというところにあるのではなく、その道行きのなかに、そこに行き着くまでに生じる葛藤の中にあるとする姿勢である。もやもやしたものをスカッとさせるところにではなく、もやもやさせられることのなかに面白さがあるとする感性を涵養するために、そして涵養したその感性を使って、その感性でしか得られない特別の面白さを、べつのフィクションや、現実の中にある通り過ぎそうな一瞬間に感じるためにある。

ある物語における登場人物の思考や言動がセーフかアウトかを判断するためにフィクションがあるわけではないため、戦いの結果勝つことになるその主要人物が言っていたから正しい、そのように行動したから間違いないとすることはできない。そもそも倫理表面的には、そうすることができないということを知るためにフィクションがあると言ってもいい。それが自分たちの側にあるから正しいとすることはできないということは当たり前のことだが、おそらく、そう考えることを感じることのレベルで実践するのは簡単ではないはずだ。

優れた物語では例外なく、善を体現するキャラクターはひどい目に合う。善を体現するキャラクターが登場し、そのキャラクターがすべてを解決に導くという内容のものもあるが、それは聖書がやろうとしていることをスケールダウンさせたり、部分を特化させて、つまり「善」という全体ではなく、もっと具体的な「可愛さ」「可笑しさ」という部分において実現しようとしたものということになるだろう。

善を体現するキャラクターがひどい目に合わない物語を読みたくないと思うのは、善を体現するキャラクターはひどい目に合ってほしいと思って物語を読むということに近い。しかしそうは思えど、現実世界ではそのようなことは一度も起こってほしくない。そう思いながらフィクションではそれが起こらないでは満足できないのだから、フィクションでのことを現実に持ち込むのはいよいよご法度ということになる。

優れた物語を現実に役立てようとするのは、すべての場合において、油絵をよく燃える燃料として取り扱うことと同程度の考え方だ。ケーススタディをしたいのなら、適したケースは現実のなかにいくらでもある。

現実とフィクションをきっちり区別するというのは現実側の考え方、現実とフィクションが曖昧になるというのはフィクション側の考え方だ。フィクションにおいて現実側の考え方をあえて導入する意味はうすいが、現実においてフィクション側の考え方を導入する効果はそれなりにある。しかし、それをすると、たとえ面白くなったとしても現実ではなくなるということを明らかにしなければ済まない。いや、現実ではなくならない。そう考えることも可能だろうが、それ自体はやはりフィクションの考え方だ。何かを現実であるとすることにはかなり厳しい条件がある。


ゲームしようとしたところHIMARIのバイオリンでザッピングの手が止まり、気がつけば亀井聖矢のピアノまで夢中になって見てしまう。10歳のHIMARIのあと、20歳の亀井が「自分のやり方を見つける」をテーマに10歳からの10年間を過ごしてきたと言って、サン・サーンスの演奏を見せる構成に引き込まれた。その演奏には特別触れるものがあった。

本当に感動したのだったが、これを読み返す今までそのことをすっかり忘れていたし、どんな演奏だったか、どんなの曲を演奏したのか、まったく思い出せない。それでもこうやって日記に書かれてある以上、本当に感動したのにちがいない。やろうとしたゲームはたぶん時期から考えて「ドントスターブトゥギャザー」にちがいない。

全然ゲームをやらなくなってしまった。起動するのが億劫だというのもあるし、単純に毎日の生活に余分の時間が無くなっている感覚がある。小説を書くのはおろか構想することもしていないのに余分の時間がないというのはどういうことだ。


寝る前に坂本慎太郎のアルバム「物語のように」発売に関連するインタビュー記事を読む。

インタビュアーの質があまりよくないよう見受けられたけどよくない球でもいなさずに打ち返していて結果いいインタビューになっていた。

いなすというのは相撲用語だと今は相撲を見て知っているが、これを書いているときにはよく知らないまま雰囲気で使っている。そうやってなんとなく使いたいと思ってよく知りもせずに使う言葉が自分が書くものには多くある。使用語彙は多ければ多いほどいいと思っているから、書こうとする内容の的確さや正確さにそこまで興味がないから、いい加減な言葉遣いを恥ずかしいものだという意識に欠けるから、これらが綯い交ぜになって思い浮かんだ言葉をすぐタイプしている。これが手書きであれば、漢字を調べる過程で意味についてもより詳しく学習するか、調べるのが面倒だから知っている言葉でやり繰りするかのどちらかになるだろう。そういう意味で、自分が書くもののほとんどは半分以上ワープロソフトが書いているのだといえる。反対に喋るときには相手に合わせるつもりで語彙を絞ってしまう癖がある。語彙については書くと言うとのこの配分をそれぞれ逆方向にバランスしたい。

使用語彙についてのスタンスの話はこの時点では一応決着していて、むやみに広げないというところに落ち着いている。自分にとって馴染みの深いと感じられる語彙に絞って書くということをしようというのがここ三ヶ月程度の実践にも表れているはずの試みだ。わざわざ読み返したりしないけど大丈夫だよな……。


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▲:今回のアート・ワークは何かメッセージはあるんですか?


坂本:いや……とくにない、と言っちゃうと終わっちゃうか(笑)。


一同:(笑)。


坂本:まあこういう感じがいいかな、と思って。

「まあ、こういう感じがいいかな、と思って。」

これが台詞になっているのがすごい。


■坂本君にとって、いま希望を感じることってなんですか?


坂本:希望を感じること。うーん……(長い沈黙)。


■乱暴な質問で申し訳ないですけど。


坂本:うーん、なんですかね? なんかありますか?


■酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……、これは希望じゃないか(笑)!


坂本:個人的なことで真面目に言うと、いい曲を作ることには制限がないじゃないですか? 何となくでも、こういう曲が作りたいというのがある限り、それに向かって何かやる、ということは制限ないから、それはいいな、と思う。あと、楽しみで言えば、酒飲んで……みたいな、それくらいしかない(笑)。でも作品作っておかないとね。良い作品作っておけば、しばらく酒飲んでてもいいかな、と。それなしだとちょっと飲みづらいというか。

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希望は何かと聞かれて「いい曲を作ることには制限がない」と答えるのは迫力があるし元気がもらえる。

とにかく俺は石を積むと決めている迫力。何かが楽しいと思っているうちは大丈夫だと励まされるようで元気がもらえる。

「いい曲を作ることには制限がない」何回でも繰り返したい言葉だ。

一年前はこのインタビュアーはいい加減で全然駄目だなと思ったけど、今読み直したら、ここに書いてあることを切らずにをそのまま出したことには意味があるし、そうやってインタビューを出してくれるということに関わる信頼を坂本が寄せているのだとしたら、肯けるところもあるなと思った。

いいわるいではなくて、希望は何かと訊かれて「酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……」と応えられるのはすごい。相当肩の力が抜けていないとできる芸当ではない。自分がすでにその方向にむかって進んでいるという意識があるから、そこから何か有益なものを得られるとは思わなかったけどそれはそれとして、本当にそれが答えなのだとしたらいいわるいというのを超えて単純にすごい。

そして坂本は瞬時に勝手に「酒飲んで音楽聴いて、サッカー観たり……」というのを「(良い)酒飲んで(良い)音楽聴いて、サッカー(の良い試合)観たり……」と翻訳したうえで言葉をつないでいて、それはおそらくインタビュアーの側の回答意図にもそぐうのだろうから、だとしたら両者立派だし、インタビュアーの言葉自体も、いいわるいで言うところの「いい」ということになる。酒飲んでというのは”言うまでもなく”良い酒を飲んでということで、音楽を聴いてというのは”言うまでもなく”良い音楽を聴いてということなのだとしたら、いちいち良いという形容詞は付けないのは正しい。

良いということにはいくらでもこだわれる。「良い」ということにしても、良い「良い」というのがあると考えて研ぎ澄ましていくことができる。ただその進歩で固定させると「鋭い」ということの磨き方になるから、研ぎ澄ますというのはあくまでも例であって、広げていくという言葉でも言い換え可能なものでしかない。あらゆる形容詞を例にとって飾ることのできる良い部分のことを「良い」というのだとすれば、その在り様を千変万化させようとするのもこだわれる要素のひとつだ。たとえばその変化に「悪い」を含むものと含まないものがあり、それらがたまたま隣り合って並んでいたとしたら、意識できるかぎり「悪い」を含む方を選びたい。

日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...